8.07.2019

[film] The Current War (2017)

30日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。邦題は『電流戦争』 - しかないよね。

監督は”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)の人で、Executive ProducerはMartin Scorsese。
2017年の作品のリリースがここまで遅れたのはWeinsteinのあの騒動があったから、だって。

19世紀末のアメリカで、Thomas Edison (Benedict Cumberbatch)が電球を発明して、これの全米展開と将来の覇権をめぐって発明家で実業家のGeorge Westinghouse (Michael Shannon)とか投資家のJ. P. Morganとか、Edisonの家族、Edisonの秘書Samuel Insull (Tom Holland)とか、より安全で効率のよい方式を見つけてEdisonにぶつかるNikola Tesla (Nicholas Hoult)とか、歴史上の有名な人たちがいっぱい入り乱れる史実を元にした大河ドラマで、演じている人たちもAvengers系ぽい人たちなのですごく濃く面白くなるはずなのだが、そーんなでもなかったかも。

発明家同士が複数ある方式のコストとか安全性とか特許とかを巡って議論したり実証したり威張ったりしていく中、どっち側にどういう陣営や投資家がつくのか、でヒトやカネがわらわら群がって転がって勝ったり負けたりする、今もいろんな分野や市場で大規模小規模行われている「競争」のいちばん最初の頃の姿がこんなやつで、たぶん市場競争の原理とか、勝った方はなんで勝ったのか、とかを掘ったり分析するのに興味があるひとには面白いのかもしれないけど、そんなの好きなひとが好きにやれば、のひと(← 会社員にはむかないね)には別に、って。

なので早くに亡くなってしまったEdisonの妻の話 - 自分の発明した蓄音機に録音していた妻の声を聞いて泣くとこ、最近のドラマで留守電に残っていたメッセージを聞いて泣いたりするのと一緒だ - とか、Westinghouseの方式の危険性を証明するために馬で公開実験をしたら、それを見たやつがヒトの処刑用に電気椅子を思いつく、とか、そういう方がおもしろかったかも。

あるいは、月並みだけど、今は歴史上の、会社として名前が残っているような偉人たちも本当は裏に相当いろんな闇とかモンスターを抱えてこんなふうだったのに、ていう方がおもしろいのに - Nikola Teslaなんて言うまでもなく。 それがひとたび「戦争」って括られると薄まってしまうのはどんなドラマでもそんなもん、だろうか。真上からの俯瞰で沢山の人がざっざっ..って行進していくのを見るだけで、あーあ.. になってしまう。

あと、最近の産業界でのこういう覇権争いみたいなのはメガ企業がどこにどれだけお金を落としてどれだけ抱えこむか、みたいなのを焼け野原で陣地取り(or 奴隷狩り)しているような、とっても下衆な世界になってきているねえ。おもしろくもなんともないかんじ。

おもしろけりゃいいのか? うん、こういうのっておもしろけりゃいいんだと思う。今更Edisonえらい!でもないだろうし。

あと、これは事実だろうからしょうがないけど、ほんとに底の底までメンズ・ワールドだよねえ。女性が中心のこういうドラマの方がぜったい起伏が激しくてかっこいいものになるのに。(そして邦題は変わらずくそださいままで)

それにしてもBenedict CumberbatchさんはThomas EdisonやってSherlock HolmesやってAlan TuringやってDoctor Strangeやって、舞台ではFrankensteinもやって、あれこれ最強だねえ。

22世紀になって映画、”The Semiconductor Wars”が作られたとき、ここに出てくる日本はある時点でバカな政治家の思惑によって突如消滅 or ガラパゴス、になっちゃうんだよ。あーあ。

8.06.2019

[film] The Golden Boat (1990)

7月31日、水曜日の晩、ICAで見ました。

ICAのGalleryで4日まで開催されていた展示 – “I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker”の関連企画でこの日一回だけ上映されたもの。
なかなかとっても変なやつでー。

Raúl RuizがNew Yorkを舞台に、The KitchenとかMOMAの協力を得て撮った低予算ノワール/コメディ?みたいな不条理映画。

学生のIsrael (Federico Muchnik)がNew Yorkの路地を歩いていると脱がれた靴がそこらじゅうにいっぱい転がっていてそれを辿っていくとおっさんのAustin (Michael Kirby)にぶつかり、訳わかんないことを呟くと彼は自分で自分の腹にナイフ刺してうううー、とか呻いてて気持ちわるいのでその場を離れるのだが、Austinはその後もIsraelのアパートとかいろんなところに現れていちゃもんつけて人を刺したり自分を刺したり血まみれのラジカセで音楽流したりやたら迷惑なかんじで、いろんな人が現れたり消えたりして、親子関係とか愛人関係とか神さまとかそれらを巡るあれこれがTVドラマ – しょうもない刑事ものとかラテンのソープオペラ風 - 要はすべてがいんちきくさいふう - に展開していく。

筋を追ってもしょうがない類のものであることは5分でわかったのだが場所の雰囲気 – 小汚いとこ - とか出てくるヒトのやばいかんじは十分出ていたので飽きることなく楽しく見れた。

Kathy AckerさんはIsraelの大学の先生役で出てきていろいろ喋って、でもすぐにAustinに刺されちゃうの。

他にJimとTomのJarmusch兄弟とか、最初の方に出てきて通りすがりに刺されてしまうおっさんがBarbet Schroederとか。

音楽はJohn ZornでCyro BaptistaとかDave Douglasとか彼の人脈の人たちがばりばりで気持ちよくて、このギターは.. と思ったらやはりRobert Quineだった。

Desire: an encounter with a play by Kathy Acker

ICAのTheater(初めて入った)で、これも”I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker”展の関連企画 - 彼女の原作による演劇、というかパフォーマンスで、3日の土曜日の晩に見たもの。1週間くらい上演していた。

↑の映画にも出演していたThe Wooster Group (なんかなつかし)のKate Valkさんが監督、原作は1982年のBOMB Manazineに掲載され、その後も形を変えて彼女の作品の中で変奏されていったもの、なので元がどんなものかは確認できず、”an encounter with a play by Kathy Acker” というタイトルが相応しいのかも。”play”を通して彼女が撒き散らした臓物に遭遇する、と。

パフォーマーが4名(中年女性、トランスの男性、女性2名)出てきて、ディスプレイ上を流れていく字幕にシンクロしてClaudiusやOpheliaやHamletやHamletのメイドやRomeoやJulietが憑依した彼らがテキスト(一部、突然フランス語になる)を読んだり歌ったり囁いたりしていく。RomeoとJulietはトランスの人が交互に。 こんなふうにオリジナルの文脈から切り離された台詞を喋る役者たちは一体なんなのか、誰でありうるのか。王様でもメイドでも男役も女役も関係なくなったところに現れる奴って、なに? 誰? ていうとっても80年代しているかんじのー。

Kathy Ackerの展示は4日までだったので、もう一回ざっと見て、Genesis P-Orridgeの切り絵みたいな絵がめちゃくちゃかわいくて、なんかじーんとした。


RIP Toni Morrison。 こんなにもあなたの物語が必要とされるときに...

8.05.2019

[film] La camarista (2018)

7月29日、月曜日の晩、Barbicanで見ました。英語題は“The Chambermaid”。

メキシコのLila Avilésの監督デビュー作で、Sophie Calleのプロジェクト- “The Hotel” (1981)にインスパイアされた監督の演劇作品を映画用に書き直したものだという。

Eve (Gabriela Cartol)はメキシコシティの5つ星ホテル(アメニティでどこのチェーンかわかる)で部屋メイドをしていて、職場まで毎日2時間かけて通っていて、子供は預けていて電話でお話しできる程度(ホテルの外の世界は出てこない)、担当しているのは21階の客室で、昇進して42階のエクゼクティブフロアの担当になることが夢で。

物語は彼女の日々の奮闘 – いろんな客からの我儘や無理を聞いて駆けまわってたまに失敗してぐったり疲れてうんざり – を追っていく。 アニメティは既にいっぱいあるのに、とにかく補充しろ、って何度も言ってくる客とか、小さい子がいてシャワーを浴びる間だけ面倒みてほしい、ていう若いお金持ちの女性とか、常連ぽい曲者たちとか、姿は見たことがないけど、日本のカメラマンらしい客 - 枕元に遠藤周作の『死について考える』と文庫本2冊(タイトルわからず)が置いてあって、きれいなパッケージのお菓子がある(のでちょっと貰っちゃう)とか、黙々と掃除をしていると外でクレーンに乗って窓ふきをしている青年からアプローチされたりとか。ホテルといういろんな関係が密になるのか疎になるのか露わになるのか微妙な空間で起こりそうなあれこれがきれいに並べられている。

その他に、同僚の、気さくで人懐こいけど気がつけばしれっと仕事押しつけてきているおばさん(いるいる)とか、2年間ずっと従業員用のエレベーターガールをしている女性(いつも読書してる)とか周りの従業員の人たち、学業資格を取るために会社がやっているクラスでの始業前のやりとり - 先生から『かもめのジョナサン』の本を貰ったので読む - とか、Lost & Foundに残された引取り手のない赤いドレスが欲しくて、まだある? ってずっと確認を続けたり、とか。

Eveは無口で仏頂面でほぼ笑わなくて囁くような小さな声で喋って、頼まれた仕事はきちんとやるので評価はされていて、でも理不尽なことが続くとやはり頭にきて乾燥室で布団とかぼかすか叩いてて静かに泣いて。この辺のありようを見ると、誰もが同じメキシコの(時代は違うけど)Alfonso Cuarónの”Roma” (2018)を思い浮かべるかもしれない。

これって「サービス業」って括られているけど、「サービス」の名の下で客のためならなんでもやるんだろ/やれよ、って蔑まされている現代の奴隷のことだと思っていて、ホテル業、CA、店員、教師、他にもいっぱいあって、なんでこんなにも簡単に人は「役割」に応じて他人のこと虐めて上に立って出処不明のいらいら(ヘイト)をこめて威張りちらすようになっちゃったんだろうねえ、ていう溝口的に不条理な格子模様のことを考えたり。

で、Eveは自分の置かれた状況とか将来を冷静に見据えて(か、単にもう我慢できねえ、になったのか)ある決断をして、その様がとても清々しく素敵で、勿論、だからと言って明るい明日がやってくるわけではまったくないのだが、でもそうだよね、としか言いようがないの。 その決意のありようって我々のそれとも繋がっているのではないかしら。

日本人の客室のシーン、最近は旅先に本を持っていかなくなっちゃったけど、やっぱりあんなふうに不思議な顔されていたのかな、とか、自分もたまにお菓子置くことがあったりしたので喜んでもらえたのかな、とか。

Tate Modernであんなことが起こってしまってかなしいよう。

8.04.2019

[film] La noche del terror ciego (1971)

7月25日、木曜日の18時くらいにモスクワからヒースローに戻って、この日の午後に英国の史上最高気温が更新されたことが数日後に公式認定されて、公式なんてどうでもいいけどこの部屋にいたら素直にしぬ気がしたので映画に行くことにした。

BFIで毎月最終木曜の夜中にやっているホラー/スプラッター映画特集。 少しは涼しくなるかなあ、って。
英語題は”Tombs of the Blind Dead”、邦題は『エル・ゾンビ I 死霊騎士団の覚醒』.. なんかすごい。カルト的な人気があっていろんなバージョンがあるらしいのだが、上映されたのは101分、スペイン語英語字幕のだった。

夏のプールで高校の頃に親友だったBetty (Lone Fleming)とVirginia (María Elena Arpón)が再会して、バカンスに行かない?って誘うのだが待ち合わせ場所にはVirginiaの彼Rogerも一緒で、Virginiaは突然ご機嫌を損ねて(ふたりは高校時代になにかあったらしい - あったの)、蒸気機関車の窓から僧院のようなのが見えたのでいきなり飛び降りてそこに向かう。場所でいうとスペインとポルトガルの国境付近のBerzanoっていうあたり。 

Virginiaが建物の入り口で門を叩いて開いてもしもし、ってやっても誰もいないようなのでそのまま中で泊まることにして(.. 泊まるの ?)、夜になると着替えてラジオつけて寝袋に入って寝る。と、いろんな音と共に僧衣を纏った亡霊みたいの(目がないの)とか馬に乗った同様のが地中や墓場からぞろぞろ湧いてでてゆっくり追っかけてきて、彼女は叫んで逃げまわるのだが結局捕まって..

彼女のことが気になった(彼女を置き去りにした)2人は探しに行かなきゃ、になるのだが翌日警察が現れて彼女はなにかに殺されたようだ、って遺体をみると咬み傷みたいのが全身にあってなんか変で(この遺体、後で立ちあがってひと暴れする)、彼女が向かった僧院のことを地元の大学教授に聞いてみると中世の血も凍るような生贄とかのお話が出てきて、そこに行ってみるのに協力を請うと、ちょうどVirginia殺しの嫌疑をかけられた息子のPedroがいるよ、っていうので、Betty, Roger, Pedro, Perdoの情婦の4人で僧院に向かうの(警察も一緒に行ってやれよ)。

で、おんなじようにあれらが湧いてきて、みんな割と簡単にやられちゃって、夜が明けてもそいつらは墓には戻らずに列車に乗り込んで … (→ 続編以降?)

監督のOssorioはあれらはゾンビというより馬に乗ったミイラとかヴァンパイアに近いやつ、と言っていて(とペーパーにはあった)、なのでそういう化け物に人々がやられていくお話としては、墓から出て来る化け物達の造型がすばらしいので文句なくて、ただあまりに化け物としての完成度がすごくて見惚れてしまうので、怖さはそんなにこなかったかも。 もっと腐って糸ひいてぷーん、みたいなかんじにしてもよいのに、なんかマチズモ濃すぎて強すぎるのよね。元騎士団だからしょうがないにしても。

あと、クローズアップとかエコーのかけ方のこてこてくどいとこ、とっても70年代だよね、と思ったらもろ70年代の映画だったと。

ポルトガル〜スペイン感たっぷりのサマームーヴィー、でもある、か。

8.03.2019

[film] The Great Hack (2019)

7月28日、日曜日の昼にICAで見ました。Sold-outしていた。
Netflixのなので、日本でももう見れるのかもしれない。是非見てほしい。

誰もが知っているFacebookの個人情報が英国企業のCambridge Analyticaに流れて使われ、そこでの解析結果が2016年の米国大統領選で、反ヒラリーキャンペーンに使われた件。同様にBrexitの国民投票でもBrexit推進団体Leave.EUのキャンペーンにも使われた件(つい数日前、Cambridge Analyticaの明確な関与を示すメールが出てきたって)。

つまり、悪夢の2016年、誰もが食べかけの唐揚げ(or ナゲット)をぽろりと落として「うそ…」ってなってしまった2大事案の裏側にはやっぱしこんなズルがあったんだわって。

新たに驚愕の事実が暴かれたり明らかにされたりというのはなくて、もやもやした闇の向こうにあった背景や関係者の線とカラクリが浮かびあがってくる。それだけでも目眩と吐き気がするくらいあーあ、になるの。

登場人物としては自分の授業でもこの問題について生徒に問いかけるNYのParsons School of Design の准教授David Carroll、本件を追いかける英国人ジャーナリストのCarole Cadwalladr、追いかけられる側のCambridge AnalyticaのCEO - Alexander Nix(逃げまくり)、同COO & CFO のJulian Wheatland、そしてトランプの選挙対策チームやLeave.EUのやくざ連中との繋ぎに中心的な役割を果たしたとされるBrittany Kaiser - 元はオバマの選対チームにいて人権活動にも関わっていた彼女が何故? どこかのリゾートで寛いでいた彼女を捕まえて問い詰め、並行して捜査の進展と共にCA上層部の明白なウソが報じられていくと彼女の顔色がだんだん変わり、本当のことを語るようになっていく、この辺は「おせーよ」って思うけど、まあいい。

論点は大きくふたつあって、①普段みんなが(Social Networkとして)使っているFacebookの情報が本人の知らないところで第三者に勝手に使われるってどうなの? ②それが選挙のような今後の社会の方向を決めるようなところのキャンペーンに(勿論勝手に)利用されるってどうなの?  自分の情報の「なに」が「どう」使われているのかわかんないのはおかしいし気持ちわるいよね?

マーケティングで使われるのはわかんなくもない(それでも嫌だけど)、でも自分の情報が特定の政治勢力の特定用途のために使われて、その裏で大量のお金が流れてブタみたいな連中がwin-winですな、とか言ってるのは我慢できない。

もちろん、投票した人々は投票所で自分の意思と判断で投票しているので一義的には問題ないのかもしれない、けどその判断が恣意的に送りつけられたフェイクの情報群に基づいてなされたものだとしたら .. とか、その情報の送付がAIによってプロファイリングされたどっち側にも転びそうな柔らかい人たちのグループを選んで集中的に行われていた ..  とか、そのやり口を米国大統領選の前に複数の途上国の選挙戦で試していた .. とか、やっぱり気持ちよくないし、しかも結果があんなだとよけい暗澹となる。 あいつらがあんなことしなかったら … って。

CAに対して自分の個人情報がどこでどのように処理されたのか開示しろ、と訴訟を起こしたDavidは自身のデータに対する(を有する)権利は人権と同等である、というのだがその通りだと思う。 こないだオーストラリア政府からGoogleとFacebookに対してマーケティングに使われるAIのアルゴリズムを開示するよう命令が出ていたが、こういうのはこれから増えていくんだろうな。
商権 vs. 人権。

他方で法でどれだけ縛ろうとしても、データがどこかに置かれて移転可能になっている以上、いくらでも実験できるし技術もどんどん巧妙になっていくので、吐き気がするようないたちごっこになる。CAよりやばい連中はこれからいくらでも現れてくるだろう。

にっぽんなんてほーんと子供の時分からデータはずるずるだし格好のカモだよ(AI解析なんていらない)。人権意識なんて使う方にも使われる方にもないし、お得で儲かるのなら便利になるのなら、ってみんな底なし無邪気にクリックしていくから ー 。
ほんんんっとに嫌だあの国。 あそこでいま起こっていることはぜんぶ shame on you! だわ。

だからね、いまこれから、どれだけやばくなっていくのか、それをちゃんと認識して自衛するためにも、見たほうがいいよ。 もう十分外に出ちゃっているから「自衛」なんてできないか。自分で何が正しい情報なのかを仕分けることができるようになること、そのための目をネットの外で鍛えていくこと。

だから今日も本屋とか美術館にいくのよ。

8.01.2019

[film] Grrrls to the Front: An Evening of Riot Grrrl Films

27日土曜日の夕方、BFIで見ました。

BFIではどういうタイミングか知らないが、“Woman with a Movie Camera”ていう括りで女性監督による女性映画を上映することがあって、そこで、Riot Grrrlに関連した中短編3本が上映された。

Dirty Girls (1996)

サンタモニカの学校の8th grade(13歳)のAmandaとHarperはずっとシャワー浴びないずっとおなじ服来たままの姉妹で、同級生とかからは汚いとか後ろ指さされたりバカにされたりしているのだが、彼女たちは自分たちの断固たる考えがあってやっているので So What? で、やがて彼女達の言葉や彼女たちがZineで明らかにしたメッセージ – これに対しても散々なdisが寄せられる - を卒業生のMichael Lucidがカメラに収めたドキュメンタリー。

映像も構成もとってもrawなのだが、彼女たちが特におかしいとは思えないの。
ここから20年後の同じ年頃の少女を追った –これはドキュメンタリーではないけど - ”Eighth Grade” (2018) – 祝日本公開! – と比べてみてほしい。 変わっていくもの変わらないもの。

音楽は、これもrawでlowなLiz Phair の“Batmobile"が流れてくる。

https://bust.com/arts/9459-this-dirty-girls-short-film-will-make-your-day.html

In Search of Margo-Go (1994 / 2015)

1994年にJill ReiterさんがKathleen Hannaさんと一緒に撮って未完のままとなっていた伝説のバンド物語が2015年にいきなり完成して披露されたもの。この上映会のビジュアル(インスタにあげた)で、志村けんみたいな白塗りでバカな顔をしているのがKathleen Hannaさんなの。65分。予告はこんなかんじ。

https://www.youtube.com/watch?v=qoZVj9I90F8

80年代初のダンステリアとかできんきんのNew WaveバンドをやっていたJill Reiter & Kathleen Hannaのふたりがその時代に閉じ込められたまま抜け出せなくて、実写とアニメ(テクノでハイパーでニューロマでなかなか恥ずかしい)の組み合わさったパラレルワールド(←80’s)でバンド(名前はThe Invertsとか Zippers in the PantsとかSlut Punchとか)を転がしてどつきあったりしながら人生を模索していくの。

タイトルは彼女たちのヒーローだったThe Go-Go’sの初代ベーシストのMargot Olavarriaさんから来ている、と。

音楽担当のLK Napolitanoってだれだろ?

Bikini KillとLe Tigreの間のミッシングリンクはこれだったのかも、って。

Don't Need You (2005)

Riot Grrrlとは果たして何だったのか – 何なのか(終わってないからさ)をめぐる音楽ドキュメンタリー。すごくおもしろかった。

90年代初のDCのハードコアシーンが余りにムキで野蛮な男の世界で染められていたことにあきれて怒ったOlympiaの女性たちが自分たちで始めたバンドとかZineとか – Bikini Killもだし、BratmobileもHeavens to Betsyも、あれこれ。なぜ彼女たちは立ちあがらねばならなかったのか?

これまで見てきたパンクのドキュメンタリーには必ずあった弾けるやんちゃなガキのイメージは一切なく、女性たちの静かでクールな怒りに満ちている – “Don’t Need You” – あんたなんかいらない。

男性側からはジャーナリストのMark AndersenとIan MacKaye氏が真面目かつ神妙にコメント。Fugaziの91年のライブ  - “Suggestion”をやる映像も少し。

あと、Heavens to Betsyの初ライブ(?)の映像 – まだ子供顔のCorin TuckerさんはすでにSleater-Kinneyしていてかっこいい。初期のチラシにはRebecca Gatesさんの名前も見えたり。レーベルとしては、やはりK RecordsとKill Rock Starsが大きかったんだな。

ラスト、Bikini Killのライブでの”Rebel Girl” - こないだのライブとおんなじ強さで、怒りはちっとも解かれていないんだよ、って。

[film] Varda par Agnès (2019)

7月20日、土曜日の晩、BFIで見ました。

この作品を今年の2月、ベルリン国際映画祭で披露した1カ月後にAgnès Vardaは旅立ってしまったので、これが彼女の遺作で、BFIではこれの予告がずっと(今もたまに)流れていてちょっと辛かったのだが、見ればああ見てよかった、ありがとうAgnès、ってとてもあったかくなる。

昨年秋、”Visages Villages” (2017) - 『顔たち、ところどころ』のプロモーションでJRと一緒にお喋りしている時はなんてお茶目な、と思ったり、別のアート系短編上映に伴うトークではなんて真面目な、と思ったりしたのだが、この作品を見ているとその見た目通りの柔らかい貌とアポロチョコ頭がふんわか浮かんでくる。

どこかのオペラハウスに集まった客たちに向かって自身の作品やなぜ、どうしてそれを撮ったのか、なにが肝心なのか、等を喋っていくところが中心で、それは我々の目の前に彼女がいて対面で説明を聞いているかんじ – わかりやすく、ユーモアと親密さに溢れていて、時間が経つのを忘れる。彼女はここでこうして自分にとっての映画というもの、更に表現というものを全て語ってしまおうとしていて、それには1時間55分は短すぎるのではないか、って。

大事にしていることは3つ –“inspiration”、“creation”、“sharing”である、と。ところどころこの3つに立ち返り三角ベースをしたりしながら主要作品を彼女自身が説明していく。

こうして“Cléo from 5 to 7” (1962)では時間の経過(映画が捕まえようとする時間と現実のそれとの違い)を、“Vagabond” (1985) - 『冬の旅』では当時17歳だったSandrine Bonnaireさんとの思い出話(水膨れができてしんどかったのに監督は冷たかった)とか移動ショットについて、”La Pointe Courte” (1955)では人が生活する土地について、”Le Bonheur” (1965) - 『幸福』では色彩について。 そして彼女のキャリアの起点としてあった写真(を撮ること)について語り、そこからは後年のドキュメンタリーにも言及していくのだが、写真もフィクションもドキュメンタリーもアートインスタレーションもすべては横並びの次元のこととして – なぜ(撮られる)あなたはそこに、そんなふうにそこにいるの?っていう問いに導かれたGleaners - 落穂ひろいをする野良(決して高みにはいない)としての洞察と、それを撒いて散らしてshareしようとする、やさしさに溢れた目線と共にある。

これってやはり従来のイメージにある映画作家とは違って、どちらかというと拾って育てる活動家としてのそれで、だからなんだ? なのかもだけど、今の世の中に必要なのは彼女みたいなひと(いや、みんな必要だけど)なのにな、彼女はもういないんだな、って改めて。

今作の上映にあわせてBFIでは、通路の隅っこに浜辺に向かう彼女の椅子(”Varda”って書いてある)とそれに座ってその向こうの海も一緒に撮影できるスペースがあるの。 カモメがナマじゃないのが残念だけど。

Daguerréotypes (1976)

7月27日、土曜日の晩、BFI で見ました。邦題は『ダゲール街の人々』。

“Varda par Agnès”の公開にあわせて、彼女の作品いくつかがプチリバイバルされていて、そのなかの1本(他に上映されるのは”Cléo from 5 to 7”と”Vagabond”)。

70年代に彼女が住んでいたパリのRue Daguerre – なんてことのない一本道の商店街なのだが、そこで暮すいろんな人々の日々を追ったもの。タイトルは写真のダゲレオタイプとダゲール街をひっかけているのだろうが、なんか洒落にならないはまりっぷりにびっくりする(映画をみればわかる)。

後のほうに出てくる流しの手品芸人がバナナ売りの口上みたいに映画のスタッフの名を連呼して(William Lubtchanskyの名前とか)、気づけばどこかのウィンドウに全員映り込んでいる、というのが冒頭。

香水&雑貨屋、パン屋、肉屋、美容院、金物屋、などなどの開店からそこにやってくるいろんな客とのいろんなやりとり、店が閉まって帰って、昭和の子ならとってもわかる商店街のそれぞれのお店にいたおじちゃんおばちゃんたちの顔と物腰、彼ら自身の言葉で語られる彼らの歴史。

特にウィンドウの並びを15年くらい変えていない香水屋の老夫婦の素敵なことったらない。  そこでいつも買うというAgnèsの娘さんがプレゼント用に、ってジャスミン水を買うやりとりなんてなんだこれ、って陶然とする。昔はこんなふうに店に来ると世間話してゆっくり会計して、後から来た客もそれをゆったり待っていた。 なんで、いつからみんなそんなに待てなくなっちゃったんだろう?

Frederick Wisemanのドキュメンタリーとなにが違うのか、とか。 彼の映画に出てくるのもふつうの市民たちで、でも特定の活動に従事していることが多くて、あ、こないだの”Monrovia, Indiana” (2018)は土地の話だ、でもやはり、Monroviaの人たちが自分の動きや喋りで自分のことを明らかにしていくのに対して、ダゲール街の彼らはそこにいるだけで、ダゲレオタイプの写真のように全てを語ってしまう、というか。Wisemanの映画の人たちにはがんばって、って思うけど、この作品の人たちにはそこにいて、死なないで、って強く思う。

もうこの頃には戻れないのかな。どうしようもないのかな、って。

こんどパリに行ったら、Rue Daguerre、行ってみよう。