3.26.2026

[film] Hoppers (2026)

3月15日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

ぜんぶ問答無用の自業自得なのだが、日々ばたばた忙しいところに日帰りで行って帰ってみたいなことを繰り返しているさなか、”Ready or Not 2: Here I Come”とか”They Will Kill You”とかの予告を見るとものすごく胸が高鳴って、いやいや今そっちに行ってはいけないし、と。

Pixarのアニメーションで、地下鉄の掲示板で流れているのを見てすぐにやられた(くらい疲れている)。邦題は『私がビーバーになる時』。

作・監督はDaniel Chong、共同脚本に、”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)や”Luca” (2021)や”Elio” (2025)のJesse Andrewsの名前がある。音楽はMark Mothersbaugh。

オレゴン州のBeaverton(ビーバー豚)の街で、Mabel (Piper Curda)はスケートボードで疾走するティーン(Bikini Killの”Rebel Girl”ががんがん)で、ずっと一緒に暮らしていた祖母から自然を愛する動物たちと共生ことの大切さなどを教わってきて、だから高速道路建設で森を潰そうとしている市長のJerry (Jon Hamm)とは事あるごとにぶつかる犬猿の仲で、家の前の空き地とその池にビーバーが現れなくなったことが気になっていて、でもJerryはもう来なくなっちゃったんだから潰したっていいだろ、という。 でも亡くなった祖母との思い出もあるのでぜったいそんなことはさせたくない。

反対運動ばかりやっているので、Mebelによい顔をしない大学の先生がラボでやっている実験 - ロボットのビーバーに遠隔でヘルメットをかぶって没入して森をうろついているのを見たMabelはこれだ! ってリアルビーバーになりすまして森のビーバーとか動物たちに会ってみると、彼らの言葉とかがぜんぶわかるし、こちらが言うことも通じるし、ふつうの生ビーバーとして認知して貰えて、King George (Bobby Moynihan)っていう哺乳類の王に会って仲良くなってしまう。これだけで10000個くらいの突っこみができそうなのだが、そんなことを言っている場合ではないの。

彼らとのやり取りを通して人間の可聴帯域ではない音波を出している装置 - これのせいでビーバーは出ていった - を突きとめてそれを壊して一件落着.. になるかと思ったら、そんな簡単ではなく、これをきっかけに昆虫、両生類、魚類、爬虫類、鳥類の代表からなる評議会と人類の、これも全方位からの突っこみ満載の、でもとにかく大戦争が始まってしまうの。

人間には見えていない別の世界があるし動物には動物の世界が、というのを想像できるようになるだけで、こういうアニメーションは十分ではないか、と思うのだが、彼らには彼らの王がいて、王がいるからにはシェイクスピアの裏切りとか敵討ちとか思いこみ勘違いの世界が広がっていて、渡っていくのはいろいろものすごく大変なの、というのをおお真面目にやっているので、こんなのぜったいビーバーたちだけで維持していくの無理じゃろ、 になるし、しばらく混乱は続きそうなのだが、いいのかしら? おもしろそうだからよいかも。

人の身体や感情をドライブする何かがその外にある、簡単にドライブされたり乗っ取られたりするくらいにそれらは脆くて弱いやつで – というのは”Inside Out” (2015)のストーリーを作ったDaniel Chongらしいし、そこがストーリーの宝庫であることもわかるし、そこに大切なことを乗せてみるのもわかるのだが、ビーバーならビーバーだけの、『ぼのぼの』みたいな(あれはラッコだけど)すっこ抜けたやつであってほしかったかも。甘ったれるな、って言われたらわかったよ、っていう。アニメーションはかわいくてたまらないんだけど。

ラストは「ニューロマンサー」みたいに没入したままにしちゃえばよかったのにな。自分だったらそうして、ずっとビーバーとして生きるだろう。

あと、ラストに流れるSZAの”Save the Day”がとてもよかった。

3.25.2026

[log] Madrid - March 14 2026

3月14日、土曜日、Madrid日帰りをしたので、簡単な備忘。

Madridはこれまでも日帰りで何度か行っていて、行っても真ん中の美術館3つをぐるっと回って、そんなにものも食べず、帰りの空港のラウンジでへたりこんで食べて終わりで、なんて勿体ない、のかも知れないが本人がそれで幸せだって言うのだからいいじゃないの、である。

本当はもう少し早い時期にしたかったのだがMadrid往復の運賃が謎に高いことがあったりして踏みきれずにここまで。

だから空港からプラド美術館まではお手のもので、着いてプラドに行ったら開館直後のとてつもない列だったの戦略を変えた。

Out of Focus. Another View of Art @ CaixaForum Madrid

CaixaForumはバルセロナのは行ったことがあって、それがマドリードにもできていた。
ボカシとか焦点ずらしとかピンぼけ、に的を絞った企画展示で、これは所謂「抽象」とは異なる視座で対象を見つめる(or 見つめない、正視しない)ことで立ち現れてくる何か、でよいのか。

Gerhard Richter, Mark Rothko, Yves Klein, Claude Monet, Thomas Ruff, Alfredo Jaar, Christian Boltanski, Bill Violaなどなど。 これらをついかっこいいー、って見てしまう傾向についても。

Hammershøi - The Eye that Listens @ Museo Nacional Thyssen-Bornemisza

これだけは時間指定のチケット取って行った。
聴く目… 窓の方に向かって、こちらに背を向けて佇む女性の像、というよく知られたイメージから広がる、彼女は何を見つめていたのか、その眼差しの先を聴きだそうとするかのような距離の取り方、それでも届きようのないかんじというか。正面や横を向いた女性の像もあるが、とにかく圧倒的に遠くにあって – でもそこにいる - その不思議というか。

ここの常設展示はそんなに数多くはないのだが、そのいつものが楽しくて、常設の理想型だなー って思う。

Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía

前回来た時はもう閉まっていて泣いたことを思い出した。

Maruja Mallo - Mask and Compass
スペインの”Generation of 27”を代表する女性画家Maruja Mallo (1902 - 1995)のレトロスペクティヴ。ものすごく広い活動の幅 - 具象も抽象もグラフィックも - と太字の大らかな強さ、輝きに圧倒される。

他の小規模の展示では、Alberto GrecoとかJuan Usléなどがおもしろくて、自分にとって未知のアーティストを教えてくれるのはいつもここだったなあ、と思いつつ、時間を過ごしてしまうのはやはり「ゲルニカ」の周りだったりする。

Museo Nacional del Prado


プラド美術館って、いつからそうなっているのか知らんがずーっとデパ地下のように混んでいて、そのせいか館内の写真撮影は一切禁止になって、それでも人で溢れている。ここが不思議なのは、そういう芋洗い状態でも絵を見始めると没入して、もっともっと、になって彷徨ってしまうことで、この特殊な高揚感は、ルーブルにもNational Galleryにもない気がする。これがコレクションの力によるのか並べ方がもたらすものなのかは不明。ルーブルだと人混みで疲れてもういいや、になるところが、やっぱりあれも見ておきたいな、になって抜けられない。

National Galleryで5月から始まる企画展示 - Zurbarán (ああ見たいよう)の「羊」などを未練たらたらで見たり。

Galería de las Colecciones Reales


英語だとRoyal Collections Gallery、Royal Palaceの向かいにある王宮博物館で2023年に再オープンされたところにまだ行っていなかった。朝から休まずに歩いていたのでもうやだ、だったのだが、プラドから25分くらい歩く。いろんな花が咲き始めていて春はすぐそこに。

Juan de FlandesからDürer、Caravaggio、BoschのタペストリーにVelázquezのすごい白馬、もちろんGoyaまで、スペインの王朝がいかにとてつもないお金を注ぎ込んでいたのかをまざまざと見せつけられる。

あと、ヴィクトリア女王の孫娘で、20世紀初にスペインに嫁いだVictoria Eugeniaの特集もあった。

やっぱり3泊くらいしないと無理だわ…


引っ越しの荷出しがおわって夕方にホテルに移ったのだが、まだゴミとかあるので何回か戻らないと、かも。
Sサイズの本のダンボールは結局23箱になった。
自分にでっかい声で言い聞かせておくと、ここから先、飛行機乗るまでは、もう大きい本は買えないんだからね。買ってもぱんぱんで持っていけないんだからね。いじょう。

3.24.2026

[theatre] American Psycho

3月13日、金曜日の晩、Almeida Theatreで見ました。 
チケットがぜんぜん取れないやつで、当日になんとか。

原作はBret Easton Ellisの1991年の同名小説で、2000年にChristian Bale主演で映画化されたものが、2013年にRoberto Aguirre-Sacasaの翻案、Duncan Sheikの詞/曲、Lynne Pageの振付によりミュージカル化され(この時のBateman役はMatt Smithで、ブロードウェイまで行った時はBenjamin Walkerが)今回はオリジナル版と同じRupert Gooldにより演出されている。

1989年、バブル絶頂期のウォール街で投資をしているヤッピー Patrick Batemanの生態を描く。ブランドの服で身を固め、Ralph Laurenのアンダーウェアを履いて、最新のWalkman - Auto-Reverseっていう新機能がすごいんだぜ - を携帯し、当時の日本にもそういうのでイキる社会人をいじる傾向はあったが、ここでははじめから”American Phycho”をそういう存在として置くのではなく、彼らの社会や周囲に向かう態度や傾向がサイコティックな情動として内面化、習慣化されていく道筋が鮮やかに描かれている。群舞も入ったミュージカルのぎんぎらのきめきめ(← 80’s)で攻めていくスタイルは、彼がそうなっていく過程を軽快にわかりやすく表して、当時を知らなくても納得できそうな。

冒頭で歌われるのが、映画”Marty Supreme” (2025)でも使われていたTFFの”Everybody Wants to Rule the World”で、やはりあの時代のメンタリティのようなものを代表している一曲なのかもしれない。あの映画の舞台は50年代で、主人公はずっと負け続けるわけだが、それでも立ちあがってSupremeになろうとするサイコっぽい挙動と佇まいはどこか繋がっているのかも。

そして、なぜいま”American Phycho”なのか、については、なにしろほんもんの”American Phycho”が大統領になって大量殺戮をしているからだし、大人気のJeffrey Epstein - 劇中で言及される - だって蘇って大人気だし、Trumpは劇中、主人公の憧れのアイコンとしてエレベーターですれ違ったりする(あまり似ていなかったけど)。まさかこんな形で表出してくるなんて。

この劇場でこれまでに見た演劇のセットって、納屋とか道端とか、雰囲気はあるけど埃っぽくぼろくてぱっとしないのが殆ど立ったのだが、この舞台はランウェイ仕様で床はばりばりの電飾で前の方にせり出して、これとプロジェクションをセンスよく組み合わせて殺しの場面の陰惨さも床の電飾をうまく使って軽くクールに見せる。

今回のBateman役はArty Froushan - こないだ見た映画”H is for Hawk” (2025)にも出ていた人で、脱いでもよし歌ってもよし、なので今後人気は上昇していくのではないか。

ブランドとかお金とかプライド - なによりも人を見下して自分だけは、自分だけがかっこよくて何をしたって許されるに決まっているのだ、という信念に捕らわれた人がシリアルキラーになっていく過程はそんなに無理なく音楽に乗って軽快に弾んで、この辺はいまの時代の方がいろんな動画も溢れていたりでわかりやすくなっているのではないか、他方でなんでこういうこと(人殺しとか)をしてはいけないのか、ということもあまりきちんと考えられなくなっている気もして、こういうの亡霊のようななにかを振り返ってみるのもよいかも、って。

それよか”Japanese Phycho”の方が陰惨でタチが悪くてどうしたものか、になる。いまの総理大臣とか。


明日は荷物をだす日で、本は結局Sサイズの箱20個でも足らないのだった。演劇のプログラム類がバカみたいに多い。どうにかなりますようにー。

3.20.2026

[theatre] Romeo and Juliet

3月12日、木曜日の晩、Shakespeare's Globe Theatreで見ました。
 
この時期の夜に野外公演はきついのでは、と思って、雨は降らなかったもののやはり時折吹いてくる風は冷たくて、椅子席はみんな体を丸めて見ていた。けどよい思い出にはなった。
 
タイトルには”Playing Shakespeare with Deutsche Bank: Romeo and Juliet”とあって、ドイツ銀行がスポンサーになって、地下鉄などの宣伝広告によると3000の学校から300000人(たしか)の学生を招待する(のか£10, £5のチケットなのか)公演で、なのでPITの立ち見コーナーは若い子たちで溢れている。このRomeo and Julietは2024年に行われたもののリバイバルだそう。 90分で休憩なし。寒くて2時間はいられないし、休憩を入れたら若者はみんな出て行ってしまうだろうからこれくらいが丁度よいのかも。
 
自分の最近のRomeo and Julietは、西部劇バージョン、半分ウェールズ語バージョン、ポーランド語手話バージョン、と見てきて、今度のはヒップホップバージョンか。舞台のあちこちはスプレーの落書きがあって荒んだどん詰まりの街角のよう、上演前は覆面をした3人の自転車乗り(プロの人達だそう)がスタンディングエリアにある台の上に乗っかって止まったりの曲乗りをして喝采を浴びている – でも劇が始まると彼らは不吉で容赦ない死神になる。 演出はLucy Cuthbertson。バルコニーにはパーカッション3人の楽隊がどんどこを。
 
中心の若い俳優たちはほぼジャージを羽織ってリズムにのって軽快に動きまわり、ゴージャスなシーンでの衣装はやくざちんぴら系のぎんぎらになり、冒頭にはストリートファイトなど路上で亡くなったと思われる若者たちへの追悼と母親たちによる暴力へ抗議のアピールがあり、それでも抗争が止まないストリートの一角には追悼の花束やぬいぐるみが置かれている。でもそんなのお構いなしに抗争と暴力は昼も夜も溢れて危険で野蛮で、そういう中、Romeo (Hayden Mampasi)とJuliet (Felixe Forde)が出会って一瞬で恋におちて、その恋がトライブ間の抗争を呼び、危険なストリートのなかで瞬いて消える。
 
ナイフによる喧嘩や抗争で人が死ぬと、それは警察の現場検証の場になり、立ち入り禁止テープが貼られ、遺体袋、医療用手袋など、ニュースに出てくる犯罪現場のそれになるし、Julietの乳母はNHSの制服を着ていて、亡くなった者の肖像がバルコニーに掲げられる。それら一連の儀式は恋にときめくふたりのすぐ横で、音もなく現れる自転車の連中の登場と共に事務のように一瞬で行われて、二度と元に戻すことはできない。ふたりの命を奪う睡眠薬も、スマホで連絡の取れなかったRomeoが手に入れたやばいストリートドラッグに替えられて.. となかなか考えられている。
 
ジャージを着ていても凛としたJulietのオーラと佇まいは素敵で、どこをどう見てもそこらのガキ(全体にオトコ共がいかに暴力的でバカであるか、がより強調されているかんじ)のRomeoが一瞬で落ちたのも納得で、周辺の暴力すらも蹴散らして無敵に思えたふたりの恋も簡単に、一瞬で消えてしまう非情さ。でもそれはこんなふうに簡単に起こりうるんだよ、っていう若者たちへのメッセージでもある。
 
これを自分が子供の頃に見ていたらどう思っただろうか?わかんねえよな、そんなの起こってみないと、だろうし、それでも自分はだいじょうぶ – だいじょうぶだよママ! ってなっちゃうんだろうな、とか。
 
根底に横たわるどうすることもできない不和、断絶に恋はどうやって立ち向かうのか、というこの悲劇の「悲」のありようを別の角度から見てみたり、これに加えて劇の展開のスピードで薄まってしまった何かがあるのかもしれないが、これはこれでよかったかも(伝わってくるものはあったから)。

Romeo and Julietは来週もうひとつある。

3.19.2026

[theatre] The Rat Trap

3月11日、水曜日の晩、Park Theatreの大きい方(PARK 200)で見ました。

間違えやすいのかもしれないが、アガサ・クリスティの有名なのは”The Mousetrap” (1952) - 『ねずみとり』で、ジャンルとかぜんぜん別のだから。

原作はNoël Cowardで、彼が1918年、18歳の時に書いた最初期の劇で、でも初演は1926年。これを書きあげて劇作家としてやっていく自信がついたそうだが、18歳でこんなの書くのか…

結婚にまつわるコメディ - タイトルも、テーマとしてもコメディになりうるようなものかと思ったのだが、あまりそんなかんじはしなくて、多くの人がイプセンやストリンドベリの結婚ドラマに言及している。

罠にはまった/かかった!のを発見した瞬間はおおってなるけど、その後の始末とか決着の面倒くささ、しんどさ..に全員が結婚てなんなのさ.. って凍りついた表情のまま考え込んでしまう、ような。

翻案はBill Rosenfield、演出はKirsty Patrick Ward。演じるのはRSCで見た”The Forsyte Saga Parts 1 and 2”を作った演劇集団Troupe。

新進作家のSheila (Lily Nichol)がルームメイトのOlive(Gina Bramhill)と話をしていて、彼女が劇作家のKeld(Ewan Miller)と婚約した話を聞くと複雑で、KeldよりもSheilaのほうが遥かに才能ありと見ているので、結婚によって彼女の才能がスポイルされてしまうのではないか、と危惧していて、でもSheilaとKeldが一緒にいるところを見る限り、とても溌剌として幸せそうで心配いらないように見えたのだが。

でも休憩後、Oliveの危惧は見事に当たり、既に結婚しているふたりの表情と態度には明らかな疲れと苛立ちと嫌悪軽蔑が見てとれて、自分のプライドが先でとにかくすることぜんぶ褒めたり慰めたりしてほしいKeldと、あんたのママでもないのになんでそんなのに付きあわなきゃならんのか、のSheilaはぶつかって、彼女の方の執筆は止まってしまい、罠にかかった2匹のネズミ(→タイトル)のように口を開けば喧嘩ばかりになって、Keldと新進女優Ruby (Zoe Goriely)の噂を聞いたSheilaは家を出て行ってしまう。

最後はSheilaとOliveがいるところに、有名になったせいもあるのか一段と天狗の嫌なやつになったKeldが現れてよりを戻してほしい、と頼んでくる。ひととおりのやりとりの間、表情を固くして、あなたを前とおなじように愛することはできない、と繰り返すSheilaだったが最後の最後で彼のところに戻る、と。理由は妊娠してしまったから、それだけで、それでもあなたとの関係を修復するつもりは一切ないから、って。 そこであっさりぽつっと終わるの。

キャラクターたちはそれぞれ出来あがってはいるものの、劇中のやりとりだけではやや画一的、表面的で生きているかんじがあまりしないあたりが「初期作」の所以なのかと思うし、結末についても、自分の頭でそれなりに補正 - ここは自分を殺して子供を生かすためにそうするしかないのか、とか、Keldにとってはこの後の日々がぜんぶ地獄になるな、とか思えるのだが、底で渦を巻いている(のが見える)憎悪が、最後っ屁のようなかたちで痛快に何かに向かって飛んでいくようなことはなかった。

結婚は相手の才能や機会を潰すこと、潰して平気でいられること、結婚するまでのときめきや楽しさは絶対に続かない、こういったことを18歳の若者が深くないとは言え見据えて劇作にしようとしていた、ってやっぱりすごいな。そういえば”The Forsyte Saga”も結婚における「所有」を巡るドラマだったような。

[film] No Other Choice (2025)

3月10日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。

封切から随分時間が経ってしまい、そろそろ見れなくなりそうだったし。
韓国映画で、原題は”어쩔수가없다”、邦題は『しあわせの選択』。

監督はPark Chan-wook、原作はアメリカのDonald Westlakeの小説”The Ax” (1997)で、Costa-Gavrasの“Le couperet” (2005)に続く2度目の映画化作品で、エンドクレジットではCosta-Gavrasに捧げる、と出る。 昨年のヴェネツィアでプレミアされた。

夏の夕方、大きな家の庭でバーベキューをしている幸せそうな一家の姿が描かれる。ユ・マンス(Lee Byung-hun)は勤めている製紙工場のオーナーから送られた鰻を焼いていて、妻のミリ(Son Ye-jin)と彼女の連れ子のふたりの子供たち、ラブラドール犬の1号と2号がいて、仕事でそんなご褒美を貰えるんだからパパすごいよね、ってなっていたら、実はそれは会社を買ったアメリカ人オーナーからの送別の品で、もう会社来なくていいから、って言われてどうすることもできずに捨てられる。

製紙工場の求職は業界内のかなり狭いマーケットであるらしく、自分と同様の経験を積んでいて優秀な求職者が他にもいるので、どうしよう、って焦っているうちに家計はみるみる苦しくなり、自分ががんばって買い戻した先祖代々からの家も、犬たちも手放さなければならなくなり、これは他の求職者を始末してでも職を手に入れるしかない –“No Other Choice”になっていく過程が漫画みたいに汗をつーって垂らす主人公の顔のクローズアップと共に臨場感たっぷりに描かれていく。

前半の幸せな家庭の描写と、それらを手放したくない、という強い思いが、一気に爆発するのではなく、じりじりと小出しに積み重なったりすれ違ったり、またぶつかったり、のように捩れて煮詰まって絡まって主人公の五感を塞ぎ、やがてもうとにかくぶっ殺す - 標的を消すことが最優先の目的になって止まらなくなっていく感情の生々しさ。“No Other Choice” – そもそも選択肢の問題だったはずがリアルでファイナルの”No Other Choice”しかない、のダルマになって転がって折り重なっていく人も含めた環境の過酷さ – そして、”Choice”はどんな立場の誰にでも迫ってくるものなので、その果ての結果として、それぞれの”No Other Choice”のせめぎ合いが最後に行きついた地点とは – などが、突きつけられるように。

ああほんとうに嫌な世の中だわ、ってぜんぶ放り出す、これもまた”Choice”のバリエーションであったはずだが、画面上に現れる人たちはみんな情念の塊りのように濃くて強くて、というその構図を、至近距離と遠景と両方の視角で対置していって、でしょ? って迫る。

どうしてそこまでしなければならなかったのか – しなきゃならないんだよ!のような煮凝りのようなところは、Park Chan-wookの映画では”Stoker” (2013)の頃からずっとあって、そのSMみたいなのが見る前はきついよね(なのですぐに見にいかない)、でも見るとその設計の見事さに引き込まれる。今回だと“The Handmaiden” (2016)のお屋敷のような高いところ、低いところ、常に全体を俯瞰しながら事の顛末を追っていくようなプロダクション・デザインの見事さ。これが地を這うような出口なしの地獄から全体を救っているような。

こういうどろどろしたサスペンス・ドラマって、日本の得意分野であるような気がするのだが、やっぱり流行らないのかしら。絆とか希望とかそんなのばっかりよか、今こそこういう方に行ってほしいんだけど。


残された日数が少なくなって、送別会のようなものも入ってきて、どの日に何を見るのか、の選択がぎりぎりで決めて諦めないといかんのも沢山でてきていてしんどいし、4月以降の日付で素敵な予告や宣伝が流れてくるとあーあー、になる。いつものことではあるのだが…

3.18.2026

[theatre] Paddington: The Musical

3月9日、月曜日の晩にSavoy Theatreで見ました。

これもロングランしそうなWest Endので、帰る前に見ておかなきゃ、のリストに入れていたのだが、観光客向けにどこかが押さえちゃっているのかチケットがぜんぜん取れないし値段はバカみたいに高いし。

でもパディントンなら、ぬいぐるみもいっぱい持っているし(また袋に入った小さいの買ってしまった..)、Winee-the-Poohだっているし、どっちなんだよ、もあるけど、どっちみちクマには勝てないのだから諦めて見にいってあげるしかない。

演出はLuke Sheppard、原作はもちろんMichael Bond、脚本はJessica Swale、ストーリーは映画版の最初のをベースに2作目の要素も少しだけ。ミュージカルなので音楽はTom Fletcher、振付はEllen Kaneで、クマと一緒に踊りたくなる躍動感に溢れている。マーママままーまままマーマレード~♪ とか名曲としか言いようがない(YouTubeにあるよ)。

James Hameedがパディントンの声とアニマトロニクス技術によってリモートで操作し、遠隔じゃないところはAli Sarebani が中に入って動かしている。アニマトロニクスってなにが?なのだが、例えばクマの毛がふわーっって逆立ったりとかたぶんその辺。 見た回では技術上の問題が発生したとかで途中10分くらいの中断があった。

開演前の舞台はいろんなものが雑然と置かれた骨董屋で、それが標本類が天井まで積みあがった自然史博物館の考古学エリアに変貌したり(極めて正しくかっこよいので震える)。右と左の壁にはロンドンの名所がパノラマで描かれている – Shardの位置とかちょっと変だけど。

所詮着ぐるみ(or 人形)コメディじゃん、なのかもだし、見ることができる写真の像と顔は、映画版のともちょっと違ってやや羊の要素が入っている(少し顔が長い)気がするし、そいつが舞台上のライブで動いたからどうだというのか、というのは誰もが思うことだろう。あんな程度のに騙されてはいかん、と。 でもこれがなんでか絶妙で、でも理由はわかんない。

でもね、とにかく、彼がパディントン駅の雑踏のなかに現れた時、彼があの赤い帽子を被ったりあのダッフルコートを羽織るとき、「うわぁ..」みたいな声が客席の間から漏れて、それはもう本当にそうなってしまうの。あのもふもふの毛玉野郎に命を吹きこまれている、とか臭いことを言う前に、なんか生き物がいる – なんなんだこいつは(なかなかかわいいじゃねえか)ってふつうになる。

そんな彼がリスク計算屋のパパ (Adrian Der Gregorian), アーティストのママ(Amy Ellen Richardson), 反発生意気盛りの娘Judy (Delilah Bennett-Cardy), 物識り息子Jonathan (Jasper Rowse), そしてぶっとんだMrs Bird (Bonnie Langford)の間で、最初は南米からきた異種・移民のホームレス扱いで、行く先々の内外でトラブルを起こしてばかりでかわいそうなパディントンは、自分はなんでこんなところに? って思い、家族もなんでこんなクマが自分らのところに? ってなり、でも最後には互いにとってなくてはならない大切なクマなんだ! になっていく気づきと発見の過程がすばらしいし愛おしいし。

骨董品屋のMr Gruber (Teddy Kempner)が探検家を探すところ、博物館のMillicent Clyde (Victoria Hamilton-Barritt)がクマを剥製にしようとするところは、相対的に薄めになっていて、パディントンの愛らしさとマーマレードに登場人物たち全員がやられて中毒になっていく過程がより鮮明になっていて、それは観客の方にもはっきりと伝播していく。みんな結末はわかっているので、これでよいのかもしれない。

そしてもうひとつの主役がロンドンの街で、クマがその名を貰うところから始まり、こんな人たちの暮らすこんな街だからこういうお話しになったのだ、というのがよくわかる作りになっている気がした。これがなんでロンドンでNYではないのか? よい名前になるような駅がないからかも – Columbus, Christopher, Astor, Houston.. みんな通りの名前で、どこかちょっと弱いのと、行き交うヒトがどこか違う – ここは掘っていったらきりがなくなるかも。

天気と空気の悪いなかロンドン観光とかするより、このミュージカル1本見た方がロンドンを正しく体感できる気がした。お金持ちだったら横のSavoy Hotelに泊まってアフタヌーンティーも込みにすれば完璧。

3.17.2026

[log] Palermo - Mar 5 - 8

3月5日から3月8日、木金土日とパレルモに行ってきたので、簡単な備忘。

イタリアは行きたいのにまだ行けていない街が沢山あって、シチリア/パレルモはその中でも最大のやつで、それが年末のラヴェナに行ったときのモザイク群と共に再噴火して、本当はもっと早く - 2月くらいに行きたかったのだが、パレルモへの直行便、この時期のBAは飛んでいなくて、3月のこの日のがシーズン最初ので、帰りが日曜日になったのも同じ事情による。 たぶん別の航空会社をあたればないこともなかったのだろうが、このシリーズ(?)ではBA縛りをルールのひとつにしている。(他にはタクシーを使わない、とか)

旧市街の真ん中に宿を取ったら少しざわざわしているものの辺りは史跡とか教会だらけで、歩けば勝手に出現してくれるので事前に調べて計画を練るようなことはほぼなかった。だからなんかミスしているのではないか、が常に。以下は主なやつだけで、隙間合間に小さいところに入ったり、猫を追っかけたりしていた。


Teatro Massimo di Palermo – マッシモ劇場

オペラハウスで、ヨーロッパではパリのガルニエ宮、ウィーンの歌劇場に次いで3番目の大きさで、演し物をやっていなかったのでガイドツアーで中だけ見ることにした。”The Godfather Part III” (1990)で、”Cavalleria rusticana”が流れたのはここ。 ヴェネツィアングラスのシャンデリアとか素敵だったが、併設されていた反響室のエコーがやかましくてものすごかった。拷問に使えそうなレベル。

Palazzo dei Normanni – ノルマンニ宮殿

宮殿とアート・ギャラリーと両方あって、アート・ギャラリーでは”Monet e la Normandia” - モネとノルマンディ(の海)という企画展をやっていた。

会場の雰囲気はよいのだが「エクスピリエンス」系のダイナミックなプロジェクションや照明を駆使して盛りあげてくれるやつで、ややがっかりだった。モネなんて絵のなかに光のドラマをぜんぶ盛りこもうとした画家なのに外側で台無しにしてどうするの? しかなかった。そんなのにお金かけるなら一点でも多く作品加えるか、入場料さげてほしいわ。

パラティーナ礼拝堂 - アラブ・ノルマン・ビザンティンの各様式の混合のとりあえずいろんなありがたみが全部降ってくるかんじのこの後のパレルモのいろんなところでもいくらでも出てくる仕様の最初。これって設計した人は各様式の取り纏めのようなことをしたりしたのだろうか。こんなふうでいいじゃん?くらいのノリだったのではないか.. とか。

Chiesa di San Giovanni degli Eremiti
- サン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会

隠修士の聖ヨハネがいた古い教会の遺構で朽ちたドームや中庭の佇まいがすてきなのだが、それをつんざいて始まった猫の喧嘩と剣幕がすさまじく、そこでご飯をもらっている猫一家(だろうか?)の生々しいドラマがばりばりの威嚇とともに繰り広げられていて、でもこんなのも中世の頃から続いていたはず。

Palazzo Abatellis - シチリア州立美術館

6日の朝から。 建物は割とぼろいし地味なのだが、こんなのが州立? という収蔵品の充実ぶりに驚く。結構不穏で邪悪そうな香りのが沢山並べてあって、それがあの隙間風ぼうぼう(そう)な建物のなかにぽつぽつ置かれているのがたまんない。住んでいたら毎日でも来たくなるような。

Chiesa di Santa Maria dell'Ammiraglio - マルトラーナ教会

教会の創設者がギリシャ人提督(ammiraglio)のゲオルギオスだったのでこの名前で、そんなに大きくはないのだが、壁から天井からギリシャとアラビア、東方の要素がみっしり、その詰め合わせ感がすごい。

Duomo di Monreale - モンレアーレ大聖堂

割と満員のバスに揺られて少し離れた丘というか山の上にのぼって、2日目の午後はずっとここにいることになったくらいにでっかくて、なんでこんなところにこんな要塞みたいな教会施設があるのか – それでも大部分は失われているってなに?

ここもギリシャとカトリックの組合せで、このような様式のそこにやってくる信者にもたらした効果 – なんてあるに決まっているのだが、このずっと居ても、信者でなくても居るだけで心地よくなる感覚はどこからくるのか、って。天井みても床みても - 石のウサギが張りついていたり – なんなのこれ、って、聞いても誰も応えてくれない空気感、広がり。

Duomo di Cefalù

7日の朝は電車で少し東の方に遠出して、Cefalùっていう海辺の町にいった。本当はシラクーザまで行きたかったのだが、日帰りは厳しいって言われたので諦めた。

駅で降りて10分くらい、でっかい岩山の上にある教会(ここは閉じていた)を眺めながら歩いていくと大聖堂が現れて、入場料も取っていないし朝早めだと誰もいないし、それでも聖堂のなかは静粛に風通しよく受けいれてくれて、夏の最中にここに来たらどんなに気持ちよいだろう.. だった。

ここから海の方に出ると、転んで頭を打っても死なない程度の岩場があり、遠くには灯台が見えて、少し歩いていくと砂浜になり、天気が穏やかだったせいもあるのか理想的な海辺ランドスケープのありようで、そこに海岸沿いに並ぶ建物を加えるとパーフェクトな、死ぬんだったらこういう海がそばにあってほしいー、の場所になった。海の向こうに山と煙が見えたのだが、あれはナポリだったのか。

Palazzo Chiaramonte-Steri

14世紀にキアラモンテ家のために建てられた宮殿で、17~18世紀には異端審問所として使用されていて、そこの壁に描かれた、というより刻まれた囚人たちによる落書きが生々しく、光の殆ど入らない獄中でこんなのを延々… になった。保存されて公開されているにしても、寒くてしんどかっただろうなー、って。大広間の細かく描きこまれた天井画も見事だったが、この見事さ華やかさと壁の落書きの間にあるのがシチリアなのかも。 マフィアと闘った写真家のLetizia Battagliaを讃えるミュージアムもあったり、光と影の表裏のせめぎ合いが常にあるような。

最後の日、8日の日曜日は朝から雨で、市場に行ったりして、午後には殆どの美術館・博物館は閉まってしまったので、開いていた植物園まで歩いていってぼーっとしていた。変な鳥、時々にゃんこ、ばかでかい変な樹木とか竹林とか、あとオレンジの木が沢山あって、どれも実がいっぱいついているのだが、あれらって食べないでそのままなの?

食べ物はイワシのパスタとかイワシを丸めて焼いたのとか、どれもたまらなくおいしい。市場の屋台のも試したかったが、お腹を壊すわけにはいかないので、我慢した。 わたしは銚子っていう海辺の町で生まれて、その目で見ると、昔は海運と漁で栄えて、伝統的にやくざがいて、イワシがおいしくて、でもいまは見る影もなく寂れて廃れて、という辺りはなんだか似ている気がした。なんであんなに廃れちゃったんだろうね(日本中の地方都市の殆どがそうだと思うけど)。

あと、修道院の横で伝統菓子を作っているお菓子屋に並んでカンノーロを食べたら、めちゃくちゃどっしりパワフルで感動した。こうこなくちゃね、だった。

あと、夜遅くまで開いている古書店がホテルの近くにふたつあって、なかなかたまらなかった。遅い時間に彷徨っていたらそこに古書店が、なんて危険極まりないのだがー。

あと、ふつうの道路、車がびゅんびゅん通っているのに信号がそんなになくて、みんなちょっとごめんよ、ってかんじで軽く手をあげてぐいぐい道路を渡ってしまうのがなかなかすごかった。NYとLondonにいたのでその辺は得意のはずだったのだが、あれに馴れるのにはちょっと時間を要した。(次に行ったときはだいじょうぶ)

3.13.2026

[theatre] Double Indemnity

3月4日、水曜日の晩、Richmond Theatreで見ました。

この劇はこないだここで見た”The Constant Wife”と同様にアイルランドや英国の各地を巡回ツアーしていて、各地での上演は4~5日くらいづつ。
原作はJames M. Cainの同名小説(1943)で、Billy Wilderが映画化(1944) - 邦題は『深夜の告白』 - した作品の舞台版。

映画版はRaymond Chandlerが脚本に加わり、Barbara Stanwyck, Fred MacMurray, Edward G. Robinsonが出演しているノワールの古典で、中心の3人がとにかくすばらしくて何度でも見れる。 

原題は保険の「倍額補償」のこと - 保険契約で、被保険者が事故で死亡した場合に通常の2倍の保険金を支払うことを約束する条項のことで、自信たっぷりの保険セールスマンが豪邸に暮らす婦人にやられてつるんで高額の保険をかけて彼女の夫を殺して、保険金でとんずらを企む、という今ならどこにでも転がっていそうな三面記事ネタなのだが、映画版だとLAで空虚な日々を過ごすBarbara Stanwyckの倦怠と焦燥が逃れることのできないノワールの渦とともに金縛りにして、あのモノクロの質感は何度見ても吸いこまれて痺れる。これを最初に見たときは、こんなにありえないくらいにひどくて悲惨な世界をなんであんなに重厚にかっこよく描けるのか、って驚嘆した(ノワールの入り口)。

脚色はTom Holloway、演出はOscar Toemanで、前面には奥の方が暗めになっているグレイトーンの無機質なオフィス / リビングに切り替わり、背景にはLAの”HOLLYWOOD”の大看板を裏から見たのの一部 –“HOLL”くらいまで – が見えている。その大文字の看板の影の下で展開されるドラマである、と。 舞台劇なので仕方ないのかもしれないが、がらんと抜けた空間が広がっていて、それはノワールの息詰まる暗さや至近距離での攻防とはちょっと違った感覚かも。

今作の宣伝ポスターはPhyllis (Mischa Barton)の振り返った顔が前面に出ているのだが、主人公はやはり転落していく保険屋Walter Huff (Ciaran Owens)の方で、彼が最初からずっと舞台にいて、登場人物たちをドライブし、時にはナレーションもしたりしつつ、気がついたらPhyllisのペースと罠にはまって、うまく誘導されるがまま殺人にまで引き摺られていく。でも女性をどこか見下している自信家なので、あくまでもすべてを動かして統御しているのは自分で、そうしている限りは大丈夫だ問題ない、という線を崩そうとはしなくて、それが結果としてあの結末をもたらす。

映画版だと、Barbara Stanwyckのファム・ファタルの存在感が圧倒的でFred MacMurrayには彼女の闇と毒にやられて麻痺して視界を塞がれ身動きがとれなくなっていく息苦しさ(と共にある快楽)があった気がするが、この舞台版はPhyllisとうざったい上司Keyes (Martin Marquez)に対する見栄と自信が最後にぜんぶ跳ね返ってきて自滅する、彼の自業自得自滅のニュアンスがやや強いかも。それはそれでいい気味、なのだがそういうスケールのドラマにしてよかったのかどうか。

Mischa Barton演じるPhyllisは華やかで人を惹きつける魅力は十分なのだが、舞台が少し明るくなるかんじに見えてしまうのはどうなのかしら、って少しだけ。すごく難しい役だとは思うけど。

彼女も含めてアメリカ西海岸のドラマ、を意識した舞台の建付けだった気がするが、イギリスとかスコットランドの下町設定にしてももっとどろどろしておもしろくなったのではないか、とか。


ようやく箱詰め - 箱詰めと言えば本 - を開始して、Sサイズの箱18個までどうにか(こっちに来たときはS3個だったのに)。たぶんぎりぎり20個で収まりそうな。 だが収まったからどうだというのか。あの家のあの部屋に入ると思っているのか? あたまおかしいんじゃないか? といういつものー。

あと、気付いてしまったのだが、まだ2週間あって、最後のお買い物はこれからが佳境なのだと。来週はパリ行くし、アントワープも行くし。明日はマドリードだし…

[theatre] Stranger Things: The First Shadow

3月1日、日曜日の午後、Phoenix Theatreで見ました。

West Endでロングランしている商業演劇系(っていうの?)は余り見ていなくて、まずチケット代が高いし、しばらくやっているだろうから、というのがその理由だったのだが、帰国を前にやっぱりいくつかは見ておきたいな、になり、このシアターはいつも行く本屋Foylesの反対側にあって、本屋を出るたびに”Hawkins”の文字が目に入って見たいかも、になっていた。

NetflixのあのTVシリーズ(最後のエピソードは見れていないので帰国したら見る)、1983年から始まったあの物語の約40年前から始まる前日譚 - 冒頭に字幕で小さく”The Philadelphia Experiment”とでる – で、Duffer Brothers, Jack Thorne, Kate Trefryがオリジナルストーリーを作って、演出はStephen Daldry(!)とJustin Martinの共同。TVシリーズを見ていなくても、そんなに憶えていなくても「変なもの」は変なものとして目の前にダイナミックに迫ってくるし、知っている人には40年後の起源や登場人物がこんなところに、になる。 休憩含めて3時間、最後には映画のようなエンドロールが流れる。

暗転して闇の奥からTVシリーズのあのシンセ(もろJohn Carpenter)が湧いてくるだけで、どよめきが起こる。全体としてサウンドデザインが見事で、最後の方の光と轟音の嵐は怖いくらいだった。ところどころの古いフィルムのプロジェクションも効果的。(Ratingは12+で、日曜日の昼だからか子供もいっぱい見ていたがぜったい怖いとおもう)

冒頭が戦時中、洋上の戦艦のなかで起こった謎の出来事→大事故と失踪、そこからTV版の舞台となったインディアナ州ホーキンスに移って、そこでの平凡な学園生活と、周辺でペットが不審な死にかたをしていく事件を中心に、いくつかのエピソードが併走していく。冒頭の事故の唯一の生存者の息子で、不思議な能力をもつ少年Henry Creel (Jack Christou)、はぐれ者の彼に近づいていくPatty (Avril Maponga)を中心に、田舎の高校の平々凡々とした日々と、その裏に潜んでいるのか進行しているのか何やらおそろしい、”Strager Things”の端々をじわじわと炙りだすように描いて、でも全体像はちっともわからない。 TVシリーズを知っている人は、これらがどうなっていくのか、なんでこんなことに.. は凡そわかっているので、きたきたきた..になったり、これって、あれのこと? になったりと慌しいのだが、音とヴィジュアルの有無を言わせない説得力がすべてをなぎ倒して覆いかぶさってきて、記憶も忘却もどこかに行ってしまう。単独の舞台として見ても十分わけわかんなく錯綜していてよいと思った。

TVシリーズでWinona Ryderが演じたJoyceやDavid Harbourが演じたHopperの高校生時代の姿も出てくるが、彼らはちょっと微妙で、別になくてもよいくらいのエピソードの出し方。そして、若い頃のDr Brenner (Stewart Clarke)も当然。

この時点で誰かがどうにかしていたら、この件はどうにかなって(収束して)いたのだろうか?勿論そんなことにはならず、Stranger ThingsはStrangerのまま、だから、劇は冷たく恐ろしいままにその蓋を閉じて or 開けたままにHawkinsの80年代を用意する。しかし、この劇を見てからTVシリーズに行くと、あまりにほのぼの腑抜けで無邪気すぎるふうに見えてしまったりしないだろうか。

軍の実験と超能力と怪物と田舎を掛けあわせた超常化け物怪奇ホラーとして、とてもよくできているなあ、と改めて思ったのと、そういうのなしでも、シアター/お化け屋敷として十分機能しているように思えた。5時間くらいに引き延ばして、外に出られなくする設定を加えたらパーフェクトではないか(なにが?)。

[theatre] The Shitheads

3月3日、火曜日の晩、Royal Court Theatreのupstairsのシアター(全席自由)で見ました。

これ、2月25日のチケットを取っていたのだが、前日くらいに出演者が怪我をしたのでこの日の上演はなくなって、払い戻しするか別の日に振り替えるかどっちがいい? と聞いてきて、振り替えたい候補日をメールで送ったらこの日のチケットがきたの。

原作は詩人でもあるJack Nichollsの劇作デビューで、Royal Courtの公募作のなかから選ばれたもの、演出はAneesha SrinivasanとDavid Byrne(あのDavid Byrne氏とは同姓同名)の共同。約1時間40分で休憩なし。

場内は洞窟の中らしい赤暗い照明で、舞台奥の上の方には出入り口らしい穴が開いていて、大きな音ではないが「ジンギスカン」のディスコの音楽が流れていて、ちょっといかれたダンスフロアのように見えなくもない。

紀元前数万年前、先史・原始時代のやがて英国になると思われる土地に暮らしていた原始人たちのお話しで、「はじめ人間ギャートルズ」の世界で毛皮を羽織っていたりするのだが、主人公たちの名前はClareとかGregとか現代人のそれで、喋る英語もスラングみたいのも含めて今の英語(たぶん)だったりする。

考古学的な考証は横に置いて、自然と人工の配分とか、ムラとか家族とか近くのヒトとか恋愛とか、そういう現代の我々の前提とか縛り、目線から離れてフリーハンドでいろいろ好き勝手に思い描いて、それでも今のしがらみとかはどうしてもくっついてくるだろうから、言葉とか名前だけは現代のをコラージュのようにぶつけてみる、とどんなふうになるのか、という実験?

最初に登場人物らしき人がひとり、少しおどおどしつつ現れて、「このお話はBased on a True Storyである、と思うよ」 とか言う。そうでしょうとも。

それからいきなり3人の人形遣いに操作されたバカでかいヘラジカのパペットが現れて(ぶんぶん振り回されるツノだけでもすごい)、そいつを前にClare (Jacoba Williams)とGreg (Jonny Khan)が出会って、少し強くて狡猾そうなClareはヘラジカを倒して、無邪気でおしゃべりなGregはもうじき酷い気候になるから南に行くべきとか、ふたりの会話は噛み合っているのかいないのか、そこだけ切り取るとSNLやモンティパイソンのスケッチみたいなコメディネタの掛けあいなのだが、いきなりClareはGregを殺しちゃって(客席の笑いが凍りつく)、カチ割った頭から脳みそを食べたりするの。

後半、Gregの首をぶら下げて洞窟の家に戻ったClareを無邪気な妹のLisa (Annabel Smith)と病弱な父 (Peter Clements)が迎えて、今度は原始時代のシットコムみたいな家族ドラマが繰り広げられ、そこにGregの妻Danielle (Ami Tredrea)と歩き始めたばかりくらいの赤ん坊パペット(2人で操作して1人は赤ん坊の声も。ちょっとホラーに出てくるベイビーぽい)が現れて、Gregを見なかったか?って聞いてきて…

人間を動物の習性や挙動から隔てて「人間」にしたものはなんだったのか? 最初の方でClareがGregに何度も執拗に聞かせてほしいと請う”Story”のこと、そして自分たちとは異なる「あいつら」的に語られる”Shitheads”のこと、これらが明確な意図をもって彼らの間で使われ始めた時、あらゆるギャグは停止して殺戮が始まる、と。そしてこの温度差をどちら側からどう見るか、が今の我々に問われていることなのではないか – など、真面目に考えることもできる。

あと、折角ここまで作ったのなら、イギリス人 - ブリトン人がなんでこんなんなって、こんなままなのか、まで掘り下げてみてもよかったのではないか、とか。

送り出しでも「ジンギスカン」がじゃんじゃん流れて、しばらく頭の後ろで鳴っていた。ジンギスカン食べたくなった。

3.11.2026

[film] If I Had Legs I'd Kick You (2025)

3月2日、月曜日の晩、"The Moment"に続けて、Picturehouse Centralで見ました。

これも、なんで今これを? になるのかもしれないが、上映館が少なくてすぐ終わっちゃう気がしたのとRose Byrneが好きなので。

監督・脚本はMary Bronstein、プロデューサーにはJosh Safdieと彼の助監督で、監督の夫でもあるRonald Bronsteinなどの名前がある。Josh Safdieの終わりが見えないままずるずる、の薄ら寒い感覚ははっきりとある。

心理療法士のLinda (Rose Byrne)は摂食障害でチューブを通して栄養を摂取するしかない娘のために日々通院していて、そこのドクター(Mary Bronstein - 監督本人)からはいつも柔らかく怒られたりあなたのせいではない、って言われたりして(医者患者のどちら側も)疲れている。夫のCharlie(最後にちょっとだけ出てくるChristian Slater)は船の仕事で海に出ていて能天気でご機嫌な電話はしてくるけどずっと帰ってこない。

ある日アパートに帰ったら天井から水漏れがしていて、しばらく見ていたら大量の水と共に天井の一部が落ちてきた(これってNYではあるのよ普通に)ので、母娘はしばらくモーテルで暮らすことになり、娘が装着している栄養補給機のたてる音で眠れなくなり、外にワインを買いにでると店員とトラブルを起こしたり、それを横で見ていた管理人のJames (A$AP Rocky)に助けられたり。

もともと鬱のあった彼女は同じオフィスの同僚セラピスト(Conan O’Brien)のセラピーを受けるが鉄仮面の彼とのセッションは全く会話にもセラピーにもならず - Conan O’Brien最高 - こうして何の、誰の助けもケアも得られなくなってしまった彼女はー。

建てつけ、構成としては、どうってことのない日常のやり取りがちょっと捩れて終着点の見えない何か – ぐしゃぐしゃのホラーのように変わっていく、ひとつひとつの出来事が恐ろしいのではなく、終わらないこと、なにもかも終わらないために始まっていく感が恐ろしくて、その「責任」がすべて自分の方に向かってくる。穴の開いた天井も業者が都合でいなくなって放置されていたり、他方でチューブに繋がれた娘を放置するわけにはいかないし、自分の患者もいる反対側で自身の鬱もどうにかしないことには、とすべてクリアにわかっているのに、どこにも行けない動けない恐怖と情けなさが彼女の感覚や判断力を塞いでいって、「正気」とか「日常」に戻ることができない。

Rose Byrneの一見クールで、すべてをソツなくこなすように見えて実は、のコメディエンヌの資質を見事に反転させドロ沼に嵌って孤立して極限状態にまで突っ走っていく主婦の姿を描いて、でもこれはあなたの姿でもあるのではないか? と問う。でもそこまでシリアスで陰惨な地獄に行かないところがRose Byrneの格、というか見事さで、全体がダークなのに妙な安定感があったりするのはよいことなのかどうなのか。

そして最後まで顔が明かされずにマシーンのビープ音のみでその存在が示される「娘」のありよう、これがもたらす悪夢とは? というー。

ホームレスで、少しだけドラッグにやられている少女たちの彷徨いを描いたJosh Safdie(脚本はJosh + Ronald Bronstein)の“Heaven Knows What” (2014)にかんじとしては近いかもしれないが、あそこにあった屋根のない「自由」のようなものはなくて、寧ろ屋根がなくなったことによる「縛り」が無情に降ってきて、それでも” I'd Kick You” !っていう強さというか、ふざけんな、の勢いがあってよいの。

[film] The Moment (2026)

3月2日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。

いろいろばたばたで新しい映画を見る余裕がぜんぜんなく、旧作なんてもってのほかでBFI Southbankにも行けていない。こんなことがあってよいのでしょうか神さま、の状態が続いている。

そんなあれも見ないとこれも見ないとでぱんぱんな時に限って、ついこんな半端なのを見てしまったりするのはどうなのか。

監督はFKA TwigsやBillie EilishのMVを撮ったり、Timothée Chalametの映画のプロモーションに携わってきたAidan Zamiriで、これが初監督作となるが、元のアイデアなどはCharli XCXによるもの。配給はA24。

モキュメンタリーで、2024年のアルバム”Brat”のリリースに合わせたプロモーション”Brat Summer”、これの舞台裏も含めて、こんなことがあったりしてねえー、というのを彼女の位置からたっぷりの皮肉と共に描いている。全体としてはよくもまあ、っていうのとここまでやるのかー、ていうのが入り混じる。産業って… とか。

Charli XCXは”Sucker” (2014)などはよく聴いた、くらい。元気があってよいなー、くらい。

“Brat”のアリーナツアーの準備を進めながらちょっと疲れてきたCharliのところにAtlanticレーベルの大物Tammy Pitman (Rosanna Arquette ..あらら)が、このツアーを歴史に遺る遺産とすべくamazonと提携したコンサートフィルムを撮影する話を持ってきて、監督Johannes Godwin (Alexander Skarsgård ..あらあら)が現れて、常にリハーサルする彼女の後ろを追っかけてうざい口を出し始めて、クリエイティブ・リードのCeleste (Hailey Benton Gates)と彼女は事あるごとに顔を見合わせることになる。あと、ツアーを後押しするプロモーション企画として、落ち目になりつつあるカード会社Howard Stirlingが発行する”Brat”クレジットカードが発表され、サインアップするとツアーチケットが付いてくるとか。

この他にもその筋では有名なのだと思うセレブが右から左から実名・カメオで湧いて画面のあちこちにいて、詳しい人にはより楽しめるのだろうが、そうでなくとも、Charliを取り巻く大量かつ多様な何をやっているのかわからない人たちによって「界隈」が形成され、どっちが先なのか知らんがコラボティヴでストラテジックな連携・提携によるプラットフォームができあがり、そこに我々のお金がじゃんじゃか自動で吸いこまれていくのだな、ということはわかる。

でもそういう中でCharliは疲れていって、もうなにもかもいやだ、というかんじで突然イビザに逃げて高級リゾートに籠ろうとするのだが、そこでも怪しげなエステティシャンが絡んできたり。

これ、エンタメの実経済を支えるバカみたいに脳みそその他が空っぽな人々を風刺するコメディ – “Spinal Tap”のクラブ・レイヴ版にすればよかったのに、と思ったのだがそちらには行かず、ひたすら疲弊して本音をぶちまけることもできないCharliの、沢山の人達が準備してリソースを出してここまで来たのだから、って全てをのんで受けいれる姿が描かれる – そういう形で示される業界への批判で、それでも最後にはamazon musicで宜しくね、って出るので失笑せざるを得ない。

ファザコンでミソジニー丸出しのJohannesをどこかでぼこぼこにしてくれると思ったのにそれはないし、音楽も殆ど流れてこないし、主人公は疲弊して浮かない顔で、そういうところで最近のメガヒットは形成されるのだな、パンクなんて異なる惑星の話としか思えないし、Morrisseyが嘆くのも無理はないわ、って。

3.10.2026

[music] Morrissey

28日、土曜日の晩、The O2 Arenaで見ました。

クラクフから戻ってフラットに着いたのが16時半くらいだったので余裕。アウシュビッツを見た後のしんどさとか、もう少しあると思っていたが、そんなでもなかった。覚悟していたからだろうか。

この人のライブは初来日の横浜の時から数えて何回めくらいになるのか、最後に見たのは2018年のLondon Palladium で、いつの間にか、なんとなく、なにがなんでも行く! の対象からは離れてしまっていた気がする。

その理由はいろいろあって、あんま深く考えたくないかんじだったなー、となっていたのはなんでだったのか、について考えさせてくれるようなライブだった(ライブの度にそんなことばかり考えてて楽しいの? って自分でも思うがうるせえよ、って)。

Morrisseyがレコードを出して貰えない、創作活動を十分にすることができなくて焦って腐って悶々としている、というのはずっと聞いていて、彼がそうやって周囲に毒を吐くのはいつものことのように思えたし、であれば「大丈夫」に違いない、とか。でも大丈夫とかそういうことでもなさそうで。いや、わかんないな、ってぐだぐだ考えが右に左に揺れまくった。

The Smithsという、もはや恐竜のように巨大な遺産と認知されているバンドのフロントにいた彼なので、ソロになってそれなりのキャリアを重ねていったにしても歳をとったりなんだりで自分の思うような活動をできず/させてもらえず壁にぶち当たって… なんてあの世界ではごく普通のことのようにも思えるのだが、彼にとってはそういうことではないのだ。曲を書いてライブで歌うという音楽活動は自身の生死を賭けたすべてであったのだ。

The O2のあるNorth Greenwichの駅は、アリーナのライブがある時は告知用のホワイトボードにそのアーティストの曲名や歌詞をびっちり散りばめた「案内」?を出してくれるのだが今回はさすがにハードルが高かったのか過去のNoel Gallagherのをそのまま置いていた。残念。

19:30くらいに客電が落ちて通常の時間であればサポートアクトになるのだが、Morrissey を「サポート」する度胸のある若い子なんていないので、Morrissey のお気に入りのアイコンとそれに合わせた曲(あるいはその逆)をじゃんじゃか掛けてくれて楽しい。それは過去、The Smithsが12inchのレコードジャケットでやっていたことと地続きの極めて教育的ななにか、でもあるの。

20:40くらいに客電が落ちて、マラカスを持って出てくるなりForeignerの”I Want to Know What Love is”のあの一節を、まあ今こんなことを世界の中心で吠えてやってサマになるひとなんていないよ。この曲で吠える人もいないだろうが。

バンドはおそらく若返っていて(終わりの方でメンバー紹介と自己紹介もあった)、アレンジもわかりやすいエレクトロが入ったりキーボードのソロもあったり、がんばっているようだったがそういうことではなくて、モルヒネを打ってそれが切れるまで、本当にそれくらいいっぱいいっぱいで大変なんだ - 助けてほしい - ってずっと、このギャングでパンクで落ちぶれて崖っぷちの老人が呻き続けている。

新譜のリリースを巡るごたごたのなか、尊大なアーティスト・エゴがどうの、という以前のところで、この人は最初のバンドの頃からずっと毒を呑んで吐いて悶絶して絶望して生死を賭けるようなところで歌を書いて歌ってきた。それがすべてで、それが十分にできない、というのは死ね、と言われているのに等しいのだ。 100文字程度で、誰もが言いたいことを好きなようにいくらでも吐きだすことができるようになった今(Make-up is a Lie)、彼のような態度や挙動がきちんと理解されない、ちゃんと通用しない、というのがあるにしても、じゃあどうしろと言うのか – というのが冒頭の叫びに繋がっていたし、“A Rush and a Push and the Land is Ours”~”Now My Heart is Full”の流れは本当に感動的に響いた。(ここでもし“Last Night I Dreamt…”までやってくれたら泣いちゃったと思う)

ただ他方で、昔のスタンダードばかり求めてくる客ばかり、という残酷な事実もあって、すんなり爽快に楽しませてくれない。The Smithsを聴いて育ったビリオネアのなかで、恩返しもかねて彼にお金をだしてきちんとしたアレンジと演奏で新譜も含めてセンスよく賄ってくれるような人はいないのか、金持ちはThe Smithsなんて聴く必要はなかったのか、とか。

この先どうなっていくのか誰にもわからないし、知りようがない、この人はそういう前人未踏の領域に首を突っこもうとしているのだ。 どうせ先にあるのはダブルデッカーバスだし、ってあの曲を最初に聞いた時の感覚が蘇ってしまったので、これがよいことなのかどうなのかはわかんないけど、いまだに蘇ってくるものがあるので、よいライブだったと思う。


あああと3週間を切ってしまった。どうしよう…
(ぜんぶあきらめろ)

[log] Kraków - Feb 26 -28

ポーランドのクラクフに行くのは初めてではなくて、2018年に仕事のコンファレンスかなんかで行っていて、でもこの時は仕事だったのでシロテンとSt. Mary's Basilicaと地下博物館くらいしか見れなくて(仕事なんだから仕事しろ、だけど)、今回は2泊あるのだからやはりいろいろ見たいかも、になった。

Romeo i Julia

26日、木曜日の晩にMałopolski Ogród Sztuki (MOS)で見ました。
滞在中に演劇とかやっていないか探していたら見つけて、でも2日間公演のどちらもずっと売り切れでほぼ諦めていたのだが、飛行機が現地に着いて繋がった時に見たら取れる状態になっていたのでまだ機内にいるうちに取った。

開演は19時で、入管に時間が掛かってホテルにはいったのが18時過ぎ、土地勘とかないのでとにかく早めに出て、お腹が空いていたので屋台でドーナツを買って食べながら(おいしいったら)、歩いてシアターに向かう。

ここは由緒あるJuliusz Słowacki Theatreの分館でよりモダンで実験的な劇を手がけているようなのだが、初演は2023年、ポーランド語手話による作劇 - 制作には聴覚障害者、健聴者双方が関わった - を起点にシェイクスピアの古典を再構成している。演じるのは男性2名、女性2名のみ、らしい。誰が演出したのか、などは探したけどよくわからず。

全席自由で開演時間丁度に開場して、席につくと女性2人が台座に固定されるように立っていて、間もなく始まるとふたりは歌、台詞の発話(ポーランド語)、ポーランド語手話を駆使して、その内容はプロジェクターにポーランド語 & 英語でリアルタイムで表示される。やがてそこに男性ふたりも加わってやり取りをしていくうちに女性ふたりはどちらもジュリエットで、男性ふたりはどちらもロミオであることがわかってくる。

強権的な家制度と過去からの因襲による縛りと、それに対する強い反発、そして恋に突き動かされた強い情動、全てを断ち切りたい思いとずっと一緒にいたい思い、これらに伴う犠牲... そこに手話という身体を使ってこれらを伝える/伝えなければならない、という与件が加わったとき、恋するふたりの身体がふたつに裂かれるように分かれてあることにそんなに違和感は感じなかったかも。

ふたりの恋によって彼らの自我も含めて引き裂かれた混沌とした状態を表すのに手話、発話、歌、振付けが駆使されて、英語の字幕もあるので伝わるものは伝わっていたように思えた。

他方で、原作のお家間ややくざの抗争や悲劇に向かっていく錯綜した駆け引きの殆どは(演者もいないので)無くなっていて、ふたりの場面、それもいちばんエモーショナルなところだけを抽出して煮詰めたものになってしまっていて、これでいいの? って思い始めた辺りの約60分でぷつりと終わってしまった。

帰りにカフェでピエロギを食べたらものすごくおいしくてびっくりした。

演し物ではもうひとつ、27日の晩にThe Cracow Philharmonic HallにKraków Philharmonic の演奏を聴きにいった。ポーランドならショパンだろう、と少し思ったが、こういうところのメインの音楽ホールを見たい、というのもあって、オンラインで当日取った。演目はベートーヴェンの第八交響曲とマーラーの「大地の歌」の2曲、オーケストラ演奏のよいわるいは判断できないのだが、オケも歌唱も力強くて、でもホールの音響はクラシックにしてはちょっと固かった気がした。

美術館関係だと、この街にはダヴィンチの「シロテン」- 『白貂を抱く貴婦人』 (1489-1490)が名物のようにあって、これだけは事前にチケットを取った方が、とAIさんに言われたので、アウシュビッツから戻ってきた夕方に駆けこむようにチャルトリスキ美術館に入って見た。シロテンは前回クラクフに来た時にも見ていて、その時はここではない国立美術館の方にあって、でも展示場所としてはこちらの方がうまくはまっていた気がした。わたしはこの絵のシロテンの腕の白くむっちりしたところがなんとも言えず好きなので改めて舐めるように見て堪能した。夕方だったからか絵の前には人がほぼいなくて、こういう場合、ふつうだったらシロテンが絵の中から飛び出してきてくれるはずだったのだが。 あと、もうじき日本に行くらしいダヴィンチの『ミラノの貴婦人の肖像』 (1490-1496)で描かれたのと同じ女性なのかどうなのか。

これ以外の朝と、最後の日の出かける前までは主に教会を回っていた。Holy Trinity Church、聖マリア聖堂、聖フランシスコ教会などなど。古い都なのでそういうのはいくらでもあって嬉しいし、扉を開けた瞬間にわーってなって、ずっといてもなぜだか飽きないし。帰る日の朝は丘の上のヴァヴェル城のカテドラルに入って、教皇ヨハネ・パウロ二世のお墓と彼の名前のついた美術館も見た。自分がキリスト教(全般)に興味を持つようになった頃の教皇だったので、いろいろ振り返ったり。

3.05.2026

[log] Auschwitz-Birkenau - Feb 27

2月27日、金曜日の昼、現地に行きました。簡単な備忘。

ヨーロッパの近代以降の文化にずっと惹かれて追ってきたものにとって、この場所に行くこと、ここの地面の上に立って何があったのかを頭に刻むことは宿題のようになっていて、前回の駐在時にも計画していたのだがコロナで行けなくなり、本当は20代30代の時に見ておくべきだったと思うのだが、ここまで時間が掛かってしまった。ここ数ヶ月であちこちに行ったりしているのは全部そうで、なにもかもしみじみだめだった、なんでもっと早く、ってどこに行って歩いていても思う。

現地を見るにはMuseum(遺構、敷地全体がMuseumとして保護・保全されている)のやっているガイド付きのツアーに参加する必要があって、日本人の方によるガイドがよいことは知っていたのだが、時間の余裕もないのでオンラインで取れる英語のツアーにして、でも1月中旬の時点で2月の後半で取れたのはここの昼間のひと枠くらいしかなくて、とりあえずそのチケットを押さえて、その後にフライトを探してみると、クラクフから当日に入るのは無理、当日に出ていくのも無理で、会社の木金を休む2泊3日にせざるを得なかった。できればこの機会にワルシャワも行きたかったのだがそれも大変そう、後で28日の晩にMorrisseyのライブを入れていたことに気づいたが、どうにかなりそうで少しほっとしたり。

着いた日からクラクフの天気はとてもよくて、この日もぽかぽかと暖かい日差しで、クラクフの町から電車で約1時間と少し、そこからほぼ一本道を歩いて約20分。公園とかもあるあまりに普通の住宅地のなかに突然Museumの施設が現れて、入口はバスで来た団体客でわらわらしていたところを助けられるように奥に入れて貰い、いろんな言語のツアーが順番に入っていくなか、開始時刻にガイドの女性に率いられて中に入る。自分の集団は20~30人くらいか。

何度も写真で見たことがある”B”が倒立した”ARBEIT MACHT FREI” – 働けば自由になる – のアーチがいきなりあって、そこから第1収容所の施設を端から見て回る。これまでプリーモ・レーヴィやフランケルで読んで、写真でも映画でも何度も見てきたそれらが目の前にあって、あたりまえだけどぜんぶここで起こったのだと。

収容所に到着した子供たち、女性たちの写真、ゾンダーコマンドが撮った火葬場の風景、これらの以前見たことのあった写真も、この場所であった/撮られたということでこれまで見知っていたのと異なる生々しさが立ち現れてくるのと、他には映画”The Zone of Interest” (2023)に出てきたRudolf Heß一家が実際に暮らしていた家を見ること、この間の演劇”Here There Are Blueberries”で撮られていたナチス幹部たちの風景を重ねてみること。

アウシュビッツを一通り見た後に、シャトルバスで20分のところにあるビルケナウに向かい、あのずーっと奥まで伸びた線路と、当初計画ではとてつもない規模になる予定だったという広大な敷地を眺めて、実際に歩く。ここまで拡張される予定でした、ってショッピングセンターやデータセンターの拡張計画のように考えていたとしか思えなくて、そういうのを得意げに語る営業担当みたいな幹部の顔が何人も浮かんでとても気分が悪くなった。

過去にいろいろな形で表象されてきた風景や情景、それらが目の前にはっきりとある、どれも恐ろしいのだが、なによりも恐ろしいのは、ここにものすごい量の人的リソースが投入されて、毎日どれだけの数を「処理」することができるのか、「集約」とか「効率」とか言いながら日々の仕事としてやっていたことだ。こんな規模の施設で「なにをやっていたのか知らなかった」なんてありえないよね。

あとは、割と最近の映画 – “A Real Pain” (2024)とか”Treasure” (2024)で、収容所で亡くなった祖先を訪ねて(ではなく、お墓があるわけではないので収容所の遺構を訪ねて)いく子供や孫の映画がいくつかあって、これらについても訪ねたくなってしまう事情はなんとなくわかった。こんなところで、っていうのがあまりに非現実的すぎるからではないか。

そして最後はやはり、いまの世界で実際に起こっている虐殺のことを考えてしまう。数日前に始まった戦争のことも。
過去のこれらからなにも学んでいない、自分たちさえ良ければそれでいい人たちが絶対安全な場所から子供たちを殺している、ということを。それを我々みんなが許してしまっている、ということを。

これ以外のクラクフでのことはまた別で。

3.04.2026

[theatre] Arcadia

2月24日、火曜日の晩、Old Vicで見ました。
原作はTom Stoppardの同名戯曲(1993 – 初演も)。演出はCarrie Cracknell。

Old Vicは昨年舞台と客席の配置をリニューアルして、舞台を前方中央の円形に、客席はそれを見下ろす or 最前列は同じ高さの地続きの床になったのだが、ずっとこのレイアウトで行くのだろうか?(上演される劇を選んでしまうような..)

1809年のイギリスの邸宅の一室で、そこに暮らす天才少女Thomasina Coverly (Isis Hainsworth)と家庭教師Septimus Hodge (Seamus Dillane)がいろんなテーマについて楽しく問答を繰り返しながら、数学や科学の理論を通して自然や宇宙の包括的な謎に迫ろうとしていくのと、登場人物ががらりと入れ替わった現代の同じ部屋で作家のHannah Jarvis (Leila Farzad)と文学教授のBernard Nightingale (Prasanna Puwanarajah)が、100年以上前、かつてこの部屋で起こっていたかもしれないことについて議論を重ねていく。

気が付くとゆっくりと回転していたりする円形の舞台には低めの棚が沢山とその上に積まれた本がいくつか。部屋の頭上には星雲のような円弧なのか原子の回転なのか、舞台と同期をとるように弧を描きながら瞬いていく光の球がある。棚のどこかには食パンくらいのサイズの亀がいて、この亀さんはどちらの時代にもいる(同じやつ?)。

1月にHempstead Theatreで見たStoppardの”Indian Ink”も過去のインドに生きた - 鮮烈に生きた英国人女性と80年代の英国を同じ舞台上に繋いで、時代を跨いで行ったり来たりする劇だった。歴史の縁に埋もれた女性の声を発掘する、ということと彼女たちがそこにいた、生きていたということを探偵のように掘り下げていくことで開かれていく我々の目、といういくつかの視点があり、それらを共時的な体験としてひとつの舞台の上に実現する – これって演劇の可能性のひとつだと思う。

19世紀の彼らは、田舎の小さな一室で幾何学や不可逆性やカオス理論、天文学の可能性や仮説について論じて、そんな夢のような理屈がこんなところでは実証できないことを知りながら、それでも語ったり議論したりしないわけにはいかない。現代の彼らはいま自分たちの住む家に出入りしていた痕跡のあるバイロン卿の謎めいた動き、その点と線を推理しながら、やはり同じところを同じように回り続けている。天と地、科学と人文、見つめる先もテーマも全く異なっているのだが、はじめからそこにある混沌に秩序と補助線を加えて見晴らしのよいアルカディアの庭園を目指そう、という思いは共通している。それが穴倉のような部屋のなかで100年以上の時を隔てて起こった、そこで起こる、瞬くかもしれなかった可能性に想いを馳せること。

19世紀の舞台と現代の舞台で、現代の方は登場人物が多いこともあってややじたばた落ち着きがなくて、両者が慌しく交錯する最後の方はもうちょっと整理してほしいと思ったが、この劇はこうなりました!という結末を提示するというよりも、とめどなく広がっていって止まらない思索のありよう、その可能性を示すものだと思うので、こんなふうでよかったのかも、と思った。舞台装置とか衣装とか、すべてのデザインが”Arcadia”!の方に向かって揃って纏まっているように見えたので。

こんなふうに自分の足下で過去に何が起こっていたのか、想像みるだけでも楽しくて、でもそれをするためには建物とか周辺の見晴らしがそれなりに残されている必要があって、英国ってそういうことができる土地でもあるよなーって。
うちのフラットのそばのテムズ川を見てるだけでも、なんか来るもの。


帰国まで1ヶ月を切ってしまったので、従来からのお買い物大会と見納め大作戦に加えて、しんどいばかりの箱詰め大会も始めないわけにはいかなくなった。ちまちま買い溜めてきたペンギンの古いの、Virginia Woolfの”Orlando”が3冊も出てきて、どれも1945年の版なのが笑えた。巷では3冊までなら許されると聞いたのでちょっと安心。

あと、備蓄食料の在庫一掃も始まっていて、これのルールはぜったいに賞味期限を見ないことなの。

3.03.2026

[log] Copenhagen - Feb 21 - 22

2月21日、22日の土日の1泊で、コペンハーゲンに行ってきたので、簡単な備忘を。

これの前、15日は日帰りでJersey島に行ったり、19日に日帰りでBrusselに行ったりして、どちらも雨でぐじゃぐじゃのひどい天気で、ジャージーの牛さんは見れなかったし、思うように動くことができなかった – そういうこともある(って思うしかない)。べつにいいの。

コペンハーゲンもデンマークも初めてで、街はやはり雪と氷で覆われて、冷たい霙みたいのが軽めに横殴りで運河は半分くらい凍っていたが、今はそういう季節なのでぜんぜん平気だもん、という顔で歩いていく、と氷の水たまりに…

Marmorkirken

フレデリック教会、大理石の教会で、刺さったり覆いかぶさってくるような荘厳さを訴える、というより、フレスコ画も壁の牛や鳥も、すべてが丸めで柔らかくそこに収まっていて、とても居心地がよい。凍える寒さのなかここに入ったらとても安心するのではないか。

Design Museum

日本のポスターと北斎の木版画展をやっていた。
60〜90年代くらいまでの、展覧会や万博、オリンピック、芝居から商業広告まで、知っているのも沢山あるのだがどれも刺激的で、目を惹かせて、次にちょっと立ち止まって考えさせる、ようなことを小賢しくこ憎らしくやっている。いまも日本の街にはクズのような宣伝広告がいっぱい溢れているが、こういうポスターが作られなくなったことと、「再開発」と称して街に醜悪な建物がずらずら並ぶようになったことはどこかで繋がっていると思っている。

北斎は彼のデザインがわかりやすく出て、いろんな線のありかがくっきりとわかる作品が多くあったような。でもデザインなら広重とかの方ではないか。

あと、日本刀の鍔のコレクションの量がすごくてびっくり。人を殺す刃物の部品があんなにいっぱいあるの? とか。

そしてこれ以外の常設展示は、布、家具、文具、陶器、有名な椅子コレクションまで、こんな? あんな? だらけの楽しい驚きがいっぱいで、デザインのコレクションをやるならこうこなくちゃ、の模範のような並べ方だった。ショップにも欲しいのがいっぱいあったが我慢した。

Rosenborg Slot

公園の池は凍っているのに鴨が何羽かいるその脇に建つ古めのお城。 これまで見てきた英国やヨーロッパのお城と比べてもはっきりしょぼめでガタがきていて寒そうなのだが、展示の仕方が工夫されていて次々となんだか飽きないのと、地下の宝物館でこれでもかって誇示される宝物財宝類のすごさにちょっとあきれた。

SMK – Statens Museum for Kunst

National Galleryなら必ず、どこにでも入ってみようのシリーズ。 クラシック絵画は割とふつう、フランス近代は何故かマティスが多め、北欧系はやはりハマースホイを始め、とても充実している。描かれる光の淡さ・深度が共通していることのおもしろさ。BrusselのRoyal Museumもそうだが、広々した二階建ての美術館が一番見やすいなー。

日曜日も同様にさらさら雪氷の横殴りだったが、Christiansborgの王宮に向かって、庭のキルケゴール先生の像にご挨拶して、地下の遺構からレセプションルームまでいろいろまわった。これまでに見てきた王宮と比べるとこぢんまり綺麗に纏まっていて、より現役っぽい印象。


Den Hirschsprungske Samling - Hirschsprung Collection

企画展示でやっていた”Hanna Hirsch Pauli – Kunsten at være fri - The Art of Being Freeがとてもよかった。

Hanna Hirsch Pauli (1864-1940) はスウェーデンの画家で、昼も夜も、人が集ったり人を待っている食卓の上の光の散りようが素敵で、肖像画は結構ムラがあるが目を離せなくする力がある。
ここのハマースホイの数点もよくて、男性の脇に描かれた白い椅子と同じ椅子が展示されて(というよりそのまま置いて)あったり。

あとは、展示系とは関係なくパンがどこでなにを食べてもすばらしくて、ここなら永遠に暮らしていける。Hartっていう、Noma系列のパン屋の穀物系のとかケシの粒のとか、いくら食べても飽きがこないの。

[film] Wuthering Heights

2月20日、金曜日の晩、Elvisの”EPiC”を見た後に続けてBFI IMAXで見ました。
 
原作はEmily Brontëの『嵐が丘』、監督、脚色は”Saltburn” (2023)のEmerald Fennell。

少し前まで、バレンタイン・デーの公開に向けた宣伝攻勢がすごくて、でもそれだけ見ると映画本編前にかかるChanel N°5 のアホみたいなCM - Margot Robbie が出ている - とほとんど同じようで、最後に主題歌 - Charli XCX ってでっかくでるところだけおおーってなったり。
 
小説の『嵐が丘』は良くも悪くもの雑多な謎、見晴らしの悪さ - というほどではない、どうとでも取ることができる茫洋とした粗さと暈しに溢れたガレージ道端雑草小説で、それは欲望なのか愛なのか、みたいなところをぐるぐるまわって果てることがない。そうなってしまった時のどうでもいいや好きにして、の自由なのか不自由なのか感覚はハワースまで行って、そこの台地でぼうぼうと四方八方から吹きつけてくる風を受けているときに感じて歪んでいく自分の五感の投げやりな喪失感に似ていて、でもその放棄の総体を愛と呼んでしまうことについてはそんなに違和感はない。
 
Cathy (Margot Robbie)の家に薄汚れたHeathcliff (Jacob Elordi) が貰われたんだか拾われたんだかやってきて、いつも綺麗につんとしている彼女と粗暴な雑種の彼はずっと一緒に遊んだりしているうちに離れられなくなっていくのだが、実家が傾いたのでCathyは近所の金持ちのところに嫁いでいって、Heathcliffはどこかに消えて、小綺麗な成金になって戻ってきて、Cathyのところに顔を見せるようになる。もともと望んだ結婚相手ではなかったCathyはHeathcliffを追いかけるのだが… というのを原作の語り手で裏でふたりの関係を操る家政婦のNelly (Hong Chau) を挟んで、ほうれ見たことか、みたいに描いていく。
 
CathyとHeathcliffの他に、HeathcliffとIsabella (Alison Oliver)のいけないお話しもサブで絡んで、でも物語としての底の知れなさや制御不能の業、これらの狂える嵐や暴風のどろどろを畳みかけるところまでは行かなくて、女子であればかっこよい衣装 - by Jacqueline Durran - で映える背景でキメたい、男子であればかっこよく変態してのしかかって見返してやりたい、ふたり共通の欲としてえんえんセックスに溺れて乱れてなにもかも忘れてしまいたい、これらを強い要請とかなしにパラパラ無駄なく並べていってIMAXの大画面で浴びていると何かを見た気になってしまうのかも知れない。けど後にはなんも残らなくて、それでよいのか。もっと不純で汚れていてもやもやした何かが残る、嵐が常駐して彼方に去っていかない、のが原作の魅力だったのではないか、とか。
 
不穏さと想像していた以上のちゃらい感じ、というのは”Saltburn”が割とそれに近い印象を残した作品だったので、ちょっと期待したのだったが、真ん中のふたりがあまりにふつうの美男美女できらきら余裕と自信がありすぎててそういうのが見えないのよね。見る方もなんか綺麗だからそれでいいか、になってしまう。で、そうなることで物語の舞台としての「嵐が丘」は殆ど意味を持たない、雨風を防ぐお屋敷かすべて筒抜けの廃墟 - セックスするための場所でしかなくなる、というー。 ポルノ映画のタイトルとしてあっておかしくない「嵐が丘 - もっと吹かせて」など。