1月7日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
がらんとしててチケットをチェックする人もいなかったのでそのまま入っちゃったけどよいのか?(ここ、昔からそんなかんじ)
3Dではなくて2Dでの上映、ドイツ語の原題は” Anselm – Das Rauschen der Zeit” – “The noise of time” - 「時間というノイズ」。
Anselm Kiefer (1945 - )の作品とその人のポートレートを同じ年に生まれたドイツ人であるWim Wendersが映像にする。ドキュメンタリー、というよりは戦争直後の瓦礫と焼け跡を背中に背負って生まれたアートとアーティストに関する省察、エッセイ、といった趣きが強い。同じく3Dで撮られた”Pina” (2011)の、彼女への愛に溢れたポートレートよりも、深く切実に自分の足元を見つめ直しているかんじがあるかも。
冒頭、ドレスを纏った頭のない女性たちの像が点々と立って並んでいる屋外の景色から、南仏の広いアトリエのなかを自転車で移動しながら作品を動かしたり作ったり – 火炎放射器で焼いて焦がして、横で水をかけて消火している – Kieferその人の「創作」風景が描かれる。
Kiefer本人だけではなく、彼の子供時代、青年時代も別の俳優を使って描かれたりするものの、彼自身の口から作品やアートについてストレートに語られることはない。作品を - 作品が置かれたり転がったりしているさまを、作品が置かれているランドスケープを見ろ、しかなくて、それが3D、6Kの解像度で示される。我々はすでにどうすることもできなくなった焼け跡や廃墟を見るようにその前にたつ。
ナチスが荒らし、壊して燃やして消尽しつくしぼろぼろにした人と世界、それを受けてなにができるのか、について例えばPaul CelanとMartin Heideggerの関係が、さらにPaul CelanとIngeborg Bachmannの関係が、おなじアートの領域ではJoseph Beuysの試みが紹介される。ナチスのありよう、彼らがやったことに対してのなんらかの距離を示し、その近さ遠さが測られ、それでもアートを「創る」なんてことが可能なのか、可能であるとしたらどんなふうに? 焼いちまえ – ごぉぉー。(2021年、Grand Palaisの展示、見たかったな)
Kiefer作品の掘っても削っても層をなした炭とか泥しか出てこなくて、それでもその上から引っかいたり燃やしたりするしかなくて、それ自体が墓場のように暗く塞がれた視界のなか、そこに置かれたかつて人間だったものの束や焦げ跡は果たしてなにを見るのか、見ようとするのか、という、そんな想定すらもぶち壊すただの黒く畝る塊りとして、ブラックホールのようにして、ただ打ち捨てられてある、その静かな強さ。
今世紀に入ってから随分見ていなかった気がするKieferの作品を久々に見て – というかWendersの目を通して見ることで、改めてこちらに来るものがあって圧倒される。ガザの焼野原の絶望を前に改めて彼が必要だと思ったし、環境系?のOlafur Eliassonなんてほんとどうでもいいわ、って思った。
あと、自国のアートや歴史にこれだけの目を向けることのできる彼が、異国で撮った”Perfect Days” (2023)となると、どうしてあんな甘くてしょうもないものを作ってしまうのだろうか、って。あんなトイレ、Kieferだったら跡形もなく燃やして終わり - 水もかけてやらないだろうにー。
1.12.2024
[film] Anselm (2023)
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