10.26.2023

[film] Killers of the Flower Moon (2023)

10月21日、土曜日の午前、Tohoシネマズ日本橋で見ました。IMAXの方がよかったのかもしれないが、Dolby Atmosのでよいことにした。3時間26分。

監督Martin Scorsese、原作はNew Yorker誌のライターだったDavid Grannによる2017年の同名のノンフィクション。 邦題は『花殺し月の殺人』でよかったのに。脚本はEric RothとScorseseの共同、音楽はRobbie Robertson – すばらしいったら。

冒頭、サイレント初期のフォーマットでオーセージ族が油田を掘りだして住民全員が裕福になって町が作られて、の図がさーっと描かれる。1910年代から20年代のお話し。

そこに第一次大戦から戻ってきたErnest Burkhart (Leonardo DiCaprio)が弟のByron (Scott Shepherd)と叔父のWilliam Hale (Robert De Niro)を頼ってオクラホマにやってくる。彼はオーセージ族が中心となってビジネスや政治やマネーを動かしているこの町でそれなりの地位と人脈を築いて土地と家も持っていて、Ernestに自分を”King”と呼んでよい、と言ってまずは運転手の仕事を与える。

この時代のオーセージ郡での大きなふたつの勢力 - オーセージ族と白人 – が支配しているコミュニティの断面と、その勢力図がどう変わっていったかをScorseseの得意とするギャング映画の手法 – 大ボスがどんなふうでどう動いたか、というよりその半端な手下や「ファミリー」がなにをしていって、結果どうなってしまったのか、を中心に描く。ギャング映画なので当然人を殺したり殺されたりが入ってくるのだが、それをはじめから犯罪として描くのではなく、ここに参加する全員が自分の属する組織の倫理や規律に従って動く、そういうかたちで自分たちの領域・領土を広げていっただけなのに、最後にはそれのなにが、どうして悪いのか? を問う法廷まで行って、最終的には国の罪とかありようを問う、というところまで。

この映画についていろんな人たちがすごい、って言っているのは、このような描き方をすることで、いまのアメリカの存立とかあり姿そのものを問うかたち – 本作では細かく描かれていないがここに立ちあがったFBIのミッションがどう関わっていたのか等も - になっていること、だろうか。長すぎるとか、視点が片方に寄りすぎているとかその深さ・粗さとか、いろいろあることはわかるものの、ネガティブなとこも含めて片側から盛れそうなものはぜんぶ盛って、最後に監督自身が喋って締める。いまこれだけの規模と濃度の、絵巻みたいな映画を作れる人はいるのか – で、その先はみんな大好物なScorseseのフィルモグラフィとの対比や解析へと―。

Kingは自分の領土となりそうな周囲を見渡してErnestにMollie Kyle (Lily Gladstone)はどうだ? ってはじめは柔らかく薦めて、彼女の母&姉妹が持っている膨大な土地(石油入り)の権益を - 自分の囲いに含めて持っていこうとする – もちろんそんなことストレートには言わない。ただわかっているよな、っていう言い方と、それを受けてバカ正直なErnestが眉間に皺を寄せてうんうん、って考えてがんばる。

やがてErnestとMollieはめでたく夫婦になって子供もできて、それと並行して彼女の家族 - 母、姉、妹、などが不審な死に方 - フクロウ! - をしたり明らかに殺されたりしていって、その理由や事情をErnestもMollieも、それぞれの「立場」にあるものとしてわかっているのだが、それがふたりの間に決定的な亀裂を生むようなことはない。なぜならふたりは愛しあっていたから、というのと、Mollieには糖尿病があって当時高価だったインスリンの投薬にちょっと細工すれば彼女を殺すのはたやすいことだったから(放っておいても..)。でもそれでもMollieがワシントンDCから捜査官のTom White (Jesse Plemons)を呼ぶと…

自分たち家族に入り込んだ白人たちの謀略を知っていても知らなくても、Mollieはおそらく自分の愛のために、自分が生き残るために別の白人の助けを必要としていることもぜんぶわかっていて、あらゆる裏工作をはねのけてその砲撃が炸裂してすべてをばらばらにする終盤の法廷シーン – 検事John Lithgowと弁護人Brendan Fraserの対決 – は見応えがある。合衆国に別の方角から異なる倫理が持ちこまれて新たな秩序 – というかカオス(by FBI)がぶちこまれ、戦いは次のステージへ(行っていない)… 流れる血の総量はおなじか? みたいな。

これの翌日に日本橋でNTLの『善き人』を見て、国も時代も規模も違うものの、ここでのErnestもKingも、”Good” - 「善き人」としてあろうとしたし、あの世界のあの世界ではそう認知されて幸せに暮らして、それをやりつつ扉の向こうでは民族の大虐殺に加担していた… そういう振るまいが「善き」とされていた、と。

グリーディでおしゃべりで愚鈍な白人、を演じさせた時のLeonardo DiCaprioってますます鉄板の無敵になってきたな、っていうのと、それに対峙するLily Gladstoneの身も心も座った強さとかっこよさと。

最後に献辞がでるRobbie Robertsonの音楽は原油のどろどろと上澄みの乖離と混濁を幾層にも重ねて、それをここ100年のスパンに花のように散らしているかのようだった。

Jack WhiteとかPete Yornも出ていたのね。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。