9月30日、土曜日の14:30のマチネーを、Hampstead theatreでみました。Swiss Cottageの駅前にこんなシアターがあったの。評判がよくておもしろそうだったので。
原作はアメリカのLauren Gunderson、演出はオーストラリアのAnna Ledwichで、キャスト4人は全て女性、この公演がワールドプレミアだそう。
ステージ上、がらんとしてなんもない床の上にはラップトップとスマホが2台づつ、投げられたように置かれていて、あとは大きめのディスプレイが一台。
システムエンジニアのMerril (MyAnna Buring)は、妹のAngie (Dakota Blue Richards)が突然失踪してから1年、放心状態になりがちだったが、Angieの残したPCとスマホにあったデータぜんぶをチャットボットに食べさせてバーチャルなAngieを作って、かつて一緒に過ごしていた時のような会話ができるくらいになっていた。会話をしているときのAngieはF wordを連発する元気いっぱいの荒っぽいビッチ系 – AIなのでそういうのも再現する - で、そうであればあるほどMerrilは彼女の不在を嘆いてべそをかいて、ずっと傍にいてくれたらなー、って強く思うようになって、いろんな相談をすればAngieは妹だったらこう言っただろう、というようなことを返してくれる。このAngieはもちろん自分がバーチャルなAIであることもわかっている。
そういう穴が開いた状態で、Merrilの別れたガールフレンドRaquel(Yolanda Kettle)や母Brin(Abigail Thaw)がやってきてバーチャルAngieとも会話をして、Angieを間に挟んだ彼女たちとAIのやりとりを通してみるとそんなものを作らなければやっていけなかったMerrilの弱さとか日々の辛さや疲れ – だからガールフレンドは出ていった – などが明らかになったりする。
そういうなかでAngieは自分はAIだからMerrilが食べさせて作ってくれた自分に関する過去のデータ以降の – つまり自分が失踪した後のデータも掘ろうと思えば掘れるよ、というので、やってみて、と頼んでみる、と。ここから先、ちょっとトーンがミステリーぽくなるのだが書かないほうがよいかも。
よくある自立(律)したAIが勝手に暴走して災厄や面倒をもたらして大変どうしよう… というお話しではなく、ある特定の人格を模したAIがAIであるが故にその本人とのギャップをどんなふうに認知して解消しようとするのか、それがそれを使う人に不幸をもたらすのだとしたらなんでなのかどんな要因によるものなのか、それってAIは人間ではないから、ということに尽きるのだろうが、では、その角度からみた人間っていったいどんなもんなのでしょうか(→人類学)。
AIは特定の、あるいはいくつかの目的を持って開発されたプログラムでしかないので、それがいなくなった人の穴を埋める癒しとして機能してくれればよいのか、それ以上のなにかを求めるのかによって動作(この場合は会話)は変わってくるはずなのだが、使う側はそんなに割り切って指令を出したりするわけではないし、その受け取りかたもAIが想定しているように一様ではない、その辺の – べつにふつうにあるはずの - 揺らぎがMerrilの疲れや孤独と絡まって増幅されてあんなことになっちゃうんだな、という模様はしんみりしょんぼりと理解できてよかったかも。よいこともあるけどわるいこともある。姉妹を演じたふたりの女優さん、押したり引いたりのコントラストがとてもよいと思った。
この部分、ドラマとしてもっと踏み込んでフランケンシュタインのようなホラーやじたばたコメディにすることもできたはずだが、あえて小さめのホームドラマ枠に踏みとどまった、のは賛否あるところかも。このテーマ設定で小津みたいなドラマをリメイクのようにやってみたらぜったいおもしろくなるよ。
いちおう、西海岸のAIの専門家に聞いて作ったりしてはいるようなので、やや類型的すぎるかもだけど、割と地続きのかんじはした。(少なくとも映画”her” (2013)にあったような違和感はない) 今の技術でできなさそうなところには踏みこんでいないような。
最近の仕事のほうだと猫も杓子もチャットボットで、みんないいかげんにしようよバカになっちゃうよ、なのだがそれくらいばかばかしい手仕事が多くてやってらんないということなんだな、ってしみじみしている。ほんとにさー(えんえん)。
10.06.2023
[theatre] Anthropology
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