1月29日、日曜日の午後、昨年8月の第一弾に続く上村彰子さん、鈴木喜之さんによるトークの第二弾。
今回はデビューから”Grotesque (After The Gramme)” (1980)あたりまでを中心に、そもそもThe Fall(Mark E. Smith)はどこから来たどういうバンド(ヒト)なのか、をこないだ出たマーク・フィッシャー『奇妙なものとぞっとするもの』とかアーサー・マッケンとか、ラヴクラフトなどを参照したりしつつ紹介していてとても勉強になった。
帰りにマーク・フィッシャーの本を買って帰ってざっと読む – 近年の小説・映画・音楽などの文化表象を「奇妙なもの」(The weird)と「ぞっとするもの」(The eerie)に分け、これらをフロイトの使うウンハイムリッヒ(unheimlich)- 再帰的な「不気味さ」からの退避・分離としてあるもの、って位置付けて分析をしていく体裁で、前半の「奇妙なもの」パートでThe Fallについては『「身体は触手だらけ」、グロテスクなものと奇妙なもの』というタイトルの1章が割かれている。 章のタイトルで言及されている通り、ほぼRough Tradeからの最初のアルバム - ”Grotesque (After The Gramme)”についての分析で、内容はそうなんだろうなー、くらいのものなのだが、でもMarkがこれ読んだらやはりてきとーぬかしてんじゃねえよ! って悪態つきまくることになるのでは、という予感が溢れてくるのが素敵。
英国の田舎の美しさ、ってそりゃあるのだろうし、いくらでも頷いて合意するけど、そういうのとは別に、奇妙なものもぞっとするものも路地の奥でも階段の隅でも歪な犬とか羊とかほんとうに湧いているようにいるしあるし、なんで? って聞いても、そういうのから逃れようとしてもしょうがないの。いるんだから。 その、いるんだから!! っていうありようのどうしようもなさときたらあんなふうにがうがう歌うしかないんだわ、って。
わたしがThe Fallを最初に聴いたのは、Rough Tradeが最初に徳間から紹介された時のオムニバス盤の”Clear Cut”に入っていた"City Hobgoblins"で、”Grotesque”にも入っていないシングルのB面なんてよく入れたもんだと思うけど、あの”Clear Cut”のなかではいちばんクリアじゃない1曲としてたまんないのだった。(ただ、曲順でいうとJosef KとOrange Juiceの間ってさあ..)
で、The Fallへのクラウトロックの影響、という話でThe MonksからMoebius - Conny Plank - Mayo Thompson の”Ludwig's Law” (1983)が流れて、そういえばMayo Thompsonって米国南部のHobgoblinsみたいのを追い続けていたねえ、と思って、そこからRed Crayolaと並行して彼が一時期いたPere Ubu(David Thomas)のことも思った。"City Hobgoblins"の歌詞でもユビュ王が言及されているし、どっちのバンドも中心人物以外めまぐるしくメンバーが変わっていくし、日本紹介も同期 - 同じ徳間のリリースにPere Ubuあった - し。 アルフレッド・ジャリえらい。
あと、トークの最初の方で言われていたBBCのドラマ - ”Mayflies”- 見れるかなー? と思ったら見れたので1話(全2話)だけ見た。Andrew O'Haganの同名小説 (2020)が原作。1986年のスコットランドで高校の仲良し5人組がもう中年の50近くになり、そのうちのひとりが癌で死期が近いのでバケットリストを作って仲間で親友の作家が実行しようとするのだが、そこにスイスに行って安楽死したい、っていうのがあって.. ところどころに高校時代の回想シーンが入って(映像のトーンも変わる)、冒頭にNew Orderの”Blue Monday”が流れて、The Skidsの”Into The Valley”がきて、ウェディングのシーンではCocteau Twinsの”Pearly-Dewdrops’ Drops”などが流れてたまんないのだが、The Fallについては、回想シーンで”Living Too Late”が流れるなか、マルクスがThe Fallに入ったらどのパートをやるのか? とか話しあったりしている(グロッケンシュピール? ベースじゃね?)とか、少しあとに“Totally Wired”も聞こえてくるのでThe Fall濃度つよい。
80年代のシーンで、高校の先生が主人公に向かって、この学校でEdith Sitwellのことを書いてくるのなんてあなただけよ、絶対にここを抜け出しなさい、そして二度と戻ってきてはいけない、って強く言うとこ。(トークのテーマに繋がる)
暗いお話なので(BBCこんなのよく師走に流したねえ)もう見るのやめようと思ったのだが、気になったので今日続きを見てしまった。 冒頭は高校時代の5人組がマンチェスターのハシエンダに行ってThe SmithsとNew Orderを見ようって冒険する話で(バックに流れるのはThe Wedding Presentの”You Should Always Keep In Touch With Your Friends”)、現在の方では安楽死の件を奥さんに黙ってスイス行きを進めたのでぐじゃぐじゃになるけど、最後にはなんとかスイスにたどり着くの。実行の日に彼が着ているシャツは Joy Division(黒じゃない、明るい色のUnknown Pleasureの)なの.. The Fallは最後の晩餐でも少しだけ..
ドラマとして悪くはないのでちゃんと書いたほうがよいかも、だけど見ていてかなしくてさー。
第三弾もやるしかない。
RIP Tom Verlaine..
あれこれもうほんとにかなしい。 自分にとっての大切なギタリストは、もうみんなしんじゃったわ..
(あとは、Vini Reillyくらい?)
最後に見たのは2005年、BAMでのPatti Smithの”Horses” 30周年記念ライブだったか。
でもやはり87年、よみうりホールでのソロ公演がとてつもなかった。生涯のベスト10にはいるくらい。
1.30.2023
[talk] 冬のPsykick Dancehall ~今年も聴きたいTHE FALL講座
1.27.2023
[film] Queen of Diamonds (1991)
1月14日、土曜日の晩、国立映画アーカイブのAFA特集で見ました。76分。
Nina Menkesさんが作、監督、撮影、編集(はTinka Menkesと共同)をほぼひとりでやっている。ドキュメンタリーではなく、かといってフィクションの明確なストーリーラインがあるわけでもない。
毒々しい赤のマニキュアの女性が、横たわる老人の世話をしている – ずっとほぼ突っ立っていて、彼女が一度だけFirdaus(アラビア語で”paradise”の意味)と呼ばれる、監督の妹で「主人公」 - というより画面に現れている時間が最も多いひと - Tinka Menkes。
なんの説明もなく – 説明する必要があろうか、という固定されて距離を置いた画面上に、彼女の日々の仕事というのか活動というのかが流れていく。モニタリングする監視カメラの映像のようでもあるが、それにしては撮られている彼女の態度からは無防備などうでもいい投げやり感が漂ってくる。言葉による説明も糾弾もなく、撮りたけりゃ撮れ、と。
どのシークエンスもそれなりの長い時間を使っていて、おそらく一番長いパートがFirdausがカード賭博のディーリングをする台のところに立って、客との間でカードを受け渡していくところ。よく映画で描かれるラスベガスの賭場の熱気と活気も愛想笑いもなく、いろんな欲望と妄想の時間がきれいに順番通り機械的に処理されていく、その機械のパーツとして、流れているチープなゲーム音の構成要素として彼女はそこにいるだけ。期待されているのも、求めるものもそれだけ。そうやって大量のトランプカードと共に潰されていく日々と時間と。 ダイヤのクイーン? それがどうした?
彼女のアパートの隣の部屋からは男性が女性を虐待する音や声がいつも響いていて、うんざりするのだが、そんなでも終盤にこのカップルは結婚式を挙げて、Firdausも隣人として招かれる。幾重ものヴェールと安っぽいお飾りとお化粧、それでも見えてしまう花嫁への虐待の痕、それでも宴を祝って笑っている人びと。
唐突に砂漠のなかで一本の椰子の木がぼうぼうに燃えているシーン。ここでも彼女は背を向けて立っている。こんな砂漠でなにができるというのか、勝手に燃えてろ、というその絵の強く残ること。
最後に彼女は誰かの車に乗って(乗せてもらって)砂漠から立ち去る。ここにも理由なんてない。
例えば、“The Florida Project” (2017)にいたあの子供たちが大きくなると、こんなふうになったりするのではないか。
フェミニズムもミソジニーもあるけど、80年代の虚飾を通過してグランジがぶち壊そうとした原風景がここにはある。2019年にリストアされたリアルな色味がすばらしいったら。
Scarecrow in a Garden of Cucumbers (1972)
1月17日、火曜日の晩に見ました。『きゅうり畑のかかし』 - たぶん卑猥な意味がある。
監督はRobert J. Kaplan、脚本はSandra Scoppettone。
ウォーホルのFactoryに出入りしてて”Trash” (1970)などにも出演していたトランスアイコン- Holly Woodlawn演じるEveが田舎からNYに出てきて巻きこまれる都会のあれこれを『オズの魔法使い』よろしく冒険ミュージカルふうにまとめてみた、楽しい1本。
Lou Reedの"Walk on the Wild Side" (1972)の冒頭 - ”Holly came from Miami, F-L-A
Hitchhiked her way across the USA” - にある”Holly”っていうのは彼女-Holly Woodlawnのことで、この映画でもハミングしながら通りを軽快に突っ切っていって後はしらない、って。
冒頭、家を出ていくEveを両親が散々心配して情感たっぷりに送り出してカメラが引いてみるとふたりとも下半身裸だったり、すべてがこの調子の一発ギャグ(狙い)ぽい珍奇なドタバタと共に転がっていく。
NYに到着してからは魔窟のようなチェルシーホテルに放り込まれ、こんなところじゃないちゃんとした住処(と仕事)を見つけようとするものの紹介されたり当たる人、行くところどいつもこいつも変態とか罠みたいのばっかしで、そういうのの輪がじんわり広がっていって果てがない。
当時のNYのアンダーグラウンドなんてこんなものだったのかも知れない、当時は or 関係者の間ではおもしろかったのかもしれない、にしても個々のエピソードはそんなにおもしろいものとも思えなくて、この辺は残念というほかない。コメディでもホラーでもどこかしら風化してしまうものってあるかー、と。
写真家でJohn Cassavetes作品のプロデューサーだったSam Shaw (1912-1999)がSpecial Still Photographer - 最後の方に出てくる素敵な写真たち - として関わっていて、アドバイスもしていたとか、まだ無名のBette Midlerが歌っていたり、Lily Tomlinのデビュー作(声だけ)だったり、NYのインディペンデントフィルムの走りとして、その熱とか風に触れる、くらいでよいのかもしれない。
ここから10年過ぎると、NYのイメージも“Variety” (1983)でBette Gordon/Kathy Ackerが描いたようによりダークにひりひりしてきて、やはりこっちの方かなー、って。
そういえば、ここのEve = Hollyも車で走り去っていく。 走り去れるのっていいなー。
1.26.2023
[film] Dream Horse (2020)
1月18日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマの有楽町で見ました。ウェールズも馬も好きだから。
実話ベースのドラマで、リアルのほうは“Dark Horse: The Incredible True Story of Dream Alliance” (2015)というドキュメンタリー(未見)となって、同年のサンダンスのドキュメンタリー部門でオーディエンスアワードを獲っている – タイトルはこっちのが素敵よね。
あまりぱっとしない、勝ち負けでいうと負け犬寄りの日々を送っている個性豊かな(やや面倒な)面々が集まったり寄せ集められたりして、いがみ合ったりぶつかったりしながらも渋々手を取り合っていくうちに熱中するようになり、最後には無敵になったり栄光を掴んだりしてみんなでよかったねえ、ってハグする - 英国のTVでも映画でもよくある人情ドラマ。英国民がそういうノリが好きなのだろうしその背景もなんとなくわかるし、くせえぞ、って思うもののしょうがねえな、ってやっぱり見て、何度もまたかよって思いつつじーんとしたりするのがくやしい。今回は動物が絡んでくるのでずるいし。
ウェールズの寂れた谷奥の町に暮らす主婦Yan (Toni Collette)は、夫のBrian (Owen Teale)のでっかいいびきとでっかい犬にベッドを奪われてどんより眠れない日々を過ごしている。昼間はスーパーのレジで、夜はパブでバーテンをしていて、両親はほぼ寝たきりなので世話をしたり、ため息ばかりの毎日で、でも過去には伝書鳩のコンクールで賞を獲ったこともあるので、またなんかやりたいな、って思い始めた頃に競走馬を育てて一攫千金、みたいな記事を見てこれやってみたいかも、と思って、パブに飲みにくる会計士で馬主経験があると聞いたHoward (Damian Lewis)に聞いてみるとそっけなく、ものすごくお金がかかるぞ、やればー、程度で切り捨てられる。
でもやっぱり諦めきれなくて、とにかく自費で引退した牝馬 - 安いから - を買って種付けして貰って、生まれてきたぴんぴんの仔馬を有名な調教師Philip Hobbs (Nicholas Farrell)の牧場に委託して、育てていく費用 - 年間£15,000は、町の有志を募って集めてみようって、チラシを配ってみたら、そこそこ町のいろんな連中が集まってきて、馬の名前もみんなで“Dream Alliance”だ! って決めて、最初はへっぽこに思われた馬も、だんだんに強くなってレース場も格上げされてでっかくなって、金持馬主をなぎ倒していくのでいけいけーってみんなで盛りあがって、よかったねえ、と。
これだけでは終わらないんだろうなー、って思っていると、やっぱりDream Allianceは障害レースの大舞台で致命傷のような大怪我を負ってしまう。本当に致命傷(腱が切れているとか)だったらその場で安楽死なのだが、そこはなんとか無事で、あとは治療してもどこまで回復できるかはわからん – でもPhilipからはもう以前のような活躍はできないと思うよ、って言われてしまう。
Yanにしてみればもう十分夢を見させてくれたのだから生きていてくれればそれだけで、だったのに、ある日Philipから連絡を受けて行ってみると、ものすごく元気に蹄をどかすかやっているDream Allianceがいてびっくりする。また走らせることもできるよ、というので共同馬主全員による審議になるのだが、Yanは前回の事故の時のような辛い思いはもうしたくない – ここで走らせてまた事故にあって彼を失うことになったら - って悩んで…
ここから先はいいよね。あまりにスポ根ドラマみたいなののフォーミュラにはまってしまうので、これほんとかよ、って思いつつも、それを支えているのが町の老いぼれ衆とかぽんこつだらけなのでなし崩しでやられてしまうかんじ。(ここ、日本の同系のだとぜったい若い美男美女 - だれあんた? みたいのが挟まってきてしらけるよね)
後半のYan = Toni Colletteの感情の上がり下がり – 固まっていたしかめっ面がそのままくしゃって泣き顔に崩れていくあれがいっぱいでたまんないのと、お馬のやつが「おれはやるよ」とか「行くぜ」とか「まかせろ」っていう目をこちらに投げてくるとそれだけでじーんて泣いちゃうようになっている – これはぜったい”Kentucky Pride” (1925)が植え付けたなにか - ので、全体としてはわるい映画なんてとても言えない。
でも欲を言えば、もうちょっとレース場面のカメラとか、めりめりと盛りあげることができたように思う – 例えば“Seabiscuit” (2003) とかにあったあのかんじ。
英国いきたいなー。
1.25.2023
[film] Night Tide (1961) +
1月14日、土曜日の午後、国立映画アーカイブのAFA特集で見ました。
作・監督はCurtis Harringtonで、数年前、Nicolas Winding Refnが自費でネガを買い取ってリストアした数本のうちのひとつ、MUBIで公開されていた時には見れていなかったのでうれしい。
サンタモニカに寄港した船員のJohnny Drake (Dennis Hopper)がすることもなくうろついて海辺のジャズクラブに立ち寄るとMora (Linda Lawson)という女性を見初めて近づいていく。彼女はCaptain Murdock (Gavin Muir)がやっている波止場の見世物小屋に半人半魚 - 人魚の恰好をして横たわって(陳列されて)いて、彼女の後見人であるというMurdockが幼い頃、ギリシャで彼女を拾って育てたのだ、と。
Johnnyは遊園地の上にあるMoraの部屋 – よい眺め - を訪ねたりして仲良くなっていくのだが、メリーゴーランドのとこにいる女性から彼女と過去付きあっていた男性が2人殺されているとか聞いて、自分も潜っているときにホースを切られたりして、なんだろう? と思っているとある日の見世物小屋にはMoraの亡骸が置かれていて…
最初の方でMoraにギリシャ語(字幕にでない)で話しかける魔女のような女性(Marjorie Cameron)がいたりするので、呪いの化け物ホラーになるかも、と期待していたら案外ふつうの種明かしがMurdockの説明でなされてしまうとこが – これ自体は結構グロテスクで悲惨だったりするのだが - 映像としてはちょっとつまんないかも、って。
タイトルは最後に引用されるE.A.Poeの最後の詩 – “Annabel Lee”の最後の節から来ていて、詩は船乗りと村娘の悲恋伝説をうたっているのだが、映画は結構あっさりクールに運んでいく。セイラ―服を着こんだDennis Hopperの演技もあるのかしら、そんなに暗くも怖くも哀しくもなさそうに見えてしまうところがなー。
この映画の周辺 - 最初にスクリプトを売ったRoger Cormanとか、Kenneth Anger - 彼の”Inauguration of the Pleasure Dome” (1954) にCurtis HarringtonとMarjorie Cameronが出ている - とかJean Cocteauの『詩人の血』(1930)に出ていたBarbetteがいたり、この時代の辺境アート人脈との関わりなどが興味深い。流れているJazzのうねりもそうだし。
Night and the City (1950)
1月15日、日曜日の夕方、国立映画アーカイブの同じ特集で見ました。
邦題は『街の野獣』で、米国リリース版が96分、英国リリース版が101分、今回上映された[pre-release version]が111分、だそう。バージョン間の異同についてはプリントで配られていたけど、そんなでも。
“The Naked City” (1947)で徹底した現場でのロケ撮影/犯罪ノワールの金字塔を打ちたてたJules Dassinが、Gerald Kershの同名小説を原作に、舞台をLondonに持ってきて同様のドラマを撮った - 実情としては彼の名がハリウッドの赤狩りのリストに載りそうだったので、彼を英国に送って英国でのドラマを撮らせた、と。この後、彼はヨーロッパで活動していくことになる。
ロンドンのごろつき詐欺師で威勢のよいHarry Fabian (Richard Widmark)は堅気の恋人Mary (Gene Tierney)をはらはらさせながらも金儲けのネタを探しているとき、レスリングの会場で、伝説のレスラーGregorius The Great (Stanislaus Zbyszko)が興行を仕切っている息子のKristo (Herbert Lom)に、おまえがやっているレスリングなんてうそっぱちだ、伝統的なグレコローマンが正しいし強いのだ、って親子喧嘩しているのを見て、Gregoriusににじり寄って焚き付け、一緒にKristoの連中をやっつけないか? って持ち掛けて、その反対側で闇社会のボスのPhil (Francis L. Sullivan)とその妻Helen (Googie Withers)にかけあって興行に必要な資金をひねり出そうとするのだが、興行する側もされる側(レスラー)もいろんな意地とか犬猿とかがあって、試合前にGregoriusとKristo側のThe Strangler (Mike Mazurki)がデスマッチしてGregoriusが死んじゃったり、PhilとHelenを仲違いさせたらPhilが絶望して自殺しちゃったり、なにを仕掛けてもFabianの想定通りにはいかずに結果的にこんがらがって恨みを買って、最後は£1000でFabian自身の首が狙われるようになってしまう。
こんなにひどく拗れて面倒なことになるなら最初からまじめに働けばいいのに.. って思うのだが、それができるのなら詐欺師なんかになるかよ、ていうFabianの怒りと絶望とやけくそが全面に炸裂して – でも暗く沈みこまずに吠える - 個々の犯罪とかその手口手法とかいろんな人間関係をなぎ倒してロンドンの路地裏とか川べりを突っ走っていく。よい人はMary以外ほぼいなくて - 彼女がなんでそこにいるのか不明なくらい - 悪漢が最後にすり抜ける爽快さも締めに正義がもたらされる安堵もなくて、霧のもやもやしか残らなくて、でもそれこそが、たぶん。
“The Naked City”がNew Yorkのダイナミックな空撮とそこで起こってしまった殺人を高いところから俯瞰しつつ高所から絞りこんでいくのに対して、こちらは薄暗い橋のたもとの高さでほぼ固定されたまま、運送屋同士が挨拶して今日も変わらねえなー、って言いあって、同じ挨拶で終わる。そんな都市の対照のおもしろさ。
これ、英国で撮られたアメリカ映画、ではあるが、50年代末〜60年代初のKitchen sink realismのドラマ - “Look Back in Anger” (1959)とか”Saturday Night and Sunday Morning” (1960)とか - に繋がっていきそうな閉塞感があるような気もした。
1.24.2023
[film] Manon (1949) +
1月12日の晩、シネマヴェーラの特集「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」で見ました。『情婦マノン』。
上映前に蓮實重彥氏のトークがついている。
人によってはそんなのあったりめーだ、だろうし、既に聞いた話もあるのだろうけど、このおじいさんのお話はなにを何度聞いても、話芸って呼べるくらいおもしろくてたまんない。
まずいきなり、2023年が始まって最大の謎はなんで自分がこのとても傑作とは思えないような半端な作品の前口上をしなければならないのか、などぶつぶつ言いだし、それでも中学生の頃、恵比寿にあったエビス本庄という映画館でルネ・クレールを始めとする洋画を見まくっていた時代(いいなー)にこの映画を見た、ということ、このぼろくて、でも忘れがたい映画館の思い出から、この同じ映画館の外で父親と一緒に出てくるのを待っていた人、というのが当時国立国会図書館の初代副館長だった中井正一氏で、氏を訪ねて小学五年生の蓮實少年が迎賓館(国会図書館はここにあった)の扉を叩いたとか、すごいなー、っていう夢のような昔話。
さて”Manon”。監督はHenri-Georges Clouzot、Abbé Prévostの小説 “Manon Lescaut” (1731)の舞台を第二次大戦下のヨーロッパに持ってきていて、ヴェネツィアで金獅子賞を受賞している。 「マノン」というとまずはKenneth MacMillanの振付によるバレエ、だったのでこのストーリー展開にはややびっくりしたかも。
冒頭、パレスチナ(イスラエル)に向かう貨物船にユダヤ人の難民家族たちが(おそらく闇で)大勢乗り込んでいて、そのうちそこの貨物室に潜りこんでいたRobert (Michel Auclair)とManon Lescaut (Cécile Aubry)のふたりが発見され、通報するから、って言われるのだがまずは自分たちの話を聞いてほしい、とRobertが語り始める。
戦時下のノルマンディーで、レジスタンスだったRobertはドイツ人相手に寝たって責められている情婦のManonを助けて解放直後のパリに移って、ふたりで一緒に堅気として生きようとするのだが、Manonは享楽的な暮らしを捨てられずにぐだぐだで、でもRobertも彼女を見切ることができなくて、彼女を裕福なアメリカ人と強引にくっつけようとしていた彼女の兄のLeon (Serge Reggiani)を殺してパリを発つ列車に乗ると、彼女もついてきた(列車のなかをかき分けていくシーンがすごい)、と。
身の上話を聞いた船長は、ユダヤ人が降りる時にお前らも行け、って黙ってリリースしてくれるのだが、ほんとうの地獄はここからで、砂漠の果てなき行軍とアラブ人部隊による容赦ない掃射が待っているのだった…
当時18歳のCécile AubryのManonはあまりファム・ファタールぽさはなくて、どちらかというとRobertのせっかちで単細胞な愚鈍さの方が目についた、というか、目につくつかないでいうと、当時の蓮實少年を興奮させたという彼女の左側の乳房の見える見えないのことが気になってしまったのはよくなかったかも。
とにかく、船→戦争(ノルマンディー)→栄華(パリ)→列車→船を降りる→徒歩地獄(砂漠)→あーめん、という目くるめく移動スペクタクルのなかにこの男女のドラマを織りこんでしまったのは、すごいと思いつつも、どうなのかしら、って。
La signora di tutti (1934)
1月14日、土曜日の昼に見ました。 邦題は『永遠のガビー』、英語題は“Everybody's Woman“。
Max Ophülsがイタリアで撮った作品。
冒頭、ホテルの一室でGaby Doriot (Isa Miranda)が倒れているのが発見され、ERに搬送された彼女の頭に全身麻酔の蓋いが上から覆いかぶさってくるところから回想が始まる。
Gabyはずっと男にもてもてで、学校の音楽教師は彼女に狂ってクビになり、地元の実業家Leonardo Nanni (Memo Benassi)の息子のRoberto (Friedrich Benfer)に声をかけられてパーティに参加してダンスするとふたりは簡単に恋におちて、Robertの母で車椅子生活のAlma (Tatyana Pavlova)もGabyを気に入ってお屋敷で一緒に暮し始めるのだが、Robertが旅行に出た隙に、今度はLeonardoが彼女を好きになってあちこち連れまわすようになり、ひとり残されたAlmaは悲惨な死に方をして(屋外の移動撮影から流れて階段から落っこちるとこまで、とてつもないテンション)、Leonardoはそんなの構わずGabyを連れてヨーロッパを旅するうち彼女は芸能界デビューして人気者になり、他方でLeonardoは遊んでんじゃねえ、って横領で告発されて、牢屋に入れられて出てきたら車に轢かれて、やっぱりRobertしかいないかも、って振り返ると彼はとうに自分の妹と一緒になっていて…
これが日本だったら『西鶴一代女』みたいになるのやろか、というくらい男に群がられてばかりで全体としては悲惨で、最後に残ったのは歌とチラシ(最後に輪転機が止まっておわる)だけ、みたいなお話なのだが、口説いたり拒んだりのねちねちした修羅場ぽいところをきれいに回避してカメラの動きと音楽をぐるぐる回し続けて、「みんなのGaby」の因果のありようを示してしまうところはすごいなー、って。
今週金曜日で終わってしまうこの特集、思っていたよりも全然見ることができなくて悲しい。特にMax Ophülsあたり。またいつかきっと。
1.23.2023
[film] Les dames du Bois de Boulogne (1945)
1月9日、休日の午後、恵比寿ガーデンシネマの「没後60 年 ジャン・コクトー映画祭」で見ました。
コクトーって実はちゃんと見ていなかったりする。邦題は『ブローニュの森の貴婦人たち』。
監督はRobert Bresson – 監督二作目、原作はディドロの小説-”Jacques le fataliste et son maître” (1796) -『運命論者ジャックとその主人』の一部、Jean Cocteauはダイアローグパートを担当している。
ドイツ占領下の暗いパリで、Hélène (Maria Casarès)とJean (Paul Bernard)はそれぞれ別で恋人をもっても可、という自由な恋人同士としてつき合っていたがJeanの方が冷めてきたように感じられたので、試しに別れを切り出してみると、少しは粘着してくるかと思ったのにあっさりOK、じゃあこれからは友人だね、って返されたのでショックを受けて、復讐してやれ、とめらめらする。
そこで場末のキャバレーで踊っていた若いAgnès (Élina Labourdette) - オペラ座で踊りたいという夢をもちながら抜けだせない – と彼女の母親に声をかけて、母親の借金を返済してブローニュの森の近くの綺麗なアパートに越させて、その上でJeanにAgnèsを非の打ち所のない御身分の貴婦人、として紹介する。
JeanはあっさりHélène の罠に嵌ってAgnèsの虜になり、Agnèsは自分が餌であることを知りながら面と向かって言い出すことはできず、もがけばもがくほどそれがJeanにはプラスに積みあがっていって彼はついに結婚まで言い出す。戸惑うAgnès にHélèneは式が終わるまで絶対自分の過去や境遇について話すなと、Jeanに対しては目一杯豪勢な結婚式を開くように扇いで持ちあげる。
式の当日、何かがおかしいと気づいた花嫁は事情を知ると昏倒して、Jeanにもすべてを明かしたHélèneは高笑いして去っていく…(あーあー)
愛の上っ面とそれを重ねて浮かびあがる本質を突きまくる台詞はどれもスムーズで洗練されているのだが、それでもこれはやはりRobert Bressonの映画、としか言いようのない冷徹さのなかで統御されていて、主人公たちは逃れられない運命(ストーリー)の列車に乗ってどうすることもできないまま彼岸に流されて途方に暮れて固まるしかないし、我々はそれを同様に凍りついて見ていることしかできないし。あのラストはちょっとだけ希望があるように見えるけど、それすら我々の身勝手な憶測と願望に過ぎないのかも、って。
お話だけを見れば『高慢と偏見』のフレンチ/ダーク版で、結婚式であんな取り返しのつかないことになる前にもう少しお話したりしなかったのかとか、Jeanがそんなことは初めからわかっていたのさ、って高笑いして去っていくとか、いろんなバリエーションの想像ができて楽しいかも。
Orphée (1950)
1月10日、火曜日の晩、同じジャン・コクトー映画祭で見ました。 『オルフェ』、というか、これってある世代にとっては”This Charming Man”の映画で、Jean Marais = This Charming Manになってしまっているやつ(← 思考停止)。
作・監督はJean Cocteauで、オルフェウス神話をベースとして“Le Sang d'un poète” (1932) - 『詩人の血』と今作と『オルフェの遺言』(1960)で3部作をなす、と言われるが、彼には戯曲の『オルフェ』(1925)もあったりするので、詩人/映画作家/表現者としてのCocteauがどうやって現実/非現実/夢などと渡りあって超越的な美や詩を導きだしてきたのか、神話はその補助線のようなもの、ととりあえず置いて、この周辺はそこまでとしたい。ここをちゃんとやろうとしたら論文になっちゃうから。
舞台は現代のパリで、売れっ子の詩人Orphée (Jean Marais)が詩人カフェでふんぞり返っているとThe Princess (María Casares)と売り出し中の新人Cégeste (Edouard Dermithe)が現れて、イキって暴れたこいつがバイクに轢かれて死んじゃうと、The Princessは病院に運ぶから、ってOrphéeを強引に車に乗せて廃墟のようなところに連れていって、おまじないをかけたらCégesteは生き返って鏡の向こうに消えてしまい、残されたOrphéeは運転手のHeurtebise (François Périer)に連れられて身重の妻Eurydice (Marie Déa)のいる自宅に戻って...
展開されるストーリーはこんなふうに極めて適当っぽい散文調で予測がつかなくて、車のラジオから流れてくる電波とか、Orphéeがゴム手袋をして鏡の向こうの冥界に渡ってThe Princess – Deathと恋におちるとか、現代と廃墟 - 冥界を行ったり来たりする旅を通して、最後に彼は「死」と結ばれようとするの。
ここでの「詩人」はアイドル歌手であっても構わない - こんな騒がしく野蛮な現代で、いったいどうやったら美とか詩とかは可能になるのか、を車とか鏡とかゴム手袋とか電波とかを散りばめて一見軽そうに、でも実は古典的に大真面目にどうだろうか? って問いて考えながら作った、ように思える。
CocteauにとってのOrphéeについては、例えばここにー:
https://www.criterion.com/current/posts/13-orpheus
これは夢そのものというより、どうやって夢を見出していくのか、その仕組みについての映画で、そこには自分の生き方や人生観が集約されているのだ、と。
Jean Maraisはブリリアントに愚かでかっこよいのだが、『ブローニュの森の貴婦人たち』から続けて見たMaría Casaresが更にすばらしくて、あの映画のHélèneがそのままあの後にここに現れたのかな、とか思った。
『オルフェの遺言』も見たいなー。
1.22.2023
[film] She Said (2022)
1月13日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川で見ました。
邦題は『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』。
原作本がそうだから、かも知れないが、この邦題は明らかにおかしいところがある。まず、「その名」は登場人物の間では最初から明らか – 「ハーベイ・ワインスタイン」であること、映画で暴かれるのは彼の名ではなくて彼をとりまいて事件を不可視にしていた「システム」であること、映画の主人公は暴こうとした女性記者2名なのだが、中心にいて強調されるべきは勇気ある告発をした”SHE”(ひとりひとり)- 「彼女が言った」- であること、などなど。ぐじゃぐじゃ言ってんじゃねーよ、かも知れないけど、ここをスキャンダラスな人目を惹くタイトルにすることで見えにくくなってしまうものがある。事態の本質に関わることだと思うから。
2019年に出たJodi KantorとMegan Twohey - ふたりの記者による同名ノンフィクション本が原作。
冒頭、アイルランドの海辺を散策している女性が映画撮影をしている現場にぶつかって、誘われたのかその現場で楽しく一緒に働くようになる。と、次のシーンは都会で、乱れた髪と服でこちらに向かって懸命に走ってくる彼女がいる。
明記はされないものの彼女が発端のひとりとなるRose McGowanで、彼女がHarvey Weinsteinから受けた性被害のことをJodi Kantor (Zoe Kazan)に相談する。その前段として2016年の大統領選時にトランプに対するセクハラの訴えが簡単に捻り潰された事実(あったあった)が描かれ、今回の件も余程うまく調べて固めてやらないと同様の「やってねえよ、証拠は?」で終わってしまうかに見えた。
でも周辺を探っていくと彼の悪業は業界の人間ならみんな知っていること、数もひとつやふたつではないことが見えてきて、なのになぜ表沙汰にならないかと言うと、被害者側が言ってもしょうがない状態にされてしまうのと、加害者側から実際に言えないように縛られてしまうのと、そんな構造的な問題が見えてきて、これをどうにかするには、説得しうるに足る具体的な数と名前を集めること、蓋をする仕掛け(があること)を明らかにすること、これらをでっかいスピーカーでわめき散らすしかない。
こうしてNY Times内にチームが作られ、JodiはMegan Twohey (Carey Mulligan)と組んで一緒にいろんな声を集めてまわることになって、彼女たちは自分たちの家庭や子供たち、産後鬱などをなんとかやりくりしながら、被害者の声を、Weinsteinの会社で財務や法務を見ていた連中から数字などを引き出していく - これが物語の殆ど - 簡単そうに見えていかに難しく個々の苦痛を伴うものであったか - で、その結果は2017年10月5日に記事として世に出た後、リアルに世界を変えた - と思う(個人の体感比)。
暴かれた事実は悲惨なもので、それをなかったことにしようとする手法は醜悪かつ鉄板で、でもその一式と一族郎党(システム)をなんとか表に引っ張りだそうとする彼女たちの意地と執念は(本人不在だからって夫の方に聞くのはひどいと思ったけど)やっぱりすごいので、そこを見るべし、なのと、彼女たちの上司のRebecca Corbett (Patricia Clarkson) - ひとり最終稿をチェックする、その穏やかな殺気 - や英国側の証人役で出てくるSamantha Mortonとか、ひたすらかっこいい女性映画になっていると思う。
他方で、やはりWeinsteinとその周辺の下衆で変態でどうしようもないかんじは十分に匂ってきて、そこは本を読め、なのかもしれないし、もう牢屋に入って出れなくなってるからいい、かも知れないけど、90年代にはあれだけにぎにぎ彼を持ち上げてバンザイしてきた業界の体質と責任 - あれはなんだったのか - を関係者の顔を出してきちんと掘り下げてほしかった。映画のなかで被害者からも指摘されるが、NY Timesだってそこに含まれていたし、亡霊はまだそこらじゅうにうようよしているはず。
被害の現場の重くて出口なしのホラーなかんじについては、小品だけど”The Assistant” (2019)ていう映画があって、日本でも公開されてほしい。
そして、やはり日本のことを考えてしまう。
直接の関係はないかも知れないが、ここ数年でコンプライアンス(含.自主規制)ホットラインや研修が用意されて整備されて、懲戒案件の数もずいぶん増えて、よくなったふうに見える。けどこれって風紀委員の数が増えて校則が厳しくなってそれに従っている(にっぽん人)、それだけのことで、仕事の厳しさは業後の呑みで解消とか、会社の上やクライアントばんざい主義の意識や体質を変えないとどうしようもなくて、これは(これも)虐めのサークルとかチェーンとなってお役所、メディアに学校、家庭まできれいに繋がり沁みわたっている。こんなの代理店や教育でどうなるもんでもないので、わたしはとっととこの国をでたい(えんえん)。
1.20.2023
[film] 日本原 牛と人の大地 (2022)
1月9日、成人の日?の午前、菊川のStrangerの特集『もう一度観たい! 2022年邦画セレクション』で見ました。これも地名(と国名)が入ったドキュメンタリーだわ。
冒頭は牛の出産シーンで、同じく冒頭に牛の出産がでてきたAndrea Arnoldのドキュメンタリー”Cow” (2021)を思い出した。世界のドキュメンタリーを見るようになると人、牛、馬、羊あたりの出産シーンのいろんなのがほんとに沢山でてくるので、道端で見かけても横で手助けくらいはできる気がする。
その牛の出産は逆子で難しいかも、と獣医が呼ばれて、でもなんとかなってかわいい子牛が生まれる。ここでの危なっかしくて、でもなんとかなるか? … なってよかった... という綱渡りだけどどうにか、という感覚が最後まで続いていく。
その牧場は岡山県北部の奈義町というところにあって、その牧場を50年くらいやっているのが映画の中心にいる内藤秀之さんとその一家で、この土地の近くには陸上自衛隊の「日本原演習場」がある。日露戦争の頃に(… あきれる)旧陸軍が買収し、敗戦後に占領軍が接収し、そのまま自衛隊が引き継いで、最近の軍国主義まっしぐらの中で無反省に強引に軍用地にされつつある中、内藤さんは医学生だった50年前、医学生から婿入りしてここにある牧場を継いで、たったひとりで戦う、というより地域のなかでいろいろやってきた。そのいろいろが原っぱのように広がっている – そんな日本原。
こうして牧場の活動 – 乳牛がいて、そこのおいしいと評判の「山の牛乳」のこと、牛乳を作る小さな町の工場、牛乳を一軒一軒配達していく人たち、耕作が認められている演習場内 - 昔は稲作地帯だった - での農業 – サツマイモ掘りとか農業を志してやってくる若者とか、内藤さんの一家とその周りにいる人々の姿を描く。地域のなか、日本原に駐留する自衛隊とその家族もいて、彼らとも敵対したり排除したりすることなく、一緒にやっていく。
もうひとつの軸として内藤さんの個人史も描かれる。学生運動に参加して警察の暴行により友人を失ったこと、その死を無駄にしないための活動、そもそもの基地問題に対する息の長い - 50年に渡る抵抗、不服従のありようが。
朴訥な、冷たくも温かくもない淡々としたナレーションは、虫を踏んでから外に出れなくなったという内藤さんの息子によるもので、字幕でもこんなこと/あんなことがあった、という説明が入る。そういう中で発せられる内藤さんの言葉や表情はすとんと嵌ってどこまでもわかりやすい。意外性を狙わず、主人公をきちんと中心に置いてこちら側と向き合えるようにしている。
そんな主人公の日々の暮らしと個人の歴史、その交点に家族があり取り巻くコミュニティがあり、それを生かして続けさせてきた牛や農業があって、というベースの地図をきちんと描こうという試みは成功していると思う。
なので、故に、ここの基地の問題の異様さが、素朴に、なんなのこれ? というかんじで浮きあがってくる。日米合同演習を理由に立ち入り禁止となってしまう農地を前に内藤さんの息子と自衛隊員の間で、全く成り立たない会話 - 「命令だから」しか応えることのできない自衛隊の人たち。国会前のデモでも、おそらく辺野古でも、前の戦争でも、同様の、権力側が差し向けてくる自分の頭で考えることのできない案山子のひとたち。
何万回以上の繰り返しの、なんで? なんのためにあれだけの軍事費増強とか基地とか、軍国ごっこが必要なの? いまの世界情勢とか地政とか脅威がどう、という議論以前に、なんでそこで暮らしている人たちとの間でちゃんとした対話や議論が為されないまま、多数派とか利権の陣地取りした政党がなし崩しで決めて実行できちゃうの? 江戸時代かよ、っていう60年代安保の頃から続いているあれらがひたすら気持ち悪い。ふつうに見渡したって、いまこの国に必要なのは戦地じゃなくて農地じゃないか、ばっかじゃないのか。
監督が岡山に来るきっかけとなった311対応にしても辺野古にしてもコロナにしてもぜんぶそう、これら圧倒的な不信に対抗する牛と畑と人は、昔からずっとここにこうしているんだよなめんな、っていう映画だった。
山の牛乳、飲んでみたかったな。日本の牛乳って、アメリカや英国のと比べるとほんとに薄いのよね。食中毒懸念があるのだろうが、もっとおいしいのがあるはず、とは思う。
エンディングはAndrea Arnoldの”Cow”とは違っていてほっとした。
1.19.2023
[film] Harlan County U.S.A. (1976)
1月8日、日曜日の夕方、国立映画アーカイブの特集『アカデミー・フィルム・アーカイブ映画コレクション』で見ました。アカデミー・フィルム・アーカイブ(AFA)っていうのは米国映画芸術科学アカデミーの映画保存機関、だそうで今回上映される23プログラム - 35本、見るしかないのがいっぱいなので見るけど、今作みたいな歴史的なドキュメンタリーは、もっといっぱいいろんなところで見れるようにならないか。
昔の映画関係でいうと、今MoMAでやっている(毎年やっている)”To Save and Project: The MoMA International Festival of Film Preservation”で紹介された復刻したてのぴかぴかの古典たちを時間ずれてもよいので、見たいよう。
ケンタッキー州ハーラン郡のDuke Power Company社が所有するブルックサイド鉱山で180人の炭鉱労働者と妻たちが賃金や労働環境の向上を求めストライキを起こす。始めの方でどんな労働環境なのかも描かれて、それは『わが谷は緑なりき』(1941) – この舞台はウェールズだけど – で知られるそれとそんなに変わっていないように見える(くらいひどい)。
製作・監督のBarbara Koppleはカメラマンと一緒に現地に乗りこんで、はじめはUMWA (United Mine Workers of America)の会長Tony Boyleを引きずり下ろすドキュメンタリーを作ろうとしていたらしいが、現地の様子を見てストの真っただ中にスタッフごと突っこんでいくことになる。
ストをする側 - 労働者やそのグループやその家族 - へのインタビューや彼らの歌って抵抗する姿、その反対側でスト破りをしようとする側の暴力性、相手の経営陣の嘘くささ/きな臭さをストレートに示す。というか、単にカメラに写されただけなのだろうが、車のなかで銃を隠したり銃を隠して車から降りてくる連中の目つき、仕草や歩き方が、いろんなやくざ映画で見てきたそれそのままのやばいかんじで撮影中も難癖つけられたり、逃げるか留まるか、引きつるしかない。そういうはらはらのおもしろさ - というべきではないかもだけど - に前のめりで巻きこまれてしまう。
そして、なので、これはストを決行する側も、撮っている側も含めて命がけの真剣な活動で、後半では人が殺されるし逮捕劇もあるし、それがこういう形で纏まって公開されてアカデミー賞まで獲ってしまったのだから、正しいことの追及は報われるのだと思いたい。
土地の名前が入ったドキュメンタリー、というと、アメリカならFrederick Wisemanの”In Jackson Heights” (2015)とか、“Monrovia, Indiana” (2018)とか日本だと「水俣」のシリーズとか『不知火海』(1975)は? 小川紳助の「三里塚」のシリーズ? 『鉄西区』は? 国名まで入ったのとなると、『ニッポン国 古屋敷村』(1982)とか。(まだありそう) 今作では”U.S.A.”って - 国という箍が入っていることがおそらく重要で、同じくアカデミー賞を獲っているLee Grantの“Down and Out in America” (1986) - 2020年4月にFilm ForumのVirtualでみた - も必見だと思う。
土地の固有名の件がひとつ、そしてここにあった炭鉱ものって、今作のなかでも各地からの連帯模様が描かれたり、英国の炭鉱ストのドキュメンタリーなんか、レコ屋に行くとストを讃えるフォトブックや連帯のステッカーを売っていたりするし、これが最後の奴隷労働なのか、というかんじもあるが、他にもサプライチェーンの端っこの物流とか廃棄産業とか、未だにいろんな様態のがあることはいろんなドキュメンタリーが曝しているし、今だって英国NHSがストをしているし、敵側も巧妙になって冷笑したり揶揄ったりのすごく卑怯で嫌な流れもいっぱい出てきたし。世界はちっともよくなっていかないねえ..(嘆)
バーバラ・ハマー初期作品集
1月5日、木曜日 - 仕事始めの日の夕方に見ました。Barbara Hammerの初期、といったってそもそも我々はBarbara Hammerのことをちゃんと知っているのか、というのはある。
上映されたのは短編/中編6本 - “Sisters!” (1973) 8分 - “Menses” (1974) 3分 - “Jane Brakhage” (1974) 10分 - “Superdyke” (1975) 17分 - “Double Strength” (1978) 15分 - “Audience” (1982) 33分。どれもおもしろいのだが、後半の3本は女性映画としても必修のやつではないか。
彼女が2019年に亡くなった後にCriterion Channelで小特集があったりして、その時に”Audience”などは見ていたことを思いだした。
映画が、アートが、世界の新しい(オルタナとかいう?)見方とか、見たことがないものを示してくれるものであるものだとしたら、彼女の作品群というのはまさにそういうもので、レズビアンやフェミニズムやクィアの視座がとらえた世界の断面とか局部とはこんなふうだ – 見ろ! - というのを50年前には実際どうだったのか、という点も含めて持ちこんだ。新しい道具・武器・装備のように、あるいはファンタジーのように。
こういうのって、どうせ見ないやつは拷問したって見ないだろうから、こっちで勝手に撮ったり見たりするから見るよ、でよいのだ - というのが”Audience”を見るとわかるし。
彼女の作品とかをワールドカップをやっているスタジアムのでっかいスクリーンに流してみて、なにが起こるのかを見たい。
1.18.2023
[film] Pattes blanches (1949) +
シネマヴェーラの特集『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』で見たのを3つ。
Pattes blanches (1949)
1月7日、土曜日の昼に見ました。『白い足』 - 英語題は”White Paws”。
監督はJean Grémillon。脚本にはJean Anouilhの名がある。 ロカルノ映画祭で特別賞 - Best Combination of Editing and Cinematography – を受賞している。
ブルターニュの(でも実際にそこでは撮っていないらしい)海辺のさびれた町の魚屋/宿屋/酒場の主人Jock (Fernand Ledoux)が町から愛人のOdette (Suzy Delair)を連れてきて囲おうとするが、丘の上の屋敷に住んでいて白いゲートルを巻いているので「白い足」って揶揄われている没落貴族のJulien (Paul Bernard)に惹かれていって、ここにJulienに憧れる酒場の娘Mimi (Arlette Thomas)とJulienを恨む腹違いの弟が絡んで、というどろどろの愛憎劇~惨劇に転がっていくの。
冒頭に男と女の乗った白い車がやってくるところはノワールで、そこから幻想の舞踏会とか馬とか崖とか藁火事とか、各登場人物の思いや妄想が好き勝手に過剰に暴走してめくるめくとしか言いようのない事態が燃え広がってなにをどうすることもできない。地元の新興有力者と没落貴族の対立という構図から遠く離れて情念が吹きまくる支離滅裂な痴話喧嘩になっていくので、映画としてこんなのよく成立するもんだな、と思うのだが、すさまじい磁場があって、目を離すことができないのはなんでだろうか。『曳き船』と同じように見終わって「…」って寒くなって甘酒とか欲しくなるやつ。
Donne-moi tes yeux (1943)
1月8日、日曜日の昼に見ました。『あなたの目になりたい』。原題を直訳すると”Give me your eyes”になるが、米国公開時のタイトルは”My Last Mistress” 。 作・監督・主演はSacha Guitry。
パリの展示サロンに友達とやってきたCatherine (Geneviève Guitry)にそこで出展しようとしていた彫刻家François (Sacha Guitry)が声をかけて、自分のアトリエに招き、Catherineの胸像を作りたいから、とアトリエに通ってもらいながら会うようになって、ふたりは実年齢だけでも30くらいの年の差があるのだが、そういうのを配慮しつつもFrançoisがCatherineを口説きおとしていく台詞の爆撃がおしゃれすぎて呆れる(そこらの性悪じじいが悪用できそうなレベルを遥かに超えてて)。
こうしてふたりは結婚の手前までいくのだが、だんだんFrançoisの挙動言動がいじわるで理不尽に感じられるようになっていって、ラウンジにディナーに行った時に歌っていたの歌手へのモーションにCatherineは耐えられなくなって、翌日のアトリエで別れを告げて出ていってしまうのだが..
ネタをばらすと、Françoisは黒内障(というのがあるのね。一過性のもの、ってWebにはあるけど)で目が見えなくなりつつあるのでわざとCatherineを遠ざけていた、ということでそれを知った彼女は…
夫婦(or それに近いところにある)男女はどんなふうにその溝を狭めようとするのか、或いは深めようとするのか、そのひとつの(断絶)バージョンが年末に見た『毒薬』(1951) で、もうひとつの(抱擁)バージョンが『あなたの目になりたい』なのだと思った。どちらもそのぎりぎりに危うい最悪のケースと最良(でもないか)のケースとして描いているが、実相は同じように脆くて儚い「それ」を真ん中にしてめちゃくちゃデリケートに(か好きなようにか)扱っていてたまんない。
この辺、マスキュリニティ云々の話とはちょっと違う気がしているのだがもう少し考えてみたい。
名前を見ればわかるようにSacha GuitryとGeneviève Guitryはこれが撮られた時は実の夫婦で、39年に結婚して49年に離婚している。『毒薬』が離婚後に撮られているというのはわかりやすすぎ…
(というか彼、結婚5回しているのな..)
とにかく、3月のシネマヴェーラの特集はぜんぶ行くしかない。
Caught (1943)
1月8日、↑のに続けて見ました。『魅せられて』。内容からするとどう見たって『囚われて』だと思うが。
監督はMax Ophüls、助監督にはRobert Aldrich、原作は米国の女性作家Libbie Blockの小説 - ”Wild Calendar”。もう何度も見ているやつだった。
お行儀学校を出てマネキンをしながらお金がほしーなー、とか呟いていたLeonora (Barbara Bel Geddes)は渋々出かけた船上パーティー(の手前)で噂の大金持ちSmith Ohlrig (Robert Ryan)と出会って、彼が彼女を車で送ってそれきりになると思われて、嫌なやつだったのでそれでよかったのに、担当精神科医にふっかけられたOhlrigが結婚くらいやってやらあ、と一方的にLeonoraに結婚するからって通告し、彼女は一躍玉の輿シンデレラになるのだが、その後のロングアイランドのお屋敷での結婚生活はご主人待機とお飾りメインの奴隷でしかなくて、嫌になった彼女は家を出てマンハッタンの下町の町医者のオフィスに仕事を見つけて素性を隠して一人暮らしを始める。(この辺『愛されちゃって、マフィア』(1988)にちょっと似ている)
町医者は産婦人科医のHoffman (Frank Ferguson)と小児科医のQuinada (James Mason)のふたりで、最初はバカにされていたLeonoraもがんばって勉強してとけこんでいくと、Quinadaの方からやっぱりプロポーズされて、でもそのとき、Leonoraのお腹にはOhlringの子が…
絵に描いたようなジェットコースター昼メロ展開が次々に押し寄せてきてたまんないし、ラストのオチなんて、幸せ..? ならいいけど… くらいなのだが、とにかくキャスト全員がものすごくうまいのでB級感を飛び越えてぴんとしたクラシックを見たかんじになってお得かも。
とにかくRobert RyanとJames Masonだよね。最後はふたりで殺し合うまでぐさぐさにやりあってほしかったのになー。(でも最初はJames Masonの方がお金持ち役の方だったって..)
1.17.2023
[film] The Pale Blue Eye (2022)
1月7日、土曜日の午後、シネマート新宿で見ました。『ほの蒼き瞳』。
Netflixでも見れるやつだが、こういう真冬に震えそうなのは映画館の暗闇に籠って見たい、と。
原作はLouis Bayardの同名のベストセラー小説 (2003)。監督はScott Cooper、撮影はMasanobu Takayanagi。
1830年、ハドソン川の上の方、凍えるウェストポイント士官学校の敷地内で士官候補生が膝を曲げた不自然な首つり状態で吊るされているのが見つかって、一見自殺のように見えたものの検屍してみたところ心臓がくり抜かれていて、こんな猟奇的なのを公に出すのはちょっとやばい、と判断した学校の上層部は半引退状態だった捜査官のAugustus Landor (Christian Bale)を呼いつけて陰で捜査を依頼する。
過去にダウンタウンのギャングの捕物でそれなりの実績はあるらしいものの、妻に先立たれて、更に一人娘がいなくなった痛み - 彼女の姿が彼の脳裏に何度も浮かぶ - を抱え、酒に溺れて粗っぽいし危なっかしいLandorはまずこの事件の異常性に悪魔崇拝の影を見てとるのだが、横から現れて協力を申し出てきた士官候補生のEdgar Allan Poe (Harry Melling) – 後のゴス詩人ね - は、これは詩人の仕業だ、という。
始めはなんだこいつ? っていう目でPoeを見ていたLandorも亡くなっていた学生の手の中に握られていた紙片の解読でPoeを認めて一緒に捜査をしていくようになり、世捨て人の骨相学者(Robert Duvall)と話したり、更に被害者の遺したノートの解読 – 推理ドラマっぽく見えるのはこの辺くらい – などを通して、ふたりは学校の軍医Daniel Marquis (Toby Jones)の一家 - 妻のJulia (Gillian Anderson)、息子でやはり士官候補生のArtemus (Harry Lawtey)、病弱な娘のLea (Lucy Boynton)に目をつけるものの、決定的な証拠を見つけられずにいると、Poeが夜道で襲われたり、陰部を切り取られた第二の殺人が起こったりして…
Poeがこれは詩人の仕業だ、と言ったあたりでざわっと広がった想像の翼があまり広がらずに割と凡庸なところに落ちてしまった – ああなってこうなって - そうだったのか、しかない - のはちょっと勿体なくて残念で、あの一家がもっと強力に邪悪に悪魔悪魔していたら、Poeがもっとひどいところに落ちて嵌っていたらー、と思っていたら最後のほうでもうひとひねりくらいあった。
後にゴスの創始者総本山となるPoeの若き日が士官学校にあって(実際に生徒だった)、ここでの彼の経験がのちの『大鴉』 - 寒いところにカラスがうじゃうじゃいる - とか『モルグ街の殺人』における「探偵」とか、劇中で読みあげられたり参照されたりの"The Tell-Tale Heart"とか"Lenore"における「悲恋」の創造につながったのだ、となったらおもしろかったか、というと思っていたほどおもしろくなかったかも。ちょっと薄っぺらいかも。
文学者(or 文学を志す人)が人心の闇や悪魔的なあれこれに通じているので自らそちらに寄ったり犯罪に手を染めて堕ちていく、のはまだわかるのだが、事件を解決したり犯人を暴いたり、というのは別のパワーが、というかそれをやるにはその人自身の暗部をそれなりに掘り下げないとー。ジョージ・スマイリーが二重スパイを探り当てるのを「わかる」のはなんでか、って。
謎解きの過程で出てくる記号とか兆しとか、明るくわかり易すぎて、故にそんなに怖くない – 心臓くり抜いているのにそんなに怖くない、ってだめではないか?
というか、怖いのでいくよ、っていうどろどろゴスの方向とオチ(動機、きっかけ)がうまく整合していないような(そりゃ怖いけど方角がちがう)。あれが真相であるのなら最後にとんでもない極悪の化け物に登場してもらって士官学校の全員虐殺、建物ごと大爆破、しかないのではないか。
あと、士官学校の制服の明るすぎる青色とか、頭にのっけている変てこな兜? ヘルメット?とか、実際のがああだったのかもしれないけど、やっぱしなんか滑稽でー。
そして画面はもっともっと暗く、奥でなにが起こっているのかわかんなくなるくらいに暗くもやもやした方でよかったのに。TV放映を意識したのだろうか。
谷に落ちたChristian Baleは蝙蝠に会ってBatmanになって、Poeはカラスに会って大鴉を、と。
キャストはなんかとっても贅沢で無駄遣いのような。Charlotte Gainsbourgがバーの女将をやってるだけとか、Gillian Andersonが狂っているだけとか。
1.16.2023
[theatre] National Theatre Live: Leopoldstadt (2022)
1月6日、金曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。『レオポルトシュタット』。
原作はTom Stoppardの2020年の戯曲、演出はPatrick Marber。ロンドンのWyndham's Theatreで上演されていたもの。(2020年のPreviewの際にロックダウンをくらっていたのを憶えている) 昨年、新国立劇場で上演された版は見ていない。
冒頭、古く黄ばんだ紙に書かれたふたつの家系図がクローズアップされて、暗闇のなかから1899年、ウィーンの旧いユダヤ人街 – レオポルトシュタットに暮らす工場主で割と裕福そうなヘルマン・メルツの家にやってきた親戚一同のクリスマスの集いの様子が浮かびあがる。照明は屋内の黄色、ヨーロッパの屋内のあの黄色で、隅の方は暗くてよく見えない – のなかに大家族が – 老人も大人も子供も – おそらく冒頭の家系図のどこかにいる人たちだと思われるがこの人はここのこれ、のような特定はなされず、そこに集まっている彼ら自身も、誰が誰なのか - 子供たちは勿論、すべてを把握している人はいないかのよう。
集まりは騒がしく、お菓子を切り分け、クリスマスツリーを飾り付け、大人と子供の間で聞いたり聞かれたりがあり、医師や数学者もいる大人たちは誰と誰との縁談をめぐる噂話 ~ あそこはユダヤ系の家か非ユダヤ系の家か、などが噴きだして、知らない家の集いに参加するとなにもかも混沌としてわけがわからないのと同じで、この段階ではストーリーも主人公(いるとしたら)も、ほぼなにも見えてこない。
そこから先、切り取られていく年は1900年 - 1924年 - 1938年 - 1955年と移っていって、どの年も同じような部屋の同じように薄黄色い照明のもとで展開される。不倫があったり屈辱的な差し押さえがあったり、戦争に向かう - 世間でナチスによる弾圧~ユダヤ人排斥が強まるにつれて、家族のなかでは明確に意識してこなかった/こなくて済んでいた「ユダヤ系」としての家のアイデンティティが大人たちを当惑させ、肉体的にも精神的にも追いつめ、苦しめていく。
非ユダヤ系(カトリックの家)と結婚したから、も経済的に成功して十分に裕福であることも逃げ道とか言い訳にはならないし、そもそもなぜユダヤ系が? という問いも意味をなさないまま、1938年、部屋の外ではクリスタルナハトの破壊音がずっと響いている。
最後の1955年は戦後で、集まった(冒頭のよりは小さい)家族を前に、家系図を見たり名前を思いだしたりしながらこの人は? とその消息を確認しようとするのだが、昔の人々については、うーんあれは確か..が多くて、1899年以降の人々になると「アウシュヴィッツ」-「ダッハウ」が連呼されていく。「アウシュヴィッツ」の一単語でしか語られる何かを持たない、誰かの父だったり母だったりした人たち。彼らが列をなす塊りのようにしてあって、あの史実の前には「ユダヤ人」と呼ばれていた人たち。それでも遺されていて喚起されるものもあって、あやとりの記憶、とか、掌の傷跡とか、この作品もそのようにしてあの薄暗い灯りのもと、掘りおこすように発見されたものなのだと思う。
雑誌「悲劇喜劇」の昨年11月号の特集『トム・ストッパードと人生』にトム・ストッパードによる『英国人になるまで』というエッセイが載っていて、ここには1914年に撮られた母の写真からチェコのユダヤ人 – トマーシュ・ストラウスレルとして生まれたトム・ストッパードが英国に移住して英国人として生きるようになるまでのことが書かれていて、1937年生まれの彼は1993年に遠縁と会って話をするまで自分が「完全にユダヤ人」であるとは思っていなかったと。「彼」を説明するほとんどの記憶が母が遺したメモや写真や伝聞から後付けで構成されたものであって、それが(おそらく)今作に繋がっていることが淡々と示されているのだが、劇そのものは個人的なノスタルジアや感傷から離れて、かといって歴史の悲劇に対する問題提起のように振りかぶったものでもなくて、あの時代に消えてしまった、でもレオポルトシュタットに確かにあった家族の肖像を絵画のように浮きあがらせているのだった。
映画化されそうな気もするけど、いったい誰が? Raúl Ruizとかが生きていたらなー
あと、自分が何人であること(or 右だの左だの)を問うような動きとか、SNSで特によく見るようになった気がするけど、その無邪気で幼稚な挙動が誰のどういう目的に寄与するものであるのか、意識しないと簡単に戦前と同じになるよね、すでにとっくに「彼ら」の妄想のなかではそうなっているのだろうけど..
1.15.2023
[film] 子猫をお願い (2001)
1月4日の夕方、ユーロスペースで見ました。4Kリマスター版で、2004年の日本公開時には異国にいて見ていなかったので初めて見た。
原題は”고양이를 부탁해”。英語題は”Take care of my cat”。
現在『猫たちのアパートメント』(2022) が公開中のチョン・ジェウン監督の長編デビュー作。
冒頭、埠頭のある町で高校生の仲良し5人組がはしゃいで重なりあい記念になるのかならないのか互いに写真を撮りあったりしている。世界中のどこでも見ることができる光景。
そこから少し時が過ぎて、社会に出てかつての絆で結ばれた友人同士ではなくなった5人がいる。 家業のサウナ屋を手伝いながらボランティアで脳性まひの男性の書く詩をタイプしているテヒ(ペ・ドゥナ)、祖父母と崩れそうな家に暮らしながらテキスタイルデザイナーになりたくて絵を描いたりしていて、でも職を見つけることもできずにこの先どうしたらよいのかわからずぽつんとしているジヨン(オク・チヨン)、コネで証券会社に入ってちょろいもんよ、って意気揚々なのだが実際にはお茶くみやコピー取りばかりでうんざり - で買い物系に突っ走るヘジュ(イ・ヨウォン)、得体の知れない露天商のようなことをやっている双子のピリュ(イ・ウンシル)とオンジョ(イ・ウンジュ)は心配になるくらいいつも朗らかだし、そんな5人の行く道も、特別なものとは思えない。
べつになんの誓いも約束もしたわけではないし、「社会に出る」ことで得られるもの失われるものあって当たり前だし、友達でもそうでなくてもずっとおなじ関係なんて維持できるわけがないし、誰もが革命を夢見たりせずにこんなもん、として日々をやり過ごしつつ、たまに思い出したように携帯で連絡を取りあって、そこでタイプされるデジタルの文字が画面に表示されて - チャットなんて密で即時なやつはまだないのでいちいちメールとなって空中を飛んでいく、そんな毎日。今ならきっとSNSが入ってくる。
そんなでも、テヒはちょっと元気がないジヨンのこととか、あんなに仲のよかったヘジュとジヨンが互いに避けあっているように見えるのが気になっていて、でもそんなことよりも自分の周りを見なよ、とかぐるぐる回っていく。
ジヨンはある日、挟まるようにそこにいた子猫を拾って、ティティと名づけて世話をするようになる。ここでも、子猫のケアよりまず自分のケアだろ、って言う人は言うのかもしれないが、そういう話 - 子猫の世話によってジヨンが変わるとか救われるとか - ではないの。
終わりの方で、ジヨンの住んでいたアパートが崩落して、祖父母がその下敷になって亡くなってしまうのだが、ジヨンは一切の供述を拒んで自ら刑務所に入ってしまう。変わっていく友人達の話と、消えていく家族の話と、現れた子猫の話と、てんでばらばらで、そこにロメールの教訓のようなものがあるかというとやはり全くなくて、これはただ流れていく、遷ろっていくひと塊の人々をとらえた作品 - 成瀬の『流れる』(1956) みたいなやつなのではないか。
あとは、こないだの『猫たちのアパートメント』(2022)にもあったような距離のとり方。取り壊される団地に取り残される猫たちを保護したり救ったり移したり、でも決して猫に寄り添ったり猫のためを思ったり、じゃない、変わりゆく景色にちらちら見え隠れする猫の背中と尻尾を追って、入ってきたら運ぶけど逃げるなら追わない、でもそばにいるからね、って。 だって少しだけかも知れないけど、一緒に遊んだりしたじゃん。
風景が、町が、ひとがそんなに変わらなければ、こんなことは起きなかった、こんなことにはならなかった - のかもしれない。けど、それは言ってもしょうがない、というのなら、わたしにできることはだな… ってだらだら町を徘徊していこうよ、野良猫みたいに/野良猫なんだし、って。
いやでも、本当のとこ、あの子猫がこいつらをなんとかせんと… って降りたったのだと思うわ。
そして、そんな子猫が街角に溢れかえっていて、”Take care of…” なんていうのからちょっと離れて「とにかく呑んで話そう」になってごろごろしてしまう不思議な世界がホン・サンス、なのではないだろうか。
1.13.2023
[film] César (1936) +
12月30日にシネマヴェーラの特集『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』で見ました。
作・監督はMarcel Pagnol。
Marcel Pagnolの書いたマルセイユ三部作 "Fanny Trilogy” - 一作目が”Marius” (1931): 監督はAlexander Korda、二作目が”Fanny” (1932): 監督はMarc Allégret、この二作は舞台用の戯曲として書かれ、最後の一篇となったこの”César”だけは最初から映画用の脚本として書かれたそう。
冒頭、死の床にあるHonoré Panisse (Charpin)が妻や子供たちに見守られて穏やかに亡くなろうとしていて、みんな悲しむのだが、やってきたお坊さんにそこにいる息子 - Césariotの本当の父はそこのバーのオーナーのCésarの息子のMariusなのだ、っていきなりそんなこと言われても - なことを言い残していってしまう。
Mariusはやくざ者で家を出て周囲の評判も悪くて幼馴染のFannyと一緒になって、という過去のあれこれをCésarとCésariotがひとつひとつ解していって、実はな.. みたいな真相が明らかになる。
あんたの本当の父ちゃんは、母ちゃんは、実の子は、これじゃなくてあれだった、いろいろ事情があって苦労かけてすまなかった... って捩れた糸がはらはらと戻ってよかったねえ、になるお話 - チラシにあった「昭和の喜劇人に多大な影響を与えた」というのがよくわかる。
ヌーヴェル・ヴァーグの人たちはこの捩れ~解しのマジック/方程式をてんでばらばらの偶然性とばくちのなかに溶かしこんで散らした - リベットとか? - ということでよいのかしら。
でもそんなことよりも、Alice Watersのレストラン”Chez Panisse”の名前はこの三部作のPanisse家から来た、というトリヴィアの方にびっくりした。
La poison (1951)
12月31日、シネマヴェーラで、今年見た最後の1本となった。
邦題は『毒薬』(他に『我慢ならない女』っていうのも出てくるけど、これはダメよねー)。英語題は”Poison”。
冒頭、監督のSacha Guitryが主演のMichel Simonを隣に座らせて本人に向けた献辞を記した本を手渡して、それだけではなくて他のキャストやスタッフもぜんぶカメラの前で紹介していって、そんなに心温まる映画なのかと思っているとなかなかとんでもないところに落ちる。
PaulとBlandineの夫婦は結婚して30年になり、でもここんとこずっと互いに憎みあっていいかげん死ねばいいのに、とか思ってて、アルコールに溺れる妻は薬局に殺鼠剤を買いに行って、夫は妻を殺しても無罪を勝ち取る方法を算段して、運命の晩、毒とナイフ対決の差し違えるような一瞬のあと、Blandineは倒れてなくなり、妻を殺したPaulの裁判になる。
裁判ではBlandineの方に殺意があったことが明らかになれば.. Paulのもんで、その辺を結構さくさく進めて無罪となったPaulは勝ったぞー! ってみんなに向かって吠えると村人衆は喝采して、彼はまるでヒーローみたいな扱いになってしまうのだった。
主人公たちの内面とか心の闇に踏みこまずに彼らの言ったことやったこと、その演技を追っていくとこうなっちゃうのよね、というのがタネも仕掛けもなく極めてストレートに晒されて非情で問答無用で、これって(いくら彼のために作ったとはいえ)Michel Simonひとりが突出したってだめで、やはり全体のDirectionなのよねー、って。 こういうとこも含めてSacha Guitryおそるべし。
Casque d'or (1952)
1月2日の昼間、シネマヴェーラで見ました。今年の2本め。
邦題は『肉体の冠』、直訳すると"Golden Helmet"だが、英語題も”Casque d'or”そのまま(なやつをBFIで見たよ)。
監督はJacques Becker、1898年に実際にパリの闇社会で起こった事件を元にしていると。
ブリリアントな金髪の巻きあがった髪をもつMarie (Simone Signoret)が大工のGeorges (Serge Reggiani)と出会ってときめいて、でも地元やくざに囲われていたMarieは動けなくて、因縁つけてきたちんぴらを喧嘩で刺し殺してしまったGeorgeはボスに気に入られて組に誘われるのだが、その申し出を拒否したので警察からも追われることになり、Marieと田舎に逃げるのだが..
ふたりが最初に出会うのが昼間の屋外のレストランだし、ふたりが逃避行して幸せなひと時を過ごす先も陽光あふれる田舎の家で、こういう話につきものの夜の、ノワールの雰囲気はあまりない。Marieの黄金の髪の毛が日の光と共に燃えあがる朝と昼のドラマで、彼女のずばらしい頭部をめぐる昼間の恋人たちと夜のやくざたちとの対決は、昼の方の男の首がとんでおわる。
Jean Renoirの“Partie de campagne” (1946) -『ピクニック』で助監督を務めたJacques Beckerは裏返しでこういうのを狙っていたのではないか。あと、この1952年は”Le carrosse d'or”-『黄金の馬車』もあって、とても眩しくすごい年だったに違いない。
まあとにかく、Simone Signoretの上半分の匂いたつとしか言いようがない肉と髪と服が絡みあって人間とは思えない質感とその震えとかがそこに現れるの、それを見るだけで、2000円のDior展よか断然お得でご利益たっぷりのように思われてー。
1.12.2023
[film] Remorques (1941) +
暮れから年初にかけて、毎年のベストを決める時に困るのが、記録にはあるけどどんな映画だったかよく思いだせないやつがあることで、そういう印象に残っていないのは無視したってよいのでは、というのもあるのだが、他方でふつうに物忘れがひどくなっていることも確かで、昔の映画を見ても始まってしばらくして、これ前に見たやつじゃん、となるケースが余りに多くて嫌になっているので、短くても見たやつはできるだけなんか書いておくことにしよう、と思ったの。
Remorques (1941)
12月27日、シネマヴェーラの特集『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』で見ました。
邦題は『曳き舟』 - 日本では劇場公開されていないの?
さっき(12日)のシネマヴェーラでの蓮實おじいさんのトークにもあったように、これはとてつもない傑作なんだからー。
英語題は”Stormy Waters”。監督はJean Grémillon。原作はRoger Vercelの小説で、脚色/ダイアログはJacques Prévert。
Jean Gabinがブルターニュの荒海で遭難した船を救助する曳き舟の船長をしていて、仲間の結婚式だというのに大嵐で救助の依頼が入って海に出ていかなければならなくて、彼の妻のMadeleine Renaud は夫のことが心配で海に出てほしくなくて体が弱っていて、でも彼は仕事と使命に燃えているのでお構いなしに出ていってしまう。
救助は成功したら報酬が出る方式で、その代金を払いたくない救助される側の船長はぎりぎりのところで綱をぶち切ってずるをして、救助された船員にはそんな卑怯な船長の夫から逃れようとしているMichèle Morganがいて、陸にあがった擦り切れた縄のように疲れたふたりは接近していくのだが..
嵐と大雨と救助現場の荒れっぷりも含めて全てが殺伐としてぐしゃぐしゃにしょっぱいのがこちらに向かって吹いてくるかんじで、その荒天が二組の夫婦関係にもどす黒くゴーストのように被さって救いがなくて真っ暗なのだが、最後はもうぜんぶぶっとばしちまえ、ぐらいのやけくそな嵐が問答無用にすばらしく、目を開けられない状態のままー。
Jean GabinとMichèle Morganのふたりが浜辺を歩いていくシーンの向こうに荷馬車がいて、なんかたまんなかった。
Agnès Vardaの漁師と妻たちのドキュメンタリーを思い出した。
Le crime de Monsieur Lange (1936)
12月29日にシネマヴェーラで見ました。35mm上映だった。邦題は『ランジュ氏の犯罪』。
作・監督はJean Renoir、脚色はJacques Prévert。
ベルギー国境付近の飲み屋/宿屋に男女が逃げてきて、警察もやってきて、いま来たばかりの男女を捜しているのが見え見えだったのだが、女性の方がこれからあたしがする話を聞いても警察に突き出す? やれるもんならどうぞ、って彼らのことを語り始める。
M. Lange (René Lefèvre)は小さな個人経営の雑誌社の社員として働きながら売れないコミックを描いたりしているのだが、そこの社長のBatala (Jules Berry)はセクハラ・パワハラ・詐欺まみれの最低な野郎で、そいつが列車事故で亡くなったので社員は会社をどうにか立て直すべく組合を作ってがんばって、Langeのカウボーイを描いたコミックもあたって、Batalaの愛人だったValentine (Florelle)とも近くなるのだが死んだと思っていたBatalaが突然戻ってきてむちゃくちゃをやろうとしているのを見たLangeは..
Batalaがすごく嫌なやつなのでざまーみろ、って思う反面、LangeもValentineもぜんぜんヒーローには見えない、更に堕ちていく予感たっぷりノワールの、無頼の暗さを背負って国境に向かっていくラストがすごい。彼らがあのまま”Natural Born Killers” (1994)みたいになったって驚かない。
Jean Renoir、おそるべしー、って。
Pleins feux sur l'assassin (1961)
同じく12月29日、↑のに続けて。邦題は『殺人者にスポットライト』、英語題は”Spotlight on a Murderer”。監督はGeorges Franju。劇中にGeorges Brassensの歌が流れる。
冒頭、お城のようなお屋敷で富豪の伯爵が苦しみながら床から身を起こして、鏡の裏の隠し扉のようなところの奥に自分の身をおさめて薬を飲んで扉を閉める。
伯爵がいなくなった知らせを受けた家族親族が館にやってきて、彼がどこに消えたのかはわからないがあの容態であれば間違いなくどこかで死んでる、でも遺体が見つからない場合は向こう5年間、遺産の相続は棚上げ、その間の税金等領地の維持費は支払うべし、って言われて、それならお屋敷観光ツアーでもやって賄うか、とアトラクション機材一式を持ち込んで始めるのだが、反対側で相続人たちがひとりまたひとりと消されていって..
これを自分も遺族のひとりである医学生のJean-Louis TrintignantとGFの女学生がふうむ、ってつんけん(内面はぜったい楽しみながら)謎解きをしていくの。
ミステリーの迷宮と推理、というよりは冒頭の困らせてやれ自殺から、転がって広がってどうなっちゃうんだろ? っていうどたばたの顛末を追っかけて楽しんでいくドラマ(Georges Franjuは気に入らなかったらしい)で、最近なんかそっくりなのを見たかも … そうだ”Glass Onion” だ。
最後に伯爵のじじいが実は生きてぜんぶ見ていた、にしたらおもしろかったのにな。それか呪いの館/チェンバーのどろぐしゃ惨劇ホラーにしてもよかった。
いったん切りますー
1.11.2023
[film] Yoyo (1965)
もう2023年になって10日を過ぎたし、そろそろ年明け後に見たやつのも書かねば、と思って。
1月1日の夕方、イメージフォーラムの特集『ピエール・エテックス レトロスペクティブ』で見ました。今年の映画はじめ。
2015年のフィルメックスで上映された時にも狂喜して見たものだったが、こんなの何回見たってよいので。 それにしても今現在、シネマヴェーラの『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』特集に加えてイメージフォーラムのこれがあって、恵比寿ではジャン・コクトーをやっている。ここにジャック・タチがあったらパーフェクトではないか(でもパーフェクトってなに?)と師走からずっとフランス映画ばかり見ている。(あとは大西洋の向こう側 - 米国から寄せてきた波、についても特集できるよね)
65年のカンヌに出品されていて、でも他のどんな映画にも似ていないようなところがある。脚本はPierre ÉtaixとJean-Claude Carrièreの共同。
1925年、お城のようなお屋敷に暮らす大富豪(Pierre Étaix)がいて、大勢の召使に囲まれてほぼぜんぶ自動だったり音(変なぶー音ばかり)が知らせてくれたりするピタゴラスイッチの世界なので日常のいろんなことにおいて喋って指示したりする必要も全くなくて、横にいる犬と一緒に悠然と暮らしていてなんの過不足もないの(いいなー)。この辺のサイレントの鮮やかな動きとトーキーのびっくり箱! のよいとこをミックスしたようないろんなモーション - Action speaks faster - が見ていてひたすら気持ちよい。
なのに富豪は、なにひとつ満たされているようにも見えなくて、特にかつて恋をしていたらしい女性の写真を見るときだけ悲しそうな顔になり、でもある日、邸宅の前にやってきたサーカスの一団に彼女を見つけたら、彼女の傍には男の子がいて、その子がYoyoで、どうも富豪と彼女との間にできた子らしいのだが、男の子はピエロの恰好をして既にピエロとしてできあがっていて(種としてのピエロ?)、しばらく屋敷で過ごした後に大きな象の牙に乗っかって母と一緒に遠ざかっていく – この辺、夢のようにすごい。
やがて大恐慌がきて、富豪のお屋敷からも人が消えてぼろぼろ綻んで荒れていき、富豪もひとり車に乗って旅に出るのだが、途中でサーカスの一団と合流すると、再会した彼女とYoyoと元富豪の3人で一緒に旅芸人をしていくことになる。
更に時は流れて戦後になって、大きくなったYoyo (Pierre Étaix)は独り立ちした芸人としてふつうにやっていて、もともとサバイブ能力はあるし、なんでもこなしてしまうサーカスの人なので実業家としてもばりばりのし上がっていって、元のお屋敷を買い取って再現しようとして..
既に失われて取り戻すことのできない過去を、取り戻すことができないが故にその愛と夢の跡に引き摺られて溺れて、実生活なんて仕事なんてどうでもよくなってしまうそんなありようをサーカスの、あるいはヨーヨーの弧を描いて戻ってくる軌跡と運動 - 空中ブランコも同様のそれだと思う - のなかに描く。前半は振られた先のヨーヨーのコマのゆらーんとした動きを追って、後半はコマを振り出す側の動きをコレオグラフして、どちらにしても生産的なあれではない、催眠術にかけたりかけられたりするようなやつで危険極まりないのだが、映画を見るのってヒトの繰り出すヨーヨーに幻惑されてぽーっとなる、そんなもんだとも思うし。
そしてこのYoyoのすばらしいのは、王の時代 ~ 大恐慌 ~ 戦争といった大きな時代の流れを俯瞰しながら、それでも大きく揺れて揺られて戻ってくる、手のひらに残る幼年期の夢のような儚い記憶、そのシルエットのなかに断固留まろうとする(でもシリアスにはならない)ところではないか。毎日ちまちま真面目に会社行ったりするのなんてばかばかしくてやってられなくなる、という点ではとっても危険なやつだと思うけど。
とにかくYoyo - Pierre Étaixの動きの、シルエットの見事さを追っていけばよいの。”A.I. Artificial Intelligence” (2001)に出てきたジゴロ - Jude Lawみたいにずっと停止しないで不滅で楽しませてくれるから。
1.10.2023
[film] Benediction (2021)
12月30日の午後、(久々の)BFI Playerで見ました。
作・監督はTerence Davies、英国のwar poet - 第一次大戦に従軍してその経験を元に詩を書いた詩人/そんな簡単なものではないと思うけど - として知られるSiegfried Sassoon (1886-1967)の評伝ドラマ。彼の生涯を時系列で追っていく、というよりは彼の詩や彼の周りにあった当時の文化 – 更にずっと彼の意識の裏を覆っていた戦場の悲惨 - を散りばめながら、若い頃と老いた頃を自在に交錯させて彼の「詩」のありようを掘り起こそうとする。
Terence Daviesの人物や家族、時代を切り取って像を形作るやりかた – “Distant Voices, Still Lives” (1988) - 『遠い声、静かな暮らし』などで描かれた「暮らし」がこちらはまったく存じないはずなのにそこにありありと見えるかんじ - が冴えわたっていて、この時代や本人のこと、彼の作品をよく知らなくてものめり込んで見ることができる。そういえば、前作”A Quiet Passion” (2016)のEmily Dickinsonもそうか。(と思いつつ、彼らの詩の内容を追って参照しながら見ることができたらなー、とは思う。後からでも)
冒頭、ロンドンのシアターでディアギレフ・バレエがストラヴィンスキーの『春の祭典』を客席から見ようとしているSiegfried Sassoon (Jack Lowden - 老いてからはPeter Capaldi)の一家がいて、彼の頭の中ではあの旋律が戦場の悲惨な光景に置き換わって脳裏に投影されていく。(ディアギレフ・バレエのロンドン公演が1911年だったとすると、Siegfried Sassoonはまだ従軍していないのだが..)
最初の従軍後に詩を発表して話題となった後、前線への復帰を拒否したら精神病院送りとなり、そこで出会った詩人Wilfred Owen (1893-1918) (Matthew Tennyson)と親交を深めるが彼はそこを出て前線に復帰したまま還らぬひととなって、その別れ - 彼をそのまま行かせて留めておけなかったこと - が生涯Sassoonの傷となる。
戦争が終わって病院を出た後は、戦後の好況に沸く - Bright Young Thingsの頃 – の若くいけいけな英国貴族社交界のど真ん中で、Oscar Wildeの傍らにいたRobbie Ross (Simon Russell Beale)を経由してホモセクシュアルの詩人としてIvor Novello (Jeremy Irvine)やStephen Tennant (Calam Lynch – 老いてからはAnton Lesser)と関係を持ったり、Edith Sitwell (Lia Williams)ともなんかあったり、そろそろ落ち着いたらどうか、って妻としてHester Gatty (Kate Phillips - 老いてからはGemma Jones)と一緒になったり、でもどれだけ愛や美や人を求めて替えていって彷徨っても、そういうことを許される恵まれた境遇にあっても、戦場の地獄絵図が繰り返しやってきて彼を苦しめる。
彼を苦しめていたのが具体的にどんなものだったのか、直截に語られることはなくて、でもそこにあったと思われる罪の意識も最後まで消えることはなくて、それはSassoonが若いJack Lowdenから老境のPeter Capaldiに移っても(両者の顔は頻繁にスイッチする)ずっと続いていく。 ”Benediction”というのはカトリックの聖餐式とか、宗教的な礼拝の最後の祈りのことなのだが、それは当時の「社交」とか各貴族たちのありようと生々しく繋がっていた同性間異性間の好き勝手な肉体関係などがどうなってどうした、とは離れたところでずっと捧げもののようにしてあって、唱えられていた。戦争というのはそうせざるを得ないくらい野蛮で残忍で、数篇の詩をふりかけたくらいでいったい何になるのか? っていうのと、でも他になにができるのか、っていう問いが。
もう3年も前になる(のか..)けど、ロンドンのNational Portrait Gallery で”Cecil Beaton’s Bright Young Things”という展示があって、2020年の3月12日にオープンして17日にCovid-19のロックダウンで(ほんの5日で)閉じてそれきりになってしまった - 展示構成やインスタレーションがCecil Beatonのスクラップブックそのもののようになっていて凝っていたのにしみじみ勿体なかった – やつがあって、そこにはStephen TennantやEdith Sitwellの肖像は勿論、Evelyn WaughやDaphne Du Maurierと並んでSassoonのもあった(あと、BeatonがHester Gattyを撮った肖像は有名)。この映画にCecil Beatonが出てきてもおかしくなかったのに、と思いつつあの煌びやかな展示の裏側にはこの映画のような闇が幾重にもあったのだろうな、って。
あとはJack Lowdenのぱりっと漲った物腰、落ち着きのすばらしいことときたら。彼を代表する一本となるであろう。昔だったらRupert Everettあたりがやったような役どころを見事に。
1.08.2023
[film] にわのすなば GARDEN SANDBOX (2022)
12月28日の夕方、ポレポレ東中野で見ました。
映画のプロデュースをしている多摩の方にあるキノコヤは、昨年の6月に(この映画にも出ている)遠山純生さんと上島春彦さんのトークイベント - とても勉強になった - で行って、あー『春原さんのうた』にでてきた場所だ、て思ったらこの映画にも出てくる(川口とのマルチバース設定)。
同じ監督による『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(2016)も公開時に見ておもしろかった、というか、映画が別の知らない世界に誘ってくれるものであるとしたらそれはこんな形で組み立てて示すことができるものなのか、という発見 - それは欧米の未知の土地を知るのとは異なるルートで - があって、ヴィレッジの上にヴィレッジがある、という建て付けは今作でも同じなのか、「にわ」という囲われた領地のなかに「すなば」という遊んでよい陣地が用意されている - “Sandbox”というのはITだと好きに設定を変えたりどんなことをやっても構わない環境のことで、映画の舞台となる土地 - 十函(とばこ) - 10 BOXES に呼応しているのだろうか。(地理に弱いのでこの地名が本当にあるのか念のため探してみた。なかった)
パンフレットの付録についてきたシナリオには『臨時雇いの娘(仮)』原案 山形育弘「relocate」とあって、タイトルが動き→ひと→場所、のように変わっていったことが伺えるのだが、それがすなばの、砂遊びの盛って運んで崩して、のえんえん終わらないかんじにうまくはまっている。
ストーリーはあってないようなあれで、主人公と思われるサカグチ(カワシママリノ)がタウン誌の編集をしているらしいタノ(柴田千紘)に映像作家として「十函愛」に溢れた作品を撮ってほしいと前世紀のようなことを言われて、別にそんな愛ないし映像作家でもないし、と思いながらキタガワ(新谷和輝)とかヨシノ(村上由規乃)とかアワヅ(西山真来)とかカノウ(佐伯美波)といった役割もキャラクターもぼんやりした - 誰一人ほんとうぽくない - 蜻蛉のような住民? なのかもわからない人達と会って、はあ - はあ ってあちこちに引っ張り回されて、最後は彼らが「フェス」とよぶところの路地ばたでの呑み会でダンスをしておわる。
どこから見ても怪しい中高年たち - 風祭ゆきとか、怪しい男(遠山純生)から受け取ったグミを噛んだら(ふつうそんなのぜったい噛まないだろ)みたいな場面もあるが、ほぼなにも起こらないし、なにも明らかにされない。そこは鋳物工場のある町らしいので古に十個作られた魔法の函 - 全部揃ったらなんかでてくる - あたりでもやってみればよいのに。ぜったいあの町のどこか - 川縁とか橋の下には死体が転がっていたり棄てられていたりする、そんな気配ばかりを映しだしていながらそういう冒険とか探索みたいのからみんな程遠い顔をしている。どいつもこいつも酔っぱらっているとしかー。
スクリューボールの巻き込まれ系でもなくて、上映後のトークで監督はジェリー・ルイスやジャック・タチのようにピンが転がっていく系のスラップスティックを志向した、と語っていた(ように思う)のだが、トークの相手の田村千穂さんはそういうのを横において否応なしに滲んでくる「悲しみ」について触れていて、うん、「悲しみ」は確かにあると思った。 主人公が真横を向いているメインのポスターは、正面から捕えるときっと泣いているように見えてしまうからではないか。
それはもう、こんな世界に疲れきってこんなのもうやだというあれなのか、そこを更に掘っていくと地図の外にはいけない/出れない、ということなのか、なにひとつ起こりそうにない平坦な時間軸のことなのか、なにをどうしても美、のようなもののから切り離されてある死体のようなかんじのことなのか、”Passion” (1982)のミリアム・ルーセルがもっていた「悲しみ」が吹いてくるかんじはすごくよくわかるので、まだぼーっと考えている。これ、女性と男性とでは受けとる印象が異なるのではないかしら。
もう一回見たほうがよいのかも。
1.06.2023
[film] Married to the Mob (1988)
12月29日の夕方、下高井戸シネマでの特集「70-80年代“ほぼ“アメリカ映画傑作選」ていうので見ました。
この特集では4本見たのだが、結構売り切れが出ていた。暮れでみんな暇だったのかもしれないけど、こういう従来のミニシアター系にもB/C級のジャンル区分にも引っかからないような小さめの作品てすごーくいっぱいあるので、歓迎したい。イギリス映画ならもっといっぱいあるよ。
邦題は『愛されちゃって、マフィア』。公開時は見ていなくて(邦題がイヤで)。監督はJonathan Demme。撮影はTak Fujimoto、音楽はDavid Byrne。
冒頭、Long Island鉄道の通勤の車内で鮮やかに暗殺仕事をこなすギャングの“Cucumber” Frank De Marco (Alec Baldwin)がいて、それをFBI捜査官のMike (Matthew Modine)のチームが追っかけている。そのなかでFrankのボスのTony “The Tiger” Russo (Dean Stockwell)を中心とした「ファミリー」の結束が示されるのだが、FrankはTonyの情婦をとったとらないでTonyにあっさり殺されて、いきなり未亡人となったTonyの妻Angela De Marco (Michelle Pfeiffer)と7歳の息子のJoey (Anthony J. Nici)は、もともとFrankとは別れたかったしギャングの妻たちとの近所付き合いにもうんざりしていたので母子でマンハッタンのLower Eastのぼろアパートに引っ越して、ヘアサロンで働きながら新たな人生に踏みだそうとする。
のだが、Frank殺しの容疑者としてAngelaをマークしていたMikeが同じアパートの住人としてAngelaに近づいて彼女とデートすることになったところ簡単に恋におちてしまい、そこにAngelaを自分のものにしようと内緒にしていた棲み処を簡単に探してあててきたTony一味が割りこんできて..
これ、Angelaからすれば過去のあれこれすべてを吹っ切って新しいスタートを切ろうとするスクリューボールの逆を行こうとしていて、Mikeからすれば思いもしていなかったギャングの世界に別の角度から足を踏み入れてしまうスクリューボールになってて、どちらにしてもやくざな夫との過去を全力で吹っ切ろうとする魅力的なAngelaを雑多な男たちが追っかけていくコメディで、終わりの方に向かって輝きを増していくMichelle Pfeifferのすばらしさについてはまったく異議なし。
同じLower Eastを舞台にした女性を描いたコメディだと、やはり”Desperately Seeking Susan” (1985) - 『マドンナのスーザンを探して』を思い起こして、これも金持ちだけど日々の生活にうんざりしていたRosanna Arquetteが別の人生に踏みだそうとしたらあれこれ巻きこまれて大変なことになる。ここで主人公を引っ掻き回す役だったMadonnaにあたるのは、最後に怒りをこめてぶちあがってくるTonyの妻のMercedes Ruehl、になるのかしら。
ひとつあるとしたら、Michelle Pfeifferがあんなに素敵なのだからぱりっとした女性映画として作ってくれたらよかったのにな。(”Desperately Seeking Susan”は女性映画なの)クライム・コメディにしてはちょっと弱いしなー。
音楽はNew Orderの”Bizarre Love Triangle”が跳ね回ってくれてたまんない。ピエロ役で一瞬出てくるChris Isaakのとかいろいろ。Jonathan Demmeの映画だなあー、という顔ぶれ。
エンドロールでは、本編で使われなかった端切れのようなクリップが沢山縒り合わされているのだが、そういうのがぶちまけられていてとってもおもしろいのが ↓
Melvin and Howard (1980)
12月27日の夕方、下高井戸シネマの同じ特集で見ました。 これもJonathan Demme作品で、Melvin Dummarの身に起こった実話に基づいていて、Bo Goldmanの脚本とMary Steenburgenの助演はオスカーを獲って、1980年のNYFFのオープニングを飾っている。 撮影はTak Fujimoto。ポスター上では”Melvin (and Howard)”と表記されていて、邦題は『メルビンとハワード』。
冒頭、中年男が絶叫しながらバイクで砂漠を疾走していて、逃げているわけでも追っているわけでもなさそうで、勝手に窪みにはまってぶっ飛ばされて倒れているところをトラックを運転していたMelvin Dummar (Paul Le Mat)が拾って自分の車に乗せてあげて、病院に行くのを拒否した男は、Melvinの作ったクリスマスソングと男のリクエストによる"Bye Bye Blackbird"を一緒に歌ったりして、帰り際に自分はHoward Hughes (Jason Robards)だ、と言うのだが、はいはい達者でなー、って別れる。
ここから先はほぼMelvinのお話となって、最初の妻のLynda (Mary Steenburgen)との、それが壊れた後、次の妻のBonnie (Pamela Reed)との、一応夢とか憧れへと向かう生活への道は追ってみるけど、うまくいかなくてもへっちゃらのでこぼこした日々を送って、それで十分だったのに、Howard Hughesが遺した遺産の分配を記したメモにMelvinの名前があって大騒ぎになり、偽造とか詐欺ではないかとかの裁判が始まって…
アメリカの中流よりやや下の「ふつー」の人々の世界をアンサンブルキャストが持ちあげる、というより転がっていく中途半端なエピソードが地面に殴り書きをして、その痕跡を辿っていくような。アルトマンほどわかりやすい、地に足のついた纏まりを見せてはいなくて、なにもかもがlowでrawでお呼びでない、それゆえのおもしろさと力強さが滲んでいて、Paul Thomas Andersonが好きだというのはよくわかる。彼の“Hard Eight” (1996)なんてとっても近くないか?
ここから例えば”The Silence of the Lambs” (1991)や”Philadelphia” (1993)に行けてしまった器用さがなんというか勿体なかった気がする。どっちも見てないけど..
1.05.2023
[film] Le carrosse d'or (1952)
12月26日、もう年末休みだったので曜日なんてどうでもよかった午後、シネマヴェーラの特集 - 『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』で見ました。
この特集については、いつ何を何回見たってぜんぜんよくて飽きのこないやつらで、配信でタダでいつでも見れるのもいっぱいあるのだろうけど、やはり映画館で見たい。いつ行ってもすごく混雑しているのでそれだけが嫌だけど。行き場のない老人たちの受け皿(掃除とかも自分たちにやらせる)としてのこういう名画座とか定期上映館って、商売になるんじゃないの?
邦題は『黄金の馬車』 - 英語題は”The Golden Coach”。 Jean Renoirのこの作品をトリュフォーは大好きで、自分の制作会社をこのタイトルから取った - ”Les Films du Carrosse”というのは有名。英語版、フランス語版、イタリア語版があるらしいのだが、上映されたのは英語版。最初に見たのは日本初公開時 - 1991年(おいおい)の日比谷シャンテ・シネで、その後に米国でも見て、何回見ても御利益ありそうだし、でも見るたびにそんな御利益はないやつかもしれんがやっぱりたまんなく好きだなー になる。
原作はメリメの1829年の戯曲 – “Le Carrosse du Saint-Sacrement” (The Coach of the Blessed Sacrament) - 『サン・サクルマンの4輪馬車』というタイトルで昔に翻訳が出ているらしい。
18世紀のペルーの僻地に町の総督(Duncan Lamont)が購入した黄金の馬車と、イタリアからきた旅回り劇団の一行が同じ船で到着して、そこにあった古い劇場を手直しして興行を始めると、一座のCamilla (Anna Magnani)に人気闘牛士のRamon (Riccardo Rioli)が惚れて自ら客を呼び込んで、評判を聞いた総督は宮殿で芝居をやらせると彼もやはり彼女にやられて、彼女が黄金の馬車をほしい(そこで寝泊まりしていたし)というので彼女にあげる(公金で買うつもりだったけど自腹で買うから文句いうな)と言って、それらを横で見ていた求婚者のFelipe (Paul Campbell)は呆れて軍隊に志願して出ていってしまう。スター(Ramon)、政治家(総督)、昔馴染み(Felipe)のそれぞれにCamillaの求めるものは違っていて、でも彼女はふつうに全部ほしいわと望み、でもそのために殺し合いとか見栄の張り合いをするのはバカみたい、って最後は宗教家である司教(Jean Debucourt) - 当時は最高権力者である、と冒頭に説明がある – に登場してもらって万事丸くおさめる。
ずっと役者として旅をしながら役と自分の両方を生きてきたCamillaにとって、世界は常に自分のものである必要があったし自分のほしいものは世界が与えてくれて当然なのだし、そんな底抜けにおおらかな彼女に世界が惚れちゃって大騒ぎ、っていうどたばたコメディで、これはそこらのrom-comとかよりもスケールがでっかく、ヴィヴァルディのお囃子に乗ってあらゆる欲望と恋とキャラクターが日蝕とか月蝕のように幸福な一致を見ようと連なっていく、夢のようなお話。 それ自体が劇中劇のようなシェイプをもって、Anna Magnaniは太陽とか月のようにすばらしい! ということで異議なしなの。
The River (1951)
1月3日、お正月のうちに見たほうがよいな、って。 これもJean Renoirによるカラー作品で、↑のと同じく撮影はClaude Renoir。『黄金の馬車』とこれの色使いとか構図ときたら、パパRenoirのそれを軽く凌いでいてすごいったらない。原作は女性作家Rumer Goddenによる同名小説 (1946)で、Renoirのアメリカ時代最後の作品となった。
インドのベンガル地方、ガンジス河流域に暮らす裕福めの英国人一家 - 父母娘たちに息子と、隣家にやってきた戦争帰りで片脚を引きずっているCaptain John (Thomas E. Breen)との間の淡い恋 - 恋に憧れた恋の駆け引きと後景に広がる誕生とか死とか。 この後に造られる『黄金の馬車』が人のあらゆる欲望の絵巻を天幕いっぱいに描いてみせたのと同じように(その前段として)、生と死のでっかく揺るがないありようを白い粉の曼陀羅として描いてみせて、それは単なるcoming-of-ageの物語を越えてびくともしないスケールを保つ。信じらんない(by 語り手の女の子)。
なんでこんなに軽い子供たちの遊戯のようなやり取りが宇宙的な広がりを見せる生とか労働とか歴史とか神とか死のドラマに - それらに直に言及することなく絵柄としてパッチワークできてしまうのか、笛の音にやられたコブラの気分になってどうしようもない。お手あげ。
『ヌーヴェル・ヴァーグ前夜』 - 新しい波がやってくる前、例えばこれだけの世界像だのでっかい物語だのが、ペルーだのインドだのを舞台に、すでにどーんとあった、と。それは印象派がそれまでの絵画に対してやったようなことと同じなのか違うのか? - もちろん違う、どんなふうに? というのがいっぱい並べられていて、ゴダール追悼どころじゃない騒ぎだよこの特集は。
1.04.2023
[film] Tár (2022)
12月24日、クリスマスイヴの晩、米国のYouTubeで見ました。
脚本・監督はTodd Field。158分。日本では5月公開らしいけど、しょうもない邦題が付きそうだな。原題だけで十分かきたてられてよいのに。
冒頭、アイマスクをして飛行機内で横になっている女性を誰かがスマホのカメラで隠し撮りしてSNSにアップしている。
撮られていたのは女性指揮者のLydia Tár (Cate Blanchett)で、指揮をする姿はとんでもなく神々しく - なにしろCateさまなのでここを見るだけでじゅうぶん元とれる - 彼女はバーンスタインの弟子で、グラミーを始めあらゆる賞やアワードを総なめして、ベルリン・フィルの初の女性指揮者となってドイツ・グラモフォンでマーラーの交響曲全集の録音を終えようとしていて - 最後の交響曲第5番をやっつけるためにニューヨークからベルリンの拠点に向かおうとしている。
最初のほうは同僚指揮者のElliot Kaplan (Mark Strong)とのオーケストラ内部の人事を巡るやりとりとか、the New Yorker Festival(たぶん)でのNew Yorker誌のAdam Gopnik (本人)との公開の対話とか、音楽大学でのレクチャー/ワークショップでの片意地はった生意気な男子学生を粉砕したりとか、彼女の指揮者としての学究/経営両面での辣腕無敵ぶりが描かれる。
舞台がベルリンに移ると彼女はパートナーでコンサートマスターのSharon (Nina Hoss)と暮らしてて、一人娘のPetraを学校に送り迎えし、病弱なSharonの面倒をみたり、Petraを虐めている子を裏でそっと恫喝したり、オーケストラの人事関係ではいまいち気にくわなかったおじさんを追いだし、オーディションに来た若いOlga (Sophie Kauer)を少しだけ贔屓したりしていると、かつての教え子が自殺し、彼女の遺したメールからあることないことの誹謗中傷が広がり始め、ある域を越えた、と思ったらともはやどうすることもできない形で彼女の思考や態度を縛り、同時に周囲の彼女を見る目を変容させていく。 曲の途中まで来てどうタクトをどう振ってももはやどうすることもできない。
これらをヨーロッパのクラシック音楽業界のどまんなかで伝統の名の下に数世紀に渡って行われてきたかもしれない過酷な専制や強制 - もちろんそれは映画でも演劇でもスポーツでも「業界」が必要となる場所では起こりうる - と絡めて描きだす。 それは、#MeToo で起こったような被害者からの勇気ある告発、というスタイルを取るのではなく、当事者であるLydia Tárが思いもよらなかったような穴に落ちて嵌ってどうして? になるまでの恐怖 - その速度と反駁しようのなさ - として描いて所謂「キャンセルカルチャー」まで一直線に進んで容赦ない。
この程度のことなら昔からあったし、も、そうは言ってもすばらしい業績を出せているし、も、「本当は」とてもよい人なのに、も通用しない。彼女が女性だったからこんなことに、は考慮されるべきだとは思うけど考慮しないやつは(わざと、ぜったい)しないので、結局彼女はあれよあれよと地獄に堕ちていく - その残酷な様をドキュメンタリーのように冷たく凍ったトーンで描いていく。
今はこういう時代なのだから表現したり監督したり統括したりする立場の人は余程注意しないと - 見事な緊張感で一気に見せてくれる今作で、なんかなーって物足りなくなってしまうところかあるとしたらこの辺りで、この程度の教訓ネタであれば日々のSNSにいくらでも転がっているし。
そういう表現者の魔や闇、そのヒビや亀裂を引き起こしたり呼び覚ましたりするような悪魔的なスキャンダラスな何かが古典の再現や創作行為にはそもそもつきもののようにあるもので、そういうのに取り憑かれたり操られたりしておかしくなってしまう行為とか人格とか - “The Shining” (1980)に出てくるようなあれ - をあぶり出してくれるようなやつを見たかったかも。
それを言ったら/やったらだめじゃん、なものって肯定/否定以前に昔から否応なくそこらに転がっていて、人はそういうのに吸い寄せられてしまいがちで、そのだめだめな業のようなものを晒していくのと、現代における加害/被害のありようの話は別のものとして出していくことができるはず。
でも、それにしても、”Carol” (2015)がそうだったようにどこかに堕ちていく(堕ちる、が適切でないのなら流れ靡いていく)ことに理性との間で葛藤し、震え、抗っている生を演じるときのCate Blanchettさまはとんでもない。鉄面とその裏側のあいだでなすすべもなく引き裂かれていく自我をよくもあそこまで表に出して「演じる」ことができるものだなー、って。
あと、クラシック音楽の知識があったらもっと楽しめたにちがいないー。
1.03.2023
[film] ケイコ 目を澄ませて (2022)
12月19日、月曜日の夕方、テアトル新宿で見ました。英語題は”Small, Slow But Steady”。
監督は三宅唱、原案はケイコのモデルとなった小笠原恵子さんの『負けないで!』(2011)。16mmによる撮影(月永雄太)も照明も音響もすばらしくきちんとオーケストレートされていて、目と耳に触れて入ってくるものすべてがたまんない密度とタイム感で迫ってくる。
耳を澄ませる、はよく聞く気がするけど「目を澄ませる」はあまり聞かない気がして、でも目を澄ませるというのはどういうことなのか、がこの映画が拾いあげる微細な紙の擦れる音やジムで人とマット、人とグローブがたてる規則的な音たち - 主人公にはそのほとんどが聞こえていないはず - を通して「見えてくる」。映画のなかの主人公が受けとる世界とそれを画面から受けとる我々の感覚の差異やズレを表に出すことでケイコが見つめる鏡の向こう側にいるような感覚がやってくる。
それはサイレント映画を見る時の逆の感覚 - サイレントの場合、映画のなかで起こっている音はこちらに聞こえてこない - のようでもあって、ここにはサイレント映画を見る時の「向こう側」への没入感もはっきりとある。ケイコが手話で会話するシーンには黒画面白抜きの字幕が入るし。(でも字幕が縦、っていうのは意図したのだろうか? タイトルも縦書きだし)
ケイコ(岸井ゆきの)は耳が聞こえなくて、ジムの会長(三浦友和)が言うようにそれはハンディにはならない - ケイコは目がいいんですよ、と。 なぜボクシングなのか? なぜ戦うのか? などには触れずに、聴覚障害をもつひとりの女性ボクサー、という設定に誰もが期待するであろうドラマ - きっかけとか入口の苦労とか続けている理由とか - からすっと身をかわして、目を澄ませて世界にひたすらその身をつっこんでいくケイコとその周囲の世界と今(のありよう)を丁寧に切り取って形にしようとする。
ケイコは弟の聖司(佐藤緋美)とアパートに同居していて母(中島ひろ子)は遠くで暮らしていて、ホテルの清掃婦の仕事をしながらボクサーのプロテストにも受かって、ジムに通って日々練習している。戦績は悪くないし、障害者ボクサーとして世間の注目も集まるのだが、そんなことよりもこれで、このままでよいのか? って彼女はずっと自問している - その理由もはっきりとは示されない。 もうやめようと思う、という会長にあてたメモを渡しそびれているうちにジムの経営が危うくなり、会長も体を壊して入院して、ケイコが目を澄ませて見つめてきた世界はまるごとどこかに消えてしまいそうになる。
映画の中でのケイコの最後の試合も、それが本当に彼女にとって最後のものになるのかはわからないし、会長がどうなってしまうのかもわからないまま、ドラマはボクシングのそれにありがちな栄光を掴むまでとか燃え尽きるまで、のような予期された勇ましさからも遠く離れて、痛いのはいやだしとか、このまま続けていても.. というケイコの声にならない声とか、ダウンして立ちあがった後の声にならない咆哮を拾って、それが目を澄ませたケイコが世界にたてる音として、川辺の朝の空気とか夜にちらちら光る塵のように肌に触れてくる。
どこまでも彼女の内なる声に寄り添うのみ、というのでもなく、一番感動するのは、既によれよれの会長とふたりで横に並んで一緒にシャドウをするところ - ケイコが大きく目を見開いて(おそらく泣きながら)、ふたりのダンスのような動きを追うところで、ここでなんで泣きたくなってしまうのか、自分でもよくわからないままじーんとして目を開いたまま泣いてしまうのだった。
あとはジムと川辺のある、かつてはどこにでもあったようで今は失われつつある東京のローな景色の廃れたかんじ。ジムに入って行くのに少しの段を降りるようになっているところ、昔の成瀬とかの家族映画で見ることができたのと同じような路地があって、あの段を降りたところにあるものがある、っていうあの感覚がたまんないの。
主演の岸井ゆきのさんもすばらしいなー。
1.02.2023
[film] Armageddon Time (2022)
12月22日、木曜日の午後、米国のYouTubeで見ました。
最初、タイトルを聞いたときは、ふつうにClashじゃん(いちおう、Clashの曲は”Armagideon Time”で綴りが異なる)って思ったけどスチールにはAnthony Hopkinsとかが写っていたので違うかー、ってなって、でも映画始まったらすぐにJoe Strummerの声が遠くから聞こえてきたのでうそー、って驚愕した。このまま”Babylon” (1980)みたいにいろんなのが流れてきたらどうする? って胸が躍ったのだがそれはなかった。
最初に1980年、NYのQueensのPublic School 173、と出るので間違いなくあの時代のドラマなんだ、とわかる。
1969年生まれの監督James Grayが、自分の少年時代のことを書いた作品なのだそう。
6th grade - 12歳のPaul Graff (Banks Repeta)は、母Esther (Anne Hathaway)と父Irving (Jeremy Strong)と親には従順な兄Tedと母型の祖父Aaron (Anthony Hopkins)と一緒に暮らすユダヤ系の少年で、転校して最初の授業で担任の似顔絵を描いて揶揄ったら黒人の同級生Johnny (Jaylin Webb)と一緒に立たされて、ふたりは仲良くなる。Paulはアーティストになりたいし、JohnnyはNASAに行って宇宙飛行士になりたい、と夢を見て、ふたりでGrandmaster Flashのライブに行くのを楽しみにしている。
Paulの両親はとても教育熱心で、EstherはPTAの役員になろうとしているし、父はユダヤ系として生きることの苦労を背負って漲っているし、祖父はウクライナから難民としてロンドンに流れ、そこから米国にやってきて苦労した一家の過去を語る - ここはおそらく、80%が自分の祖父母からの回想に基づいて書かれたという“The Immigrant” (2013)のお話、にも繋がるのか。
PaulとJohnnyはトイレでマリファナを吸って問題児となって、びっくりした両親は彼を公立校から兄の通う厳格な私立の学校に転校させる。そこでは生徒みんなが大統領選でレーガンを支持していてFred Trump(アレの父ね)やその娘のMaryanne (Jessica Chastain)がスピーチをするような嫌なところ(ぜったい嫌だな)、高慢と偏見に満ち満ちたところで、明らかに人種差別的なふるまいを受けたりして、そのことを公園のベンチで祖父に告げると(すごくよいシーン)、そういうのを目の当たりにして何もしないのはいけない、偏見に立ち向え、戦え、とはっきり教えられて、でもそこから暫くしておじいちゃんは癌で亡くなってしまうの。
Paulの転校によってJohnnyは学校に行かなくなり、身寄りは寝たきりの祖母しかおらず居場所もないのでPaulの家の納屋で寝泊まりしたりしているのだが、学校のPCを盗んで売ったら金になる(この当時のであれば相当..)から、それでマイアミに行って暮らそうぜ、とPaulに持ちかける。で深夜の学校に侵入して盗んだのをお店に持っていったら当然警察がやってきて。
80年代初のNYで中流家庭の少年が暮らす、というのはこういうことだったのだろうな、というのがよくわかる - 特にPaulとJohnnyがグッゲンハイムへの遠足の途中で抜けて、セントラルパークで遊んでColony Recordsに行こうよ! っていう辺り、そしてはしゃいでいたら地下鉄で脅されて怖い思いをする辺りはNYの冒険映画としてたまらないし、ここから更にJames Grayの映画 - “We Own the Night” (2007)や“Two Lovers” (2008)に出てくるNY - 特に夜のNYの美しさを改めて思ったりもする。 “Two Lovers”の夜にそっくりの場面、なかったかしら?
そしてこれは、子供に選択を強いて、戦え! と背中を押す父 - 祖父の話としてもJames Grayの描いてきた話の起源でもあるのだろう。 前作の”Ad Astra” (2019)って、いったい何だったのか? は少しあるけど。
音楽ではClashの他にお兄ちゃんの聞く曲、としてThe Raincoatsの”Fairytale in the Supermarket”も聞こえてきて、この曲、”20th Century Women” (2016)でも家のなかでかかっていたけどそんなに、家でかかるくらいにポピュラーだったのかしら?
それにしても、リアルAnthony Hopkinsの新年のメッセージを聞くと、この映画のおじいちゃんそのままとしか思えなくて、自分もしっかりしないと、って改めて思う。
なぜなら、Armageddon Timeは、いまもはっきりと、あるから。いまがその時なのだ、と。 当時はなんでも幻想です、って言いたがるバカがいっぱいいたけど、いまはなんでも感想でしょっていうクズが大量に…
1.01.2023
[log] Best before 2022
みんなとにかくいろんな苦しみから救われますように。戦争が終わりますように。
2022年の最後に見た映画はギトリの『毒薬』。2023年最初に聴いた音は、昨年出てまだ聴いていなかったPrince and the Revolution: Live から、”Purple Rain”だった。大晦日向きかもだけど。
昨年は映画でも音楽でも、本当に多くの先人を失った。 弔辞ばかり書くのは滅入るので書かなくなってしまったが、本当にありがとうございました。でもいかないでー。
[film]
2021年は英国から帰国した年で、その前半はロックダウンだったのでストリーミングでいっぱい見ることができたのだが、今年はずっと日本だったので、本数はへった。
中短編含めて449本、うち新作は165本、旧作は284本、ストリーミングで見たのは61本だった。一番本数を見た映画館はやはりシネマヴェーラで94本。
Sight and Sound誌のBest 50からだと22本、Film Comment誌のBest 20からだと10本、しか見れていない。
[新作20] - 見た順で;
■ The Souvenir: Part II (2021)
■ Petite Maman (2021)
■ Atlantique (2019)
■ Marx può aspettare (2021) - Marx Can Wait - 『マルクスは待ってくれる』
■ Les choses qu'on dit, les choses qu'on fait (2020) - 『言葉と行動』
■ The Quiet Girl (2021)
■ In Front of Your Face (2021) 『あなたの顔の前に』
■ メタモルフォーゼの縁側 (2022)
■ Nope (2022)
■ Serre moi fort (2021) - Hold Me Tight - 『彼女のいない部屋』
■ Moorage Daydream (2022)
■ Babi Yar. Context (2021)
■ Les amours d'Anaïs (2021) 『恋するアナイス』
■ Irma Vep (2022)
■ Pacification (2022)
■ EO (2022)
■ Aftersun (2022)
■ The Eternal Daughter (2022)
■ Armagedon Time (2022)
■ Benediction (2020)
[旧作20とちょっと] - 見た順で;
■ Gertrud (1964)
■ 乳房よ永遠なれ (1955)
■ The Member of the Wedding (1952) -『結婚式のメンバー』
■ 刀馬旦 (1986) - 『北京オペラブルース』
■ Kárhozat (1988) - Damnation
■ Magdanas Lurja (1955) - 『マグダナのロバ』
■ Natvris khe (1976) - 『希望の樹』
■ 細雪 (1959)
■ Abschied (1930) - Farewell
■ Outrage (1950)
■ Merry-Go-Round (1980)
■ The Dumb Girl of Portici (1916)
■ 明日は日本晴れ (1948)
■ Dolgie provody (1971) - 『長い見送り』
■ The Hard Way (1943)
■ 花ちりぬ (1938)
■ Judge Priest (1934) - 『プリースト判事』
■ 7 Women (1966)
■ The Shamrock Handicap (1926)
■ L'accompagnatrice (1992)
■ Mary of Scotland (1936)
■ 化粧雪 (1940)
■ Garde à vue (1981)
■ 獨立時代 (1994) - A Confucian Confusion
■ 肖像 (1948)
■ Salesman (1969)
■ Siebzehn (2017) - Seventeen
■ Rachel, Rachel (1968)
■ Pleins feux sur l'assassin (1961) - 『殺人者にスポットライト』
女性先駆者たち特集とジョンフォードと石田民三に尽きたかも。
[art] - 見た順で
とにかくNational GalleryのRaphael 展に行けなかった。一生泣いて悔やむであろう。
美術館、ギャラリー、京都とか奈良で行ったお寺などを含めると丁度100、行っていた。
■ Roni Horn: When You See Your Reflection in Water, Do You Recognize the Water in You? @ポーラ美術館
■ Viva Video! 久保田成子展 @東京都現代美術館
■ 没後50年 鏑木清方展 @国立近代美術館
■ 大蒔絵展 漆と金の千年物語 @MOA美術館
■ 吉田健一展 - 文學の楽しみ @神奈川近代文学館
■ 写真と絵画 - セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策 @Artizon Museum
■ 東京の猫たち @目黒区美術館
■ 藤井 光: 《日本の戦争画》153 点の絵画とキャプションによるインスタレーション、2022 @東京都現代美術館
■ Gerhard Richter 国立近代美術館
■ à mains levées シャネルを紡ぐ手 アンヌ ドゥ ヴァンディエール展 @Chanel NEXUS HALL
■ 常設展 @The Broad
■ 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ @東京都現代美術館
■ 日本の中のマネ @練馬区立美術館
■ 正倉院展 @奈良国立博物館
■ 版画で「観る」演劇 フランス・ロマン主義が描いたシェイクスピアとゲーテ @国立西洋美術館
■ 宇野亞喜良 万華鏡 @ギンザ・グラフィック・ギャラリー
■ ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台 @東京都現代美術館
[theatre] - 見た順で
■ The Lehman Trilogy (2019) @National Theatre Live
■ Pelléas et Mélisande @新国立劇場
■ Prima Facie (2022) @National Theatre Live
■ マームとジプシー cocoon @彩の国さいたま芸術劇場
■ The Glass Menagerie @新国立劇場
[music]
ライブはPrimaveraのLAに行けたくらい。年一度でも、海外のこういうのに行ければいいや、って。
一番なりたくなかった旧譜ばっかり聴いている老人になりつつあるのが嫌だ;
■ Blondie - Against the Odds: 1974 - 1982
■ The Beatles - Revolver
■ Wilco - Yankee Hotel Foxtrot (Super Deluxe Edition)
■ Rush - Moving Pictures (40th Anniversary)
■ David Bowie - Divine Symmetry
■ PrinceThe Revolution - Prince and the Revolution: Live
新譜だと、Weyes BloodとDry CleaningとWet Log、くらい。
今年は映画をもう少しおさえて、お片付けして、SNSとかも避けて、本を読む時間を作りたい。
いろんなよいものに出会えますように。国外に行けますようにー。