7.14.2022

[film] Les Deux anglaises et le continent (1971)

7月5日、火曜日の晩、角川シネマ有楽町のトリュフォー特集で見ました。
オリジナルの130分版 - 日本では1987年に公開された - この時に見ていたと思うのだがー あんま憶えていないー

邦題は『恋のエチュード』、英語題は”Two English Girls”。原作はアンリ=ピエール・ロシェによる同名小説 -『二人の英国女性と大陸』(1958)。この人は"Jules et Jim" - 『突然炎のごとく』の原作小説 (1953)も書いている。撮影はNestor Almendros、音楽はGeorges Delerue。

20世紀はじめのパリで、ふつうの貴族の青年Claude (Jean-Pierre Léaud)は母の旧友の娘のAnn Brown (Kika Markham)を紹介されて親しくなり、彼女に誘われるままにウェールズの海辺にある彼女たちの家に滞在する。そこにはMrs. Brown (Sylvia Marriott)とAnnの妹のMuriel (Stacey Tendeter)がいて、Claudeは「フランスさん」とか呼ばれながら羊のようにおとなしく品行方正に絵を描いたり自転車に乗ったりして過ごして、そのうち、AnnはMurielがClaudeに気があるようなのよ、と彼をそれとなくけしかけて、ふたりはぽつぽつぎこちない会話を始めて親しくなるのだが、それでは結婚を、ってなると突然Mrs. Brownが立ちはだかって、とりあえず一年間距離を置いてそれでもふたりが恋をしているなら、とか言うので、わかりましたって彼はフランスに戻ってしまうといろんな歯車がおかしくなっていって、最後は彼ひとりが。かわいそうなのはどっちか?

ここでのJean-Pierre LéaudはAntoine Doinelではなく(Antoine以外を初めて演じたという)、草食系で母親の代の女性ややや強めの女性たちの言われるままされるがままに振り回されて(Antoineも振り回されるけど、スラップスティックにどこかに落ち着いたり逃げたり)、でもその邪気も欲も見えないような振る舞いが結果的にAnnとMurielを苦しめるという残酷な仕打ちをもたらして、でもそのことについてどこのなにが悪かったのかまったくわかっておらず、というぐるぐる。 人によっては上空100mから金だらいを落としてやりたくなるかも。

顔立ちはみんな貴族っぽくて端正でうっとり、コスチュームは誰が洗濯してるのかさらさらときれいで家や部屋のインテリアも食器も蠟燭の炎も見事なセンスで風景も美しく - ウェールズの陽の光はあんな明るくないのでは、と思ったらやはりロケをしたのはノルマンディーの方だったり - 全体としては誰もが見たことがあると思うあの3人が揃って映りこんでいる姿はとてもおしゃれで、後にJames Ivoryが英国を舞台に撮ったドラマの原型のようでもあるのだが、後悔とか懺悔といったトーンとはなんの関係もなく、その空っぽさというかなんも考えていなさそうなかんじがすごい。でもその裏側ではゲロとか血の染みとかひどいものもふつうに映っている。それらがぜんぶ揃えば恋愛も恋愛映画も生まれようぞ、ってきょとんとしているような。 恋愛を画面に写しとる、ってそんなふうにしかできないのかも。これはこれでよいのか。

男性のナレーション(byトリュフォー)で淡々と綴られるひと夏の儚い思い出、それが後の人生に打ち込んだ楔、というか女性たちにとっては命を奪うような傷となってしまうその残酷さとのギャップを追いながら、ラストはパリのロダン美術館で石になってしまった恋人たちの姿をとらえて、でも我々はこんなふうに石にも思い出にもされたくもないのだけど、って誰に向かって言えばよい?

恋のエチュード - 練習曲なんていい気なもんよなとか、原作の「二人の英国女性と大陸」の「大陸」ってなんだよ? 泰然としてんじゃねえよとか、突っ込みどころはいろいろある。最後まで頑なに情熱的にClaudeへの恋を貫こうとした(Emily Brontëの最期を迎える)Murielと風の向くまま気の向くままにやってくる女性になびいて虫のようにくっつこうとするClaude - このふたつの恋のありよう(どちらもありとは思うけど)とここにはめられる男性と女性の位置って、逆のかたちで描かれるケースってあんまない気がするねえ。

今回のトリュフォー特集、結局4プログラムしか見れなかった。あっという間すぎる。

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