7.01.2022

[film] 人情紙風船 (1937)

6月25日、土曜日の昼、国立映画アーカイブではじまった特集 - 『東宝の90年 モダンと革新の映画史(1)』で見ました。お勉強。

河竹黙阿弥の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』を三村伸太郎が脚色した時代劇。この後に日中戦争に出征して中国で戦病死した山中貞雄監督の遺作となる。こんな有名なクラシックなのに見たことなかったの。

雨が降って溝に水が流れていく夜の長屋を遠くから固定で撮って、それが晴れると奥の方に竹竿とかが高くに並んでいるのが見えて、金魚屋がやってきて女中が水を撒いて鼻緒が切れて、盲のいちとか大家さんとかがうろつく江戸深川の貧乏長屋で浪人が首を吊って亡くなり役人が調べに来て、住人たちはかわいそうにせめてお通夜をしてやらなきゃ、って大家からお酒をせしめてどんちゃん騒ぎをして、結局おまえら酒飲みたいだけだろって。この辺の家屋と人々、その会話の切り取り方 - 情景をまるごとわからせてしまう – そのテンポというかリズムというかがものすごくてびっくり。いきなり長屋の隣に引っ越してきて目の前の世界が広がったような。

その同じ長屋に暮らす貧乏浪人の海野又十郎(河原崎長十郎)は、父の知人で義理があるはずだった偉いひと - 毛利三左衛門(橘小三郎)に生前に父が書いた手紙をもって仕事の口を頼みにいくが関わりたくなさそうに邪険に扱われて相手にして貰えず、ずっと家で紙風船作りの内職をしている妻(山岸しづ江)にはあんま頭があがらない。

毛利三左衛門は出入りしている質屋 - 白子屋の娘お駒(霧立のぼる)を武家にお嫁にやるべく画策しているのだが、お駒は番頭の忠七(瀬川菊之丞)とできていてなにやらきな臭くて、又十郎が懇願に行ったり髪結いの新三(中村翫右衛門) - 無断で闇の賭場をやってる - が白子屋にやってくると、「いつもの」って伝令が飛んで周辺の用心棒をやっているやくざの親分弥太五郎源七(市川笑太朗)とか百蔵(加東大介)がなめんじゃねえぞおら、って大勢で懲らしめにやってくる。

ある土砂降り(すばらしい土砂降り)の晩に忠七と会っていて傘を取りにいった彼と一瞬離れたお駒を新三が貧乏長屋に連れ帰っちゃって、妻が留守の又十郎のとこに隠して、血相を変えてやってきた弥太五郎源七たちを嘲笑って、長屋の大家の立ち回りで事件は収束して冒頭と同じようなどんちゃん騒ぎになるのだがやくざ達はメンツを潰されておもしろくないし、又十郎にずっとウソをつかれていたことを知った妻は..

何度怒られても殴られても蹴られても不屈の、というかすることないしやけくそでしがみついて立ち上がってみてへへん、とかやってみてもやっぱしだめで、最後には紙風船は宙には浮かばずに溝を流されていくしかないの。 どんちゃん騒ぎで楽しくやって辛いのみんな流しちゃえ、っていうのとそのすぐ裏 - 薄い紙や障子を隔てたところでふっと消えてしまう儚い命、それらが連なってできた長屋に横たわる「人情」など。

最後に刃を手にして又十郎と心中してしまう妻と同じようにおとなしいお駒が新三を刺してしまうことにしてもよかったのに。それかこの後しばらく経って、お駒が忠七を刺す、とかでも。古典で描かれる「人情」のありようってあくまで男性が施したりもたらしたりする「情」がまんなかで女性はそこで交換されるだけのなにかでしかないように見える。 そんな、不気味なくらいに静かで穏やかに(不幸に)描かれた女性たちの姿。

でもとにかく、長屋と質屋と角の薬屋に世界まるごとが展開されていてその精巧さときたら(見たことも暮らしたこともないはずなのに)どんな特撮セットよりもすごいし、そこに生きている人たちときたら何十年もずっとそこに暮らしているとしか思えない。古典落語に出てくるのをイメージしていたあのままなの。

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