8.17.2020

[film] Le Jeune Ahmed (2019)

 10日、月曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
ダルデンヌ兄弟の新作、英語題は”Young Ahmed”で、邦題は『その手に触れるまで』 - 日本では公開済? 昨年のカンヌでは監督賞を受賞している。

ベルギー郊外の小さな町に暮らす13歳のAhmed (Idir Ben Addi) - 外見はハリポタの彼がもしゃもしゃ髪になったような – がいて、父親はいなくて、母と兄と妹がいて、ごく普通のゲーム好きの子供だったのに突然イスラム教への熱が突然加速して、地元の導師のところに通って熱心にアラビア語やコーランの勉強をするようになり、ネットに出ている殉教した従兄のようになりたい、あの国に行きたい、とか言っている。

そうなってしまったAhmedにとって母親も塾の女性教師もユダヤ人だしお酒呑んだりしている不真面目な異教徒で、特に嫌がる握手を強要してきたり、音楽に合わせてアラビア語を教えたりする女性教師は間違っていて粛正されるべきで、そうしたら彼は本当にナイフを手にして彼女に襲いかかって、それは失敗してAhmedは少年刑務所に送られる。

ここまで、彼をそうさせてしまったものは何か、どうやって彼は原理主義的な方に傾倒していったのか、についての説明はない。

後半は彼の収容先での生活 – ソーシャルワーカーとか奉仕労働受け入れ先の農場の人たちとか精神科医とか、彼の周囲の人々との交流がドキュメンタリーのように描かれていく。ここで彼が特に気にするのは精神科医が被害者の女性教師との面談を許してくれるかどうか、どうしてかというと彼は歯ブラシの柄を床で削って尖らせて彼女を再び襲おうとしているからで、つまり彼は収容されても全く反省していないし矯正されるつもりもない。 寧ろ大勢の人との交流や再教育を通して自分の信仰心を試し(歯ブラシの柄のように)より研ぎ澄まそうとしているかのように見える。

カメラは勿論ここでもAhmedと距離をとり、彼がなにを感じたり考えたりしているのかを明確にはしない。ただ彼に親しそうに寄ってくる農場の少女Louise (Victoria Bluck)とのことが彼をどうにかしちゃうのか(行けLouise! ってなる)、そんなのは関係なく何があっても彼は当初の意思をどうしても曲げるつもりはないのか、ずっとはらはらしながら見ていると最後にはきりきりした胃に硫酸をぶっかけるような事態が。

ダルデンヌ兄弟のことだから最悪のことにはなるまい、って祈るように見守るしかないのだが宗教に傾倒した子供 – その宗教がラディカルで他者を傷つけるようなものである時に - 我々、親だけじゃなく周囲の大人たちはなにをすべきなのか、どう接するべきなのか、というテーマ。 宗教にどう向かうべきかとか、宗教者としてどうあるべきか、ということよりも、人は人を傷つけたり殺したりしてはいけない、ということを信仰とその教義とは離れたところで、どうやって(汚れた)大人たちは(痛みをあまり知らない)子供に伝えることができるのか、ということ。

これは若者によるヘイトやナイフによる犯罪が絶えないヨーロッパだけではなくて、かつてオウムによる悲惨なテロ事件を経験し、いまだに(大人たちが率先して)ヘイトを撒き散らしている日本でもまったく他人事の話ではなく(この国ではむしろバカな大人をどうすべきか問題かもしれないけど)、Distancingが常態になってきた今日この頃にはとても切実なことだと思う。その手に触れることなんてできず「近寄らないで距離を取って」、が「それ以上寄ってきたら刺す」とか「そいつは邪魔だから消す」にならないためにも。とても難しい、けど考えていかないと。考えられるようにしないと。

ブレッソンやベルイマンの映画は例えば悪というものについて、それがどういうもので、どんなふうに世界に偏在して我々を苦しめるのかを教えてくれるのだが、ダルデンヌ兄弟のそれはここに描かれたように悪とみなされるものがどう現れてそれとどう向き合っていくべきなのかについて実践的な知恵や示唆を与えてくれる気がして、もっと見られるべきだと思う。

14歳であらゆることに手を付けながら何一つ満たされない”Perfect 10”のLeigh - 母親がいない - と13歳でひたすらひとつの宗教に没入しても同様に満たされない”Young Ahmad”のAhmad - こっちは父親がいない - ティーンズの最初の方って難しいよね、っていうのも思った。

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