8.30.2020

[film] Proxima (2019)

 21日、土曜日の昼間、がらがらのPicturehouse Central - 映画館で見ました。
作(共同脚本)、監督は”Mustang” (2015)の脚本を書いたAlice Winocourさん。音楽は坂本龍一さん。
Eva GreenとかMatt Dillonとかが出てくるのだがフランス映画で、主人公はフランス語を話して、別居中の元夫との会話はドイツ語で、訓練のシーンはロシア語で、Matt Dillonとのやりとりは英語になる。

ヨーロッパの国際宇宙機関みたいなところに所属するSarah (Eva Green)は、火星行きを目指すための1年間の宇宙ステーションへの滞在をする宇宙飛行士にフランス人女性として選ばれて、それは彼女の長年の夢だったのでとっても嬉しいのだが、気掛かりなのは一人娘で8歳のStella (Zélie Boulant-Lemesle)で、夫のThomas (Lars Eidinger)とは別居しているのでママにべったり、学校でもひとりでいることが多いらしい。

飛行士に選ばれた後にはロシアの施設での打ち上げに向けた長期の訓練に入るので、元夫が暮らすドイツに彼女と猫 - “Laika”っていうの - を送って、モスクワ郊外の訓練施設に旅立つ。 そこで彼女は一緒に宇宙に滞在することになるアメリカ人のMike (Matt Dillon)とロシア人のAnton (Aleksey Fateev)と落ちあって、映画はほぼこの施設での軍隊みたいに厳しい訓練と、その物理的な隔離を通して離れたり近寄ったり危うくなったりするSarahとStellaの母娘関係を中心に描く。

宇宙で滞在するには強靭な肉体と精神とチームワークが求められるので厳しい訓練は当たり前として、いろんなことを学び始めたStellaにとっては、ママとは長い間会えなくなる - ひょっとしたらずっと会えなくなってしまうかも知れない、そういう恐ろしい出来事が目の前にあり、でもこれがママの生涯の夢であることも理解しているので塞ぎこんでしまい、それがSarahにも痛いほどわかるので、頻繁に電話して話をしてケアをして、でもそれが訓練への集中力や結果にも影響するので、Mikeや他の関係者からはなにやってるんだ、になってしまう。

男女の差にあえて踏みこまないようにプログラムされている訓練には当然男性寄りの厳しさがあって、更衣室も一緒だったり、男性からの嫌味や圧 - こういう時のMatt Dillonうまい - も散々浴びせられて、これってふつうにきついそこらの職場と一緒だよな、って思うと、SarahとStellaの関係もそういうものに見えてくる。 もちろん日々の仕事での託児所送りと宇宙行きの使命を一緒にするな、かもしれないけど、子供からすればママがお買い物で出て行ってしまうだけでそのまま事故に遭って会えなくなったらどうしよう、になる不安と心配の深さ重さは変わらないのではないか。

訓練開始から3ヶ月経ったときと、打ち上げ直前にStellaはやってきてママと再会をするのだが、そこでのふたりのやりとり - 特に打ち上げ直前の最後の - がとってもよくて、この辺はこれまでの宇宙飛行士ものとはちょっと違う。これまでのって - ”Ad Astra” (2019)とかもろだけど - どちらかというと父親的な像とそのありようを中心に描いてきた気がする。

もちろん、それならこれ宇宙飛行士モノにする必要なかったんじゃ… かも知れないけど、でも宇宙に行くのってやっぱりすごいことだし、女性にはどんどん行ってもらうべきだと思うし。 なのでエンドロールでこれまでの女性宇宙飛行士全員 - かな? - とその子供達と一緒の写真が並べられていってほんわかする。 

日本で公開されたら、こんなふうになっちゃうから女性の仕事と育児は(溜息).. の議論に寄ってしまうのかもしれないが、そういう無神経で愚鈍なバカをあぶり出して退治するためにも公開されるべき。

彼女たちが宇宙に行ってからの展開は”Gravity” (2013)のパート2として用意されていて、そこでMatt Dillonは宇宙の彼方にふっ飛ばされてしまう … ことを望む。

それにしても、Eva Greenさんのすばらしいこと。これまでも母親的なイメージの役が多かった気がするが、これはもろ全面にあふれかえる。 彼女にやられちゃう人が更に増えますように。絶対増えるから。


日本でも海外でもいろんなことが起こっていて、いろいろ言いたいことはあるのだが、とりあえずRecord Store Day 2020に行った。 今回はコロナの件でDistancingだし、三連休の初日だし、夕方からはオンラインでも販売するようなのでそんなには集まってこないじゃろ、って、だらだら7:30くらいに(開始は8:00)に行ったら甘かった。

こういう状況なので、並んでいるときに今回のリストの紙束と鉛筆が配られて欲しいのにチェックを入れる(並んでるときに退屈しないのはよかった)。店内に入るまでに約2時間、いつもの潮干狩り落穂拾いはなくて店内にも長い列があって、そこでいったんリストは回収されて、カウンターまで来ると名前を呼ばれてリストを見ながら担当の人が一枚一枚持ってきてくれるかたち。 その場で売り切れがわかるのはよいのだが、曲目とかジャケットのかんじとか、持ってこられて初めてわかるのがちょっとねえ(ふたつくらい要りません、て返したり)。

でも予想外のが売り切れてたり、しょうがないので夕方のオンラインに行ってみたらアクセス殺到でサーバーが死んでくれてぜんぜんだめで、でも最終的にはなんとかなったかも。まだ油断ならないが。

次は9月のおわりにまた。これ毎月やられたらいろいろ死ぬよね。

8.29.2020

[film] TENET (2020)

 27日、木曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
本来であれば70mm IMAXで見るべき(Tomが行ったのはBFI IMAXよね)なのだが、予約取れないし、天気悪くて頭いたいし、そんなにノれるかんじでもなかったのでふつうの70mm上映にした。やっぱり70mmだとぜんぜん違うねえ。

コロナ後の映画館再開の目玉というか象徴のように宣伝されていて、Christopher Nolanだし、そりゃそうなんだろうな、と思ったもののなんとなく気が重かった。Lock down中に何度かTVで見た”Dark Knight”のシリーズでも”Dunkirk” (2017)でも、至近距離で炸裂するサスペンスや修羅場はおっかないしすごいと思うし、あるいは”Inception” (2010)の夢の中でも”Interstellar” (2014)のブラックホールでも、人が立ち入ったことがない、見たことがない空間を、見たことがないという地点・前提から入って再構成して見せてしまうエネルギー(作っちゃうんだから)はえらいと思うのだが、そういう画面が彼方から吠えてくるHans Zimmerの「ばおおおぉーん」みたいな威圧的な音塊と共にやってくると、ごめんなさいコタツで寝ていたいですまだ暑いけど、とか言いたくなる。ここんとこ特に。

で、今回は007みたいな現代の活劇 – 第三次世界大戦阻止 – みたいなのだが、予告を見ると手元で撃った銃弾が元のとこに吸い込まれたり、要するに手元の手前の時間が戻ったり - それがテクノロジーなのか装置なのか物質なのか観念なのか肉体に宿るのかわかんないけど – そういうことがフィクションであれ起こりうるということを納得しないと頭はついていけずに気づいたら撃たれてハチの巣、なんだろうな、とか。

結論からいうと、よくわかんなかった。そのうちいろんな記事とか解説が出てきて読めば(たぶん読まない)わかるのかもしれないけど。だからネタバレもくそもないのだが、Christopher Nolanてすごいなーと思うのは、こういうなんかわかんない – きちんと説明されてもわかんない -  けど、画面と音のすごさは、画面だけは子供でもわあーって、なるくらい怒涛の勢いで押し寄せてくるところだと思う。こうして今回は電車とか船とか飛行機とかヘリとか、坊ちゃんも大喜びなのがいっぱいでてくるし、わけわかんなくたって見て損した気にはちっともならない(ここはひとによるか)。

「時間」のテーマが出てくるとやっぱりどうしても難しくなって、それでも”Interstellar”で時間を超えてやってきたMatthew McConaugheyが本棚の本を落としたり、”Avengers: Endgame”でCaptain AmericaがCaptain Americaと組み合って「いいケツだな」っていうようなシンプルなのだったらまだよいと思うのだが、逆行していく時間の流れに沿った動きの中で登場人物たちのアクションだけは順行(はて、この状態ではどちらが順?)するという、これも特撮には違いないけど、見ているこちらの視覚を適応させるのが大変なやつで、潜水作業 – 実際、そういうマスクみたいのをつける - や宇宙空間での作業を見ているかんじに近い。無重力ともちがう別の動きとか力の支配に抗うやつ。しかもそれの揺り戻しも含めて考えないといけない、とかなるともうお手あげ。想像することすらめんどいことが実際に起こってこちらを縛りにくる面倒くささ。(人によっては圧倒される、と)

劇中にも”Multiple Reality”って言葉がでてきたけど、我々は多層の現実世界を生きたことがないので、(多層がありうるとして、その多層性も含め)それがどんなものなのかって知らないわからない。だから如何ようにも旅をして構築したり描いたりすることができる、っていうのがChristopher Nolanが映画のなかでやってきたことで(だから彼の映画には乗り物がいっぱい)、目の前のあれこれで手一杯のひとにとってはそんなのどうでもいいー になりがち。男のファンタジーだろ、って

主人公 - The ProtagonistのJohn David Washingtonはすさまじい運動神経と手捌きで過去に起こったことを回収しつつ次の動きを決めていく(だからこそのThe Protagonist)のだが、ふだんから手際と要領の悪い人があれをやると二次災害三次災害のカオスを巻き起こして、大変なことになってしぬ(ことすらできない)  - という地獄の逆立ちコメディをCharlie Kaufmanあたりに撮ってほしい。

ここまで、ストーリーとかに全く入らずにきてしまったが、これって上から読んでも下から読んでもの回文になってきれいに閉じている、あるいは、ここで起こったことはまだ起こってないことが起こっているのだがそれはまだ起こっていない...  ってぐるぐる自分の尻尾を追って回り続ける、そういう歴史のありようを描いていたものなので、ストーリーは割とどうでもよくて、革命起こしたい人達が見たら憤死しちゃうようなやつなの。

その辺でMichael Caineが”Interstellar”の時みたいに回文形式の詩でも読んでくれたら儚くてばかばかしくなってよかったのに、主人公のスーツを貶しただけでいなくなってしまった。

でも今の我々が見るとやっぱし、彼らが向かう先はウクライナの炭鉱ではなくて最初に肺炎が確認された地点だよな、あーあって。

Aaron Taylor-Johnsonは”Kick-Ass”~“Godzilla”~”Avengers”ときて今回ので、地味だけど着実に強くなっているねえ。

Elizabeth Debickiさんはとっても素敵なんだけど、はやく”Vita & Virginia” (2018)を日本公開しなされ。Virginia WoolfとPrincess Dianaの両方を演じている珍しいひとなんだよ。

この仕掛けを巡ってフェミニスト軍団とマスキュリスト軍団が争奪戦を繰り広げる下ネタ満載rom-comが作られたらぜったい見に行く。汎用性あると思う。作るのは大変そうだけど。

Tomが現れたのは続編をやるんだったら入れて - ”Edge of Tomorrow” (2014)で同じようなのやっているからさ、っていうアピール説。


明日はRSD2020なのだが、リストを見ながら行くか行くまいかまだ悩んでいる。

8.27.2020

[film] Technoboss (2019)

 20日、木曜日の晩、MUBIで見ました。なんとなく。技術系のドキュメンタリーかと思ったら(うそ)、変てこミュージカルだった。ブラジル映画だと思っていたらポルトガル映画だった。おそるべし。

Luís (Miguel Lobo Antunes)は引退を考え始めた初老のエンジニアで、妻とは別れて猫のナポレオンとふたりで暮らしている。彼の会社はオフィスの出入り口のアクセス管理システムの設営とか修理とかをやっていて、社員は5人くらい。ものすごく重要な使命を担う特殊な製品を扱っているわけでも、その仕事の遂行に彼の知見や技量がなくてはならない、というわけでも、彼もその仕事に特別な誇りや特異な情熱を傾けているわけでもなく、生活に困ってどうしてもその仕事にしがみつきたい事情があるわけでもなく、いつ会社がなくなってもそのシステムがなくなっても彼がいなくなっても誰も、そんなに気にしないし困らない。そういう地点から人はどんな物語を作ることができるのだろうか。

会社に行って指示を受けて出先を訪ねて据え付けたり修理したり動作確認したり。うまくいくのもあるけど、うまくいかない方が多い。不平不満はいくらでも受けるしそれも仕事のうちだし、失敗しても怒られても人が死ぬわけじゃない(たぶん)。そんなだから仕事行くのも帰るのもどんよりだし、仕事してても「くそったれー」みたいなのばかりで、「やりがい」なんてどこの星の話か、ってそういう状態で人はなにをするかというとー。

歌うのよね。ただその歌もミュージカルみたいにエモを込めて世界に解き放つのではなく、自分には歌しかないんだって熱唱するのでもなく、車に乗っているときとかに鼻歌よりもやや大きめに、でもそんなに巧くはない。たぶんトラック野郎とかのおじさんとかの方がぜんぜんうまいと思う。 そうやってある時はフォークのように、歌謡曲のように、ブルーズのように、ハードロックのように、歌となって放射されるLuísの声と世界。シチュエーションはいろいろ、車でひとり(車の外はハリボテの景色)だったり、相手がいることもあるし、大勢に囲まれていることもある。ただ歌を歌っている間はミュージカル映画のように世界まるごとその動きが止まって地上から、枕から数センチ浮かびあがっていて、彼の目はこっちを向いてやや真剣になにかを語ろうとしているような。

いちおう、Luísは出先のホテルの受付にいた女性と運命の出会いをしたと思って、彼女との間に歌の魔法が..  みたいな話でもないの。幸せとか将来とか割とどうでもいい、やや温度低めの音楽と共に平熱で生きる。こんな世界はあるし、みんな知っているはず、って。

IMDbになんの情報もない主演のおじさんが何者なのか、すっとぼけた音楽はどこの誰がどんなふうに作ったのか、わかんないことだらけなのだが、おもしろいからいいの。

個人的なことだけど、自分の仕事まわりでLuísみたいなエンジニアには結構会ったことがある。90年代の中頃の中南米で、ああいうアクセス管理の仕組みって盗難が多い南米では普通に必須で、でもドアの鍵の延長みたいなものだから安けりゃいい動けばいいくらいのも相当あって、そういう半端な位置づけのやつだからオフィスの引越しとかがあると必ず問題が出て動かなくなったりして、でも誰も中味とか押さえていないので、エンジニアを呼ぶしかない。そうしてやって来る彼らはだいたい町の電気屋さんと同じふうでITなんか知るかよ、みたいに半端で適当で。映画にあったみたいに閉じ込められてどーしよ、になったことも結構あった。いろいろあったなー(本書けるとおもう)。彼らも変わらず元気でいますように、とか。

どうでもいいけど、Covid-19対応で世界に露わになった日本のITの遅れ(ものすごく。遅れている)って、この世界に近いと思う。こんなのにそんなにお金かける必要ない、とか、費用対効果、とか、中味のわからない/わかりたくないどケチじじい共が念仏のように唱え続けた結果が今の日本のITだよ。デジタルなんてちゃんちゃらおかしいわー。(←いろいろあったらしい)


"TENET"みてきた。 あんな面倒くさくなる世界の終わり、はじめてみた。

8.26.2020

[film] Hope Gap (2019)

 23日、日曜日の昼、Curzon Mayfair - 映画館 - で見ました。メンバー向けのPreviewで客は3人くらい。丁度ひとつ前に書いた”Things to Come”のテーマと近いかんじがしたので、ついでに書いておく。映画としては”Things to Come”の方がだんぜん。

作・脚本・監督は”Gladiator” (2000)の脚本や“Les Misérables” (2012)のアダプテーションをしたWilliam Nicholsonで、自身の舞台作品 - ”The Retreat from Moscow” (1999)を映画用に脚色したもの。

英国のイーストサセックスの海岸沿いの町Seafordの一軒家にGrace (Annette Bening) とEdward (Bill Nighy)の夫婦が暮らしている。結婚して29年で、Graceは詩のアンソロジーを作っていて、Edwardは高校の歴史の先生でWikiの編纂とかもしていて、居間でふたりで仕事をしている時はEdwardがGraceにお茶を淹れてあげたりしている。

ある日、都会に暮らす一人息子のJamie (Josh O'Connor)がやってきて、久々に家族での再会の場になったのだが、そこで突然Edwardが好きな人ができた、別れたいって言う。Grace には寝耳に水のことで、うろたえて泣きだす…  のではなく、29年間ずっと一緒にいて何を言いだすのか、って恫喝調で詰め寄っていくとEdwardは29年間我慢してきたんだ、って返して、それならなんでこれまで何も言わなかった、なぜいま言う? って(GraceがEdwardを)ビンタ、とか(Graceが)でっかいちゃぶ台返しとかの修羅場が展開されて、Edwardはその翌日にひとり静かに出て行ってしまう。

かわいそうなのが間に残された/挟まれたJamieで、自分のことだってあるし、これは夫婦の話だからどちらか一方に味方するのも難しい - ということがわかるくらいには大人なので - 自分のフラットと実家を往復しつつ、孤独から不安定になっていく - 家の近所にはちょうどよい崖がある - 母Graceの文句やグチに付き合って、父Edwardとも会って話を聞いて、を繰り返しつつ自分が子供の頃3人で手を繋いでいた頃のことを思いだして涙ぐんだりしている。

これはもう俳優の映画で、サディスティックにアグレッシブに自分を正しいと信じて疑わない -  “Captain Marvel”のSupreme Intelligenceみたいな - Grace : Annette Beningと、落ち着いていて慎ましく一見おどおどしているものの絶対曲げない曲がらないEdward : Bill Nighyと、やさしいので言われることを全部受けとめつつも何ができるっていうんだよ… って空を見あげるよいこのJamie : Josh O'Connorと、登場人物全員が彼らに期待されている雰囲気や仕草を、素敵な色使いの英国ファッションに包めて全開にしてくれるのでとっても心地よい、見事な室内楽のアンサンブルを見て聴いているかのよう。

Graceにとってこの出来事は、“Things to Come”といえるような来るべきなにか、ではなくて突発した事故のように到底容認できない信じられないそれで、どこまでも怒りが収まらずに犬を飼ってそいつにEdwardという名前を付けてしまったりもするのだが、彼女の怒りもそれに続くGraceとEdwardの攻防についても、最初の方の口喧嘩で示されているようにあまりに唐突すぎて、ちょっと不自然なかんじがする。細かな不満やちくちくが蓄積していった挙句の―、というのがわかるのは冒頭のEdwardがGraceにお茶を淹れてあげるシーンに漂う空気くらいなのだが、あれが夫婦の29年間を突き崩す程のものになるとは思えなくて、そっちよりは噴きあがって止まらないGraceの怒りの方がクローズアップされすぎているような。

舞台版からのアダプテーションと監督を女性がやっていたらおそらく全然違ったトーンのものになったであろうことは容易に想像がついて、やられてばかりでどうみても同情を集めそうなBill Nighyが実は..  にした方が深みもでて絶対おもしろくなったはずなのに。

結末はよくわかんなくて、Graceはもともと詩のアンソロジストなわけで、場面場面で読むべき詩なんていくらでも頭に入っているでしょうに。ここも“Things to Come”と対比してしまうとなんかねえ..

で、この件で落ちこんでしまったJamieを元気づけるために、Edwardが秘伝の時間遡りの術を伝授するのが”About Time” (2013)なのね。 で、これを世界征服に使おうとして大騒ぎになるのが”TENET”なのね。 すべてはAnnette Beningの怒りからはじまっているのね。

邦題を考えるひとは「希望」を使えるって喜んでいるかもだけど、希望も未来も1mmもないやつだから。


LFF2020のClosing Filmが”Ammonite”になったって。 それまではがんばって生きたい。

8.25.2020

[film] L'avenir (2016)

 18日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。ここで”Three by Mia Hansen-Løve” というのをやってて、その中の1本で見ました。これだけ見ていなかった。彼女の映画を見るのは2015年のフランス映画祭での”Eden” (2014)以来。

原題をふつうに翻訳すると「未来」。英語題は”Things to Come”、邦題は『未来よ こんにちは』。「おはよう」でも「こんばんは」でもなく「こんにちは」って呼びかけてる。

冒頭、家族の休暇でブルターニュの方に行って、ひとり家族から離れて学生のレポートの添削をしているNathalie (Isabelle Huppert)と海に向かって建つシャトーブリアンの墓の前でひとり家族から離れてぽつん、としている夫のHeinz (André Marcon)の姿が描かれる。

そこから数年後、高校の哲学の教師をしているNathalieはストで学生が校内に入れないのに苛立ったり、離れてひとりで暮らす母親 (Edith Scob)が夜中にうなされて電話してくるのに対応したり、ずっと準備を進めてきた哲学の教科書の話も「リ=ブランディング」とか言われて「はぁ?」だったり、まったくもう、なのだが、今度は25年間一緒にいたHeinzが好きな女性ができたのでそっちに行く、といって出ていってしまう。子供達は大人になっているので問題ないのだが、面倒を見ていた母も他界して家には彼女が飼っていた黒猫のPandoraがやってきて、同じく哲学教師をしていた夫は自分の本を持って行ったのでいっぱいだった本棚は歯抜けになっていて、あーあ、になって、なんとなく昔の教え子Fabien (Roman Kolinka)が共同生活をしている山奥の農場に猫を連れて泊まりに行ったりする。

夫との離別があって母との死別があって、仕事をやっていても"The future seems compromised"とか言われてしまう。これらって結構でっかい出来事だと思うのだが、Nathalieはそれらによってめげたり泣いたり騒いだりしなくて、ギアチェンジもしなくて、「あーめんどくさ」くらいはあるけど顔色も画面のトーンもぜんぜん変えずにあれこれ捌いていくのがすごい。 映画でも見るか、って”Certified Copy” (2010) - Juliette Binocheのね - がかかっている映画館に入ってみればなにか勘違いしたおっさんがにじり寄ってきて台無しにしてくれるし - ここ、この映画の筋を知っていると更におかしい。

主人公は最初からIsabelle Huppertさんを想定して書いたそうだが、それがとてもよくわかる。原題の”The Future”もよいけど、英語題の”Things to Come”がとてもはまって、どうせ来るんだから(どうせ流れていくんだし)、くらいなの。嘆いてどうなるというのか。やってくることに対して何事もポジティブに、なんて大きなお世話だわ、という時間の流れに対するしらーっとした態度、のありよう。(成瀬の女性映画のそれに近いと思う。あれよかケセラセラで)

彼女の揺るぎなさを彼女の専攻の哲学に重ねてみるのもおもしろいかも。電車の中でエンツェンスベルガーを読み、授業でルソーについて語り、アドルノについての本を編纂しようとしてて、他にもホルクハイマーやレヴィナスの名前が出てくる。おそらく68年の運動にも参加して政治参加や社会変革について、その思想や倫理(とその限界)について真剣に取り組んできたが故の …  というのはないだろうか。 その反対側で夫の方は同じ哲学でもショーペンハウアー(の本が見つからないので持ってきてくれ、と言われる)というあたりも。 あと、教え子の農場小屋に行ってそこの本棚を眺めて、なんであんたシジェクなんか、ユナボマーの手記なんか読んでんの? ってママみたいに問い詰めるシーンのおもしろいこと。そして彼女のモデルは実際に哲学の教師をしていたMia Hansen-Løveのママだという(なので授業のシーンは実際にチェックして貰ったって)。

そして、とにかく猫が似合う。”Elle” (2016)もそうだったけど猫が傍にいて、猫と会話するのがこんなに様になる女優さんはいないと思う。 そういえば、モデルになったMia Hansen-Løveのママが飼っている猫はDesdemonaといって、この名前を使うことだけは許可しなかったんだって。

音楽は教え子が車の中で流すWoody Guthrieが新鮮で、その時の会話であたし20年くらい同じレコードをかけ続けているのよね、というのが印象に残る。あとはラストでThe Fleetwoodsの”Unchained Melody”がさらさら - 詞の内容とはちがってとてもあっさり流れていってよいの。

Isabelle Huppertさん本人に最初に会ったのは2005年にBAMで”Wanda” (1971)の上映会があったときのイントロで、この映画に惚れてフランスでの上映権を買ってしまったという彼女は熱狂的にこの映画の魅力を語って、この時が”Wanda”を見た最初だったので、自分のなかではWanda = Isabelle Huppertというイメージができあがってしまった。この映画の彼女もその線上にいるねえ。
 

なにやら台風みたいのが来ているらしく、外は風がごうごう渦巻いてて目がまわってしょうもない。

8.24.2020

[film] My Rembrandt (2019)

 17日、月曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』(2008)のOeke Hoogendijkによる美術ドキュメンタリー。UKではDogwoofが配給している。

昨年は生誕350年のRembrandt Yearのお祭りだったので、2年続けて(昨年はほぼこのためだけに)アムステルダムに行って見てきて、今年もAshmoleanで” Young Rembrandt”展が始まったところなので行こうかな、になっていて、たぶん自分はRembrandtが好きなのだと思うのだが、見れば見るほど生涯に渡り節操なく描き散らかしたこのおっさんのどこがよいのかわからなくなってきて、そこら辺を振り返って考えるネタにはなったかも。

スコットランドの地主で公爵のお城にかけてある一枚のRembrandt – “Old Woman Reading” (1655)を愛おしそうに見つめる持ち主の老人とか、アメリカの投資家で既に11枚Rembrandtを所有しているThomas Kaplanとか、アムステルダムのアートディーラーで由緒正しい家柄のJan Sixとか、個人宅に置いていたでっかいRembrandtを税金対策のために売りに出すEric de Rothschildとか、要は西欧社会における貴族(=大金持ち)のひとたちがどんなふうにRembrandtを愛し、彼の絵の「本物」を手元に置きたがっているのか、いろんなケースを追っていく。

スコットランドのはシンプルで、寝室(?)の上の方に掛けてある“Old Woman Reading”をもう少しだけ明るい部屋に移設する、それだけのことなのだが、それにしてもこの絵、世界中にいっぱいある読書する女性を描いた絵のなかでも最高峰のひとつなのではなかろうか。ああ実物を見たい。

Thomas Kaplanはアメリカ人の快活さでRembrandtへの愛を語り、”Study of an Elderly Woman in a White Cap”を落札して手元に来た時、たまらず絵にキスしてしまった、とか言う。げろげろ、なのだが、触れたくなるくらい彼の絵は生々しくこちらに寄ってくる、ということ、なのだろう。

パリのRothschild家がでっかい2枚 - Portret van Marten Soolmans / Portret van Oopjen Coppit (1634)を売る、と公表したらRijksmuseumはそんなのオランダにないとあかんやろ、と言い、ルーブルはフランス国外に持ちだすのはだめざんす、と返して戦争状態になって、でもどっちもそんな裕福な国でもないので...     この2枚、2018年にRijksmuseumの“High Society”展で展示されていたのを見て、こんなでっかいのに見たことないやつだったので「?」になった謎が解けた。(この展覧会が初お披露目だったのね)

アムステルダムのJan Sixは家が代々地元で画商・コレクターをやっていて、その初代は“Portrait of Jan Six” (1654)としてRembrandtの肖像になっているくらいなので、Rembrandtにかける情熱も人一倍強くて、まず映画の冒頭で、”Let the Children Come to Me” (1627-28)を指して、この絵の中に若い頃のRembrandtらしい人物が描かれている、というのと、クリスティーズのカタログにあった“Portrait of a Young Gentleman”という作品 - ”by Rembrandt Circle”となっているけど実はRembrandt自身の手によるものではないか、というのと、これらの絵画の真偽を研究者を交えて追っていくのと、それを落札し、メディアに大々的に発表するまでのところでおまえズルしただろ、って叩かれて友人を失ってしょんぼりするまで。

彼にとっては血筋もあるしこの謎を世界に解き放つのは自分しかいないんだ、って自分で自分にスポットあてて使命感に燃えてしまったのだろうが、真偽鑑定に入るまえに「これは本物に違いない」から入ってしまうのは – しかもそこにお金が絡むのだとしたら – ちょっといけなかったかも。 敵が若くてハンサムで金持ちで家柄もちゃんとしていて、となると叩きたい側は燃えちゃうだろうし。

その辺の事情と経緯はNew York Times Magazineのちょっと長いけどこの記事に;

https://www.nytimes.com/2019/02/27/magazine/rembrandt-jan-six.html

こうしてみるとRembrandtの絵って、”My Rembrandt”とやや熱のこもった調子で呟かせてしまうような引力があって、それって「わたしはあなたを描いているんですよ」「いまのあなたはわたしにはこんなふうに見えるんですよ」ということを仄暗い蝋燭の灯の元で切々と説く、その密なやりとりを見ているような、彼のブラシのストロークとかタッチって、そういう狂おしい感覚を伝えてくるかんじがある、ということ(逆にものすごく適当に流しているようなのもあるけど)。

あと、真偽鑑定や所蔵先を巡ってこれだけ騒ぎが大きくなるのは、マーケットへの影響がそれだけでっかい – それだけ規模範囲が拡がっているということで、なんか複雑。絵は見たいし見るのは必要だと思うけど、そのために絵をあちこち巡回させるのって(それを追っかけまわすのって)しんどいしこわいし。でもデジタルばっかりになっちゃうのもなー。

ほんとはこれくらいの古典絵画って世界遺産みたいなものだから売買とか凍結しちゃえばいいのに、くらいのことは思う。投資と金儲けはバカっぽいモダンアートの連中にやらせとけばいいの。

Jan Sixさんが日本文化を勉強したら肩のあたりに「恋撫蘭徒 ヤン六」ってタトゥーを彫ってほしいと思う。どうでもいいけど。


8.23.2020

[film] Mudar de Vida (1966)

 16日、日曜日の晩、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。リストア(リストレーションは2作ともPedro Costaが監修しているのね)されたPaulo Rocha作品 - 一週間前にここで見た”Os Verdes Anos” (1963) - “The Green Years”の後に配信されている監督第二作、英語題は”Change of Life”、邦題は『新しい人生』。 これもモノクロの映像が美しい。 音楽は前作に続いてCarlos Paredes。

“The Green Years”は19歳の若者がリスボンに職を得て都会に出て行く話だったが、これは長いことアンゴラに戦争に出てそこでそのまま働いていたAdelino (Geraldo Del Rey)が故郷の漁村に戻ってくる話。
かつて恋人だった女性は弟の妻となって生活に疲れていて親しくしてもぎこちないし、両親も老いて疲れていて、かつての自分の家とはどこか違っていて、落ち着くことができない。仕事で船に乗って沖に出ても豊漁とは言えなくて、しかも腰が痛くなって続けられそうにない。

このままここにいたらダメになってしまうどこかに移ろうか、ってどんより彷徨っていると教会で賽銭泥棒をしようとしているAlbertina (Isabel Ruth)と出会って、初めは野良同士で睨み合っているのだが、だんだん近寄っていって、彼女もこの村には絶望しているので一緒にどこかにー、となるのだが…

若者が都会の大きさ、無頓着さに触れて愛と苛立ちの両方を抱えて膨れて弾けてしまう”The Green Years”に対して、中年男が小さな貧しい漁村で疲れと諦念で動きようがなくなって、どこかに行こうとする(でも行けない)今作は、いろんな点で対照をなしているかんじがして、でもどちらも生き難い、それは都会だから田舎だから、若者だから中年だから、肉体労働をしていて豊かになれないから、女性がしっかり自分の考えを持っているから、そのどれでもありそうで、どれでもないような、中途半端な世界で幽霊のようになって生きる男が中心にいるような。 彼らは - AdelinoもJúlioも、自分でそれなりのことを決められるなんとかできる、と思いつつ、実はなんにもできないままAlbertinaやIlda - どちらもIsabel Ruthが演じているのは偶然? - に振り回されて立ち尽くしているだけなのではないか。

なんとなく思い出したのはPedro Costaの“Vitalina Varela” (2019)で、あれは夫の死の報を受けたVitalinaが異国から死ぬ前に夫が暮らしていたリスボンのスラムにやってくる話だった。 夫がいなくなってしまったことを確かめつつ、穴倉のように荒んだ暗い場所で、彼女は抜け殻になるどころかどうしようもないくらい圧倒的に生きてしまう - 『新しい人生』どころじゃない静かな強さと勢いでなにかを取り戻すの。

もういっこ、この3つを見て思うのは社会や住む場所のリアリズムって、なんなのかしら? って。50年以上時間が経つとそこで映される都市の様子も社会のありようも変わってしまうのは当然としても、それらって登場人物の背景以上に彼らの生を映しだしてしまうなにかなのではないか、とか。

Paulo Rochaのシリーズはこれで終わりなのかしら? もっと見たいなー。


ここのとこ、夕方から冷えこむようになって、上着がないと寒いくらい。もう秋なんだねえ。暑さがなくなったのは嬉しいけど、日が短くなってきたのは寂しい。そして今年の夏っていったいなんだったのか。

 

[film] Clemency (2019)

 15日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。
とても重いテーマの作品であることはわかっていたのだが、やっぱり見た方がいいよね、と。
昨年のサンダンスでUSドラマ部門のGrand Jury Prizeを受賞している。

女性の刑務所長のBernadine Williams (Alfre Woodard)が死刑囚の死刑執行をするところから。全身を処刑台のベッドに固定して、血管に管を通してそこから薬物を注入するのだが、うまく血管に管が通らずに現場がちょっとしたパニックになって、ここだけでものすごく怖くてこっちも死にそうになる。

それ以降、Bernadineは仕事や家庭のことに集中できず魂が抜けたようになってしまうのだが、この次はずっと無実の罪を訴えているAnthony Woods (Aldis Hodge)の執行の件があり、所の外では彼の死刑執行反対を訴える抗議の声が連日響いているし、彼の弁護をしている弁護士のMarty (Richard Schiff)もがんばっているがもう疲れたのでこれを最後に引退するというし、夫も彼女のことを心配するもののなにをしても言っても彼女が上の空なので家を出て行ってしまう。

初めは諦めと自棄から無愛想だったAnthonyもかつての恋人と面会して彼との間の子供がいることを聞くとやはり生きたい - 自分は無実だ、と訴えるようになって、Bernadineは同僚と州への訴えを諦めないようにして、Martyは最後の手段で公開で州知事への恩赦を求めて、でも結局は刑執行までの時間の問題で、彼女は最後まで州政府に最後の慈悲(Clemency)の通知を待って時計を見つめて。

Bernadineは死刑執行の現場で法に則った執行がされることを見届ける責任はあるが、司法判断そのものについてはどうすることもできない。使命感を持ってこの仕事をやってきた彼女は仕事を辞めることまでは考えないようだが、でも、だからこそ自分がやっている/やろうとしていることは道から外れたこと - 法による殺人ではないか、と思うようになる(明確には語るわけではないが)。

どうなるかわからない状態でAnthonyが処刑室に入ってから経過していく時間の流れとBernadineのテンションの描写がすさまじくて、これは公的機関が計画的に実行する人殺しに他ならないことを思い知る。 ここには仕事であれ人を殺すということの生々しい恐怖がむき出しで、ある。恐ろしい。

死刑制度は現代においては戦争と同じくらい野蛮なことなので廃止すべき、それはつまりこういうことだから、と執行現場の人々の実情を明らかにする。実際に起こったこと、ではないが監督・脚本のChinonye Chukwuさんは2011年に執行されたTroy Davisの件にインスパイアされていて、主演のふたりは実際に刑務所長と死刑囚に聞き取りをした上で制作に入っている。

悲惨な事件が起こると被害者の家族と加害者の家族双方を嬉々として待ち伏せ取材し、死刑当日はそれをショーにして視聴率を取ろうとする人権感覚ゼロのメディアを従える日本では難しいのかもしれないが、入管の長期勾留問題にしてもこれにしても、与党と世論を後ろ盾にそのまま放置しておくとほんとうに国際社会から取り残されるよ(もう手遅れかも。 技術も経済もだめだし)。道から外れた隣人とか異論を語る異人を除けものにしてヘイトで見えなくして仲良しで固まって幸せだった時代は戦前(75年前だけど)で終わりにしないと。ダイバーシティとか言ったってぜーんぶただの掛け声倒れでやる気ないし、そもそも意味わかってないとしか思えない。

死刑廃止、っていうと「自分の家族が殺されても平気なのか」とか言うバカ(含. メディアの煽り)が必ず現れるけど、これは「中国や北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ」と同じレベルのバカのすり替えだから。今の時代の倫理と制度のことだから間違えないでね。 死刑をぜんぜん止めるつもりがない、議論すらやろうとしない、これってヘイトの放置と根は同じで、だからわたしはいまの日本が本当に嫌い。

日本でも公開されて、少しでも議論のきっかけになりますように。人の命が掛かっていることだから。


BBC2でTop of the Popsの夏のベストをやってた。 この番組は基本口パクなのだが、だからといってStyle Councilの”Long Hot Summer”のてきとーさ、Fun Boy Threeの”Summertime”のTerry Hallの呆けたような暗さに改めて笑った。 The Sundaysの”Summertime”は、いつ聞いてもよいねえ。


8.21.2020

[film] Une fille facile (2019)

 14日、金曜日の晩、Netflixで見ました。夏のバカンスぽいのが見たかったから。
NetflixはTVには入っていて、一度ケーブルTVが工事で使えなくなったときに業者の人が入れていって、見れるのはわかっているのだがTVを切り替えるのが面倒なのであんま見ていなかった。でも考えてみれば契約しているんだからPCでもログインすれば見れるのかー、って気づいて、見た。(TV画面で見る映画はここに感想を書いていない。ヘッドホンしてPCで見るのを書いている。画面のサイズは関係ないの)

女性監督Rebecca Zlotowskiの新作。英語題は”An Easy Girl”。見初めてしばらくしたら英語吹き替え版であることに気づいてフランス語 - 英語字幕に切り替えた。かんじでないのよね。

冒頭、水着の女性が波打ち際でぱしゃぱしゃ気持ちよさそうにしている。
カンヌに暮らす16歳のNaïma (Mina Farid)がいて、といってもお金持ちではなくて母親がそこのホテルの従業員をやっているからで、おちゃらけた男友達のDodo (Lakdhar Dridi)とつるんで遊びながら演劇のオーディションに行こうよ、とか言っている。

ある日家にいくといとこで歳上のSofia (Zahia Dehar) - 彼女が冒頭の浜辺にいた人 - がパリから来ていて、昨年母親を亡くした彼女はずっと大人っぽい女性になってブランドもののカバンを気前よくくれたりして、言うこともなんかかっこよいのでぽーっとなる。お話は、Naïmaの視点と語りでSofiaと一緒だったひと夏の経験を語っていく。

SofiaとNaïmaが浜辺で遊んでいると、それを遠くから眺めているクルーズ船の存在を感じて、夜の波止場でふらふらしているとそのクルーズ船がおいでよ、って言ってくるのでふたりは乗りこむ(一緒にいたDodoは入れて貰えずふてくされて消える)。そこにいた船の頂点にいるのがAndrès (Nuno Lopes)とPhilippe (Benoît Magimel)のふたりで、ギターを爪弾いていかにも遊び人ふうのAndrèsと物静かなPhilippeはどちらも見るからに働かなくても平気な金持ちふうで、早速AndrèsとSofiaは船の奥に消え、Naïmaは追い出されることもないので夜中に船内をうろついているとねっちり絡みあっているAndrèsとSofiaを見てしまい、でもそれ以降、昼間も彼らに会うとおいでよ、って誘われるので彼らのサークルに入って一緒に食事したり、船でイタリアのカプリ島に遠出して、やはりお金持ちのマダムのところでランチしたり、でもいつも注目されるのはSofiaで、明らかに場違いで自分なんかお呼びでないことをわかっているNaïmaをPhilippeが見守っていたり。

なぜSofiaはもてはやされてあのサークルに入れて貰えるのか、AndrèsとPhilippeはなにを考えているのか、ただSofiaの身体目当てなのか、Sofiaはそれをどう思っているのか、自分はどう見られているのか、Dodoたちからは、母親やホテルの従業員たちからはどう見えているのか、などなど、Naïmaはいろんなことに息を呑んだり見つめたり考えたり、そうやって彼女は知ることになる。働く必要のないお金持ち連中にとって、Sofiaの肉は彼らが慈しむアートのオブジェと同じようなもので、でも一時の使い捨てで、白人ではないSofiaも自分もあのクラスのサークルには決して入ることができない、今のこの年頃の女性だったからだ、っていうサマーリゾートの政治のありようを。

やがて彼らの船はどこかに旅立って、Sofiaもどこかに消えてしまって、ほんとにほんのひと夏でかき消えてしまう、そういう限られた時間の出来事を”An Easy Girl”がTwitterでわーきゃー連投していくその生々しさと、それらの反対側でばっかじゃねーの、っていうSofiaのクールな目線と…

New Yorker誌のRichard Brodyさんがレビューで書いているように、これはÉric Rohmerの“La collectionneuse” (1967)とJacques Rozierの短編 - “Blue jeans” (1958)を女性の側から書き直したようなもので、特に“La collectionneuse”なんて冒頭そっくりだし、男の好きなアートコレクションが絡むし、くどくどしたAdrien(男)のナレーション(こじつけ)に対するHaydée = Sofiaからの回答のように思えてならない。 でもHaydéeはコレクションなんてしていなかったし、モラルなんてはあ? だし。 むしろ彼女はそういう態度からできる限り自由であろうとしただけなのだ、って。 それが夏ってもんじゃないか、って。

そしてこういうのがこんな夏にリリースされるのはきついなー。金持ちには関係ないだろうけど。


今日はたるいので会社休んで、昼間に映画館行ったらやっぱし客は自分ひとりだけだった。
映画が帰ってきたよ! でっかいスクリーンで見ようよ! のキャンペーンをやってた。 それはわかる、けどそうじゃなくても大丈夫、になってもう5ヶ月くらいか。

https://youtu.be/eUviffp1rOA

8.20.2020

[film] The Lighthouse (2019)

 13日、木曜日の晩にBFI Playerで見ました。なんとなく見逃していたやつ。

A24配給によるサイコホラー(かな?)で、脚本は監督のRobert Eggersと彼の兄弟のMax Eggersの共同。1890年という時代設定を意識して画面比は1.19:1、1938年以前のヴィンテージのBaltarレンズを使って、35mmのDouble-X 5222というモノクロフィルムで撮って、音はもちろんモノラルで、結果、穴倉を覗いているような四方を閉ざされたごりごりの格子模様から逃げることができない。

1890年、ニューイングランドの灯台にふたりの灯台守がやってきてこれから4週間、彼らはここで一緒に暮らして仕事をすることになる。上がThomas Wake (Willem Dafoe)でやたら高圧的でおならばかりしていて、彼の下で食事に掃除に下働きぜんぶをやるのが「Lad - あんちゃん」と呼ばれるRobert Pattinsonで、彼はこの後そんな呼び方するな、とEphraim Winslowと名乗り、更に本名はThomas Howardである、という。他に変なのも出てくるけど、登場人物はこのふたりと、カモメと、人魚と。

天気はずっと悪くて海も空も同じ灰色で風がごーごー耳を塞いでカモメが合いの手を入れて(ヘッドホンで聴いているとずうっと壁のように風鳴りが)、Thomas Wakeはどこまでも不機嫌に理不尽にきつい仕事を言いつけてもう一人を貶して文句ばかり言っている。映画は主に奴隷扱いされているThomas Howardの目で、自分の部屋にあった小さな人魚の彫り物とか、灯室(光源レンズがある部屋)に裸になっているThomas Wakeを見たり、不吉でやかましい片目のカモメとか、不機嫌と悪天候に晒されて現実と妄想がごっちゃになって狂っていく様を描く。とは言ってもThomas Wakeは最初から狂犬のようだし、苦痛に不安に不満を和らげたりごまかしたりするためにふたりでずっと酒を呑んだり歌ったりもしているので、なにかの境界が倒れて向こう側に突き抜けてしまったかんじはない。とにかくずうっと吹き荒れる嵐の中でふたりの男が怒鳴りあって取っ組みあって、それが延々。そんなことをやっているうち、救援の船も寄れないような大嵐が何日も続いて食べものが底をついて、酒もなくなって。

地の果てにある灯台 - 船乗りを救うためにある灯台に働きにやってきた彼らが呪われた極限状況みたいのに引き摺りこまれて救いようがなくなって散々、というよりは自分たちで互いの墓穴を掘りあってあーめん。どこまでもダーク(黒灰色)なテンションに貫かれているのでかわいそうなかんじはしなくて、一生やってれば.. になるのだが、最後の方で寓話・神話的なところに寄っていっちゃったのは、わかんなくはないけど賛否あるかも。まあ、そうすることでただの残虐スプラッターになってもおかしくないところをなんとか文芸モノぽい輪郭に留めた、のだろうか。 ほんとは神話もくそもない肥溜めみたいなところにただ墜ちてそのまま海の藻屑に、でもよかったのに。

元は実際に1801年に起こった事件 - "The Smalls Lighthouse Tragedy"を緩くベースに、E. A. Poeの未完の遺作 - "The Light-House"も参照して、Herman MelvilleやR. L. Stevensonの海洋小説のトーンも入っている – というのは見終わってから知って、そうかもねえ、とか思うもののとにかくふたりの至近距離のぼこぼこ言い合い殴り合いがすごくてそれどころじゃない。それくらいWillem Dafoeの咆哮とRobert Pattinsonの暗く憑りつかれた目はじっとり残って夢に出てきそうで。

これ、海辺の特設テントとかで夜中に(もちろんフィルムで)上映したら雰囲気でそうだねえ。最後にテント内にカモメを放つの。

あ、海の恐ろしさみたいのはもう少し描いてもよかったかも。Jean Epsteinの映画に出てくる海みたいな海、とか。

8.19.2020

[film] Festival (1967)

 11日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。この日の昼間が死ぬほど暑くて晩になっても続いていて、なんも考えたくない、さーっと流せるドキュメンタリーがいいな、って。
1963年から65年までの3年間、Newport Folk Festivalの様子を追ったモノクロの映像。

いろんなミュージシャン - カントリー/フォーク系だとPeter, Paul and MaryとかPete SeegerとかBob DylanとかJoan Baezとか Judy CollinsとかDonovanとかJohnny Cashとか、ブルース、R&BよりだとSon HouseとかHowlin' Wolfとか Mike Bloomfield とかThe Staple Singersとか、ブルーグラスとか大道芸みたいのとか、知ってる人も知らない人も代わるがわる出てきてじゃんじゃか演奏していく。すさまじいパフォーマンスで聴衆を圧倒するような様子 – DylanとBaezは別格ぽいけど - は余り描かれなくて割とみんなすごーいなんだこれ? って表情でステージの方を見たりして、演奏する側もその様子にあっさり感動しているような。

昨今の夏のフェスときたら立派な産業で、マーケティングからチケッティングからマーチャンダイズからアクセスからぜんぶパッケージとして用意されてて、その居心地からなにからレイティングされて失敗すれば会社が軽く吹っ飛んだりする。それがよいのか悪いのかは別として、この頃はまだ素朴に野外の音楽会に大挙して人が集まっていろんなスタイルのミュージシャンがフォークやブルーズ - トラディショナルで地に足のついた民衆の音楽 – を演奏する、それをみんなで聴いたり驚いたり一緒に歌ったりして(その音楽の歴史に)参加する、ということになにか画期的な意義がある、と思われていて、その思いが共有されていたようで、その様子が新鮮だし生々しい。

この、すごいことが起こっているぞ、という地鳴りや雷神風神を呼ぶかんじはMonterey Pop FestivalやWoodstock のあたりまで続いたのだろうか? 今はなんでこんな … とか言ったところでしょうがない、ただ音楽が、歌が世界を変えることができる、とみんなが素朴に信じようとしていた幸せな時代があった、というのはこれを見るとわかる。

やっぱりJoan Baez とBob Dylanは魅力たっぷりで、ふたりを見ているだけで楽しい。Dylanがエレクトリックギターを手にした65年のライブも出てくるけど、この映画の流れの中ではどうってことないような。あとは"I Walk the Line" を歌うJohnny Cashの電撃。


Jazz on a Summer's Day (1959)

12日、水曜日の晩、前日に続けて暑くてやってられないので、Film ForumのVirtual Cinemaで見ました。 『真夏の夜のジャズ』として有名なやつで、1958年のNewport Jazz Festivalの模様を追ったドキュメンタリー。たまに会場の横で開催されていたAmerica's Cup(ヨットね)の様子も挿入される。デジタルリストアされたものすごくきれいな映像。上のフォークがモノクロでこっちの方が撮影年は前なのにカラーで、写真家のBert Sternが監督にいることもあってとってもリッチでカラフルで、上の”Festival”がガリ版印刷ならこっちはカラーグラビアたっぷり、どっちも古雑誌を広げるような味わいがたまんない。

ジャズはそんなに詳しくないのだが、そんなの関係なしにとにかくものすごくおもしろい。
いろんな音の重なりや連なりが絵の具を混ぜるようにトーンを変えつつ演奏の進行と共に自分の頭のカンバスにジャズ的な模様 – それがどうしてジャズになる/ジャズと呼ばれるの? を描いていく、そのスリリングなこと。最初の方のJimmy Giuffre 3のBob Brookmeyerのかっこよさ、異界からやってきたようなThelonious Monkの異様さとか、Anita O'DayにDinah WashingtonにGerry MulliganにChuck BerryにLouis ArmstrongにMahalia Jacksonに、ものすごい昔に伝説のような名前として聞いていたひとたちがほんとうに動いて演奏したり歌ったりしている。どれも人間とは思えないようなすごいことをやってて、でも楽しそうに笑っているの。

時折映しだされる客席の様子もとっても素敵で、あの女性はどんなところに住んでいるのだろうとか、普段はなにをしている人?とか、あのカップルはあのあとどこに行ったのだろうか、とか、ライブの様子と一緒に彼らのそういう像もしっかり残る。昔の観光地の素敵な写真みたいに。

ここにある優雅さ - 音楽を楽しむ、海辺の風を楽しむ優雅さって、いまのフェスを撮ったものにはあまり出てこない気がする。いまのフェスってとにかく楽しまなきゃ損、苦の果ての楽、みたいにみんなそれぞれの熱狂浄土に飢えている気がして、わからなくはないけどー。

中学生の自分に上の2本を見せてみたらどっちの音楽をいい、やりたい! って思うだろう?やっぱり後者だろうねえ、って。
なーんでパンクとか来ちゃったのかなあ(ぐるぐる)。おろかもの。


先週は上のように熱波でしんでいたが今週はしょうもない気圧のせいで頭痛はくるわ目はまわるわなんも手につかない。

[film] Babyteeth (2019)

 こっちから先に書く。16日、日曜日の昼間、Picturehouse Central – 映画館 – で見ました。
ここのスクリーン2って、結構でっかいのだが、この回にいたのは5人くらい。前方にはだーれもいないのでめちゃくちゃだらしない恰好でみて、だらしなく笑って泣いた。

監督Shannon Murphyさんにとっては長編デビュー作となるオーストラリア映画。舞台劇用の戯曲だったものを作者Rita Kalnejaisさんがそのまま映画用に書き直している。本編が始まる直前に Shannon Murphyさんのビデオメッセージが流れて、子供みたいな人だな、って思った。ものすごく笑って泣いて、やられたかんじ。すばらしいったら。

高校生のMilla (Eliza Scanlen)が駅のプラットフォームで、そのまま飛び降りちゃうかのような思いつめた顔で立っていて、電車が入ってきたまさにその時、Moses (Toby Wallace)がばーんて立ちはだかって、というふたりの出会いからしてまるで少女漫画みたいで、しかもMillaが鼻血たらしたのをMosesがTシャツ脱いで拭ってあげたりする。バイオリンケースを抱えたMillaに対して全身タトゥーだらけでずっと風呂にも入っていなさそうでどうみても堅気じゃない歳もずっと上の20代のMoses、ここから容易に想像できる身分境遇の段差を超えた難病 – 純愛モノの定型とは随分違っていて、その枠を突き破って転がっていく様が痛快なの。

MIllaは癌で化学療法をやっているから髪の毛がないのでウィッグ - 色が変わっていく - をしてて、彼女のパパ - Henry (Ben Mendelsohn)は精神科医で、ママ - Anna (Essie Davis)は元クラシックのピアニスト(今は弾けなくなっている)で、お家もすごく立派で、そこにMosesに惚れちゃったMillaが彼をそのまま連れてきて、Mosesは食べ物とかすげえななんでもあるし、って大喜びなのだが、ふたりを見たAnnaとHenryは完全に引き攣ってて、でも娘が明るく楽しそうにしているので我慢するか、になる。 両親だってそれぞれ悩みを抱えててAnnaは不眠症で夜中に彷徨っているし、Henryは医師だから自分でドラッグ処方してやってるし、互いに対していいかげんにしろ、っていう思いを抱きつつどんより静かに絶望している。でもいまはMillaのケアが第一だから抑えてきて、それがMosesの闖入(こいつ、夜中に家に忍びこんで冷蔵庫の食べ物を漁ったりする)と初恋に燃えあがってしまったMillaの挙動で更にとっちらかって全員が空を見あげてしまう。

ふたりで町に出かけて夜遊びして、はしゃぎすぎて吐いちゃったり小競り合いしてどつきあってむくれたり、それらミクロのごたごたが紙芝居のように展開していき(サブタイトルが出るの)、そのそれぞれの場面で両親が直視して死にたくなる地獄とMIllaとMosesが見いだす天国の対照と交錯がすばらしくて、両親は大切なMillaを連れまわすMosesを殺したいと思うけど、そういうことを思う両親を殺したくなるMillaと、そういうことを思うMillaに最大の愛を注ぐ両親と、彼女を周回遅れで愛してしまったMosesと、それらの結ぼれが調子外れにからからと回っていって止まらない。

そして、そういうからから糸車に絡みとられた優しい人たち - 特にMillaが、Mosesという愛を発見する。Millaの難病が、その難病ゆえに純愛を呼び寄せたり研ぎ澄ましたりしてふたりの像を高みに浮かびあがらせる、そういうことではなくて、別にその病とは関係なく、Millaは愛を発見するのだと思う - 彼女がMosesの首筋に触れてなぞる、彼の顔を見つめる、その驚異と感動に満ちた眼差しを見てほしい。ひとを愛しいと思うというのはこういうことだったのだ、って誰もが思いだすはず。

だから、いろんなごたごたを経て、最後にみんな - 4人に加えて隣人とか音楽の先生とかも - が集うクリスマスの出来事は感動的で、これから何度みても泣いちゃうと思う。 Millaが夜明けの木々を、世界を見あげるところ。 彼女が満ちていく自分の生を抱きしめる瞬間。

真ん中の4人の演技はみんなすばらしいのだが、Millaを演じたEliza Scanlenさんは、”Little Women” (2019)のBethをやった人で、あらためてあの四姉妹のキャスティングがとんでもなかったことを思い知る。 ママ役のEssie Davisさんは、”The Babadook” (2014)でも子供にきりきり舞いさせられる役立ったし、パパ役のBen Mendelsohnさんはこんなにすごい役者さんだったのか、って。

音楽もすばらしくて、サントラが出ているのならぜったい買う。クラシックからダンス系まで見事に場面を鷲掴みにする強い音たちが響いて、The Stranglersの”Golden Brown”をZephyr Quartetがカバーしたのとか、プールサイドの一番すてきなとこで、 Vashti Bunyanの”Diamond Day”がフルで流れる(ぼろ泣き)とか。

ストリーミングに来たら、また見よう。

8.17.2020

[film] Le Jeune Ahmed (2019)

 10日、月曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
ダルデンヌ兄弟の新作、英語題は”Young Ahmed”で、邦題は『その手に触れるまで』 - 日本では公開済? 昨年のカンヌでは監督賞を受賞している。

ベルギー郊外の小さな町に暮らす13歳のAhmed (Idir Ben Addi) - 外見はハリポタの彼がもしゃもしゃ髪になったような – がいて、父親はいなくて、母と兄と妹がいて、ごく普通のゲーム好きの子供だったのに突然イスラム教への熱が突然加速して、地元の導師のところに通って熱心にアラビア語やコーランの勉強をするようになり、ネットに出ている殉教した従兄のようになりたい、あの国に行きたい、とか言っている。

そうなってしまったAhmedにとって母親も塾の女性教師もユダヤ人だしお酒呑んだりしている不真面目な異教徒で、特に嫌がる握手を強要してきたり、音楽に合わせてアラビア語を教えたりする女性教師は間違っていて粛正されるべきで、そうしたら彼は本当にナイフを手にして彼女に襲いかかって、それは失敗してAhmedは少年刑務所に送られる。

ここまで、彼をそうさせてしまったものは何か、どうやって彼は原理主義的な方に傾倒していったのか、についての説明はない。

後半は彼の収容先での生活 – ソーシャルワーカーとか奉仕労働受け入れ先の農場の人たちとか精神科医とか、彼の周囲の人々との交流がドキュメンタリーのように描かれていく。ここで彼が特に気にするのは精神科医が被害者の女性教師との面談を許してくれるかどうか、どうしてかというと彼は歯ブラシの柄を床で削って尖らせて彼女を再び襲おうとしているからで、つまり彼は収容されても全く反省していないし矯正されるつもりもない。 寧ろ大勢の人との交流や再教育を通して自分の信仰心を試し(歯ブラシの柄のように)より研ぎ澄まそうとしているかのように見える。

カメラは勿論ここでもAhmedと距離をとり、彼がなにを感じたり考えたりしているのかを明確にはしない。ただ彼に親しそうに寄ってくる農場の少女Louise (Victoria Bluck)とのことが彼をどうにかしちゃうのか(行けLouise! ってなる)、そんなのは関係なく何があっても彼は当初の意思をどうしても曲げるつもりはないのか、ずっとはらはらしながら見ていると最後にはきりきりした胃に硫酸をぶっかけるような事態が。

ダルデンヌ兄弟のことだから最悪のことにはなるまい、って祈るように見守るしかないのだが宗教に傾倒した子供 – その宗教がラディカルで他者を傷つけるようなものである時に - 我々、親だけじゃなく周囲の大人たちはなにをすべきなのか、どう接するべきなのか、というテーマ。 宗教にどう向かうべきかとか、宗教者としてどうあるべきか、ということよりも、人は人を傷つけたり殺したりしてはいけない、ということを信仰とその教義とは離れたところで、どうやって(汚れた)大人たちは(痛みをあまり知らない)子供に伝えることができるのか、ということ。

これは若者によるヘイトやナイフによる犯罪が絶えないヨーロッパだけではなくて、かつてオウムによる悲惨なテロ事件を経験し、いまだに(大人たちが率先して)ヘイトを撒き散らしている日本でもまったく他人事の話ではなく(この国ではむしろバカな大人をどうすべきか問題かもしれないけど)、Distancingが常態になってきた今日この頃にはとても切実なことだと思う。その手に触れることなんてできず「近寄らないで距離を取って」、が「それ以上寄ってきたら刺す」とか「そいつは邪魔だから消す」にならないためにも。とても難しい、けど考えていかないと。考えられるようにしないと。

ブレッソンやベルイマンの映画は例えば悪というものについて、それがどういうもので、どんなふうに世界に偏在して我々を苦しめるのかを教えてくれるのだが、ダルデンヌ兄弟のそれはここに描かれたように悪とみなされるものがどう現れてそれとどう向き合っていくべきなのかについて実践的な知恵や示唆を与えてくれる気がして、もっと見られるべきだと思う。

14歳であらゆることに手を付けながら何一つ満たされない”Perfect 10”のLeigh - 母親がいない - と13歳でひたすらひとつの宗教に没入しても同様に満たされない”Young Ahmad”のAhmad - こっちは父親がいない - ティーンズの最初の方って難しいよね、っていうのも思った。

8.16.2020

[film] Os Verdes Anos (1963)

 9日、日曜日の晩、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。
ポルトガルのPaulo Rochaのデビュー作。 デジタルリストア版がここで公開されていて、先週終わりからは彼の第二作の“Mudar de Vida” (1966) - 英語題 - “Change of Life” - 邦題『新しい人生』も見れるようになっている。

英語題は”The Green Years”、邦題は『青い年』。画面はモノクロ。日本では「青い」のが、欧米では「緑」になる。おもしろいねえ。

19歳のJúlio (Rui Gomes)をリスボンに迎える伯父のAfonso (Paulo Renato)の語り - 偉そうなおじさんの語り - から入る。彼を自分の靴屋の見習いとして雇い入れるので車で迎えに行こうとするのだが途中のバーで友達に捕まってそのまま..  後はなんとかなったのかJúlioは都会にやってきて、迷い込んだおおきな建物でIlda (Isabel Ruth)と出会い、そのお金持ちの家でメイドをしているIldaは靴の修理を頼みに行ったAfonsoのとこでJúlioに再会して、ふたりは公園とかで休みの度に会うようになって、Afonsoもふたりをリスボン観光に連れていったりする。

ふたりの関係の進展を示すような会話とか出来事がクローズアップされることも、彼らの思いや感情が切々と語られることもあまりなくて、面倒を見てくれるAfonsoとのやりとりとか、突然バーでJúlioを誘って気前よく驕ってくれるおじさんとか、Ildaのメイドしている家の女主人との会話とか、それら大人たちとの関係や会話のなかで彼らがどう反応するのか、から彼らの世間に対する態度 - 公園とか原っぱでのんびりしていれば幸せ、とか - がなんとなく見えてくる。

働いている家で男主人が隠れて浮気しているのを見たりしているIldaは現実的で将来の生活設計とかもちゃんと考えているようで、他方で無口で無愛想なJúlioは、自分に構ってくる大人がちょっと煩わしくて、もう大人なんだからほっといてくれ、って思っている(たぶん。ほぼ喋らないからわからないけど)。なので、Afonsoが連れてってくれたダンスホールで、うまく踊ることができないとJúlioは膨れちゃうし、AfonsoがIldaにあげた忘れ物のセーターがJúlioには気に食わなくて、その程度のこと(って大人はおもう)で喧嘩してセーターを取りあげて気まずくなって。

で、そのあんまり社会化されていない一途さでもってJúlioはIldaに結婚を申し込んで、当然のようにIldaはまだ無理だわ、って返して …  
Júlioがもうちょっと聞き分けのよいこだったら … 映画にはならないか。

ここには大人 - 収入を得て自分で生活できるというくらいの意味 - の入り口に立ったばかりの若者、村とは違って友人や仲間たちと楽しく会話したりできる人たちが沢山いる都会にやってきた若者、そのタイミングで初めて好きになって付き合ってくれそうな女性と出会った若者、でもそれだけで、大きなイベントもなく夢も野望もなく、ただ日々働いていくしかないJúlioのような若者は例えばこんなふうになる、というのがとても正確に繊細に捉えられていて、そこには感情移入できるような熱さも突き放してしまう冷たさもない、なにかを代表したり代弁したりすることもない、ただ冷静で精緻で - 誠実、という言い方がよいのかどうか - これと同じかんじは、Manoel de Oliveiraにも、Pedro Costaにも、Miguel Gomesにもある気がして、ポルトガル映画的ななにかなのだろうか、とか。

ひょっとしたらものすごく悲惨な状況を描いているのかもしれないけど、あまりそうは見えないような。 そこにわかりやすく社会構造や風習のようななにか、人々の意識や偏見まで織り込むこともできるのかもしれないけど、そこには行かない。 登場人物たちひとりひとりの語らない表情や言葉に寄っていっては離れて、ある一定の距離が保たれていることで見えてくるものがある。

Carlos Paredesの音楽がすばらしい。弦の引っ張りと縮みが透明なところから束になるところまで、水のように空気を震わせてその震えがはっきりとこちらに伝わる。ブラジル音楽のそれにも通じる、高性能な糸電話みたいなのを通してやってくる音。サントラ、どこかにあるのかしら?

ポルトガル、また行きたいなー。


昨日の夜に雨がざーざー来て、いちおう熱波は行ってくれたみたい。もう二度とくんな。

[film] Small Town Girl (1953)

 すこし戻って、7日の金曜日の晩、アメリカのYouTubeで見ました。 New Yorker誌が紹介していたから。 このタイトルから頭に流れてくるのはJohn Cougar Mellencampの”Small Town”とBilly Joelの”Uptown Girl”のミックスなのだが、そんなのどうでもいいか。  

これ日本では公開されていないの? とっても楽しめるのになー。

NY州の上の方の人口4000人くらいの小さな町 - Duck Creek(あひる河)に暮らすKimbell一家がいて、パパは厳格な判事で敬虔なクリスチャンで、娘のCindy (Jane Powell)は歌がうまくて教会で光に囲まれてきらきら歌ったりしている。

ある日、成金のぼんぼんのRick (Farley Granger)がスピード違反でお縄になって、パパは自分の町の人々を危険にさらすなんて許さん、と彼に30日の拘留を言い渡して、Rickは恋人でブロードウェイの売れっ子ダンサーLisa (Ann Miller)とか金持ちママとかに電話してなんとかしてよ、って圧力をかけたりするのだがパパの方は譲らない。

こうして町の拘置所に囲われて腐ってしまったRickだが、基本的に我儘の構ってちゃんなので、Cindyに目をつけて食事を作って貰ったり、一晩でよいのでママの誕生日に抜けさせてくれないか、って頼んで一緒に実家に行って - 実はLisaの方に会いに行ったりするのだが、その後にCindyと夜のNY - Nat King Coleが歌ってくれる - を楽しんだりしているうちにだんだん仲良くなっていって、その様子を見た町の雑貨屋の”Papa” (S. Z. Sakall)は、いやいやCindyはうちの息子のLudwig (Bobby Van)と結婚することになっていたのじゃ、って息子を焚きつけて、でもLudwigはずっとブロードウェイのスターになる夢をもっていて…

ストーリーはrom-comとしてもフックが弱すぎてエンディングも、え - これだけ? なのだが、本作の最大の魅力は - New Yorker誌でも言っていたけど - Busby Berkeleyによるダンスシーンの演出で、とにかくとんでもないの(ただ踊るのはLisaとLudwigで、真ん中のふたりじゃないところがまた.. )。でもとにかく特に、”Papa”にとっととCindyにプロポーズしてこい!(Rickに取られちまうぞ) って尻たたかれたLudwigがCindyのとこに行って、軽く「ねえ結婚してくれない?」って言ったら秒速でNOを貰って、「ありがとう! そうこなくちゃ!」って大喜びして(彼はどうしてもブロードウェイに行きたかったから)、そのまま自宅まで延々ぴょんぴょん飛び跳ねながら帰る"Jumping Song”のすさまじさ。ここのBobby Vanがすごいったらない。 この振り付け - というかぴょんぴょん跳ねて道路とか渡っていくだけ - ってGoldfrappの”Happiness” (2008)のPVの元ネタなのね。Goldfrappのもかわいくてよいけど、オリジナルは驚異的だから。

Lisaの方はブロードウェイのスターという設定なので、Busby Berkeleyお手のもののレビューショー(なんであんな発想ができるのかちっともわからない)をぶちかましてくれるのだが、やっぱり最後はLisaのとこに押しかけたLudwigがふたりして爆裂ダンス合戦をやるのを見たかったなー。

あと、Farley Grangerってどうしても『夜の人々』(1948) のイメージなので、強盗でもした後に懸命に逃げてきたんだと思った。 で、最後にはCindyのパパに撃ち殺されちゃうの…


美術館に少しづつ馴染んでいこうのシリーズで、National Galleyに行った。
“Titian: Love, Desire, Death”をもう一回(TitianとGuido Reniの”The Rape of Europa”の見比べとか)と、Lock Down中にぴかぴかのリノベが完了した19世紀絵画のRoom 32を。
https://www.nationalgallery.org.uk/stories/the-refurbishment-of-room-32

コレクションが日本に旅をしていたってびくともしないかんじ、すてき。

8.14.2020

[film] Perfect 10 (2019)

 8日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。映画館でもやっているけど、ストリーミングの方で。昨年のLFFでも上映された監督(原作・脚本も)Eva Rileyのデビュー作で、これもCreative England, BBC Films, BFIがサポートしている。

ブライトン郊外に暮らす14歳のLeigh (Frankie Box)がいて、彼女は体操をやっていて競技会も近いのだが練習場では他の選手のお喋り - 自分のレオタードが古いことに対する悪口かも – なんかが気になってあまり集中できない。

ある日、家に帰ると知らない青年 - Joe (Alfie Deegan)が現れて、自分らは父親が同じ兄妹だという。Leighは母を亡くして間もなくて、雑貨屋の店員をしている父親は不在がちで、兄がいることなんて全く聞いていなかったのでふざけんなよ! って追い払うのだが、Joeはなんか人懐こく寄ってくる。 体操の練習もつまんなくなっているLeighは、彼のバイクに乗せてもらって、そうして彼の不良仲間に交じって遊んだり盗みをしたりするようになって、そうするとますます体操の練習の方には身が入らなくなって ..  というアップダウンを繰り返す日々を描く。

外でみんなでたむろしている時に、こいつ体操やってるんだぜ、って言われたLeighが音楽にあわせて軽く宙返りしたらすげーって賞賛されてちょっと得意になったり、Joeと原っぱを思いっきり駆けっこしたりバイクの乗り方を教えて貰ったりして少しづつ近寄っていったりとか、青春! みたいなやや眩しめのエピソードもあるのだが、基本は父に放っておかれて家族もぼんやりのまま、だいたいひとりで浮かんだり沈んだりを繰り返しつつ全体としてやっぱり沈んでいくっぽいLeighが、最後にやっぱり自分は.  って開き直るまで。

ずっと練習して精進してPerfect 10を狙うよいこの青春の裏道 – と言ってもなにが表で裏でなにがどうしてよいのかわるいのか誰も教えてくれないし誰に聞いたらいいのかもわからないので火傷覚悟で張ってみてどうする? どうなる? っていう日々のミクロな、焦りとか後悔にドライブされるたったひとりの攻防が切々と描かれていてすばらしいと思った。これに比べたら”Quadrophenia” (1979)はなんと立派で豪勢な青春映画だったことか、庇護者がいる”Eighth Grade” (2018)はなんと贅沢な奮闘の映画だったことか、とか。

いろんな選択肢があるなか、これでもなくあれでもなく中途半端なところでやめちゃったり投げちゃったり、集中力、というのとはちょっと違う配合の加減で自分でもよくわからない穴に頭を突っこんでどんより、ばかりの子供の頃のあれこれがとても生々しく蘇る(ひとによるのだろうけど。同年代の子供たちに見せても「わかんなーいー」になってしまう可能性は十分あるかも。みんなが遠巻きにLeighを見ていたように)。 決して明るいトーンのcoming-of-ageものではないのだが、背伸びも歯ぎしりもわかりやすい反抗もないのってよいことだと思う。

あとはこれが映画デビューとなる主演のFrankie Boxさんのそこにいるかんじのすばらしさ。親だの学校だのにそんな好きでもないスポーツとか習い事とかやらされていいかげんほんのり絶望している子供達に見てほしい。
まあこの作品 – こないだの”Make Up”なんかも - が日本で買われる可能性ってほぼゼロに近いと思うので、その辺からして..


会社に行ったついでに、Museum of LondonのGalleyでやっている展示 - “London Calling: 40 years of The Clash” ていうのを見てきた。予約はいるけど無料。 そんなに沢山あるわけではなくて、アルバムジャケットでPaul Simononが叩き壊したベースがあって、Pennie Smithの写真はやっぱりかっこいいねえ、くらい。 いまは好きな曲も結構あるけど、出た当時はどこがよいのかちーっともわからなかった。 ツバキの火曜日でもこれがかかると抜けてたし。  79年て、“Metal Box”がでて、”Y”がでて、”Cut”がでて、”Entertainment!”がでているんだよ。 ”London Calling”なんてゆるゆるのオールドスタイルにしか聴こえなかった。  それにしても40年かあー。

[film] An American Pickle (2020)

 8日、土曜日の午後、Curzon Victoriaで見ました。”Summerland”を見終わって、そのまま隣の部屋でやっていたやつに(ちゃんとチケットは買ってる)。こちらも客は全部で5人くらい。

米国ではHBO MAXでの放映らしいがこちらでは細々と劇場で掛かっている。わたしはSeth Rogenが大好きなので見る。それにしても、”Sausage Party” (2016) – “Bananas Town” (2017)  短編 – ときて今回はPickle..   別にいいけど。 でも今度のはそんなお下劣なやつではないの。

原作はSimon Richの2013年の短編 – “Sell Out”で、脚本も彼が書いている。

東欧のユダヤ人コミュニティ(Shtetl)に暮らすHerschel Greenbaum (Seth Rogen)は妻のSarah (Sarah Snook)と出会って結婚して夢を語り合っているのだが、重なるロシアのコザックの野蛮な襲撃に耐えられなくなってアメリカに移住する。こうして1919年、NYのピクルス工場で働いていたHerschelだったが、ある日ピクルスの桶に落っこちてぱたんと蓋閉じられてタイミング悪くそのまま工場が閉鎖になって100年経って2019年、廃工場に忍びこんで遊んでいた子供達がHerschelを見つけて騒ぎになる。

なんで100年もそのままで平気だったのか? は酢漬けだったから… 程度の説明しかなくて、見つかった彼の唯一の身内は曾孫のBen Greenbaum (Seth Rogen 二役 – こちらは髭を剃っている)しかいなかったので、BenはHerschelを連れて帰ってBrooklynの彼のアパートで暮らすことになる。

Herschelの妻のSarahは当然お墓に入っていて、その先のBenの両親までも交通事故で亡くなっているので親族はふたりきり。フリーランスでモバイルアプリの開発をして一発当てようとしているBenは独り身で友人もそんなにいないようで、でもHerschelは何見ても触ってもびっくりして大騒ぎしてやかましくて、Benの仕事の邪魔もしてくるのでもう出ていけ!ってBenはHerschelを追いだしてしまう。

ホームレスになったHerschelは自分にできることを考えて、スーパー(”Whole Green”だって)で期限切れで棄てられていた胡瓜と塩を、同様に拾い集めた空き瓶にそれらを詰めて、雨が降ってきたら雨水をその瓶たちに貯めて、そうやってできたピクルス(そうやってできちゃうの?)を街角で売り始める。それがSNSで評判になるのだが、Benにはそれがおもしろくなくて、市の清掃局に通報して潰してやって、それならばと知恵を貰ったHerschel側はインターンとボランティアをうまく使ってマーケティングまでしっかりやって復活して、そしたら今度はHerschelのガチの戦前の価値観が炎上して追いまわされて..

100年前からやってきた男の浦島太郎みたいな騒動を描くのではなくて、彼の”Neighbors” (2014)のシリーズにもあったような敵味方に分かれた容赦ない潰し合いがふたりのSeth Rogenの間で勃発する。と書いていくとおもしろそうなのだが、Herschelが迫害を逃れて米国に来た移民であること、時代認識とかに100年間のギャップがある – 彼はナチスのユダヤ人迫害も知らない - こと、Herschelのユダヤ人としてのアイデンティティや家族意識、身内がBenしかいないこと、そのBenも両親を失って孤独であること、などを考えるとそんなには笑えなくて、笑えればいいってもんではないのでそれは嬉しい驚きだったりするのだが、これは移民問題に限らず現代のソーシャルの至るところで起こっている軋轢や排除排斥と無関係なそれではなくて、それが曽祖父と曾孫の間で、ピクルス製造とアプリ開発の間で起こってしまう荒唐無稽なこと(でもギャップは割とこういうところにこんなふうに)ときたら。

最後にはもちろん和解がくるのだが、そこに至るまでのツイストのおもしろいこと、そしてタイトルが「アメリカのピクルス」であること、などなど。

日本だったら漬物樽とか醤油樽とか味噌樽とかいくらでもあるし、侍が現代に現れるようなドラマもいっぱいあるけど、やるならここまでやってほしい。 でも実際にぶつかってみたら家族観もジェンダー観もぜんぜんギャップなかったり(っていうホラー)。

ピクルスのことにはあまり触れてくれなかったのだが、やっぱりピクルス食べたくなる。”Maggie's Plan” (2015) にも出てきたBrooklynのピクルス。と思ったらここ(Brooklyn Brine)の、なくなっちゃったみたい?  UKにもピクルスはある。けどUSのとはちがう。ベーコンもそうなの。


雑誌ふたつ。 Covid-19が始まってから紙の配布を停止していたTime Outが先月73歳で亡くなった創業者Tony Elliottに捧げる号を久々に紙で。 Joe BoydやMichael Palinのコメントが興味深い。
もういっこは、Jarvis CockerがゲストエディターのThe Big Issue。16歳のときにノートに書いていたPulp起動計画のこととかいろいろ。

8.12.2020

[film] Summerland (2020)

 8日、土曜日の昼、CurzonのVictoriaで見ました。3月以来のVirtualではない映画館での映画鑑賞。ものすごく楽しみにして駆け込んだかというとそんなでもなくて(自分でもがっかり)、Virtualの方でやってくれないから(そのうちやるのだろうけど)、くらいの理由。なにがなんでも映画館で見るの! というかつての愛は幾分冷めてしまった気がする。そのうち戻ってくるのかも知れないけど。

今の時期、そんなに新作もない中でどんなのを上映しているのかというと、ストリーミングでやっているやつが半分くらいと、「帝国の逆襲」40周年とか、「フラッシュ・ゴードン」40周年とか、「インセプション」10周年とか...

上映前にかかるCMはやはり抑え目で、動物愛護団体の、動物園の動物たちはずっと一生Lockdownなんだよわかってる? とか。 客はぜんぶで5人くらい。 Distancingはじゅうぶん。

女性監督Jessica Swaleのデビュー作で、原作/脚本も彼女の。これまで演劇の方 - グローブ座とか - でやってきた方だそう。 夏っぽいかなーって思って…

70年代、英国Kentのドーヴァーの白い崖が見える海辺の一軒家にAlice (Penelope Wilton)がひとりで暮らしていて、子供達からは魔女だなんだと怖がられていて、そこから40年代、同じ場所に暮らしている若い頃のAlice (Gemma Arterton)の話になる。ここでも既にひとりで暮らしている彼女は村人たちや子供たちから魔女だスパイだナチスだ散々言われたり嫌がらせされたり、でも気にしていない。

彼女はその家でずっと文献を漁ってタイプライターを叩いて民俗学の研究をしていて、ある日いきなりロンドンから疎開してくる男の子Frank (Lucas Bond)の受け入れ先になるように言われて、聞いてないって抗議するのだが通知してある(郵便受けからごわごわの昔の手紙が)って。Frankの父親は飛行機乗りで戦争に行っていて母親は官庁に勤めてずっと不在らしく、悪い子ではなさそうだし放ってはおけないのでしぶしぶ面倒を見始めて、子供だからなにやってるの? とか聞いてきていちいち面倒なのだが、神話研究でMorgan le Fay とかFata Morgana - 蜃気楼で海上に浮かぶお城が現れる場所とかを追っかけて地図にマークをしたりしている。

で、そうやって自分のやっていることを振り返ったりしていると、自分が大学の頃に愛した彼女 - Vera (Gugu Mbatha-Raw) との輝いていた夏の日々のことが蘇ったりして、ちょっと涙目になったり。
タイトルの”Summerland”というのは、空中のお城のようにいつか空の上に現れると信じている“pagan heaven”のことで、気がつけばFrankとふたりで子供になって懸命に探したりしていて、ああVeraとふたりで転げ回って遊んだ夏も… っていうのが度々浮かんでは消えていく。

終わりの方ではFrankの父のことに絡んで彼の行方がわからなくなって追っかけっことか、いろんなことが起こるのだが、ちょっと無理して詰めこみすぎたかんじもある。 ずっとSummerlandを探し求めるAliceの旅と父母から切り離された孤独なFrankの彷徨いが交錯したひと夏の思い出を振り返る、っていうだけで十分だったのでは、とか。「緑の光線」の英国フォークロアバージョンみたいなのにしてもよかったのに。

でもKentの夏の風景はきれいだし、Aliceのすっぴん田舎の着こなしも素敵だし、英国の夏の戦時下ドラマ with Lock-down として悪くなかった。

Gemma Artertonさんは、予告でもかかった”The King's Man” (2020) - 時代を遡るらしい - とか、”Vita and Virginia” (2018) でのVita Sackville-Westとか、これも英国の第二次大戦時下の映画人を追った”Their Finest” (2016)とか、時代劇がはまるねえ。


今日は午後になったら雷がくるかもって言われていて、午後になってあまりの暑さに床に転がってしんでたらどーん、て鳴ったのできたきたって起きあがって太鼓抱えて待っていたのに結局こなかった。 BBCのうそつき! 降りだしたらじとじと容赦ないくせにいくじなし!


8.11.2020

[film] Still Bill (2009)

 6日、木曜日の晩、Metrographで見ました。リリースから10周年の記念と今年3月に亡くなったBill Withersへの追悼も兼ねた上映。撮影当時70歳だったBill Withersのドキュメンタリー。

80年代を最後に新譜をリリースしていない彼の近況をインタビューを通して伝えるのと、過去の音楽番組のフッテージから彼の足跡を辿るのと。 引退したミュージシャンのドキュメンタリーとしては月並みなアプローチなのだが、彼と彼の音楽への敬意に溢れたとてもよい作品だと思った。

バージニアの炭鉱夫の家に生まれ、17歳で海軍に入って除隊後は会社勤め – Boeing747のトイレの監視カメラのことならだいたいわかるって – をしながら、71年に"Ain't No Sunshine"でデビューしたらヒットした。でも70年になるまで自分のギターを持っていなかったとか、自分が音楽家としてやっていけるとは思っていなかったので暫く仕事は続けていた、とか。

自分はBill Withersのあまりよい聴き手ではなかった。アメリカでは彼の歌はほんとうにみんなの歌で、どこにいっても流れていたし聞こえてきたし、彼のようなのを聴くのなら、音楽としてかっこいいGilbert Scott-Heronとか、より声のでっかいBobby Womackとか、より艶っぽいThe Isley Brothersとか、他に聴くのはいっぱいあると思われた。この映画でもわかるように子供の頃に聴いた音楽に衝撃を受けて、情熱的にデーモニッシュに音楽に没入して圧倒的な世界を創りだしたアーティストというかんじはない。故郷を訪ねて昔の友人と会う場面でもほんとうに普通に思い出に浸るそこらのおじさんと変わらない。

ごく当たり前の陳腐な言い方になってしまうが、だからこそ”Still Bill” - 彼の72年にリリースされたアルバムのタイトルでもある – なのだと思うし、かつてのバンド仲間とのインタビューでも彼がやめると言ったらからやめた、それだけのことで始めるといったらたぶん始めるだろう、くらいのノリで、そういう位置から彼の曲を聞いて、この映画の彼の笑顔を見るとだから彼の音楽はこんなにもいろんなところでいろんな人に聴かれてきたのだな、って。

後半、吃音症 - 彼自身もそうだった - の子供達の音楽に触れて涙を流して、自分でスパニッシュの音楽家や自分の娘と少しづつデスクトップで音楽を作り始めるところ、2008年のBrooklynのProspect ParkのCelebrate Brooklyn! - 夏の野外音楽祭 – のBill Withers TributeでCornell Dupree(彼ももういない)のソロに入って一緒に歌いだすところもなんのジャンプも決断のドラマもないように、淡々と始められる。自分がやりたいと思ったからやる – 蕎麦打ち職人とかパン職人みたいだけど、そういう揺るがない強さ(自信とはちょっとちがう)、決して彼方に飛んでいかないあの落ち着いた声がこの人を動かしてきた。

Bill Withersやっぱりいいなー、って思ったのは、映画”The Secret Life of Pets” (2016)のエンドロールで流れる"Lovely Day" (1977)で、あれ今でもTVでやっていると見て、じーんて泣きそうになるの。歳とったから、っていう言い訳みたいのも既にどうでもよくなってきた今日この頃。

あと、これの前日の”Nothing But a Man” (1964) から続けて見ると、アメリカの労働者階級にとっての家とか家族がどれだけ切実なものかがわかる気がした。日本のそれと比べてどうとか、そういうのは(比較してどうなる、も含めて)わからないけど、家族がある/いる、ということの意味とか。 ”Nothing But a Man”のDuffとJosieが70年代の夫婦だったらきっとBillの音楽を聴いていたはず。

ロックの世界からのコメントはJim Jamesさん(とても好きそう)と枯れ枯れのStingさんが。
Billが亡くなったときの追悼コメント、Edwyn CollinsとLloyd Coleのやりとりが印象深かったねえ。

 
まだ熱波の日々は続いていて、この熱波に名前を付けようとか言ってる。名前なんてどうでもいいから地球温暖化対策をしよう。 スーパーのアイスキャンディー売り場は空だし、アイスクリーム屋は長蛇の列だし、ロンドンのみんな弱すぎ。 かき氷たべたいよう。

8.10.2020

[film] Nothing But A Man (1964)

5日、水曜日の晩、MetrographのLive Screeningで見ました。ここでNan Goldinのセレクトした作品と彼女自身の作品も含めて上映されていて、その中の1本。上映に合わせたイントロやトークもあったようなのだが見逃した。93年にLibrary of CongressによってNational Film Registryに登録されている。64年にインディペンデントでこんな作品が作られていたなんて。

鉄道線路工事の現場で働くDuff (Ivan Dixon)がいて、仲間とつるんで遊ぶのが苦手で、ある晩に入った教会で教師のJosie (Abbey Lincoln)と出会ってデートをするようになる。彼女の父は厳格な宣教師で不愛想なDuffのことをよいと思っていないし、Duffも結婚までは考えていないのだが、継母のところにほぼ棄てた状態になっている自分の息子を見たり、ひとり飲んだくれ状態で転がっているの自分の父を見たりして、やっぱりちゃんとした家庭を持たねば、と決意してJosieと結婚して小さな家を手に入れて子供もできる。

Duffは結婚を機により安定した収入を求めて線路工事仕事をやめて地元の工場で働くことにするのだが、職場にあった白人・黒人間の模様の上に漂う空気を読んでうまく立ち回ることができず、結果的に周りから組合寄り、って指さされて解雇されて、それ以降はブラックリストに載って職を求めていっても門前払いをくらうようになる。義父になんとか紹介してもらったガソリンスタンドの職でも白人客との間でトラブルを起こして、抑えが利かなくなったDuffは宥めようとするJosieを押し倒して家を出てしまって… という転落と、彼とJosieはそこからなぜ、どう抜けだそうとしたのか、を。

貧困に真面目に向き合って、自分に向けられた差別にまともに立ち向かおうとすればするほど肌身に冷たくのしかかってくる社会 – 家族同胞ですら - の圧。公民権運動以前のところで差別はこんなふうにひとを絞め殺そうとする、というそのきつさと、それでもその状態を救うなにかがあるとすれば.. というテーマをきめ細かく生々しく追って、その説得力ときたらものすごい。タイトルにあるように結局は「男ってこんな.. (しょうもない)」になってしまう気もするが、それってつまりここがこうだからこうなってしまうのだ、って教えてくれる。

この時代の黒人社会の貧困と差別を描いた、と安易に括ってしまうことはできるのだが、この映画のふたりをドライブしているのは怒りや憤りではなくて、Josieの無償の愛で、なんでDuffのバカでダメで浅はかな挙動に彼女は向き合い、それでも彼の肌に触れようとしたのか、Nan Goldinが惚れたのもそこだったのだと思うし、Malcolm Xのfavoriteだったというのもなんかわかる。

監督のMichael RoemerのインタビューテキストがMetrographのサイトにはあって、彼はドイツに生まれた白人で、ナチスの迫害から逃れて10歳の時に英国に渡り、そのまま移民としてUSに来た。そういう彼でも、というかそういう彼だからこそ描けたドラマだったのではないか。だからBLMにしてもなんにしても、他の国のことだから、なんて遠くから眺めるのはもったいないし、ここで描かれた家族や職場のハラスメントのありようなんて今の日本のにもいくらでも見ることができそうだし、なによりもこんなにすばらしいドラマが転がっているのだからー。

音楽は当時のMotownの数々が使われていて、Motownがサントラ盤をリリースしたのはこの映画のが最初だそうだが、我々のイメージにあるMotownの曲が流れた途端に画面がぱーっと華やぐようなことはなくて、車のエンジン音と同じように、ガレージパンクみたいなノリで背後にがんがん流れていく。まだデトロイトのインディレーベルだった頃のMotownの音。


とにかくあっつい。お昼寝もできないくらいにあっつい。
BBC Radio 6のTwitterが”How’s the weather where you are?”っていうお題でレコードジャケットを貼れ、ってやってておもしろい。 BattlesのIce CreamとかPrinceのLovesexyとかいろいろあるのだが、やっぱりPeter Gabrielの”third”だよねえ。あんなふうに溶けてる。(他にもありそう)

8.09.2020

[film] Bound (1996)

 2日、日曜日の晩、BFI Playerで見ました。ずっと見なきゃと思っていたやつをようやく。BFIのカテゴリでは”Female Desire on Screen”っていうところに仕分けられている。

The Wachowskis - これを撮ったときは”Wachowski Brothers” - の監督デビュー作で、この後に”The Matrix” (1999) - この時もまだ”Brothers” - が続いていく。 “Woman Make Film”でも女性監督の作品として紹介されていた。 異議なし。

Corky (Gina Gershon)は刑務所を出たあと、アパートの壁塗りとか水道配管工とかをやっていて、ある日仕事に入った空き部屋の隣に暮らすマフィアのCaesar (Joe Pantoliano)とその情婦のViolet (Jennifer Tilly) - 説明なしでわかる - と出会い、VioletはCorkyにアプローチしてきてふたりはセックスをして親密になる。 VioletはCaesarがマフィアの金の洗濯屋をしていて、彼らの部屋で拷問して殺した男から出てきた200万$がある、と。 その金を部屋の外に持ちだしてしまえば、その金を後で取りに来るJohnnie (Christopher Meloni)とCaesarは仲悪いので、そこでなんとかなっちゃうかも、と。

Caesarがシャワーを浴びている間にお金をブリーフケースから抜いて替わりに新聞紙詰めて、隣のCorkyの部屋に持ち込むところまではうまくいったものの、お金が消えていることに気づいたCaesarが狂ったようになって、ボスは自分がやったと思うに違いないし、それをして喜ぶのはJohnnieだからこれはJohnnieの仕業である、ってVioletに出ていくことを禁じて、そのうち部屋に関係者が揃って..

しまいには当然、CorkyとVioletが縛りあげられて、彼女たちの運命やいかに? になる。全体としてはB級パルプフィクションぽいものの、そこに至るまでの筋運びの細かいとこが面白いのと、マフィアの悪賢い狂犬と、彼に長年囲われてうんざりしている情婦と、自由を謳歌している流れ者(女)の三者の睨み合いが、真ん中のふたりが女性であることで心理描写も含めて鮮やかに変転している。 Corkyが男性だった場合は、Violetを救うためにCaesarを殺すか自分が死ぬかの正調ノワールになるのだろうが、恋仲にある彼女たちは必死になってふたりして生き延びよう、長年の恨みを晴らすべくこの犬をなんとかしたれ、になるの。

というような話がほぼCaesarのアパートの彼の部屋とその隣、のみで展開する。これって、”The Matrix”の前夜、というかやがて”The Matrix”で全開となるThe Wachowskisの変態ぽい嗜好が既にいくつか。 物理的に隔てられた近くて遠いふたつの部屋と、それをパイプ管や電話線を介して懸命に渡って行き来して、死ぬやつは即座に視界から消えていって、それでも最後にやってくる「肉」の問題とか。

最近、”The Matrix”三部作がトランスジェンダーのアレゴリーだったことをLilly Wachowskiが認めたという記事を読んだが、それはこの作品をレズビアンの物語として描いた(スタジオから男女の話にできないか、という要請はあったらしい)時点から彼女たちのなかでは復讐に近いかたちで周到に計画されていたものだったのではないか。

現金強奪と復讐の話、でいうと生々しいタランティーノのよりも、ファンタジーだ、って言われてしまうかもだけどこっちのが軽くて好きだと思った。(タランティーノのって、ちょっと苦手) 
あと、主演のふたりのすばらしさは既にじゅうぶん語られている通り。これを現代の女優でリメイクするとしたら誰がよいか、はいろいろ遊べるかも。うーん、Sofia BoutellaとFlorence Pughとか(例えば)。

 
今日はついにやっと、美術館 - Tate Britainに行った。ビアズリー展。ワイルドの『サロメ』の挿絵 - 検閲でボツになったバージョンも含めてぜんぶ、がたまんなかった。 常設展示も見れるのだが、One-Way遵守なので、行ったり戻ったりができないのはつまんない、というか戻ったりするよねふつう?

[film] Born in Flames (1983)

2日、日曜日の晩、Criterion Channelで見ました。BLMにも関連して何度かクローズアップされていて、それならば、くらいの軽いかんじで見たらなかなかびっくりだった。2016年にAnthology Film Archivesが焼き直したプリント。

まずこのタイトルって、81年のRed Krayolaの同名シングル曲から来ているのね。この年、日本で(のみ)発売されたRough Tradeのオムニバス盤 - ”Clear Cut”にも収録されているのだが、参加しているのがGina BirchやLora Logicなので、ほぼThe Raincoatsに聴こえるやつ。これが映画の中で何度か流れる。

ストーリーはNYを舞台にドキュメンタリーのように進んで、というか最初はてっきりドキュメンタリーなんだと思って見ていて、なんかおかしいぞ、って。 NYの市長は黒人で、合衆国の大統領は社会主義者で、“Social Democratic War of Liberation”の10年後という設定で、その革命から10年後のNYはどちらかというと硬直した性差別、人種差別、階級格差によるいろんな亀裂が顕在化してきている。

そこでアンダーグラウンドの海賊ラジオ局を組織する2つのグループ -  Phoenix RadioをやっているHoney (Honey)とRadio RagazzaをやっているIsabel (Adele Bertei)の活動 - ラジオで放送する討論会やインタビュー、ニュース、曲までを紹介しつつ、NYの街中で起こっていること - 女性が男にねちねち絡まれていると笛を吹きながら自転車に乗った女性たちが現れて助けたり- とか、NYの黒人女性アクティビストAdelaide (Jean Satterfield)がグローバルの活動家Zella (Flo Kennedy)に招かれてモロッコで訓練を受けて戻ってきたら空港で拘束されて自死 - おそらく虐待による殺人 - という事件があったり、それらの背後で暗躍するFBIがいて、それを追うグループもいて、結局彼女たちのラジオ局は解体させられて、だがしかし ..

近未来ふうの社会でも継続しているらしい格差や差別の問題に(主人公である女性たちが)現実的にどう立ち向かっていくか、という問いに対する答えは、いまのこの現実においてもじゅうぶんに有効な対抗手段であることを示して、たとえそれが当局によってあんなふうに弾圧されても潰されても例えばこんなふうに、というその先まで用意してどこまでもリアルに政治的で、その語り口も女性たちの描きかたも一筋縄ではなくて、まったく古びていないように見える。ネットなんてない、ビラにzineにラジオにライブくらいしかない時代なのに。

ラストは更に地下に潜行したゲリラグループがまさかあのワールドトレードセンターを… (すこしびっくり)

Criterionでは終わったあとに監督のLizzie Bordenさんのインタビュー映像がついていて、これの準備のために5年間、いろんな人に会って話を聞いたりアイデアを出し合ったりアドバイスを貰ったりしながら固めていったのだと。 そのうちの何人かはそのまま出演して貰って - そういえば、Kathryn Bigelowさんが当局に対抗する新聞記者のエディターグループのひとりとして出ていたり - なのでこれはやはり、当時のNYのサバイバルガイドにもなっているのだと思った。 見た後の感触はまさにドキュメンタリーを見た後のそれ - これからなんとかしないと - だし。

音楽はテーマ曲の他にThe BloodsとかThe Slitsとか、Jimi HendrixとかLou Reedも流れる。この時代のラジオ局がいかにかっこよかったか、って。


The Bowery (1994)

“Born in Flames”の前にCriterionで見たSara Driverの短編ドキュメンタリー。90年代初のBoweryの様子をそこに暮らしたりたむろしたりする人々の姿とそこから見たり聞こえたりする歴史も含めて撮っているだけなのだが、とってもよい。
この頃NYに住んでいて、でも当時、Houstonから下の区画へは行ってはいけません、って会社からおおまじめに言われたりしていた。 こっちもまじめだったので従って、せいぜいHouston添いにあったKnitting Factoryに通うくらいだったが、あの界隈って(SOHOも含めて)変なお店とかいっぱいあったのよねー。それが00年代に入ると一変して、Bowery Ballroomを中心にとっても栄えて、いまはあれこれ高くて誰も住めやしない。

"Bowery"がタイトルについた映画って、Raoul Walshの”The Bowery” (1933)とか、有名な“On the Bowery” (1956)とか、いっぱいあってだいたい外れない。


3月18日以降はじめて、ついに映画館に行って2本みた。ストリーミングでやってくれないみたいなのでしかたなく。 外は暑いし客は5人くらいなので極楽だったけど、トイレがひとりずつしか入れないとかねえ。
 

8.07.2020

[film] Make Up (2019)

 1日、土曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。
Claire Oakley監督・作で、彼女の長編デビュー作となる。おもしろかったー。

英国の西 – コーンウォールの海岸沿いのリゾートパーク - 海岸に向かって同じようなコテージが綺麗に並んでいるところにRuth (Molly Windsor)が恋人のTom (Joseph Quinn)を訪ねてくる。季節はオフの冬で滞在している人は殆どいないのだがTomはそこのひとつのコテージに住み込みのスタッフとして働いている。

再会して情熱的に抱きあって、翌朝彼が仕事に出て行ってからふんふん掃除とかをしていると鏡にキスマークのような跡がついていたり、布団に赤茶の毛が絡まっていたり、暇なのでパーク内を散歩していると変な人影を見た気がしたり、別のコテージのガラス窓にも同じキスマークがある気がしたり、ずっとそこに住んでいる変なかんじの老婆の姿を見たり、従業員が飼っている犬は獰猛でこわいし、夜になると何度か叫び声のような音が聞こえた気がするし。

やがてRuthもそこで同じ仕事を貰って働き始めるのだが、冬のコーンウォールは風ぼうぼうで天気も悪くて、そこに同じような建物がずっと続いていて、管理人の女性は不愛想で怖くて、Tom以外の従業員はあんまガラよくないし、これは幽霊ホラーでも浮気スプラッターでも自閉サスペンスでも、リンチでもカーペンターでもデ・パルマでもなんでもありうるな、って身構える。

そのうちRuthはそこに勤める少し年上の女性Jade (Stefanie Martini)と知り合って、彼女はおしゃれで優しくてメイクとかスタイリングが趣味なので彼女のところに通ってネイルして貰ったりカラオケしたり踊りに行ったりして遊んでいるのだが、彼女の部屋に置いてあるウィッグの髪の毛が赤茶で。

そうやって彼女と会っている間にも彼女の目には変なもの嫌なもの怖いものがどんどん入ってきてこびりついて離れてくれないし、海も天候もずっと荒れまくって容赦ないし、Tomとの溝も深くなってみんな変な目で見るし、更には時系列も錯綜していって…  もうだめありえないーってなる … ここから先は書かないほうがいいかも。

最後はやられた。になって、タイトルと海にいるRuthがじんわりと染みてくる。(あーそうかー、って)

幽霊や亡霊や殺人鬼がいくらでも徘徊していそうな冬のリゾート地の海の奥とかコテージの影から忍び寄ってくる英国の怪談としか言いようのない土着のトラッドな恐怖。これをアメリカ西海岸で、より狂った形で展開したのが例えばDavid Robert Mitchellの”Under the Silver Lake” (2018)だった気がする。 まずは爪とか髪とか生理的なところに来るあたりからじわじわ攻めてきて、引き摺りこまれるような水に至る、という辺りも。

彼女に迫っていた/彼女が追っていた怖ろしいものの正体が暴かれる - それはこちら側で起こるのか彼女の方で起こるのか、なんか悔しいくらいに鮮やかで、でも後になって振り返ればそうとしか思えないようなそれで、もう一度見て確認したくなる。 彼女の素顔はどんなだったのか、って。

86分。このサイズで、バックにCreative EnglandとかBBC FilmsとかBFIがいる映画ってどれも外れないのはいつもすごいな、って思う。 スターも出ていない低予算なものだけど、テーマは貧困や差別や社会問題を幾重にも反射したシリアスなのが多くて、作者が考えてきたであろう筋道をこちらにも考えさせるのが多い。 金撒いて接待してしゃんしゃんのどっかの国の「クリエイティブ」とはえらい違いだよなー。


久々の35℃超えが予告されていたので朝からオフィスに避難した。アパートには冷房がないのでしんでしまう。 まだ誰もいないので快適だったねえ。

8.06.2020

[film] Things Behind the Sun (2001)

7月30日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。7/31以降見れなくなる映画のリストから。

Allison Anders監督の作品は昨年8月に”Gas Food Lodging” (1992)をBFIのNineties特集で見て、とてもよかった、というのとオリジナルスコアをSonic Youth (Jim O'Rourkeがいた頃の) がやっている、というのもあった。日本で公開はされていない模様。

フロリダの住宅地のある一軒家の庭に明け方飲んだくれて転がっている中年女性がいて、彼女は毎年その時期になるとそこに来るらしく、今回も警察を呼ばれて簡易裁判の後にリリースされる。

彼女がSherry (Kim Dickens)で、地元でバンドをやっていて、彼女が過去にレイプされた経験を歌った曲がラジオでヒットし始めている。それをLAの音楽ジャーナリスト(雑誌の名前は”Vinyl Fetish”)のOwen (Gabriel Mann)が耳にしたら彼の顔色が変わって、これは自分が取材したいので行かせてくれ、と編集長 - Rosanna Arquette – を説得して現地に向かう。

前半は話があちこちに飛んでとっ散らかっててよくわからなくなるのだが、軒先でSherryが倒れていた家はかつてSherryがレイプされた現場で、OwenはSherryと同じ学校で一緒に遊んでいた友達だったことがわかって、現地に着くとOwenは獄中にいる兄Dan (Eric Stoltz)と会ってからライブハウスでSherryの歌を聞いてインタビューを申し込み、自分はあの歌に書かれたレイプのことを知っている、というと彼女は動転して、彼女を傍でケアしてきたパートナーのChuck (Don Cheadle)も激怒して..
(ここから先は真相なので知りたくない人はー)

Sherryがレイプされた現場はかつてOwenとDanが住んでいた家で、あの日仲良しのOwenにカセットテープを渡しにやってきたSherryにリビングでたむろしていたDanとその仲間がちょっかいを出して揉みあううちに彼女をレイプしてしまう。Owenは別の部屋にいて、兄たちの頻繁なそういう所業に耐えられなくていつものように大音量の音楽で耳を覆っていた..  (という記憶の再現が何度も)

Sherryのその後の人生はぼろぼろで今もまともな暮らしなんてできやしない、あんたにその苦しみがわかるか? とOwenとの取材でぶちまけるのだが、実はあの事件の後にOwenも傷ついて女性と関係を持てなくなっていて、でもふたりで向かい合って言葉にしていくことで少しづつ..

既にいろいろな人が語っているように、レイプはその人の一生に決定的な、消えない/消せないダメージを与えて、語ることすら苦痛になる – こんなふうに、という具合に何度も訴えてくるので再現シーンはとても辛いのだが、見たほうがいい。これ、監督のAllison Anders自身の経験でもあり(レイプシーンは、彼女が実際にそれを受けた場所で撮影されたそう)、決してひとごとの語りにはなっていない。Sherryがかつて一緒に聞いていた音楽(The Left Bankeとか)についてOwenと話をしていくところ、今は別の家族が暮らしている現場の家のなかに入れて貰って部屋の配置や浴室をじっと見つめるシーンとか、感覚的に伝わるものがある。”Gas Food Lodging”にあったクールなトーンとは対照的に行き場を失った怒りと熱が充満してつんのめって混乱している。この混乱をそのまま伝えたかったのだと思う。

タイトルはNick Drakeの曲のタイトルでもあって、この曲も勿論流れるのだが、Sonic Youthのひりひりしたスコアが見事なのと、あと、ライブハウスで演奏するSherryのバックバンドがJ. MascisにRedd KrossのSteve & Jeff McDonaldってどういうこと? ちなみにJ. Mascisはこのバンドではドラムスを叩いてて、少し喋るシーンもあるの(Steveも)。(そういえばJ. って”Gas Food Lodging”にも出てたね)

こないだ見たドキュメンタリー - ”On The Record” (2020) にしても、ようやく翻訳がでた『その名を暴け』にしても、これにしても、被害者に寄り添って起こったことを文字にすることが加害者を追い詰める。 ジャーナリストの仕事ってそういうものだと思うんだけど、日本の彼らは強者にばかり寄ってって提灯もって太鼓もって、なにしてんの? だよね。


ベイルート、とても心配。苦しんでいる人たちを少しでも..

8.05.2020

[film] Wise Blood (1979)

7月29日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
こないだ見たFlannery O'Connorのドキュメンタリー映画 – “Flannery” (2020)でも(原作が彼女の同名小説(1952) なので)この作品の一部が挿入されていて見たいな、と思ったらCriterion Channelにあった。日本ではアテネとかでかかったりしているようだが、未公開なのね。

監督はJohn Huston - 主人公の祖父の伝道師役で出演もしている。109分。

22歳の第二次大戦の元軍人 - Hazel Motes (Brad Dourif)が南部の町に現れて”the Church of Truth Without Christ”の信徒として説教を始める。既存のキリスト教の教えを確信的に否定してとっても熱くて、彼の周りには盲目の説教師Asa (Harry Dean Stanton)とその孫娘Lily (Amy Wright)とか、人恋しくてたまらない田舎から出てきた青年Enoch (Dan Shor)とか、彼をスター宣教師に祀り上げようとするHoover (Ned Beatty) とか、彼に貸間を提供して近寄っていく中年女性とか、いろんな変な人たちが寄ってきたりぶつかってきては消えていく。

伝道師としての布教活動の受難や成功を描くのでもなく、彼の説く教義の正当性についてえんえん問うのでもなく、信者や異教徒との闘いとその勝ち負けの行方を描くのでもなく、とにかくドラマとしてどこかに転がっていってよかったね、にも、最悪だ、にもならなくて、彼はどこからかそこにやってきて腰を据えて睨みつけて、やがて彼も。

彼は戦争で地獄を見てそこで神的経験をしたのかもしれないし、幼い頃祖父の説教に決定的な影響を受けたのかもしれないが、そこにも立ち入らない。ただ彼は今のこの半径20mくらいの世界については深く絶望してて彼の教えが絶対に正しくて必要だと思い込んでいて、自分の話を聞けという。でも教団を組織設営して信者を増やしてみんなで幸せになろう!みたいな方角には興味ないみたい。何をやっても唱えても祈ってもおまえらなんか絶対に幸せになんかなれるもんか - まわりを見ろ! ってがーがーいうのが彼の”Truth Without Christ”で、それって宗教ていうより反宗教だろ、くらいのところまで行くのだが、彼は彼の絶望と不信と諦念を背負いこんでそれを練って積んでその上に強く立っているので揺るがないし、他との衝突や無理解なんて当然だし恐れないし、その帰結として自分で目だって潰すし地肌に鉄条網を巻くし靴底に石を敷いて歩いたって痛くないし。

これって単に変な人たちが束になってじたばたしているだけじゃないの、なのかも知れないけど、これこそがキリスト教の原罪や救済の教えがアメリカの南部の風土とスパークして生んでしまった奇妙な景色であり人模様なのだ。 というのが敬虔なキリスト者としてあの地で生まれ育ったFlannery O'Connorが見いだした何かだったのだと思う。 ラストのHazelと大家の「やりとり」の捩れて奇怪なこと、誰があんなとこまで行くと予想しただろうか。彼は結局救われたのかしら? あれでよかったのかしら?  というのはFlannery O'Connorを読んでもいつも思うこと。

出てくる人たちはぽつぽつ現れては彼方に消えていって、コメディにもホラーにも寄っていかないその非情な隙間風が素敵なのだが、例えばこれをRobert Altmanが演出したらどうなったか、もう少しおかしみのあるアンサンブルになった気がするし、例えばPaul Thomas Andersonだったら.. (彼の”Magnolia” (1999)ってちょっと近くない?)などなど、転がしていくのも楽しい。

他に近そうなとこにある映画として思いだしたのは、Maurice Pialatの”Sous le soleil de Satan” (1987) - 『悪魔の陽の下に』(原作: Georges Bernanos)とか、Frank Capraの”The Miracle Woman”(1931)とか。まだありそう。

あと、Alex Northの音楽がすばらしい。

ところで、Ministryの名曲 - ”Jesus Built My Hotrod" (1991)のRedline/Whiteline Versionのイントロには映画の中でHazelが喋っている声がサンプリングされている(聴いてみた。確かに)。この辺、Gibby Haynesさんのセンスかしら?

今日、8月5日はJohn Hustonの誕生日だって。


今日は久々に会社に行って、5ヶ月ぶりくらいにPretのサンドイッチを食べた。 変わらぬPretだった…

8.04.2020

[film] As Mil e uma Noites (2015)

1日 土曜日の昼にVolume 1を、2日 日曜日の昼にVolume 2を、3日 月曜日の晩にVolume 3をMUBIで見ました。ぜんぶで382分。これまでの長いのに比べれば軽い。”Arabian Nights”。 なんか夏っぽいし。

3部作ではあるがアメリカでは別々に劇場公開されていて、それぞれ別のものとして見ることもできないこともない .. かな? くらいにテーマやトピックの構造的な、時間的な繋がりは緩め。現代のポルトガルで起こっていることを取りあげつつ、その「現代」は断面ではないし「ポルトガル」はEUの一部だし、それを語るのは『千夜一夜物語』のペルシャ = バグダッドのシェヘラザードである、という立ち止まるとなんだそれ? な構成。

冒頭、ドキュメンタリーのような形で造船所の閉鎖によって仕事を失う湾岸労働者たちのデモや中国から来たスズメバチによって脅威にさらされている養蜂業の姿が晒され、あまりのどん詰まり模様に現場から逃走する監督Miguel Gomesの姿がスタッフによって捉えられると、更に監督は首まで砂に埋められてどうすんだよ! って拷問状態にされている。

Miguel Gomesは Our Beloved Month of August (2008)やTabu (2012)を撮ったひとだから、我々は彼がどんなに夏祭りの花火とか熱帯の楽園を愛しているのかを知っている。だから彼が今のヨーロッパの危機を前にどれだけ打ちのめされてしんどい思いをしているのか、今の状況を前に楽園映画なんて撮れないであろう苦悩もよくわかる。 すると画面は突然きらきらに切り替わって海の向こうから女神のようにシェヘラザード(Crista Alfaiate)が颯爽と向かってくる。町の処女を王宮に呼んで首を切りまくっていた野蛮な王シャフリヤールのところに自ら赴いて毎晩おもしろいお話を聞かせて紡いで生きた、あの彼女が。以降、彼女が語るポルトガルの2013年8月から2014年7月に起こった都市や田舎のフィクションのようなドキュメンタリ―のようなお話しが展開していく。

Volume 1: The Restless One 「休息のない人々」

437夜 - “The Men With Hard-Ons”ではインポテンツの銀行家とIMFの役人が緊縮財政をめぐる会談の外で魔法使いの薬でぎんぎんの中学生みたいになってしまうしょうもない話。
445夜 - ”The Story of the Cockerel and the Fire”ではよだれ掛けをした雄鶏(すてき)が放火を検知して早く鳴いたからって裁判にかけられてしまう話。453夜 - ”The Swim of the Magnificents”では打ちあげられた鯨が突然爆発したり(びっくりした..)人魚が瀕死になったりしている浜辺で元旦の寒中水泳に参加する人々のお話し。どれもコミカルで素っ頓狂なようで止められなくなってしまった危うい何かを描いているような。

Volume 2: The Desolate One 「孤独な人々」

470夜 - “The Chronicle of the Escape of Simão 'Without Bowels'”では、「腸なし」Simão (Chico Chapas)と呼ばれているひとりの男 – 近辺一帯の地主のようだが乞食なのか金持ちなのかよくわからない世捨て人暮らしをしていて、警察やドローンに監視されている – が逮捕されたらいきなり英雄のように喝采されるお話。闇の中馬に乗った警官隊が静かに入ってくるシーンがすばらし。

484夜 - “The Tears of The Judge”は、月の出ている婚礼の晩、裸で股から血を流しながら花嫁が母親に電話してすべてうまくいった、というと母親 (Joana de Verona)はそれはよかった起きたときにはマーブルケーキを作るのよ、ってレシピを機械のように喋ると彼女の本業の裁判長に戻って裁判が始まる。毅然と進めたいのだが、ただの窃盗と思われた事件に傍聴席から次々にあいつがあいつがの際限ない指差しが始まって精霊は出てくるわ牛は喋るは個々のはしょうもないけどバラエティに富んだ犯罪の輪がコントのようにめちゃくちゃに転がっていくので、裁判長はブチ切れて泣いちゃうの。で、娘はマーブルケーキを焼いてる。

497夜 - “The Owners of Dixie”は、低所得者向けの団地群で白いテリアのDixie – 拾った飼い主が昔飼っていたDixieに似ていると思って、”Dixie”って呼んだら寄ってくる – の持ち主たちのお話。持ち主の変更に伴って“Part One: Glória, Luísa and Humberto"と“Part Two: Vasco, Vânia, Ana and her Grandchildren”に分かれていて、その他の団地群のいろんなブロックに分かれて暮らすオウムとか人々の模様が描かれる。とにかくDixieがかわいいのだが、Dixieから見た彼らの像は..    “Say You, Say Me”がしっとり流れるのと、なんといってもラストのDixieのー。

過去の罪や罪の連鎖や貧困のまわりで人々は連なって束になってわーわー言うようなのだが、解してみればどこまでもみんなひとりで、なんでこんなに切り離されているのだろうか、という辛さが溢れる。

Volume 3: The Enchanted One 「魅了された人々」

最初にペルシャにいるシェヘラザードが出てきて、彼女の父や海に飛びこんでいるダイバーや盗賊のElvisといろんな話をして、父は危険なことをしている娘の身を心配しているのだが、シェヘラザードは決意を新たに再び王のところに戻ってお話を続けようと、そんな彼女の上下の反対側に現代のポルトガルが倒立してある。

515夜 – “The Inebriating Chorus of the Chaffinches” ポルトガルで昔からずっと続いているズアオアトリの鳴き声バトルのために鳥を捕まえて鍛えて集まってくる男たち(男ばかり)の姿をドキュメンタリーのように - というかほぼドキュメンタリー? - で追っていく。

522夜 – “Hot Forest”は、上にエピソードに挟みこまれる中国からの移民の娘がデモの途中で警察官に出会って恋に落ちて簡単に棄てられてしまう話。

この巻に出てくる人たちは決して幸せではないのかも知れないけど、それぞれのやり方で「愛」に向かっていった or 向かおうとしている人たちとか鳥たちとか。網にかかって覆いかけられて歌いすぎて鳴きすぎて死んでもいいって、その姿はシェヘラザードのそれに重なったりしないだろうか? この巻だけ画面上にテキストが溢れているし。

いまって、割と誰もが「休息のない人々」で「孤独な人々」で「魅了された(い)人々」だよね。

最後にこの映画は監督の娘さん(当時8歳)に捧げられたものであることを知る。そうかー。
いま、この(私たちの好きな)八月、彼らはCovid-19下の世界をどこでどう見ているだろう? またシェヘラザードを?

あとあの幽霊の描きかた、Manoel de Oliveiraにもあったようなあれ。

音楽は巻ごとに結構違っていて、Villa-LobosにRimsky-KorsakovにArvo PärtにThe ExploitedまでくるVol.1、Lionel RichieやCenturyのベタな歌謡曲でしっとりくるVol.2、個人的にいちばんよかったのはNovos Baianosの”Samba da Minha Terra”が来たりするVol.3 だったかも。あと何度もでてくるAlberto Dominguezの”Perfidia”も気持ちよい。


NYのトラットリア、Porsenaがクローズしてしまった。どこまで奪ってくれるのかー(泣)。

[film] Alice (2019)

7月28日、火曜日の晩、BFI Playerで見ました。昨年のSXSWの映画部門でGrand Jury Prizeを受賞しているフランス映画。

パリのアパートに暮らす主婦のAlice (Emilie Piponnier)は、大学に勤める(文学をやっているぽい)夫のFrançois (Martin Swabey)と、息子のJulesと幸せな家庭生活を送っている。と思っていたのだが、ある日買い物で突然デビットカードが使えなくなり、ATMに行ってもお金をおろすことができなくなっているので銀行の窓口にいったら残高ゼロで家のローンも支払えない状態になっていて、このままでは全て差し押さえです、と言われて愕然。狂ったようにFrançoisに電話しても出なくて、家にも帰ってこない。自分の親に泣きついても旦那をかばうようなことを言うのでまったくお話にならない。何か手掛かりを掴むべく夫が残していたメモとかにあった電話番号にかけてみると高級エスコート・サービスに繋がる。 え?って動転して、お宅って一回いくらなんでしょう? って聞いてみても電話ではお答えできません、知りたければこちらにお越しください、と言われる。

藁をも掴む思いでエスコート・サービスのところに行ってみたら仕事の面接に来たのと間違えられて都合とか報酬の話をされて、いやいや違うし、と思っていたのだがちょっと待てこれひょっとしたら金づる? って。くらくらしながら高級(かつ高給)なの希望、って電話番号置いていったら電話が来て行けるか? という。 とにかくまずはお金が必要だから行く、と返して、面接のとこで出会ったLisa (Chloé Boreham)に作法とか手順とかを教わって、ホテルに行ってみたら相手もやさしそうな人で、でもお金を一杯くれるのでこれってひょっとしたら … と。

こうしてがんばっていくとお金は思っていたより順調に貯まって返していけそうなのだが、困ったのがJulesの世話で、予約の電話は不定期で直前に来たりするのでベビーシッターが捕まらないこともあり、困っているところにべそかいて平謝りのFrançoisが現れる。ぜったい許せるわけないのだがこいつはJulesに会いたくて戻ってきたらしいので、彼に相手をさせておけばいいか、って自分は時間不定期なアメリカのビジネスウーマンのアシスタントのバイトをしていて頻繁に呼ばれる、とか言って仕事に出ていく。

そのうちその挙動をおかしいと思ったFrançoisが彼女のやっていることを突きとめて頼むからそんな仕事やめてくれ(どの口がいう)って、更にどうしても復縁できないならとJulesの親権を求めて訴訟を準備していることがわかって…  

どこまでもさいてーでどうしようもない夫のせいでセックス・ワークに従事せざるを得なくなったAliceの奮闘をLisaとの友情を絡めて描いていく女性映画。LisaがAliceにいう、愛しあうふたりのセックスは最高のものになるし、レイプされた時のそれは最低のものになるけど、この仕事でのセックスは我々のやりようでコントロールすることができて、それでお金が入るんだからそういうものとしてやっとけばいい、っていうあたりはなるほどなー、って。 この辺、"Hustlers" (2019)にあったのと同様の清々しさすら感じさせるシスターフッドの物語になっている。

最初からそんな高給貰えるのかとか、そんないい客ばかりのはずない、とか言うひとは言うのだろうけど、そういうひとは "Pretty Woman" (1990)を見たって文句をいうのだろう。

セックス・ワークについて、こういう描き方をすることで結果的にその世界(のありよう)を肯定していることにならないか、という意見には、男のちんぽを全部刈り取ればなくせるのかもしれない(それでいいと思ってる)けど、それが無理ならまずはその仕事に対する差別や偏見をなくして安全かつ正当なそれとして社会から変に隠さずに認知しろ、まずは認知の歪みからくる搾取の構造をなくせ、とかおもう。

といったようなことを訴える映画ではなくて、Lisaと出会ってダメ夫を捨てることで自由になって飛んでいくAliceのお話なの。ひょっとしたら能天気すぎるくらいに軽くて、とてもSXSWらしいというかー。

そういえば、Aliceがふたつめのサービスの面接に行った時、斡旋するおばちゃんがあなた外国語はできる ? って聞くの。「日本語とか。日本語はだいじよ~!」って。日本人すごいな。

8.03.2020

[film] L'intrus (2004)

7月27日、月曜日の晩、Live Screeningを始めたMetrographで見ました。
Metrographなら見なきゃ、なのだがこれ、時間が経つと見れなくなってしまうのもあるようで油断ならない。

とにかくこのシリーズの最初のがClaire Denisの”L’intrus” - 英語タイトルは”The Intruder”なのだが、同名の米国映画があるからか原題のまま。 Metrographのサイトにはここで上映された際に訪米して喋った彼女のイントロ(文章のみ)が掲載されている。

フランス、ヨーロッパで移民問題が顕在化してきた90年代末、Jacques Derridaはこれに関して”Law as Absolute Hospitality”というテキスト(これ、英語のみ?)を書き、DerridaはJean-Luc Nancyにも書くように依頼して書かれたエッセイ - 『侵入者――いま「生命」はどこに?』(未読) - Jean-Luc Nancy自身の心臓移植の経験を綴ったもの - が元になっている、と。

フランスとスイスの国境近くの山沿いに二匹の犬(すごくむっくりよい犬たち)と暮らすLouis (Michel Subor)がいて、息子(Grégoire Colin)の妻は国境警備隊にいて男の子の孫もいる。元傭兵で近隣の連中とは過去にいろいろあったらしいのだが心臓の病を抱えていて、ロシアのパスポートを焼いてすべてを清算し、心臓移植を受けて韓国を経由してタヒチに旅にでる。

筋はたぶんこんなかんじなのだが、登場人物はほぼ無言かどうでもいいことしか喋らないので、映像の連なりと時折鳴り出す不穏な音楽(いつも通りTindersticksのS.A. Staples)とか変な音で、土地によって変わっていく光や空気のかんじと共にLouisの道行きを見守るしかない。 と書くと簡単そうだけど、それが2時間の連なりのなかで実現されているのって驚異だと思う。

移植 - 侵入は暴力なしには為し得ない、それは残忍で獣的なものだ、ということがJean-Luc Nancyのテキストにはあるそうで、いろんな傷や傷跡、その跡の線とそれをなぞる指の動きがそのまま国境のそれに、あるいは様々な断絶や距離のイメージに - それは部屋とかエレベーターにも - それに伴う痛みに重なる。その重なりと狭間で自身の死を見つめて寡黙になるLouisとそれをゴーギャン的に包み込んでいくタヒチの海と。 自分は果たして生きたいのか死にたいのか、いろんな場所で何度も医者にかかりながら自問して、でも結局答えは見つからなかったのではないか。

ひとりで死に場所(or 生き場所?)を探していく彼の反対側で残してきた彼の息子のことと、タヒチでは彼が若い頃につくったらしい息子を探す - 村人によって間抜けなオーディションみたいなのが開かれ - 継承とか連続性についての言及があり、他方で女性たちは、地元で恋人だった薬屋のBambouにしても、大型犬に囲まれているBéatrice Dalleにしても、野山に出没するKatia Golubevaにしても、韓国の盲目のマッサージ師にしても、どこか西部劇で、ひたすら力強く、境目なんて目に見えていないかのよう。

Covid-19で国を跨ぐこと越えることが移民問題以前のところでクローズアップされて、でもそれはやっぱし国境での防御防疫は大事、なんてことではなくて、そんなものがあったところでウィルスの野蛮さ獰猛さのには歯が立たない - 政治の愚かさが戦争や紛争以上に簡単に人を殺す - ということだった気がする。まだ進行中のことではあるけど。 でも生き残るために国を渡る、のではなく、まずはマスクをしろ、は映画的にはきついかもね。マスクの痕をなぞる、とか…

Agnès Godardの撮影(Super 35だそう)がとにかくかっこいい。Louisの車をどこまでも追ってくる二匹の犬を振りきるシーンとか、泣きそうになるけどすごいとしか言いようがない。あとLouisの息子が孫を抱えて歩いていくところで、孫の子がパパに向かってふんわりと浮かべる笑みとか。

Louisが過去なにをやってきたのかについては、主演はそのままでJohnnie To氏に監督してほしい。

8.02.2020

[film] Street Corner (1953)

7月24日、金曜日の晩、Carol Morleyさんの#FridayFilmClubで見ました。(まだフリーで見れるよ)
50-60年代の英国を代表する女性監督Muriel Boxの作品で、米国では“Both Sides of the Law”のタイトルでリリースされている。日本では公開されていないみたい(Allcinemaに載っている監督作品は2本だけ)。 彼女のことはこの記事に↓

https://www.theguardian.com/film/2018/oct/26/muriel-box-britains-most-prolific-female-director-youve-never-head-of

(でも、さっき調べたら、”Women Make Film”で彼女の作品は紹介されていない…)

ロンドンのふたりの女性警官 - Susan (Anne Crawford)とLucy (Barbara Murray)の日々のお仕事をドキュメンタリー風に追っていく。警察モノによくあるような組織内の誰それとの確執、の話でも警官コンビのどたばたバディものでもなくて、ふたりがぶつかるロンドンの犯罪景色 - というほどに濃いやつでもない - を通して当時のロンドンの社会階層とか家族のありようを描いていてふたりの影はそんなに濃くない。

そういえば大学の社会学の図書に”Street Corner Society” (1943)ってあったねえ。あんなかんじ(嘘)。

エピソードは3つあって。
ふたりが夜の公園を見回りをしているとボートから落ちた子供を救ったカップルと出会って、ふたりの様子が変だったのだが、うち女性の方は軍を除隊になって以降、身分証明もなにも持っていなくて、でも子供を救ったから救われると思ったら、彼女には重婚の疑いが..
もうひとつは育児放棄で子供をアパートに置いたままにしているおうちの話で、幼い子供がアパートの上から落ちそうになるところを救ったり - はしご車(昔のやつ)が来てはしごがするする伸びてくるところとかたまんない。
もうひとつはこれも乳飲み子を抱えたBridget (Peggy Cummins)が万引きをして捕まって取り調べられて、裁判のあとで罰金を払う時にRay (Terence Morgan)が現れて助けてくれて、そのあとも彼はおごってくれたり盗んできた宝石とかをくれるので、彼に囲われるのだが、こいつがとんでもない悪党で… (エピソードのなかではこれが一番でっかくてスリリング)。
あと、端っこの細かいところだと女性署員の頼みごと(パーティの演し物手伝ってとかその程度)を難癖つけて断固としてはねのける男性署員とか困ったやつも目につく鼻につく。

それぞれのエピソードが繋がったり交錯したりすることはないのだが、どれも女性が中心にいて貧困や子供や男その他が絡んでそれなりに苦難とか生き難さを抱えていて、それをふたりを含む女性警官が女性の立場から助けたりカバーしたりする様子が描かれて、その範囲を超えたところだと警察みんなでナイトクラブをガサ入れするところとか、(男性警官ではなく)警察犬が活躍したりとか、とてもおもしろい。男性中心の警察モノではない、というところから離れてみても繋ぎと構成がしっかりしているからだと思う。

こっちにきてしみじみ思うのだが40年代50年代の英国映画ってまだまだ知らないおもしろいのがいっぱいある。(それを言い出したら日本の昔のだって紹介されていない傑作はいくらでも) とにかくこっちにいる間にいっぱい見ておかないと。

#FridayFilmClubの指摘でおもしろかったのは、この1953年、Ida Lupinoは”The Bigamist”をリリースしていて、どっちも重婚をテーマにしている、って(Idaのは男性の重婚だけど)。


もう美術館も一部の映画館も開きだしていて、でも木曜日くらいに思い出して週末の予約状況をみると既にいっぱいで諦め、というのが続いている。やる気がないのね。  ていうのと、金曜日の晩にちょっとありえない人混みを見てしまい、これはだめでしょ、と思ってしまって。 近いうちにロックダウンふたたびくるよあれじゃ。