2日からLondon Film Festivalが始まってから5本見て、書かないと忘れてしまう(その前のもいっぱいある)のでとっとと書きたいのだが、なんか挟まってくるのでこっちから書いておく。 5日、土曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。
ヴェネツィアで金獅子賞を獲っているしレビューも絶賛が多いのだが、なんか来なかったの。
たぶんネタバレしているけど、バレてどうなるようなものでもない気がする。
誰もが知っているゴッサムシティの稀代の悪党Jokerは、いかにしてJokerとなったのか。
これを語る前提として悪や狂気は説明可能で理解することができるものなのか、という議論があると思うのだが、この映画はJokerの悪や狂気は突然変異・原因不明の病気のようなものではなく、きちんと説明可能だし理解しうるものなのだ、という立場に立っている。
Arthur Fleck (Joaquin Phoenix)は病気の母Penny (Frances Conroy)の世話をしながら街角で宣伝ピエロのバイトをして、やがてはコメディアンになることを夢見ているのだが、笑いだすと止まらなくなる疾患を抱えていてなにをやってもうまくいかなくて、同僚から自衛のために渡された銃を営業の際に子供たちの前でポロリしてクビになり、更に市の予算削減あれこれでクビがまわらなくなり、コメディクラブに出てみてもぼろぼろで、地下鉄で袋叩きにあって相手の会社員3人を撃ち殺してしまう。 母の手紙から自分は金持ち市長Thomas Wayne (Brett Cullen)の息子ではないかという疑念が沸き、憧れのTVショウホストMurray Franklin (Robert De Niro)から声がかかり、ゴッサムの治安は悪化して街にはピエロの姿をした暴徒が溢れてくる。
貧困と困窮からあらゆる道を断たれて行き場を失った社会的弱者がある事件をきっかけに一線を越え、歯止めがきかなくなって暴走していく、その描写の生々しさと説得力はじゅうぶんだし、Joaquin Phoenixの身体もその事態を申し分なくリアルに肉化しているし、映画史的にも過去のNY映画、特にMartin Scorsese作品等と地続きの世界を構築している、などなど。
他方で、例えば“The Dark Knight” (2008)でのHeath LedgerのJokerは完全に向こう側に行ってしまった狂人のそれ、理解不能の劇物で怪人で鬼で、その笑顔の口の端は引き裂かれてしまっている。JoaquinのJokerは自分の指で口の端を上げることでしか笑顔を作ることができない - 仮面・お面をつけたりメイクをすることで道化 - ピエロを演じているだけで、それってこのゴッサムシティ & バットマンの劇中で与えられたJokerの役回りとして正しいのだろうかと。
Jokerの台詞 - “I used to think my life was a tragedy. But now I realise, it’s a comedy”とか、“everybody is awful these days”とか、頻繁に映像化される彼の頭のなかの現実と混濁した妄想とか、都合のいいものしか見ようとしない上から目線のネトウヨとかIncelとか差別をまき散らすどっかの官製芸人と同じ言い草だよね。責められると「誤解を与えたのであれば..」論法でひっこめるとか。 今のそういう世界 – Jokerたちが街に溢れている世界 - を描きたかったのだ、というのであれば、そんなのじゅうぶんわかっているし、間に合っているし、それよりデバイスの裏でひそひそやっている卑怯者とか、その上からコントロールしている統治機構に対する糞玉をさー。
結局この映画を快適なシネコンで見て「感動~」とか言ってる人たちに対しては、劇中で”Modern Times” (1936)を見てふんぞり返っているブルジョアと同じで、なんも訴えないと思うの。
(そこにこそこの映画の批評性はあるのだ、なんて言う奴こそ「連中」の思う壺なんだよ)
途中まであった彼とBruce Wayneが異母兄弟だったら、という可能性のほうがまだロマンとして広がる可能性があったかもしれない、でも母Pennyをあんなふうにした原因には踏みこまないまま、彼女があんなふうに殺されなければならなかった、のはなんで?(そこ掘るべきじゃないの?)
アパートの隣人Sophie (Zazie Beetz)とArthurの恋は(彼の妄想でなかったのであれば)なにをどうして可能になっていったのか、ものすごく腑に落ちない。”Suicide Squad” (2016)で、Harley Quinn (Margot Robbie)にあんたのためなら死ねる!と言わしめたJoker (by Jared Leto) の色気はこれぽっちもなさそうだし。
70-80年代のゴッサムシティ(≒NY)の都市風景の再現、という点で画期的なのかもだけど、風景が多少きれいになろうが汚れていようが多少家賃が変わるくらいで、そこに住む人の意識はそう変わっていかない。同様にある時代で止まっているかのようなノスタルジックな音楽の使い方も、あの場所-あの時代の額縁の絵として遠くの風景として機能するだけになってしまうような。
Joaquin Phoenix主演作で、おなじく病気の母を抱えたひとりぼっちの男(の戦い)、というと少し前の“You Were Never Really Here” (2017)があって、こっちの方がその怖ろしさも含めてより生々しかった感が。
10.07.2019
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