10.09.2019

[film] National Theatre Live: Fleabag (2019)

少し戻って9月22日、日曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。

これの前にBFIで”For Sama”を見て、ぼろ泣きではないけど喉の奥がずっとひくひくしている状態でまっすぐそのまま帰って頭から布団を被りたいくらいだったのだが、もうチケットを取っていたの。

なんとか気分を変えたかったので駅から映画館までの途中にあった韓国系スーパーに入ったらThurston Mooreがいた(後ろ姿だけでわかるのはなんでか?)。べつに知り合いでもなんでもないのだが、この人とはなぜかスーパーでぶつかることが多く、NYにいたときはDean & Delucaで2回くらい見ている。 いつも向こうはひとりでこっちもひとりで。彼と食材の話とかしたら話が合うのかもしれない。(←だからどうした、の話)

映画館で上映されるNational Theatre Liveで、シアターでの公演の方は8月から9月にかけてWest Endでやっていて、チケットぜんぜん取れなかったので、こういうので見るしかない。NTLの上映はたしかこの日が初日で、ほぼ満席だった。この晩にTVドラマ版のこれがエミー賞を獲った(びっくりしたねえ)せいもあるのか、まだいくつかの映画館では上映されている。

Phoebe Waller-Bridgeさんによる一人芝居 - というより普段着で舞台上の椅子に座ってずっとあんなことこんなことを喋り続けるだけなので、芝居というより漫談とか落語に近いのかもしれない。

TVプログラムが先なのか喋り舞台が先なのか(どちらをイメージして作っていったのか)、彼女はどこかで語っているのかもしれないが、どっちを見てもおもしろい。ただ、シチュエーションを見せる - それがしょうもない方向に行ったり行かれたりするサマをわかってもらう、というより彼女の頭のなかで膨れあがった自意識とか妄想とか鬱憤とか怒りとかをありったけ吐きだしてその惨状を眺めてみる、というのが起点にあるのだとしたら、こういう喋りの方がエモの熱い冷たいも含めてダイレクトに伝わってくるので向いているのかも。

採用面接とか電車バスの中とかカフェとか自分ちとか誰かとぶつかったり会ったり飲食したりセックスしたりひとりでいたり、それぞれの場面で彼女の頭のなかで何が引っ掛かって炸裂してくだをまいたのか、それはポジティブなやつかネガティブなやつか(たぶん後者)、それは明日の希望みたいななんかに繋がっていくやつなのか(いやそれは500%ない)、などなど。

自分の頭のなかのあれこれを吐き出す系、って90年代のグランジ/エモ(若者)の頃から00年代のSATC(独身女性たち)があって、その線上にこれを置くのが正しいのかどうかわからないけど、(うざい)ソーシャルなあれこれが手元足元にまで蔓延するようになってきた昨今、それが独身女性のひとり語り、としてこういう形で出てきてウケた - フィクションとして楽しむ、というよりフィクションであることは認識しつつも自分にとても近い何かとして並べて笑い倒してふん! - というのはなんかあるのかも。

それらをただ外に吐き出すだけならTwitterでもYouTubeでも手段はあるし、昔からスタンダップコメディとして同じようなネタやスケッチはあったと思うし、それがどうしてロンドンに暮らすPhoebe Waller-Bridgeさんの芸として成り立ってしまうのか。いろんな見方ができると思うけど、ロンドンという都市、というのはいっこあるのではないか。男も女も尖がったのからださいのから見かけ倒しのしょうもないのまでたっぷり溢れていて、天気も交通も日照時間も極めていいかげんでままならず、誰もそういうの気にしたってしょうがないから気にしないでへっちゃらで、その無頓着(と裏返しの自意識)のありようが頭ひとつぬけている、というか。このドラマがNYやLAでも同様に成立するか、というとあんまイメージできない。

であったからエミー賞受賞は驚きで、翌朝のニュースでぶったまげて、BBCのキャスターとかも不思議がっていた。でもSNLにも出ちゃったしねえ。すごいねえ。

そのうち「Fleabag系」みたいなカテゴリーとか判別ラベルができていくのかしら? でもそれは誇ってよいなにかだと思うし、ふつうに「それがなにか?」であってほしいなー、とか。(これってにっぽんの「腐女子」と似たようななにかなの?)

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