さっきBFIのAntonioni特集で、「不毛」3部作のまん中、”La notte” (1961)を見てきて、Jeanne Moreau すごーいなのだが、そんなことしている暇はなくて、昨年の今頃もこういうのがあった気がするが、お仕事で1週間日本に行きます。明日の朝(土曜日) - いまから5時間後くらいにここを出て、一週間後の土曜日に戻る。 ので更新はしばらく止まる。
早いもので来週になったらこっちに来てもう2年で、それについては満場一致で早すぎよね、しかないのだが、少なくとも昨年の1月からここまで日本のTV番組(ネットで見れるらしい)も日本の新聞(会社員なのに)も日本の雑誌(そりゃ離れるよね)も全く触れていない。日本食もべつにそんな無理しなくてもいいよ、になってしまった。むかしアメリカにいた頃はもう少しいろいろ積極的に摂取していた - 浦島太郎にならないように、というよりふつうにおもしろかったから - 気がするのだが、今はそうしなくてもちっとも構わないし困らないし、むしろそんな暇があるのだったら美術館でも古本屋でも映画館でもいくらでも行くところあるよね、になった。 そしてBBCとThe GuardianとThe TimesとTwitterのTL(最近はうんざりするので猫のしか見ない)から窺える昨今の日本は、一党独裁のろくでなしならずものディストピアにしか見えないし、ほうらやっぱし花粉も飛び始めたみたいだし、だから、あーあ、になっている - 自分のパスポートの発行国なのに/だからの「あーあ」というより、もうどうにもなんないからどうでもいいやごめんなさいの「あーあ」。(ひたすらうざい広告とか肩がぶつかっただけで「ちっ」とか言うひととかとにかく怒ってばかりのひととか、こちらを一方的に不快にさせて満足したがる人たちがいっぱい、とか予め書いておけば少しはやり過ごせるようになる?)
なので時間の許す限り逃げこめるところに走って逃げて扉を閉じたいのだが、もうルーベンスもムンクもMichaël Borremans & Mark Mandersも終わっちゃったし、ロシアのも着いた日に終わっちゃうので無理だろうし、帯になんとか襷になんとか微妙なのばっかり - ソフィ カルは昔見たやつだし、マイケル・ケンナはどうでもいいしフェルメールもべつにいいよーだだし、庭園美術館と世田谷文学館と松濤美術館くらいかしら。 映画もなんかないかなー、って探しているのだが、タヒミックとか昼間なのよね。(仕事しろ)
古本屋に本屋にレコ屋、行けるんだったら行くし行きたいけど、買ってもどっち側に置いておくのか、ロンドンのほうはもう場所も隙間もないよ、と書いたところで置いとくだけになっている大きめの本とかはここで日本に運んでおけば、というのを思いつく。
パッキングを始めようというこのタイミングでものすごい薮蛇になりそうだけど、どうだろうか。
戻ったらもう2月で、もう2月のあれこれとかの方が気になっていて、飛行機遅れないで戻ってこれますように。
BFIでは、ついにBarbara Stanwyckさまの特集 - ”Starring Barbara Stanwyck”が始まるし、Lily James & Gillian Anderson主演 + 音楽 PJ Harvey - の舞台”All About Eve”があるし、朝はまだ暗いけど2019年がくるかんじ。 になってほしいものだわ。
さっきからちゃちな願望ばかり書いていて、こういうのは大抵ろくなことにはならないものだけど、とにかく、今回会うことができるひとも半径数kmのどこかですれちがうひとも、そこだけはよい時間が流れますように。
では、パッキングをば。 ものすごーくねむい。
1.26.2019
1.25.2019
[film] Il Grido (1957)
ああいろいろばたばたすぎる。
20日の日曜日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。 英語題は“The Cry”、邦題は『さすらい』。
冒頭、Irma (Alida Valli)は7年前にオーストラリアに行ったきりになっている夫が現地で死亡したという報を受けて、彼女はそれを家の近所の工場で働いている内縁の夫Aldo (Steve Cochran)に伝えるべく彼を昼休みに呼びだす。これですっきり結婚できると走って家に戻るAldoだったがいきなりあたしたち別れましょ、って言われてがーん、て。
これまでに見てきたAntonioniからすれば、ここから先はIrmaの新たな恋に向かったさすらい旅、になる、と思っていたらそうではなくて、娘のRosinaを連れて仕事なんかどうでもよくなって家を出ていくのはAldoのほうで、かわいそうにそんな彼を誰も止めなくて、カメラはそんなAldoのいじけたしょんぼり汚れ旅を追う。
彼はかつて付きあっていた女友達を訪ねたり仕事を探すふりしたり、川縁(Po河)に行ったりガソリンスタンドに行ったり(結構付きあっていたらしい)、そのたびにまだあたしのことすき? とかやったりするのだが、結局Irmaが頭からどいてくれず燃えあがらないまま中途半端にごにょごにょするばかり、更にそうやっているとこをRosinaに見られて、パパなんかだいっきらいーと彼方に走り去られてしまう、わかったごめん、て捕まえて別の土地に… その繰り返しで、最後は結局もとの家に戻るのだが、戻ってもやっぱしIrmaは.. だし、工場はデモで盛りあがっているし、ふらふらとかつての仕事場の塔に昇っていって...
これの一つ前に作られていて関連もあるらしい”Le Amiche” - The Girl Friends (1955)を見れていないのでなんとも、なのだが、前々作の”The Lady Without Camelias” (1953)もやはり勝手に梯子を外されて行き場を失った女性のお話しで、でも彼女は踏んばったし、ここまでストレートにころがり落ちていくものではなかったような。仕事があっても一緒についてきてくれる娘がいてもだめなものはだめなんだよう、って流れている川とか降ってくる雨にそのまま打たれてずるずる流されていく、そういうメロドラマで、かわいそうなかんじもあるけど、そんなにかわいそうに見えないのはなんでか。また、彼の反対側でIrmaは勿論、かつてAldoが捨てた女性たちはへっちゃらに強くてAldoみたいにならなかったのはなんでか。
たんにAldoはだめな奴だねえ、ていう話ではなくて、彼がああなっていく理由や過程はそれなりの場面や視線の交錯や背景でもって喋らなくても説明されていくかんじで、その起源とか方式はこないだの一連の短編ドキュメンタリーのなかに見ることができる気がした。最初のPo河の生活を描いたやつから人が働いている描写からなにから。 そしてこの後の「不毛」3部作では(真ん中のはまだ見てないけど)、女性は道の向こうに歩いて行ってしまう(戻ってこない)もので、建物はただ突っ立っているだけで、押してくるのは海とがさつな男ばかりで。
配布されたペーパーによるとAntonioniは、1952年のロンドンの場末で3時間半壁を見つめているときにこの話を思いついた、と言っていて、確かにそういう閉塞感のなかで作られたお話し、のかんじはある。更におもしろいのは、プロデューサーにはこれと”L’avventura” (1960)を一緒に渡して、プロデューサーはまずこっちを選んだのだと。 なるほど”L’avventura”とはいろんな点で対になっているのかも。 どちらも喪失を起点にしつつも、一方は愛に殉じて、もう一方は愛を棄ておく。
河べりで、子供たちがporcupine(ハリネズミ?)を捕まえたよ! 2匹も!って親のところに持っていくと、親は、おおでかした、ローストにするとうまいからなー! っていうとこがあるんだけど、おいしいのかしら?
20日の日曜日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。 英語題は“The Cry”、邦題は『さすらい』。
冒頭、Irma (Alida Valli)は7年前にオーストラリアに行ったきりになっている夫が現地で死亡したという報を受けて、彼女はそれを家の近所の工場で働いている内縁の夫Aldo (Steve Cochran)に伝えるべく彼を昼休みに呼びだす。これですっきり結婚できると走って家に戻るAldoだったがいきなりあたしたち別れましょ、って言われてがーん、て。
これまでに見てきたAntonioniからすれば、ここから先はIrmaの新たな恋に向かったさすらい旅、になる、と思っていたらそうではなくて、娘のRosinaを連れて仕事なんかどうでもよくなって家を出ていくのはAldoのほうで、かわいそうにそんな彼を誰も止めなくて、カメラはそんなAldoのいじけたしょんぼり汚れ旅を追う。
彼はかつて付きあっていた女友達を訪ねたり仕事を探すふりしたり、川縁(Po河)に行ったりガソリンスタンドに行ったり(結構付きあっていたらしい)、そのたびにまだあたしのことすき? とかやったりするのだが、結局Irmaが頭からどいてくれず燃えあがらないまま中途半端にごにょごにょするばかり、更にそうやっているとこをRosinaに見られて、パパなんかだいっきらいーと彼方に走り去られてしまう、わかったごめん、て捕まえて別の土地に… その繰り返しで、最後は結局もとの家に戻るのだが、戻ってもやっぱしIrmaは.. だし、工場はデモで盛りあがっているし、ふらふらとかつての仕事場の塔に昇っていって...
これの一つ前に作られていて関連もあるらしい”Le Amiche” - The Girl Friends (1955)を見れていないのでなんとも、なのだが、前々作の”The Lady Without Camelias” (1953)もやはり勝手に梯子を外されて行き場を失った女性のお話しで、でも彼女は踏んばったし、ここまでストレートにころがり落ちていくものではなかったような。仕事があっても一緒についてきてくれる娘がいてもだめなものはだめなんだよう、って流れている川とか降ってくる雨にそのまま打たれてずるずる流されていく、そういうメロドラマで、かわいそうなかんじもあるけど、そんなにかわいそうに見えないのはなんでか。また、彼の反対側でIrmaは勿論、かつてAldoが捨てた女性たちはへっちゃらに強くてAldoみたいにならなかったのはなんでか。
たんにAldoはだめな奴だねえ、ていう話ではなくて、彼がああなっていく理由や過程はそれなりの場面や視線の交錯や背景でもって喋らなくても説明されていくかんじで、その起源とか方式はこないだの一連の短編ドキュメンタリーのなかに見ることができる気がした。最初のPo河の生活を描いたやつから人が働いている描写からなにから。 そしてこの後の「不毛」3部作では(真ん中のはまだ見てないけど)、女性は道の向こうに歩いて行ってしまう(戻ってこない)もので、建物はただ突っ立っているだけで、押してくるのは海とがさつな男ばかりで。
配布されたペーパーによるとAntonioniは、1952年のロンドンの場末で3時間半壁を見つめているときにこの話を思いついた、と言っていて、確かにそういう閉塞感のなかで作られたお話し、のかんじはある。更におもしろいのは、プロデューサーにはこれと”L’avventura” (1960)を一緒に渡して、プロデューサーはまずこっちを選んだのだと。 なるほど”L’avventura”とはいろんな点で対になっているのかも。 どちらも喪失を起点にしつつも、一方は愛に殉じて、もう一方は愛を棄ておく。
河べりで、子供たちがporcupine(ハリネズミ?)を捕まえたよ! 2匹も!って親のところに持っていくと、親は、おおでかした、ローストにするとうまいからなー! っていうとこがあるんだけど、おいしいのかしら?
1.24.2019
[music] Frederic Rzewski
10日、木曜日の晩にCafé OTOで、今年の初ライブを。2 days公演の初日。
Frederic Rzewskiのことはおおお昔に高橋悠治や三宅 榛名の本で読んで知って、『不屈の民』とかは聞いたことがあったのだが、まだ存命で(失礼よね)Café OTOみたいなとこ(失礼よね)でライブをやっているなんて知らなかった。
見た目はふつうのおじいさんで、ピアノの前にすたすた歩いていって、楽譜を広げて弾き始める。本を読むみたいに、穴が開くくらい食い入るように楽譜を見つめて、一音一音考えながら確かめるように指を置いていって、これ自分で作った曲だよね? と思うのだがとにかく尋常ではないテンションで譜面を見つめ、けっか叩きだされるタッチも踏みこまれるペダルもすばらしい強さと硬さ。弾き終わってから大きな声で”Winter Night”と曲名を告げるとその場にいた全員が「ふぅー」って溶けた。
もう一曲やってからDuoの共演者のJan Rzewskiさん(彼の息子)がテナーサックス(よね)のソロを披露して、結構長めの休憩に入って、ふたりのDuoになるのだが、曲に入るまでの親子のやりとりが、日々のキッチンでのやりとりみたい(「これ塩の瓶だっけ?」〜「ちがうよ小麦粉だよ」)で面白くて。(ふたりのやりとりはフラマン語?イタリア語?)
Steve Lacyの作品 - NYのLiving Theatreの創設メンバーで詩人のJudith Malinaの詩をもとにした曲をやります、と言ってSteve Lacyとの思い出も少し話してくれた。 Steve Lacyとのリハーサルは厳格を極めてどんな轟音や騒音のなかにあっても元の譜から外れたテンポや音を出すことは許さなかったと、あれでドラッグをがんがんキメながらやってたっていうのが未だに信じられないって。
こうしてふたりのDuoは(親子だからなんていう必要は勿論なく)げんげん、かんかん、さーさーした硬い音同士のぶつかり合いと、衝突がもたらす空間の歪みと拡がりが見事で、最後にペダルを思いっきり踏みこんだピアノにJanが音を吹きこんでみるとその余韻がふぁーんとあたりに舞い散って、ああ冬だ冬だわ、ってがたがた震えながら帰ったの。
Ensemble Modern: Rebecca Saunders Portrait
19日土曜日の晩、BFIの隣のQueen Elizabeth Hallで”That Hamilton Woman”を見たあとに駆け込んで30分遅れだったけど、見ました。(ちゃんと時間確認しろって何千回言ったら..)
SouthBank Centreではどういう趣旨のかきちんと読んでいないのだが、”SoundState”ていう現代音楽に特化したフェスティバルを1週間くらいやっていて、その一部。 この回のRebecca Saundersの他にはClaire Chase, Du Yunといった作家を紹介していて、どれも知らない人たちばかりでおもしろそう。 Rebecca Saunders さんは英国のひとで、丁度1週間くらい前に女性で初めてErnst von Siemens Music prizeていうのを受賞した、という記事を読んで、取ったの。(そしたら重なってたの) お代は£15だったし。
現代音楽は、クラシックやJazzとおなじようにたまにとっても聴きたくなって聴いたってわけわかんないのだがなんかすごいーって震えて帰る、というのを繰り返してこんにちに至る。
演目は”Skin” - for soprano and 13 instrumentsというやつで、sopranoのひとはベケットの”The Ghost Trio”とジョイスの” Ulysses”からMolly Bloomのモノローグを読みあげるというか歌うというか唸るというか、ヒトのそれとは思えないような声も含めて発していて、楽譜にはどんなことが書いてあるのか – それを言うなら13人全員の分はどうなんだ、という他ないくらいに液体みたいに伸びて縮んで沸騰して蒸発して散っていくばらけた音のてんで勝手な渦巻きがスリリングで、とにかくとってもおもしろかった。
そしてこちらも冬の音としか言いようがない冷たさなのだった。
Frederic Rzewskiのことはおおお昔に高橋悠治や三宅 榛名の本で読んで知って、『不屈の民』とかは聞いたことがあったのだが、まだ存命で(失礼よね)Café OTOみたいなとこ(失礼よね)でライブをやっているなんて知らなかった。
見た目はふつうのおじいさんで、ピアノの前にすたすた歩いていって、楽譜を広げて弾き始める。本を読むみたいに、穴が開くくらい食い入るように楽譜を見つめて、一音一音考えながら確かめるように指を置いていって、これ自分で作った曲だよね? と思うのだがとにかく尋常ではないテンションで譜面を見つめ、けっか叩きだされるタッチも踏みこまれるペダルもすばらしい強さと硬さ。弾き終わってから大きな声で”Winter Night”と曲名を告げるとその場にいた全員が「ふぅー」って溶けた。
もう一曲やってからDuoの共演者のJan Rzewskiさん(彼の息子)がテナーサックス(よね)のソロを披露して、結構長めの休憩に入って、ふたりのDuoになるのだが、曲に入るまでの親子のやりとりが、日々のキッチンでのやりとりみたい(「これ塩の瓶だっけ?」〜「ちがうよ小麦粉だよ」)で面白くて。(ふたりのやりとりはフラマン語?イタリア語?)
Steve Lacyの作品 - NYのLiving Theatreの創設メンバーで詩人のJudith Malinaの詩をもとにした曲をやります、と言ってSteve Lacyとの思い出も少し話してくれた。 Steve Lacyとのリハーサルは厳格を極めてどんな轟音や騒音のなかにあっても元の譜から外れたテンポや音を出すことは許さなかったと、あれでドラッグをがんがんキメながらやってたっていうのが未だに信じられないって。
こうしてふたりのDuoは(親子だからなんていう必要は勿論なく)げんげん、かんかん、さーさーした硬い音同士のぶつかり合いと、衝突がもたらす空間の歪みと拡がりが見事で、最後にペダルを思いっきり踏みこんだピアノにJanが音を吹きこんでみるとその余韻がふぁーんとあたりに舞い散って、ああ冬だ冬だわ、ってがたがた震えながら帰ったの。
Ensemble Modern: Rebecca Saunders Portrait
19日土曜日の晩、BFIの隣のQueen Elizabeth Hallで”That Hamilton Woman”を見たあとに駆け込んで30分遅れだったけど、見ました。(ちゃんと時間確認しろって何千回言ったら..)
SouthBank Centreではどういう趣旨のかきちんと読んでいないのだが、”SoundState”ていう現代音楽に特化したフェスティバルを1週間くらいやっていて、その一部。 この回のRebecca Saundersの他にはClaire Chase, Du Yunといった作家を紹介していて、どれも知らない人たちばかりでおもしろそう。 Rebecca Saunders さんは英国のひとで、丁度1週間くらい前に女性で初めてErnst von Siemens Music prizeていうのを受賞した、という記事を読んで、取ったの。(そしたら重なってたの) お代は£15だったし。
現代音楽は、クラシックやJazzとおなじようにたまにとっても聴きたくなって聴いたってわけわかんないのだがなんかすごいーって震えて帰る、というのを繰り返してこんにちに至る。
演目は”Skin” - for soprano and 13 instrumentsというやつで、sopranoのひとはベケットの”The Ghost Trio”とジョイスの” Ulysses”からMolly Bloomのモノローグを読みあげるというか歌うというか唸るというか、ヒトのそれとは思えないような声も含めて発していて、楽譜にはどんなことが書いてあるのか – それを言うなら13人全員の分はどうなんだ、という他ないくらいに液体みたいに伸びて縮んで沸騰して蒸発して散っていくばらけた音のてんで勝手な渦巻きがスリリングで、とにかくとってもおもしろかった。
そしてこちらも冬の音としか言いようがない冷たさなのだった。
1.23.2019
[film] That Hamilton Woman (1941)
19日、土曜日の夕方、BFIのAlexander Korda特集で見ました。
監督はKorda自身で、邦題は『美女ありき』(..よくわかんない)
これもこないだの”Knight Without Armor” (1937)と同じく大陸に渡った英国人を扱った大河ドラマなのだが、主人公のEmma Hamiltonについては、2017年の春にNational Maritime Museumで見た展示 - “Emma Hamilton: Seduction and Celebrity”がとても印象に残っていたので、なんとしても見たかった。”Based on true events”なんてもちろん出ない。英国人みんながようく知っているお話しだから。
フランスのカレーの波止場でお酒を万引きしようとした薄汚れた皺皺の老女が捕まって牢屋に入れられて、横にいた婦人にぼそぼそと過去を語り始める、というのが冒頭。
英国でCharles Francis Grevilleの愛人だったEmma (Vivien Leigh)はCharlesの叔父でナポリの英国大使のWilliam Hamilton (Alan Mowbray)のところに母親と一緒に送られて、実はこれがCharles の借金のカタだった、ということを知ってEmmaは嘆き悲しむのだが、彼女はWilliamと結婚してEmma Hamiltonとなり、Williamが彼女に十分な教育とか豪勢な暮らしを与えると彼女はみるみる輝いて社交界でもセレブとして頭角を現すようになって、そこでナポレオンとかと戦争をしているHoratio Nelson (Laurence Olivier)と出会ってときめいて、でも彼はすぐに戦地に行っちゃって、次に会ったときに彼は右目と右腕を失ってたりしているのだが、でも会うたびに愛は燃え広がってしまって戦争でも鎮火できなくなるの。
その後Nelsonは英国の英雄となって凱旋して、世間に注目されることも多くなり、彼には妻がいて彼女には夫がいて、でもそんなの関係ないわ、って互いに言うのだがやがてトラファルガー海戦の件が来て、Nelsonは受けて立つ、って出て行っちゃって、それで…(この後の海戦のシーンは音も火花もなかなかすごくて、オスカーのBest Sound, Recordingを受賞している)
配布されたノートには当時ハリウッド進出に向けて奔走していたKordaと、同様に当時米国で財政面で苦労していたVivien LeighとLaurence Olivier、この映画で第二次大戦での英国の戦意高揚を狙いたいWinston Churchillとの間でいろんな駆け引きがあった末に立ちあがったことが書いてあっておもしろいのだが、でもその割にあんまプロパガンダ臭はなくて、どんな境遇にあっても愛を貫こうとしたふたりのラブストーリー&メロドラマになっているのはよいの。 先のNational Maritime Museumの展示もいかにEmmaがきらきらすごかったか、Nelsonの死後に彼女がかわいそうだったか、が中心だったので、このふたりのお話しは英国人みんなに愛されているんだなあ、って。あと、あの展示にあったEmmaの肖像画は、映画のなかにも出てきた。
それにしてもVivien Leighの衣装(by René Hubert)も含めた輝きの光量ときたらとんでもなくすごくて(撮影はRudolph Maté)、これだけでうっとりしていられるのと、それ故の冒頭とラストの凋落ぶりがかわいそうすぎて泣けて、その割に見たあとの感触はなんだか軽くてよかった。大河ドラマのお手本みたいにバランスよく整った構成と展開だったとおもう。
これ、いまリメイクするとしたら主演のふたりは誰になるかしら?
KordaとChurchillの関係については、”Churchill and the Movie Mogul” (2019)ていうドキュメンタリーが明日(24日)から公開されるもよう。 見なきゃ、だよね。
ーーーー
午後にJonas Mekasさんの訃報をきいた。
こんな凍える冬の日にはいちばん、ぜんぜん聞きたくない一報で、ずっと泣きそうだった。
彼が自分に与えてくれたものの大きさからすれば、きちんと別欄で括って書くべきなのかもしれないけど、なんか彼は旅に出ているだけなんじゃないか、って。 来年くらいに天国からの旅日記とかYou Tubeにひょっこりあげてくるんじゃないか、って。
前にも書いたが、大学の時に四谷のイメージフォーラムで見た”Lost, Lost, Lost” (1976)が全てをひっくり返してくれた。 映像は、映画はこんなにも自由にめちゃくちゃに世界を捉えられるのだと、世界を旅できるものだということを知った。 彼が見たように映画を、世界を見たいな、という思いが自分の旅の始まりで、それがどんなに果てのない、おそろしい、しょうもないものであるか、いいかげんにわかれよ、とも思うが、でも止めちゃいけない気がする。
Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost - ぐらい行かないとわからないのだろう。きっと。 彼の死で頭のなかにこの言葉が溢れかえっているけど、ほんとうに全てが失われたときって、いったい何が見えるのだろう。
そしてMekasさんは、いつもの帽子にカメラを抱えて、かの地で、何を撮っているのかしらん?
そこって、Williamsburgにたどり着いた時のようなかんじ?
そうそう、彼が教えてくれたBrooklynのイタリアン - Roman's、こんどまた行かなきゃ。
本当にありがとうございました。 またね。
監督はKorda自身で、邦題は『美女ありき』(..よくわかんない)
これもこないだの”Knight Without Armor” (1937)と同じく大陸に渡った英国人を扱った大河ドラマなのだが、主人公のEmma Hamiltonについては、2017年の春にNational Maritime Museumで見た展示 - “Emma Hamilton: Seduction and Celebrity”がとても印象に残っていたので、なんとしても見たかった。”Based on true events”なんてもちろん出ない。英国人みんながようく知っているお話しだから。
フランスのカレーの波止場でお酒を万引きしようとした薄汚れた皺皺の老女が捕まって牢屋に入れられて、横にいた婦人にぼそぼそと過去を語り始める、というのが冒頭。
英国でCharles Francis Grevilleの愛人だったEmma (Vivien Leigh)はCharlesの叔父でナポリの英国大使のWilliam Hamilton (Alan Mowbray)のところに母親と一緒に送られて、実はこれがCharles の借金のカタだった、ということを知ってEmmaは嘆き悲しむのだが、彼女はWilliamと結婚してEmma Hamiltonとなり、Williamが彼女に十分な教育とか豪勢な暮らしを与えると彼女はみるみる輝いて社交界でもセレブとして頭角を現すようになって、そこでナポレオンとかと戦争をしているHoratio Nelson (Laurence Olivier)と出会ってときめいて、でも彼はすぐに戦地に行っちゃって、次に会ったときに彼は右目と右腕を失ってたりしているのだが、でも会うたびに愛は燃え広がってしまって戦争でも鎮火できなくなるの。
その後Nelsonは英国の英雄となって凱旋して、世間に注目されることも多くなり、彼には妻がいて彼女には夫がいて、でもそんなの関係ないわ、って互いに言うのだがやがてトラファルガー海戦の件が来て、Nelsonは受けて立つ、って出て行っちゃって、それで…(この後の海戦のシーンは音も火花もなかなかすごくて、オスカーのBest Sound, Recordingを受賞している)
配布されたノートには当時ハリウッド進出に向けて奔走していたKordaと、同様に当時米国で財政面で苦労していたVivien LeighとLaurence Olivier、この映画で第二次大戦での英国の戦意高揚を狙いたいWinston Churchillとの間でいろんな駆け引きがあった末に立ちあがったことが書いてあっておもしろいのだが、でもその割にあんまプロパガンダ臭はなくて、どんな境遇にあっても愛を貫こうとしたふたりのラブストーリー&メロドラマになっているのはよいの。 先のNational Maritime Museumの展示もいかにEmmaがきらきらすごかったか、Nelsonの死後に彼女がかわいそうだったか、が中心だったので、このふたりのお話しは英国人みんなに愛されているんだなあ、って。あと、あの展示にあったEmmaの肖像画は、映画のなかにも出てきた。
それにしてもVivien Leighの衣装(by René Hubert)も含めた輝きの光量ときたらとんでもなくすごくて(撮影はRudolph Maté)、これだけでうっとりしていられるのと、それ故の冒頭とラストの凋落ぶりがかわいそうすぎて泣けて、その割に見たあとの感触はなんだか軽くてよかった。大河ドラマのお手本みたいにバランスよく整った構成と展開だったとおもう。
これ、いまリメイクするとしたら主演のふたりは誰になるかしら?
KordaとChurchillの関係については、”Churchill and the Movie Mogul” (2019)ていうドキュメンタリーが明日(24日)から公開されるもよう。 見なきゃ、だよね。
ーーーー
午後にJonas Mekasさんの訃報をきいた。
こんな凍える冬の日にはいちばん、ぜんぜん聞きたくない一報で、ずっと泣きそうだった。
彼が自分に与えてくれたものの大きさからすれば、きちんと別欄で括って書くべきなのかもしれないけど、なんか彼は旅に出ているだけなんじゃないか、って。 来年くらいに天国からの旅日記とかYou Tubeにひょっこりあげてくるんじゃないか、って。
前にも書いたが、大学の時に四谷のイメージフォーラムで見た”Lost, Lost, Lost” (1976)が全てをひっくり返してくれた。 映像は、映画はこんなにも自由にめちゃくちゃに世界を捉えられるのだと、世界を旅できるものだということを知った。 彼が見たように映画を、世界を見たいな、という思いが自分の旅の始まりで、それがどんなに果てのない、おそろしい、しょうもないものであるか、いいかげんにわかれよ、とも思うが、でも止めちゃいけない気がする。
Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost, Lost - ぐらい行かないとわからないのだろう。きっと。 彼の死で頭のなかにこの言葉が溢れかえっているけど、ほんとうに全てが失われたときって、いったい何が見えるのだろう。
そしてMekasさんは、いつもの帽子にカメラを抱えて、かの地で、何を撮っているのかしらん?
そこって、Williamsburgにたどり着いた時のようなかんじ?
そうそう、彼が教えてくれたBrooklynのイタリアン - Roman's、こんどまた行かなきゃ。
本当にありがとうございました。 またね。
[film] Antonioni’s Short Films 1947-65
18日、金曜日の晩、BFIのAntonioni特集で見ました。 彼の初期の短編集なのだが、どれもすごくおもしろかった。最初の1本だけフィルムで、それ以降は撮られた順の時系列で、デジタル上映で。
Il provino - segment from “Three Faces of a Woman” (1965) 32min
オムニバス映画 - “Three Faces of a Woman”からの一編。
新聞屋(ゴシップ紙?)のRichard HarrisがどこかからPrincess Soraya(本人)がDino De Laurentiis(本人)の元で女優デビューするらしいぞ、ていう情報を得て夜道を車でとばしてDino De Laurentiisの事務所に突撃するのだが当然入れて貰えなくて、外でじりじり粘るのとネタ屋にばれちゃったからってSoraya自身が発表に向けて準備ていくのとを漫画みたいな場面展開のなかで描く。
ちょっとおしゃれでスリリングだけど、でも割とどうでもいいことをさらさらと。
People of the Po Valley (Genre del Po) (1947) 11min
彼の最初の監督作。Po河を船団を組んで行き来しながら船の上で暮す人々の生活をスケッチしたドキュメンタリーで、船上の暮らしというと『ツバメ号とシジュウカラ号』(1920)を思いだしたりもしてたまんない。嵐が来るときの準備とかも大変そうだけど、流れていく風景と共にある生活って、なんであんなによいのかしら。
N.U. (1948) 12min
ローマの道路のゴミ清掃をする人たち - “Nettezza Urbana” - の町の朝と晩と共にあるその活動とか暮らしを追う。 過度に人にフォーカスしないで、町や建物の表面と等価にそこに生きる人々を捉えている。野良猫を見ているよう、かもしれないけど、べつに野良猫レスペクトだし。 バッハにJazzが絡む音楽も素敵。
Seven Reeds, One Suit (Settle canne, un vestito) (1948) 10min
川辺で葦を刈るところからそれを機械にかけてパルプを作って、そこで紙ができるのか、と思ったらそれを更にほぐして繊維をとって、それがファッションショーで着るようなドレスになりました、ていうお話し。いろんな機械とその工程を順番に紹介していくのだが、川辺でざくざく刈られる葦があんなふうになっちゃうなんて、機械すげえな、て素朴に感嘆する。
Superstitions (Superstizione) (1949) 10min
田舎に伝わるいろんな言い伝えとか迷信とか呪術信仰みたいのをそこらのおばちゃんの実演を交えて紹介していく。カエルの脚を縛って、の後に、にょろにょろヘビを素手で捕まえて火にくべて(にょろにょろ)灰にして、とかなかなか強烈なのだが、いちばんこわいのはおばちゃんが全く無表情なことなの。
Lies of Love (L’amorosa menzogna) (1949) 12min
町のスタンドで売っていて女子に人気のコミック雑誌、かと思ったらそれは写真に吹き出しが入った”fumetti”ていうやつで、そのうちのひとつを撮影・制作している現場とか、うっとりするマニアの熱い目線がたっぷり。男優の人はふだんは町工場とかで働いていて、彼はとっても人気者なの。
La Funivia del Faloria (The Funicular of Mount Faloria) (1950) 6min
山あいをぬって走るケーブルカーからの眺めをカメラに収めただけなのだが、こーんなに高いんだぞ怖いだろー、みたいのはなくて、この眼前に広がる変な光景はなに? なんなのこれ? みたいな声が聞こえてくるかのような。
The Villa of Monsters (La villa del mostri) (1950) 9min
トリエステの田舎のほうに建てられて今は廃墟のようになっているかつての貴族だか豪族だかの邸宅の庭で同様に転がって朽ちている変てこな獣とかモンスターみたいな彫刻たちがいて、もっさりした景色の一部になっていてなんかいいなー、ていう。
Attempted Suicide (Segment from Love in the City / Amore in citta) (1953) 18min
Federico Fellini とかも参加したオムニバス映画 “Love in the City”のエピソードの2つめ。倉庫みたいなところに女性とかが集められて、彼女たちは一度自殺をしようとして実行して、でも死ねなかったひとたちで、その数人に、なんで、どうやって死のうとしたのか、なんで失敗したのか、などを現場実況も含めてインタビューしていて、でも聞くほうも喋るほうもおそろしく平熱で、あんた関係ないでしょモードで、この辺のふてぶてしく女性を捉えるところはもうじゅうぶんAntonioniなの。
彼が『Po河』を製作して映画に関わりだした頃って、まだイタリアはドイツの占領下にあって、そこからムッソリーニの独裁になだれこんでいって、そういう時代背景を考えると彼の作品におけるヒト(なかでも性差)の扱いとか、その目線や触感が60年代以降も一貫していったこととか、すごいなあ、って改めて。
ここまできて肝心カナメのリバイバル - "The Passenger" (1975)を見逃している(もう終わっちゃった…)ことに気づいて、あーあ、になっている。
Il provino - segment from “Three Faces of a Woman” (1965) 32min
オムニバス映画 - “Three Faces of a Woman”からの一編。
新聞屋(ゴシップ紙?)のRichard HarrisがどこかからPrincess Soraya(本人)がDino De Laurentiis(本人)の元で女優デビューするらしいぞ、ていう情報を得て夜道を車でとばしてDino De Laurentiisの事務所に突撃するのだが当然入れて貰えなくて、外でじりじり粘るのとネタ屋にばれちゃったからってSoraya自身が発表に向けて準備ていくのとを漫画みたいな場面展開のなかで描く。
ちょっとおしゃれでスリリングだけど、でも割とどうでもいいことをさらさらと。
People of the Po Valley (Genre del Po) (1947) 11min
彼の最初の監督作。Po河を船団を組んで行き来しながら船の上で暮す人々の生活をスケッチしたドキュメンタリーで、船上の暮らしというと『ツバメ号とシジュウカラ号』(1920)を思いだしたりもしてたまんない。嵐が来るときの準備とかも大変そうだけど、流れていく風景と共にある生活って、なんであんなによいのかしら。
N.U. (1948) 12min
ローマの道路のゴミ清掃をする人たち - “Nettezza Urbana” - の町の朝と晩と共にあるその活動とか暮らしを追う。 過度に人にフォーカスしないで、町や建物の表面と等価にそこに生きる人々を捉えている。野良猫を見ているよう、かもしれないけど、べつに野良猫レスペクトだし。 バッハにJazzが絡む音楽も素敵。
Seven Reeds, One Suit (Settle canne, un vestito) (1948) 10min
川辺で葦を刈るところからそれを機械にかけてパルプを作って、そこで紙ができるのか、と思ったらそれを更にほぐして繊維をとって、それがファッションショーで着るようなドレスになりました、ていうお話し。いろんな機械とその工程を順番に紹介していくのだが、川辺でざくざく刈られる葦があんなふうになっちゃうなんて、機械すげえな、て素朴に感嘆する。
Superstitions (Superstizione) (1949) 10min
田舎に伝わるいろんな言い伝えとか迷信とか呪術信仰みたいのをそこらのおばちゃんの実演を交えて紹介していく。カエルの脚を縛って、の後に、にょろにょろヘビを素手で捕まえて火にくべて(にょろにょろ)灰にして、とかなかなか強烈なのだが、いちばんこわいのはおばちゃんが全く無表情なことなの。
Lies of Love (L’amorosa menzogna) (1949) 12min
町のスタンドで売っていて女子に人気のコミック雑誌、かと思ったらそれは写真に吹き出しが入った”fumetti”ていうやつで、そのうちのひとつを撮影・制作している現場とか、うっとりするマニアの熱い目線がたっぷり。男優の人はふだんは町工場とかで働いていて、彼はとっても人気者なの。
La Funivia del Faloria (The Funicular of Mount Faloria) (1950) 6min
山あいをぬって走るケーブルカーからの眺めをカメラに収めただけなのだが、こーんなに高いんだぞ怖いだろー、みたいのはなくて、この眼前に広がる変な光景はなに? なんなのこれ? みたいな声が聞こえてくるかのような。
The Villa of Monsters (La villa del mostri) (1950) 9min
トリエステの田舎のほうに建てられて今は廃墟のようになっているかつての貴族だか豪族だかの邸宅の庭で同様に転がって朽ちている変てこな獣とかモンスターみたいな彫刻たちがいて、もっさりした景色の一部になっていてなんかいいなー、ていう。
Attempted Suicide (Segment from Love in the City / Amore in citta) (1953) 18min
Federico Fellini とかも参加したオムニバス映画 “Love in the City”のエピソードの2つめ。倉庫みたいなところに女性とかが集められて、彼女たちは一度自殺をしようとして実行して、でも死ねなかったひとたちで、その数人に、なんで、どうやって死のうとしたのか、なんで失敗したのか、などを現場実況も含めてインタビューしていて、でも聞くほうも喋るほうもおそろしく平熱で、あんた関係ないでしょモードで、この辺のふてぶてしく女性を捉えるところはもうじゅうぶんAntonioniなの。
彼が『Po河』を製作して映画に関わりだした頃って、まだイタリアはドイツの占領下にあって、そこからムッソリーニの独裁になだれこんでいって、そういう時代背景を考えると彼の作品におけるヒト(なかでも性差)の扱いとか、その目線や触感が60年代以降も一貫していったこととか、すごいなあ、って改めて。
ここまできて肝心カナメのリバイバル - "The Passenger" (1975)を見逃している(もう終わっちゃった…)ことに気づいて、あーあ、になっている。
1.22.2019
[film] L'avventura (1960)
12日土曜日の夕方、BFIのAntonioni特集で見ました。英語題は”The Adventure”で、邦題は『情事』(あーあー …)。
60年のカンヌでJury Prizeを受賞している。
彼の「愛の不毛3部作」ていうのの最初ので、ただこれまでの特集で最後の”L'eclisse” (1962)とか50年代の短編も含めた作品を見てしまっているので、この作品であんまりに突飛な、ブレークスルーしたかんじはしなかったかも。
Anna (Lea Massari)が友達のClaudia (Monica Vitti)とヨットで島にいく計画を立てて、その前に男友達のSandro (Gabriele Ferzetti)のとこに寄って、ふたりの様子はすごく熱くて親密なのだか冷めたり腐ったりし始めているのか微妙でよくわからないのだがとにかく海に出て、移動している時にAnnaは突然海に飛び込んだりして元気いっぱいで、なのに島について暫くすると姿を消してしまい、足取りがまったく掴めなくなる。父親のところにフィッツジェラルドの『夜はやさし』と聖書を遺して。
彼女がなにか事件に巻き込まれたのか海に落ちたのか自殺したのか計画的に失踪したのかまったくわからないままClaudiaとSandroはAnnaを探していろんな町、いろんな土地を旅していくうちにだんだん親密になっていって寝ちゃったりして、もしこの状態を戻ってきたAnnaが見たら.. とか思ってもどうすることもできないままずるずる旅と関係を続ける。 筋としてはそんなもの。
タイトルの”The Adventure”について、AntonioniはEmotionのAdventure、ということを言っていて - 配布されたノートによる - その点からするとここには女性がひとりいなくなってその男友達と女友達が彼女を探すうちに関係を持って、という単純な行方不明者を探すお話し、というよりは、行方不明になった彼女の声が内面で反射・反響する中、人はどんな地図を頼りに人にたどり着いたり出会ったりすることができるのか – 人は自身を行方不明者ではないと言い切れるのだろうか、みたいなところに行きつくのかも、って。 あるいは、人はAdventureを求めて新たな土地や空間に行きつくのではなく、新たな土地や空間、空気のありようがひとをその状態に持っていく、ということは言えないだろうか、って。
でもそんなこと言ったらなんでもかんでも”The Adventure”になっちゃうのではないか? については、それでもいいのだ、と返している気がする。 この心象のありように50-60年代のイタリアの都市と田舎の境界にあるような場所とか海岸線がどうしてあんなにはまるのか、はちょっと不思議だが、50年代に撮った短編ドキュメンタリーを見ると、それらの撮影を通して彼はなにかを見つけたのではないかしら、と。
こうして彼らの旅はどこに行ってもなにをしても未開の地の異様な建物とか光景に遭遇することになって、恐ろしいといえば恐ろしいかもしれないし、何を見ても既視感まみれなのかもしれないし、どこに行っても異邦の地の異邦人だらけなのかもしれない。でもEmotionの揺れとか旅とかって、性別年齢関係なくやってくるものだし、どうしようもない。そこで絶望するかとりあえず歩いていっちゃうのか、人それぞれだろうけど、Antonioniの映画では、女性(なぜ女性なのか?)はいつもひとり、群れてくる男共を振りきって向こうにすたすた歩いていってしまう(のは素敵)。 そしてこの考えのパスは直截的ではないものの(ぜったい言わないだろうけど)、その彼方にある「自由」というのを照らしだしてはいないだろうか。
ラスト、夜明けのホテルでSandroがそこらの女といるのを見つけたClaudiaが涙を流すのは彼を別の女にとられたからではなく、彼がAdventureを降りたことがわかったからで、そこでClaudiaはAnnaになったのだと思った。 さよならSandro、かわいそうな男、って。
残りはまんなかの”La notte” (1961)だが、見る時間あるかしら…
TVはなんでこんな時間に”Ferris Bueller's Day Off” (1986)をやっているのか。 見ちゃうじゃないか。
60年のカンヌでJury Prizeを受賞している。
彼の「愛の不毛3部作」ていうのの最初ので、ただこれまでの特集で最後の”L'eclisse” (1962)とか50年代の短編も含めた作品を見てしまっているので、この作品であんまりに突飛な、ブレークスルーしたかんじはしなかったかも。
Anna (Lea Massari)が友達のClaudia (Monica Vitti)とヨットで島にいく計画を立てて、その前に男友達のSandro (Gabriele Ferzetti)のとこに寄って、ふたりの様子はすごく熱くて親密なのだか冷めたり腐ったりし始めているのか微妙でよくわからないのだがとにかく海に出て、移動している時にAnnaは突然海に飛び込んだりして元気いっぱいで、なのに島について暫くすると姿を消してしまい、足取りがまったく掴めなくなる。父親のところにフィッツジェラルドの『夜はやさし』と聖書を遺して。
彼女がなにか事件に巻き込まれたのか海に落ちたのか自殺したのか計画的に失踪したのかまったくわからないままClaudiaとSandroはAnnaを探していろんな町、いろんな土地を旅していくうちにだんだん親密になっていって寝ちゃったりして、もしこの状態を戻ってきたAnnaが見たら.. とか思ってもどうすることもできないままずるずる旅と関係を続ける。 筋としてはそんなもの。
タイトルの”The Adventure”について、AntonioniはEmotionのAdventure、ということを言っていて - 配布されたノートによる - その点からするとここには女性がひとりいなくなってその男友達と女友達が彼女を探すうちに関係を持って、という単純な行方不明者を探すお話し、というよりは、行方不明になった彼女の声が内面で反射・反響する中、人はどんな地図を頼りに人にたどり着いたり出会ったりすることができるのか – 人は自身を行方不明者ではないと言い切れるのだろうか、みたいなところに行きつくのかも、って。 あるいは、人はAdventureを求めて新たな土地や空間に行きつくのではなく、新たな土地や空間、空気のありようがひとをその状態に持っていく、ということは言えないだろうか、って。
でもそんなこと言ったらなんでもかんでも”The Adventure”になっちゃうのではないか? については、それでもいいのだ、と返している気がする。 この心象のありように50-60年代のイタリアの都市と田舎の境界にあるような場所とか海岸線がどうしてあんなにはまるのか、はちょっと不思議だが、50年代に撮った短編ドキュメンタリーを見ると、それらの撮影を通して彼はなにかを見つけたのではないかしら、と。
こうして彼らの旅はどこに行ってもなにをしても未開の地の異様な建物とか光景に遭遇することになって、恐ろしいといえば恐ろしいかもしれないし、何を見ても既視感まみれなのかもしれないし、どこに行っても異邦の地の異邦人だらけなのかもしれない。でもEmotionの揺れとか旅とかって、性別年齢関係なくやってくるものだし、どうしようもない。そこで絶望するかとりあえず歩いていっちゃうのか、人それぞれだろうけど、Antonioniの映画では、女性(なぜ女性なのか?)はいつもひとり、群れてくる男共を振りきって向こうにすたすた歩いていってしまう(のは素敵)。 そしてこの考えのパスは直截的ではないものの(ぜったい言わないだろうけど)、その彼方にある「自由」というのを照らしだしてはいないだろうか。
ラスト、夜明けのホテルでSandroがそこらの女といるのを見つけたClaudiaが涙を流すのは彼を別の女にとられたからではなく、彼がAdventureを降りたことがわかったからで、そこでClaudiaはAnnaになったのだと思った。 さよならSandro、かわいそうな男、って。
残りはまんなかの”La notte” (1961)だが、見る時間あるかしら…
TVはなんでこんな時間に”Ferris Bueller's Day Off” (1986)をやっているのか。 見ちゃうじゃないか。
1.21.2019
[film] Knight without Armor (1937)
11日の金曜日の晩、”L'eclisse” (1962) に続けて見た2本目、BFIのAlexander Korda特集で見ました。
監督はしていないけどKordaのプロダクションの製作。邦題は『鎧なき騎士』。
Hitchcockの”The 39 Steps” (1935)の製作中にJames Hiltonの原作小説を読んだMadeleine Carrollが、横にいたRobert Donatに、あなたこれの映画化権を買うべきよ(それであたしたちが主演しましょ)、とそそのかしてRobertはそれに乗って、買い取ったそいつをKordaに渡した。 そういうわけで主演男優はRobert Donatで決まりだったのだが、女優の方は肝心のMadeleine Carrollが予定が入っていてだめ、次のチョイスのMyrna Loyも同様にだめ、でKordaが引っこ抜いてきたのがMarlene Dietrichだったのだと。なんとまあ。
(他にもKordaはRobertに£30,000払ったがいろいろ値切ってきたとか、Marlene Dietrichは原作を読んで女性のパートが少ない男小説だって原作者に注文をつけたけど無視されたとか、Robertは喘息がひどくて替わりにLaurence Olivierを起用する手前まで行ってたとか、上映前に貰ったペーパーにいろいろ書いてあっておもしろ)
1913年の英国の競馬場でロシアの伯爵嬢のAlexandra (Marlene Dietrich)と通信社のロシア特派員であるAinsley (Robert Donat) はすれ違ったりしているのだが、Ainsleyは帰任間際に諜報部からの命を受けてロシアのパスポートを渡されて、はじめは取材の延長くらいの感覚でいたのだがいきなり革命だのなんだのの洗濯機に巻き込まれて、シベリアに送られて、形勢が逆転すると人民委員となって、そこで身ぐるみ剥がされたAlexandraと会って、逃したり逃げたり – ひとが一杯いるところに着いて助けを求めると勢力がころりと変わっていてあんぐりで、どっちにしても一歩間違えたら捕まって銃殺の日々をぬいながらふたりで国中を転々としていく。
みんながうっとりする貴族の令嬢ドレスから囚人服まで、バスタブに浸かってぴっかぴかになったと思ったら死人から剥いだ服を着て落ち葉のしたに埋められたり、Alexandraの着せ替え百態とスクリューボール & どなどなロードムービー展開がすごくて、Alexandraを慕う兵士が彼女を逃して自殺しちゃうようなとこもあるけどそういうのも含めて楽しめてしまったりして、戦争大河メロドラマの盛りあげかたとしてはどうなのかしら、と思ったけど、でも実際にはあんなふうにいかに革命の火事場でうそついて凌いで生き延びれるかがすべてだったのだろうし、毅然として涙ひとつ見せないAlexandraも貴族ってそうこなくちゃね、でよかった。
最後はもういいかげん、どう考えてももうだめだろ、のどん詰まりになるのだが、それでも.. になってしまうのはご都合主義とかではなくて、ふたりともものすごく強運だから、そういう星の下だから、としか思えない。
Marlene DietrichとRobert Donatのふたりはとても絵になって、列車のなかでAinsleyがBrowningの詩を諳んじて、AlexandraがPushkinでそれに応えて、そうやって交わされる目配せを通してふたりの仲が解けていくとこなんてしぬほど素敵で、文学ってのはこういうときのためにあるんだわかっとけぼけ、って誰か(誰?)に叫ぶ。(撮影の合間にRobertはMarleneに詩の講義 – Shellyとかの - ばかりしていたのだそう - これもペーパーに書いてあった)
ころころ情勢が変わってその度に大量の人々がばたばたと銃殺されていくロシアについては、こないだ行ってとてつもない寒さに凍えてきたばかりなので、そういうのが起こってもおかしくない土地かもねえ、って思った。
それにしても寒いよねえ。
監督はしていないけどKordaのプロダクションの製作。邦題は『鎧なき騎士』。
Hitchcockの”The 39 Steps” (1935)の製作中にJames Hiltonの原作小説を読んだMadeleine Carrollが、横にいたRobert Donatに、あなたこれの映画化権を買うべきよ(それであたしたちが主演しましょ)、とそそのかしてRobertはそれに乗って、買い取ったそいつをKordaに渡した。 そういうわけで主演男優はRobert Donatで決まりだったのだが、女優の方は肝心のMadeleine Carrollが予定が入っていてだめ、次のチョイスのMyrna Loyも同様にだめ、でKordaが引っこ抜いてきたのがMarlene Dietrichだったのだと。なんとまあ。
(他にもKordaはRobertに£30,000払ったがいろいろ値切ってきたとか、Marlene Dietrichは原作を読んで女性のパートが少ない男小説だって原作者に注文をつけたけど無視されたとか、Robertは喘息がひどくて替わりにLaurence Olivierを起用する手前まで行ってたとか、上映前に貰ったペーパーにいろいろ書いてあっておもしろ)
1913年の英国の競馬場でロシアの伯爵嬢のAlexandra (Marlene Dietrich)と通信社のロシア特派員であるAinsley (Robert Donat) はすれ違ったりしているのだが、Ainsleyは帰任間際に諜報部からの命を受けてロシアのパスポートを渡されて、はじめは取材の延長くらいの感覚でいたのだがいきなり革命だのなんだのの洗濯機に巻き込まれて、シベリアに送られて、形勢が逆転すると人民委員となって、そこで身ぐるみ剥がされたAlexandraと会って、逃したり逃げたり – ひとが一杯いるところに着いて助けを求めると勢力がころりと変わっていてあんぐりで、どっちにしても一歩間違えたら捕まって銃殺の日々をぬいながらふたりで国中を転々としていく。
みんながうっとりする貴族の令嬢ドレスから囚人服まで、バスタブに浸かってぴっかぴかになったと思ったら死人から剥いだ服を着て落ち葉のしたに埋められたり、Alexandraの着せ替え百態とスクリューボール & どなどなロードムービー展開がすごくて、Alexandraを慕う兵士が彼女を逃して自殺しちゃうようなとこもあるけどそういうのも含めて楽しめてしまったりして、戦争大河メロドラマの盛りあげかたとしてはどうなのかしら、と思ったけど、でも実際にはあんなふうにいかに革命の火事場でうそついて凌いで生き延びれるかがすべてだったのだろうし、毅然として涙ひとつ見せないAlexandraも貴族ってそうこなくちゃね、でよかった。
最後はもういいかげん、どう考えてももうだめだろ、のどん詰まりになるのだが、それでも.. になってしまうのはご都合主義とかではなくて、ふたりともものすごく強運だから、そういう星の下だから、としか思えない。
Marlene DietrichとRobert Donatのふたりはとても絵になって、列車のなかでAinsleyがBrowningの詩を諳んじて、AlexandraがPushkinでそれに応えて、そうやって交わされる目配せを通してふたりの仲が解けていくとこなんてしぬほど素敵で、文学ってのはこういうときのためにあるんだわかっとけぼけ、って誰か(誰?)に叫ぶ。(撮影の合間にRobertはMarleneに詩の講義 – Shellyとかの - ばかりしていたのだそう - これもペーパーに書いてあった)
ころころ情勢が変わってその度に大量の人々がばたばたと銃殺されていくロシアについては、こないだ行ってとてつもない寒さに凍えてきたばかりなので、そういうのが起こってもおかしくない土地かもねえ、って思った。
それにしても寒いよねえ。
1.20.2019
[dance] Until the Lions - Akram Khan Company
15日の晩、”Holmes & Watson”を見た後に、そのままRoundhouseに行って見ました。今年最初のダンス公演。
ついこないだ、English National BalletによるAkram Khanの「ジゼル」が日本でも上映されて話題になっていた(の?)が、これは彼自身のカンパニーによるモダンで、11日から17日までの6日間公演。初演は2016年に同じRoundhouseで。
Roundhouseはその名の通りまんまるの会場で普段はふつうにロック系のライブとかをやっているところなのだが、その真ん中に土俵のようなほぼ円形のステージを置いてそれを客席が囲んで見下ろすかたちで、前後左右はない。ステージの表面には年輪が刻んであって大きな樹の切り株のようで、切り株のそばの一角に打楽器セットがあって、切り株には細長い竹竿がいっぱいランダムに挿してあり、青いボールのような塊が無造作に転がっている。
“Until the Lions”というのはKarthika Naïrの本 - ”Until the Lions: Echoes from the Mahabharata” (2015)から来ていて、Akram Khanさんが子供の頃に親しんだインドの叙事詩マハーバーラタのエピソードとキャラクターの一部を持ってきているのだという。
薄暗くなって気がつくとステージ上にダンサーがひとりいて、ゆっくりと舞いながらステージ上の竿を一本一本抜いていって、転がっていた青い塊を手にするとそれはヒトの生首で、それを一本の竿の上に突き刺して高く掲げるところから始まる。ダンサーは3人、髪の長い女性と短く髷を結った中性的な女性と壮年の男性 - 彼がAkram Khanで、ライブで伴奏する部隊は4人、ヴォーカル(というよりヴォイス)が男女それぞれ、太鼓と弦や菅でひとりづつ、担当楽器は明確ではなくステージの上をばんばん叩いたり手拍子したり声を出したり、切り株の周縁に沿って移動したり踊ったりしながら、たまにステージ上のダンサーと睨みあい彼らに指示を出したりもする。 全体で7人編成のバンド、といった方がよいかも。
エピソードは結婚式を控えたKashiの王の娘AmbaがBheeshmaに拐われて復讐を誓いつつ亡くなって、やがてShikhandiに転生してBheeshmaと対峙する、というもの(おそらく)で、このことはダンスを見たあとに冊子を読んで知った。 上演後のトークでKhanさんは、お話しの細かいところにいちいち対照させる必要はなくて、例えば権力者の支配や暴力、服従に抵抗に復讐、転生に転性、無常や因果といったおおよそについてダンサーの動きや呼吸、その連鎖を通して感じて貰えれば、と言っていて、なるほどそれは十分にわかるのだった。
ステージの切り株は2度ほど、神の怒りだろうかところどころ割れてせり上がって煙があがったり、最後の竹竿ばりばり打ち鳴らしのやかましさと迫力ときたら鳥肌で、やんやの大喝采だった。 あの人数編成でできそうな人と感情の動き、それらを織り込んだでっかい神話の筋書きをひととおり網羅して思いっきり叩きつけてくるかのような勢いがある。
動きとしてはPina Bauschほどドラマや作劇に寄ろうとはしていなくて、Anne Teresa De Keersmaekerの波やうねりを作っては壊していくかんじに近いかしら、と思ったら彼は彼女と仕事をしたことがあったのね。 あと、終始鳴っているリズムに応えるようにアジア的な舞いの所作や舞踏の要素は入っていて、力と聖と性を巡る葛藤と闘いのどこまでも弧を描いていって果てのないかんじは、よく「悠久」といった表現で言われるアジアのそれに近いのかもしれない。
上演後のQ&AでKhan氏は13歳のときにPeter Brookの「マハーバーラタ」(音楽は土取利行)のオーディションに参加した経験を語って、あーPeter Brookのがあったねえ、って。ちなみにこのオーディションにはいま映画監督をやっているJoe Wrightとかも来ていたんだって。
受け応えでおもしろかったのが、あなたはイスラム教の男女間の役割期待が相当厳格な家族から来ていると思うのですが、こういうパフォーマンスをしたりすることについてあなた自身の家族はだいじょうぶなんでしょうか? というのがあって、彼は確かにそういうとこはあるけど僕の妻は日本人だからなんとか、って言っててそれってどうとればいいのかしら、って。
とにかく、すばらしいダンス(見)始めでしたわ。
ついこないだ、English National BalletによるAkram Khanの「ジゼル」が日本でも上映されて話題になっていた(の?)が、これは彼自身のカンパニーによるモダンで、11日から17日までの6日間公演。初演は2016年に同じRoundhouseで。
Roundhouseはその名の通りまんまるの会場で普段はふつうにロック系のライブとかをやっているところなのだが、その真ん中に土俵のようなほぼ円形のステージを置いてそれを客席が囲んで見下ろすかたちで、前後左右はない。ステージの表面には年輪が刻んであって大きな樹の切り株のようで、切り株のそばの一角に打楽器セットがあって、切り株には細長い竹竿がいっぱいランダムに挿してあり、青いボールのような塊が無造作に転がっている。
“Until the Lions”というのはKarthika Naïrの本 - ”Until the Lions: Echoes from the Mahabharata” (2015)から来ていて、Akram Khanさんが子供の頃に親しんだインドの叙事詩マハーバーラタのエピソードとキャラクターの一部を持ってきているのだという。
薄暗くなって気がつくとステージ上にダンサーがひとりいて、ゆっくりと舞いながらステージ上の竿を一本一本抜いていって、転がっていた青い塊を手にするとそれはヒトの生首で、それを一本の竿の上に突き刺して高く掲げるところから始まる。ダンサーは3人、髪の長い女性と短く髷を結った中性的な女性と壮年の男性 - 彼がAkram Khanで、ライブで伴奏する部隊は4人、ヴォーカル(というよりヴォイス)が男女それぞれ、太鼓と弦や菅でひとりづつ、担当楽器は明確ではなくステージの上をばんばん叩いたり手拍子したり声を出したり、切り株の周縁に沿って移動したり踊ったりしながら、たまにステージ上のダンサーと睨みあい彼らに指示を出したりもする。 全体で7人編成のバンド、といった方がよいかも。
エピソードは結婚式を控えたKashiの王の娘AmbaがBheeshmaに拐われて復讐を誓いつつ亡くなって、やがてShikhandiに転生してBheeshmaと対峙する、というもの(おそらく)で、このことはダンスを見たあとに冊子を読んで知った。 上演後のトークでKhanさんは、お話しの細かいところにいちいち対照させる必要はなくて、例えば権力者の支配や暴力、服従に抵抗に復讐、転生に転性、無常や因果といったおおよそについてダンサーの動きや呼吸、その連鎖を通して感じて貰えれば、と言っていて、なるほどそれは十分にわかるのだった。
ステージの切り株は2度ほど、神の怒りだろうかところどころ割れてせり上がって煙があがったり、最後の竹竿ばりばり打ち鳴らしのやかましさと迫力ときたら鳥肌で、やんやの大喝采だった。 あの人数編成でできそうな人と感情の動き、それらを織り込んだでっかい神話の筋書きをひととおり網羅して思いっきり叩きつけてくるかのような勢いがある。
動きとしてはPina Bauschほどドラマや作劇に寄ろうとはしていなくて、Anne Teresa De Keersmaekerの波やうねりを作っては壊していくかんじに近いかしら、と思ったら彼は彼女と仕事をしたことがあったのね。 あと、終始鳴っているリズムに応えるようにアジア的な舞いの所作や舞踏の要素は入っていて、力と聖と性を巡る葛藤と闘いのどこまでも弧を描いていって果てのないかんじは、よく「悠久」といった表現で言われるアジアのそれに近いのかもしれない。
上演後のQ&AでKhan氏は13歳のときにPeter Brookの「マハーバーラタ」(音楽は土取利行)のオーディションに参加した経験を語って、あーPeter Brookのがあったねえ、って。ちなみにこのオーディションにはいま映画監督をやっているJoe Wrightとかも来ていたんだって。
受け応えでおもしろかったのが、あなたはイスラム教の男女間の役割期待が相当厳格な家族から来ていると思うのですが、こういうパフォーマンスをしたりすることについてあなた自身の家族はだいじょうぶなんでしょうか? というのがあって、彼は確かにそういうとこはあるけど僕の妻は日本人だからなんとか、って言っててそれってどうとればいいのかしら、って。
とにかく、すばらしいダンス(見)始めでしたわ。
1.19.2019
[film] Stan & Ollie (2018)
14日、月曜日の晩、Leicester SquareのOdeonの一番でっかいとこで見ました。
BBC製作によるStan & Olieの映画 - バンド名のLaurel & Hardyではなく、それぞれのファーストネームがタイトルになっている、実話、だよね。 昨年のLFFのクロージング作品。
37年、”Way Out West” - 歌と踊りを撮るシーンが出てくる! - で人気の頂点にあったふたりは契約の更新を突っぱねて、そこからだんだん下り坂になっていくのだがそこから時代は1953年にとんで、英国でのふたりの(最後の)どさまわり - 最初はしょぼかったのだが、だんだんに客が入っていって、英国中をまわってついにロンドンまで来る。ツアーの間もStan (Steve Coogan) はネタを書いたり映画会社に売りこんだりしているのだが、ぜんぜんうまくいかず空振り、Ollie(John C. Reilly)の体はぼろぼろでふたり一緒にいてもちっとも楽しくなくて、Savoy Hotelに滞在しているところに彼らの妻たちもアメリカからやって来るのだが、こちらもそれぞれに意地も仲もよろしくなくて、ステージはそれらも含めて緊張感たっぷりで。
大好きなコメディアンだから、ため息ついたり苦しんだり悩んだりする姿なんて見たくない、更にふたりの仲が悪くなって人気がなくなっていくとこなんて辛いだけだし、なのであーあ、って嘆き悲しみながら見ていたのだが、最後のところはじーんとなって、いちばん最後の字幕で泣いてしまう。 最後のところを見せたかったのかねえ、って。芸人の意地とか矜持とかそういうのはどうでもいいのだが、こういうのには弱い。
あと、むかしの映画で見ることのできる彼ら(ほんもの)とこの映画での彼らのギャップについて、外観もあまり似ているかんじはしない(Ollieは特殊メイクだし)のだが、最後の方まで来ると似ていなくたって構うもんか、というくらいSteve CooganとJohn C. Reillyのふたりがすばらしいの 。 ふたりともコメディ・パフォーマーとしてLaurel & Hardyを演じることの難しさは十分にわかっていたに違いないが、最後の方のふたりの数回の目配せ、たったこれだけでぜんぶ持っていってしまう。
4月に日本でも公開されるのであれば、どこかでLaurel & Hardyの特集も併せておねがい。
Holmes & Watson (2018)
15日、火曜日の夕方にWest Endのシネコンで見ました。翌日から出張だし、もう上映が終わっちゃいそうだったので慌てて。
こっちでのレビューは散々で、でも”Step Brothers” (2008)のふたり(+ 製作のAdam McKayも入れたら3人)が戻ってくるのであれば絶対に見ないわけにはいかない、の。ぜったい。
ふつか続けてJohn C. Reillyのおしどりデュオものだわ… と思っていたらこっちのにもSteve Cooganは出ていて、なんかおもしろいねえ、だった。
今やどうとでもいじくれるホームズもので、Will Ferrellがホームズ、John C. Reillyがワトソンで、最初のほうにモリアーティ教授(Ralph Fiennes)の裁判があるのだがなんでか彼を釈放しちゃって、そこからVictoria女王のバースディケーキに入っていた死体と女王への暗殺予告を巡って、本格推理と大捕物がはじまる… わけないの。 ふたりに絡む検屍官としてRebecca HallとLauren Lapkusがいて、そしてまさかのハドソン夫人(Kelly Macdonald)も重要で、最後はTitanicが舞台で、マークトウェインとかチャップリンとかアインシュタインとかフロイトも出てくるよ。Robert Downey Jr.のほうのホームズへのパロディもいっぱい。つまり相当あれこれぶっこんでいて、でもこのふたりなので、収拾とか決着とかそういうのは一切なしに、ひたすらハナたらしゲロまみれの、そういうギャグをだらだらやり続けて極めて適当にいいかげんに落着してしまうの。彼らの映画内で彼らに対して眉をひそめる人々と同じように、なによこれ、って思うかもしれないが、それをやったら終わりで、負けなの(なんの? なにに?)。
“Step Brothers”では、ふたりの義兄弟が意味なく延々喧嘩張り合いをやっているのが快感で、今度のは難問解決に向けてふたりそれぞれでがんばるやつ(でもやはりそこにあんま意味はない)で、おもしろみという点では前回のが地平線の果てまでバカバカしくてよかったかなあ。
BBC製作によるStan & Olieの映画 - バンド名のLaurel & Hardyではなく、それぞれのファーストネームがタイトルになっている、実話、だよね。 昨年のLFFのクロージング作品。
37年、”Way Out West” - 歌と踊りを撮るシーンが出てくる! - で人気の頂点にあったふたりは契約の更新を突っぱねて、そこからだんだん下り坂になっていくのだがそこから時代は1953年にとんで、英国でのふたりの(最後の)どさまわり - 最初はしょぼかったのだが、だんだんに客が入っていって、英国中をまわってついにロンドンまで来る。ツアーの間もStan (Steve Coogan) はネタを書いたり映画会社に売りこんだりしているのだが、ぜんぜんうまくいかず空振り、Ollie(John C. Reilly)の体はぼろぼろでふたり一緒にいてもちっとも楽しくなくて、Savoy Hotelに滞在しているところに彼らの妻たちもアメリカからやって来るのだが、こちらもそれぞれに意地も仲もよろしくなくて、ステージはそれらも含めて緊張感たっぷりで。
大好きなコメディアンだから、ため息ついたり苦しんだり悩んだりする姿なんて見たくない、更にふたりの仲が悪くなって人気がなくなっていくとこなんて辛いだけだし、なのであーあ、って嘆き悲しみながら見ていたのだが、最後のところはじーんとなって、いちばん最後の字幕で泣いてしまう。 最後のところを見せたかったのかねえ、って。芸人の意地とか矜持とかそういうのはどうでもいいのだが、こういうのには弱い。
あと、むかしの映画で見ることのできる彼ら(ほんもの)とこの映画での彼らのギャップについて、外観もあまり似ているかんじはしない(Ollieは特殊メイクだし)のだが、最後の方まで来ると似ていなくたって構うもんか、というくらいSteve CooganとJohn C. Reillyのふたりがすばらしいの 。 ふたりともコメディ・パフォーマーとしてLaurel & Hardyを演じることの難しさは十分にわかっていたに違いないが、最後の方のふたりの数回の目配せ、たったこれだけでぜんぶ持っていってしまう。
4月に日本でも公開されるのであれば、どこかでLaurel & Hardyの特集も併せておねがい。
Holmes & Watson (2018)
15日、火曜日の夕方にWest Endのシネコンで見ました。翌日から出張だし、もう上映が終わっちゃいそうだったので慌てて。
こっちでのレビューは散々で、でも”Step Brothers” (2008)のふたり(+ 製作のAdam McKayも入れたら3人)が戻ってくるのであれば絶対に見ないわけにはいかない、の。ぜったい。
ふつか続けてJohn C. Reillyのおしどりデュオものだわ… と思っていたらこっちのにもSteve Cooganは出ていて、なんかおもしろいねえ、だった。
今やどうとでもいじくれるホームズもので、Will Ferrellがホームズ、John C. Reillyがワトソンで、最初のほうにモリアーティ教授(Ralph Fiennes)の裁判があるのだがなんでか彼を釈放しちゃって、そこからVictoria女王のバースディケーキに入っていた死体と女王への暗殺予告を巡って、本格推理と大捕物がはじまる… わけないの。 ふたりに絡む検屍官としてRebecca HallとLauren Lapkusがいて、そしてまさかのハドソン夫人(Kelly Macdonald)も重要で、最後はTitanicが舞台で、マークトウェインとかチャップリンとかアインシュタインとかフロイトも出てくるよ。Robert Downey Jr.のほうのホームズへのパロディもいっぱい。つまり相当あれこれぶっこんでいて、でもこのふたりなので、収拾とか決着とかそういうのは一切なしに、ひたすらハナたらしゲロまみれの、そういうギャグをだらだらやり続けて極めて適当にいいかげんに落着してしまうの。彼らの映画内で彼らに対して眉をひそめる人々と同じように、なによこれ、って思うかもしれないが、それをやったら終わりで、負けなの(なんの? なにに?)。
“Step Brothers”では、ふたりの義兄弟が意味なく延々喧嘩張り合いをやっているのが快感で、今度のは難問解決に向けてふたりそれぞれでがんばるやつ(でもやはりそこにあんま意味はない)で、おもしろみという点では前回のが地平線の果てまでバカバカしくてよかったかなあ。
1.18.2019
[film] Way Out West (1937)
出張でモスクワ - 現地滞在約20時間 – に行っていた。クリスマスのイルミネーションがまだがんがんできれいだったけど、マフラーも手袋も持っていってなくて凍え死ぬかとおもった。
13日のお昼、BFIで見ました。 ここでは彼らの評伝映画”Stan & Ollie”の公開に合わせて、Laurel & Hardyの特集をやっていて、ぜんぜん行けていないのだがせめてこれくらいはいかなきゃ、と。
日曜日の昼で、家族にお勧めマークのあった回なのでBFIの一番大きいシアター(450人)がほぼ埋まっていた。それにしても、1937年作と1930年作の二本立ての上映に子供や赤ん坊も含めてこんなにわいわい集まるなんて、なんかいいよね。
Laurel & Hardyの映画は昨年のコメディ特集から”A Chump at Oxford” (1940)とか見ていて、おもしろいねえ、なのだがちゃんと追えていないのは、こういう特集とかでじっくり見ていく、というより、昔の人が寄席に立ち寄ってけらけら笑って、さーっと去る、そんなふうに見たいなあと思っているからで、でももうそんな粋なことできないからさ。
どの回も60分くらいの中編と30分くらいの短編の組合せの二本立てで、この日は続けて2回、計4本みた。
Laughing Gravy (1930)
31分。 寒い雪の晩、ボロ屋の2階の貸間に2人と飼ってはいけない犬のLaughing Gravyがいて、Stanのしゃっくりみたいな寝息でOllieも犬も眠れないでじたばた騒がしいので大家も起きてきて、やはりそのうち犬を飼っているのがばれて、追いだされては戻り、布団に戻っては起こされを繰り返すうちに家はぼろぼろになって出てけー、になってそんなときに遺産相続の手紙がきて。
やってはいけないことを押さえこめずに結果ぜんぶ台無しになって、でも最後に逆転、という古典的なパターンだし、どうなるかもだいたいわかるのになんでこんなにおかしいのか。
Way Out West (1937)
問答無用の古典。65分。 やくざな歌手のLoraと生真面目な下働きのMaryがいるMickey Finnの酒場があって、ラバを引いたふたりが現れて(ここに来るまでにもいろいろある)、彼らは亡くなったMaryの父が彼女にあてた金鉱の証書を持ってきたのだが、悪賢いLolaとMickeyがなりすましでそれをふんだくって、ふたりが帰ろうとしたときに本物のMaryと会ってびっくりして、なら取り戻さなきゃ、って大暴れするの。
ギャグもおもしろいけど、the Avalon Boysの伴奏で彼らが歌って踊るとこがめちゃくちゃスイートでチャーミングで、そりゃもう泣きそうになるくらい素敵でびっくりして、このふたりなに? になって、会場からもそのシーンだけで拍手が出ていた。
Chickens Come Home (1931)
30分。 肥料会社の重役で市長選に立候補しようとしているOllieのとこに昔の女友達から昔の写真持ってるし脅迫するよ、ってきたので直接会って話そうとするのだがその日は大事なディナーがあるので替わりにStanを行かせたらあんのじょう…
Block-Heads (1938)
58分。 第一次大戦の塹壕で突撃するとき、Stanだけここを守ってろって残されたので言われた通りそのままずーっと守っていたら20年経ってて、ヒーローとして戻ってくるのが前半で、後半はそんなStanと再会したOllieが彼を自分のアパートに連れていくのだが、そこの13階の部屋にたどり着くまでに住民たちといろいろあって昇ったり下りたり落ちたり銃撃戦になったり、ぜんぜんたどり着けないで、バカなことばかりやっていくの。
こんなふうに筋だけ並べていてもちっともおもしろくないのだが、実際の画面はめちゃくちゃおもしろくて、建物の上下とか地面とその下とか、建物も車もぜったいぶっ壊れるし、犬もラバも飛んでいくし、でもなんといってもStanとOllieだよね。 後ろが大火事の大騒ぎでどれだけ突っこまれてもちっとも表情変えなくて動じなくて結果的にいろいろ壊しまくるStanとその被害あれこれ総額をでっかい体でまるごとぜんぶ引っかぶってずぶ濡れのぐしゃぐしゃになって「やれやれ」とか「どう思いますこれ?」とかそういう目と顔でこっちにじーっと訴えてくるOllieと。同じ衣装に帽子の凸凹ふたりが、手品のように手当たり次第にぶっ壊し尽くして、手品のようにハッピーエンドを 取り出してみせて、仲良く道の向こうに去っていく。
キートンやロイドはソロでそれをぜんぶやってて、それはそれですごくて、こっちはふたりだからどうって比べられるもんではないけど、身体がふたつあることでアクションの連鎖とか撥ね返りとか、物理的な目に見えるかたちでくるのと、それを「立場」みたいな観点でみれば2倍楽しめる、てことでとにかく見てみて。(3人以上だと、バンドになるからこれもまた別なの)
ドリフが「全員集合」でやっていたことって、この頃からあったんだねえ、歌うたうとこも含めて。 我々が土曜の晩に大笑いしていたように、日曜の昼間、子供たちにも大うけしていた。やっぱりね。
13日のお昼、BFIで見ました。 ここでは彼らの評伝映画”Stan & Ollie”の公開に合わせて、Laurel & Hardyの特集をやっていて、ぜんぜん行けていないのだがせめてこれくらいはいかなきゃ、と。
日曜日の昼で、家族にお勧めマークのあった回なのでBFIの一番大きいシアター(450人)がほぼ埋まっていた。それにしても、1937年作と1930年作の二本立ての上映に子供や赤ん坊も含めてこんなにわいわい集まるなんて、なんかいいよね。
Laurel & Hardyの映画は昨年のコメディ特集から”A Chump at Oxford” (1940)とか見ていて、おもしろいねえ、なのだがちゃんと追えていないのは、こういう特集とかでじっくり見ていく、というより、昔の人が寄席に立ち寄ってけらけら笑って、さーっと去る、そんなふうに見たいなあと思っているからで、でももうそんな粋なことできないからさ。
どの回も60分くらいの中編と30分くらいの短編の組合せの二本立てで、この日は続けて2回、計4本みた。
Laughing Gravy (1930)
31分。 寒い雪の晩、ボロ屋の2階の貸間に2人と飼ってはいけない犬のLaughing Gravyがいて、Stanのしゃっくりみたいな寝息でOllieも犬も眠れないでじたばた騒がしいので大家も起きてきて、やはりそのうち犬を飼っているのがばれて、追いだされては戻り、布団に戻っては起こされを繰り返すうちに家はぼろぼろになって出てけー、になってそんなときに遺産相続の手紙がきて。
やってはいけないことを押さえこめずに結果ぜんぶ台無しになって、でも最後に逆転、という古典的なパターンだし、どうなるかもだいたいわかるのになんでこんなにおかしいのか。
Way Out West (1937)
問答無用の古典。65分。 やくざな歌手のLoraと生真面目な下働きのMaryがいるMickey Finnの酒場があって、ラバを引いたふたりが現れて(ここに来るまでにもいろいろある)、彼らは亡くなったMaryの父が彼女にあてた金鉱の証書を持ってきたのだが、悪賢いLolaとMickeyがなりすましでそれをふんだくって、ふたりが帰ろうとしたときに本物のMaryと会ってびっくりして、なら取り戻さなきゃ、って大暴れするの。
ギャグもおもしろいけど、the Avalon Boysの伴奏で彼らが歌って踊るとこがめちゃくちゃスイートでチャーミングで、そりゃもう泣きそうになるくらい素敵でびっくりして、このふたりなに? になって、会場からもそのシーンだけで拍手が出ていた。
Chickens Come Home (1931)
30分。 肥料会社の重役で市長選に立候補しようとしているOllieのとこに昔の女友達から昔の写真持ってるし脅迫するよ、ってきたので直接会って話そうとするのだがその日は大事なディナーがあるので替わりにStanを行かせたらあんのじょう…
Block-Heads (1938)
58分。 第一次大戦の塹壕で突撃するとき、Stanだけここを守ってろって残されたので言われた通りそのままずーっと守っていたら20年経ってて、ヒーローとして戻ってくるのが前半で、後半はそんなStanと再会したOllieが彼を自分のアパートに連れていくのだが、そこの13階の部屋にたどり着くまでに住民たちといろいろあって昇ったり下りたり落ちたり銃撃戦になったり、ぜんぜんたどり着けないで、バカなことばかりやっていくの。
こんなふうに筋だけ並べていてもちっともおもしろくないのだが、実際の画面はめちゃくちゃおもしろくて、建物の上下とか地面とその下とか、建物も車もぜったいぶっ壊れるし、犬もラバも飛んでいくし、でもなんといってもStanとOllieだよね。 後ろが大火事の大騒ぎでどれだけ突っこまれてもちっとも表情変えなくて動じなくて結果的にいろいろ壊しまくるStanとその被害あれこれ総額をでっかい体でまるごとぜんぶ引っかぶってずぶ濡れのぐしゃぐしゃになって「やれやれ」とか「どう思いますこれ?」とかそういう目と顔でこっちにじーっと訴えてくるOllieと。同じ衣装に帽子の凸凹ふたりが、手品のように手当たり次第にぶっ壊し尽くして、手品のようにハッピーエンドを 取り出してみせて、仲良く道の向こうに去っていく。
キートンやロイドはソロでそれをぜんぶやってて、それはそれですごくて、こっちはふたりだからどうって比べられるもんではないけど、身体がふたつあることでアクションの連鎖とか撥ね返りとか、物理的な目に見えるかたちでくるのと、それを「立場」みたいな観点でみれば2倍楽しめる、てことでとにかく見てみて。(3人以上だと、バンドになるからこれもまた別なの)
ドリフが「全員集合」でやっていたことって、この頃からあったんだねえ、歌うたうとこも含めて。 我々が土曜の晩に大笑いしていたように、日曜の昼間、子供たちにも大うけしていた。やっぱりね。
1.16.2019
[film] L'eclisse (1962)
11日の金曜日の夕方、BFIのAntonioni特集で見ました。
“L'Avventura” (1960) - こないだ見た、”La Notte” (1961) – まだ見てない – に続く「愛の不毛3部作」の最後のなのだと。
邦題は『太陽はひとりぼっち』。(.. ふたりいたら暑いよね)
冒頭はイエイエみたいなポップスで、それがいきなり現代音楽ふうのクールなのに変わって、Vittoria (Monica Vitti)が恋人(たぶん)のRiccardo (Francisco Rabal)の部屋で絵とかオブジェを背景にじりじりにらみ合いをしてて、扇風機がぶーんて鳴ってて、Vittoriaは”I’m leaving”て告げて朝の通りに出てすたすた歩いていってしまい、Riccardoも少し後を追ってくるが諦めて帰る。
Vittoriaは株にはまっている母親がたむろする証券取引所で Piero (Alain Delon)と出会い、興味半分で付きあってみるのだがこいつは顔はきれいだけど頭はからっぽで車とか女とかにしか興味がないようで、これはこれでふーん、で、それ以外に近所のアパートに住む女友達とのケニアの話とか、夜中の犬の群れとか飛行機の雲とかに夢中になるところがあって、モダーン・ラブのいろんな様相が。
VittoriaとかPieroそれぞれ、或はふたりの間になにか決定的な出来事が起こったり、それによって恋が発生したり消滅したりすることはなく、両岸で灯がちかちかする程度で、最後まで印象に残るのは”I’m Leaving”といってすたすた向こうに去っていく(そして戻ってこない)彼女の姿で、それは恋が不発に不毛に終わったから、というよりもそういうものであることがわかっているから向こうに動いていく、ただそれだけのことのように見える。
無機的な、キリコの絵にあるパースペクティブで並んだ建物に風景、そこを背景に描かれる株式売買の狂熱に幻滅に平熱、ケニアの野生、川に落ちてしんだ酔っ払い、水溜りに水貯めに、なにも言わない四角い建物たち、これらの間に恋はどう配置されるのか? ホットなのかクールなのか、ホットなのかもしれないけど、だからってなんで男に寄ったり寄られたりしなきゃいけない? そういうもんなの? というような根源的な問いが、たぶん根源的じゃないかもだけどどうする? みたいな描き方で、或いはじりじりやってくる日蝕のときの太陽を眺めていて白黒の境界がわからなくなって痺れているような状態で描かれて、そこにMonica Vittiの強い野良の目で睨まれるともう黙るしかない。
愛の、恋の不毛、というよりそんなの最初からなくてもやっていけそうなんだけど、と言ってみたときに風景は変わってみえるのか、というと実はそんなでもないのでどうしたものか、というと別にどうってことはないの。 道路はあんなにも前方に広がっているのだし、最後の数分間の気持ちよいことときたらなんなのだろう?
昨年のちょうど今頃はベルイマンの神の不在3部作ていうのに夢中になっていた気がして、あれは画面の枠の中で宙吊りにされた神の不在がぶらぶら揺れて催眠術のようだった(と今にしてみれば..)が、今年のこれは画面の向こう側とこちら側で溝も境もないままにひたすらしょうもない風景が広がっているだけのようで、それがつまんないかというとぜんぜんそんなことはなくて、こういう形で迫ったり広がったりしてくる空や風景というのもあるのだということを教えてくれる気がした。
これが公開当時日本で興行的に当たったというのはAlain Delonが大きいのかもしれないが、当時の太陽族とやらのしょうもない胡散臭さに感応した部分もあったのかなかったのか、わかんないけど。 男なんてろくでもない、どーでもいい、ていうトーンが初期のAntonioniにはいっぱいあるかんじがして、もう少し見てみたくなっているところ。
BREXIT、やめちゃえ。
“L'Avventura” (1960) - こないだ見た、”La Notte” (1961) – まだ見てない – に続く「愛の不毛3部作」の最後のなのだと。
邦題は『太陽はひとりぼっち』。(.. ふたりいたら暑いよね)
冒頭はイエイエみたいなポップスで、それがいきなり現代音楽ふうのクールなのに変わって、Vittoria (Monica Vitti)が恋人(たぶん)のRiccardo (Francisco Rabal)の部屋で絵とかオブジェを背景にじりじりにらみ合いをしてて、扇風機がぶーんて鳴ってて、Vittoriaは”I’m leaving”て告げて朝の通りに出てすたすた歩いていってしまい、Riccardoも少し後を追ってくるが諦めて帰る。
Vittoriaは株にはまっている母親がたむろする証券取引所で Piero (Alain Delon)と出会い、興味半分で付きあってみるのだがこいつは顔はきれいだけど頭はからっぽで車とか女とかにしか興味がないようで、これはこれでふーん、で、それ以外に近所のアパートに住む女友達とのケニアの話とか、夜中の犬の群れとか飛行機の雲とかに夢中になるところがあって、モダーン・ラブのいろんな様相が。
VittoriaとかPieroそれぞれ、或はふたりの間になにか決定的な出来事が起こったり、それによって恋が発生したり消滅したりすることはなく、両岸で灯がちかちかする程度で、最後まで印象に残るのは”I’m Leaving”といってすたすた向こうに去っていく(そして戻ってこない)彼女の姿で、それは恋が不発に不毛に終わったから、というよりもそういうものであることがわかっているから向こうに動いていく、ただそれだけのことのように見える。
無機的な、キリコの絵にあるパースペクティブで並んだ建物に風景、そこを背景に描かれる株式売買の狂熱に幻滅に平熱、ケニアの野生、川に落ちてしんだ酔っ払い、水溜りに水貯めに、なにも言わない四角い建物たち、これらの間に恋はどう配置されるのか? ホットなのかクールなのか、ホットなのかもしれないけど、だからってなんで男に寄ったり寄られたりしなきゃいけない? そういうもんなの? というような根源的な問いが、たぶん根源的じゃないかもだけどどうする? みたいな描き方で、或いはじりじりやってくる日蝕のときの太陽を眺めていて白黒の境界がわからなくなって痺れているような状態で描かれて、そこにMonica Vittiの強い野良の目で睨まれるともう黙るしかない。
愛の、恋の不毛、というよりそんなの最初からなくてもやっていけそうなんだけど、と言ってみたときに風景は変わってみえるのか、というと実はそんなでもないのでどうしたものか、というと別にどうってことはないの。 道路はあんなにも前方に広がっているのだし、最後の数分間の気持ちよいことときたらなんなのだろう?
昨年のちょうど今頃はベルイマンの神の不在3部作ていうのに夢中になっていた気がして、あれは画面の枠の中で宙吊りにされた神の不在がぶらぶら揺れて催眠術のようだった(と今にしてみれば..)が、今年のこれは画面の向こう側とこちら側で溝も境もないままにひたすらしょうもない風景が広がっているだけのようで、それがつまんないかというとぜんぜんそんなことはなくて、こういう形で迫ったり広がったりしてくる空や風景というのもあるのだということを教えてくれる気がした。
これが公開当時日本で興行的に当たったというのはAlain Delonが大きいのかもしれないが、当時の太陽族とやらのしょうもない胡散臭さに感応した部分もあったのかなかったのか、わかんないけど。 男なんてろくでもない、どーでもいい、ていうトーンが初期のAntonioniにはいっぱいあるかんじがして、もう少し見てみたくなっているところ。
BREXIT、やめちゃえ。
1.15.2019
[film] Free Solo (2018)
8日の火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
平日の晩なのに中くらいのサイズの部屋が前列まで埋まっていた。結構人っているみたい。
岩登りする人のドキュメンタリーで、最初に予告見たときはこんなの見ないわ、だったのだが何度か予告見ているうちに、ここにはものすごくバカバカしいなにかが横たわっているような気がしてきたので見てみようか、と。
基本的にスポーツは見ないしやらないし、なにが嫌かってスポーツを共通言語だか神話だかみたいに押しつけて酔いしれてみんなその輪に入ってきて当然、みたいな態度で押し売りに寄ってくる人たち(もっぱらじじい)で、だから自分からは一切近寄らない。 そもそも「自分との戦い」とか言うんなら黙ってりゃいいのに、なんでごちゃごちゃ感動を擦りつけてこようとするのか。 きもちわるい。
予告見て思ったのはそもそもこれってスポーツ競技じゃないよね、登って笑うか落っこちて死ぬか、それだけで、その高揚感とかも共有できるとは思えないし。サーフィンとかスキーのジャンプとか、そういうひとりで勝手にやってろ(そして失敗したらしね)系のやつ。 本をいっぱい床から積みあげて一瞬の気の緩みで崩れたら埋もれてしね、とかそういうのに近いと言えなくもないし(殴らないで)。
岩登り - 命綱とかを一切つけないで指と腕と脚だけで垂直以上のとこを登って天辺まで行くやつ –をするAlex Honnold氏が2017年にヨセミテのEl Capitanていう岩登りにとっては極上のヤマらしい - にひとり臨んだときの記録。National Geographicの製作でもあるので、自然とか風景の描写もとってもきれい。
この世界のことはまったくわからないのだがAlex Honnoldさんは既にスターで、本も出しているし雑誌の表紙にもなっているしスポンサーもいるし十分に実績があるひとで、それでもこの岩は難しくて、事前の念入りな準備とか練習が不可避なのだと、でもその練習ときたら、登りのルート(ポイントやパスにぜんぶ名前がついてる)のこの岩のここの窪みに指をこう引っかけてとか脚を空手キックの要領で踏みだして、とかぜんぶメモに書きだしてて、それって虫とかX-Menとかになったほうが早くないですか、みたいなやつなの。 岩からすればお肌の皺とか毛穴のひとつひとつに注意を払ってくれてありがとう、としか言いようがないような。
ひょっとしたら普段の我々の人生もこういうちょっとした目に見えないほどの窪みや凸凹を意識的に感知して対処できるかどうかでその後のいろんなことや後に見えてくる風景も違ってくるに違いないのです、とか自己啓発好きなうざい人たちは言ってきそうな。
いや、そうではなくて、それくらいの精度でコントロールしないと重力にやられて死ぬ、という、ただそれだけの。 実際に彼の仲間は次々と落下して亡くなっているし。
たぶん、Alex Honnoldさんの人柄がよすぎるのか、そもそもなにかが根本的に欠落しているのか、いつも淡々と朗らかで泣き言みたいなのを(少なくともカメラの前では)吐かないのもよくて、それはパートナーの女性との関係もそうで、出かけるときのさばさば具合ときたらいいなー(彼女、裏では散々泣いているのかもだけど)。
ヤマ場のとこの撮影はやっぱり近くで撮らないでほしい、となってカメラの人たちのはらはらした涙目がよくて、でも全体にあっさり軽く仕上げていて気持ちよかった。
あとさー、やっぱりキートンとかロイドって、とんでもなく偉大だよね。あんなことしながら自分で撮っていて、みんなを笑わせたりしているわけだし。
やらない – やれるわけないことを前提に、それでも岩登りをやらなければならない、ということになったら、自分にいちばん欠けているのはなんだろうか? とか考えてみる。筋力も体力も平衡感覚もまったくないけど、たぶんいちばんだめなのは集中力、だよね。 あんなとこにひとりでいて、岩の表面だけ見て触っているなんてありえないわ。 木登りくらいならまだ…
そういう点で、場内がいちばんどよめいたのは挑戦の日の朝、緊張感たっぷりの岩場に貼りついてた変な着ぐるみ着た人。あれなに?
平日の晩なのに中くらいのサイズの部屋が前列まで埋まっていた。結構人っているみたい。
岩登りする人のドキュメンタリーで、最初に予告見たときはこんなの見ないわ、だったのだが何度か予告見ているうちに、ここにはものすごくバカバカしいなにかが横たわっているような気がしてきたので見てみようか、と。
基本的にスポーツは見ないしやらないし、なにが嫌かってスポーツを共通言語だか神話だかみたいに押しつけて酔いしれてみんなその輪に入ってきて当然、みたいな態度で押し売りに寄ってくる人たち(もっぱらじじい)で、だから自分からは一切近寄らない。 そもそも「自分との戦い」とか言うんなら黙ってりゃいいのに、なんでごちゃごちゃ感動を擦りつけてこようとするのか。 きもちわるい。
予告見て思ったのはそもそもこれってスポーツ競技じゃないよね、登って笑うか落っこちて死ぬか、それだけで、その高揚感とかも共有できるとは思えないし。サーフィンとかスキーのジャンプとか、そういうひとりで勝手にやってろ(そして失敗したらしね)系のやつ。 本をいっぱい床から積みあげて一瞬の気の緩みで崩れたら埋もれてしね、とかそういうのに近いと言えなくもないし(殴らないで)。
岩登り - 命綱とかを一切つけないで指と腕と脚だけで垂直以上のとこを登って天辺まで行くやつ –をするAlex Honnold氏が2017年にヨセミテのEl Capitanていう岩登りにとっては極上のヤマらしい - にひとり臨んだときの記録。National Geographicの製作でもあるので、自然とか風景の描写もとってもきれい。
この世界のことはまったくわからないのだがAlex Honnoldさんは既にスターで、本も出しているし雑誌の表紙にもなっているしスポンサーもいるし十分に実績があるひとで、それでもこの岩は難しくて、事前の念入りな準備とか練習が不可避なのだと、でもその練習ときたら、登りのルート(ポイントやパスにぜんぶ名前がついてる)のこの岩のここの窪みに指をこう引っかけてとか脚を空手キックの要領で踏みだして、とかぜんぶメモに書きだしてて、それって虫とかX-Menとかになったほうが早くないですか、みたいなやつなの。 岩からすればお肌の皺とか毛穴のひとつひとつに注意を払ってくれてありがとう、としか言いようがないような。
ひょっとしたら普段の我々の人生もこういうちょっとした目に見えないほどの窪みや凸凹を意識的に感知して対処できるかどうかでその後のいろんなことや後に見えてくる風景も違ってくるに違いないのです、とか自己啓発好きなうざい人たちは言ってきそうな。
いや、そうではなくて、それくらいの精度でコントロールしないと重力にやられて死ぬ、という、ただそれだけの。 実際に彼の仲間は次々と落下して亡くなっているし。
たぶん、Alex Honnoldさんの人柄がよすぎるのか、そもそもなにかが根本的に欠落しているのか、いつも淡々と朗らかで泣き言みたいなのを(少なくともカメラの前では)吐かないのもよくて、それはパートナーの女性との関係もそうで、出かけるときのさばさば具合ときたらいいなー(彼女、裏では散々泣いているのかもだけど)。
ヤマ場のとこの撮影はやっぱり近くで撮らないでほしい、となってカメラの人たちのはらはらした涙目がよくて、でも全体にあっさり軽く仕上げていて気持ちよかった。
あとさー、やっぱりキートンとかロイドって、とんでもなく偉大だよね。あんなことしながら自分で撮っていて、みんなを笑わせたりしているわけだし。
やらない – やれるわけないことを前提に、それでも岩登りをやらなければならない、ということになったら、自分にいちばん欠けているのはなんだろうか? とか考えてみる。筋力も体力も平衡感覚もまったくないけど、たぶんいちばんだめなのは集中力、だよね。 あんなとこにひとりでいて、岩の表面だけ見て触っているなんてありえないわ。 木登りくらいならまだ…
そういう点で、場内がいちばんどよめいたのは挑戦の日の朝、緊張感たっぷりの岩場に貼りついてた変な着ぐるみ着た人。あれなに?
1.14.2019
[film] Eine Dubarry von heute (1927)
6日の日曜日の午後、BFIのAlexander Korda特集 & 日曜午後のサイレント定期上映で見ました。
英語題は”A Modern Dubarry”。上映前にBryony Dixonさんによるイントロつき。
制作はFelsom Film、配給はUFA Studio、当時外貨獲得にやっきだったドイツがパリ(20年代のパリ!)を舞台に英国の監督(Alexander Korda)とオーストリアの女優(で、Kordaの妻)を使って作ったインターナショナルな1本で、ここで参照されるべきはもちろん、Ernst Lubitschの”Madame DuBarry” (1919) - 邦題『パッション』 - ですね皆さん、Marlene Dietrichがチョイ役で出ていることでも有名ですがあまり上映される機会のない作品なので楽しんでいってください、とBryonyさんは学校の先生みたいに言った。とっても豊かで楽しいRom-Comでしたわ。
パリの洋服屋で働きながら安アパートに暮らすToinette (María Corda)がいて、同じアパートにいるやらしそうな会社員のおっさん (Hans Albers)にさんざん迫られて(いきなり下着をプレゼントされたり)、でもよい仲になって楽しくなってきたところで彼は仕事が終わったのかアパート引き払ってどこかに消えちゃって、橋のたもとでしくしく泣いていたら彫刻家だという老人が声かけてきて自分のアトリエに連れてって、ここに住みなさいとか言われて、彼の紹介でサロンのモデルを始めるようになったら、こんどはカフェで怪しげな男が声をかけてきて、また会おうって約束したのに彼は現れなくて、実はこいつはアストリア国の皇太子で、モデルとして社交界でのし上がっていく彼女は皇太子と再会してQueenにまで昇りつめることができるのか、っていうお話しが、くるぞくるぞみたいな大波に向かって一生懸命というより、小波中波の応酬で最後までどっちに転ぶかわかんないぞどきどきの持続と気づいてみればこんなでしたわ、のすっとぼけた語りのなかに描かれていて、素敵としか言いようがない。
Marlene Dietrichは、あれはあたしのドレスだったのにきーっ、てなる小娘さんで、声が聞こえてきそうな強い輪郭の表情は、さすがだった。
Rembrandt (1936)
上の”A Modern Dubarry”に続けて、これもBFIのAlexander Korda特集で見ました。 邦題は『描かれた人生』?
ヘンリー八世の評伝映画と同じような手法で同じ男優 - Charles Laughtonを使って、Rembrandt van Rijn(Charles Laughton)の生涯を描く。
17世紀のオランダでRembrandtは既に画家としての名声を確立していて、愛する妻サスキアを失うところから始まって、やがて『夜警』ができあがって、でもサスキアの死と共に生活はずるずる困窮していって、メイドともいろいろあって、最後にはHendrickje (Elsa Lanchester)と仲がよくなって少し日が射して、ていう人生あれこれとは別に絵に打ち込んで、絵を描いていられれば幸せだったであろうかわった老人の姿が浮かんできて、「ヘンリー八世」でもそうだったように、人物の内面や狂ったところに立ち入ってリアルな「実像」みたいなところを追求するのではなく、周囲の人や出来事の流れのなかで彼はどんなふうに立ち回って歳をとっていったのか、アムステルダムの町をどんな顔をして歩いていたのか、などを柔らかめに - そこらのふつうの老人と同じように - 描いていておもしろいの。
Hendrickjeは、「ヘンリー八世」にも出ていたLaughtonの妻Elsa Lanchesterが演じているのだが、Rembrandtが描いたHendrickjeの肖像って、結構ふっくらしているからそこだけうーん? だった。Rembrandt本人が似ているからいいかー。
そして今年は没後350年で、Rijksmuseumでは”All The Rembrandts”が始まる。 やはりこれは行かないと、かなあ。
英語題は”A Modern Dubarry”。上映前にBryony Dixonさんによるイントロつき。
制作はFelsom Film、配給はUFA Studio、当時外貨獲得にやっきだったドイツがパリ(20年代のパリ!)を舞台に英国の監督(Alexander Korda)とオーストリアの女優(で、Kordaの妻)を使って作ったインターナショナルな1本で、ここで参照されるべきはもちろん、Ernst Lubitschの”Madame DuBarry” (1919) - 邦題『パッション』 - ですね皆さん、Marlene Dietrichがチョイ役で出ていることでも有名ですがあまり上映される機会のない作品なので楽しんでいってください、とBryonyさんは学校の先生みたいに言った。とっても豊かで楽しいRom-Comでしたわ。
パリの洋服屋で働きながら安アパートに暮らすToinette (María Corda)がいて、同じアパートにいるやらしそうな会社員のおっさん (Hans Albers)にさんざん迫られて(いきなり下着をプレゼントされたり)、でもよい仲になって楽しくなってきたところで彼は仕事が終わったのかアパート引き払ってどこかに消えちゃって、橋のたもとでしくしく泣いていたら彫刻家だという老人が声かけてきて自分のアトリエに連れてって、ここに住みなさいとか言われて、彼の紹介でサロンのモデルを始めるようになったら、こんどはカフェで怪しげな男が声をかけてきて、また会おうって約束したのに彼は現れなくて、実はこいつはアストリア国の皇太子で、モデルとして社交界でのし上がっていく彼女は皇太子と再会してQueenにまで昇りつめることができるのか、っていうお話しが、くるぞくるぞみたいな大波に向かって一生懸命というより、小波中波の応酬で最後までどっちに転ぶかわかんないぞどきどきの持続と気づいてみればこんなでしたわ、のすっとぼけた語りのなかに描かれていて、素敵としか言いようがない。
Marlene Dietrichは、あれはあたしのドレスだったのにきーっ、てなる小娘さんで、声が聞こえてきそうな強い輪郭の表情は、さすがだった。
Rembrandt (1936)
上の”A Modern Dubarry”に続けて、これもBFIのAlexander Korda特集で見ました。 邦題は『描かれた人生』?
ヘンリー八世の評伝映画と同じような手法で同じ男優 - Charles Laughtonを使って、Rembrandt van Rijn(Charles Laughton)の生涯を描く。
17世紀のオランダでRembrandtは既に画家としての名声を確立していて、愛する妻サスキアを失うところから始まって、やがて『夜警』ができあがって、でもサスキアの死と共に生活はずるずる困窮していって、メイドともいろいろあって、最後にはHendrickje (Elsa Lanchester)と仲がよくなって少し日が射して、ていう人生あれこれとは別に絵に打ち込んで、絵を描いていられれば幸せだったであろうかわった老人の姿が浮かんできて、「ヘンリー八世」でもそうだったように、人物の内面や狂ったところに立ち入ってリアルな「実像」みたいなところを追求するのではなく、周囲の人や出来事の流れのなかで彼はどんなふうに立ち回って歳をとっていったのか、アムステルダムの町をどんな顔をして歩いていたのか、などを柔らかめに - そこらのふつうの老人と同じように - 描いていておもしろいの。
Hendrickjeは、「ヘンリー八世」にも出ていたLaughtonの妻Elsa Lanchesterが演じているのだが、Rembrandtが描いたHendrickjeの肖像って、結構ふっくらしているからそこだけうーん? だった。Rembrandt本人が似ているからいいかー。
そして今年は没後350年で、Rijksmuseumでは”All The Rembrandts”が始まる。 やはりこれは行かないと、かなあ。
1.12.2019
[film] Welcome to Marwen (2018)
7日の月曜日の晩、Liecenster Squareのシネコンで見ました。Robert Zemeckisの新作なのに既に上映館と回数は減ってきていて慌てて駆け込んだ。 おもしろいのになー。
冒頭、二次大戦中(と思われる)の飛行機の空中戦があって、Steve Carellがパイロットをやっているのだが、よく見ると彼の声で喋って動いているのはつるつるした人形 - Cap'n Hogieで、やがて被弾した飛行機が不時着すると敵のナチスとの銃撃戦があって、味方と思われる女性兵士6人とかも出てきて、でもあるタイミングでそれが終わると、それらのミニチュアセットを前にカメラを抱えたMark Hogancamp (Steve Carell)が現れて、彼はそのセットと人形をいっぱい写真撮影しているのだが、彼の頭のなかではそれは一連のシナリオに基づいて動きまわる複数の物語になっていて – それがMarwenというベルギー辺りの架空の町を舞台にしていること、などもわかってくる。
やがてMarkが数年前にバーで暴漢たちに襲われて大怪我をして一部の記憶を失い(それまではイラストレーターだった)、PTSDにうなされながらMarwenの物語を撮影して発表していることがわかってきて、映画はそんな彼を見守る町の人たち – Marwenに登場する味方の女性兵士は彼を支える彼女たちのコピー – と、向かいの家に越してきたNicol (Leslie Mann)との交流と、裁判所での彼を襲った被告たちとの対決、などを綴る。のと並行して、Marwenの物語も実生活や彼自身のエモのアップダウンと微妙にリンクしたり影響を受けたり – Nicolも当然人形として登場したり - しながら進んでいく。 そこにはDeja Thoris(声:Diane Kruger)ていう魔女が神棚の奥にいて彼をダークサイドに引き込もうとしていて、ナチスはどこまでも追っかけてきて果ても終わりも見えなかったりする。
二次大戦時のベルギーで飛行機乗りがナチスを相手に戦って、味方は女性たちのみ、Markがどうしてそういうストーリー設定に行きついたのか、更にそこに彼の嗜好 - 女性の靴フェチ - がどう関係してくるのか等々、これは実話をベースとしているので、そういうのは精神科医のなんとか療法とかドキュメンタリーとかが掘っていけばいいのだし、実際にこの作品の前には”Marwencol” (2010)ていうドキュメンタリー映画があったりする(未見)。
ここでZemeckisが描こうとしたのは、そういう物語世界なしに人が生きていくことの厳しさ難しさ、そういう物語を介してのみ生きることができる、そういうふつうの人たちから見れば変に見えてしまうような生のありようがあるということ、それって彼が映画で実現しようとしてきたことそのもので、人形劇と実写のダイナミックな交錯の意味もそこにあるんだろうな、って。なのでこれは”Forrest Gump”(1994)だし”Cast Away” (2000)だし、”Back to the Future” (1985) もそういうことだったのかも、とこれを見て改めて思ったりした。
映画のようにその世界に浸って終わり、というわけではなくて、“Cast Away”でのWilsonとの別れと同じように、ここでもある決別が描かれるのだが、それをやるためにあんなのを出してくるとは思わなかったわ。
映画のなかではトラウマを抱えていたり病気だったり特殊な状況に置かれたひとたちのドラマになっているけど、これって本読んだり映画みたり音楽聴いたりしないと酸欠の金魚になってしんじゃう自分なんかもそうなのかもしれない、って。 それって仕事の後にバー行って飲んで週末にスポーツ見たりやったりしたらすっきりしちゃう人達とは別のあれで、別だからどっちがどう、とかそういう話ではなくて、この映画でも描かれているように両者の間にはどうしようもない溝があるようだから、そこを尊重してそれぞれのファンタジーを生きるようにできれば世界は平和でいいのにな、って。 (すげえてきとーに投げとくヤリ)
Steve Carellはますます今の時代のTom Hanksになっていくのかしら。映画ではSteve CarellもLeslie Mannも昔のアメリカのお人形さんのつるっとした顔で、人形と実写の差異がほとんどないかんじなのもすごい。”Ready Player One” (2018)もこのノリでやったほうが面白くなったかも。
そしてZemeckisなので、50-60年代の激甘の音楽が押しては寄せてきてたまんないの。 Markの頭のなかで常に鳴っている音なのだろうから、文句のつけようがないわ。
冒頭、二次大戦中(と思われる)の飛行機の空中戦があって、Steve Carellがパイロットをやっているのだが、よく見ると彼の声で喋って動いているのはつるつるした人形 - Cap'n Hogieで、やがて被弾した飛行機が不時着すると敵のナチスとの銃撃戦があって、味方と思われる女性兵士6人とかも出てきて、でもあるタイミングでそれが終わると、それらのミニチュアセットを前にカメラを抱えたMark Hogancamp (Steve Carell)が現れて、彼はそのセットと人形をいっぱい写真撮影しているのだが、彼の頭のなかではそれは一連のシナリオに基づいて動きまわる複数の物語になっていて – それがMarwenというベルギー辺りの架空の町を舞台にしていること、などもわかってくる。
やがてMarkが数年前にバーで暴漢たちに襲われて大怪我をして一部の記憶を失い(それまではイラストレーターだった)、PTSDにうなされながらMarwenの物語を撮影して発表していることがわかってきて、映画はそんな彼を見守る町の人たち – Marwenに登場する味方の女性兵士は彼を支える彼女たちのコピー – と、向かいの家に越してきたNicol (Leslie Mann)との交流と、裁判所での彼を襲った被告たちとの対決、などを綴る。のと並行して、Marwenの物語も実生活や彼自身のエモのアップダウンと微妙にリンクしたり影響を受けたり – Nicolも当然人形として登場したり - しながら進んでいく。 そこにはDeja Thoris(声:Diane Kruger)ていう魔女が神棚の奥にいて彼をダークサイドに引き込もうとしていて、ナチスはどこまでも追っかけてきて果ても終わりも見えなかったりする。
二次大戦時のベルギーで飛行機乗りがナチスを相手に戦って、味方は女性たちのみ、Markがどうしてそういうストーリー設定に行きついたのか、更にそこに彼の嗜好 - 女性の靴フェチ - がどう関係してくるのか等々、これは実話をベースとしているので、そういうのは精神科医のなんとか療法とかドキュメンタリーとかが掘っていけばいいのだし、実際にこの作品の前には”Marwencol” (2010)ていうドキュメンタリー映画があったりする(未見)。
ここでZemeckisが描こうとしたのは、そういう物語世界なしに人が生きていくことの厳しさ難しさ、そういう物語を介してのみ生きることができる、そういうふつうの人たちから見れば変に見えてしまうような生のありようがあるということ、それって彼が映画で実現しようとしてきたことそのもので、人形劇と実写のダイナミックな交錯の意味もそこにあるんだろうな、って。なのでこれは”Forrest Gump”(1994)だし”Cast Away” (2000)だし、”Back to the Future” (1985) もそういうことだったのかも、とこれを見て改めて思ったりした。
映画のようにその世界に浸って終わり、というわけではなくて、“Cast Away”でのWilsonとの別れと同じように、ここでもある決別が描かれるのだが、それをやるためにあんなのを出してくるとは思わなかったわ。
映画のなかではトラウマを抱えていたり病気だったり特殊な状況に置かれたひとたちのドラマになっているけど、これって本読んだり映画みたり音楽聴いたりしないと酸欠の金魚になってしんじゃう自分なんかもそうなのかもしれない、って。 それって仕事の後にバー行って飲んで週末にスポーツ見たりやったりしたらすっきりしちゃう人達とは別のあれで、別だからどっちがどう、とかそういう話ではなくて、この映画でも描かれているように両者の間にはどうしようもない溝があるようだから、そこを尊重してそれぞれのファンタジーを生きるようにできれば世界は平和でいいのにな、って。 (すげえてきとーに投げとくヤリ)
Steve Carellはますます今の時代のTom Hanksになっていくのかしら。映画ではSteve CarellもLeslie Mannも昔のアメリカのお人形さんのつるっとした顔で、人形と実写の差異がほとんどないかんじなのもすごい。”Ready Player One” (2018)もこのノリでやったほうが面白くなったかも。
そしてZemeckisなので、50-60年代の激甘の音楽が押しては寄せてきてたまんないの。 Markの頭のなかで常に鳴っている音なのだろうから、文句のつけようがないわ。
1.11.2019
[film] La signora senza camelie (1953)
3日の晩、BFIで始まったMichelangelo Antonioni特集 –“Michelangelo Antonioni: Confronting the Modern World with Style” - で見ました。4Kリストアされた”The Passenger”のリバイバル公開を中心にBFIでは初期作品や短編も含めて網羅していくみたいで、昨年のベルイマン特集と同じようなのかんじなのだが、昨年は出だしで遅れて見逃してしまったのが結構あったので今年はミスしないようにしたい。
のだが、Antonioniの作品ってどれも100分以上あってなかなか大変そう。 愛の不毛とか、モダーンワールドをさんざん生きてきたしわかっている(つもりだし)。(でもたぶん、ね)
英語題は”The Lady Without Camelias” – 個人的には昨年末の「椿姫」から続いている椿の女性シリーズで。
これ、日本公開はされていない?
Clara Manni (Lucia Bosé)はお店の売り子から映画女優になって、でもあまりぱっとしないのでプロデューサーが次はもうちょっとエロくて大衆にアピールするやつをやろう、ってスクリーンテストをして、これはいいかも、になるのだがそれを横で見ていた大物映画監督/プロデューサーのGianni (Andrea Checchi)が確かにすごくいいけど、俺彼女と結婚することにしたわ、って結婚しちゃって(Claraはびっくり戸惑い)、そしたらGianniは彼女に映画に出て他の男とやらしいことしてほしくないから、って自分が監督するジャンヌ・ダルク伝の主演に抜擢したらそれが大コケして、Claraはもう我慢できなくなってGianniと別れて自分の道を歩こうとするの。
男社会依存の筋書きだのメンツだのに翻弄される「椿」の伝説から離れて - なんでGianniの言いなりで簡単に結婚しちゃったかなあ? はあるにせよ- 自分は主役じゃなくてもいいから映画をやりたいんだ、って決意して前に出ようとするClaraのやや震えて怯えつつ、でも静かにふてくされた眼差しが最後に残って、よいの。(トーンとしては落ちぶれちゃったけど、しょうがないよね、ふうなのだけど)
女性映画としてとても素敵だと思ったけど、男性から見ればなんで言うこときいてくれないのかしらるるるるー、のお話しでもあり、ざまーみろの寒々しさが気持ちよかったり。
Cronaca di un amore (1950) - Chronicle of a Love Affair (or Story of a Love Affair)
これもAntonioni特集から、2日の晩に見ました。Antonioniの長編監督デビュー作。 邦題は『愛と殺意』だって。
ミラノで私立探偵のCarloni (Gino Rossi)が裕福な実業家Enrico (Ferdinando Sarmi)から7年前に結婚した妻Paola (Lucia Bosè)の結婚前のあれこれを調べてほしい、と依頼を受け昔の写真を持って彼女が暮らしていたフェラーラに行く。 Paulaと写真に仲良く写っていた女友達のひとりGiovannaが結婚直前にエレベーターで不審な死を遂げたことを聞いていろいろ調べ始めるのと、そのことがGiovannaの婚約者だったGuido (Massimo Girotti)と(彼とつきあっていたらしい)Paolaに伝わって彼らにやばいぞこれ、って過剰な憶測とスローなパニックを引き起こしていって、それがやがては …
基本は探偵が写真と聞きこみからじわじわ過去を暴いていく、というノワール仕立てなのだが、暴かれてくる事実が思ったほどすごくないのとその結果として引き起こされる出来事もあんますごくなくて、犯罪とか悪の闇といったノワールの基本が前に来なくて、え? こんなもん? なのだが、こういうふうに重ね合わせされ折り畳まれた因果の総体を”Chronicle of a Love Affair”、と呼んでみよう、というのはとってもよくわかるし。
男たちのどこから湧いて出るのか不明の独占欲と猜疑心のしょうもなさ – これは”The Lady Without Camelias”にもあったけど – がとっても意味わかんなくて不毛で気持ちよくないのと、どちらにも主演しているLucia Bosèが時折見せるどうしろってのよどうもなんないわよ、みたいな白々しい表情がモノクロのコントラストにはまっていて素敵なのだった。
あと、愛してる、とか、愛してくれ、とか特に言わなくても愛は空気みたいに当たり前にそこらじゅうにあって、気がつけば既にみんなじゃぶじゃぶ、ていうのはやはりイタリアンだからだろうか。
あと、今から約70年前のミラノの街並みは、こないだ行った時に受けた印象とそんなに違っていないようなかんじがしたのは気のせいかしら。 (よいこと)
のだが、Antonioniの作品ってどれも100分以上あってなかなか大変そう。 愛の不毛とか、モダーンワールドをさんざん生きてきたしわかっている(つもりだし)。(でもたぶん、ね)
英語題は”The Lady Without Camelias” – 個人的には昨年末の「椿姫」から続いている椿の女性シリーズで。
これ、日本公開はされていない?
Clara Manni (Lucia Bosé)はお店の売り子から映画女優になって、でもあまりぱっとしないのでプロデューサーが次はもうちょっとエロくて大衆にアピールするやつをやろう、ってスクリーンテストをして、これはいいかも、になるのだがそれを横で見ていた大物映画監督/プロデューサーのGianni (Andrea Checchi)が確かにすごくいいけど、俺彼女と結婚することにしたわ、って結婚しちゃって(Claraはびっくり戸惑い)、そしたらGianniは彼女に映画に出て他の男とやらしいことしてほしくないから、って自分が監督するジャンヌ・ダルク伝の主演に抜擢したらそれが大コケして、Claraはもう我慢できなくなってGianniと別れて自分の道を歩こうとするの。
男社会依存の筋書きだのメンツだのに翻弄される「椿」の伝説から離れて - なんでGianniの言いなりで簡単に結婚しちゃったかなあ? はあるにせよ- 自分は主役じゃなくてもいいから映画をやりたいんだ、って決意して前に出ようとするClaraのやや震えて怯えつつ、でも静かにふてくされた眼差しが最後に残って、よいの。(トーンとしては落ちぶれちゃったけど、しょうがないよね、ふうなのだけど)
女性映画としてとても素敵だと思ったけど、男性から見ればなんで言うこときいてくれないのかしらるるるるー、のお話しでもあり、ざまーみろの寒々しさが気持ちよかったり。
Cronaca di un amore (1950) - Chronicle of a Love Affair (or Story of a Love Affair)
これもAntonioni特集から、2日の晩に見ました。Antonioniの長編監督デビュー作。 邦題は『愛と殺意』だって。
ミラノで私立探偵のCarloni (Gino Rossi)が裕福な実業家Enrico (Ferdinando Sarmi)から7年前に結婚した妻Paola (Lucia Bosè)の結婚前のあれこれを調べてほしい、と依頼を受け昔の写真を持って彼女が暮らしていたフェラーラに行く。 Paulaと写真に仲良く写っていた女友達のひとりGiovannaが結婚直前にエレベーターで不審な死を遂げたことを聞いていろいろ調べ始めるのと、そのことがGiovannaの婚約者だったGuido (Massimo Girotti)と(彼とつきあっていたらしい)Paolaに伝わって彼らにやばいぞこれ、って過剰な憶測とスローなパニックを引き起こしていって、それがやがては …
基本は探偵が写真と聞きこみからじわじわ過去を暴いていく、というノワール仕立てなのだが、暴かれてくる事実が思ったほどすごくないのとその結果として引き起こされる出来事もあんますごくなくて、犯罪とか悪の闇といったノワールの基本が前に来なくて、え? こんなもん? なのだが、こういうふうに重ね合わせされ折り畳まれた因果の総体を”Chronicle of a Love Affair”、と呼んでみよう、というのはとってもよくわかるし。
男たちのどこから湧いて出るのか不明の独占欲と猜疑心のしょうもなさ – これは”The Lady Without Camelias”にもあったけど – がとっても意味わかんなくて不毛で気持ちよくないのと、どちらにも主演しているLucia Bosèが時折見せるどうしろってのよどうもなんないわよ、みたいな白々しい表情がモノクロのコントラストにはまっていて素敵なのだった。
あと、愛してる、とか、愛してくれ、とか特に言わなくても愛は空気みたいに当たり前にそこらじゅうにあって、気がつけば既にみんなじゃぶじゃぶ、ていうのはやはりイタリアンだからだろうか。
あと、今から約70年前のミラノの街並みは、こないだ行った時に受けた印象とそんなに違っていないようなかんじがしたのは気のせいかしら。 (よいこと)
1.10.2019
[dance] La Dame aux camélias
12月22日、パリのガルニエ宮、土曜日の午後のマチネーで見ました。最初は慌ただしい師走だし軽くバスチーユの方で”Cinderella”でも見ようと思っていたのだが、やっぱしこっちにした。
会場に入る前、遠くの道の奥に黄色いベストの人たちが動いていくのが見えて、警備の人たち車たちが大勢そっちに向かっていくようだったが、それだけだった。 滞在中も特に不便はなかったかも。(.. でも、そういえば、シャンゼリゼ通りも凱旋門もまだ行ったことないのだった)
『椿姫』- Alexandre Dumas filsの小説をもとにJohn Neumeierが振付したもので、一度見てみたかった。Frederick Ashtonが63年にRudolf NureyevとMargot Fonteynのために振付した”Marguerite and Armand”は、2017年の6月にRoyal Balletで見ていて、その公演はたまたまZenaida YanowskyのFarewellだったのだがものすごーくよくて、でもこれは30分くらいだし、音楽はリストだしぜんぜん別もの。 ちなみに、感想書いてないけど昨年リリースされたドキュメンタリー - ”Nureyev”は、バレエ好きなひとは必見。
ガルニエ宮は3回めで、キャンセルが出たとこをえいってやったら1階の一番前の一番端っこが取れた。Royal Opera houseもMetも最前の席は足下が見えにくいのであんまし、なのだが、ここの最前は悪くなかったかも。(でもこの演目ではArmandの友人役(?)のひとがステージの端 - 目の前にどっかり座ってて置物みたいに目まで一切動かさないのでなんか落ち着かなくて、胡椒かけてやろうかと思った)
で、このNeumeier版は3幕もの、休憩2回、音楽は全編ショパン。
この回のMarguerite役はAmandine Albisson、Armand 役はAudric Bezard。
プロローグから亡くなったMargueriteの遺品整理でしめしめ暗めで、そこから彼女との思い出を手繰って綴っていく、という形式で、”Marguerite and Armand”のどうせ死んじゃうんだから踊っちゃえ、の切羽詰まった熱情とはぜんぜん違うふてくされたような諦念が支配していて、だから2幕目の避暑地での鮮烈さが際立ってたまんないのだが、ところどころひらひらした散文調の、モダンに近い軽さがあって、これってなにかしら? て思って、ひょっとしてショパンの音楽のせい?(深く沈みこんでから怒涛の盛りあがり、みたいのがなくて、先の見えているドミノ倒しみたいにひたすら転がっていって止まらないかんじ) パ・ド・ドゥも互いの重力に絡み取られつつ丸裸にしていくような天からの糸はなくて、蜻蛉のように軽くて儚くて、その中をいつまでも漂っていられたら、みたいなノリで、素敵だった。
ぜんたいとしては一時大好きだったけど失われてしまってもうどうすることもできないものを掌の中で静かに転がす、その生々しい感触が残る。
Lo Schiaccianoci - The Nutcracker
バレエをもういっこ。 12月29日の晩、ミラノのスカラ座で見ました。
なにがなんでも、という程でもなくて、ミラノ行くなら『最後の晩餐』とスカラ座は行くよね、くらいのノリで、たまたま取れたから行った、のだった。
George Balanchineの『くるみ割り人形』は90年代にNew York City Balletのを観光客のアテンドも含めて散々見てて、たまに学芸会かよ、みたいなレベルのときもあったりしたのでそんな好きではない(この系列で一番すきなのはMark Morrisの”The Hard Nut”)のだが、ここのは舞い降る雪も含めてものすごくちゃんとしたプロダクションになってて、踊りの粒も揃っていた。クリスマスの贈り物が子供たちに夢と冒険を運んでくる、って考えてみればこんなにバレエ向けのテーマはないと思うのだが、それに相応しい華やかさがあった。こうでなくちゃね。
スカラ座は入り口の大きなツリーの下でいろんなぬいぐるみが蠢いていて(たぶん生きていないやつ)、それだけでたまんなかったのだが、客席側もさすがに豪華だった。特に正面のテラスの王様が座るようなとこ、すげーって見上げるしかなくて、そうするだけでああわれわれはヒラの平民になっちゃうんだわ、って。
これであと残っているのは、ウィーンの国立歌劇場と、ブエノスアイレスのコロン劇場とサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場と … まだ結構あるじゃん。
会場に入る前、遠くの道の奥に黄色いベストの人たちが動いていくのが見えて、警備の人たち車たちが大勢そっちに向かっていくようだったが、それだけだった。 滞在中も特に不便はなかったかも。(.. でも、そういえば、シャンゼリゼ通りも凱旋門もまだ行ったことないのだった)
『椿姫』- Alexandre Dumas filsの小説をもとにJohn Neumeierが振付したもので、一度見てみたかった。Frederick Ashtonが63年にRudolf NureyevとMargot Fonteynのために振付した”Marguerite and Armand”は、2017年の6月にRoyal Balletで見ていて、その公演はたまたまZenaida YanowskyのFarewellだったのだがものすごーくよくて、でもこれは30分くらいだし、音楽はリストだしぜんぜん別もの。 ちなみに、感想書いてないけど昨年リリースされたドキュメンタリー - ”Nureyev”は、バレエ好きなひとは必見。
ガルニエ宮は3回めで、キャンセルが出たとこをえいってやったら1階の一番前の一番端っこが取れた。Royal Opera houseもMetも最前の席は足下が見えにくいのであんまし、なのだが、ここの最前は悪くなかったかも。(でもこの演目ではArmandの友人役(?)のひとがステージの端 - 目の前にどっかり座ってて置物みたいに目まで一切動かさないのでなんか落ち着かなくて、胡椒かけてやろうかと思った)
で、このNeumeier版は3幕もの、休憩2回、音楽は全編ショパン。
この回のMarguerite役はAmandine Albisson、Armand 役はAudric Bezard。
プロローグから亡くなったMargueriteの遺品整理でしめしめ暗めで、そこから彼女との思い出を手繰って綴っていく、という形式で、”Marguerite and Armand”のどうせ死んじゃうんだから踊っちゃえ、の切羽詰まった熱情とはぜんぜん違うふてくされたような諦念が支配していて、だから2幕目の避暑地での鮮烈さが際立ってたまんないのだが、ところどころひらひらした散文調の、モダンに近い軽さがあって、これってなにかしら? て思って、ひょっとしてショパンの音楽のせい?(深く沈みこんでから怒涛の盛りあがり、みたいのがなくて、先の見えているドミノ倒しみたいにひたすら転がっていって止まらないかんじ) パ・ド・ドゥも互いの重力に絡み取られつつ丸裸にしていくような天からの糸はなくて、蜻蛉のように軽くて儚くて、その中をいつまでも漂っていられたら、みたいなノリで、素敵だった。
ぜんたいとしては一時大好きだったけど失われてしまってもうどうすることもできないものを掌の中で静かに転がす、その生々しい感触が残る。
Lo Schiaccianoci - The Nutcracker
バレエをもういっこ。 12月29日の晩、ミラノのスカラ座で見ました。
なにがなんでも、という程でもなくて、ミラノ行くなら『最後の晩餐』とスカラ座は行くよね、くらいのノリで、たまたま取れたから行った、のだった。
George Balanchineの『くるみ割り人形』は90年代にNew York City Balletのを観光客のアテンドも含めて散々見てて、たまに学芸会かよ、みたいなレベルのときもあったりしたのでそんな好きではない(この系列で一番すきなのはMark Morrisの”The Hard Nut”)のだが、ここのは舞い降る雪も含めてものすごくちゃんとしたプロダクションになってて、踊りの粒も揃っていた。クリスマスの贈り物が子供たちに夢と冒険を運んでくる、って考えてみればこんなにバレエ向けのテーマはないと思うのだが、それに相応しい華やかさがあった。こうでなくちゃね。
スカラ座は入り口の大きなツリーの下でいろんなぬいぐるみが蠢いていて(たぶん生きていないやつ)、それだけでたまんなかったのだが、客席側もさすがに豪華だった。特に正面のテラスの王様が座るようなとこ、すげーって見上げるしかなくて、そうするだけでああわれわれはヒラの平民になっちゃうんだわ、って。
これであと残っているのは、ウィーンの国立歌劇場と、ブエノスアイレスのコロン劇場とサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場と … まだ結構あるじゃん。
1.09.2019
[film] The Ghost Goes West (1935)
2019年の映画はじめの1本。1日元旦の晩20:40からBFIで見ました。
ちなみにこの日BFIでかかった旧作は、Wild Strawberries (1957), Gaslight (1944), La notte (1961), The Private Life of Henry VIII (1933), L'Avventura (1960) .. などなど。 この並びはめでたい?
これは1月の特集 – “The Golden Age of Alexander Korda: Britain’s Movie Mogul” からので、Alexander Kordaなんてもちろん知らない。でも知らないのなら映画を見ながら勉強していけばいいので、なんてすばらしいことでしょう、って。Kordaって、監督もすればプロデュースもしていて、これはRené Clairに監督をさせてプロデュースにまわったやつ。 邦題は『幽霊西へ行く』。
18世紀のスコットランドにぜんぜん人望のない間抜けな領主(Robert Donat)がいて、味方の爆弾で吹っ飛ばされてそれ以降哀れな幽霊として城のなかを彷徨っているのだが、現代になって富豪とその娘(Jean Parker)がフロリダからやってきて、現代の領主(Robert Donat – 2役)にこの城をアメリカに持っていきたいんだけどなー、て猫なで声でいう。 幽霊ついちゃってるけどどうするよ? ていうのと、ふたりの恋もどうなっちゃうのよ、っていうのと。
René Clairは大昔にリュミエール・シネマテーク(ていうのがあったの)のVHSまで持っていた『奥様は魔女』(1924)がだいすきで、これと同じような何百年に渡ってかけられた呪いが間抜けにすっ転んで恋にはまってしまう適当さいい加減さがたまんなくて、でも今作でRené Clairが仕上げたものはKordaには不満だったらしく、後からReshootしたりしていて、結果、興行的には当たったみたいだけど、出来としては『奥様は魔女』のほうがおもしろかったかも。
The Private Life of Henry VIII (1933)
4日金曜日の晩、これもBFIのKorda特集で見ました。これはAlexander Kordaの監督作。
英国映画界に初のオスカーをもたらしたのは、この作品でのCharles Laughtonの主演男優賞のそれなんだって。日本では皇室の尊厳を損なうかも、って当時公開はされなくて、後でビデオリリースのみなんだって。 ふうん。
ヘンリー八世 (Charles Laughton)と6人の妻たちのお話し。ちなみにRick Wakemanのソロ - “The Six Wives of Henry VIII” (1973)の元になった本は、これの原作の後に書かれたもの、らしい。
6人の妻といっても最初の妻の話はカットされてて、二番目の妻Anne Boleyn (Merle Oberon)が絞首刑になるところからで、三番目のJane Seymour (Wendy Barrie)は子供を産んだあとすぐに亡くなって、ドイツから来た四番目のAnne of Cleves (Elsa Lanchester - Laughtonの実の妻)は、カード博打がすごすぎてごめんなさい勘弁して、って別れてもらって、Henryが陰で憧れていたKatherine Howard (Binnie Barnes)が五番目にくるのだが、彼女はずっとThomas Culpeper (Robert Donat)と密通していたのでふたりとも絞首刑にしちゃって、最後の六番目にCatherine Parr (Everley Gregg)が来るのだがもうへろへろでどうでもいいかんじ、で終わる。
ヘンリー八世の”Private Life”ということで彼の結婚生活が中心なのだが、それでも彼の残虐で野蛮で変態で我儘なところがじゅうぶんに伺えておもしろい、というか一番おもしろいのはCharles Laughtonの軟体動物な演技 – 特に顔芸 - で、この辺、”The Favourite”のOlivia Colman(祝!)のそれに近い、ていうか彼女も参考にしたのではないかしらん。
王様だからなんでもできるでしょ、って自分も周囲もふつうに思っているのにそれがちゃんとできないことから生まれる悲喜劇、それが顕著にでるのがPrivate Lifeで、でもどうしようもない - 妻を6人とっ替えてもどうにもならん、て、”the best of them's the worst”なんて言うの。
この後、KordaはDouglas Fairbanks主演で“The Private Life of Don Juan” (1934) を撮ったりしていて、Private Lifeがだいすきらしい。
でもなんといってもCharles Laughtonのすごさ。彼のヘンリー八世ってHolbeinの肖像画あのままじゃん、とか思ったのだが、日曜日の午後に見た”Rembrandt” (1936)でレンブラントしている彼ときたら、彼の自画像そっくり(彼が彼の自画像そっくりなのはあたりまえか。彼がレンブラントの自画像にそっくり、てことよ)で、なんなのあなた、になったの。
それにしても、Golden Globe効果とはいえ、”The Favourite”みたいな映画が当たってしまう英国ってすごいわ。
ちなみにこの日BFIでかかった旧作は、Wild Strawberries (1957), Gaslight (1944), La notte (1961), The Private Life of Henry VIII (1933), L'Avventura (1960) .. などなど。 この並びはめでたい?
これは1月の特集 – “The Golden Age of Alexander Korda: Britain’s Movie Mogul” からので、Alexander Kordaなんてもちろん知らない。でも知らないのなら映画を見ながら勉強していけばいいので、なんてすばらしいことでしょう、って。Kordaって、監督もすればプロデュースもしていて、これはRené Clairに監督をさせてプロデュースにまわったやつ。 邦題は『幽霊西へ行く』。
18世紀のスコットランドにぜんぜん人望のない間抜けな領主(Robert Donat)がいて、味方の爆弾で吹っ飛ばされてそれ以降哀れな幽霊として城のなかを彷徨っているのだが、現代になって富豪とその娘(Jean Parker)がフロリダからやってきて、現代の領主(Robert Donat – 2役)にこの城をアメリカに持っていきたいんだけどなー、て猫なで声でいう。 幽霊ついちゃってるけどどうするよ? ていうのと、ふたりの恋もどうなっちゃうのよ、っていうのと。
René Clairは大昔にリュミエール・シネマテーク(ていうのがあったの)のVHSまで持っていた『奥様は魔女』(1924)がだいすきで、これと同じような何百年に渡ってかけられた呪いが間抜けにすっ転んで恋にはまってしまう適当さいい加減さがたまんなくて、でも今作でRené Clairが仕上げたものはKordaには不満だったらしく、後からReshootしたりしていて、結果、興行的には当たったみたいだけど、出来としては『奥様は魔女』のほうがおもしろかったかも。
The Private Life of Henry VIII (1933)
4日金曜日の晩、これもBFIのKorda特集で見ました。これはAlexander Kordaの監督作。
英国映画界に初のオスカーをもたらしたのは、この作品でのCharles Laughtonの主演男優賞のそれなんだって。日本では皇室の尊厳を損なうかも、って当時公開はされなくて、後でビデオリリースのみなんだって。 ふうん。
ヘンリー八世 (Charles Laughton)と6人の妻たちのお話し。ちなみにRick Wakemanのソロ - “The Six Wives of Henry VIII” (1973)の元になった本は、これの原作の後に書かれたもの、らしい。
6人の妻といっても最初の妻の話はカットされてて、二番目の妻Anne Boleyn (Merle Oberon)が絞首刑になるところからで、三番目のJane Seymour (Wendy Barrie)は子供を産んだあとすぐに亡くなって、ドイツから来た四番目のAnne of Cleves (Elsa Lanchester - Laughtonの実の妻)は、カード博打がすごすぎてごめんなさい勘弁して、って別れてもらって、Henryが陰で憧れていたKatherine Howard (Binnie Barnes)が五番目にくるのだが、彼女はずっとThomas Culpeper (Robert Donat)と密通していたのでふたりとも絞首刑にしちゃって、最後の六番目にCatherine Parr (Everley Gregg)が来るのだがもうへろへろでどうでもいいかんじ、で終わる。
ヘンリー八世の”Private Life”ということで彼の結婚生活が中心なのだが、それでも彼の残虐で野蛮で変態で我儘なところがじゅうぶんに伺えておもしろい、というか一番おもしろいのはCharles Laughtonの軟体動物な演技 – 特に顔芸 - で、この辺、”The Favourite”のOlivia Colman(祝!)のそれに近い、ていうか彼女も参考にしたのではないかしらん。
王様だからなんでもできるでしょ、って自分も周囲もふつうに思っているのにそれがちゃんとできないことから生まれる悲喜劇、それが顕著にでるのがPrivate Lifeで、でもどうしようもない - 妻を6人とっ替えてもどうにもならん、て、”the best of them's the worst”なんて言うの。
この後、KordaはDouglas Fairbanks主演で“The Private Life of Don Juan” (1934) を撮ったりしていて、Private Lifeがだいすきらしい。
でもなんといってもCharles Laughtonのすごさ。彼のヘンリー八世ってHolbeinの肖像画あのままじゃん、とか思ったのだが、日曜日の午後に見た”Rembrandt” (1936)でレンブラントしている彼ときたら、彼の自画像そっくり(彼が彼の自画像そっくりなのはあたりまえか。彼がレンブラントの自画像にそっくり、てことよ)で、なんなのあなた、になったの。
それにしても、Golden Globe効果とはいえ、”The Favourite”みたいな映画が当たってしまう英国ってすごいわ。
1.08.2019
[theatre] Summer and Smoke
12月20日、木曜日の晩、Duke of York's Theatreで見ました。
昨年の春、Almeida Theatreで行われたこの公演のレビューがよくて、そのせいかチケットはぜんぜん取れなくてしょんぼり、だったのだが、West Endに来て再演してくれた。
原作はTennessee Williamsの1948年の戯曲、彼の作品としては『ガラスの動物園』(1945)や『欲望という名の電車』(1947)よりは後で、『熱いトタン屋根の猫』(1955)や『去年の夏 突然に』(1959)よりは前のもの。 公演時の不評を受けて後々、1964年に”The Eccentricities of a Nightingale” - 『風変わりなナイチンゲール』としてリライトされている。
翻訳は『夏と煙』のタイトルで大昔に出ているようだが未読。 映画化はPeter Glenvilleの監督で1961年にされていて、この時のAlma役はGeraldine Page - こちらも未見。
演出はRebecca Frecknallで、彼女は同作を2012年にSouthwark Playhouseで演出しているので彼女にとってはリバイバルにあたるのだと。
ステージの背後の少し高くなった檀上に朽ちたようなぼろアップライトピアノが7台、中心を囲むようにぐるりと並べられていて、それぞれの上にはメトロノームがあって、照明はやや暗め - 教会の礼拝堂のような雰囲気。最初に登場人物全員が影のようにそうっと出てきてそれぞれピアノの前に座り、全体として合っているんだかいないんだかわからない旋律を奏でて、この後も常に誰かがどこかのピアノの前にいて寄りかかったり佇んだり、シーンに合わせてフレーズを弾いたり音を出したり、おそらくライブでそのまま出ている音なのだが、そこに被せられているものもあるのか、等は不明。
中央にぽつりとマイクスタンドがあって、そこに向かってAlma Winemiller (Patsy Ferran)がものすごい勢いで自分のこと、自分が置かれた状況のこと、幼馴染のJohn Buchanan Jr. (Matthew Needham)のこと、等々を喋りはじめる。Almaは牧師の娘でまじめで敬虔で男性と付きあったことはなくて、母は精神を病んでいて、若い医師のJohnは自信家で結構ワイルドで、Johnに対する思いはいろいろ募っているのだが踏みだせずにつんのめってて将来のあれやこれやも含めて焦って空回りして、自分でも相当おかしくなっていることは自覚している。 彼女の父とJohnの父はForbes Massonが2役を演じ、彼女の狂ってしまった母と町の忙しい女性も2役、他にも掛けもちで類型的な女性キャラクターなどが出てきて周囲を巡っていて、これらがAlmaの目に映るコミュニティのふつうの人々、なのかも。
ああこれはアメリカ南部のむせかえるような人垣と空気のなかに置かれた典型的なTennessee Williams劇の登場人物 – 女性だなあ、と思っていると後半に入って彼女の様子というか態度挙動がくるりと転回豹変して、周囲も含めてざわざわなんだこれ? になる。 で、おそらくこの箇所の「説明」をするために原作者自身は苦労したのだろうし、その「解釈」を巡るところで彼の他の戯曲と比べたら評価が低くなってしまったのかもしれないなあ、と。
周囲を囲うぼろピアノからてんでに鳴りだす調性のちょっとおかしい音群、その上に置かれた(なんのための?)メトロノーム、そのピアノとおなじようにゆるーく旋回しながらいろんなことを告げたり説教したりして去っていく関係のあるひとないひと、全てがどこかで焚かれた煙のように現れては消えていく、そんななか、Almaのなかでなにかの火花が散って、変異が起こったことについて、そんなに理解するのが難しいとは思えない。
ひとつにはAlma = Patsy Ferranのすばらしい演技(とてつもない集中力)があるのと、へたにJohnやコミュニティの目線でかき混ぜず、女子のラップバトルのような勢いで炸裂する彼女の前のめりの語りにあえてフォーカスしたRebecca Frecknallの演出もある。男の子とのやりとりの果てにちょっとおかしくなっちゃった女の子のドラマ、なんて緩い言いようはAlmaが床に叩きつける椅子で吹っ飛んで、これは彼女の言葉をどこまでも真摯に拾いあげていったRebecca Frecknallの勝利だと思った。 前世紀初のアメリカ南部のお話し、ではなく現代を生きる女の子のお話しになっている。
演劇というより、音楽のライブを聴いているようかのような勢いがあった。映像でもよいからできればもう一回みたい。
他のTennessee Williamsの戯曲もこの観点から再構築してみたら... って既に誰かがやっていそうだけど。
昨年の春、Almeida Theatreで行われたこの公演のレビューがよくて、そのせいかチケットはぜんぜん取れなくてしょんぼり、だったのだが、West Endに来て再演してくれた。
原作はTennessee Williamsの1948年の戯曲、彼の作品としては『ガラスの動物園』(1945)や『欲望という名の電車』(1947)よりは後で、『熱いトタン屋根の猫』(1955)や『去年の夏 突然に』(1959)よりは前のもの。 公演時の不評を受けて後々、1964年に”The Eccentricities of a Nightingale” - 『風変わりなナイチンゲール』としてリライトされている。
翻訳は『夏と煙』のタイトルで大昔に出ているようだが未読。 映画化はPeter Glenvilleの監督で1961年にされていて、この時のAlma役はGeraldine Page - こちらも未見。
演出はRebecca Frecknallで、彼女は同作を2012年にSouthwark Playhouseで演出しているので彼女にとってはリバイバルにあたるのだと。
ステージの背後の少し高くなった檀上に朽ちたようなぼろアップライトピアノが7台、中心を囲むようにぐるりと並べられていて、それぞれの上にはメトロノームがあって、照明はやや暗め - 教会の礼拝堂のような雰囲気。最初に登場人物全員が影のようにそうっと出てきてそれぞれピアノの前に座り、全体として合っているんだかいないんだかわからない旋律を奏でて、この後も常に誰かがどこかのピアノの前にいて寄りかかったり佇んだり、シーンに合わせてフレーズを弾いたり音を出したり、おそらくライブでそのまま出ている音なのだが、そこに被せられているものもあるのか、等は不明。
中央にぽつりとマイクスタンドがあって、そこに向かってAlma Winemiller (Patsy Ferran)がものすごい勢いで自分のこと、自分が置かれた状況のこと、幼馴染のJohn Buchanan Jr. (Matthew Needham)のこと、等々を喋りはじめる。Almaは牧師の娘でまじめで敬虔で男性と付きあったことはなくて、母は精神を病んでいて、若い医師のJohnは自信家で結構ワイルドで、Johnに対する思いはいろいろ募っているのだが踏みだせずにつんのめってて将来のあれやこれやも含めて焦って空回りして、自分でも相当おかしくなっていることは自覚している。 彼女の父とJohnの父はForbes Massonが2役を演じ、彼女の狂ってしまった母と町の忙しい女性も2役、他にも掛けもちで類型的な女性キャラクターなどが出てきて周囲を巡っていて、これらがAlmaの目に映るコミュニティのふつうの人々、なのかも。
ああこれはアメリカ南部のむせかえるような人垣と空気のなかに置かれた典型的なTennessee Williams劇の登場人物 – 女性だなあ、と思っていると後半に入って彼女の様子というか態度挙動がくるりと転回豹変して、周囲も含めてざわざわなんだこれ? になる。 で、おそらくこの箇所の「説明」をするために原作者自身は苦労したのだろうし、その「解釈」を巡るところで彼の他の戯曲と比べたら評価が低くなってしまったのかもしれないなあ、と。
周囲を囲うぼろピアノからてんでに鳴りだす調性のちょっとおかしい音群、その上に置かれた(なんのための?)メトロノーム、そのピアノとおなじようにゆるーく旋回しながらいろんなことを告げたり説教したりして去っていく関係のあるひとないひと、全てがどこかで焚かれた煙のように現れては消えていく、そんななか、Almaのなかでなにかの火花が散って、変異が起こったことについて、そんなに理解するのが難しいとは思えない。
ひとつにはAlma = Patsy Ferranのすばらしい演技(とてつもない集中力)があるのと、へたにJohnやコミュニティの目線でかき混ぜず、女子のラップバトルのような勢いで炸裂する彼女の前のめりの語りにあえてフォーカスしたRebecca Frecknallの演出もある。男の子とのやりとりの果てにちょっとおかしくなっちゃった女の子のドラマ、なんて緩い言いようはAlmaが床に叩きつける椅子で吹っ飛んで、これは彼女の言葉をどこまでも真摯に拾いあげていったRebecca Frecknallの勝利だと思った。 前世紀初のアメリカ南部のお話し、ではなく現代を生きる女の子のお話しになっている。
演劇というより、音楽のライブを聴いているようかのような勢いがあった。映像でもよいからできればもう一回みたい。
他のTennessee Williamsの戯曲もこの観点から再構築してみたら... って既に誰かがやっていそうだけど。
1.05.2019
[film] Bumblebee (2018)
これも先に書く。新作映画の2本目。 3日、木曜日の昼間にPicturehouseで見ました。2Dで。
3日ってこっちではもうふつうに会社始まっている日の昼間なのでがらがらの貸し切り状態。
Bumblebeeというとまず浮かぶのはアメリカのツナ缶のブランドだし、Transformersのは気がつけばぜんぶ劇場で見たりしているのだが特に好きなわけでもない – どちらかというとバカみたいねえ、ていうために見てるようなもんだし、なんで見たのかというと監督がLaikaスタジオのひとで、“Kubo and the Two Strings” (2016)を作ったりしていたから、程度。
だがしかーし、突然変態のとんでもないやつだった。80年代の音楽とか映画とかを密かに/未だに心の支えにして生きている/きたひとは見たほうがいいよ。
冒頭は宇宙のどっかの果てでOptimus Prime率いるCybertron軍団がいつものようにガチャガチャ殴り合い殺し合いやってて、やばくなってきたところでOptimus がB-127 - Bumblebeeに、おまえ地球ってとこに行って安全かどうか見てこい安全そうだったら後でいくから(勝手にきめんな)、ていうとB-127はがってん、って地球にすっとんでいく。 こいつは都合よくカリフォルニアの山に落ちて、そしたらすぐに追手と訓練中だった米軍にぼこぼこにされてどっかにしおしお蟹のように身を隠す。
時は1987年で、18歳の誕生日を迎えたCharlie (Hailee Steinfeld)は、大好きなパパを亡くして後パパとその連れ子とやかましいママの間で窮屈でうんざりしていて、朝は”Bigmouth Strikes Again”で元気に歯磨きして自動車整備工場とかビーチでのバイトに出かけるのだが、BFもいないし自分の居場所はどこにもない。ある日自分の車がほしいなー、って廃車置場をみたらぼろぼろの黄色いビートルがあって、差してあるキーをひねったら動いたのでこれちょうだい誕生日だし、って貰って帰るとそいつがいきなり変態してロボットになったのでびっくりして、で、これをBumblebeeって名付けていろいろ教えて面倒みたりペットみたいにしていくのだが、やがて追手のロボ軍が気付いて更にこいつらは米軍と取引してて、連中が一挙に攻めてくるの。
ストーリーはこんなもんで子供でも予想つきそうなもんなのだが、そんなことよりも全体としてはCharlieとBumblebeeの関係を軸としたJohn Hughes映画 – 特に”The Breakfast Club” (1985) - と”Splash” (1984)へのオマージュになっていて、これをやりたいがために設定を87年に置いたのだとしか思えない。ちなみに87年ていうのはThe Smithsが"Strangeways, Here We Come"を出して80年代的なあれこれを殺した年ね。(Bumblebeeにこれのカセットを突っ込んで再生させたら嫌がって吐き出す象徴的なシーンがある。ついでにもういっこ吐き出すのはRick Astleyの)
John Hughesモーメントはいっぱいある(誕生日、父親との関係、男友達との関係、など)のだが、集約すれば自分は自分であっていいんだ、という目覚めと、”Splash”のほうは自分の理解できないもの、想像を超えたところにあるものを排除しないで向きあって慈しめ、っていうところ。 そして振り返ってみれば、Laikaスタジオの作品たちもまたそういう奴らだったのだなあ、って。
(このコンセプトってTransformersシリーズの中心にある、種の淘汰~進化、みたいなテーマからすればずれているのだが、Michael Bay、わかってるのかしら?)
こういうのがなんで今必要とされるのか、見られなければならないのか、は言うまでもないよね。
ただこんなにあからさまに80年代全開で今の子供達にわかるのかしら、って心配になるのだが、たぶんこの世代を生き延びた連中が孫とか(…うん、孫だろうなやっぱり)を連れてくるんだろうねえ。
そういうわけなのでCharlieの部屋にはThe Pretendersのポスターがあって、Simple Mindsの”Life in a Day”があって、TシャツはMotörhead, The Damned, Elivis Costello & the Attractions, The Smithsなどなど日替わりでいくらでも出てきて、音楽ときたらイントロクイズ(難しくない)状態でボタン探したり押したりにせわしなくて、この流れだと最後はあれしかないよね、と思ったらやっぱりあの曲が来るし。(選曲はこてこてだけど、今の子達にひかれないようにさらりと)
Charlie - Hailee Steinfeldさんは”True Grit” (2010)のあの娘なのね。ひとりで立ち向かうのが絵になるねえ。そしてJohn Cenaはやっぱりああいう役だった、と。
B-127がグランジの頃のシアトルに落ちていたらどうなっていたかしら? どうにもならんか。
3日ってこっちではもうふつうに会社始まっている日の昼間なのでがらがらの貸し切り状態。
Bumblebeeというとまず浮かぶのはアメリカのツナ缶のブランドだし、Transformersのは気がつけばぜんぶ劇場で見たりしているのだが特に好きなわけでもない – どちらかというとバカみたいねえ、ていうために見てるようなもんだし、なんで見たのかというと監督がLaikaスタジオのひとで、“Kubo and the Two Strings” (2016)を作ったりしていたから、程度。
だがしかーし、突然変態のとんでもないやつだった。80年代の音楽とか映画とかを密かに/未だに心の支えにして生きている/きたひとは見たほうがいいよ。
冒頭は宇宙のどっかの果てでOptimus Prime率いるCybertron軍団がいつものようにガチャガチャ殴り合い殺し合いやってて、やばくなってきたところでOptimus がB-127 - Bumblebeeに、おまえ地球ってとこに行って安全かどうか見てこい安全そうだったら後でいくから(勝手にきめんな)、ていうとB-127はがってん、って地球にすっとんでいく。 こいつは都合よくカリフォルニアの山に落ちて、そしたらすぐに追手と訓練中だった米軍にぼこぼこにされてどっかにしおしお蟹のように身を隠す。
時は1987年で、18歳の誕生日を迎えたCharlie (Hailee Steinfeld)は、大好きなパパを亡くして後パパとその連れ子とやかましいママの間で窮屈でうんざりしていて、朝は”Bigmouth Strikes Again”で元気に歯磨きして自動車整備工場とかビーチでのバイトに出かけるのだが、BFもいないし自分の居場所はどこにもない。ある日自分の車がほしいなー、って廃車置場をみたらぼろぼろの黄色いビートルがあって、差してあるキーをひねったら動いたのでこれちょうだい誕生日だし、って貰って帰るとそいつがいきなり変態してロボットになったのでびっくりして、で、これをBumblebeeって名付けていろいろ教えて面倒みたりペットみたいにしていくのだが、やがて追手のロボ軍が気付いて更にこいつらは米軍と取引してて、連中が一挙に攻めてくるの。
ストーリーはこんなもんで子供でも予想つきそうなもんなのだが、そんなことよりも全体としてはCharlieとBumblebeeの関係を軸としたJohn Hughes映画 – 特に”The Breakfast Club” (1985) - と”Splash” (1984)へのオマージュになっていて、これをやりたいがために設定を87年に置いたのだとしか思えない。ちなみに87年ていうのはThe Smithsが"Strangeways, Here We Come"を出して80年代的なあれこれを殺した年ね。(Bumblebeeにこれのカセットを突っ込んで再生させたら嫌がって吐き出す象徴的なシーンがある。ついでにもういっこ吐き出すのはRick Astleyの)
John Hughesモーメントはいっぱいある(誕生日、父親との関係、男友達との関係、など)のだが、集約すれば自分は自分であっていいんだ、という目覚めと、”Splash”のほうは自分の理解できないもの、想像を超えたところにあるものを排除しないで向きあって慈しめ、っていうところ。 そして振り返ってみれば、Laikaスタジオの作品たちもまたそういう奴らだったのだなあ、って。
(このコンセプトってTransformersシリーズの中心にある、種の淘汰~進化、みたいなテーマからすればずれているのだが、Michael Bay、わかってるのかしら?)
こういうのがなんで今必要とされるのか、見られなければならないのか、は言うまでもないよね。
ただこんなにあからさまに80年代全開で今の子供達にわかるのかしら、って心配になるのだが、たぶんこの世代を生き延びた連中が孫とか(…うん、孫だろうなやっぱり)を連れてくるんだろうねえ。
そういうわけなのでCharlieの部屋にはThe Pretendersのポスターがあって、Simple Mindsの”Life in a Day”があって、TシャツはMotörhead, The Damned, Elivis Costello & the Attractions, The Smithsなどなど日替わりでいくらでも出てきて、音楽ときたらイントロクイズ(難しくない)状態でボタン探したり押したりにせわしなくて、この流れだと最後はあれしかないよね、と思ったらやっぱりあの曲が来るし。(選曲はこてこてだけど、今の子達にひかれないようにさらりと)
Charlie - Hailee Steinfeldさんは”True Grit” (2010)のあの娘なのね。ひとりで立ち向かうのが絵になるねえ。そしてJohn Cenaはやっぱりああいう役だった、と。
B-127がグランジの頃のシアトルに落ちていたらどうなっていたかしら? どうにもならんか。
[film] The Favourite (2018)
2019年の新作映画のこれがいっぽんめ。2日の昼にCurzonのBloomsburyのいちばんでっかいRenoirていうシアターで見ました。
あのYorgos Lanthimosが撮った時代劇、ということでおもしろいかも、と思ったらやはりなんかおもしろかった。問答無用におもしろい、というよりなんか歪すぎてついじっと見入ってしまうかんじ。
18世紀初、フランスと戦争をしていた頃のイギリスにQueen Anne (Olivia Colman)がいて、政治とか統治にはあまり興味ないようで痛風でひーひー泣いたり喚いたりしながら飲んだり喰ったりアヒルのレースしたりうさぎ17匹飼ったり(いいなー)したい放題で、実際に政治のとこを仕切っているのは側近のSarah Churchill (Rachel Weisz)で、女王にはアメとムチを使い分けながら手懐けて調教してあれこれ掌握しきっている。
その宮殿に貧しい娘のAbigail Hill (Emma Stone) – Sarahのいとこで父親がばくちで破産 - が職を求めてやってきて、一番下層のメイドとして雇ってもらうのだが、炎症で痛んだ女王の脚を森から摘んできたハーブで治したらそれが女王の目に留まって、雑魚寝だったのが部屋を貰ってお気に入りとしてだんだんにのしあがっていく。
政治的なところで戦争も税金もぐいぐい攻めていくSarahと、その剛腕をなんとかしたい勢力 - Robert Harley (Nicholas Hoult) がAbigailに近づいていくのと、当然のことながらSarahとAbigailの”All About Eve”な確執と、そんなことよりあたしを見て構って遊んで、の女王の愛欲 - プラトニックだけじゃない - を勝ちとろうとするぐるぐる三つ巴の戦いがあって、ついにはお茶に毒を盛るようなところまで行って。
そういうお話しを歴史のうねりみたいなでっかい出来事に絡めて波しぶきどどーんてドラマチックに描いていくのではなく、お座敷・ちゃぶ台みたいな小さく閉じた場所でのちっちゃなささくれとか引っ掻き傷 - ちまちまお飯事として並べていって奇怪な宮廷変態絵巻 - 見方によってはじゅうぶんアートよ - として見せようとする。宮廷アートものとして”Orlando” (1992)あたりに近いかんじもあるけど、よく見れば随分ちがう。(今日BFIで、英国宮廷ドラマの古典 - “The Private Life of Henry VIII” (1933) - を見てきて、すごく面白かったのだが、これとの違いについても考えたい)
Yorgos Lanthimosの現代劇 – “The Lobster” (2015)や”The Killing of a Sacred Deer” (2017) - にあったしれっとした顔でとんでもないところに突き落とすような作劇はなくて、全てが先に書いたような壁で囲われた図書室とか寝室とかそういう密空間 - 壁にはタペストリーや肖像画や彫刻がごてごて並んでいる - で気がついたら起こっていて、登場する人相や出来事は既に壁の絵柄模様として予め仕込まれているかのような、そんな空間を作りこんでいる。 お気に入りはSarahというよりAbigailというより、この部屋に籠ったウサギとかも含めたあなたとわたしの果てなくぬくぬくだらだらした時間と空間だったのよ、って。
いくつかのシーンでEmma Stoneの姿はそのままタペストリーのなかにはめ込まれているかのように見えた。女王はそういうのに囲われて食べて飲んで吐いて寝て暴れて、そのえんえん止まない繰り返しのなかにいるだけだった。
3人の女優のトライアングルは見事で、最後は結局だーれも幸せにはならなかった、かのようなどんよりしたところに取り残されてしまうのもおもしろい。なんで仲よく調和できなかったのだろう? て問うと全員自分以外を指さすの。
"Disobedience"と"Favourite"、並べてみるとおもしろいかも。不服従と服従と、どちらもレスビアンもの、どちらもRachel Weisz。(ここの間に”Colette”を置いてみると更にまた)
英国に来ていろんなお城とかなんとか宮殿とかを見る機会が増えて、あの中の冷たそうだったり建付け悪そうだったり暗すぎたり眩しすぎたり、全体として居住めんどうそうな、そういうかんじがきちんと描かれているのはよいと思った。
あと、音楽も含めた音のやかましさ、アタックの強さ。この作品だけではないけど、この人独特のかも。
本をあんなふうに放り投げるのはやめようね。
あのYorgos Lanthimosが撮った時代劇、ということでおもしろいかも、と思ったらやはりなんかおもしろかった。問答無用におもしろい、というよりなんか歪すぎてついじっと見入ってしまうかんじ。
18世紀初、フランスと戦争をしていた頃のイギリスにQueen Anne (Olivia Colman)がいて、政治とか統治にはあまり興味ないようで痛風でひーひー泣いたり喚いたりしながら飲んだり喰ったりアヒルのレースしたりうさぎ17匹飼ったり(いいなー)したい放題で、実際に政治のとこを仕切っているのは側近のSarah Churchill (Rachel Weisz)で、女王にはアメとムチを使い分けながら手懐けて調教してあれこれ掌握しきっている。
その宮殿に貧しい娘のAbigail Hill (Emma Stone) – Sarahのいとこで父親がばくちで破産 - が職を求めてやってきて、一番下層のメイドとして雇ってもらうのだが、炎症で痛んだ女王の脚を森から摘んできたハーブで治したらそれが女王の目に留まって、雑魚寝だったのが部屋を貰ってお気に入りとしてだんだんにのしあがっていく。
政治的なところで戦争も税金もぐいぐい攻めていくSarahと、その剛腕をなんとかしたい勢力 - Robert Harley (Nicholas Hoult) がAbigailに近づいていくのと、当然のことながらSarahとAbigailの”All About Eve”な確執と、そんなことよりあたしを見て構って遊んで、の女王の愛欲 - プラトニックだけじゃない - を勝ちとろうとするぐるぐる三つ巴の戦いがあって、ついにはお茶に毒を盛るようなところまで行って。
そういうお話しを歴史のうねりみたいなでっかい出来事に絡めて波しぶきどどーんてドラマチックに描いていくのではなく、お座敷・ちゃぶ台みたいな小さく閉じた場所でのちっちゃなささくれとか引っ掻き傷 - ちまちまお飯事として並べていって奇怪な宮廷変態絵巻 - 見方によってはじゅうぶんアートよ - として見せようとする。宮廷アートものとして”Orlando” (1992)あたりに近いかんじもあるけど、よく見れば随分ちがう。(今日BFIで、英国宮廷ドラマの古典 - “The Private Life of Henry VIII” (1933) - を見てきて、すごく面白かったのだが、これとの違いについても考えたい)
Yorgos Lanthimosの現代劇 – “The Lobster” (2015)や”The Killing of a Sacred Deer” (2017) - にあったしれっとした顔でとんでもないところに突き落とすような作劇はなくて、全てが先に書いたような壁で囲われた図書室とか寝室とかそういう密空間 - 壁にはタペストリーや肖像画や彫刻がごてごて並んでいる - で気がついたら起こっていて、登場する人相や出来事は既に壁の絵柄模様として予め仕込まれているかのような、そんな空間を作りこんでいる。 お気に入りはSarahというよりAbigailというより、この部屋に籠ったウサギとかも含めたあなたとわたしの果てなくぬくぬくだらだらした時間と空間だったのよ、って。
いくつかのシーンでEmma Stoneの姿はそのままタペストリーのなかにはめ込まれているかのように見えた。女王はそういうのに囲われて食べて飲んで吐いて寝て暴れて、そのえんえん止まない繰り返しのなかにいるだけだった。
3人の女優のトライアングルは見事で、最後は結局だーれも幸せにはならなかった、かのようなどんよりしたところに取り残されてしまうのもおもしろい。なんで仲よく調和できなかったのだろう? て問うと全員自分以外を指さすの。
"Disobedience"と"Favourite"、並べてみるとおもしろいかも。不服従と服従と、どちらもレスビアンもの、どちらもRachel Weisz。(ここの間に”Colette”を置いてみると更にまた)
英国に来ていろんなお城とかなんとか宮殿とかを見る機会が増えて、あの中の冷たそうだったり建付け悪そうだったり暗すぎたり眩しすぎたり、全体として居住めんどうそうな、そういうかんじがきちんと描かれているのはよいと思った。
あと、音楽も含めた音のやかましさ、アタックの強さ。この作品だけではないけど、この人独特のかも。
本をあんなふうに放り投げるのはやめようね。
1.04.2019
[film] Disobedience (2017)
12月18日、火曜日の晩にCurzonのSOHOで見ました。
“A Fantastic Woman” – “Una mujer fantástica”でアカデミーの外国語映画賞を受賞したSebastián Lelioが同じ年に続けて撮ったもの。
ロンドンの正統派ユダヤ教会で長老のラビが祈祷の途中に倒れて亡くなって、勘当された彼の娘Ronit (Rachel Weisz) - NYで写真家をしながらやや荒れた生活をしている - のところに連絡が飛んで、彼女はロンドンに帰国する。 幼馴染で教会では父の後継者でもあるDovid (Alessandro Nivola)の家は追悼一色で父の知り合い達が続々とやってくるのだが勘当されたRonitに対する皆の目は冷たくて、彼女の態度もそれがなにか? なのでぴりぴりで、そんな彼女にDovidは彼の家に滞在するようにいう。
Dovidのところには幼馴染のEsti (Rachel McAdams)が彼の妻となっていて、これもRonitには驚きで(なんであなたがこんなところに)、父の遺産整理(遺産は全て教会に寄付されることになっていて愕然)とか周囲の冷たい目とひきつり笑いに晒されてぐったりするRonitの向こう側で、EstiはEstiで小学校の教師をしながらラビの妻として規律に従って厳格に暮らしていくのに疲れていて、思い出の場所を訪ねたりしているうちにたまらなくなったふたりはー。
前作”A Fantastic Woman”にもあった社会のしきたりやいろんな眼が主人公の生きたい方(性のありよう)を見えるかたち見えないかたちで潰しにくる(それが近しいひとの突然の死をきっかけに現れる)、という構図はそのまま、というかユダヤ教コミュニティの中でそれはより熾烈で逃げ場がなくてとってもきつい。でも他方でRonitにはEstiがいて、幼い頃の楽しかった思い出を共有しているし、Estiは彼女を強く求めてくるのだが、でもやがてEstiは妊娠していることがわかってこの状態をずっと続けられないことも見えてきて。
もう一人、そんなふたりを見ていて悩み苦しむのがDovidで、尊敬していたRonitの父の後を継ぐという重責と宗教者としてふたりのああいう関係をどう見るべきなのか、そんなことよりもEstiの心が明らかに自分から離れていってしまうのも辛いし、とにかく全員がそれぞれの立場で迷って悩んできりきりと回転していく。出口はたぶんない。
そんな魂のありようがDisobedience – 不服従、不従順というやつで、その対象はいろいろで、そこには”A Fantastic Woman”がわたしはわたしなんだ、と開き直るかのように突き抜けてみせたポジティビティはない。でも。というか、この状態を維持して、信仰に近いところでこの状態をどこまでも生きてみる、というのも十分にありなのではないか。
音楽 - 主題歌はThe Cureの”Lovesong”で、一回はふたりがラジオをつけたときに、もう一回はエンドロールででっかく鳴り響く。時間があるひとは歌詞を読んでみてほしい。この曲で歌われていることが全て、それがこんなにも切なく的確に聴こえてくる映画はあっただろうか。The Cureの曲としてはちょっとおセンチすぎてあんま好きにはなれなかったのだが、この映画で印象変わったかも。
Rachel WeiszとRachel McAdamsって、ふたりとも似たかんじの冷たさと甘さ(と微妙な暗さ)が共存しているタイプだと思うのだが、両者のケミストリーは見事で、"Carol" (2015)のそれと同じくらい切ない余韻がずっと残る。特にラストシーンのところ。 ふたりとも突然弾けるような演技をする人たちではないだけに、相当真面目にいろいろ考えて議論しながら役と場面を作っていったんだろうな、と思って、そこだけでも十分見る価値はあるよ。
あと、舞台設定、ロンドンの湿った暗さとも絶妙に合っているかんじ。墓場のところとか。
“A Fantastic Woman” – “Una mujer fantástica”でアカデミーの外国語映画賞を受賞したSebastián Lelioが同じ年に続けて撮ったもの。
ロンドンの正統派ユダヤ教会で長老のラビが祈祷の途中に倒れて亡くなって、勘当された彼の娘Ronit (Rachel Weisz) - NYで写真家をしながらやや荒れた生活をしている - のところに連絡が飛んで、彼女はロンドンに帰国する。 幼馴染で教会では父の後継者でもあるDovid (Alessandro Nivola)の家は追悼一色で父の知り合い達が続々とやってくるのだが勘当されたRonitに対する皆の目は冷たくて、彼女の態度もそれがなにか? なのでぴりぴりで、そんな彼女にDovidは彼の家に滞在するようにいう。
Dovidのところには幼馴染のEsti (Rachel McAdams)が彼の妻となっていて、これもRonitには驚きで(なんであなたがこんなところに)、父の遺産整理(遺産は全て教会に寄付されることになっていて愕然)とか周囲の冷たい目とひきつり笑いに晒されてぐったりするRonitの向こう側で、EstiはEstiで小学校の教師をしながらラビの妻として規律に従って厳格に暮らしていくのに疲れていて、思い出の場所を訪ねたりしているうちにたまらなくなったふたりはー。
前作”A Fantastic Woman”にもあった社会のしきたりやいろんな眼が主人公の生きたい方(性のありよう)を見えるかたち見えないかたちで潰しにくる(それが近しいひとの突然の死をきっかけに現れる)、という構図はそのまま、というかユダヤ教コミュニティの中でそれはより熾烈で逃げ場がなくてとってもきつい。でも他方でRonitにはEstiがいて、幼い頃の楽しかった思い出を共有しているし、Estiは彼女を強く求めてくるのだが、でもやがてEstiは妊娠していることがわかってこの状態をずっと続けられないことも見えてきて。
もう一人、そんなふたりを見ていて悩み苦しむのがDovidで、尊敬していたRonitの父の後を継ぐという重責と宗教者としてふたりのああいう関係をどう見るべきなのか、そんなことよりもEstiの心が明らかに自分から離れていってしまうのも辛いし、とにかく全員がそれぞれの立場で迷って悩んできりきりと回転していく。出口はたぶんない。
そんな魂のありようがDisobedience – 不服従、不従順というやつで、その対象はいろいろで、そこには”A Fantastic Woman”がわたしはわたしなんだ、と開き直るかのように突き抜けてみせたポジティビティはない。でも。というか、この状態を維持して、信仰に近いところでこの状態をどこまでも生きてみる、というのも十分にありなのではないか。
音楽 - 主題歌はThe Cureの”Lovesong”で、一回はふたりがラジオをつけたときに、もう一回はエンドロールででっかく鳴り響く。時間があるひとは歌詞を読んでみてほしい。この曲で歌われていることが全て、それがこんなにも切なく的確に聴こえてくる映画はあっただろうか。The Cureの曲としてはちょっとおセンチすぎてあんま好きにはなれなかったのだが、この映画で印象変わったかも。
Rachel WeiszとRachel McAdamsって、ふたりとも似たかんじの冷たさと甘さ(と微妙な暗さ)が共存しているタイプだと思うのだが、両者のケミストリーは見事で、"Carol" (2015)のそれと同じくらい切ない余韻がずっと残る。特にラストシーンのところ。 ふたりとも突然弾けるような演技をする人たちではないだけに、相当真面目にいろいろ考えて議論しながら役と場面を作っていったんだろうな、と思って、そこだけでも十分見る価値はあるよ。
あと、舞台設定、ロンドンの湿った暗さとも絶妙に合っているかんじ。墓場のところとか。
1.03.2019
[film] Bird Box (2018)
こっちから先に。 31日の夕方、CurzonのAldgateで見ました。
Netflixすごいねえ、としか言いようがないけど、これもシアターで見たほうがぜったいいいやつだよ。
Malorie (Sandra Bullock)が小さな男の子と女の子に向かって、これから小さなボートで長い旅にでる、今から目隠しをするけど、どんなにきつくても辛くてもこれを外してはいけない、なにか感じたら言うように、でもぜったいに目隠しを外すな、外したら死ぬからね、わかった? 子供たちは頷いて、Malorie自身も目隠しをして、小鳥3羽を入れた小箱を抱えて、予め張ってある紐を伝ってボートのところに行って乗りこんで、川に漕ぎ出す、というのが冒頭。
そこから5年前のある日、妊娠しているMalorieは姉のJessica (Sarah Paulson)と病院に検診にいくのだがそこに向かう車のなかで、ロシアや東欧で原因不明の集団自殺が報告されている、という奇妙なニュースを聞く。 医師とのやりとりの後で、そこに向かう前は携帯でふつうに話をしていた若い女性がガラスにがんがん頭をぶっつけて血まみれになっているのを見て、なんかおかしい、と慌てて車に乗り込んで帰ろうとするのだが、街中には同様のパニックを起こしてぐさぐさの人々で溢れていて、運転しているJessicaも突然様子がおかしくなって泣きながら車ごと突っ込んで死んじゃって、助手席から這いだしたMalorieはその傍にあった家から呼ぶ声の方に逃げて扉のなかに匿われる(Malonieを招き入れた女性はそのまま燃える車のなかに入っていって死んでしまう)。
家にはパニックから逃れてきた男女7人くらい - Douglas (John Malkovich) とかTom (Trevante Rhodes)とかがいて、窓ガラスを黒で目張りして、これまでにわかった情報から対策を立てたりしていて、ここを中心とした住民間のあれこれとサバイバル - 食料がなくなったのでガラスを黒塗りした車でGPSだけを頼りにスーパーマーケットに行ったり - 新たに助けを求めてきた人をやむなく中に入れたり - が中心になるのだが、見たらいきなり死にたくなってしまう「それ」の正体と対策はどこまでもわからないまま。
これとボートで川を下っているMalorieの10数時間後、20数時間後、40数時間後の姿と、最初に遡った5年前の時点からMalonieと子供ふたり(だけ)がボートに乗り込むことになるまでが交互に描かれて、果たして目隠しした彼女たちは無線で入ってくる声だけを頼りに安息の地にたどり着くことができるのか。
体裁としては、音をたてたら死んじゃう”A Quiet Place” (2018)や、噛まれたら死ぬしかないゾンビものと同じく、それが目に映ったら死んじゃう(デジタルイメージでもだめ)、人類のほとんどが死に絶えてしまった荒野でどうやって「それ」から逃げるのか、生き延びるのか、が中心にあるのだが、この作品のそれが嫌なのは、その正体はそれを見たひとにしかわからない、それを見た途端にそのひとは瞳が濁って自殺しちゃうので一切がほぼ共有されない、そういう見通しのきかない意地の悪さがあること。
そしてふと、これって集団というかたちを取らないひとりの自殺だってそういうものではないかしら? とかね。
ただならぬ事態に遭遇したときのSandra Bullockのすごさ - 最初の動転ぶりと自分ひとりでなんとかするしかないと腹を括ったときの強さときたら”Speed” (1994)でも”Gravity” (2013)でも十分わかっているつもりだったが、ここでの彼女は最強すぎる。 こういう終末ものを見ていていつも感じる - そんなに無理して生き延びようとしなくても、死んじゃったほうが楽じゃないの? は、彼女を見れば吹き飛んでしまうだろう。目的も意味もほっとけ、とにかく生きるんだ、って。 そしてそのタイトルときたら、”Bird Box”なんだから。
家に立て籠もる住民たちのそれぞれにクセがあって均等にバラけたとこもいいねえ。
“Patti Cake$” (2017)のDanielle Macdonaldさんとか。
Trent ReznorとAtticus Rossの音がこういう情景にどハマりなのは言うまでもない。
Atticus Rossはpost-apocalypticモノの”The Book of Eli” (2010)でも音楽をやっていたけど、どこかしら力の入りようが違うかんじ。 網膜を直撃してくる「それ」を表すのに鼓膜をやさしくヤスリで引っ掻いてきて、気づいたときにはもう遅くて耳からなんかが… この音を聴くためだけにシアターに行く価値あるよ。
原作は読んでいないけど、続きあるのかしら?
Netflixすごいねえ、としか言いようがないけど、これもシアターで見たほうがぜったいいいやつだよ。
Malorie (Sandra Bullock)が小さな男の子と女の子に向かって、これから小さなボートで長い旅にでる、今から目隠しをするけど、どんなにきつくても辛くてもこれを外してはいけない、なにか感じたら言うように、でもぜったいに目隠しを外すな、外したら死ぬからね、わかった? 子供たちは頷いて、Malorie自身も目隠しをして、小鳥3羽を入れた小箱を抱えて、予め張ってある紐を伝ってボートのところに行って乗りこんで、川に漕ぎ出す、というのが冒頭。
そこから5年前のある日、妊娠しているMalorieは姉のJessica (Sarah Paulson)と病院に検診にいくのだがそこに向かう車のなかで、ロシアや東欧で原因不明の集団自殺が報告されている、という奇妙なニュースを聞く。 医師とのやりとりの後で、そこに向かう前は携帯でふつうに話をしていた若い女性がガラスにがんがん頭をぶっつけて血まみれになっているのを見て、なんかおかしい、と慌てて車に乗り込んで帰ろうとするのだが、街中には同様のパニックを起こしてぐさぐさの人々で溢れていて、運転しているJessicaも突然様子がおかしくなって泣きながら車ごと突っ込んで死んじゃって、助手席から這いだしたMalorieはその傍にあった家から呼ぶ声の方に逃げて扉のなかに匿われる(Malonieを招き入れた女性はそのまま燃える車のなかに入っていって死んでしまう)。
家にはパニックから逃れてきた男女7人くらい - Douglas (John Malkovich) とかTom (Trevante Rhodes)とかがいて、窓ガラスを黒で目張りして、これまでにわかった情報から対策を立てたりしていて、ここを中心とした住民間のあれこれとサバイバル - 食料がなくなったのでガラスを黒塗りした車でGPSだけを頼りにスーパーマーケットに行ったり - 新たに助けを求めてきた人をやむなく中に入れたり - が中心になるのだが、見たらいきなり死にたくなってしまう「それ」の正体と対策はどこまでもわからないまま。
これとボートで川を下っているMalorieの10数時間後、20数時間後、40数時間後の姿と、最初に遡った5年前の時点からMalonieと子供ふたり(だけ)がボートに乗り込むことになるまでが交互に描かれて、果たして目隠しした彼女たちは無線で入ってくる声だけを頼りに安息の地にたどり着くことができるのか。
体裁としては、音をたてたら死んじゃう”A Quiet Place” (2018)や、噛まれたら死ぬしかないゾンビものと同じく、それが目に映ったら死んじゃう(デジタルイメージでもだめ)、人類のほとんどが死に絶えてしまった荒野でどうやって「それ」から逃げるのか、生き延びるのか、が中心にあるのだが、この作品のそれが嫌なのは、その正体はそれを見たひとにしかわからない、それを見た途端にそのひとは瞳が濁って自殺しちゃうので一切がほぼ共有されない、そういう見通しのきかない意地の悪さがあること。
そしてふと、これって集団というかたちを取らないひとりの自殺だってそういうものではないかしら? とかね。
ただならぬ事態に遭遇したときのSandra Bullockのすごさ - 最初の動転ぶりと自分ひとりでなんとかするしかないと腹を括ったときの強さときたら”Speed” (1994)でも”Gravity” (2013)でも十分わかっているつもりだったが、ここでの彼女は最強すぎる。 こういう終末ものを見ていていつも感じる - そんなに無理して生き延びようとしなくても、死んじゃったほうが楽じゃないの? は、彼女を見れば吹き飛んでしまうだろう。目的も意味もほっとけ、とにかく生きるんだ、って。 そしてそのタイトルときたら、”Bird Box”なんだから。
家に立て籠もる住民たちのそれぞれにクセがあって均等にバラけたとこもいいねえ。
“Patti Cake$” (2017)のDanielle Macdonaldさんとか。
Trent ReznorとAtticus Rossの音がこういう情景にどハマりなのは言うまでもない。
Atticus Rossはpost-apocalypticモノの”The Book of Eli” (2010)でも音楽をやっていたけど、どこかしら力の入りようが違うかんじ。 網膜を直撃してくる「それ」を表すのに鼓膜をやさしくヤスリで引っ掻いてきて、気づいたときにはもう遅くて耳からなんかが… この音を聴くためだけにシアターに行く価値あるよ。
原作は読んでいないけど、続きあるのかしら?
1.02.2019
[film] Mary Poppins Returns (2018)
昨年見たやつでまだ書いていないのから書いていきます。
あ、今年最初にシアターで見たのは、1日の晩、BFIで”The Ghost Goes West” (1935)でした。 René Clairだいすき。
1月から始まった特集 - ”The Golden Age of Alexander Korda: Britain’s Movie Mogul”からので、ここで他に始まった特集は、”Stan & Ollie”の公開にあわせた”Laurel and Hardy”と”Michelangelo Antonioni: Confronting the Modern World with Style”。 Antonioniはこの機会に押さえておきたいところだけど、どこまでいけるかしら。
見たのはクリスマス、25日の晩で、この日は朝からいちんち、地下鉄もバスも動いていないのをすっかり忘れてチケットを取ってて、もちろんタクシーやUberで行けないことはないのだが癪なので歩いていった。 場所はLondon Leicester Square - ODEON Luxe、ていう町のまんなかの、London Film Festivalとかのイベントではレッドカーペットが敷かれるメイン会場になるとこで、でもここ半年くらい改装で閉じてて、この作品で再オープンしたの。 でもそしたら途端に1階のいい席が£40.75とか£35.75とかの料金設定になっててふざけんじゃねえ、ってみんなから顰蹙を買っている。
ここの席のなにがすごいかというと座席が電動でリクライニングするようになってテーブルとかが付いてて、その程度で、このリクライニングって他のOdeonで試したけど、寝ちゃうのよ。いらない。
あと音はDolby Theater仕様でさすがに極上で、でも料金を普通の(£16くらい)にすると2階の遠くになっちゃうのでなんか半端で微妙だなー。
前作 - “Mary Poppins” (1964)から54年を経た続きもので、舞台設定は1910年のロンドンから1935年のロンドンに移っていて、その段差があまりにでっかいので前作を見ていなくてもだいじょうぶかも。自分も見ていないけどなんとかなった。でも見ていたほうが楽しめそうなとこもあることはある。
Michael Banks (Ben Whishaw)は生まれ育った家に3人の子供たちと暮らしていて、妻は1年前に亡くなってたまにべそかいてて、メイドのEllen (Julie Walters)と妹のJane (Emily Mortimer)に助けられていて、家事に子育てに借金で首がまわらなくて、銀行からはローンの支払いを金曜の深夜までにしないと差し押さえるからな、って使いが来て、そういえばMichaelの父は銀行のシェアを持っていたはずで、その証書が見つかれば借金返せるはず、なのだが探しても探しても見つからない。
そういうパパの心配はよそに子供たちは元気いっぱい、自転車でガス灯を点けてまわるべらんめえのJack (Lin-Manuel Miranda)とロンドンの街や公園を歌って走り回っている。
で、そうやって探し物をするパパの片付けゴミの凧で遊んでいたら凧が空の彼方に一瞬消えて、Mary Poppins (Emily Blunt)がそこにひっついて現れる。(ここの凧のとこ、カメラがなかなか面白い動きをしておお!になる。ほぼここだけだけど)
幼い頃に彼女にnannyしてもらったMichaelとJaneは今頃なにしに来た? ってびっくりするのだが子供たちは大喜びで、Mary Poppinsからすれば借金と将来のことで暗くなってめそめそしているMichaelとそれが子供たちに及ぼす影響が少し気になっていて。
ここから先はいいよね。 彼女が魔法を使って子供たちを幻惑していくのと、やがてそれが...
ディズニーのミュージカルだし、監督はRob Marshallなのでこてこてのど真ん中で安心して見ていられる。
このノリでパパの借金問題もあーら不思議の魔法で一挙に片付けてくれるかと思ったけど、そこら辺をあんま手伝ってくれないのは、今の時代だから自分でがんばれ(大人だろ)、てことなのかしら。
Meryl Streepがただの怪しいおばさんにしか見えなかったり細かいとこでいろいろあるけど、子供がわあ! ってなればそれでいい映画、ということであれば、これはこれでよいのかも。
Emily Bluntが歌も含めて堂々としていて、その反対側でしおしおのダメパパ- Ben Whishawのコントラストがあって、その繋ぎに近所の魚屋みたいなLin-Manuel Mirandaがいて、ファミリードラマの幹はちゃんとあるのと、こないだのパディントン(熊映画)もそうだったけど、全体にロンドン地域愛に溢れかえっていて、それらを王道のミュージカルナンバーが洗濯機のようにかき混ぜてくれる。
後年Brexit映画にカテゴライズされてしまうかも、だけど。
クリスマスにはよかったかも。 拍手ぱちぱち、だったし。
Fantastic Beastsのシリーズに必要なのはMary Poppinsなのよね。
TVのSkyのチャンネルで”The Story of the Jam: About the Young Idea”てやってる。 最高だわ。
あ、今年最初にシアターで見たのは、1日の晩、BFIで”The Ghost Goes West” (1935)でした。 René Clairだいすき。
1月から始まった特集 - ”The Golden Age of Alexander Korda: Britain’s Movie Mogul”からので、ここで他に始まった特集は、”Stan & Ollie”の公開にあわせた”Laurel and Hardy”と”Michelangelo Antonioni: Confronting the Modern World with Style”。 Antonioniはこの機会に押さえておきたいところだけど、どこまでいけるかしら。
見たのはクリスマス、25日の晩で、この日は朝からいちんち、地下鉄もバスも動いていないのをすっかり忘れてチケットを取ってて、もちろんタクシーやUberで行けないことはないのだが癪なので歩いていった。 場所はLondon Leicester Square - ODEON Luxe、ていう町のまんなかの、London Film Festivalとかのイベントではレッドカーペットが敷かれるメイン会場になるとこで、でもここ半年くらい改装で閉じてて、この作品で再オープンしたの。 でもそしたら途端に1階のいい席が£40.75とか£35.75とかの料金設定になっててふざけんじゃねえ、ってみんなから顰蹙を買っている。
ここの席のなにがすごいかというと座席が電動でリクライニングするようになってテーブルとかが付いてて、その程度で、このリクライニングって他のOdeonで試したけど、寝ちゃうのよ。いらない。
あと音はDolby Theater仕様でさすがに極上で、でも料金を普通の(£16くらい)にすると2階の遠くになっちゃうのでなんか半端で微妙だなー。
前作 - “Mary Poppins” (1964)から54年を経た続きもので、舞台設定は1910年のロンドンから1935年のロンドンに移っていて、その段差があまりにでっかいので前作を見ていなくてもだいじょうぶかも。自分も見ていないけどなんとかなった。でも見ていたほうが楽しめそうなとこもあることはある。
Michael Banks (Ben Whishaw)は生まれ育った家に3人の子供たちと暮らしていて、妻は1年前に亡くなってたまにべそかいてて、メイドのEllen (Julie Walters)と妹のJane (Emily Mortimer)に助けられていて、家事に子育てに借金で首がまわらなくて、銀行からはローンの支払いを金曜の深夜までにしないと差し押さえるからな、って使いが来て、そういえばMichaelの父は銀行のシェアを持っていたはずで、その証書が見つかれば借金返せるはず、なのだが探しても探しても見つからない。
そういうパパの心配はよそに子供たちは元気いっぱい、自転車でガス灯を点けてまわるべらんめえのJack (Lin-Manuel Miranda)とロンドンの街や公園を歌って走り回っている。
で、そうやって探し物をするパパの片付けゴミの凧で遊んでいたら凧が空の彼方に一瞬消えて、Mary Poppins (Emily Blunt)がそこにひっついて現れる。(ここの凧のとこ、カメラがなかなか面白い動きをしておお!になる。ほぼここだけだけど)
幼い頃に彼女にnannyしてもらったMichaelとJaneは今頃なにしに来た? ってびっくりするのだが子供たちは大喜びで、Mary Poppinsからすれば借金と将来のことで暗くなってめそめそしているMichaelとそれが子供たちに及ぼす影響が少し気になっていて。
ここから先はいいよね。 彼女が魔法を使って子供たちを幻惑していくのと、やがてそれが...
ディズニーのミュージカルだし、監督はRob Marshallなのでこてこてのど真ん中で安心して見ていられる。
このノリでパパの借金問題もあーら不思議の魔法で一挙に片付けてくれるかと思ったけど、そこら辺をあんま手伝ってくれないのは、今の時代だから自分でがんばれ(大人だろ)、てことなのかしら。
Meryl Streepがただの怪しいおばさんにしか見えなかったり細かいとこでいろいろあるけど、子供がわあ! ってなればそれでいい映画、ということであれば、これはこれでよいのかも。
Emily Bluntが歌も含めて堂々としていて、その反対側でしおしおのダメパパ- Ben Whishawのコントラストがあって、その繋ぎに近所の魚屋みたいなLin-Manuel Mirandaがいて、ファミリードラマの幹はちゃんとあるのと、こないだのパディントン(熊映画)もそうだったけど、全体にロンドン地域愛に溢れかえっていて、それらを王道のミュージカルナンバーが洗濯機のようにかき混ぜてくれる。
後年Brexit映画にカテゴライズされてしまうかも、だけど。
クリスマスにはよかったかも。 拍手ぱちぱち、だったし。
Fantastic Beastsのシリーズに必要なのはMary Poppinsなのよね。
TVのSkyのチャンネルで”The Story of the Jam: About the Young Idea”てやってる。 最高だわ。
1.01.2019
[log] Best before 2018
新年あけましておめでとうございます。
2018年最後に見た映画は、既に書いたようにCurzonのAldgateでの”Bird Box” (2018)でした。
2019年最初に聴いたレコードは昨年再発されたThe Fallの”I Am Kurious Oranj”のA面を。だいすき。
New Yearの川べりの花火は今年も行かず、でも昨年よか派手で、窓からは遠くの3方向でやっているのが見えた。
BBCでは花火の中継に続けてMadnessの年越しライブを流していて、だから今年最初に聴いたのは彼らの”It Must Be Love” でしたの。
そのまま最初にTVで見た映画は”The Blues Brothers” (1980) のAretha - John Lee Hooker - Ray Charles のとこ、ああみんな死んじゃったなあ、って。寝て起きてからは”The Sound of Music” (1965) とか “Funny Face” (1957)とか、元旦のTVはこういうクラシックをがんがん流してくれるとこがうれしい。
2018年、映画館で見た映画はぜんぶで、297本あった。
『いくらなんでも見過ぎだと思うので、今年は少し抑えて』と昨年は書いたのだったが、なんか会社の後にジム行ったりランしたりしないと気持ち悪くなる、ていう変な人とかいるでしょ、あれと同じかな、と思って。 他方で、本読む時間がなくなってしまった。
アート関係の展示・展覧会は、まだイタリアのをちゃんと数えていないのだが、だいたい190くらい、音楽のライブは50本も行けた。
[film] - 新作 20 - 見た順(上が古い)
◼︎ Phantom Thread
◼︎ You Were Never Been Here
◼︎ Wonderstruck
◼︎ Blockers
◼︎ Jeune Femme
◼︎ The Tale
◼︎ The Miseducation of Cameron Post
◼︎ Les fantômes d'Ismaël - Ismael's Ghosts
◼︎ Zama
◼︎ Eighth Grade
◼︎ Summer 1993
◼︎ Leave No Trace
◼︎ First Reformed
◼︎ Cold War
◼︎ Can You Ever Forgive Me?
◼︎ Doubles vies - Double Lives - Non-Fiction
◼︎ Juliet, Naked
◼︎ Wildlife
◼︎ Suspiria
◼︎ Roma
まだ”The Favourite”も”If Beale Street Could Talk”も見れていない。
リストにはあんま反映されていないけど、コメディにほんと面白いのが多かったの、よ。
[film] - Documentary 10 (新設)- 見た順
◼︎ Nothing Like A Dame
◼︎ That Summer
◼︎ The King
◼︎ Visages Villages - Faces Places
◼︎ Nureyev
◼︎ Love, Gilda
◼︎ Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché
◼︎ Monrovia, Indiana
◼︎ Garry Winogrand: All Things are Photographable
◼︎ RBG
ドキュメンタリーって、過去の人とか出来事とかを追っていても、それが出てくる傾向には今の世界のありようが確実に反映されているんだなあ、だから見たほうがいいなーって(今頃気づく)。
[film] - 旧作 20 - 見た順
◼︎ Sommarnattens leende (1955) - Smiles of a Summer Night
◼︎ Fucking Åmål (1998) - Show Me Love
◼︎ Me Without You (2001)
◼︎ Girlfriends (1978)
◼︎ Walking and Talking (1996)
◼︎ Girl with Green Eyes (1964)
◼︎ The Lusty Men (1952)
◼︎ Crossing Delancey (1988)
◼︎ River's Edge (1986)
◼︎ Private Hell 36 (1954)
◼︎ Sans toit ni loi (1985) - Vagabond
◼︎ La balia (1999) - The Nanny
◼︎ Laurence Olivier Presents: The Collection (1976) + The Lover (1963)
◼︎ The Go-Between (1971)
◼︎ Possessed (1947)
◼︎ Morvern Caller (2002)
◼︎ L'Hirondelle et la Mésange (The Swallow and the Titmouse) (1920)
◼︎ Dragonwyck (1946)
◼︎ A New Leaf (1971)
◼︎ Mickey (1918)
BFIの特集では、Ingmar Bergman、”Girlfriends”、”Lost in America: The Other Side of Reagan’s 80s”、“Ida Lupino: Actor, Director, Writer, Producer, Star”、“Fierce: The Untameable Joan Crawford”、Curzonの特集では”Agnès Varda: Gleaning Truths”、どれもすばらしかった。
[art] best 25 - 20ではぜんぜん足らなかった。 これも見た順で。
◼︎ Tove Jansson (1914-2001) @Dulwich Picture Gallery
◼︎ William Blake in Sussex: Visions of Albion @Petworth House and Park
◼︎ All Too Human: Bacon, Freud and a Century of Painting Life @Tate Britain
◼︎ Another Kind of Life: Photography on the Margins @Barbican
◼︎ Birds of a Feather: Joseph Cornell's Homage to Juan Gris @Metropolitan Museum of Art
◼︎ Before the Fall: German and Austrian Art of the 1930s @Neue Galerie New York
◼︎ Tacita Dean: PORTRAIT @National Portrait Gallery
◼︎ Delacroix (1798–1863) @Louvre Museum
◼︎ Corot, the painter and his models @Musée Marmottan Monet
◼︎ Âmes sauvages. Le symbolisme dans les pays baltes @Musée d'Orsay
◼︎ Exposition Chris Marker, les 7 vies d'un cinéaste @La Cinémathèque française
◼︎ Howard Hodgkin: Last Paintings @Gagosian: Grosvenor Hill
◼︎ Killed Negatives: Unseen Images of 1930s America @Whitechapel Gallery
◼︎ Rodin and the art of ancient Greece @British Museum
◼︎ Rip It Up: The Story of Scottish Pop @National Museums Scotland
◼︎ Dorothea Lange: Politics of Seeing @Barbican Centre
◼︎ The Great British Seaside @National Maritime Museum
◼︎ It’s Alive! Frankenstein at 200 @The Morgan Library & Museum
◼︎ Franz Marc and August Macke: 1909–1914 @Neue Galerie New York
◼︎ Anni Albers @Tate Modern
◼︎ Modern Couples: Art, Intimacy and the Avant-garde @Barbican
◼︎ Picasso: Bleu et rose @Musée d'Orsay
◼︎ Roman Vishniac Rediscovered @The Photographers' Gallery
◼︎ Marina Abramović. The Cleaner @Palazzo Strozzi
◼︎ Sarah Moon: From One Season to Another @Armani / Silos
美術館のコレクションのはきりがなくなるので外した。 マドリッドの3つ、オランダのMauritshuisにRijksmuseum、イタリアのUffizi Gallery、ダ・ヴィンチの「白貂」(クラクフ)、「最後の晩餐」(ミラノ)、どいつもこいつもとんでもなかったことは言うまでも。
[music - Live]
◼︎ Apr 30 Alessandro Cortini @Milton Court Concert Hall
◼︎ May 2 Goat Girl @The Garage
◼︎ May 11 Sounds and Visions: Max Richter: Infra @Barbican
◼︎ Jun 5 The The @Royal Albert Hall
◼︎ Jun 9 Microdisney @Barbican
◼︎ Jun 20 Low @Queen Elizabeth Hall
◼︎ Jun 24 Nine Inch Nails @ Royal Albert Hall
◼︎ Aug 17 Pere Ubu @(le) poisson rouge
◼︎ Sep 4 St Vincent (with Thomas Bartlett) @Cadgan Hall
◼︎ Sep 30 Soft Cell @The O2 Arena
◼︎ Oct 13 Nine Inch Nails @Radio City Music Hall
◼︎ Oct 31 The Dresden Dolls @Troy
◼︎ Nov 11 Alison Statton, Stuart Moxham and Spike @Cafe OTO
◼︎ Nov 12 MC50 @O2 Shepherd's Bush Empire
10には収められなかったのでどうしてもこれくらいは。
[new records]
◼︎ Courtney Barnett “Tell Me How You Really Feel”
◼︎ Superchunk “What a Time to Be Alive”
◼︎ Arctic Monkeys “Tranquility Base Hotel & Casino”
◼︎ Nine Inch Nails “Bad Witch”
◼︎ Low “Double Negative”
◼︎ Snail Mail “Lush”
◼︎ Waxahatchee “Great Thunder EP”
◼︎ St. Vincent “MassEducation”
◼︎ Swearin' “Fall into the Sun”
これくらいしか聴けていない。
やっぱしApple Music入ったほうがいいのかなあ(て、まだ言ってる)。
[reissues]
◼︎ Bikini Kill “The Singles”
◼︎ Liz Phair “Girly-Sound to Guyville: The 25th Anniversary Box Set”
◼︎ The Fall “I Am Kurious Oranj”
◼︎ Wireの最初の3枚
◼︎ Feltの最初の5枚
まだ英国には来ていないようだが、The Spinanesの”Manos”はここに確実に入る。
[theater & ballet & talk]
◼︎ Feb 22 Long Day's Journey into Night (Jeremy Irons + Lesley Manville) @Wyndhams Theatre
◼︎ Feb 24 Liberté (by Albert Serra) (Ingrid Caven, Helmut Berger) @Volksbühne Berlin
◼︎ Mar 23 Brian Eno: Music for Installations @British Library
◼︎ Mar 27 Bernstein Centenary: Yugen, The Age of Anxiety, Corybantic Games @Royal Opera House
◼︎ Jun 4 My Name is Lucy Barton @Bridge Theater
◼︎ Jun 12 Swan Lake (Marianela Nuñez & Vadim Muntagirov) @Rotal Opera House
◼︎ Nov 14 Tracey Ullman on Ullman @BFI Southbank
◼︎ Dec 10 Roxane Gay in Conversation @Royal Festival Hall
◼︎ Dec 20 Summer and Smoke @Duke Of York's Theatre
◼︎ Dec 22 La Dame aux camélias @Palais Garnier
ダンスと演劇は、もっと見ていったほうがいいかも、になってきた。でもチケット高いのよね。
シェイクスピアもそろそろ手をつけないとね。
新年の抱負は、昨年とほぼ同じだけど、とにかくお片づけしないと。
今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
(集計、すごく時間かかってぐったり。やりかた少し考えないと)
2018年最後に見た映画は、既に書いたようにCurzonのAldgateでの”Bird Box” (2018)でした。
2019年最初に聴いたレコードは昨年再発されたThe Fallの”I Am Kurious Oranj”のA面を。だいすき。
New Yearの川べりの花火は今年も行かず、でも昨年よか派手で、窓からは遠くの3方向でやっているのが見えた。
BBCでは花火の中継に続けてMadnessの年越しライブを流していて、だから今年最初に聴いたのは彼らの”It Must Be Love” でしたの。
そのまま最初にTVで見た映画は”The Blues Brothers” (1980) のAretha - John Lee Hooker - Ray Charles のとこ、ああみんな死んじゃったなあ、って。寝て起きてからは”The Sound of Music” (1965) とか “Funny Face” (1957)とか、元旦のTVはこういうクラシックをがんがん流してくれるとこがうれしい。
2018年、映画館で見た映画はぜんぶで、297本あった。
『いくらなんでも見過ぎだと思うので、今年は少し抑えて』と昨年は書いたのだったが、なんか会社の後にジム行ったりランしたりしないと気持ち悪くなる、ていう変な人とかいるでしょ、あれと同じかな、と思って。 他方で、本読む時間がなくなってしまった。
アート関係の展示・展覧会は、まだイタリアのをちゃんと数えていないのだが、だいたい190くらい、音楽のライブは50本も行けた。
[film] - 新作 20 - 見た順(上が古い)
◼︎ Phantom Thread
◼︎ You Were Never Been Here
◼︎ Wonderstruck
◼︎ Blockers
◼︎ Jeune Femme
◼︎ The Tale
◼︎ The Miseducation of Cameron Post
◼︎ Les fantômes d'Ismaël - Ismael's Ghosts
◼︎ Zama
◼︎ Eighth Grade
◼︎ Summer 1993
◼︎ Leave No Trace
◼︎ First Reformed
◼︎ Cold War
◼︎ Can You Ever Forgive Me?
◼︎ Doubles vies - Double Lives - Non-Fiction
◼︎ Juliet, Naked
◼︎ Wildlife
◼︎ Suspiria
◼︎ Roma
まだ”The Favourite”も”If Beale Street Could Talk”も見れていない。
リストにはあんま反映されていないけど、コメディにほんと面白いのが多かったの、よ。
[film] - Documentary 10 (新設)- 見た順
◼︎ Nothing Like A Dame
◼︎ That Summer
◼︎ The King
◼︎ Visages Villages - Faces Places
◼︎ Nureyev
◼︎ Love, Gilda
◼︎ Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché
◼︎ Monrovia, Indiana
◼︎ Garry Winogrand: All Things are Photographable
◼︎ RBG
ドキュメンタリーって、過去の人とか出来事とかを追っていても、それが出てくる傾向には今の世界のありようが確実に反映されているんだなあ、だから見たほうがいいなーって(今頃気づく)。
[film] - 旧作 20 - 見た順
◼︎ Sommarnattens leende (1955) - Smiles of a Summer Night
◼︎ Fucking Åmål (1998) - Show Me Love
◼︎ Me Without You (2001)
◼︎ Girlfriends (1978)
◼︎ Walking and Talking (1996)
◼︎ Girl with Green Eyes (1964)
◼︎ The Lusty Men (1952)
◼︎ Crossing Delancey (1988)
◼︎ River's Edge (1986)
◼︎ Private Hell 36 (1954)
◼︎ Sans toit ni loi (1985) - Vagabond
◼︎ La balia (1999) - The Nanny
◼︎ Laurence Olivier Presents: The Collection (1976) + The Lover (1963)
◼︎ The Go-Between (1971)
◼︎ Possessed (1947)
◼︎ Morvern Caller (2002)
◼︎ L'Hirondelle et la Mésange (The Swallow and the Titmouse) (1920)
◼︎ Dragonwyck (1946)
◼︎ A New Leaf (1971)
◼︎ Mickey (1918)
BFIの特集では、Ingmar Bergman、”Girlfriends”、”Lost in America: The Other Side of Reagan’s 80s”、“Ida Lupino: Actor, Director, Writer, Producer, Star”、“Fierce: The Untameable Joan Crawford”、Curzonの特集では”Agnès Varda: Gleaning Truths”、どれもすばらしかった。
[art] best 25 - 20ではぜんぜん足らなかった。 これも見た順で。
◼︎ Tove Jansson (1914-2001) @Dulwich Picture Gallery
◼︎ William Blake in Sussex: Visions of Albion @Petworth House and Park
◼︎ All Too Human: Bacon, Freud and a Century of Painting Life @Tate Britain
◼︎ Another Kind of Life: Photography on the Margins @Barbican
◼︎ Birds of a Feather: Joseph Cornell's Homage to Juan Gris @Metropolitan Museum of Art
◼︎ Before the Fall: German and Austrian Art of the 1930s @Neue Galerie New York
◼︎ Tacita Dean: PORTRAIT @National Portrait Gallery
◼︎ Delacroix (1798–1863) @Louvre Museum
◼︎ Corot, the painter and his models @Musée Marmottan Monet
◼︎ Âmes sauvages. Le symbolisme dans les pays baltes @Musée d'Orsay
◼︎ Exposition Chris Marker, les 7 vies d'un cinéaste @La Cinémathèque française
◼︎ Howard Hodgkin: Last Paintings @Gagosian: Grosvenor Hill
◼︎ Killed Negatives: Unseen Images of 1930s America @Whitechapel Gallery
◼︎ Rodin and the art of ancient Greece @British Museum
◼︎ Rip It Up: The Story of Scottish Pop @National Museums Scotland
◼︎ Dorothea Lange: Politics of Seeing @Barbican Centre
◼︎ The Great British Seaside @National Maritime Museum
◼︎ It’s Alive! Frankenstein at 200 @The Morgan Library & Museum
◼︎ Franz Marc and August Macke: 1909–1914 @Neue Galerie New York
◼︎ Anni Albers @Tate Modern
◼︎ Modern Couples: Art, Intimacy and the Avant-garde @Barbican
◼︎ Picasso: Bleu et rose @Musée d'Orsay
◼︎ Roman Vishniac Rediscovered @The Photographers' Gallery
◼︎ Marina Abramović. The Cleaner @Palazzo Strozzi
◼︎ Sarah Moon: From One Season to Another @Armani / Silos
美術館のコレクションのはきりがなくなるので外した。 マドリッドの3つ、オランダのMauritshuisにRijksmuseum、イタリアのUffizi Gallery、ダ・ヴィンチの「白貂」(クラクフ)、「最後の晩餐」(ミラノ)、どいつもこいつもとんでもなかったことは言うまでも。
[music - Live]
◼︎ Apr 30 Alessandro Cortini @Milton Court Concert Hall
◼︎ May 2 Goat Girl @The Garage
◼︎ May 11 Sounds and Visions: Max Richter: Infra @Barbican
◼︎ Jun 5 The The @Royal Albert Hall
◼︎ Jun 9 Microdisney @Barbican
◼︎ Jun 20 Low @Queen Elizabeth Hall
◼︎ Jun 24 Nine Inch Nails @ Royal Albert Hall
◼︎ Aug 17 Pere Ubu @(le) poisson rouge
◼︎ Sep 4 St Vincent (with Thomas Bartlett) @Cadgan Hall
◼︎ Sep 30 Soft Cell @The O2 Arena
◼︎ Oct 13 Nine Inch Nails @Radio City Music Hall
◼︎ Oct 31 The Dresden Dolls @Troy
◼︎ Nov 11 Alison Statton, Stuart Moxham and Spike @Cafe OTO
◼︎ Nov 12 MC50 @O2 Shepherd's Bush Empire
10には収められなかったのでどうしてもこれくらいは。
[new records]
◼︎ Courtney Barnett “Tell Me How You Really Feel”
◼︎ Superchunk “What a Time to Be Alive”
◼︎ Arctic Monkeys “Tranquility Base Hotel & Casino”
◼︎ Nine Inch Nails “Bad Witch”
◼︎ Low “Double Negative”
◼︎ Snail Mail “Lush”
◼︎ Waxahatchee “Great Thunder EP”
◼︎ St. Vincent “MassEducation”
◼︎ Swearin' “Fall into the Sun”
これくらいしか聴けていない。
やっぱしApple Music入ったほうがいいのかなあ(て、まだ言ってる)。
[reissues]
◼︎ Bikini Kill “The Singles”
◼︎ Liz Phair “Girly-Sound to Guyville: The 25th Anniversary Box Set”
◼︎ The Fall “I Am Kurious Oranj”
◼︎ Wireの最初の3枚
◼︎ Feltの最初の5枚
まだ英国には来ていないようだが、The Spinanesの”Manos”はここに確実に入る。
[theater & ballet & talk]
◼︎ Feb 22 Long Day's Journey into Night (Jeremy Irons + Lesley Manville) @Wyndhams Theatre
◼︎ Feb 24 Liberté (by Albert Serra) (Ingrid Caven, Helmut Berger) @Volksbühne Berlin
◼︎ Mar 23 Brian Eno: Music for Installations @British Library
◼︎ Mar 27 Bernstein Centenary: Yugen, The Age of Anxiety, Corybantic Games @Royal Opera House
◼︎ Jun 4 My Name is Lucy Barton @Bridge Theater
◼︎ Jun 12 Swan Lake (Marianela Nuñez & Vadim Muntagirov) @Rotal Opera House
◼︎ Nov 14 Tracey Ullman on Ullman @BFI Southbank
◼︎ Dec 10 Roxane Gay in Conversation @Royal Festival Hall
◼︎ Dec 20 Summer and Smoke @Duke Of York's Theatre
◼︎ Dec 22 La Dame aux camélias @Palais Garnier
ダンスと演劇は、もっと見ていったほうがいいかも、になってきた。でもチケット高いのよね。
シェイクスピアもそろそろ手をつけないとね。
新年の抱負は、昨年とほぼ同じだけど、とにかくお片づけしないと。
今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
(集計、すごく時間かかってぐったり。やりかた少し考えないと)
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