気がつけば振り向けば1年の最後の日になっていましたどうしよう、と書いて嘆いてあたふたしてみせるけど実はなんにもしない、そういうお約束のいちにちが今年もやってまいりました。
会社の仕事は24日の午前中まであって、25日は電車もバスも動かないので家のなかですることがなくて(.. おかたづけ..?)、死ぬほどつまんないのでLeicester Squareの映画館まで歩いていく、ていうのをやってみた。Mary Poppinsのクリスマスの御利益を期待していったのだが、ほぼまっすぐの道を凍えながら約1時間てけてけ歩いていくだけでなんも起こってくれないのだった。
26日の朝から30日の晩まではイタリアに行ってきた。初めてのイタリア。昨年末のウィーンと同じで、これまで頭の隅っこ奥の方にしかいなかった絵とか建物とかのほんもんを見て、ふうん、てうなる、そういうシリーズで、でもイタリアって広く散らばっているのでどうしよう、と考えて、(続いてほしい)第一弾としてフィレンツェとミラノにした。なんで最初がこのふたつなのか、にあまり深い意味はなくて、例えば「ウフィツィ」って音の響きが昔から気になってしょうがないけどなんだそれ、とかその程度。
30日の夜中に戻ってきたら、31日の0:00amからBBC Oneでは”War of the Worlds” (2005)を放映したりしている。えらいねえ。
細かいあれこれは後で書くかもしれませんが、フィレンツェ2泊 - ミラノ2泊でだいたい25軒くらいの美術館とか名所旧跡とかを見てまわった。 自分のなかの時間感覚からすると絵を見ていくペースは昔と比べると随分遅くなっていて、つまりだらだらつっかえたり戻ったりしながら見ているからだと思うのだが、こういうのとか、現地に行って(コピーではない)ほんもんを見ることの意味とか、絵とか音楽のライブの共時的な快楽に加えてそういうのを行きつ戻りつ考えていくおもしろさに目覚めてしまったかも、って、これ、回数重ねていかないと(たぶん)わかんないことかもしれないしわかんないままかもしれないし普遍化できることでもないと思うけど体が動けるうちに纏められたらいいなー。
年を経てくすんだりさびれたりしていく作品たちと同様にボケたり見えなくなったりしていく自身の視界とか頭はどう向きあっていくことができるのか - デジタル・アーカイブなんてくそくらえ、ということでがんばる。
ていうのは好きにやってれば、なのだがアーカイブなんてちゃんちゃらおかしいわボケ、ってフィジカルに積もって溜まっていく本とか箱とかをなんとかしないと、ていうかなによりまずは、このなんとかしないと、てのを年末に吐くのではなく年明けに宣言するように自分のあたまを釘ととんかちでどうにかしないとだめよね。
大晦日は(時間があれば)だいたいB級ジャンクホラーみたいのを見ることにしているのだが、夕方に”Bird Box”ていうのを見てきた。 Netflixのだし、客は3人しかいなかったけど、B級どころかものすごいやつでおっかなくて震えた。 音楽はTrent Reznor & Atticus Rossだし。
昨年の今頃はまだロンドンに来て11ヶ月で、本棚みっつ買ってもういっぱい、とかはしゃいでいたようだが今ときたらもうほんとしゃれにならなくて、とにかくレコード会社は40周年とか50周年だからってアナログの箱を乱造乱発するのとか、ふつうの新譜でも180gで2枚組3枚組とかの重くて厚いのを出しまくるのやめてほしい。そういう箱を置けるスペースとあれらをいろんなバージョンとかMono - Stereoとかの差異をくっきり再生してくれる機械設備のないビンボー人は聴くな買うな、ていうのがふつーの感覚なのだろうが、でも買っちゃうわよ。そんな後先考えない無節操さを叩き込んでくれた音たちなんだもの。 なんだもの、じゃなくて買うなよ、てさすがにだんだん思うようになってきて、でもその替わりに古本屋とかに通うようになって、これがまたサイズとかてんでばらばらで困ったやつなのよね。(← もうだめだこいつ)
今いるフラットは2年契約なので次のところに移る(移って、その際におお掃除する)べきかそのまま埋もれていくのか、そろそろ決めて動かないとなー。 時間ないなー。
このタイミングでこんなゴタクを並べているということはつまり、師走のお片づけ、大掃除なんてむり、アボート、あきらめ、退避、てったい、Plan Bなし、てことなのよね、って威張ってるんじゃねえよ。 やるきなし、ってだけだろ。
(だってさー、絵とかいっぱい見て幸せに戻ってきたとこで片付け、しないよねふつう)
2016年の世界はひどかったけど2017年も更にひどくなった、って昨年は書いていたけど、2018年はさらにさらにひどくなっている。 あの国はもうほんとうにどうするんだろ、三権分立のそれぞれの府とお役所とそこにぶらさがっているメディアのぜんぶが揃って腐ってにっぽん最高ばんざいってにたにたしながら思いこんじゃって、そんなのバカが勝手にやってろだけど、あったまくるのはそれで辛かったり苦しい思いをしている人たちがいっぱいいるのに、そういうのをこれぽっちも想像できない - これって教育とかじゃないよね、洗脳されちゃって根から芯から性根が腐ってて自分の腐臭に気づくことすらできないんだよね。 こういうのを世界の人たちがどう見てるかなんて、ほんとにどうでもいいのね。
元号にどういう意味があるのか未だにわかんないし平成が何年までいったのかすらわかっていないのだが、元号変えるのならついでにこいつら全部リセットしてほしい。
でもとにかく、それでもひとは動いて出会うものだから、きっと来年は。たぶん。
なんてことを年の終わりに呟いてどうするのか、とここでも空を仰いで、どこまでも内向きにぶつぶつキーをひっ叩きながら、皆さまよいお年を、来年がすばらしい一年となりますように、と言います。 みんななんとか生き延びることができますようにー。
というモードで、2018年ベストに着手いたします。
12.31.2018
12.25.2018
[film] Spider-Man: Into the Spider-Verse (2018)
19日水曜日の21時過ぎ、Pictuirehouseで見ました。Dolby Atmosがんがんのいちばんでっかいとこで、でも客は数人しかいない。気持ちよいったら。
年末に会社から強いられたり出なきゃいけなかったりする飲み会って、会社はいって何十年経っても、働く国や会社が変わっても、相変わらずいやいや園状態で、そういうのでぐったりした後に半べそかきながらこういうのに逃げこむの。
最初はゲームかなんかに連動したアニメかなんかかと思っていたのだが、これはそうではないちゃんとしたMarvelのプロダクションで、レビューも評判よいみたいだから、程度で。
Queens(だよね?)に暮らすMiles Moralesは新しくレベルの高い学校に行くのに相当焦ってカリカリしてて、でもパパママはだいじょうぶ期待してるし愛してるしか言わなくて、そういう不安だの将来だのについて尊敬しているAaron叔父さん (Mahershala Ali)と地下鉄の穴の奥のほうの場所で落書きしながら喋っていたら変なクモに噛まれて、その日から自分の体の様子がおかしくなって、おかしくなった感覚がPeter Parker (Chris Pine) / Spider-Manと悪党The Kingpinが次元の壁をぶっこわそうとしている現場に導いて、でも彼の見ている前でSpider-Manは殺されちゃって、NYの町全体がどうしようやばいぞ、になる。
暫くするとどこからか髪の色が違ってお腹も出ててややおっさんぽいPeter B. Parker (Jake Johnson)ていうSpider-ManがMilesの元に現れて、要は次元の壁が壊れて穴があいたとこから来た別次元のやつ(次元が違うので長くそこにはいられないけど)だという。 同様にGwen Stacy / Spider-Woman - 彼女はMilesが学校でぽーっとなった彼女にそっくり – とか、明らかに日本のアニメから来ているKimiko Glenn / Peni Parker - ロボット連れてる – やや恥ずかしい - とか、かくかくした白黒カートゥーンのSpider-Man Noir (Nicolas Cage)とか、これもカートゥーンキャラのPeter Porker / Spider-Ham – おまえ豚っていうよりヒョウタンツギだろ – とかがやってきて、壊された継ぎ目をなんとかしないと彼ら自身も彼らの世界もやばいことになるのでみんなで協力して戦うことにする。
でも彼らは外次元から来たヒーローなのでたまに力が出せなくなったり戻れなくなったら死んでしまうので、結局はおおもとの世界にいるMilesに踏んばってもらうしかないのだが、彼はまだ自らのパワーに目覚めたばかりで力不足だし自信もないし、ということで5人のSpidersからも見切りつけられて、The Kingpinとその一味は容赦なくがんがん攻めてくるしどうなっちゃうのか。
Spider-Manのそもそものテーマである青年が肉親の死や葛藤の果てに自身の力に目覚める - "with great power comes great responsibility" のラインはそのままに、というかそこからアニメーションにしかできないようなところに踏みこんで – いまのアニメーションの最前線がどうなってるのか知らないで書いているけど - 実写版のシリーズとは異なる深みとカタルシスをもたらす作品に仕上がっている。
次元の異なる世界にそれぞれ異なるヒーローがいて、それぞれの戦いを繰り広げている、というのはコミック本の世界ではそういうもんだと思ってきたし、これまでのヒーローものでも怪獣ものでも、作られてきた世界は互いに連続したり繋がったりしていない - いろんなバージョン、何代目のなにとか、舞台背景も現代から近未来からいろいろで - そこをあえて繋いで結んで韻(verse)を踏んでみたらどうなるのか、というのがこのアニメがやってみたことで、これはアニメについてのアニメでもあるし、アニメというよりはグラフィティのアプローチでアニメを再構築してみた、ということなのかも知れないし、どっちにしてもこの手があったんだぜ、でぶっぱなしてくる威勢のよさがある。
他方でこれは実写と見分けのつかないような最近のリアルで流麗なアニメとはぜんぜん違って、画面のちかちかざらざらとかダイナミックで粗っぽい繋ぎやジャンプは年寄りには見ていてきついかもしれない、けどそこを絶え間なくどかどか鳴っている音楽(割とオールドスクールなとこもあるので安心して)が補完してくれて、どっちにしても極めてパワフル。 Milesと同年代の子が見たらめちゃくちゃ鳥肌たちまくりなのではないか。
こうしてみるとSpider-Manの世界って、ビルの谷間に糸を張って自在に飛び回るところも含めて、アメリカの若者文化の根幹にあるなんかなのかもしれない、とか改めて。それをコミック本から立ちあがったMarvelが原点に戻ったかのようにダイナミックに動いて暴れる「コミック」にしようとしている。
あとこれ、Avengersの次のプロットにも繋がるとこだよね。あんなふうになってしまった世界の彼らを救うのが蟻とか蜘蛛とかの虫たちって、おもしろいねえ。
Stan Leeさんは(声も含めて)きちんと出てくるのでご安心を。
あと、メイおばさんの声はLily Tomlinで、おばさんものすごくかっこいいの。実写でもやればいいのにな。
イブの晩は気がついたら夜寝してて、起きたらBBC2でTop Of The Popsのクリスマスソング特集をやっていた。 The Bluebells “Young at Heart” が流れて、The Pretendersが流れて、ABBAの”Chiquitita”がきて、Wham!なんかもちろんきて、”Fairytale of New York”はあたりまえで、”Happy Xmas (War Is Over)”に続いた”Do They Know It's Christmas?”で終わりかな、と思ったらこれで終わると思うなよ、ってRoy Woodの”I Wish It Could Be Christmas Everyday”で締める構成がすばらしかった。
これに繋ぐつもりなのか、このすぐ後にBBC1ではあの傑作 “Man Up” (2015)をやっていて最高としか言いようがない。Lake BellとSimon Peggが最初にデートする川べりはBFIの側のとこなのね。 ほぼ毎日の通学路のとこ。
25日は、電車もバスも動かない日なので家でだらだら過ごすしかなくて、TVで流れていたいつのだかわからないKylieのクリスマスライブのを見たりしてた。 “2000 Miles”をやってくれてわー、ってなったらChrissie Hyndeが出てきて一緒に歌ってくれる。
Film4のチャンネルではトトロ(英語吹替版)やってる。
年末に会社から強いられたり出なきゃいけなかったりする飲み会って、会社はいって何十年経っても、働く国や会社が変わっても、相変わらずいやいや園状態で、そういうのでぐったりした後に半べそかきながらこういうのに逃げこむの。
最初はゲームかなんかに連動したアニメかなんかかと思っていたのだが、これはそうではないちゃんとしたMarvelのプロダクションで、レビューも評判よいみたいだから、程度で。
Queens(だよね?)に暮らすMiles Moralesは新しくレベルの高い学校に行くのに相当焦ってカリカリしてて、でもパパママはだいじょうぶ期待してるし愛してるしか言わなくて、そういう不安だの将来だのについて尊敬しているAaron叔父さん (Mahershala Ali)と地下鉄の穴の奥のほうの場所で落書きしながら喋っていたら変なクモに噛まれて、その日から自分の体の様子がおかしくなって、おかしくなった感覚がPeter Parker (Chris Pine) / Spider-Manと悪党The Kingpinが次元の壁をぶっこわそうとしている現場に導いて、でも彼の見ている前でSpider-Manは殺されちゃって、NYの町全体がどうしようやばいぞ、になる。
暫くするとどこからか髪の色が違ってお腹も出ててややおっさんぽいPeter B. Parker (Jake Johnson)ていうSpider-ManがMilesの元に現れて、要は次元の壁が壊れて穴があいたとこから来た別次元のやつ(次元が違うので長くそこにはいられないけど)だという。 同様にGwen Stacy / Spider-Woman - 彼女はMilesが学校でぽーっとなった彼女にそっくり – とか、明らかに日本のアニメから来ているKimiko Glenn / Peni Parker - ロボット連れてる – やや恥ずかしい - とか、かくかくした白黒カートゥーンのSpider-Man Noir (Nicolas Cage)とか、これもカートゥーンキャラのPeter Porker / Spider-Ham – おまえ豚っていうよりヒョウタンツギだろ – とかがやってきて、壊された継ぎ目をなんとかしないと彼ら自身も彼らの世界もやばいことになるのでみんなで協力して戦うことにする。
でも彼らは外次元から来たヒーローなのでたまに力が出せなくなったり戻れなくなったら死んでしまうので、結局はおおもとの世界にいるMilesに踏んばってもらうしかないのだが、彼はまだ自らのパワーに目覚めたばかりで力不足だし自信もないし、ということで5人のSpidersからも見切りつけられて、The Kingpinとその一味は容赦なくがんがん攻めてくるしどうなっちゃうのか。
Spider-Manのそもそものテーマである青年が肉親の死や葛藤の果てに自身の力に目覚める - "with great power comes great responsibility" のラインはそのままに、というかそこからアニメーションにしかできないようなところに踏みこんで – いまのアニメーションの最前線がどうなってるのか知らないで書いているけど - 実写版のシリーズとは異なる深みとカタルシスをもたらす作品に仕上がっている。
次元の異なる世界にそれぞれ異なるヒーローがいて、それぞれの戦いを繰り広げている、というのはコミック本の世界ではそういうもんだと思ってきたし、これまでのヒーローものでも怪獣ものでも、作られてきた世界は互いに連続したり繋がったりしていない - いろんなバージョン、何代目のなにとか、舞台背景も現代から近未来からいろいろで - そこをあえて繋いで結んで韻(verse)を踏んでみたらどうなるのか、というのがこのアニメがやってみたことで、これはアニメについてのアニメでもあるし、アニメというよりはグラフィティのアプローチでアニメを再構築してみた、ということなのかも知れないし、どっちにしてもこの手があったんだぜ、でぶっぱなしてくる威勢のよさがある。
他方でこれは実写と見分けのつかないような最近のリアルで流麗なアニメとはぜんぜん違って、画面のちかちかざらざらとかダイナミックで粗っぽい繋ぎやジャンプは年寄りには見ていてきついかもしれない、けどそこを絶え間なくどかどか鳴っている音楽(割とオールドスクールなとこもあるので安心して)が補完してくれて、どっちにしても極めてパワフル。 Milesと同年代の子が見たらめちゃくちゃ鳥肌たちまくりなのではないか。
こうしてみるとSpider-Manの世界って、ビルの谷間に糸を張って自在に飛び回るところも含めて、アメリカの若者文化の根幹にあるなんかなのかもしれない、とか改めて。それをコミック本から立ちあがったMarvelが原点に戻ったかのようにダイナミックに動いて暴れる「コミック」にしようとしている。
あとこれ、Avengersの次のプロットにも繋がるとこだよね。あんなふうになってしまった世界の彼らを救うのが蟻とか蜘蛛とかの虫たちって、おもしろいねえ。
Stan Leeさんは(声も含めて)きちんと出てくるのでご安心を。
あと、メイおばさんの声はLily Tomlinで、おばさんものすごくかっこいいの。実写でもやればいいのにな。
イブの晩は気がついたら夜寝してて、起きたらBBC2でTop Of The Popsのクリスマスソング特集をやっていた。 The Bluebells “Young at Heart” が流れて、The Pretendersが流れて、ABBAの”Chiquitita”がきて、Wham!なんかもちろんきて、”Fairytale of New York”はあたりまえで、”Happy Xmas (War Is Over)”に続いた”Do They Know It's Christmas?”で終わりかな、と思ったらこれで終わると思うなよ、ってRoy Woodの”I Wish It Could Be Christmas Everyday”で締める構成がすばらしかった。
これに繋ぐつもりなのか、このすぐ後にBBC1ではあの傑作 “Man Up” (2015)をやっていて最高としか言いようがない。Lake BellとSimon Peggが最初にデートする川べりはBFIの側のとこなのね。 ほぼ毎日の通学路のとこ。
25日は、電車もバスも動かない日なので家でだらだら過ごすしかなくて、TVで流れていたいつのだかわからないKylieのクリスマスライブのを見たりしてた。 “2000 Miles”をやってくれてわー、ってなったらChrissie Hyndeが出てきて一緒に歌ってくれる。
Film4のチャンネルではトトロ(英語吹替版)やってる。
12.24.2018
[film] It’s a Wonderful Life (1946)
英国に来て2回目のクリスマスを迎えることができて、ロンドンでこの時期に流れる映画の方はどこでも昨年と同じようなクリスマス映画の特集があって、今年はいつものに加えて”Carol” (2015)とか”Elf” (2003) とかもあって嬉しいのだが、目玉はなんといっても”It’s a Wonderful Life”の4Kリストア版のリバイバルで、BFIでは予告も含めてがんがんかかってて、Prince Charles Cinemaでは35mm版と4Kを交互に流したりしているし、TVでも結構やっているので見ずに済ます方が難しいくらいに人生は素晴らしき哉、なの。
15日の土曜日の夕方、BFIで見ました。もう何回も見ていて、同じような家族向けクラシックであれば”Meet Me in St. Louis” (1944)のが好きだし、James Stewartだったらだんぜん”The Shop Around the Corner” (1940) 『桃色の店』 - の方だと思うし、そんなに激しく愛しているわけでもないのだが、なんか周期を置いて見たくなることがあって、なんとなく。
George Bailey (James Stewart)は幼い頃からいろんな人に出会って揉まれて特にひねくれたり悪くなったりすることもなく大きくなって、美しい妻Mary (Donna Reed)と子供たちにも恵まれ、町の人はみんな彼を知っているし父から継いだ金貸し業で大成功とは言わないまでもそこそこの幸せな家庭を築くことができたのだが、ちょっとした失敗で転がり落ちてお先真っ暗のやけくそになり、自分なんか生まれてこなければよかったんだ、って叫んだらそれを銀河のどっかの星雲で聞いていた天使ワナビーのおっさんが天使のハネ欲しさに、ではやってみやしょう、って彼を生まれなかったことにしてみたら、そこでGeorgeが見たものは... っていうSFふりかけ付きの人情ごった煮三段お重弁当、なの。
世の中のだれもがみんな幸せな顔して楽しそうにしているもんだから自分なんかいっそ... のどツボに陥りがちなこんな時期だからこそいやいやそんなことはないのできそこないの天使だろうがサンタだろうがちゃんとそんなあなたのことを気にかけているのだしあなたがいないことになった世界はあなたが見たことも想像したこともないような世界になってしまう - これは考えてみればあたりまえのことだけど - のですぞ、って。
そうはいってもGeorgeを地獄に陥れるのも救いあげるのも結局はお金なのよね、という、とってもプロテスタンティズムと資本主義の精神に貫かれた、世知辛さ紙一重紙風船、の一本で、その精神ときたら宇宙の果て星雲の鍋の底まで浸透しちゃっている。
Frank Capraはそういう欺瞞も残酷さもすべてわかった上でこのクリスマスツリーとケーキを飾りたてて、我々もそれをわかっていながらラストの家族の幸せな笑顔(+そのありよう)にじーんとしてしまって、その奇妙な光景を”It’ a Wonderful Life”なんて呼んでしまって、それでいいじゃん、とか思えてしまうのだから、素晴らしい人生なんて案外ちょろいもんじゃねえの、と言ってしまうことだってできやしないだろうか。
上映が終わるとみんな拍手して、誰かが”Merry Christmas!!”て声をあげると、みんなもそれに応えて、ああクリスマスがきたんだわ、って家路につきましたとさ。
もう1本、BFIのひとはこれをクリスマス映画だって言ってた”All That Heaven Allows” (1955)も12日の水曜日に見た。
これもBAMとかでは何度も見ているのだが、上映前のイントロでは、メロドラマのフォーミュラを極めれば極めるほど郊外の富裕層と田舎の自由な若者の間の醜悪でグロテスクな高慢と偏見が露呈してくる、ということをサークは極めて作為をもって描いていて、この点でものすごく政治的なドラマである、という指摘と、それはそうとして画面設計とか時計台とかすっごくおもしろいので楽しんでいってね、って。 うんうん。
最後に鹿さんが現れるとこでは、みんなでわあ、って拍手して、ここのとこは確かにクリスマスだよな、って変に納得した。
クリスマスの音楽は、夏前に家のCDプレイヤーがCDを読み込んでくれなくなってアナログしか聴けない状態になってしまったのだが、Arethaのクリスマスソング集は聴いて、ついにアナログで出たSufjanの”Songs for Christmas”の箱を買うべきか悩んでいるうちにクリスマスが来ちゃったし。
今年の1曲はなんといっても動画で見たSaoirse RonanとJimmy Fallonのデュオによる”Fairytale of New York”かな。
この曲、いまだに歌詞の不適切用語を巡ってあれこれ言われたりしているのね。それだけクラシックになってきたってことなのかしら。
22-23の週末は電車でパリに行った。オペラ座バレエの「椿姫」に痺れてオルセーのピカソとルノワールを再見して、あとは年末の買い出し、とか思ってたのだが、2日目の天候が最悪で目がまわってぜんぜん動けなくて、そういえばすでにThe Second Shelfの本屋で相当散財してしまったりしていたのでおとなしくすることにした。
これからそこで買った小さな本 - Daphne Du Maurierの”Happy Christmas”を読みます。
みなさまもよいクリスマスと年の瀬を!
15日の土曜日の夕方、BFIで見ました。もう何回も見ていて、同じような家族向けクラシックであれば”Meet Me in St. Louis” (1944)のが好きだし、James Stewartだったらだんぜん”The Shop Around the Corner” (1940) 『桃色の店』 - の方だと思うし、そんなに激しく愛しているわけでもないのだが、なんか周期を置いて見たくなることがあって、なんとなく。
George Bailey (James Stewart)は幼い頃からいろんな人に出会って揉まれて特にひねくれたり悪くなったりすることもなく大きくなって、美しい妻Mary (Donna Reed)と子供たちにも恵まれ、町の人はみんな彼を知っているし父から継いだ金貸し業で大成功とは言わないまでもそこそこの幸せな家庭を築くことができたのだが、ちょっとした失敗で転がり落ちてお先真っ暗のやけくそになり、自分なんか生まれてこなければよかったんだ、って叫んだらそれを銀河のどっかの星雲で聞いていた天使ワナビーのおっさんが天使のハネ欲しさに、ではやってみやしょう、って彼を生まれなかったことにしてみたら、そこでGeorgeが見たものは... っていうSFふりかけ付きの人情ごった煮三段お重弁当、なの。
世の中のだれもがみんな幸せな顔して楽しそうにしているもんだから自分なんかいっそ... のどツボに陥りがちなこんな時期だからこそいやいやそんなことはないのできそこないの天使だろうがサンタだろうがちゃんとそんなあなたのことを気にかけているのだしあなたがいないことになった世界はあなたが見たことも想像したこともないような世界になってしまう - これは考えてみればあたりまえのことだけど - のですぞ、って。
そうはいってもGeorgeを地獄に陥れるのも救いあげるのも結局はお金なのよね、という、とってもプロテスタンティズムと資本主義の精神に貫かれた、世知辛さ紙一重紙風船、の一本で、その精神ときたら宇宙の果て星雲の鍋の底まで浸透しちゃっている。
Frank Capraはそういう欺瞞も残酷さもすべてわかった上でこのクリスマスツリーとケーキを飾りたてて、我々もそれをわかっていながらラストの家族の幸せな笑顔(+そのありよう)にじーんとしてしまって、その奇妙な光景を”It’ a Wonderful Life”なんて呼んでしまって、それでいいじゃん、とか思えてしまうのだから、素晴らしい人生なんて案外ちょろいもんじゃねえの、と言ってしまうことだってできやしないだろうか。
上映が終わるとみんな拍手して、誰かが”Merry Christmas!!”て声をあげると、みんなもそれに応えて、ああクリスマスがきたんだわ、って家路につきましたとさ。
もう1本、BFIのひとはこれをクリスマス映画だって言ってた”All That Heaven Allows” (1955)も12日の水曜日に見た。
これもBAMとかでは何度も見ているのだが、上映前のイントロでは、メロドラマのフォーミュラを極めれば極めるほど郊外の富裕層と田舎の自由な若者の間の醜悪でグロテスクな高慢と偏見が露呈してくる、ということをサークは極めて作為をもって描いていて、この点でものすごく政治的なドラマである、という指摘と、それはそうとして画面設計とか時計台とかすっごくおもしろいので楽しんでいってね、って。 うんうん。
最後に鹿さんが現れるとこでは、みんなでわあ、って拍手して、ここのとこは確かにクリスマスだよな、って変に納得した。
クリスマスの音楽は、夏前に家のCDプレイヤーがCDを読み込んでくれなくなってアナログしか聴けない状態になってしまったのだが、Arethaのクリスマスソング集は聴いて、ついにアナログで出たSufjanの”Songs for Christmas”の箱を買うべきか悩んでいるうちにクリスマスが来ちゃったし。
今年の1曲はなんといっても動画で見たSaoirse RonanとJimmy Fallonのデュオによる”Fairytale of New York”かな。
この曲、いまだに歌詞の不適切用語を巡ってあれこれ言われたりしているのね。それだけクラシックになってきたってことなのかしら。
22-23の週末は電車でパリに行った。オペラ座バレエの「椿姫」に痺れてオルセーのピカソとルノワールを再見して、あとは年末の買い出し、とか思ってたのだが、2日目の天候が最悪で目がまわってぜんぜん動けなくて、そういえばすでにThe Second Shelfの本屋で相当散財してしまったりしていたのでおとなしくすることにした。
これからそこで買った小さな本 - Daphne Du Maurierの”Happy Christmas”を読みます。
みなさまもよいクリスマスと年の瀬を!
12.22.2018
[film] Aquaman (2018)
16日、日曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。 久々のIMAX 3Dで、これくらいはでっかいとこで見ないとな、って気合いいれた。
Aquaman – 水男。まずこの名前で思い浮かべるのはHellboyのシリーズに出てくるAbe Sapienみたいなやつとか”The Shape of Water” (2017)の半魚人とかで、Jason Momoaのじゃないよね。なんかただのお祭り漁師みたいだし、バカそうなとこもいっぱいあるので、同じヒーローものでも、つい”Machete”みたいな不死身キャラとして見てしまう(そしてそれでええ)。
アメリカの東海岸で、嵐の日の岩場にNicole Kidmanが打ち上げられてて、それを灯台守が拾って介抱したら子供ができて、それがやがてAquamanになるArthur Curry (Jason Momoa)で、彼がでっかくなって暴れるようになったところでMera(Amber Heard)が現れて海の世界が大変なことになっているから助けて、って言われて海の覇権をめぐる戦い(含.人間界) - もう我慢できねえから人間界にもなだれこむぞなめんな、ていうのに巻き込まれていく。筋はこれだけ、こんなもんなのだが、後半はいったんぼこぼこにされた彼が、必殺の武器 -三つ又の銛を探して砂漠からシシリーからいろんなとこで大冒険とか追っかけっこをして、とにかくそいつを手に入れたらタコとイカとカニとサメと龍が一緒になったでっかい化け物みたいのも横についてきて、無敵になって吠えるの。
たぶん、アーサーって名前とか伝説の武器がどうのとか、神話をベースにいろいろ考えてみちゃったのだろうが、ぜんたいとしては海のようにスケールがでっかいだけ、宇宙に飛んでいかないのが不思議なくらい、それと悪玉か善玉かしかないキャラと水産動物のみでぶっとばして大騒ぎで、それでじゅうぶんにお得なかんじはした。でっかいばかりで中味は大スカだった”The MEG” (2018)とはえらい違いで、お正月映画としてもめでたくていいかも。
アクションも、水のなかであんな動けるかよ、てみんな言うかもしれないけど、あんな動けるもんだから、ていう道理で地上でも水中でも爆裂してて止まらなくて、DCユニバースの殴り合いって、コミックとしか言いようがないバカのスケール感と破壊力があって素敵だと思うのだが、Aquamanのあの風貌でぶちかますもんだから更に豪快で、ただのプロレスみたい、とは言わない。 そのうちどっかでThorと対決させてみたい。 あのとんかちと銛の戦い。
Nicole Kidmanがママと聞いて、どうせすぐいなくなっちゃうだろうと思ってたらずっといたのでびっくりした。
あと、Willem Dafoeが出てきたのでまた腹黒いやつかと思ったらそんなでもなかったので更にびっくりした。
海から出てきたNicoleを見たら”Splash” (1984)を思い出して、これって”Splash”の後日談になってもおかしくなかったのかも。 でもTom HanksとDaryl HannahのふたりからJason Momoaは産まれない気がする。
海のなかでもみんな服着てるのね。洗濯とか大変じゃないのか? とか、あの長髪切ればもっと動けるのにな、とか、そういうしょうもないことばかり思ってしまったのも、それはそれで。
日本のプロモーションは辺野古でやってほしい。ていうか、辺野古の海にあんなことした今の日本にAquamanすごいぞ、とか盛りあげる資格なんてないから。 ほんっとにあたまきてるんだから。
Aquaman – 水男。まずこの名前で思い浮かべるのはHellboyのシリーズに出てくるAbe Sapienみたいなやつとか”The Shape of Water” (2017)の半魚人とかで、Jason Momoaのじゃないよね。なんかただのお祭り漁師みたいだし、バカそうなとこもいっぱいあるので、同じヒーローものでも、つい”Machete”みたいな不死身キャラとして見てしまう(そしてそれでええ)。
アメリカの東海岸で、嵐の日の岩場にNicole Kidmanが打ち上げられてて、それを灯台守が拾って介抱したら子供ができて、それがやがてAquamanになるArthur Curry (Jason Momoa)で、彼がでっかくなって暴れるようになったところでMera(Amber Heard)が現れて海の世界が大変なことになっているから助けて、って言われて海の覇権をめぐる戦い(含.人間界) - もう我慢できねえから人間界にもなだれこむぞなめんな、ていうのに巻き込まれていく。筋はこれだけ、こんなもんなのだが、後半はいったんぼこぼこにされた彼が、必殺の武器 -三つ又の銛を探して砂漠からシシリーからいろんなとこで大冒険とか追っかけっこをして、とにかくそいつを手に入れたらタコとイカとカニとサメと龍が一緒になったでっかい化け物みたいのも横についてきて、無敵になって吠えるの。
たぶん、アーサーって名前とか伝説の武器がどうのとか、神話をベースにいろいろ考えてみちゃったのだろうが、ぜんたいとしては海のようにスケールがでっかいだけ、宇宙に飛んでいかないのが不思議なくらい、それと悪玉か善玉かしかないキャラと水産動物のみでぶっとばして大騒ぎで、それでじゅうぶんにお得なかんじはした。でっかいばかりで中味は大スカだった”The MEG” (2018)とはえらい違いで、お正月映画としてもめでたくていいかも。
アクションも、水のなかであんな動けるかよ、てみんな言うかもしれないけど、あんな動けるもんだから、ていう道理で地上でも水中でも爆裂してて止まらなくて、DCユニバースの殴り合いって、コミックとしか言いようがないバカのスケール感と破壊力があって素敵だと思うのだが、Aquamanのあの風貌でぶちかますもんだから更に豪快で、ただのプロレスみたい、とは言わない。 そのうちどっかでThorと対決させてみたい。 あのとんかちと銛の戦い。
Nicole Kidmanがママと聞いて、どうせすぐいなくなっちゃうだろうと思ってたらずっといたのでびっくりした。
あと、Willem Dafoeが出てきたのでまた腹黒いやつかと思ったらそんなでもなかったので更にびっくりした。
海から出てきたNicoleを見たら”Splash” (1984)を思い出して、これって”Splash”の後日談になってもおかしくなかったのかも。 でもTom HanksとDaryl HannahのふたりからJason Momoaは産まれない気がする。
海のなかでもみんな服着てるのね。洗濯とか大変じゃないのか? とか、あの長髪切ればもっと動けるのにな、とか、そういうしょうもないことばかり思ってしまったのも、それはそれで。
日本のプロモーションは辺野古でやってほしい。ていうか、辺野古の海にあんなことした今の日本にAquamanすごいぞ、とか盛りあげる資格なんてないから。 ほんっとにあたまきてるんだから。
12.21.2018
[film] Coming Home (1978)
8日の土曜日の夕方、BFIのJane Fonda - 今日12月21日が誕生日ですって! - 特集で見ました。35mm上映で『帰郷』。
BFIは自分にとってほぼ学校とか塾みたいな存在になっているのだが、この辺の60年代後半から70年代の「名作」を35mmで見れるのは嬉しい。ぜんぜん書けていないけど、最近見たのだと、”A New Leaf” (1971)とか、“What's Up, Doc?” (1972)とか、”Poor Cow” (1967)とか、こういうのってTSUTAYAとかのDVDではなくて、35mm上映で見るのが正しいとしか言いようがないの。フィルムの傷みや退色の具合も含めてほんとに美しくて、もちろん、何故それを美しいと思えてしまうのかについて、考える意味はあると思うけど、少なくともデジタル化で失われてしまうものってある。ということってデジタル化されてしまった後ではわからない。追えない。
今年ドキュメンタリー映画 - “Hal” が公開されたHal Ashbyの監督作で、Jane Fonda自身のプロダクションからリリースされた。
冒頭にLuke (Jon Voight)を含む戦地から怪我や障害で戻ってきた元軍人たちが病院内で議論しているところがあって、続いて黙々とランニングしているばりばり現役軍人ぽいBob (Bruce Dern)がいて、その妻がSally (Jane Fonda)で、Bobが戦地に赴く前の晩から見送りまで、そんなに湿っていなくて淡々と見送った後に、戻ってきた軍人たちのいる病院でのボランティアの介護を申し出る。
お国のために戦地に行ってしまった夫の思いに少しでも寄り添えれば、くらいの気持ちで国のために戦地から戻ってきた軍人たちのケアに手を付けてみたSallyだったが、患者たちの惨状・荒れ具合ときたらひどいもので、自分の認識の甘さを思い知らされて、特に下半身不随で横たわった状態でしか動けないLukeとは初めは衝突して、のちにだんだん近づいていって、そうすると彼の表情も変わって車椅子でいろいろ動いていけるようになる。
見る前は70年代アメリカの典型的な反戦映画、ってイメージを持っていたのだが、Boy Meets Girlのお話しに、それでも間に挟まってくる「戦争」をなんなのこれ? って言っているようなかんじ。 Bobからは頻繁に手紙が来て、彼の休暇の際、香港に会いに行ったりもするのだが、Lukeと会うようになってからはなんかうっとおしくなっていく。 それはBobのことを心配するのに疲れた、というよりもLukeの正論 - 国のためと思って戦って結果こんなんなったけど本当にバカだった(自分もどいつもこいつも) – ていうところに落ちて、Bobが無事に戻ってきてもちっとも嬉しくない、むしろ浮かれて更に偉そうになっているのでうんざりで。
というのをメロドラマ的な密なうねりの中で描くのではなく、当時の音楽(どまんなか)を背景にスケッチとして散らしていって、戦争が変えてしまった”Home”のありようについて考えさせる。そしてそれは湾岸 ~ イラク戦争を経てもぜんぜん変わっていない、むしろPTSDのような後遺症、症例として、特別なケアを必要とする重い「病気」として隅に押しやって、そうやって一向に止まる気配を見せないアメリカの軍国主義についても –。
というのとは別に、いろんな戸惑いを全身でひっかぶってつんのめりあたふたし、それでも人を愛さないと、ってLukeのところに走るSallyと、それを見守りつつ自らも変わっていくLuke(と我々)がいて、その過程のなかに”Home”としてのアメリカ、が見えてくることを狙ったのだと思うのだが、とにかくこの作品のJane Fondaは途中で素敵に変貌する髪の毛とかも含めて、いいなー、って。
これの後にBFIのコメディ特集で、”Alternative Comedy: The Early Years”ていうのがあった。
11月末にこの特集で見た80年代初のTVプログラム - “The Young Ones”、その更に前にBBCやITVでやっていた30分枠のコメディ番組を3本、番組のProducerだったPaul Jacksonさんのトークの後に見る。 どれも今のSNLのような観客が囲むところでのスタンダップコメディに生のバンド演奏が入って、”The Young Ones”に出ていた俳優さんたちも登場する。 笑いのネタとしては今見てもそんなにおもしろいものではないのだが、この番組を見て、これなら自分もやれるかも、ってコメディを志す若者が - ちょうど当時のパンクと同じように - いっぱい出たのだと。 なるほどねえ、だった。
ところで、The Guardian紙のBest Films of 2018、1位はやはり”Roma”でした。NYではこれの70mm版を上映するって。すごく見たい。 あと、今年のここの1~4位まではまったく違和感ないかんじかも。
BFIは自分にとってほぼ学校とか塾みたいな存在になっているのだが、この辺の60年代後半から70年代の「名作」を35mmで見れるのは嬉しい。ぜんぜん書けていないけど、最近見たのだと、”A New Leaf” (1971)とか、“What's Up, Doc?” (1972)とか、”Poor Cow” (1967)とか、こういうのってTSUTAYAとかのDVDではなくて、35mm上映で見るのが正しいとしか言いようがないの。フィルムの傷みや退色の具合も含めてほんとに美しくて、もちろん、何故それを美しいと思えてしまうのかについて、考える意味はあると思うけど、少なくともデジタル化で失われてしまうものってある。ということってデジタル化されてしまった後ではわからない。追えない。
今年ドキュメンタリー映画 - “Hal” が公開されたHal Ashbyの監督作で、Jane Fonda自身のプロダクションからリリースされた。
冒頭にLuke (Jon Voight)を含む戦地から怪我や障害で戻ってきた元軍人たちが病院内で議論しているところがあって、続いて黙々とランニングしているばりばり現役軍人ぽいBob (Bruce Dern)がいて、その妻がSally (Jane Fonda)で、Bobが戦地に赴く前の晩から見送りまで、そんなに湿っていなくて淡々と見送った後に、戻ってきた軍人たちのいる病院でのボランティアの介護を申し出る。
お国のために戦地に行ってしまった夫の思いに少しでも寄り添えれば、くらいの気持ちで国のために戦地から戻ってきた軍人たちのケアに手を付けてみたSallyだったが、患者たちの惨状・荒れ具合ときたらひどいもので、自分の認識の甘さを思い知らされて、特に下半身不随で横たわった状態でしか動けないLukeとは初めは衝突して、のちにだんだん近づいていって、そうすると彼の表情も変わって車椅子でいろいろ動いていけるようになる。
見る前は70年代アメリカの典型的な反戦映画、ってイメージを持っていたのだが、Boy Meets Girlのお話しに、それでも間に挟まってくる「戦争」をなんなのこれ? って言っているようなかんじ。 Bobからは頻繁に手紙が来て、彼の休暇の際、香港に会いに行ったりもするのだが、Lukeと会うようになってからはなんかうっとおしくなっていく。 それはBobのことを心配するのに疲れた、というよりもLukeの正論 - 国のためと思って戦って結果こんなんなったけど本当にバカだった(自分もどいつもこいつも) – ていうところに落ちて、Bobが無事に戻ってきてもちっとも嬉しくない、むしろ浮かれて更に偉そうになっているのでうんざりで。
というのをメロドラマ的な密なうねりの中で描くのではなく、当時の音楽(どまんなか)を背景にスケッチとして散らしていって、戦争が変えてしまった”Home”のありようについて考えさせる。そしてそれは湾岸 ~ イラク戦争を経てもぜんぜん変わっていない、むしろPTSDのような後遺症、症例として、特別なケアを必要とする重い「病気」として隅に押しやって、そうやって一向に止まる気配を見せないアメリカの軍国主義についても –。
というのとは別に、いろんな戸惑いを全身でひっかぶってつんのめりあたふたし、それでも人を愛さないと、ってLukeのところに走るSallyと、それを見守りつつ自らも変わっていくLuke(と我々)がいて、その過程のなかに”Home”としてのアメリカ、が見えてくることを狙ったのだと思うのだが、とにかくこの作品のJane Fondaは途中で素敵に変貌する髪の毛とかも含めて、いいなー、って。
これの後にBFIのコメディ特集で、”Alternative Comedy: The Early Years”ていうのがあった。
11月末にこの特集で見た80年代初のTVプログラム - “The Young Ones”、その更に前にBBCやITVでやっていた30分枠のコメディ番組を3本、番組のProducerだったPaul Jacksonさんのトークの後に見る。 どれも今のSNLのような観客が囲むところでのスタンダップコメディに生のバンド演奏が入って、”The Young Ones”に出ていた俳優さんたちも登場する。 笑いのネタとしては今見てもそんなにおもしろいものではないのだが、この番組を見て、これなら自分もやれるかも、ってコメディを志す若者が - ちょうど当時のパンクと同じように - いっぱい出たのだと。 なるほどねえ、だった。
ところで、The Guardian紙のBest Films of 2018、1位はやはり”Roma”でした。NYではこれの70mm版を上映するって。すごく見たい。 あと、今年のここの1~4位まではまったく違和感ないかんじかも。
[film] The Old Man and the Gun (2018)
15日の土曜日の午後、CurzonのVictoriaで見ました。 ここんとこ週末はずうっと雨。
日本でようやく公開になったらしい”A Ghost Story” (2017)のDavid Loweryの新作。
”A Ghost Story”のときのトークでは次のPeter Panの企画に取り組んでいて楽しい、と語っていたのだが、こっちが先になったのか。
俳優としてのRobert Redfordの最後の出演作と言われている。
前世紀末のアメリカに実在した銀行強盗+脱獄常習犯の犯罪人生の終わりのほうを2003年にNew Yorker誌に掲載された同名記事を元に映画化したもの。 このタイトルは、ヘミングウェイの『老人と海』 - “The Old Man and the Sea”- から来ているんだよ。たぶん。
初めに帽子を被ったきちんとした身なりの老人- Forrest Tucker (Robert Redford) - がたった一人で銀行に入って、にこやかに窓口のところで挨拶して鞄を渡してなにかを指示し、暫くすると窓口のひとがややこわばった表情でそれを返して、彼はそれを受け取るとすたすた車に戻って去っていく。やられた方は困惑しているものの、とにかく紳士だったのでびっくり。
というのが彼の基本的なやり口で、最初にちらっとスーツの上着をめくって銃を見せるだけ、でも極めてジェントルに和やかに振るまって乱暴なことはしない。 大きなヤマの場合はきちんと事前の現地調査をして仲間のDanny GloverとTom Waitsが加わるけど、とにかく静かでオフビートで、でも貰うものは貰うよ、って。
子供たちと銀行に行った時、その現場に居合わせた(ことを彼が出て行ってから突然知った)刑事のJohn Hunt (Casey Affleck)が、仕事でもあるのだが興味を持って彼の影を追い始める(けどやがてFBIに取りあげられてしまう)、という流れと、Jewel (Sissy Spacek)という馬を飼ってひとりで暮している堅気の女性との間の、強盗と同じくらいどっちに転ぶかわからない恋(なのかな、あれ)の行方と。”A Ghost Story”にもあった時間をぴょんぴょん跨いで紡いでいく93分間の魔法、というかどろぼう。
David Loweryの悪漢モノ – “Ain't Them Bodies Saints” (2013)にあったひりひりはらはら擦り切れていくような緊張感はなくて、とてもソフトに時々ユーモラスに、画面の柔らかな光のトーンも含めて彼のかつての”Butch Cassidy and the Sundance Kid” (1969)や”The Sting” (1973)にあったスター/強盗の眩い輝きがそのまま隅々まで満ちていて、ずっと眺めていたくなる。 Johnが資料から追っていく彼の過去 - 脱獄を繰り返していた時期の映像には彼の昔の映画からのクリップが入っていたり、つまりRobert RedfordのSwan Songということなのだろうが、それにしてもかっこよすぎるしまだまだもったいないとしか言いようがない。70年代の彼のファンが見たらぼろぼろ泣いちゃうような、そういう笑顔がいっぱい。
同じ老人でもClint Eastwoodの俳優としての出演作(最新作はどちらも犯罪者をやっているのね)との違いなどを考えてしまうのだが、そんなことよりSissy Spacekとふたりで一緒に歩いたりテーブルで向かい合ったりしているとこがとにかくすばらしくよくて、そうかEastwoodは別にひとりでいていいのよね、とか思った。 のと、このふたりの間のケミストリは、Rooney MaraとCasey Affleckの間にあったのと同じやつなのか違うやつなのか、とか。RooneyとCaseyの間の眼差しって、行かないで消えないで、っていう刹那に溢れたやつだったけど、Sissy SpacekとRobert Redfordのって、ただそこにいてくれればいいわ、っていうやつなのかも。それがふたりの老人の間で交わされる、ってとこに月並みだけどやられてしまうのね。
ここんとこのRobert Redfordって“Captain America: The Winter Soldier“(2014)のクールな悪政治家とか”Pete's Dragon” (2016)のよいおじいちゃんとか、そりゃ悪くないけどなんか、だった気がするが、この作品のForrest Tuckerは - これだよこれ、としか言いようがない。最後のほうで馬に跨がるところなんてさー。
果たしてTom Cruiseは老いてここまでのところにいけるのかしら。
日本でようやく公開になったらしい”A Ghost Story” (2017)のDavid Loweryの新作。
”A Ghost Story”のときのトークでは次のPeter Panの企画に取り組んでいて楽しい、と語っていたのだが、こっちが先になったのか。
俳優としてのRobert Redfordの最後の出演作と言われている。
前世紀末のアメリカに実在した銀行強盗+脱獄常習犯の犯罪人生の終わりのほうを2003年にNew Yorker誌に掲載された同名記事を元に映画化したもの。 このタイトルは、ヘミングウェイの『老人と海』 - “The Old Man and the Sea”- から来ているんだよ。たぶん。
初めに帽子を被ったきちんとした身なりの老人- Forrest Tucker (Robert Redford) - がたった一人で銀行に入って、にこやかに窓口のところで挨拶して鞄を渡してなにかを指示し、暫くすると窓口のひとがややこわばった表情でそれを返して、彼はそれを受け取るとすたすた車に戻って去っていく。やられた方は困惑しているものの、とにかく紳士だったのでびっくり。
というのが彼の基本的なやり口で、最初にちらっとスーツの上着をめくって銃を見せるだけ、でも極めてジェントルに和やかに振るまって乱暴なことはしない。 大きなヤマの場合はきちんと事前の現地調査をして仲間のDanny GloverとTom Waitsが加わるけど、とにかく静かでオフビートで、でも貰うものは貰うよ、って。
子供たちと銀行に行った時、その現場に居合わせた(ことを彼が出て行ってから突然知った)刑事のJohn Hunt (Casey Affleck)が、仕事でもあるのだが興味を持って彼の影を追い始める(けどやがてFBIに取りあげられてしまう)、という流れと、Jewel (Sissy Spacek)という馬を飼ってひとりで暮している堅気の女性との間の、強盗と同じくらいどっちに転ぶかわからない恋(なのかな、あれ)の行方と。”A Ghost Story”にもあった時間をぴょんぴょん跨いで紡いでいく93分間の魔法、というかどろぼう。
David Loweryの悪漢モノ – “Ain't Them Bodies Saints” (2013)にあったひりひりはらはら擦り切れていくような緊張感はなくて、とてもソフトに時々ユーモラスに、画面の柔らかな光のトーンも含めて彼のかつての”Butch Cassidy and the Sundance Kid” (1969)や”The Sting” (1973)にあったスター/強盗の眩い輝きがそのまま隅々まで満ちていて、ずっと眺めていたくなる。 Johnが資料から追っていく彼の過去 - 脱獄を繰り返していた時期の映像には彼の昔の映画からのクリップが入っていたり、つまりRobert RedfordのSwan Songということなのだろうが、それにしてもかっこよすぎるしまだまだもったいないとしか言いようがない。70年代の彼のファンが見たらぼろぼろ泣いちゃうような、そういう笑顔がいっぱい。
同じ老人でもClint Eastwoodの俳優としての出演作(最新作はどちらも犯罪者をやっているのね)との違いなどを考えてしまうのだが、そんなことよりSissy Spacekとふたりで一緒に歩いたりテーブルで向かい合ったりしているとこがとにかくすばらしくよくて、そうかEastwoodは別にひとりでいていいのよね、とか思った。 のと、このふたりの間のケミストリは、Rooney MaraとCasey Affleckの間にあったのと同じやつなのか違うやつなのか、とか。RooneyとCaseyの間の眼差しって、行かないで消えないで、っていう刹那に溢れたやつだったけど、Sissy SpacekとRobert Redfordのって、ただそこにいてくれればいいわ、っていうやつなのかも。それがふたりの老人の間で交わされる、ってとこに月並みだけどやられてしまうのね。
ここんとこのRobert Redfordって“Captain America: The Winter Soldier“(2014)のクールな悪政治家とか”Pete's Dragon” (2016)のよいおじいちゃんとか、そりゃ悪くないけどなんか、だった気がするが、この作品のForrest Tuckerは - これだよこれ、としか言いようがない。最後のほうで馬に跨がるところなんてさー。
果たしてTom Cruiseは老いてここまでのところにいけるのかしら。
12.20.2018
[film] The Apartment (1960)
1日、土曜日の午後にBFIのComedy Genius特集で見ました。『アパートの鍵貸します』
少し前に” Some Like It Hot” (1959)の4Kリストア版のリバイバルをやってて(←見れなかった。こっちのが見たかったのに)、それに続いての4K版のリバイバル。 これ、昔にアストリアのMoving Imageでやったときに行ったのだが半分以上寝てしまったやつなので、ほぼ初めてだったかも。 Christmas Rom-Comでもあるのね。
なんかBilly Wilderって少し上の代の映画評論家みたいな偉そうなじじい共がみんなしたり顔で誉めたり勧めてきたりしている印象があって反発してちゃんと見ていなかったりする。Wilder見るならLubitsch見るわ見たいわ、っていうのもあるし。
上映前に配布されるプログラムノートにはCameron Croweが1999年にThe Guardian紙に書いたものの抜粋(?)が。
イントロがあって、これのアイデアのおお元は1945年の英国映画 - Noël Coward - David Leanによる”Brief Encounter” - 『逢びき』なのですぞ、とかなんとか。
NYのでっかい保険会社で会計事務をやっている"Bud" Baxter (Jack Lemmon)は自分の将来の出世の約束と引き換えに4人くらいの会社の上の人たちがいろんな逢びきする用にアッパーウェストの自分の(賃貸)アパートの部屋を貸してて(スケジュール帳で管理してる)、やってられんわみたいな毎日なのだが、会社のエレベーターガールのFran (Shirley MacLaine)と少し仲良くなってぽーっとなってきたあたりで直属の上司のJeff (Fred MacMurray)から部屋を貸して、って言われ、しかもそのデートの相手がFranだったのでがーん、てなる。やがてBudはその見返りとして部屋付のマネージャーに昇格して(それでいいのか、で)、他方Franはあれこれ絶望して彼の部屋で睡眠薬を飲んで。
今の会社でそんなことやってはいけませんよ、なことが、上(パワハラ)から下(セクハラ)まで揃い踏みで、こんな内容のやつがよくオスカー作品賞を含む主要5部門を獲ったもんよね、とか思うものの、誰もがTom Hanksの元祖って思うに決まってるJack Lemmonの前のめりつんのめり具合と、猫みたいにしなやかなShirley MacLaineの眼差しと物腰、”Double Indemnity”としか言いようがないFred MacMurrayのおっとり揺るがない腹黒さ、彼らの甘くて酸っぱくて苦いトライアングルは悪くないのと、Budの部屋・キッチンのディテールとそこを動き回る彼が冗談みたいに器用で見事なのと、でもそれらがリアルに見えれば見えるほど、上司に自分のベッドを貸すのなんて例え昼寝だって嫌だし気持ちわるすぎやしないか、ていうかBudとFranの出会いとそこに上司のJeffが絡むRom-comにするのにアパートの鍵貸します設定ってそんなに必要なのかしらん、とか。仕事にも出世にも真面目にアグレッシブに取り組んできた会社一筋の男がエレベーターガールとの出会いから別方向に火が点いちゃってどたばた大騒ぎ、で十分おもしろくできたと思うけど。
でもたぶん、あの時代、成長期にあったアメリカ – NYの片隅 - 夜のアパートの一室(+いろんな隣人のあいだ)であり得たかもしれない恋のドラマとして冗談みたいなとこも含めてそれなりに完成されたものになっている、というのはわかる。そのうねりがChristmasに向かっていくところも、ここしかないかな、って。
これ、今なら男女の役割逆にしてリメイクすればおもしろいのに(もうあったりする?)。
FranがBudの部屋で薬を飲んでぐったりして医者を呼んで、のとこって、”Almost Famous” (2000)でPenny Laneに同じことしているよね。
まあとにかく、Shirley MacLaineが素敵すぎてうっとりするばかり。
あと、テニスラケットでパスタはないよね。でも卓球ラケットでピザはあるかも。
RIP Penny Marshal..
“A League of Their Own” (1992) のエンドロールのとこ、Madonnaの” This Used to Be My Playground”を聴きながらいつも泣いてしまう。何度見たかわからないけど、いっつも。
少し前に” Some Like It Hot” (1959)の4Kリストア版のリバイバルをやってて(←見れなかった。こっちのが見たかったのに)、それに続いての4K版のリバイバル。 これ、昔にアストリアのMoving Imageでやったときに行ったのだが半分以上寝てしまったやつなので、ほぼ初めてだったかも。 Christmas Rom-Comでもあるのね。
なんかBilly Wilderって少し上の代の映画評論家みたいな偉そうなじじい共がみんなしたり顔で誉めたり勧めてきたりしている印象があって反発してちゃんと見ていなかったりする。Wilder見るならLubitsch見るわ見たいわ、っていうのもあるし。
上映前に配布されるプログラムノートにはCameron Croweが1999年にThe Guardian紙に書いたものの抜粋(?)が。
イントロがあって、これのアイデアのおお元は1945年の英国映画 - Noël Coward - David Leanによる”Brief Encounter” - 『逢びき』なのですぞ、とかなんとか。
NYのでっかい保険会社で会計事務をやっている"Bud" Baxter (Jack Lemmon)は自分の将来の出世の約束と引き換えに4人くらいの会社の上の人たちがいろんな逢びきする用にアッパーウェストの自分の(賃貸)アパートの部屋を貸してて(スケジュール帳で管理してる)、やってられんわみたいな毎日なのだが、会社のエレベーターガールのFran (Shirley MacLaine)と少し仲良くなってぽーっとなってきたあたりで直属の上司のJeff (Fred MacMurray)から部屋を貸して、って言われ、しかもそのデートの相手がFranだったのでがーん、てなる。やがてBudはその見返りとして部屋付のマネージャーに昇格して(それでいいのか、で)、他方Franはあれこれ絶望して彼の部屋で睡眠薬を飲んで。
今の会社でそんなことやってはいけませんよ、なことが、上(パワハラ)から下(セクハラ)まで揃い踏みで、こんな内容のやつがよくオスカー作品賞を含む主要5部門を獲ったもんよね、とか思うものの、誰もがTom Hanksの元祖って思うに決まってるJack Lemmonの前のめりつんのめり具合と、猫みたいにしなやかなShirley MacLaineの眼差しと物腰、”Double Indemnity”としか言いようがないFred MacMurrayのおっとり揺るがない腹黒さ、彼らの甘くて酸っぱくて苦いトライアングルは悪くないのと、Budの部屋・キッチンのディテールとそこを動き回る彼が冗談みたいに器用で見事なのと、でもそれらがリアルに見えれば見えるほど、上司に自分のベッドを貸すのなんて例え昼寝だって嫌だし気持ちわるすぎやしないか、ていうかBudとFranの出会いとそこに上司のJeffが絡むRom-comにするのにアパートの鍵貸します設定ってそんなに必要なのかしらん、とか。仕事にも出世にも真面目にアグレッシブに取り組んできた会社一筋の男がエレベーターガールとの出会いから別方向に火が点いちゃってどたばた大騒ぎ、で十分おもしろくできたと思うけど。
でもたぶん、あの時代、成長期にあったアメリカ – NYの片隅 - 夜のアパートの一室(+いろんな隣人のあいだ)であり得たかもしれない恋のドラマとして冗談みたいなとこも含めてそれなりに完成されたものになっている、というのはわかる。そのうねりがChristmasに向かっていくところも、ここしかないかな、って。
これ、今なら男女の役割逆にしてリメイクすればおもしろいのに(もうあったりする?)。
FranがBudの部屋で薬を飲んでぐったりして医者を呼んで、のとこって、”Almost Famous” (2000)でPenny Laneに同じことしているよね。
まあとにかく、Shirley MacLaineが素敵すぎてうっとりするばかり。
あと、テニスラケットでパスタはないよね。でも卓球ラケットでピザはあるかも。
RIP Penny Marshal..
“A League of Their Own” (1992) のエンドロールのとこ、Madonnaの” This Used to Be My Playground”を聴きながらいつも泣いてしまう。何度見たかわからないけど、いっつも。
12.19.2018
[film] Ralph Breaks the Internet (2018)
8日、土曜日の午後、CurzonのVictoriaで見ました。
たいへんに天気の悪い週末で、こういうときに3Dだと絶対目がまわってひどくなるので2Dで。 シアターは大量のガキ共で溢れてて、親がコントロールしていたのかそんなうるさくはなかったのだが、サイレントでいろんな体操だのバトルだのをやりまくってて、上映後の床は散らばったお菓子だの紙くずだのですさまじい状態になっていた。
“Wreck-It Ralph” (2012)から6年後、アーケードゲームの世界にでっかい進歩があるわけがなく、Ralph (John C. Reilly)とVanellope (Sarah Silverman)のふたりは友達で仲良く遊んでいるのだが、いつものレースでちょっと踏み込んで遊びすぎたらそれでエキサイトした客がゲーム台のハンドルを壊してしまう。ヴィンテージの機械なので替えがなくて、eBayで$200くらいなんだけど無理だなあ、と言っているのを聞いたふたりは、eBayってなんだ? インターネットってなんだ? で、インターネットの世界には立ち入り禁止になっているのに、そんなこと言ってられないから、って電源の線からWifiルーターを伝ってインターネットの世界に飛び込んでいく。
いろんなブランドだの商標だの取り決め注意書きで溢れてて、ゲームから詐欺窃盗から出会いから買い物まであらゆる活動が蠢いているインターネットの世界をどう表現するのか、というときに、こういうアニメーションは恰好のカンバスで、こないだの”Ready Player One” (2018)にあったような、あるいはインターネットではないけど死後の世界を表した”Coco” (2018) にあったように、世界の山のように積みあがったごちゃごちゃをまるごと俯瞰した絵、って楽しいな、と。(見返してないけど『サマーウォーズ』(2009)とかって今見たら...)
ここのリアリティを作るとこってお金とパワーがもろにものを言うとこで、”Ready Player One”の仮想世界はスピルバーグのプロダクションだからできたことだと思うし、この作品のだとディズニーだから、なのだろうが、今後のこういうのって、昔の映画村みたいなのを仮想で立ち上げておいて、プロダクションが都度利用料払う、みたいになってくるのではないかしらん。どうでもいいけど。
というかんじで背景のところはふうん、て思うところがあったりしたのだが、インターネットの世界でのあれこれとか出会いは子供でもわかるくらいわかりやすいしなるほどなーだし、あぶない勧誘があったり炎上があったり無頼のレーサー(Gal Gadot – すぐわかるねえ)が現れたり、割とふつう(の”Break”)で、その辺が冗長になった分、前作にあったきゅんてしたり歓喜で溢れたり拳握ったりするとこは薄まっちゃったかなあ。
アーケードゲームの世界で起こることとインターネットの世界で起こることの違い、と言ってしまえばそれまでだけど。
”Wreck-It Ralph”、好きだったのになー。(映画とは直接関係ないけど、インターネットってなんかつまんないのー ってなるその理由とか原因とかの一部とも繋がっていると思う。いまやインターネット上でBreakしたり大騒ぎしたりすることになんのおもしろみがあろうか? というようなとこ)
話題的にはたぶん、ディズニーのプリンセスが一同に登場するとこが盛りあがるのだろうか。どのプリンセスもインターネット上だからか描きこみが緩いかんじでチープだしそこにStar Warsのを絡ませるなんてやめてよ、なのだがわざとやってるんだろうな。
”Brave” (2012)のMeridaが喋ったらみんなで、彼女なに言ってるかわかんないよね ..ってなるとこはちょっとおかしかったけど。
次のはインターネットの中ですっかり汚れて腐れきってしまったVanellopeがアーケードに戻ってくる、でよいのだと思う。
(やっぱ一番おもしろかったのはエンドロールに出てくるうさぎさんで)
たいへんに天気の悪い週末で、こういうときに3Dだと絶対目がまわってひどくなるので2Dで。 シアターは大量のガキ共で溢れてて、親がコントロールしていたのかそんなうるさくはなかったのだが、サイレントでいろんな体操だのバトルだのをやりまくってて、上映後の床は散らばったお菓子だの紙くずだのですさまじい状態になっていた。
“Wreck-It Ralph” (2012)から6年後、アーケードゲームの世界にでっかい進歩があるわけがなく、Ralph (John C. Reilly)とVanellope (Sarah Silverman)のふたりは友達で仲良く遊んでいるのだが、いつものレースでちょっと踏み込んで遊びすぎたらそれでエキサイトした客がゲーム台のハンドルを壊してしまう。ヴィンテージの機械なので替えがなくて、eBayで$200くらいなんだけど無理だなあ、と言っているのを聞いたふたりは、eBayってなんだ? インターネットってなんだ? で、インターネットの世界には立ち入り禁止になっているのに、そんなこと言ってられないから、って電源の線からWifiルーターを伝ってインターネットの世界に飛び込んでいく。
いろんなブランドだの商標だの取り決め注意書きで溢れてて、ゲームから詐欺窃盗から出会いから買い物まであらゆる活動が蠢いているインターネットの世界をどう表現するのか、というときに、こういうアニメーションは恰好のカンバスで、こないだの”Ready Player One” (2018)にあったような、あるいはインターネットではないけど死後の世界を表した”Coco” (2018) にあったように、世界の山のように積みあがったごちゃごちゃをまるごと俯瞰した絵、って楽しいな、と。(見返してないけど『サマーウォーズ』(2009)とかって今見たら...)
ここのリアリティを作るとこってお金とパワーがもろにものを言うとこで、”Ready Player One”の仮想世界はスピルバーグのプロダクションだからできたことだと思うし、この作品のだとディズニーだから、なのだろうが、今後のこういうのって、昔の映画村みたいなのを仮想で立ち上げておいて、プロダクションが都度利用料払う、みたいになってくるのではないかしらん。どうでもいいけど。
というかんじで背景のところはふうん、て思うところがあったりしたのだが、インターネットの世界でのあれこれとか出会いは子供でもわかるくらいわかりやすいしなるほどなーだし、あぶない勧誘があったり炎上があったり無頼のレーサー(Gal Gadot – すぐわかるねえ)が現れたり、割とふつう(の”Break”)で、その辺が冗長になった分、前作にあったきゅんてしたり歓喜で溢れたり拳握ったりするとこは薄まっちゃったかなあ。
アーケードゲームの世界で起こることとインターネットの世界で起こることの違い、と言ってしまえばそれまでだけど。
”Wreck-It Ralph”、好きだったのになー。(映画とは直接関係ないけど、インターネットってなんかつまんないのー ってなるその理由とか原因とかの一部とも繋がっていると思う。いまやインターネット上でBreakしたり大騒ぎしたりすることになんのおもしろみがあろうか? というようなとこ)
話題的にはたぶん、ディズニーのプリンセスが一同に登場するとこが盛りあがるのだろうか。どのプリンセスもインターネット上だからか描きこみが緩いかんじでチープだしそこにStar Warsのを絡ませるなんてやめてよ、なのだがわざとやってるんだろうな。
”Brave” (2012)のMeridaが喋ったらみんなで、彼女なに言ってるかわかんないよね ..ってなるとこはちょっとおかしかったけど。
次のはインターネットの中ですっかり汚れて腐れきってしまったVanellopeがアーケードに戻ってくる、でよいのだと思う。
(やっぱ一番おもしろかったのはエンドロールに出てくるうさぎさんで)
12.17.2018
[film] Mickey (1918)
11月29日、木曜日の晩にBFIのComedy Geniusの特集で見ました。サイレントの。
上映前にBFIのひとから主演・製作しているMabel Normandさんの簡単な紹介があった。
D. W. Griffithの映画にもいっぱい出ていて、コメディではCharlie Chaplinや"Fatty" Arbuckleとも共演していて、自分で監督もしてChaplinに映画のことを教えたりもしていたコメディ映画史上では重要な女性なのだが、こないだの“Exit Smiling” (1926)のBeatrice Lillieさんと並んで、(男性コメディ俳優たち - Keaton, Chaplin, Lloyd, Laurel & Hardyなんかと比べると)あまりきちんと評価されてこなかった感がある、のはやっぱ変で腑に落ちないのよね、って。 これもこないだのAlice Guy-Blachéの件と併せて、男共の都合で作ってきた映画史、みたいのがちょっと頭をよぎる。
Mabel Normandさんの作品は、丁度いまComedy Geniusの延長でバーミンガムの方とか各地を巡回している模様。 上映前のスクリーンに彼女のポートレートが投影されていたのだが、それがとても生々しくて、100年前の女性のそれとは思えなくて(サイレントの時代の俳優さんてお化粧した硬いかんじのが多いし)。 今の、バンドやってます、ジン作ってます、みたいなそこらにいそうな女の子なの。
カリフォルニアの炭鉱の労働者のとこで奔放に育てられたみなしごMicky (Mabel Normand)がいて、野山で動物たちと楽しく遊んだり跳ねたりしているのだが、亡くなった父の遺言に従ってLong Islandの方の高慢ちきなお屋敷に送られることになり、そこのお屋敷で野生児の彼女が巻き起こす騒動と、彼女を見初めてぽーっとなってしまった炭鉱のお金持ちと、そのお金持ちの気を惹きたいお屋敷のお嬢(+その後ろできーきーする母親)と、Mickyを追い回すお屋敷のやな野郎と、ほぼなんも考えていないMickeyと、基本はそれぞれの思いこみとか悪巧みがぐるぐる空回りを繰り返しながら、どうしようもない絶体絶命のとこまで行って、それでも最後は力技でどうにかなってしまう、という典型的なRom-comの筋立てで、1918年に既にこんなのあったのね、って。
とにかく競馬からぶん殴りあいまで、豪快で奔放ですべてを引っ掻きまわし大暴れしてうるせーそれがどーした? のMicky = Mabel Normandが素敵すぎる。 映画、最初のうちの評判はよくなくて、でもだんだんに広がって最終的にはヒットして、彼女はこの後にSamuel Goldwynのとこと契約することになるの。 フクロウとか犬とか猫(しっぽ持たないで)とかリスとか、動物たち(含. フェイク)もいっぱい出てきてそういうのも楽しかった。
Open All Night (1924)
サイレントをもう1本。9日、日曜日の午後にBFIで。日曜の午後にこんなサイレント見て、それに続けてもういっこScrewball Comedyを見る(この日は”Easy Living” (1937))って、さいこうの日曜日だよね(←老人)。 原作はポール・モランの短編だって。
社会的には安定したとこにいるTherese (Viola Dana)とEdmund (Adolphe Menjou)の夫婦がいて、生活はとっても満ち足りていて悪くないのに、Thereseは夫があまりにおっとり優しすぎて叱ったり叩いたりしてくれないのが気にくわなくて、友人夫婦(これの夫の方を演じたRaymond Griffithの底抜けの演技がすごいの)に誘われるままにパリの自転車耐久レース - 同じとこを一晩中ずっとぐるぐる回ってるご苦労さんなやつ – に行ってそこのフランス代表のマッチョででっかい野人みたいなのと会ったらそいつはThereseのことを気にいって、傍らに侍らせてこき使って、そういうのに飢えていた彼女もこれかも… なんてなるのだがそいつにも彼女がいるのと、Edmundもレース場に現れて、さてどうなっちゃうのか。
コメディなので、好きにやってろやれやれ、みたいな結末なのだが、自転車レースの一夜の狂騒の裏で繰り広げられる生臭さのかけらもない愛欲バトル、みたいなかんじは悪くはなかったかも。
あと、自転車レースの参加国がおもしろくて、フランス、イギリス、アイルランド、アフリカ(あの表現は今では完全にアウト)、アメリカ、ニューヨーク(国か…)なの。
上映前にBFIのひとから主演・製作しているMabel Normandさんの簡単な紹介があった。
D. W. Griffithの映画にもいっぱい出ていて、コメディではCharlie Chaplinや"Fatty" Arbuckleとも共演していて、自分で監督もしてChaplinに映画のことを教えたりもしていたコメディ映画史上では重要な女性なのだが、こないだの“Exit Smiling” (1926)のBeatrice Lillieさんと並んで、(男性コメディ俳優たち - Keaton, Chaplin, Lloyd, Laurel & Hardyなんかと比べると)あまりきちんと評価されてこなかった感がある、のはやっぱ変で腑に落ちないのよね、って。 これもこないだのAlice Guy-Blachéの件と併せて、男共の都合で作ってきた映画史、みたいのがちょっと頭をよぎる。
Mabel Normandさんの作品は、丁度いまComedy Geniusの延長でバーミンガムの方とか各地を巡回している模様。 上映前のスクリーンに彼女のポートレートが投影されていたのだが、それがとても生々しくて、100年前の女性のそれとは思えなくて(サイレントの時代の俳優さんてお化粧した硬いかんじのが多いし)。 今の、バンドやってます、ジン作ってます、みたいなそこらにいそうな女の子なの。
カリフォルニアの炭鉱の労働者のとこで奔放に育てられたみなしごMicky (Mabel Normand)がいて、野山で動物たちと楽しく遊んだり跳ねたりしているのだが、亡くなった父の遺言に従ってLong Islandの方の高慢ちきなお屋敷に送られることになり、そこのお屋敷で野生児の彼女が巻き起こす騒動と、彼女を見初めてぽーっとなってしまった炭鉱のお金持ちと、そのお金持ちの気を惹きたいお屋敷のお嬢(+その後ろできーきーする母親)と、Mickyを追い回すお屋敷のやな野郎と、ほぼなんも考えていないMickeyと、基本はそれぞれの思いこみとか悪巧みがぐるぐる空回りを繰り返しながら、どうしようもない絶体絶命のとこまで行って、それでも最後は力技でどうにかなってしまう、という典型的なRom-comの筋立てで、1918年に既にこんなのあったのね、って。
とにかく競馬からぶん殴りあいまで、豪快で奔放ですべてを引っ掻きまわし大暴れしてうるせーそれがどーした? のMicky = Mabel Normandが素敵すぎる。 映画、最初のうちの評判はよくなくて、でもだんだんに広がって最終的にはヒットして、彼女はこの後にSamuel Goldwynのとこと契約することになるの。 フクロウとか犬とか猫(しっぽ持たないで)とかリスとか、動物たち(含. フェイク)もいっぱい出てきてそういうのも楽しかった。
Open All Night (1924)
サイレントをもう1本。9日、日曜日の午後にBFIで。日曜の午後にこんなサイレント見て、それに続けてもういっこScrewball Comedyを見る(この日は”Easy Living” (1937))って、さいこうの日曜日だよね(←老人)。 原作はポール・モランの短編だって。
社会的には安定したとこにいるTherese (Viola Dana)とEdmund (Adolphe Menjou)の夫婦がいて、生活はとっても満ち足りていて悪くないのに、Thereseは夫があまりにおっとり優しすぎて叱ったり叩いたりしてくれないのが気にくわなくて、友人夫婦(これの夫の方を演じたRaymond Griffithの底抜けの演技がすごいの)に誘われるままにパリの自転車耐久レース - 同じとこを一晩中ずっとぐるぐる回ってるご苦労さんなやつ – に行ってそこのフランス代表のマッチョででっかい野人みたいなのと会ったらそいつはThereseのことを気にいって、傍らに侍らせてこき使って、そういうのに飢えていた彼女もこれかも… なんてなるのだがそいつにも彼女がいるのと、Edmundもレース場に現れて、さてどうなっちゃうのか。
コメディなので、好きにやってろやれやれ、みたいな結末なのだが、自転車レースの一夜の狂騒の裏で繰り広げられる生臭さのかけらもない愛欲バトル、みたいなかんじは悪くはなかったかも。
あと、自転車レースの参加国がおもしろくて、フランス、イギリス、アイルランド、アフリカ(あの表現は今では完全にアウト)、アメリカ、ニューヨーク(国か…)なの。
12.14.2018
[film] Roma (2018)
11日、火曜日の晩、CurzonのSOHOで見ました。
いま、どこのCurzonでも一日2回くらい上映しているのだが、結構売り切れが出ている。
Alfonso Cuarónが書いて監督して撮影までしていて、Netflixで配信されるということでカンヌの選考対象からは外され、でもヴェネチアでは金獅子を獲ったりしてて、今のとこSight & Soundの年間ベストでは1位、Film Commentの年間ベストでは4位、NY TimesだとManohla Dargisが1位、A.O. Scottが5位、VultureのDavid Edelsteinは1位、The Guardianはまだ7位までしか発表になっていないけど(今週から映画と音楽のベスト10は毎日ひとつづつ発表されていくの) 1~6位の間のどこか。 別になにが映画なのか、なんてどうでもいいけど、これって逆立ちしても映画館で見るしかないようなしろものだよ(って、見てからいう)。
RomaっていうのはMexico Cityの少し西よりにある地区の名前- Colonia Roma - 住宅街で、そこの一軒家に暮らす中流家庭の70年から71年にかけてのお話し。車が家のなかに入ってくるガレージがあって、犬がいて小鳥がいて、父と母のSofia (Marina de Tavira)と祖母、子供たちが4人、メイドが2人。Cuarón自身の少年時代のことを描いたであろうことは容易に想像がつく。
ただ子供たちのうちの誰かひとりの視点で語られるのではなく、家族の面倒を見ているメイドのCleo(Yalitza Aparicio) - メイドたちは先住民の言葉Mixtecで会話する – を中心に彼女の身に起こったことも含めてものすごくいろんなことが入ってくる。家族の物語でもあるし、EmployerとEmployeeの話でもあるし、あの家、あの土地のこと、あの土地の名前から広がるメキシコの、ミシュテカにまでの広がりをもったお話し、でもある。
父はケベックのコンファレンスに出掛けるといっていなくなり、それを見送る母はちょっと様子が変になり、BFのFermín(Jorge Antonio Guerrero)と親密になったCleoは映画館で妊娠したかも、と告げたら彼はそれきり音信不通となり、いつまでも戻ってこない父の出張はうそでそのうち荷物を取りに行くという連絡が入り、Sofiaは車を小さいのに換えて職を探し、Cleoのお腹は大きくなって、ベビーベッドを買いにいったら大規模な学生デモにぶつかって産気づいてしまい.. あとは地震があったり山火事があったり。家族親戚は雑多に集まって騒いで散ってまたどこかで、を繰り返して終わらない。
出来事だけを並べればこんなもんで薄くて浅くてLife goes onで、最後にSofiaと子供たちとみんなで海に行くエピソードもああいうことになるであろうことはなんとなくわかるし。でも自身がノスタルジックに浸れるようなところをできるだけ排して(例えば音楽はそのシーンの背景で鳴っているもの以外は流れてこない)、いつも家族の隅や陰に小さく控えてて、自分なんかいなくなっちゃえば… と空を見つめて消え入りそうなCleoの姿を掬いあげて、その眼差しから自分を含めた家族の記憶の細部を、そのすべてを散らして並べて絵巻物にしようとする。
だからというかそのためになのか、映像と音像はなんかとてつもない。映像はどうやって細工加工しているのか、コンクリの上の犬の糞から水溜りに映る飛行機まで、洗濯物からテーブル上の散らかりまで、微細部まで驚異的な解象度で迫ってくるし、音は少し後ろでかさこそ鳴っているTVの音までその位置からのそういう音として聞こえてくるし、”Gravity” (2013)でなんだこれ? って目をまわしたあれらがパノラミックなモノクロの風景となってゆったりと回転していく。 そこに映っているのは(おそらくは失われてしまっているであろう)70年代のMexico Cityの風景、というこれはこれで驚異的な映像体験になっているのではなかろうか。
Mexico Cityって数回しか行ったことがないのだが、あそこの街並みを見てて - 車で通っていっても歩いていても – たまに締めつけられるくらいいい!ってなることがあって(原因不明)、あのかんじがやっぱり束になって襲ってくるのだった。
南米の町ってそうなることが多い。それがどうした、だけど。
ほぼ無表情か、真剣なのか、不安そうなCleoの顔とその彼女が寝転がったり車の窓に寄りかかったりぼんやり空を眺めてカラになっているところがとても印象に残って、これに応えてあげるのが子供たちのCleoがいてくれてよかったな、だったりするのがとてもよいの。(最後に出る”For Lido”、っていうのはたぶん…)
3部作にしないのかしら。次にこれの後の時代 - 小~中学生の頃が来て、締めはもちろん、あのすばらしい“Y Tu Mamá También” (2001) に繋がるの。 Cuarónの描く女性像、ってテーマでなんか書けるとおもう。
いま、どこのCurzonでも一日2回くらい上映しているのだが、結構売り切れが出ている。
Alfonso Cuarónが書いて監督して撮影までしていて、Netflixで配信されるということでカンヌの選考対象からは外され、でもヴェネチアでは金獅子を獲ったりしてて、今のとこSight & Soundの年間ベストでは1位、Film Commentの年間ベストでは4位、NY TimesだとManohla Dargisが1位、A.O. Scottが5位、VultureのDavid Edelsteinは1位、The Guardianはまだ7位までしか発表になっていないけど(今週から映画と音楽のベスト10は毎日ひとつづつ発表されていくの) 1~6位の間のどこか。 別になにが映画なのか、なんてどうでもいいけど、これって逆立ちしても映画館で見るしかないようなしろものだよ(って、見てからいう)。
RomaっていうのはMexico Cityの少し西よりにある地区の名前- Colonia Roma - 住宅街で、そこの一軒家に暮らす中流家庭の70年から71年にかけてのお話し。車が家のなかに入ってくるガレージがあって、犬がいて小鳥がいて、父と母のSofia (Marina de Tavira)と祖母、子供たちが4人、メイドが2人。Cuarón自身の少年時代のことを描いたであろうことは容易に想像がつく。
ただ子供たちのうちの誰かひとりの視点で語られるのではなく、家族の面倒を見ているメイドのCleo(Yalitza Aparicio) - メイドたちは先住民の言葉Mixtecで会話する – を中心に彼女の身に起こったことも含めてものすごくいろんなことが入ってくる。家族の物語でもあるし、EmployerとEmployeeの話でもあるし、あの家、あの土地のこと、あの土地の名前から広がるメキシコの、ミシュテカにまでの広がりをもったお話し、でもある。
父はケベックのコンファレンスに出掛けるといっていなくなり、それを見送る母はちょっと様子が変になり、BFのFermín(Jorge Antonio Guerrero)と親密になったCleoは映画館で妊娠したかも、と告げたら彼はそれきり音信不通となり、いつまでも戻ってこない父の出張はうそでそのうち荷物を取りに行くという連絡が入り、Sofiaは車を小さいのに換えて職を探し、Cleoのお腹は大きくなって、ベビーベッドを買いにいったら大規模な学生デモにぶつかって産気づいてしまい.. あとは地震があったり山火事があったり。家族親戚は雑多に集まって騒いで散ってまたどこかで、を繰り返して終わらない。
出来事だけを並べればこんなもんで薄くて浅くてLife goes onで、最後にSofiaと子供たちとみんなで海に行くエピソードもああいうことになるであろうことはなんとなくわかるし。でも自身がノスタルジックに浸れるようなところをできるだけ排して(例えば音楽はそのシーンの背景で鳴っているもの以外は流れてこない)、いつも家族の隅や陰に小さく控えてて、自分なんかいなくなっちゃえば… と空を見つめて消え入りそうなCleoの姿を掬いあげて、その眼差しから自分を含めた家族の記憶の細部を、そのすべてを散らして並べて絵巻物にしようとする。
だからというかそのためになのか、映像と音像はなんかとてつもない。映像はどうやって細工加工しているのか、コンクリの上の犬の糞から水溜りに映る飛行機まで、洗濯物からテーブル上の散らかりまで、微細部まで驚異的な解象度で迫ってくるし、音は少し後ろでかさこそ鳴っているTVの音までその位置からのそういう音として聞こえてくるし、”Gravity” (2013)でなんだこれ? って目をまわしたあれらがパノラミックなモノクロの風景となってゆったりと回転していく。 そこに映っているのは(おそらくは失われてしまっているであろう)70年代のMexico Cityの風景、というこれはこれで驚異的な映像体験になっているのではなかろうか。
Mexico Cityって数回しか行ったことがないのだが、あそこの街並みを見てて - 車で通っていっても歩いていても – たまに締めつけられるくらいいい!ってなることがあって(原因不明)、あのかんじがやっぱり束になって襲ってくるのだった。
南米の町ってそうなることが多い。それがどうした、だけど。
ほぼ無表情か、真剣なのか、不安そうなCleoの顔とその彼女が寝転がったり車の窓に寄りかかったりぼんやり空を眺めてカラになっているところがとても印象に残って、これに応えてあげるのが子供たちのCleoがいてくれてよかったな、だったりするのがとてもよいの。(最後に出る”For Lido”、っていうのはたぶん…)
3部作にしないのかしら。次にこれの後の時代 - 小~中学生の頃が来て、締めはもちろん、あのすばらしい“Y Tu Mamá También” (2001) に繋がるの。 Cuarónの描く女性像、ってテーマでなんか書けるとおもう。
12.12.2018
[talk] Roxane Gay in conversation
怒涛のMichelle Obamaライブからちょうど1週間、10日の月曜日の晩、Michelleがやったのと同じRoyal Festival Hallで見て聞いた。(Michelleは来年4月に戻ってくる。こんどはO2アリーナだって。すごいな)
Roxane Gayさんのことは昔に”Bad Feminist”をぱらぱらしたくらいだったが、こういう人の話はおもしろいに決まってるから。 来ているのはもちろん女性が圧倒的に多い。8割くらい?
進行はLiv Littleさんを進行役に、手話と字幕も入って、わかりやすい、ありがたい。
入ってきて会場をぐるっと見渡して、ここStar Warsの議会場みたいじゃん、て(うん、そういう会場なの)。
英国は始めてだそうで、飲み物に氷が入ってなくてさあ … とか。(わかるわかる)
つかみで、彼女の本 - ”Hunger: A Memoir of (My) Body”の2箇所を朗読する。エクササイズのトレーナーとのエピソードと、名前が定かでないかつての同級生をGoogleで探して思いを巡らせるエピソードと。 静かで深くて、とても素敵な声のひと。
そこから話題は自分の体や性的指向のことトラウマのこと、両親のこと、ハイチからの難民の子として(有色人種人口が少ない)ネブラスカで暮すということ、フェミニストであること、などを転々としながらもこれらのことをどうやって書くのか、どういう状態になったら書くのか、なんのために書くのか、というところに常に戻っていくのだった。
で、まずは自分のために書くこと、その限りにおいては急ぐことも無理することもなくて、書ける状態になったら、書けるところから書いていけばよいのだ、と。まとまっていなくても、断片(Fragment)でも構わない、lifeそのものがそもそもFragmentされたものなんだからね、って。
印象的だったのは、今のグローバルな社会はとにかく差異 (Difference)を恐れて、違っていることをShameだと思うように強いてくるので、そことの距離は十分にとって、自分(と自分に大切なひと)がmindfulでいられるようにすることだという指摘。これ、本当にそうで、いまの格差や差別問題の根幹てほぼここだよね。自分と同じサイズ、同じ嗜好、同じ経験、同じ肌の色であるのが当然と思って、同じでない(になれない)可能性を疑おうとしない、想像しようともしないその心証って、どこでどうやって醸成されてくるんだか(やっぱ教育なの? あの医学部関係者のしょうもなさとか)。
“Bad Feminist”はフィクションが売れなくてどうしようもなかった頃に、いろんなところに書いたものを纏めてみたら当たった、って。 ”World of Wakanda”は、最初あのMarvelではなく、別の会社のことだと思っていたのでやや驚いたが、colonizeされていない女性のことを書けるのはとても楽しい、と。
その他の話題としては、フェミニストはreligiousであってはいけないのか(もちろんそんなことないよ)とか、Western CountryとNon-Western CountryにおけるDiasporaのこととか、Twitterのこととか。
質問コーナーで影響を受けた本と作家では、Edith Whartonの”The Age of Innocence”, Laura Ingalls Wilderの“Little House on the Prairie” – 『大草原の小さな家』、Alice Walkerのいくつか、Zadie Smithの”NW”、などなど。『大草原…』は作者がレイシストであることはわかっているけど、でもしょうがなく好きなんだ、って(同感)。
他に名前が挙がったのはMarlon JamesとかFatimah Asgharとか。
あと、ほぼ知らないのでコメントしようがないのだが、TVプログラムの”Love Island”とか“Vanderpump Rules”の話題で客席ときゃーきゃー盛りあがっていた。あと、”The Real Housewives”のシリーズではどの都市が一番よいですか? の質問にはAtlantaかなあ、だって。Beverly Hillsのに出てくる連中には自分の本を読ませてやりたいよ、って(拍手)。
客席からの質問は30分以上続いて、質問する女性たちの様子から彼女の本がどれだけ彼女たちに火を点けたのか、がようくわかるのだった。最近よく使われるEmpowermentて、あんま好きな言葉ではないのだが、こういうことなんだろうな。
60年代頃からフェミニズムに関わって、そのありようについて真剣に考えてきた人たちが彼女のことをどう見て思っているのかは知らないけど、でも間違いなく彼女のvoice, body, text, act などを通してフェミニズムってこんなふうでもあんなふうでもあっていいのよ、ということになってきたのはよいことで、それだけ状況はクソみたいになってきているということだし、あんな腐れたクズ共にやられっぱなしで黙っているわけにはいかないのだ、ってこと、でいいよね?
女性作家、の関連で、11月の終わりにSOHOにオープンした女性作家本を扱う古本屋 – The Second Shelfのことを少し。
最初にぶつかったのはBarbicanでのNew Suns: A Feminist Literary Festivalのブースで、その時はそうとは知らずに買ったりしていたのだが、11月24日の土曜日から週一回、土曜日の昼間に通うようになってしまった。本当は毎日でも通いたいくらいなのだが、そうするとたぶん簡単に、ストレートに、あっという間に破産する、それくらい週ごとにここの本たちは棚から溢れて床のほうにまで増殖を続けていてホラーとしか言いようがないの。 それでも見ていない棚、触ったら瞬間でやられそうなので目をあわせないようにしている本とかがあって、1時間くらいいて汗びっしょり死にそうになって這いだしてくる、というのを繰り返しているの。(恋か..)
アメリカにいた時はそんなでもなかったのだが、こっちに来て古本の、ジャケットとか紙質も含めた美しさに魅かれるようになって、とってもたいへんやばい。女性作家の古本て、挿画も含めて素敵なのが多いし。昔ヘーレン・ハンフが夢中になって英国から取り寄せていたのも、そういうことだったのかなあ、と。
なんて書いていたらRoxane Gayさんがここを訪れているインスタが ...
Roxane Gayさんのことは昔に”Bad Feminist”をぱらぱらしたくらいだったが、こういう人の話はおもしろいに決まってるから。 来ているのはもちろん女性が圧倒的に多い。8割くらい?
進行はLiv Littleさんを進行役に、手話と字幕も入って、わかりやすい、ありがたい。
入ってきて会場をぐるっと見渡して、ここStar Warsの議会場みたいじゃん、て(うん、そういう会場なの)。
英国は始めてだそうで、飲み物に氷が入ってなくてさあ … とか。(わかるわかる)
つかみで、彼女の本 - ”Hunger: A Memoir of (My) Body”の2箇所を朗読する。エクササイズのトレーナーとのエピソードと、名前が定かでないかつての同級生をGoogleで探して思いを巡らせるエピソードと。 静かで深くて、とても素敵な声のひと。
そこから話題は自分の体や性的指向のことトラウマのこと、両親のこと、ハイチからの難民の子として(有色人種人口が少ない)ネブラスカで暮すということ、フェミニストであること、などを転々としながらもこれらのことをどうやって書くのか、どういう状態になったら書くのか、なんのために書くのか、というところに常に戻っていくのだった。
で、まずは自分のために書くこと、その限りにおいては急ぐことも無理することもなくて、書ける状態になったら、書けるところから書いていけばよいのだ、と。まとまっていなくても、断片(Fragment)でも構わない、lifeそのものがそもそもFragmentされたものなんだからね、って。
印象的だったのは、今のグローバルな社会はとにかく差異 (Difference)を恐れて、違っていることをShameだと思うように強いてくるので、そことの距離は十分にとって、自分(と自分に大切なひと)がmindfulでいられるようにすることだという指摘。これ、本当にそうで、いまの格差や差別問題の根幹てほぼここだよね。自分と同じサイズ、同じ嗜好、同じ経験、同じ肌の色であるのが当然と思って、同じでない(になれない)可能性を疑おうとしない、想像しようともしないその心証って、どこでどうやって醸成されてくるんだか(やっぱ教育なの? あの医学部関係者のしょうもなさとか)。
“Bad Feminist”はフィクションが売れなくてどうしようもなかった頃に、いろんなところに書いたものを纏めてみたら当たった、って。 ”World of Wakanda”は、最初あのMarvelではなく、別の会社のことだと思っていたのでやや驚いたが、colonizeされていない女性のことを書けるのはとても楽しい、と。
その他の話題としては、フェミニストはreligiousであってはいけないのか(もちろんそんなことないよ)とか、Western CountryとNon-Western CountryにおけるDiasporaのこととか、Twitterのこととか。
質問コーナーで影響を受けた本と作家では、Edith Whartonの”The Age of Innocence”, Laura Ingalls Wilderの“Little House on the Prairie” – 『大草原の小さな家』、Alice Walkerのいくつか、Zadie Smithの”NW”、などなど。『大草原…』は作者がレイシストであることはわかっているけど、でもしょうがなく好きなんだ、って(同感)。
他に名前が挙がったのはMarlon JamesとかFatimah Asgharとか。
あと、ほぼ知らないのでコメントしようがないのだが、TVプログラムの”Love Island”とか“Vanderpump Rules”の話題で客席ときゃーきゃー盛りあがっていた。あと、”The Real Housewives”のシリーズではどの都市が一番よいですか? の質問にはAtlantaかなあ、だって。Beverly Hillsのに出てくる連中には自分の本を読ませてやりたいよ、って(拍手)。
客席からの質問は30分以上続いて、質問する女性たちの様子から彼女の本がどれだけ彼女たちに火を点けたのか、がようくわかるのだった。最近よく使われるEmpowermentて、あんま好きな言葉ではないのだが、こういうことなんだろうな。
60年代頃からフェミニズムに関わって、そのありようについて真剣に考えてきた人たちが彼女のことをどう見て思っているのかは知らないけど、でも間違いなく彼女のvoice, body, text, act などを通してフェミニズムってこんなふうでもあんなふうでもあっていいのよ、ということになってきたのはよいことで、それだけ状況はクソみたいになってきているということだし、あんな腐れたクズ共にやられっぱなしで黙っているわけにはいかないのだ、ってこと、でいいよね?
女性作家、の関連で、11月の終わりにSOHOにオープンした女性作家本を扱う古本屋 – The Second Shelfのことを少し。
最初にぶつかったのはBarbicanでのNew Suns: A Feminist Literary Festivalのブースで、その時はそうとは知らずに買ったりしていたのだが、11月24日の土曜日から週一回、土曜日の昼間に通うようになってしまった。本当は毎日でも通いたいくらいなのだが、そうするとたぶん簡単に、ストレートに、あっという間に破産する、それくらい週ごとにここの本たちは棚から溢れて床のほうにまで増殖を続けていてホラーとしか言いようがないの。 それでも見ていない棚、触ったら瞬間でやられそうなので目をあわせないようにしている本とかがあって、1時間くらいいて汗びっしょり死にそうになって這いだしてくる、というのを繰り返しているの。(恋か..)
アメリカにいた時はそんなでもなかったのだが、こっちに来て古本の、ジャケットとか紙質も含めた美しさに魅かれるようになって、とってもたいへんやばい。女性作家の古本て、挿画も含めて素敵なのが多いし。昔ヘーレン・ハンフが夢中になって英国から取り寄せていたのも、そういうことだったのかなあ、と。
なんて書いていたらRoxane Gayさんがここを訪れているインスタが ...
[film] Le Livre d'image (2018)
2日の日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。午後いちはここでサイレントの”The Lost World” (1925)のファミリー向け上映会、ていうのを見てその直後で、これはこれでLost World的ななんかかもね、と。 英語題は”The Image Book”。
Jean-Luc Godardの新作。 LFFでは見逃して、その後にあったCiné Lumièreでの上映も逃して、これが3回目。英国 – 少なくともLondonではこの日のこの時間帯にいくつかのシアターで同時に上映していて、この1回でおわりみたい。 CurzonのBloomsburyのは売り切れていたが、BFIの上映はいちばんでっかいシアターで、座席が指定ではないので念のため早めに行ったらがらがらで半分埋まっていなかったかも。(Ciné Lumièreではシンポジウム付きの上映をやっていた)
東西のいろんな誰かに、その誰かの声を通して過去の誰かとか自分じゃない誰か、の言葉を喋らせる/伝える、という演劇ぽい(or ライブパフォーマンスぽい)アプローチをしていた直近の数作から、”Histoire(s)du cinéma” - 「映画史」の頃の過去のソースを直に読みこんで編みあげて本をつくる、というアプローチ。 ただ「映画史」の場合は「映画」という対象とその「歴史」を編むというテーマだか欲望だかが明確にあったのに対して、こんどのは「イメージ」の「本」て、あまりにぼんやり投やりなかんじはする。 でもただもちろん、「ゴダール」だからね、ていうのはどこのなににも犬のようについてまわる。 のはいつもの通り。
これはこれで論文が軽く一本書けそうな内容だと推察するのだがわたしは専門家でもなんでもなく映像とか音処理がかっこいいー、っていうばかりの、引用元だってJoan Crawfordは(見てきたばかりなので)わーってなったけど他のはあーとこれなんだっけ?あれだれだっけ? とかやっているうちに風景は後ろに飛んでいってしまい、終わったあとで復習&答え合わせすらしようとしない、という適当なやつなのだが、それでもちっとも眠くはならずにすげー、とか言っているうちに終わってしまう。ので、おもしろい、でいいと思う。
展開されていくイメージは、映画史とか美術史上のあれこれ(ゴダールのいつもの)とホロコーストやアラブ世界が関わっていそうなアーカイブ映像、ニュース映像、自身で撮ったと思われるもののコラージュで、ダビングとか重ね焼きしすぎて原型を留めず判別できなくなったような映像の塊り、あるいはスマホから4Kまで、フェイクも含めたあらゆる映像がデータとして増殖しながら勝手に流れていくなか、指先に引っかかったようなのをかろうじて拾いあげて繋いでみた、かのような。あるいは前作 “Adieu au Langage” (2014)のエピローグで語られたMary Shelley / Frankensteinがその200歳のお祝いにこんな形で立ちあがってきた、というか。
音声は何チャンネルのサラウンドなのか、これもカラフルにいろんな音像・音塊がぶつかったり散ったり廻ったりしている。それでも最後に残るのは呪文のような坊さんのようなゴダール自身の声 – これだけモノラルで動かない定点から聞こえてくるような(確認してみないとわからないけど)。
こういう- 個々の映像の文脈が取っぱらわれたように見える - 状態のなかに「今の」アラブ世界を置いてみることの意味ってなんなのか、とか。 表面だけだと70-80年代にNam June Paikがビデオアートの世界で"super highway"とか能天気にやっていたのと同じように見えたりするところもある – よくもわるくも。 アラブ世界のことってイメージの表出のしかたも含めて現在進行形ののっぴきならないトピック(これもまた西側のイメージ操作?)で、必要なのは本を編むことではなくて石つぶてを放ることだと、ゴダールはぜんぶわかってやっているのだろうけど、なんかね。 アラブ中東の悲惨さについては現地からのドキュメンタリー映像がいくらでもあって、そしてその此岸だか彼岸だかにこんなふうなコーヒーテーブル「本」がある、と?
こないだの“Visages Villages” (2017) – “Faces Places” - 『顔たち、ところどころ』でAgnès Vardaを門前払いしたあの冷たさを思いだしてしまったり。
それがゴダールだって言うのなら別にいいけどさ。けどそれがなんなのさ、くそじじい。
Jean-Luc Godardの新作。 LFFでは見逃して、その後にあったCiné Lumièreでの上映も逃して、これが3回目。英国 – 少なくともLondonではこの日のこの時間帯にいくつかのシアターで同時に上映していて、この1回でおわりみたい。 CurzonのBloomsburyのは売り切れていたが、BFIの上映はいちばんでっかいシアターで、座席が指定ではないので念のため早めに行ったらがらがらで半分埋まっていなかったかも。(Ciné Lumièreではシンポジウム付きの上映をやっていた)
東西のいろんな誰かに、その誰かの声を通して過去の誰かとか自分じゃない誰か、の言葉を喋らせる/伝える、という演劇ぽい(or ライブパフォーマンスぽい)アプローチをしていた直近の数作から、”Histoire(s)du cinéma” - 「映画史」の頃の過去のソースを直に読みこんで編みあげて本をつくる、というアプローチ。 ただ「映画史」の場合は「映画」という対象とその「歴史」を編むというテーマだか欲望だかが明確にあったのに対して、こんどのは「イメージ」の「本」て、あまりにぼんやり投やりなかんじはする。 でもただもちろん、「ゴダール」だからね、ていうのはどこのなににも犬のようについてまわる。 のはいつもの通り。
これはこれで論文が軽く一本書けそうな内容だと推察するのだがわたしは専門家でもなんでもなく映像とか音処理がかっこいいー、っていうばかりの、引用元だってJoan Crawfordは(見てきたばかりなので)わーってなったけど他のはあーとこれなんだっけ?あれだれだっけ? とかやっているうちに風景は後ろに飛んでいってしまい、終わったあとで復習&答え合わせすらしようとしない、という適当なやつなのだが、それでもちっとも眠くはならずにすげー、とか言っているうちに終わってしまう。ので、おもしろい、でいいと思う。
展開されていくイメージは、映画史とか美術史上のあれこれ(ゴダールのいつもの)とホロコーストやアラブ世界が関わっていそうなアーカイブ映像、ニュース映像、自身で撮ったと思われるもののコラージュで、ダビングとか重ね焼きしすぎて原型を留めず判別できなくなったような映像の塊り、あるいはスマホから4Kまで、フェイクも含めたあらゆる映像がデータとして増殖しながら勝手に流れていくなか、指先に引っかかったようなのをかろうじて拾いあげて繋いでみた、かのような。あるいは前作 “Adieu au Langage” (2014)のエピローグで語られたMary Shelley / Frankensteinがその200歳のお祝いにこんな形で立ちあがってきた、というか。
音声は何チャンネルのサラウンドなのか、これもカラフルにいろんな音像・音塊がぶつかったり散ったり廻ったりしている。それでも最後に残るのは呪文のような坊さんのようなゴダール自身の声 – これだけモノラルで動かない定点から聞こえてくるような(確認してみないとわからないけど)。
こういう- 個々の映像の文脈が取っぱらわれたように見える - 状態のなかに「今の」アラブ世界を置いてみることの意味ってなんなのか、とか。 表面だけだと70-80年代にNam June Paikがビデオアートの世界で"super highway"とか能天気にやっていたのと同じように見えたりするところもある – よくもわるくも。 アラブ世界のことってイメージの表出のしかたも含めて現在進行形ののっぴきならないトピック(これもまた西側のイメージ操作?)で、必要なのは本を編むことではなくて石つぶてを放ることだと、ゴダールはぜんぶわかってやっているのだろうけど、なんかね。 アラブ中東の悲惨さについては現地からのドキュメンタリー映像がいくらでもあって、そしてその此岸だか彼岸だかにこんなふうなコーヒーテーブル「本」がある、と?
こないだの“Visages Villages” (2017) – “Faces Places” - 『顔たち、ところどころ』でAgnès Vardaを門前払いしたあの冷たさを思いだしてしまったり。
それがゴダールだって言うのなら別にいいけどさ。けどそれがなんなのさ、くそじじい。
12.11.2018
[music] A Perfect Circle
5日の晩、Wembley Arenaで見ました。初めて行った。Wembleyのスタジアムの方はサッカーとかLive Aidとかをやるとこで、Arenaはその横にあって、建物は結構古い、でっかい体育館みたいなかんじ。
チケットは結構余っていたぽくて、何度も買わない? 買わない? ってでろでろ蛸のメールが次々にやってきたので3日前くらいに買っちゃった。 前座はChelsea Wolfeだし。へろへろだったのでスタンディングのフロアではなくてサイドのイス席。
どんな客層の人たちが来るのかしら? と思っていたら見事に年齢層高めのまじめそうな文系ぽい人々ばかり。暴れそうなやばめの臭いの奴はいなくて、Rushのライブに来るような連中を少しまともにしたかんじ – ってそれはただのとってもふつうのひとびとじゃんか、て自分で自分に突っこむ。
Chelsea Wolfeはライティング真っ赤かまっ黒か、闇のなかに包まれていて顔とかぜんぜん見えなくて、でもゆっくり地表を這ってばちばち火花をあげながらでっかくなっていく音はその暗がりを突き破る勢いの鳴りでかっこいいったらない。でっかい会場にぜんぜん負けない堂々たる歌いっぷり。でも次はもうちょっと近いところで見たい。
9時のAPCの開演前に野太いおっかなそうな声で、本公演はno-photo policyで行くので、一切の撮影も録音も禁止、アーティストをリスペクトしような、ていうアナウンスが流れたのでみんなスマホは切る。それでもやっているとどうなるかというと、公演中に上からサーチライト当てられて、それでもやめないと警備員のひとがそこに向かうの。客席に光がちらちらしていないととても見易くて音楽に集中できることに気づいた。昔のライブはこうだったはず – でも煙もうもう - なのよね。
ステージは奥手に円柱のお立ち台が3つ、左からKeyとG、まんなかにMaynard、一番高いとこがDrumsで、前のほうでBとGのふたりが暴れまわる。ライティングはこの円柱とか垂れ下がったプレートとかAPCの三日月とかにいろんな光があたったり浮かびあがったり。でもそれくらいでバックスクリーンはないし、Maynard を始め個々のメンバーにスポットライトが当たることは最後までなかった。
APCを見るのは初めて、1stの”Mer de Noms” (2000)がなぜか好きでずっと聴いていた、くらい。
新譜も聴いて、ちょっとおとなしくなったかしら?と、でも聴いていくうちに印象が変わっていった。タコも噛んでいればだんだんに、のかんじ。
“Eat the Elephant” - 「象をお食べ」から始まって、”Delicious” -「おいしー」で終わるアンコールなし、約100分のでっかい折詰重箱弁当。 ステージ配置、曲順と同様に一見きちんと並べられているかのようで、でもその内部で展開される音の清濁混沌としたぶっとび具合ときたらひどい、じゃなくてすごい。 アメリカにはミュージシャンシップが極まって気がついたらどうしようもなく変態、になっている連中が多い気がするが、このバンドはその典型ではないか。
バックにJames Ihaはいなくて、GとKeyで入っているGreg Edwards (Failure – Autolux)の貢献 - 音の厚みへの - がすばらしい。
新譜の初めの2曲を最初からエンディング、みたいな情感で歌いあげてから"The Hollow"で弾けて、そこから先は新旧を往ったり来たり、でも曲間のギャップはぜんぜんない。カバーの ”(What's So Funny 'bout) Peace, Love and Understanding”ですら、カバーしてます感はゼロで、アレンジをあそこまで変えてしまった責任も含めて、100%APCの楽曲としてシリアスに(元々シリアスな曲なんだけど、それを踏まえた極めて正しいアレンジで)こちらに届けてくる。
もういっこのカバーはMalcolm Young追悼でAC/DCの”Dog Eat Dog”を、これもMalcolm追悼としかいいようのないうねりと厚みで鳴らしてくる(Angusエキス薄い)。こないだBBCで流れたMaynardの“Music Ruined My Life”のリストを見ても、ほーんとどこまでも素直にまじめに音楽に壊されちゃった人なんだねえ、としか言いようがない。
そしてライブで聴いた一番の収穫はそのMaynardの声のすばらしさだったかも。ステージの後ろの暗闇の奥でタコ踊り(としか見えなかった)をしながら曲とその内容によって湿度や強度を自在に変化させていく様ときたらまるでサーカスを見ているようだった。曲間のおしゃべりはロボットみたいで半分くらいなに言っているのかわからなかったのだが。
ラストの”Delicious”でご協力ありがとうー、ってno-photo policyの禁が解かれて、客席で次々に点灯されていくスマホが紙吹雪のようにきれいに瞬く。 これいいかも。
来年はToolの年になるようだが、なんだかこわいよう。 たぶんあれの数千倍の規模でタコが。
チケットは結構余っていたぽくて、何度も買わない? 買わない? ってでろでろ蛸のメールが次々にやってきたので3日前くらいに買っちゃった。 前座はChelsea Wolfeだし。へろへろだったのでスタンディングのフロアではなくてサイドのイス席。
どんな客層の人たちが来るのかしら? と思っていたら見事に年齢層高めのまじめそうな文系ぽい人々ばかり。暴れそうなやばめの臭いの奴はいなくて、Rushのライブに来るような連中を少しまともにしたかんじ – ってそれはただのとってもふつうのひとびとじゃんか、て自分で自分に突っこむ。
Chelsea Wolfeはライティング真っ赤かまっ黒か、闇のなかに包まれていて顔とかぜんぜん見えなくて、でもゆっくり地表を這ってばちばち火花をあげながらでっかくなっていく音はその暗がりを突き破る勢いの鳴りでかっこいいったらない。でっかい会場にぜんぜん負けない堂々たる歌いっぷり。でも次はもうちょっと近いところで見たい。
9時のAPCの開演前に野太いおっかなそうな声で、本公演はno-photo policyで行くので、一切の撮影も録音も禁止、アーティストをリスペクトしような、ていうアナウンスが流れたのでみんなスマホは切る。それでもやっているとどうなるかというと、公演中に上からサーチライト当てられて、それでもやめないと警備員のひとがそこに向かうの。客席に光がちらちらしていないととても見易くて音楽に集中できることに気づいた。昔のライブはこうだったはず – でも煙もうもう - なのよね。
ステージは奥手に円柱のお立ち台が3つ、左からKeyとG、まんなかにMaynard、一番高いとこがDrumsで、前のほうでBとGのふたりが暴れまわる。ライティングはこの円柱とか垂れ下がったプレートとかAPCの三日月とかにいろんな光があたったり浮かびあがったり。でもそれくらいでバックスクリーンはないし、Maynard を始め個々のメンバーにスポットライトが当たることは最後までなかった。
APCを見るのは初めて、1stの”Mer de Noms” (2000)がなぜか好きでずっと聴いていた、くらい。
新譜も聴いて、ちょっとおとなしくなったかしら?と、でも聴いていくうちに印象が変わっていった。タコも噛んでいればだんだんに、のかんじ。
“Eat the Elephant” - 「象をお食べ」から始まって、”Delicious” -「おいしー」で終わるアンコールなし、約100分のでっかい折詰重箱弁当。 ステージ配置、曲順と同様に一見きちんと並べられているかのようで、でもその内部で展開される音の清濁混沌としたぶっとび具合ときたらひどい、じゃなくてすごい。 アメリカにはミュージシャンシップが極まって気がついたらどうしようもなく変態、になっている連中が多い気がするが、このバンドはその典型ではないか。
バックにJames Ihaはいなくて、GとKeyで入っているGreg Edwards (Failure – Autolux)の貢献 - 音の厚みへの - がすばらしい。
新譜の初めの2曲を最初からエンディング、みたいな情感で歌いあげてから"The Hollow"で弾けて、そこから先は新旧を往ったり来たり、でも曲間のギャップはぜんぜんない。カバーの ”(What's So Funny 'bout) Peace, Love and Understanding”ですら、カバーしてます感はゼロで、アレンジをあそこまで変えてしまった責任も含めて、100%APCの楽曲としてシリアスに(元々シリアスな曲なんだけど、それを踏まえた極めて正しいアレンジで)こちらに届けてくる。
もういっこのカバーはMalcolm Young追悼でAC/DCの”Dog Eat Dog”を、これもMalcolm追悼としかいいようのないうねりと厚みで鳴らしてくる(Angusエキス薄い)。こないだBBCで流れたMaynardの“Music Ruined My Life”のリストを見ても、ほーんとどこまでも素直にまじめに音楽に壊されちゃった人なんだねえ、としか言いようがない。
そしてライブで聴いた一番の収穫はそのMaynardの声のすばらしさだったかも。ステージの後ろの暗闇の奥でタコ踊り(としか見えなかった)をしながら曲とその内容によって湿度や強度を自在に変化させていく様ときたらまるでサーカスを見ているようだった。曲間のおしゃべりはロボットみたいで半分くらいなに言っているのかわからなかったのだが。
ラストの”Delicious”でご協力ありがとうー、ってno-photo policyの禁が解かれて、客席で次々に点灯されていくスマホが紙吹雪のようにきれいに瞬く。 これいいかも。
来年はToolの年になるようだが、なんだかこわいよう。 たぶんあれの数千倍の規模でタコが。
12.07.2018
[film] RBG (2018)
で、こっちが正真正銘のフェミニスト映画 – いや、なんとかイストとかイズムとかいうより正義とはどういうものか、に正面から向き合ったドキュメンタリー映画。とにかくおもしろい。
3日の月曜日の晩、BFIで見ました。 この日のこの晩、隣のRoyal Festival HallではMichelle Obamaの本の出版にあわせた彼女のトークがあって、自分ももちろんメンバー先行予約の朝にネットで突撃したわけだがオープン2時間前に入ったのに前方に3000人のキューができてて、2時間後に轟沈した。来シーズンはもっと上のレベルのメンバーになるべきか、まじで検討する。
で、当日もリターンチケットを狙って粘ったのだがネットではダメで、その替わりじゃないけど、とこっちを取った。 英国では1月に正式公開となる映画の早めのプレビューで、上映後に共同監督(制作も)のふたり - Betsy West, Julie CohenのトークとQ&Aつき。
93年に女性で史上2人目の米国最高裁判事となった現在85歳のRuth Bader Ginsburg – “Notorious R.B.G.” としてカルチュラルアイコンにまでなってしまった彼女のキャリアを追ったもの。
監督のふたりによるとドキュメンタリーを作りたいと彼女に申し入れたのは2015年の秋で、その頃はネットでこんなに騒がれるひとになるとは思っていなかった、と(映画のプロモーションにはよいことだったけど、便乗企画ではないのよ)。
ブルックリンのユダヤ系の家庭に生まれてCornellで夫となるMartin Ginsburgと出会って結婚して当時女性がぜんぜんいなかったHarvard Law Schoolに進み、夫の仕事にあわせてColumbiaに移って、子育てをしながら勉強して法学の教授になって、訴訟案件も手掛けるようになる。
映画は93年、クリントンによって最高裁判事に指名された際の上院での弁論 – Orrin Hatchとの対決 - をひとつの軸に、それ以前の分も含めて彼女が裁判で戦って勝ち取ってきた女性差別事案のいくつかを紹介していく。
その中には有名な、それまで男性のみが入学を許可されてきたVirginia Military Institute (VMI)の件(1996)などもあって、要は、女性が、女性であることを理由に除外されたり排除されたり不当な扱いを受けたりすることは憲法の精神からすれば間違っているのだ、と(異議なし)。このことを言葉を選んで、ロジカルに戦略を立てて、ゆっくりソフトな声で喋って丁寧に相手を潰していく。「傾向」とか「慣習」とか、そんな言いぐさは瞬殺される。 差別というのは差別している側が「知らなかった」「意識していなかった」で済まされることが多いけど、肝心なのは差別されている側が「いま」感じている苦痛の方であり、これは法によって断固救われなければいけないものだ。
というようなことを彼女は畳みかけるように、ではなく、とてもスローにわかりやすい言葉で説いていく。でもその破壊力ときたら爆弾以上で、でもそれに火を点けて放ってくるのは折れそうなくらい華奢で小柄な青い目をしたおばあさんである、という痛快さ。
彼女の対応した判例を追っていくと、法を通して強烈に世界を変えていったひとだねえ、て改めて思ったし、放送業界でキャリアを積んできた監督のふたり(女性)も自分が入った頃と比べると彼女が変えてくれた風景は確実にあるというし、今のこんなご時勢に彼女が注目されるのは当然のことなのだわ。
翻ってしみじみひどすぎる今の日本の差別事情に泣きたくなる(日本のLegal Landscapeって、米国だと70年代くらいのレベルよ)。入試の件なんて明確に犯罪だと思うし、女性活用を謳うなんとか委員会に男性しかいないとか、法感覚以前のところで倫理的に腐っている – だってみんなへらへら他人事じゃん - としか言いようがないし。
という法律と正義を巡る彼女の活躍とは別に、ずっと一緒に連れ添った夫Martinとの純愛としか言いようのないエピソードも横に流れていて、いいなー。
上映後のQ&Aで、彼女に映画を見せた時の反応は? という質問に、彼女が涙を見せたのは彼女が自身で音楽 - オペラへの愛を語るところで、Martinのところは結構悲しいシーンもあるのにぜんぜん平気で以外だったと(Martinについては、彼の写真とかが出てくるだけで嬉しいんだって)。
あと、先月肋骨3本折ったけど、もう元気でエクササイズも再開していて、今のところ引退するつもりもないって。
”9”がよい数字(最高裁判事の数)だから90までは、とか言っているって。
最後にDiane Warren - Jennifer Hudsonによるパワフルとしか言いようのないテーマ曲 - ”I’ll Fight”ががんがんくるし、笑えるところもいっぱい - SNLでKate McKinnonがRBGのネタをやるのを見るとことか - あるよ。
これ、日本では絶対公開されないとだめ。法曹関係者は全員必見必修だし、企業もしょうもないセクハラ対策ビデオとか流すんだったらこれを見せろ。
法律の知識ゼロでもへいきだから(学校で法律も法学もいっこも取らなかったの。経済も)。人権や正義がどうやって実現されるのか、なぜそれが必要とされるのかについて教えて、考えさせてくれる最高の教材になっているから。
RIP Pete Shelley.. ありがとうございました。
3日の月曜日の晩、BFIで見ました。 この日のこの晩、隣のRoyal Festival HallではMichelle Obamaの本の出版にあわせた彼女のトークがあって、自分ももちろんメンバー先行予約の朝にネットで突撃したわけだがオープン2時間前に入ったのに前方に3000人のキューができてて、2時間後に轟沈した。来シーズンはもっと上のレベルのメンバーになるべきか、まじで検討する。
で、当日もリターンチケットを狙って粘ったのだがネットではダメで、その替わりじゃないけど、とこっちを取った。 英国では1月に正式公開となる映画の早めのプレビューで、上映後に共同監督(制作も)のふたり - Betsy West, Julie CohenのトークとQ&Aつき。
93年に女性で史上2人目の米国最高裁判事となった現在85歳のRuth Bader Ginsburg – “Notorious R.B.G.” としてカルチュラルアイコンにまでなってしまった彼女のキャリアを追ったもの。
監督のふたりによるとドキュメンタリーを作りたいと彼女に申し入れたのは2015年の秋で、その頃はネットでこんなに騒がれるひとになるとは思っていなかった、と(映画のプロモーションにはよいことだったけど、便乗企画ではないのよ)。
ブルックリンのユダヤ系の家庭に生まれてCornellで夫となるMartin Ginsburgと出会って結婚して当時女性がぜんぜんいなかったHarvard Law Schoolに進み、夫の仕事にあわせてColumbiaに移って、子育てをしながら勉強して法学の教授になって、訴訟案件も手掛けるようになる。
映画は93年、クリントンによって最高裁判事に指名された際の上院での弁論 – Orrin Hatchとの対決 - をひとつの軸に、それ以前の分も含めて彼女が裁判で戦って勝ち取ってきた女性差別事案のいくつかを紹介していく。
その中には有名な、それまで男性のみが入学を許可されてきたVirginia Military Institute (VMI)の件(1996)などもあって、要は、女性が、女性であることを理由に除外されたり排除されたり不当な扱いを受けたりすることは憲法の精神からすれば間違っているのだ、と(異議なし)。このことを言葉を選んで、ロジカルに戦略を立てて、ゆっくりソフトな声で喋って丁寧に相手を潰していく。「傾向」とか「慣習」とか、そんな言いぐさは瞬殺される。 差別というのは差別している側が「知らなかった」「意識していなかった」で済まされることが多いけど、肝心なのは差別されている側が「いま」感じている苦痛の方であり、これは法によって断固救われなければいけないものだ。
というようなことを彼女は畳みかけるように、ではなく、とてもスローにわかりやすい言葉で説いていく。でもその破壊力ときたら爆弾以上で、でもそれに火を点けて放ってくるのは折れそうなくらい華奢で小柄な青い目をしたおばあさんである、という痛快さ。
彼女の対応した判例を追っていくと、法を通して強烈に世界を変えていったひとだねえ、て改めて思ったし、放送業界でキャリアを積んできた監督のふたり(女性)も自分が入った頃と比べると彼女が変えてくれた風景は確実にあるというし、今のこんなご時勢に彼女が注目されるのは当然のことなのだわ。
翻ってしみじみひどすぎる今の日本の差別事情に泣きたくなる(日本のLegal Landscapeって、米国だと70年代くらいのレベルよ)。入試の件なんて明確に犯罪だと思うし、女性活用を謳うなんとか委員会に男性しかいないとか、法感覚以前のところで倫理的に腐っている – だってみんなへらへら他人事じゃん - としか言いようがないし。
という法律と正義を巡る彼女の活躍とは別に、ずっと一緒に連れ添った夫Martinとの純愛としか言いようのないエピソードも横に流れていて、いいなー。
上映後のQ&Aで、彼女に映画を見せた時の反応は? という質問に、彼女が涙を見せたのは彼女が自身で音楽 - オペラへの愛を語るところで、Martinのところは結構悲しいシーンもあるのにぜんぜん平気で以外だったと(Martinについては、彼の写真とかが出てくるだけで嬉しいんだって)。
あと、先月肋骨3本折ったけど、もう元気でエクササイズも再開していて、今のところ引退するつもりもないって。
”9”がよい数字(最高裁判事の数)だから90までは、とか言っているって。
最後にDiane Warren - Jennifer Hudsonによるパワフルとしか言いようのないテーマ曲 - ”I’ll Fight”ががんがんくるし、笑えるところもいっぱい - SNLでKate McKinnonがRBGのネタをやるのを見るとことか - あるよ。
これ、日本では絶対公開されないとだめ。法曹関係者は全員必見必修だし、企業もしょうもないセクハラ対策ビデオとか流すんだったらこれを見せろ。
法律の知識ゼロでもへいきだから(学校で法律も法学もいっこも取らなかったの。経済も)。人権や正義がどうやって実現されるのか、なぜそれが必要とされるのかについて教えて、考えさせてくれる最高の教材になっているから。
RIP Pete Shelley.. ありがとうございました。
12.06.2018
[film] 9 to 5 (1980)
11月28日水曜日の晩、BFIのComedy Genius特集で見ました。前にも書いたように、これの4Kリストアにあわせたリバイバル上映とJane Fondaの登場(+ 特集)がこの企画の目玉のひとつだし、立て看板も出ているので見てみようかな、と。
ヒットした主題歌のことは知っていたし、”9 to 5”というのが会社の始業時刻と終業時刻を示すものだというのも確かこれで学んだのだが、当時ちーっとも見る気がしなかったのは、自分はこういう世界に入っていくことになるなんて1ミリも思っていなかったからで、同様の理由で”The Secret of my Success” (1987) -『摩天楼はバラ色に』も見てない。(”Working Girl” (1988) は見たな。 Girlsモノだと思ったのかな)
おめでたいことだったねえ、と思うし、ほうれ見たことか、とも思う。気が付いたらこんなんなってて、どうすんのさ、って。
Judy (Jane Fonda)は彼と別れて人生をリセットすべく職を探して、なんとか大企業の秘書の職を得て、てきぱきした上司のViolet (Lily Tomlin)にくっついていくのが精一杯で、でもだんだんそこのボス(Dabney Coleman)の横暴さ – Violetのやったことを自分の手柄にする、けど昇進は別の男に、とか、同僚を平気でクビに、とか - にあきれてきて、そこに同様にセクハラの対象に曝されてあったま来ているDoralee (Dolly Parton)も加わって、酔っ払ってはっぱ吸ってあのクソ野郎をどうやって虐めるか八つ裂きにするか、とか妄想して盛りあがっている(あるある)。
翌日Violetはぼうっとした頭でボスのコーヒーに殺鼠剤を入れてしまい、椅子から転げ落ちて気を失っただけの彼を勘違いして病院送りにして、死んでなくてよかったのだが、ちょっと待てこのままこいつをどっかに閉じ込めておければ、と思いついて、彼が裏でやってる悪事の証拠を取り寄せるのと、彼がオフィスにいないうちに好き勝手にやっちゃえ、って改善活動して、でもやがて戻ってきやがったら逮捕するとか息巻いてて。(本当は最初のすれ違いのときに殺して死体も差し替えておけば .. ってこれじゃサスペンスになっちゃうか)
最初は虐げられている3人のOLが力をあわせて性悪上司をとっちめるシンプルな奴(or それを通して自分を取り戻していくJudyのお話し)かと思っていたら、3人もそれぞれ相当にワルで、そのえげつないやり合い刺し合いが楽しいのだが、最後は結局どれも会社のためみんなのためになっちゃうのでなんですかこれ? っていうブラックユーモア。 でいいの?
(たぶんだれもやらないだろうけど)これを今の会社のコンプラ教材として使って「誰のどこがいけなかったと思いますか?」とかやってみたらどっち側にも相当酷い点がつきそうだし、「じゃあどうすべきだったのでしょう?」てやると、もっと早い段階でSpeak Upを! とかになるんだろうか。 でもさあSpeak Upできない状態にあったからこうなっていったわけで、そういう状態にしておいたのは会社だってこと、そしてそれをいまになってしゃあしゃあとSpeak Upだの言い出したのも同じ会社だってこと忘れちゃだめよ。社会の縮図だねえ、とか言うのは簡単だけど、こんなの社会の縮図にしたってくそ不愉快だから、この映画くらいの適当に壊れたかんじでいいのかも。
そういう点で割と最近の”The Wolf of Wall Street” (2013) は壊れててよかったねえ。(あれは実話で、実際に壊れたわけだが)
共同脚本のPatricia Resnickさんは当時のオフィス事情をきちんとリサーチして書いているのでOA機器(って今は言わないの?)以外のところの雰囲気、空気感みたいのはあんなふうかも(こそこそ話しててもだいたい伝わってきちゃう、とか)。 そういう辺りから今の会社・オフィスのありようを含めて振り返ってみたりするのにはよいネタかも。
コメディとしては、そんなに笑えないかなあ。以下の記事にあるようにフェミニストの映画ではないよね。 系列としてはやがて“Horrible Bosses” (2011) あたりに繋がっていくどたばた系のやつよね。
https://www.theguardian.com/film/2018/oct/19/is-9-to-5-really-a-feminist-movie
ヒットした主題歌のことは知っていたし、”9 to 5”というのが会社の始業時刻と終業時刻を示すものだというのも確かこれで学んだのだが、当時ちーっとも見る気がしなかったのは、自分はこういう世界に入っていくことになるなんて1ミリも思っていなかったからで、同様の理由で”The Secret of my Success” (1987) -『摩天楼はバラ色に』も見てない。(”Working Girl” (1988) は見たな。 Girlsモノだと思ったのかな)
おめでたいことだったねえ、と思うし、ほうれ見たことか、とも思う。気が付いたらこんなんなってて、どうすんのさ、って。
Judy (Jane Fonda)は彼と別れて人生をリセットすべく職を探して、なんとか大企業の秘書の職を得て、てきぱきした上司のViolet (Lily Tomlin)にくっついていくのが精一杯で、でもだんだんそこのボス(Dabney Coleman)の横暴さ – Violetのやったことを自分の手柄にする、けど昇進は別の男に、とか、同僚を平気でクビに、とか - にあきれてきて、そこに同様にセクハラの対象に曝されてあったま来ているDoralee (Dolly Parton)も加わって、酔っ払ってはっぱ吸ってあのクソ野郎をどうやって虐めるか八つ裂きにするか、とか妄想して盛りあがっている(あるある)。
翌日Violetはぼうっとした頭でボスのコーヒーに殺鼠剤を入れてしまい、椅子から転げ落ちて気を失っただけの彼を勘違いして病院送りにして、死んでなくてよかったのだが、ちょっと待てこのままこいつをどっかに閉じ込めておければ、と思いついて、彼が裏でやってる悪事の証拠を取り寄せるのと、彼がオフィスにいないうちに好き勝手にやっちゃえ、って改善活動して、でもやがて戻ってきやがったら逮捕するとか息巻いてて。(本当は最初のすれ違いのときに殺して死体も差し替えておけば .. ってこれじゃサスペンスになっちゃうか)
最初は虐げられている3人のOLが力をあわせて性悪上司をとっちめるシンプルな奴(or それを通して自分を取り戻していくJudyのお話し)かと思っていたら、3人もそれぞれ相当にワルで、そのえげつないやり合い刺し合いが楽しいのだが、最後は結局どれも会社のためみんなのためになっちゃうのでなんですかこれ? っていうブラックユーモア。 でいいの?
(たぶんだれもやらないだろうけど)これを今の会社のコンプラ教材として使って「誰のどこがいけなかったと思いますか?」とかやってみたらどっち側にも相当酷い点がつきそうだし、「じゃあどうすべきだったのでしょう?」てやると、もっと早い段階でSpeak Upを! とかになるんだろうか。 でもさあSpeak Upできない状態にあったからこうなっていったわけで、そういう状態にしておいたのは会社だってこと、そしてそれをいまになってしゃあしゃあとSpeak Upだの言い出したのも同じ会社だってこと忘れちゃだめよ。社会の縮図だねえ、とか言うのは簡単だけど、こんなの社会の縮図にしたってくそ不愉快だから、この映画くらいの適当に壊れたかんじでいいのかも。
そういう点で割と最近の”The Wolf of Wall Street” (2013) は壊れててよかったねえ。(あれは実話で、実際に壊れたわけだが)
共同脚本のPatricia Resnickさんは当時のオフィス事情をきちんとリサーチして書いているのでOA機器(って今は言わないの?)以外のところの雰囲気、空気感みたいのはあんなふうかも(こそこそ話しててもだいたい伝わってきちゃう、とか)。 そういう辺りから今の会社・オフィスのありようを含めて振り返ってみたりするのにはよいネタかも。
コメディとしては、そんなに笑えないかなあ。以下の記事にあるようにフェミニストの映画ではないよね。 系列としてはやがて“Horrible Bosses” (2011) あたりに繋がっていくどたばた系のやつよね。
https://www.theguardian.com/film/2018/oct/19/is-9-to-5-really-a-feminist-movie
[film] Garry Winogrand: All Things are Photographable (2018)
11月27日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
今年のSXSW Film FestivalでSpecial Jury Awardを受賞している。
写真家Garry Winograndの作品と生涯を追って、でも彼自身が記録や証言やノートやメモをそんなに残しているわけではないので、彼の生前に関係あった人たちの証言やインタビューを彼の生涯に沿って並べていく。彼自身のインタビューやトークの映像、彼が撮った8mmの映像も少しだけ。もちろん写真だけは大量にあるので、なによりそれを見ろ、って。
ただものすごくいろんなテーマ(ていうかテーマを置いて撮っていないよね)の、ただ撮りましたみたいのが大量にあって捉えどころがないことも確かで、ある人はそれを写真界のNorman Mailerに例えたり、ある人は彼の被写体の人たちはみんなダンスを踊っている – 彼は写真界のJerome RobbinsでありBob Fosseなのだ、とか言うし。
写真家同士でいうと、同時期の「アメリカ」を捕えたRobert Frankとの比較(Robert Frankのアメリカはアメリカの外から来たひとのそれ)、あるいは括弧で括らないアメリカの風景を追うWalker Evans、並べて語られることの多いDiane ArbusやLee Friedlanderとの比較。 彼らを拾いあげて”New Documents” としてキュレーションしたMoMA写真部門の大御所 - John Szarkowskiの眼。
個々の写真を並べてそういう(キュレーター的な)視点から彼のカメラが追っていたもの、彼の写真が写しだしてきたものに迫る、それもよいのだが、とにかく彼の写真て、スクリーンにでっかく映しだされると今にも動きだしそうなすごい迫力で圧してきて、眺めておもしろいったらない、というのがまずわかったこと。とにかくそうやってぱらぱらと追っていくのが楽しくて、彼にとっての写真って言葉や文章でだらだらべらべら綴って追って考えるものではなく、大量に並べられたコンタクトシートやロールの間からぼんやり浮かんでくるなにかで、彼はそこに埋もれていられれば十分だったのではないかしら。
たまに被さってくる彼自身の声は割れんばかりのブロンクス訛りで、被写体に寄り添うなんて繊細なかんじはこれぽっちもない、彼が写真を撮っている姿なんて、道路にてきとーに突っ立って、フィルムをくいくい装着して(←この動きがおもしろ)ろくにファインダーも眺めずにぱしゃぱしゃ乱れ撃ちしてそれだけ。 見つめる/捕える、というよりも眺める/切り取る、そんな無造作な動作のなかから生みだされてくるDocuments - “All Things are Photographable”て言い切る不遜さ、適当さ。 - 改めて”The Animals” (1969)や ”Public Relations” (1977) に見られるインターアクションのおもしろさ、フレームの外に向かっていって決して閉じることなく動いていく人々の目線とか。
でも”Women are Beautiful” (1984)はフェミニズム観点では賛否あったりするのね - (結局彼が追っているのは女性の乳首だけなのよ)- とか。
彼の闘病もあって西海岸の方に移ってからの作品は力が落ちたと賛否が分かれていることも知ったが、そうなのかしら。彼の写真て、例えば通りの隅に立って雑踏を見渡したときに最初に飛び込んでくるいろんなの、そこでわーっとくる瞬間をスライスしているようで、その風景がその瞬間にもたらす鮮烈ななにか(光)はそんなに変わっていない、失われていないような。 晩年は朝にしか撮らなかったという、その朝の光もまた(美しい、ていうのとは違うけど)。
とにかく、彼の写真がまだいくらでも残っているのであれば、可能な限り見れるし見たいし、見られるべき、て思った。 江戸の風俗画とか、誰のであってもいくらでも眺めていられるのと同じかんじかも。
ラストにあーら懐かし、R.E.M.の”Catapult”が流れるのがうれしい。”Did we miss anything?” てフレーズが繰り返される曲なの。
今年のSXSW Film FestivalでSpecial Jury Awardを受賞している。
写真家Garry Winograndの作品と生涯を追って、でも彼自身が記録や証言やノートやメモをそんなに残しているわけではないので、彼の生前に関係あった人たちの証言やインタビューを彼の生涯に沿って並べていく。彼自身のインタビューやトークの映像、彼が撮った8mmの映像も少しだけ。もちろん写真だけは大量にあるので、なによりそれを見ろ、って。
ただものすごくいろんなテーマ(ていうかテーマを置いて撮っていないよね)の、ただ撮りましたみたいのが大量にあって捉えどころがないことも確かで、ある人はそれを写真界のNorman Mailerに例えたり、ある人は彼の被写体の人たちはみんなダンスを踊っている – 彼は写真界のJerome RobbinsでありBob Fosseなのだ、とか言うし。
写真家同士でいうと、同時期の「アメリカ」を捕えたRobert Frankとの比較(Robert Frankのアメリカはアメリカの外から来たひとのそれ)、あるいは括弧で括らないアメリカの風景を追うWalker Evans、並べて語られることの多いDiane ArbusやLee Friedlanderとの比較。 彼らを拾いあげて”New Documents” としてキュレーションしたMoMA写真部門の大御所 - John Szarkowskiの眼。
個々の写真を並べてそういう(キュレーター的な)視点から彼のカメラが追っていたもの、彼の写真が写しだしてきたものに迫る、それもよいのだが、とにかく彼の写真て、スクリーンにでっかく映しだされると今にも動きだしそうなすごい迫力で圧してきて、眺めておもしろいったらない、というのがまずわかったこと。とにかくそうやってぱらぱらと追っていくのが楽しくて、彼にとっての写真って言葉や文章でだらだらべらべら綴って追って考えるものではなく、大量に並べられたコンタクトシートやロールの間からぼんやり浮かんでくるなにかで、彼はそこに埋もれていられれば十分だったのではないかしら。
たまに被さってくる彼自身の声は割れんばかりのブロンクス訛りで、被写体に寄り添うなんて繊細なかんじはこれぽっちもない、彼が写真を撮っている姿なんて、道路にてきとーに突っ立って、フィルムをくいくい装着して(←この動きがおもしろ)ろくにファインダーも眺めずにぱしゃぱしゃ乱れ撃ちしてそれだけ。 見つめる/捕える、というよりも眺める/切り取る、そんな無造作な動作のなかから生みだされてくるDocuments - “All Things are Photographable”て言い切る不遜さ、適当さ。 - 改めて”The Animals” (1969)や ”Public Relations” (1977) に見られるインターアクションのおもしろさ、フレームの外に向かっていって決して閉じることなく動いていく人々の目線とか。
でも”Women are Beautiful” (1984)はフェミニズム観点では賛否あったりするのね - (結局彼が追っているのは女性の乳首だけなのよ)- とか。
彼の闘病もあって西海岸の方に移ってからの作品は力が落ちたと賛否が分かれていることも知ったが、そうなのかしら。彼の写真て、例えば通りの隅に立って雑踏を見渡したときに最初に飛び込んでくるいろんなの、そこでわーっとくる瞬間をスライスしているようで、その風景がその瞬間にもたらす鮮烈ななにか(光)はそんなに変わっていない、失われていないような。 晩年は朝にしか撮らなかったという、その朝の光もまた(美しい、ていうのとは違うけど)。
とにかく、彼の写真がまだいくらでも残っているのであれば、可能な限り見れるし見たいし、見られるべき、て思った。 江戸の風俗画とか、誰のであってもいくらでも眺めていられるのと同じかんじかも。
ラストにあーら懐かし、R.E.M.の”Catapult”が流れるのがうれしい。”Did we miss anything?” てフレーズが繰り返される曲なの。
12.05.2018
[film] Last Night (1998)
11月18日、日曜日の昼間、Prince Charles Cinemaで見ました。なんかの映画祭の関連企画で、1回きりの上映。 35mmで。 日本では公開されていないみたい。タイトルは「昨晩」ではなくて「最後の晩」のほう。
最近の子は知らないかもだけど、前世紀の終わりには2000年問題ていうのがあって、更にその少し前にはノストラダムスの予言とかあって、2000年になるときに地球は滅びるよって言われていたことがあって、「どうせみんななくなっちゃうんだから、さ」とか「なくなっちゃうとして最後になにする、なに食べる?」とか、そういうのをムダに考えていた時代 - 村上春樹の大部分てこの辺からきていると思う - があって、ほーんとあの頃のあの時間を返してほしいわ、って思うけど、返してもらったからってどうせろくなことに使わないであろうことはわかっている。くらいの大人にはなった。
カナダの俳優のDon McKellarが自分で書いて主演して監督した自主製作ぽいかんじの – そういう事情によるのかカナダの映画人たち - Sarah PolleyとかDavid Cronenbergが出演している。でもとにかく映画そのものはすばらしくよかった。
深夜の12時がくると世界が隅から隅までぜんぶ、完全に終わってしまう – そういうことになっていてもうどうすることもできないらしい – その当日の昼から、トロントの街中はお祭りしていたりやけのどんちゃん騒ぎしたり泥棒や暴行もやりたい放題が横行していて、その中にあって横一線で最後を迎えようとしているいろんな人達の動きを追っていく。
妻に先立たれて独り身でどんよりしているPatrick (Don McKellar)は、一応実家に行ってクリスマスとサンクスギビングが一緒になったような家族そろって(姉にSarah Polleyとか)のお食事の会をするのだが最後の瞬間はひとりで過ごしたいから、って自分のとこに戻ろうとする。
Sandra (Sandra Oh)は車で移動中に買い物をしようと車を止めたら車を勝手に移動されて壊されて、夫と連絡とりたいのにどうしよう、て泣いて往生しているときに戻る途中のPatrickと出会って、Patrickは一緒に夫を探してあげることにする。
Patrickの友達のCraig (Callum Keith Rennie)は朝からセックスマラソンをしてて、これまでやったことがないようなのを、と別の人種のひととか高校の時のフランス語の先生とかヴァージンとか次々に自分のアパートに呼んで懸命にがんばっていて、そこにPatrickとSandraがきて彼がコレクションしている車をくれ(どうせいらないだろ)、という。(CraigはついでにPatrickともやってみたい、と提案するが拒否される)
ガス会社に勤務するSandraの夫のDuncan (David Cronenberg) は顧客名簿の上から順に線を引きながら暖房のためのガスは最後まで供給しますから、って律義に一軒一軒電話をしていって、それが終わって帰る途中に殺されてしまう。Duncanと心中するつもりだったSandraは悲しむのだが、Patrickがぼくでよければ、って申し出たのでふたりは銃を手にして –
他にもいろんな人が出てきて、それぞれに焦ったり騒いだり嘆き悲しんだりべったりくっついたり、その描き方、距離がとても丁寧なのでそこがかえって都市の終末感 – ああ世界は終わっちゃうんだねえ、を膨らませていて、いいの。もう会うのはこれで最後になるであろういろんな人たち、のようにカメラが登場人物たちを見つめて、登場人物たちも見返してくる。
俳優さんはみな素敵なのだが、監督が彼女を想定して書いたというSandra Ohがすばらしくて、もしラストで彼女とDuncanが出会うことができていたら - Sandra OhとDavid Cronenbergがどう絡んだのか、は見てみたかったかも。
もちろん映画は0:00 – 世界の最後の瞬間(のほんの少し手前)でおわるのだが、誰もがその瞬間、自分はどこにいて誰となにをするだろうか、どうやって終わりたいだろうか、って考えると思う。キスをして終わるのか、殺しあって終わるのか、どっちにしても息を止めて。 そんなことを考えさせるように内側に刺さってくるので、よい映画だわ、って。
最後には本を読むべきか音楽を聴くべきか、映画.. はちがうかな、とか。あるいは最後に読む本、聴くレコード、見る映画は、食べ物は、とかのリストは。
そして気がつけば2018ベストがちょこちょこ発表されだしていて、2018年の世界は終わろうとしているのだった。
最近の子は知らないかもだけど、前世紀の終わりには2000年問題ていうのがあって、更にその少し前にはノストラダムスの予言とかあって、2000年になるときに地球は滅びるよって言われていたことがあって、「どうせみんななくなっちゃうんだから、さ」とか「なくなっちゃうとして最後になにする、なに食べる?」とか、そういうのをムダに考えていた時代 - 村上春樹の大部分てこの辺からきていると思う - があって、ほーんとあの頃のあの時間を返してほしいわ、って思うけど、返してもらったからってどうせろくなことに使わないであろうことはわかっている。くらいの大人にはなった。
カナダの俳優のDon McKellarが自分で書いて主演して監督した自主製作ぽいかんじの – そういう事情によるのかカナダの映画人たち - Sarah PolleyとかDavid Cronenbergが出演している。でもとにかく映画そのものはすばらしくよかった。
深夜の12時がくると世界が隅から隅までぜんぶ、完全に終わってしまう – そういうことになっていてもうどうすることもできないらしい – その当日の昼から、トロントの街中はお祭りしていたりやけのどんちゃん騒ぎしたり泥棒や暴行もやりたい放題が横行していて、その中にあって横一線で最後を迎えようとしているいろんな人達の動きを追っていく。
妻に先立たれて独り身でどんよりしているPatrick (Don McKellar)は、一応実家に行ってクリスマスとサンクスギビングが一緒になったような家族そろって(姉にSarah Polleyとか)のお食事の会をするのだが最後の瞬間はひとりで過ごしたいから、って自分のとこに戻ろうとする。
Sandra (Sandra Oh)は車で移動中に買い物をしようと車を止めたら車を勝手に移動されて壊されて、夫と連絡とりたいのにどうしよう、て泣いて往生しているときに戻る途中のPatrickと出会って、Patrickは一緒に夫を探してあげることにする。
Patrickの友達のCraig (Callum Keith Rennie)は朝からセックスマラソンをしてて、これまでやったことがないようなのを、と別の人種のひととか高校の時のフランス語の先生とかヴァージンとか次々に自分のアパートに呼んで懸命にがんばっていて、そこにPatrickとSandraがきて彼がコレクションしている車をくれ(どうせいらないだろ)、という。(CraigはついでにPatrickともやってみたい、と提案するが拒否される)
ガス会社に勤務するSandraの夫のDuncan (David Cronenberg) は顧客名簿の上から順に線を引きながら暖房のためのガスは最後まで供給しますから、って律義に一軒一軒電話をしていって、それが終わって帰る途中に殺されてしまう。Duncanと心中するつもりだったSandraは悲しむのだが、Patrickがぼくでよければ、って申し出たのでふたりは銃を手にして –
他にもいろんな人が出てきて、それぞれに焦ったり騒いだり嘆き悲しんだりべったりくっついたり、その描き方、距離がとても丁寧なのでそこがかえって都市の終末感 – ああ世界は終わっちゃうんだねえ、を膨らませていて、いいの。もう会うのはこれで最後になるであろういろんな人たち、のようにカメラが登場人物たちを見つめて、登場人物たちも見返してくる。
俳優さんはみな素敵なのだが、監督が彼女を想定して書いたというSandra Ohがすばらしくて、もしラストで彼女とDuncanが出会うことができていたら - Sandra OhとDavid Cronenbergがどう絡んだのか、は見てみたかったかも。
もちろん映画は0:00 – 世界の最後の瞬間(のほんの少し手前)でおわるのだが、誰もがその瞬間、自分はどこにいて誰となにをするだろうか、どうやって終わりたいだろうか、って考えると思う。キスをして終わるのか、殺しあって終わるのか、どっちにしても息を止めて。 そんなことを考えさせるように内側に刺さってくるので、よい映画だわ、って。
最後には本を読むべきか音楽を聴くべきか、映画.. はちがうかな、とか。あるいは最後に読む本、聴くレコード、見る映画は、食べ物は、とかのリストは。
そして気がつけば2018ベストがちょこちょこ発表されだしていて、2018年の世界は終わろうとしているのだった。
12.04.2018
[film] The Other Side of Everything (2017)
11月13日、火曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
原題は”Druga strana svega”。監督はMila Turajlićで、セルビアのベオグラードにある彼女が生まれ育ったアパートが舞台。で、登場人物はほぼひとり - 彼女の母で、引退した大学教授(電気工学専攻)で、政治活動家(ずっと)で、政治家として閣僚経験もあるSrbijanka Turajlić。彼女も同じアパートで生まれ育って、今もずーっとそこにいて、家の手すりや取っ手を磨いたりしている。
彼女たちが暮らしているアパートには第二次大戦直後(Srbijankaが2歳のとき)に当時の共産主義政権によって閉じられた扉があって、その扉の向こう側の部屋は政府が没収して別の家庭に与えてしまったので、SrbijankaもMilaもたまに音がしたり食べ物の匂いがしたり誰かが暮らしていることはわかるものの、向こう側がどうなっているのかは全くわからないままに70年近くが過ぎている。
初めはその開かずの扉を巡って、その扉の向こうにはいったい何が? ひょっとしたらあんなのとかこんなのとかが? の謎や驚きを探るようなやつかと思ったのだがそうではなくて、母Srbijankaの言葉により語られる家族の歴史、そしてユーゴスラヴィア – セルビアの歴史、そしてそこに並走していくニュースやアーカイブの映像、など。 監督の曽祖父のDušan Pelešはユーゴ建国の起草書にサインをしているくらいの人物で代々法律家で、そのアパートも彼がその場所に建てたもので、そういう歴史や血を背負った彼女(たち)がアパートの窓から見渡す風景(頻繁に集会やデモや騒ぎが起きてる)はどんなもので、それはどう変わっていったのか。
ユーゴスラヴィア - セルビアの歴史に詳しくない – せいぜいミロシェヴィッチの頃のことくらいしかわからなくても、ひとりの女性、ひとつのアパート、そのいくつかの窓、扉を通して語られる自国の歴史がこれほどまでにダイナミックで生々しいものになるものか、と感動する。それはもちろん、彼女の家族が辿ってきた運命 - 家も彼女の活動もずっと当局の監視下にあった - や、そういったことが培ってきた政治に対する意識によるところが大きいのかもしれないが、でも、普段毎日ずっと見つめている手すりとか蝶番とか小さな覗き窓(筋とは関係ないけどそれらの意匠はとても素敵)から、その向こう側に広がる世界を、その向こう側を成り立たせている世界のありようとかこちら側と向こう側の差異とかについて考えてみることって、そんなに難しいこととは思えないし、我々も割と無意識にぼんやり考えたり想像したりしていることではなかろうか。
という具合にこちらの扉を叩いてくるなにかが描かれているのと、Srbijanka Turajlićそのひとの落ち着いた物腰、タバコを吸いながら遠くを見る目、ゆっくりと喋る低めのハスキーな声、Ministry of Educationにいたことがあるくらいなので教育者としてとても優れたひとだったのだろうな、ていうのと、なによりあれだけ不安定な時代をくぐり抜けてきてもなお、希望を失っていない – 少なくとも絶望はしていない、その姿を見ているだけでなんかよいの。
撮影中に扉の向こう側に住んでいた人は高齢のため亡くなって、最後の最後に開かずの扉が開かれるのだが、ちっともドラマチックな描き方をしていないのもよかった。扉の向こう側にあったのは扉の向こう側にあった世界だった(やっぱりな)、みたいな。 もちろん、Srbijankaさんがそこに見たものがどんなだったか、知る由もないのだが。
あと、扉がその向こうに積んであるなにかによって開かなくなったりするのは民主化とはまったく関係のないお片づけ事案なので、積みあげるのはやめてこまめにお片づけをしないとね、って師走だから書いておくから。 もう師走なんだからね。
原題は”Druga strana svega”。監督はMila Turajlićで、セルビアのベオグラードにある彼女が生まれ育ったアパートが舞台。で、登場人物はほぼひとり - 彼女の母で、引退した大学教授(電気工学専攻)で、政治活動家(ずっと)で、政治家として閣僚経験もあるSrbijanka Turajlić。彼女も同じアパートで生まれ育って、今もずーっとそこにいて、家の手すりや取っ手を磨いたりしている。
彼女たちが暮らしているアパートには第二次大戦直後(Srbijankaが2歳のとき)に当時の共産主義政権によって閉じられた扉があって、その扉の向こう側の部屋は政府が没収して別の家庭に与えてしまったので、SrbijankaもMilaもたまに音がしたり食べ物の匂いがしたり誰かが暮らしていることはわかるものの、向こう側がどうなっているのかは全くわからないままに70年近くが過ぎている。
初めはその開かずの扉を巡って、その扉の向こうにはいったい何が? ひょっとしたらあんなのとかこんなのとかが? の謎や驚きを探るようなやつかと思ったのだがそうではなくて、母Srbijankaの言葉により語られる家族の歴史、そしてユーゴスラヴィア – セルビアの歴史、そしてそこに並走していくニュースやアーカイブの映像、など。 監督の曽祖父のDušan Pelešはユーゴ建国の起草書にサインをしているくらいの人物で代々法律家で、そのアパートも彼がその場所に建てたもので、そういう歴史や血を背負った彼女(たち)がアパートの窓から見渡す風景(頻繁に集会やデモや騒ぎが起きてる)はどんなもので、それはどう変わっていったのか。
ユーゴスラヴィア - セルビアの歴史に詳しくない – せいぜいミロシェヴィッチの頃のことくらいしかわからなくても、ひとりの女性、ひとつのアパート、そのいくつかの窓、扉を通して語られる自国の歴史がこれほどまでにダイナミックで生々しいものになるものか、と感動する。それはもちろん、彼女の家族が辿ってきた運命 - 家も彼女の活動もずっと当局の監視下にあった - や、そういったことが培ってきた政治に対する意識によるところが大きいのかもしれないが、でも、普段毎日ずっと見つめている手すりとか蝶番とか小さな覗き窓(筋とは関係ないけどそれらの意匠はとても素敵)から、その向こう側に広がる世界を、その向こう側を成り立たせている世界のありようとかこちら側と向こう側の差異とかについて考えてみることって、そんなに難しいこととは思えないし、我々も割と無意識にぼんやり考えたり想像したりしていることではなかろうか。
という具合にこちらの扉を叩いてくるなにかが描かれているのと、Srbijanka Turajlićそのひとの落ち着いた物腰、タバコを吸いながら遠くを見る目、ゆっくりと喋る低めのハスキーな声、Ministry of Educationにいたことがあるくらいなので教育者としてとても優れたひとだったのだろうな、ていうのと、なによりあれだけ不安定な時代をくぐり抜けてきてもなお、希望を失っていない – 少なくとも絶望はしていない、その姿を見ているだけでなんかよいの。
撮影中に扉の向こう側に住んでいた人は高齢のため亡くなって、最後の最後に開かずの扉が開かれるのだが、ちっともドラマチックな描き方をしていないのもよかった。扉の向こう側にあったのは扉の向こう側にあった世界だった(やっぱりな)、みたいな。 もちろん、Srbijankaさんがそこに見たものがどんなだったか、知る由もないのだが。
あと、扉がその向こうに積んであるなにかによって開かなくなったりするのは民主化とはまったく関係のないお片づけ事案なので、積みあげるのはやめてこまめにお片づけをしないとね、って師走だから書いておくから。 もう師走なんだからね。
[television] The Young Ones (1982-84)
11月24日土曜日の午後、BFIのComedy Genius特集で見ました。
映画ではなくて80年代の英国のTVのSitcomで、Q&Aも含めると210分のやつだったが、ぜんぜん知らなかったしお勉強のために行ってみようか、と。
会場はBFIのいちばんでっかいところで、Sold Outはしていなかったみたいだがほぼいっぱい、同年代にしか見えない熱のこもった怪しそうな老人たちで埋まっていて、The Clashとかのオールドパンクががんがん流れている。えらくなごめる。
上映前にBFIのひとが出てきて、後の時代になって”Game Changer”と呼ばれる作品がある、先週BFIで紹介した”I Love Lucy”は米国SitcomのGame Changerだったが、英国の場合、まさにこの”The Young Ones”がそれにあたるのである、とかなんとか。
BBC2で2シーズン(82年と84年)、6 x 2の計12エピソードが放映されて、今回は最初の3エピソード - "Demolition", “Oil”, “Boring” – を続けて上映して、休憩のあとに関係者のQ&A。
同じアパートをシェアして暮らしている4人のぽんこつ大学生 + 時々変な大家が顔を出す。4人は外見もろパンク(でもTシャツはメタルとかRushとか)でネジが外れて凶暴な医学生Vyvyan (Adrian Edmondson)、アナーキストの観念パンクでいっつも怒ってじだんだ踏んでる社会学徒のRick (Rik Mayall)、長髪のヒッピーでおっとり平和主義だけど自殺することばかり考えているNeil (Nigel Planer)、おしゃべり頭からっぽヤッピーふうでスタイル命のMike (Christopher Ryan)、ここに国籍不詳でがみがみうるさいスキンヘッドの大家Balowski (Alexei Sayle)が絡んでくる。 VyvyanとRickはいつもしょうもない小競り合いばかりしてて、Neilはそのとばっちりで酷いめにあって自殺しようかな、とか言っている。あとはアパートに暮らすネズミとかVyvyanのペットのハムスターなどがマペットというほどちゃんとしてない、適度に動いて喋るぬいぐるみみたいのが出てきて、住民に虐殺されたりぶっとばされたりしている。
ふつうのSitcomにある冒頭でなにか問題とか事件が起こって、それがエピソードの終わりに解決してよかったね、みたいなよく知るスタイルではなくて、止まらない喧嘩やおしゃべりの延長で物が飛んだり割れたり壁が抜けたり水が溢れたり器物や建物の破壊行為が連鎖して収拾がつかなくなり、それがどうしたよ、これからどうすんだおら、みたいにぷつりと終わる。更に彼らが見ているTVのコメディーショーがそのまま挿入されてきたり、リビングやパブでバンドが演奏しているのがそのまま流れて、そのバンドと主人公たちがやりあったりする。今回見た回に出てきたのはNine Below Zero(しってる)、Radical Posture (しらない)、Madness (!) – 主人公たちが行ったパブで"House of Fun"を演奏してるの。 他のエピソードに出てきたのはDexys Midnight Runners, Rip Rig + Panic, Motörhead, The Damned などだと。 えーいいなーすごいなー、としか言いようがないわ。
みんなのお料理係のNeilが料理をひっくり返したり鍋や皿が飛んだり、天井からなんか落ちてきて全壊したり、小学生の頃にドリフのネタで食べ物を粗末にしたり物を壊したりするのはいけないことなのでマネしないように、って散々親とかPTAから言われてきたやってはいけませんネタがよりダイナミックに遠慮なくどかどか展開されている、しかもそこに(ぬいぐるみだけど)動物虐待まで加わって、めちゃくちゃ乱暴でアナーキーで、こんなのGame ChangerというよりGame Disruptorだよね、って。しかもそれを天下のBBCがやっていたって。 ふつうにびっくりした。
85年にはアメリカに渡ってMTVで放映されたりアメリカ版も製作されたりしたようだが、思いつくところでいうと”Beavis and Butt-Head”の実写版、みたいな。それくらいバカ一直線で容赦のないかんじ。
上映後のQ&AにはプロデューサーのPaul Jackson、ライターのLise Mayer、Neil役のNigel Planer、大家役のAlexei Sayleが並んだ。
やはり一番聞きたいところはよくBBCがこんなのにGoを出したよね何故? というところだったが、当時BBCは若者向けの番組を作れないかって検討していて、丁度Channel Fourがもうじき若者向けのを始めると聞いて焦り始めて、そこに準備していた我々の企画を見せたらすぐにできるならやってみろ、になったと。 ただ内容自体はスタッフの間に新しいドラマをやってみたいという熱が相当あってテストもいっぱいしていたからそれなりの自信はあったのだ、と。
80年代初の英国って、音楽に関してはものすごくいろんな思い入れがあるので、こういうのもあったのね、と知って新鮮で、でもどんな人達が楽しみに見ていたのかしら? とは思った。この頃って(日本だけど)TVとか全く見ていなかったので、話を聞くだけでおもしろいわ。
映画ではなくて80年代の英国のTVのSitcomで、Q&Aも含めると210分のやつだったが、ぜんぜん知らなかったしお勉強のために行ってみようか、と。
会場はBFIのいちばんでっかいところで、Sold Outはしていなかったみたいだがほぼいっぱい、同年代にしか見えない熱のこもった怪しそうな老人たちで埋まっていて、The Clashとかのオールドパンクががんがん流れている。えらくなごめる。
上映前にBFIのひとが出てきて、後の時代になって”Game Changer”と呼ばれる作品がある、先週BFIで紹介した”I Love Lucy”は米国SitcomのGame Changerだったが、英国の場合、まさにこの”The Young Ones”がそれにあたるのである、とかなんとか。
BBC2で2シーズン(82年と84年)、6 x 2の計12エピソードが放映されて、今回は最初の3エピソード - "Demolition", “Oil”, “Boring” – を続けて上映して、休憩のあとに関係者のQ&A。
同じアパートをシェアして暮らしている4人のぽんこつ大学生 + 時々変な大家が顔を出す。4人は外見もろパンク(でもTシャツはメタルとかRushとか)でネジが外れて凶暴な医学生Vyvyan (Adrian Edmondson)、アナーキストの観念パンクでいっつも怒ってじだんだ踏んでる社会学徒のRick (Rik Mayall)、長髪のヒッピーでおっとり平和主義だけど自殺することばかり考えているNeil (Nigel Planer)、おしゃべり頭からっぽヤッピーふうでスタイル命のMike (Christopher Ryan)、ここに国籍不詳でがみがみうるさいスキンヘッドの大家Balowski (Alexei Sayle)が絡んでくる。 VyvyanとRickはいつもしょうもない小競り合いばかりしてて、Neilはそのとばっちりで酷いめにあって自殺しようかな、とか言っている。あとはアパートに暮らすネズミとかVyvyanのペットのハムスターなどがマペットというほどちゃんとしてない、適度に動いて喋るぬいぐるみみたいのが出てきて、住民に虐殺されたりぶっとばされたりしている。
ふつうのSitcomにある冒頭でなにか問題とか事件が起こって、それがエピソードの終わりに解決してよかったね、みたいなよく知るスタイルではなくて、止まらない喧嘩やおしゃべりの延長で物が飛んだり割れたり壁が抜けたり水が溢れたり器物や建物の破壊行為が連鎖して収拾がつかなくなり、それがどうしたよ、これからどうすんだおら、みたいにぷつりと終わる。更に彼らが見ているTVのコメディーショーがそのまま挿入されてきたり、リビングやパブでバンドが演奏しているのがそのまま流れて、そのバンドと主人公たちがやりあったりする。今回見た回に出てきたのはNine Below Zero(しってる)、Radical Posture (しらない)、Madness (!) – 主人公たちが行ったパブで"House of Fun"を演奏してるの。 他のエピソードに出てきたのはDexys Midnight Runners, Rip Rig + Panic, Motörhead, The Damned などだと。 えーいいなーすごいなー、としか言いようがないわ。
みんなのお料理係のNeilが料理をひっくり返したり鍋や皿が飛んだり、天井からなんか落ちてきて全壊したり、小学生の頃にドリフのネタで食べ物を粗末にしたり物を壊したりするのはいけないことなのでマネしないように、って散々親とかPTAから言われてきたやってはいけませんネタがよりダイナミックに遠慮なくどかどか展開されている、しかもそこに(ぬいぐるみだけど)動物虐待まで加わって、めちゃくちゃ乱暴でアナーキーで、こんなのGame ChangerというよりGame Disruptorだよね、って。しかもそれを天下のBBCがやっていたって。 ふつうにびっくりした。
85年にはアメリカに渡ってMTVで放映されたりアメリカ版も製作されたりしたようだが、思いつくところでいうと”Beavis and Butt-Head”の実写版、みたいな。それくらいバカ一直線で容赦のないかんじ。
上映後のQ&AにはプロデューサーのPaul Jackson、ライターのLise Mayer、Neil役のNigel Planer、大家役のAlexei Sayleが並んだ。
やはり一番聞きたいところはよくBBCがこんなのにGoを出したよね何故? というところだったが、当時BBCは若者向けの番組を作れないかって検討していて、丁度Channel Fourがもうじき若者向けのを始めると聞いて焦り始めて、そこに準備していた我々の企画を見せたらすぐにできるならやってみろ、になったと。 ただ内容自体はスタッフの間に新しいドラマをやってみたいという熱が相当あってテストもいっぱいしていたからそれなりの自信はあったのだ、と。
80年代初の英国って、音楽に関してはものすごくいろんな思い入れがあるので、こういうのもあったのね、と知って新鮮で、でもどんな人達が楽しみに見ていたのかしら? とは思った。この頃って(日本だけど)TVとか全く見ていなかったので、話を聞くだけでおもしろいわ。
12.03.2018
[film] The Girl in the Spider's Web (2018)
11月25日、日曜日の晩、Haymarketのシネコンで見ました。
David Fincherによる”The Girl with the Dragon Tattoo” (2011)のシリーズの第二弾、のはずだったが、キャストもスタッフも総とっかえ(David Fincherの名前はExec. Producerのとこにはある。Trentはいないよ)のようで、どんなもんかしら、と。
冒頭が姉妹の幼い頃の回想シーンで、はっきりとは語られないもののLisbethの生い立ちとか過去に関わってくる話なんだな、て思って、ちょっとだけあーあ、になる。おいらは過去なんて棄てたんだ知るかよ、ていう鉄面で冷たく相手を絞めあげていくLisbethがかっこよかったのにさ。
元NSAのプログラマーからの依頼でNSAからFirefall(ぷぷ)ていうプログラムを盗みだしたLisbeth (Claire Foy)だったが、その直後に自宅を襲われて火をつけられて、その依頼主と男の子を守るのと、プログラムを狙ってくるやばそうな組織とスウェーデン(お国)のセキュリティ組織と、米国から取り戻しにくるNSAの間でぐるぐる追っかけっこが始まる。 で、いちばん悪っぽい組織がSpider – 蜘蛛蜘蛛団で、こいつらがLisbethの過去に関わっていそうで、痛くて痒いかんじで。
Lisbethの側にいるのはジャーナリストのMikael Blomkvist (Sverrir Gudnason)で - この人は前作ではDaniel Craigだったはずなんだがなあ - と、ずんぐりむっくり(なんでいっつもそんなイメージ?)でキーとモニターだけが友達のハッカー君だけ。
プログラムを盗んでも有効にできる鍵を持っていそうなのはとっても賢そうで殆ど喋らないプログラマーの息子で、チェスが得意なこいつに自分の子供時代を重ねてしんみりするLisbethだったが彼をプログラムごと組織にさらわれちゃったので、それどころじゃなくなる。
前作にあった隔離された旧家にどす黒く流れる闇の歴史を緻密にクールに追いつめていく謎解きのスリル、ひとの傷をどこまでも突っついておらおらやる変態なところはどこかに行って、ただの凍える町とか森とか家のなかを走り回ってPCと子供の争奪戦をやっているだけで、クライマックスも、なんであなたがぁぁー? って断崖で叫んでるTVドラマみたいなふうで、これ、もし原作がそうなのだとしたら、David Fincherはそれで降りちゃったのかしら、とか。
ラストの銃撃のとこ、お屋敷の3Dイメージをどこからどうやって読み込むんだかわかんないけど立ち上げて、そこを介して遠隔でどんぱちするのがおもしろくて、あのプログラムの方がFirefallなんかよりよっぽど危険で実用的でほしいぞ、って思った。
Claire Foyさんもがんばっているのだが、Rooney Maraさんと比べるとやはりちょっとWetなのよね。今回のストーリーだとそれでよかったのかも、だけど。彼女の顔でWetだとトサカ髪もかわいく見えたりしちゃうところとか、なあ。
で、その状態で更にMikaelも甘めで弱っちいので頼れそうなのがまわりに誰もいないかんじなのもきつかった。
もう少しLisbethの役に立ってあげればいいのに、なMikaelの同僚役でVicky “Phantom Thread” Kriepsさんが出ていて、毒キノコをいっぱつやってくれるかと思ったけど、なんもしなかった。あの人たちなにしに出てきたのかしら?
LisbethがなんでLisbethになったのか、だいたいのとこはわかるのだが、それでも何が彼女と姉を隔てたのかは明確にならなくて、そこが物語としては決定的に弱いかも。姉妹なんてそういうもんだから、とか言わないで。
あと、アメリカとスウェーデンのセキュリティ当局は互いに本件どう落とし前をつけたのか、ちょっとだけ気になる。
あと、すごく寒そうなんだけど、みんな寒くないの? ちょっとは寒そうな顔とか振りとかして。
David Fincherによる”The Girl with the Dragon Tattoo” (2011)のシリーズの第二弾、のはずだったが、キャストもスタッフも総とっかえ(David Fincherの名前はExec. Producerのとこにはある。Trentはいないよ)のようで、どんなもんかしら、と。
冒頭が姉妹の幼い頃の回想シーンで、はっきりとは語られないもののLisbethの生い立ちとか過去に関わってくる話なんだな、て思って、ちょっとだけあーあ、になる。おいらは過去なんて棄てたんだ知るかよ、ていう鉄面で冷たく相手を絞めあげていくLisbethがかっこよかったのにさ。
元NSAのプログラマーからの依頼でNSAからFirefall(ぷぷ)ていうプログラムを盗みだしたLisbeth (Claire Foy)だったが、その直後に自宅を襲われて火をつけられて、その依頼主と男の子を守るのと、プログラムを狙ってくるやばそうな組織とスウェーデン(お国)のセキュリティ組織と、米国から取り戻しにくるNSAの間でぐるぐる追っかけっこが始まる。 で、いちばん悪っぽい組織がSpider – 蜘蛛蜘蛛団で、こいつらがLisbethの過去に関わっていそうで、痛くて痒いかんじで。
Lisbethの側にいるのはジャーナリストのMikael Blomkvist (Sverrir Gudnason)で - この人は前作ではDaniel Craigだったはずなんだがなあ - と、ずんぐりむっくり(なんでいっつもそんなイメージ?)でキーとモニターだけが友達のハッカー君だけ。
プログラムを盗んでも有効にできる鍵を持っていそうなのはとっても賢そうで殆ど喋らないプログラマーの息子で、チェスが得意なこいつに自分の子供時代を重ねてしんみりするLisbethだったが彼をプログラムごと組織にさらわれちゃったので、それどころじゃなくなる。
前作にあった隔離された旧家にどす黒く流れる闇の歴史を緻密にクールに追いつめていく謎解きのスリル、ひとの傷をどこまでも突っついておらおらやる変態なところはどこかに行って、ただの凍える町とか森とか家のなかを走り回ってPCと子供の争奪戦をやっているだけで、クライマックスも、なんであなたがぁぁー? って断崖で叫んでるTVドラマみたいなふうで、これ、もし原作がそうなのだとしたら、David Fincherはそれで降りちゃったのかしら、とか。
ラストの銃撃のとこ、お屋敷の3Dイメージをどこからどうやって読み込むんだかわかんないけど立ち上げて、そこを介して遠隔でどんぱちするのがおもしろくて、あのプログラムの方がFirefallなんかよりよっぽど危険で実用的でほしいぞ、って思った。
Claire Foyさんもがんばっているのだが、Rooney Maraさんと比べるとやはりちょっとWetなのよね。今回のストーリーだとそれでよかったのかも、だけど。彼女の顔でWetだとトサカ髪もかわいく見えたりしちゃうところとか、なあ。
で、その状態で更にMikaelも甘めで弱っちいので頼れそうなのがまわりに誰もいないかんじなのもきつかった。
もう少しLisbethの役に立ってあげればいいのに、なMikaelの同僚役でVicky “Phantom Thread” Kriepsさんが出ていて、毒キノコをいっぱつやってくれるかと思ったけど、なんもしなかった。あの人たちなにしに出てきたのかしら?
LisbethがなんでLisbethになったのか、だいたいのとこはわかるのだが、それでも何が彼女と姉を隔てたのかは明確にならなくて、そこが物語としては決定的に弱いかも。姉妹なんてそういうもんだから、とか言わないで。
あと、アメリカとスウェーデンのセキュリティ当局は互いに本件どう落とし前をつけたのか、ちょっとだけ気になる。
あと、すごく寒そうなんだけど、みんな寒くないの? ちょっとは寒そうな顔とか振りとかして。
12.02.2018
[film] Klute (1971)
11月20日の晩、BFIで見ました。”Comedy Genius”特集の目玉で、4Kリストアされた”9 to 5” (1980)がリバイバルされるのに関連しているのかいないのか、Jane Fondaの特集 “Jane Fonda: Coming of Age”も並行してやっている。 10月には本人が来てトークしたりしていたのだが(Isabella Rosselliniのと被ってて)、やはりこれもぜーんぜん行けていない。
70年代、Pennsylvaniaの会社の重役が失踪して、警察は彼がNYの娼婦(あ、邦題は『コールガール』ね)Bree Daniels (Jane Fonda)に宛てた卑猥な手紙を見つけていて、会社と彼の家族はコトを広げたくないからか彼と面識のあった捜査官John Klute (Donald Sutherland)をNYに送る。
Breeはオン・コールで娼婦をしながらモデルのオーディション受けたりセラピーに通ったり、なんとか今の生活を変えようとしているところでもあって、Kluteの質問なんて初めは相手にしないのだが、KluteがBreeのアパートの下に部屋を借りて地味に辛抱強く貼りついているとだんだんに距離が縮まっていく。
そのうちBreeの間近にいた娼婦ふたりが自殺したり消えたりしていることを知り、Breeの部屋も荒らされたりして、明らかに彼女が狙われていることがわかって。
複数の失踪が絡む犯罪サスペンスなのだがそんなに猟奇的でもパラノイアックでもなくて、犯人も割とすぐにわかるしアクションは地味でなにやってるかわからないとこもあるし、それでも印象に残るのは都会でぽつんと猫と暮らしているBreeの部屋を遠くから捉えたところとか、いつの間にか彼女の横にいるようになる仏頂面して寡黙なKluteとのふたりの絵とかそういうので、70年代のNYをしっとり柔らかいコントラストで美しく撮った作品 - 撮影は名手Gordon Willis – として記憶されるべき。
テープレコーダーで始まってテープレコーダーで終わる。 録音されたBreeの声も素敵で、Jane Fondaはこれで(勿論声だけじゃないよ)オスカーの主演女優賞を獲っているのね。
“Don't Look Now” (1973)より前のDonald Sutherland。Nicolas Roegについては追悼できるほど見ていないのですが、“Don't Look Now”は以下の記事にあるように最近のモダン・ホラーとの関連で今こそ見られるべき作品かもしれないねえ。
https://www.newyorker.com/recommends/watch/dont-look-now-nicolas-roegs-uncanny-masterpiece?
Cat Ballou (1965)
10月26日、金曜日の晩にBFIで見ていたやつ。これもJane Fonda特集からの1本。
真面目なCatherine (Jane Fonda)が教師になるべく学校を終えて列車でワイオミングにある自宅の農場に戻ると、その土地は悪党に狙われていることがわかったので用心棒の凄腕ガンマンKid Shelleen (Lee Marvin)を雇うのだが、こいつはいつも酔っ払っていて役立たずで、父親も目の前で殺されてしまう。色恋狙いでくっついてきた若造たちとShelleenとで復讐すべく訓練して立ち向かって暴れてみるのだが結局お縄になって首吊り台へ、彼女 – “Cat Ballou”の運命やいかに― ていうややおちゃらけ寄りのウェスタンで、ただひとり、異次元から来たようなぼうぼうに小汚いLee Marvin - お酒を飲めば百発百中 – だけがフランケンシュタインみたいにそこに生々しく立っているかんじ。
西部劇なので”The Ballad of Buster Scruggs”との関連も考えてみたのだが、関連なんてぜんぜんなしでよいのだと思った。 歌のところだけ、Nat King ColeとStubby Kayeのふたりが辻辻 – クロスロードに立ってて琵琶法師みたいに歌にして風に飛ばしてくれる。 そうやって飛んできたやつが本とかに落ち着いて、それが開かれて再び映画になって、ていう無間のサイクルのなかを我々は生きているのだねえ、って。
これはこれでぜんぜんよいのだが、”The Ballad of Buster Scruggs”がそれを見る我々に意識させる現代性みたいのって、なんなのだろうか。 “Cat Ballou”に時代を感じさせてしまうなにか、ってなんなのだろうか。
Preston Sturgesの”The Beautiful Blonde from Bashful Bend” (1949)とかを見たい気分かも。
(限りなくバカなやつを遡っていきたいかんじ)
70年代、Pennsylvaniaの会社の重役が失踪して、警察は彼がNYの娼婦(あ、邦題は『コールガール』ね)Bree Daniels (Jane Fonda)に宛てた卑猥な手紙を見つけていて、会社と彼の家族はコトを広げたくないからか彼と面識のあった捜査官John Klute (Donald Sutherland)をNYに送る。
Breeはオン・コールで娼婦をしながらモデルのオーディション受けたりセラピーに通ったり、なんとか今の生活を変えようとしているところでもあって、Kluteの質問なんて初めは相手にしないのだが、KluteがBreeのアパートの下に部屋を借りて地味に辛抱強く貼りついているとだんだんに距離が縮まっていく。
そのうちBreeの間近にいた娼婦ふたりが自殺したり消えたりしていることを知り、Breeの部屋も荒らされたりして、明らかに彼女が狙われていることがわかって。
複数の失踪が絡む犯罪サスペンスなのだがそんなに猟奇的でもパラノイアックでもなくて、犯人も割とすぐにわかるしアクションは地味でなにやってるかわからないとこもあるし、それでも印象に残るのは都会でぽつんと猫と暮らしているBreeの部屋を遠くから捉えたところとか、いつの間にか彼女の横にいるようになる仏頂面して寡黙なKluteとのふたりの絵とかそういうので、70年代のNYをしっとり柔らかいコントラストで美しく撮った作品 - 撮影は名手Gordon Willis – として記憶されるべき。
テープレコーダーで始まってテープレコーダーで終わる。 録音されたBreeの声も素敵で、Jane Fondaはこれで(勿論声だけじゃないよ)オスカーの主演女優賞を獲っているのね。
“Don't Look Now” (1973)より前のDonald Sutherland。Nicolas Roegについては追悼できるほど見ていないのですが、“Don't Look Now”は以下の記事にあるように最近のモダン・ホラーとの関連で今こそ見られるべき作品かもしれないねえ。
https://www.newyorker.com/recommends/watch/dont-look-now-nicolas-roegs-uncanny-masterpiece?
Cat Ballou (1965)
10月26日、金曜日の晩にBFIで見ていたやつ。これもJane Fonda特集からの1本。
真面目なCatherine (Jane Fonda)が教師になるべく学校を終えて列車でワイオミングにある自宅の農場に戻ると、その土地は悪党に狙われていることがわかったので用心棒の凄腕ガンマンKid Shelleen (Lee Marvin)を雇うのだが、こいつはいつも酔っ払っていて役立たずで、父親も目の前で殺されてしまう。色恋狙いでくっついてきた若造たちとShelleenとで復讐すべく訓練して立ち向かって暴れてみるのだが結局お縄になって首吊り台へ、彼女 – “Cat Ballou”の運命やいかに― ていうややおちゃらけ寄りのウェスタンで、ただひとり、異次元から来たようなぼうぼうに小汚いLee Marvin - お酒を飲めば百発百中 – だけがフランケンシュタインみたいにそこに生々しく立っているかんじ。
西部劇なので”The Ballad of Buster Scruggs”との関連も考えてみたのだが、関連なんてぜんぜんなしでよいのだと思った。 歌のところだけ、Nat King ColeとStubby Kayeのふたりが辻辻 – クロスロードに立ってて琵琶法師みたいに歌にして風に飛ばしてくれる。 そうやって飛んできたやつが本とかに落ち着いて、それが開かれて再び映画になって、ていう無間のサイクルのなかを我々は生きているのだねえ、って。
これはこれでぜんぜんよいのだが、”The Ballad of Buster Scruggs”がそれを見る我々に意識させる現代性みたいのって、なんなのだろうか。 “Cat Ballou”に時代を感じさせてしまうなにか、ってなんなのだろうか。
Preston Sturgesの”The Beautiful Blonde from Bashful Bend” (1949)とかを見たい気分かも。
(限りなくバカなやつを遡っていきたいかんじ)
12.01.2018
[film] The Ballad of Buster Scruggs (2018)
11月19日、月曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。Netflixのだけど映画館でも上映している。
Joel & Ethan Coenの、”True Grit” (2010)以来の西部劇、でよいのかしら。
関連のない(あるように見えない)全6話からなるオムニバスで、各話は本の扉を開いてページをめくるところから入って、閉じるところで終わる。にほん昔ばなし集、みたいなかんじ。
以下かんたんに。短いのでぼうぼうにネタバレするから。
The Ballad of Buster Scruggs
Buster Scruggs (Tim Blake Nelson)は民謡を歌いながら超早撃ちもできちゃう無敵のガンマンで、酒場で因縁つけてくる奴もあっという間に片づけてしまうのだが、若いガンマンからの挑戦を受けたら、今度はあっという間に …
Near Algodones
カウボーイ(James Franco)が原っぱにぽつんとある銀行に強盗に入ったら向こうはフライパン片手に反撃してくる変な野郎で手強くて、やがて馬上で高い木の上から縄で吊るされてもうだめか.. てなったところで奇跡の逆転をして、でも結局は首吊り台に立たされて「あそこにかわいい女の子がいるなー」とか言ってももうおそい。
Meal Ticket
Liam Neesonが馬車でどさまわりをする興業をやっていて、演じるのは手も足もないHarry Mellingで、お化粧してきれいな恰好をした彼が詩を詠んだりリンカーンの演説を諳んじたりして、終わると興行主がお金を回収してまわる。 ふたりはずっと無言で移動しているのだが、ある日興行主は計算芸をするニワトリを見かけてそいつを買って、実入りの減ってきた喋る胴体くんは..
All Gold Canyon
泉が湧いててシカがいてフクロウがいる楽園のようなとこに浮浪者みたいな金掘り(Tom Waits)が現れて、根気よく掘って洗って測量してを繰り返し、ようやくここかな、というところを見つけて量産に入ったら後ろから若いのに撃たれて、若いのは金をそのままいただくぜ、てなったところで金掘りが蘇って若いのをぶっ殺し、掘った穴をそのままそいつの墓にして次のとこに旅立って、楽園は元に戻る。
The Gal Who Got Rattled
西のOregonに向かって原野をコーチで渡っているAlice (Zoe Kazan)たちがいて、途中で兄が急死してどうしよう、っていうところで助けてくれたりしたBilly Knapp (Bill Heck)と仲良くなってポロポーズされて天にも昇るかんじになるのだが、その翌朝プレーリードッグを見ているときにインディアンに襲撃されて彼女ひとりが死んじゃうの。Billyになんと言ったらよいのやら …
The Mortal Remains
乗合コーチで移動している5人がいて、うちふたりは仕事仲間らしく、ひとりは女性で、夫婦関係とか言葉とか信仰とか、とりとめのない話しをしているのだが、女性は容態が悪くなって、それをアイリッシュのおじさん(Brendan Gleeson)が歌って鎮めて、やがてふたりは賞金稼ぎで死体を運んでいることがわかって、残りの3人は怖いよう … って。
それぞれの話し、その関連や成り立ちについていろんな角度からいろんなことが言えると思うが、少しだけ。
各話はだいたい20分くらい、開かれた本(おそらく古書)のページから立ちあがって、明らかにデジタルで撮影された(加工も?)ぺったんこで雄大な西部の風景をバックに、古書のページとデジタルランドスケープの間に展開される物語、でもそれはたったの20分だし、なにをどう説明できるのやら。
6つの話はどれも死を扱っていて、それは死ぬことであったり殺すことであったり突然やってくる死であったり、でもそれ以外の共通項はあまりなくて、そこにくっついて来がちな無常感、悲壮感、孤絶感、みたいのも希薄な即物的で動物のような死、それぞれは独立して切り離された別の世界でばらばらに起こっている話のように見える。20分だからそうならざるを得ない、というか、20分でもこれだけの幅を出せるのだ、というか。
それでも2つずつで束ねられたりしないだろうか。 最初のふたつは孤高のカウボーイが自分では思いもよらなかった死に方をする話、真ん中のふたつは、どうみても先のなさそうな汚れた年寄りが若者を殺して自分が生き延びる話、最後のふたつは思いもよらない陰から忍び寄ってくる死とその恐怖。 ただ、最後のエピソードだけトーンがちょっと抽象的で、全体を総括しているイメージもあるけど。
あとは歌。Tim Blake Nelsonの素っ頓狂なBalladで始まって、Brendan Gleesonの静かなアカペラで閉じる。
好きなのは真ん中のふたつかなあ。やがてふたりの老人 - Liam NeesonとTom Waits - が荒野でぶつかって対決するの。 ニワトリとフクロウで。
もうフィルムでは撮影しない宣言をしているCohensによるデジタルワールドへの嫌味、みたいに取れないこともないかも。
12月だってさ。 どうするんだ。
Joel & Ethan Coenの、”True Grit” (2010)以来の西部劇、でよいのかしら。
関連のない(あるように見えない)全6話からなるオムニバスで、各話は本の扉を開いてページをめくるところから入って、閉じるところで終わる。にほん昔ばなし集、みたいなかんじ。
以下かんたんに。短いのでぼうぼうにネタバレするから。
The Ballad of Buster Scruggs
Buster Scruggs (Tim Blake Nelson)は民謡を歌いながら超早撃ちもできちゃう無敵のガンマンで、酒場で因縁つけてくる奴もあっという間に片づけてしまうのだが、若いガンマンからの挑戦を受けたら、今度はあっという間に …
Near Algodones
カウボーイ(James Franco)が原っぱにぽつんとある銀行に強盗に入ったら向こうはフライパン片手に反撃してくる変な野郎で手強くて、やがて馬上で高い木の上から縄で吊るされてもうだめか.. てなったところで奇跡の逆転をして、でも結局は首吊り台に立たされて「あそこにかわいい女の子がいるなー」とか言ってももうおそい。
Meal Ticket
Liam Neesonが馬車でどさまわりをする興業をやっていて、演じるのは手も足もないHarry Mellingで、お化粧してきれいな恰好をした彼が詩を詠んだりリンカーンの演説を諳んじたりして、終わると興行主がお金を回収してまわる。 ふたりはずっと無言で移動しているのだが、ある日興行主は計算芸をするニワトリを見かけてそいつを買って、実入りの減ってきた喋る胴体くんは..
All Gold Canyon
泉が湧いててシカがいてフクロウがいる楽園のようなとこに浮浪者みたいな金掘り(Tom Waits)が現れて、根気よく掘って洗って測量してを繰り返し、ようやくここかな、というところを見つけて量産に入ったら後ろから若いのに撃たれて、若いのは金をそのままいただくぜ、てなったところで金掘りが蘇って若いのをぶっ殺し、掘った穴をそのままそいつの墓にして次のとこに旅立って、楽園は元に戻る。
The Gal Who Got Rattled
西のOregonに向かって原野をコーチで渡っているAlice (Zoe Kazan)たちがいて、途中で兄が急死してどうしよう、っていうところで助けてくれたりしたBilly Knapp (Bill Heck)と仲良くなってポロポーズされて天にも昇るかんじになるのだが、その翌朝プレーリードッグを見ているときにインディアンに襲撃されて彼女ひとりが死んじゃうの。Billyになんと言ったらよいのやら …
The Mortal Remains
乗合コーチで移動している5人がいて、うちふたりは仕事仲間らしく、ひとりは女性で、夫婦関係とか言葉とか信仰とか、とりとめのない話しをしているのだが、女性は容態が悪くなって、それをアイリッシュのおじさん(Brendan Gleeson)が歌って鎮めて、やがてふたりは賞金稼ぎで死体を運んでいることがわかって、残りの3人は怖いよう … って。
それぞれの話し、その関連や成り立ちについていろんな角度からいろんなことが言えると思うが、少しだけ。
各話はだいたい20分くらい、開かれた本(おそらく古書)のページから立ちあがって、明らかにデジタルで撮影された(加工も?)ぺったんこで雄大な西部の風景をバックに、古書のページとデジタルランドスケープの間に展開される物語、でもそれはたったの20分だし、なにをどう説明できるのやら。
6つの話はどれも死を扱っていて、それは死ぬことであったり殺すことであったり突然やってくる死であったり、でもそれ以外の共通項はあまりなくて、そこにくっついて来がちな無常感、悲壮感、孤絶感、みたいのも希薄な即物的で動物のような死、それぞれは独立して切り離された別の世界でばらばらに起こっている話のように見える。20分だからそうならざるを得ない、というか、20分でもこれだけの幅を出せるのだ、というか。
それでも2つずつで束ねられたりしないだろうか。 最初のふたつは孤高のカウボーイが自分では思いもよらなかった死に方をする話、真ん中のふたつは、どうみても先のなさそうな汚れた年寄りが若者を殺して自分が生き延びる話、最後のふたつは思いもよらない陰から忍び寄ってくる死とその恐怖。 ただ、最後のエピソードだけトーンがちょっと抽象的で、全体を総括しているイメージもあるけど。
あとは歌。Tim Blake Nelsonの素っ頓狂なBalladで始まって、Brendan Gleesonの静かなアカペラで閉じる。
好きなのは真ん中のふたつかなあ。やがてふたりの老人 - Liam NeesonとTom Waits - が荒野でぶつかって対決するの。 ニワトリとフクロウで。
もうフィルムでは撮影しない宣言をしているCohensによるデジタルワールドへの嫌味、みたいに取れないこともないかも。
12月だってさ。 どうするんだ。
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