10.31.2018

[film] Monrovia, Indiana (2018)

21日の日曜日の昼間、BFIで見ました。 LFFの1本で、昨年はここで”Ex Libris – The New York Public Library” (2017)の上映があって、Frederick Wiseman監督本人も来たのだが、今年、監督は来ていない模様。 全143分。なんだ短いじゃねえか、とがっかりしてしまうってなんか変。

タイトルのとおり、インディアナ州の小さな町、Monrovia(人口1500人程度)のあれこれを描いた、それだけ。 前の2作 -  “In Jackson Heights” (2015)や ”Ex Libris – The New York Public Library” (2017) のように、明確な理念や目的意識を持った共同体の日々の悪戦苦闘を描くのではなく、ここにはそんなものなんもないんですけど、それがなにか、とアメリカの地方の大多数が持っているであろう、なんにもないがある、を撮ってみようと思ったのではないか、と推測する。(Wiseman本人によるとMidwestの小さな町をこれまであまり撮っていなかったので、知り合いに頼んでみたらいろいろ紹介してくれて …  といういつものアプローチのもよう)

というわけで、農場を耕す、牛や豚を飼う、高校、通り沿いの床屋、美容室、タトゥー屋、ピザ屋、ガンショップ、でっかいスーパー、町を通り過ぎていくライダーたち。動物病院 – 会場の前に動物を虐めているかに見える映像があるので注意ください、という貼り紙があったのでどきどきしていたが、これだった – わんわんに麻酔して、尻尾の毛を丁寧に剃ってから、尻尾をちょん切るの。なんのためか不明だったけど。 延々続くタウンミーティング - 人口減を解消しないと町の未来はない、でもそのために投資するお金はないし、消防設備ですら整っていないのどうすんのよ? 、とか。フリーメーソンの表彰の儀式、ストリート・フェスティバルの準備に本番、結婚式にお葬式、最後に埋葬。

雨はほとんど降らない、季節の変動もそんなにない(ように見える)、主力となる産業もなさそうで、車での移動がほとんどで、教育もケアもそこそこで治安も悪くはなさそう、人種は白人のが多そうで、なんか全般に退屈そうだよね、なんだけど、これがおそらく今のアメリカのもっとも平均的な町の像 - 生活のありようで、例えば社会を変えるとか、言うのは簡単だけど、こういうところに住む人達 - 2016年の選挙ではここの76%の人達がTrumpに投票している - のなにをどうやったら変えていけばよいのだと思う?こんなところで”America First”とか言ってもさあ? とか。

もちろん、フィルムがそういう政治的な煽りや提起をするわけではないのだが、”Ex Libris – The New York Public Library”がTrumpのおかげで結果的に政治的なフィルムになってしまった(by Wiseman)のと同じように、この映画は政治的に見えざるを得ないなにかを映しだしてしまっていると思った。(今のにっぽんの郊外を撮ってもおそらく同じようになる -政治から遠いそぶりをすればするほど)

彼の映画は始まる前にいつも少しどきどきして、これからの3時間くらいの旅を乗り切ることができるのか、と思うのだが、今回もまったく心配はいらなかった。ほんとに、何をどう撮ったら、どう撮るからこんなふうに見えて、映しだされた世界に没入することになってしまうのか、不思議でしょうがない。 ラストの教会での葬儀のシーンで、牧師だか親族だかが亡くなったShirleyという方への弔辞を述べるところをそのまま- 20分くらい? - 流していて、それはShirleyを知らない我々にも彼女の人生が見えてくるようなすばらしいものだったのだが、彼のフィルムにもそういうところがあるのかも。
今回150時間分の映像を撮ったそうで、それは実際に暮らしている人達のすべてを捕えているわけでは当然ないのに、そのそれぞれの断片がひとつの地面の上でぜんぶ繋がっているかのように(いや、繋がっているんだけど)繋いで、一枚のでっかい土地の地図にしてしまう、そのやり口みたいのがあるんだろうな。

そして、こんなふうに彼の映画を見ることでそこに映し出された世界を知る、あるいは世界を「知る」ということはどういうことかがわかる、という点でWisemanの映画はまだまだいろんな世界に、より一層必要とされているよね、と改めて思った。 
だからとにかく日本でも、日本でこそこういうのは公開されないと、なんだよ。

で、上映終了後、シアター飛びだして、かつてない勢いで橋を走り抜けて地下鉄に飛び乗って、Ciné Lumièreに駆けこんでAssayasの新作をみたの。

10.30.2018

[film] Blaze (2018)

10月20日、土曜日の午後、CurzonのSOHOで見ました。LFFからの1本。

上映前に監督のEthan Hawkeが現れて、飛行機が3時間遅延して空港からの道路も渋滞がひどくてそのまま駆け込んだからこんな恰好(ジャージ姿)でごめん、ちゃんと着替えてくるからさ、とほぼそれだけ言って消える..

テキサスに実在したミュージシャンBlaze Foley(1949 - 1989)の評伝ドラマ。彼の妻だったSybil Rosenの本を原作にSybil RosenとEthan Hawkeが脚本を書いている。(Sybil Rosen本人も劇中のSybil Rosenの母親役で登場する)

Blaze Foley (Ben Dickey)は既に酒場とかライブハウスでギターを抱えて歌ったりしていて、レコード契約するところ、レコーディングスタジオでの光景、Sybil (Alia Shawkat)と出会って恋に落ちて一緒になるところ、彼が亡くなった後にTownes Van Zandt (Charlie Sexton)が彼を回想するところ、などなど、時系列ばらばらなエピソードが団子になって展開していく。

ぐでんぐでんになりながらどさ周りして歌を歌って、野次られたり周囲との小競り合いを繰り返しつつ、最期にあっけなく撃たれて殺されちゃった …  それでもひとり静かにぼつぼつと歌っていく彼の姿と音楽がまずあって、個々のエピソードの展開や繋がりは見えにくいけど、ああこんな人のこんな音楽、というのは十分に伝わってくるので、それでよいのだと思った。

“A Star is Born”なんかとは全く逆のベクトルの、歌のなかに埋もれてその歌も森の奥に消えていった.. かに見えて、でもこんな形で突然再生されて我々の耳に届けられるものもある。音楽との出会いって殆どがこういうのだと思うし、Ben Dickeyの丸っこい体躯を見ていると、森の熊さんだねえ、とか思って、こんなの教えてくれてありがとう熊さんというか底なしだわ熊おそるべし、て思うか。

Foleyを演じたBen Dickeyは、Fugaziに影響を受けて90年代にはハードコアやっていた人で、2005年くらいにFoleyの音楽に出会って衝撃を受け、丁度同じ頃にFoleyの音楽を追い始めたEthan Hawkeと共に勉強したりカバーしたりするようになってそういうのを8年くらい続けていて、Ethanから映画化の連絡があったときも、ほぼ一発で決まりだった(と後のQ&AでEthanは言っていた。WilcoもFoleyのファンですごくやりたがったそう)。そしてついこないだ、EthanとCharlie SextonがBen Dickeyの音楽をリリースするためにレーベル立ち上げた話が入ってくる。

Foley = Ben Dickeyの音楽にびっちり浸る、というのがひとつのテーマなのだが、それ以外にはSybilとの出会いの頃とか一緒になった頃のエピソードもよくて、映画的な美男美女とは違うのだけど、それでもふたりが一緒にいるだけで絵になって、ほんと素敵なカップルだったんだろうなーというのは十分にわかる。

上映後、ちゃんと着替えて登場したEthan Hawkeのトークは、トークじゃなくてそれ漫談だろ、くらいのノリで、Ben Dickeyを選んだ経緯とかCharlie Sextonとのこと(演技のことを教えてほしい、って”Boyhood” (2014) の頃に向こうから来たって)とか、ひとつの質問に対してずーっと楽しくおしゃべりしていた。彼のおしゃべりを聞くのは2回めで、最初のは随分昔にMOMAでみたRichard Linklaterとの対談、あの時もすごーくおもしろかったの。

映画が時系列じゃなくいろんな団子になって流れていく件については、こんなふうに人物を描く場合はこういうやり方のほうがよい、とRichard Linklaterに学んだとか。

そうそう、レコード契約のときにやってくる3人組がえらくおかしくて、それがSam Rockwell, Steve Zahn, Richard Linklaterのトリオって、なんだそりゃ、なの。

サントラ欲しいけど、まだ出ていないのかしら。秋の夜長にぴったりなのにー。

Ethan Hawke、こないだの”First Reformed”もすごかったけど、最近どうしちゃったのですか? ていう失礼な質問も飛んでいたねえ。

あと、Charlie Sextonはかっこよすぎる(彼がこんなんなるなんて誰が想像しただろうか?)。そのままTownes Van Zandtの映画を作って主演やるべき。

10.29.2018

[film] Doubles vies (2018)

21日、日曜日の夕方、Ciné Lumièreで見ました。今年のLFFの自分にとっては最後の1本。

この日は昼にここで”Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché” (2018)を見て、すぐにBFIに移動してFrederick Wisemanの新作を見て、またここに戻ってきた。 BFIとここの間を20分で走破するのってできるとは思わなかったけど、やったらできた。

英語題(邦題も)は”Non-Fiction”。米国での公開タイトルは”Double Lives”になった模様。
元のタイトルは"E-Book”だったとか。

パリの編集者Alain (Guillaume Canet)のところに作家のLéonard (Vincent Macaigne)が訪ねてきて、こないだ渡した原稿のことについて議論するのだが、Alainはこれまでの作品もそうだったけど彼の私生活 - 含.女性関係 - が解りやすく反映されすぎてはいないか、Léonardはいやいやそんなことはぜんぶフィクションに決まってるじゃん、という平行線で、要はボツ、みたいなことになる。

Alainの妻は女優をやっているSelena (Juliette Binoche)で、子供もいて幸せそうに見えるのだが、Alainは出版界のデジタル化のことで今後どうしていくんだみたいな話があるし、SelenaはTVでやっているなんとか捜査官(刑事じゃないらしい)みたいなのがシーズン4まできて、いつまでこんなのやってるんだ、みたいになってきたし、仕事の上でふたりしてなんかどんよりしていて、でもAlainは同じ業界の若いLaure (Christa Théret)と関係もっているし、SelenaはLéonardと(おーまい)関係をもっていて、夫婦は互いの相手に相手がいることをなんとなく勘づいている。

そしてまた、Laureにはレズの恋人がいるし、Léonardにも政治方面の活動をしている同居中の彼女Valérie (Nora Hamzawi) がいるし。みんなDouble Livesをやっている。

Laureは出版のデジタル化について、それなしに出版界の未来はなし、みたいにばりばり進めていく仕事人で、それに呼応するようにAlainの上 (Pascal Greggory!)からは出版部門のまるごと身売りみたいな話をされる。 Léonardは本屋のイベントに呼ばれて話をしようとしても、結局話題は炎上ネタとしての彼のフィクションと私生活のこと、或いはポスト・トゥルースみたいなところに行っていらいら紛糾する。

身内や知り合いのなかで面倒に絡みあった関係の糸があって(そんなのは大昔からある)、デジタルの世界で可視化だなんだ言いながら何が本当やら嘘やらわからなくなっている世界があって(割と最近でてきた)、それらを巡って内部のものも外部のものも言いたいことを言いたいように言うようになっていて、だからじゃあ何かが変わったり良くなったり悪くなったりしたか、というと、ここに出てくる連中(デジタルになんとかAdjustしているシニアとデジタルネイティヴに近い若いの)に関してはあんま変わらずに適当にやっているっぽい。(それは軟体哺乳類 - Vincent Macaigneだからできる芸当なのかもしれないが)

それを象徴するかのように被さってくるのがValérieがLéonardの子を妊娠した、というど真んなかの事実で、これについてはあれこれ言ったってしょうがないじゃん、出てくるんだし生まれてくるんだし。赤子にDoubleもくそもないし。

Olivier Assayasはこれをロメール的なフランスのアンサンブル喜劇としてさくっと撮りたかった(撮影はスーパー16mm)ようだが、まず思い浮かべてしまったのは”L'heure d'été” - 『夏時間の庭』 (2008) で、あそこで縦に流れていく時間と、それによって失われようとしていたおばあちゃんの家の話と、ここでの横に拡がってみんなの生活を変えようとしているデジタル化の話はどこか似てはいないだろうか?  否応なしで、誰もがその変化に対応しないわけにはいかないのだが、他方で変わらないものもあると思うしだいじょうぶだよ、たぶん、みたいなそんなてきとーなノリの。

で、「夏時間..」ではラストにThe Incredible String Bandの"Little Cloud”が能天気に流れる中、カメラがふんわか空に昇っていくのと同じように、こっちのラストではJonathan Richman and the Modern Loversの”Here Come the Martian Martians”が流れて、やっぱりカメラは..  (.. いいよねえ)

キャストにアメリカ人を入れず、フランス人だけでやろうとしたのは正解で、前2作 – “Clouds of Sils Maria” (2014)や”Personal Shopper” (2016)のようにアメリカ人がキャストに入っていたら、例えばLaureの役をKristen Stewartがやっていたらどうなっていたかしら?

Alainが自身を”Winter Light” (1963)の牧師に例えるとこがあったけど、えーデジタル化ってそこまでのもんなの? とか、当時あの映画を見たひと達に聞いてみたい。

もういっこ、映画では Michael Hanekeの“The White Ribbon” (2009)の話が出てきて、ちょっと見てみたくなった。 そういえばこの”Non-Fiction”、なんかHanekeの”Happy End” (2017)と似たかんじがあるのだが、そんなことない?

「Juliette Binocheとかさあ.. 」てテーブル上で話題が出ているなかで平然と自分の演技を続けるJuliette Binoche、というおもしろいシーンもあるが、そんなことよりすごいのはむっちりみっちり絡みあっているJuliette BinocheとVincent Macaigneの裸体で、最初見たとき何の肉の塊かと思ったわ。

次はJuliette Binocheのなんとか捜査官、の本編を見てみたい。

10.27.2018

[film] Can You Ever Forgive Me? (2018)

20日、土曜日の昼、Embankment Garden Theaterで見ました。 これもLFFでの1本。
前の晩の舞台挨拶にMelissa McCarthyさんは来ていたので、来るかなー会えるかなーだったのだが、やはり午前開始のには来てくれなかったわ。

作家Lee Israel (1939-2014)の同名の回顧録(未読)を元にした実話ベースのドラマ。

91年のNY、午前3時過ぎのオフィスで居残り残業をしているらしいLee (Melissa McCarthy)はふてくされて酒をちびちび飲みながら仕事してて、そういうのに我慢できなくなった上司はクビを言い渡す。

くたびれ果てた彼女がアパートに戻ると12歳の老黒白猫が待ってて、猫は具合がよくないので病院に連れて行ってもまず治療費滞納分を払え、って言われてしまうし、家賃を滞納していて衛生状態がよくないからかハエがぷーんて飛んでくるし、どこもどん詰まり状態で、かつてのエージェントに頭を下げるかとパーティとかに出てみても居場所がないのでクロークから他人のコートをかっさらって帰ってきたり、要するに元作家なのに完全な失業・破産状態で、少しでもお金を作らなきゃ、と古本屋に手持ちの本を売りに行けば、自分の書いた本が叩き売りされてて嘲笑われてしまう。

どうしようもなくなって、額装して宝物にしていたKatharine Hepburnの直筆の手紙(Leeは彼女の取材記事を書いたことがあった)を持っていったら結構な値になって、これはひょっとして.. と図書館の本に挟まっていた手紙にちょっと細工(P.S.文言の追加とか)をして業者に持ちこむと、これは珍しいかも、って震えるような高値で売れてしまう。

これだ! ってなった彼女は古いタイプライターを作家別に揃えて、サインの字体を真似たり、作家のレターヘッド入りの便箋を入手したり、オーブンで紙をうっすら炙って変色させるとか、偽装・改竄の技術を高めたり、図書館からオリジナルの手紙を盗みだしたりして量産するようになり、そこに友達のゲイのごろつきJack (Richard E. Grant) も売り手として加わって順調に進んでいるように見えた。 のだが裏では怪しいからこいつからは買うな、が出回り始めていて、やがてFBIが…

犯罪ドラマ、というよりも四方から追い詰められてそちらの方に踏みこまざるを得なくなった、しかもそれはただのかっぱらいみたいな仕事ではない、個々の作家の事情や特性を知っている自分のような者でなければ作り得ない、そういう点では創意を掻き立てられるようなやつで、だからやってて楽しいし、それをやってお金の余裕たっぷりな連中から少しくらい頂戴したっていいじゃんか? ていうのが彼女の(言わないけど)言い分で、そこに彼女の境遇 – ずっとひとりで家族も身寄りもなく、猫とゲイだけが友達、が被さってくると、誰もが”Can You Ever Forgive Her?” とつい呟きたくなってしまう、そういう流れがしっかりとあって、更にMelissa McCarthyの見事な演技が加わることで何とも言えないひとりの女性のドラマになっている。

Melissa McCarthy の犯罪モノ、というと“Identity Thief” (2013)があって、あれもおもしろかったけど、残念ながらおもしろかっただけで、こっちのは間違いなく彼女がひとりぽつんとそこにいる、そういうドラマができていて、それは監督の手法もあるけどそういう佇まいを捩じり出したのは彼女の演技で、最後の判事を前にしたステートメントの泣けることったらないの。

いまやだれもがネットでちょっとコピペ – 改竄したくらいでだれも責任負わないへっちゃら天国になっちゃったので、こういう目に見えるドラマは作りにくくなっちゃった気もするし、そういうのからしたら彼女のやったことなんて小さい方じゃん、とか思ったり。
彼女が”Forgive Me?” て訴えたのは判事とか市民とかに対してだったのか、おそらく彼女が勝手に文言を足しちゃったりした作家たちに対してではなかったのかしらん。

あとは、たったひとりで過ごすマンハッタンの描写 – 小さな本屋、バーのカウンター、薄汚れたアパートの部屋 + 猫 .. 晴れ晴れしたところがなにひとつないしょぼくれた街と人のかんじが描けていて、そこにBlossom DearieやPatti Pageが響いてくる。 ここまでよく絞って、雰囲気を作ったもんだなー。

とにかく、ここのMelissa McCarthy はすごいから見てみて。
貧乏人叩き、ブス叩きが大好きな卑怯者の国にっぽんでもぜひ公開されてほしいもんだわ。

10.26.2018

[film] Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché (2018)

21日、LFF最終日の日曜日の昼間に近所のCine Lumièreで見ました。映画館がおうちの近くにあるとなんて便利なんだろ。

Alice Guy-Blachéについては、2012年にいまはもうないオーディトリウム渋谷っていうところで自主企画のような特集上映が組まれたことがあって、そこで知って以来ずっと頭のどこかにはいた。世界最初の女性映画作家であると。

上映前に監督(女性)とプロデューサー(? 男性)の挨拶があって、男性のほうはAliceの本を書いたことがあるそうなのだが、監督が今やっていることは歴史を書き換えるようなすごいことなのです、と。 うん、これはそうかも。

ナレーションはJodie Foster(プロデュースも。他のプロデューサーにはRobert Redford, Hugh Hefnerとか)。

フィルムのオープニングで、あなたはAlice Guy-Blachéを知っていますか? って若めの映画人達に聞いてみると殆どが知らないって。聞いてる人の幅がすごくて、Lake Bell,  Jon M. Chu,  Geena Davis,  Julie Delpy,  Peter Farrelly,  Elsie Fisher("Eighth Grade”の娘), Janeane Garofalo,  Catherine Hardwicke,  Mark Romanek,  Andy Samberg,  Evan Rachel Wood,  Agnès Varda(←彼女はもちろん知っているって。最重要だって)、などなどなど。  

Alice Guy-Blachéの生い立ちから追っていって、後にGaumontとなる会社にSecretaryとして入って、1895年、Lumière兄弟の内輪の(世界最初の)映画上映会に参加してこれおもしろい、でも上映するため用の素材だけを撮るのはつまんないからフィクションをやらせて、とGaumont に言って許可を貰い、”La Fée aux Choux” (The Fairy of the Cabbages)  (1896) を手始めにショートをいっぱい作って、1906年迄Gaumontの映画部門のトップとして、音との同期とか二重露光とか技術的な試みにも果敢に取り組んでいく。

その後結婚を機にアメリカに渡り(Gaumontで彼女の後を継いだのがLouis Feuilladeね)、NJのFort Leeに映画会社Solaxを立ち上げて更に冒険を繰り広げていく。(タイトルの”Be Natural”はその映画スタジオにでっかく掲げてあった標語なのだそう)。

この辺まではふつうの歴史のお話しなのだが、監督はAlice Guy-Blachéの娘や孫やその配偶者まで徹底的にリサーチをかけて全米各地(散らばり具合がすごい)に飛んでいって、手紙から写真からよくわからないフォーマットのフィルムまで掘りだして彼女の足跡を追っていく。 結果、Lumière兄弟が撮影したAlice Guy-Blachéの動く姿(一瞬だけど。顔認識の専門家のコメントで確定)とか、娘が母とその仕事について語っているインタビュー映像(with 猫)とか、Alice Guy-Blaché自身のインタビューテープとか、いろいろ表に出てきて、その追跡劇だけでもおもしろくてしょうがない。

その過程で浮かびあがってくるのは(Alice Guy-Blaché自身も文句を言っているのだが)、彼女のやってきたことが不当に無視され改竄されてきた、という映画の歴史(のありよう)で、ジョルジュ・サドゥールの映画史でも少し触れられているだけ(その後改訂)、アンリ・ラングロワですらよく知らないとか言ってて、だってそもそも、Gaumont社のおおもとの社史が書き換えられていたんだから。ひどいわ、って。 こんなふうに歴史は男の都合でてきとーに変えられちゃうんだよ、って。 映画ってほんとに、こんなはじめっからメンズの世界だったのね。

あと面白かったのは、彼女が撮ろうとしたスケッチのような映画の数々って、今、誰もがスマホで撮ったりやったり、YouTuberがやっているような映像の中味に近い (と、彼女の映像とどこかに投稿された今の動画を並べてみる) - 屋外の光を使うとか、男女の取り違えとか、暴走ずっこけとか、延々止まらないとか – ってとこ。あとエイゼンシュタインは回想録の中で明らかに彼女の映画を参照してて、探してみれば「十月」には彼女の影響と思われる箇所がある、とか。

そういったところも含めて彼女の名前はLumière兄弟、Georges Mélièsと並んで映画史の一番最初に記されるべきもので、それくらいの重要人物なんだよ(とAgnès Varda先生が最後に締める)。

監督のプロジェクト - 世界中の映画アーカイブに声を掛けてAliceの映画を発掘すること、家族親戚が保有しているであろう資料を集めていくこと - はまだ続いていて、この映画にしても上映の数日前に間違えを見つけて写真差し替えたとか言っていたし、朝4時に起きて出資者に発掘状況の報告をして夜11時まで走り回って、というのをここ数年続けていてまじくたくたなんだって。

映画はカンヌで上映されて、NYで上映されて、ここLondonで上映されて、でもまだ配給先が決まっていないので誰か買って、って叫んでいた。 買ってあげようよ。ほんとにおもしろいよ。

渋谷の上映会でAlice Guy-Blachéのことを教えてくれた学生さんたち – もう学生じゃないかもだけど - にも見て貰いたいな。

あと、Martin Scorseseが”Hugo” (2011)でやったようなことをAlice Guy-Blachéで誰かやらないだろうか。女性監督で。 ぜったいおもしろい痛快なのができるよ。

[film] The Great Victorian Moving Picture Show (1897-1901)

18日木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。 今年のLFFの目玉(と勝手に思っていた)イベントのひとつで、でもチケットはずっと売り切れてて、前日に取れた – けど、このためにMia Hansen-Løveの新作は泣く泣くあきらめた(… お願いだからどこかで公開されますように)。

BFIのNational Archiveでは、Victoria女王の生誕200年となる2019年に向けて、当時遺された700本以上のフィルムをデジタル化してオンライン公開していくそうなのだが、その第一弾がこのイベントなの。 1897-1901頃に撮影された英国最初期のフィルム - 8KスキャンしたオリジナルのNitrateフィルムを4Kリストアして、これらの60mmとか68mmを英国でいちばんでっかいIMAXの画面に投影する。この68mmを開発したのがエジソンのところで働いていたフランス生まれの英国人William Kennedy-Laurie Dicksonで、彼がNJのエジソンのラボから戻ってBritish Mutoscope and Biograph Companyを立ち上げて、ここで68mmフィルムとかその投影の仕組みを作って、それ用のネタとして1897年から撮りはじめたのだと。とにかく、これらを説明していくBFIのひとの興奮と熱の入れようときたらすごくて、そんなはしゃがなくても、と思ったのだが実際に見てみたらわかった。このでっかさ、でっかい画面で見るのってほんとにとんでもないことだと。

各フィルムが短いこともあって9つのテーマ毎に束ねられた全51本、音声はないのですらすら明快に解説してくれるBryony Dixon女史がいて、管弦+ドラムス、ピアノの6人編成のバンド(John Sweeney and his Biograph Band)が伴奏してくれる。

最初のセクションが、英国の映画のもっとも最初期に撮られたと思われるフィルム - 女の子(たぶん)の赤ん坊とでっかい犬と猫が横一列に並んでいる”Me and My Two Friends”なんて、そいつらが動くほんの数秒だけ、何回かリピートされるのだが、もう客席ぜんぶがどよめくくらいかわいいの。さすがPeter RabbitとWinnie the PoohとPaddingtonのお国。

最初期のパート、これ以外には大道芸人とかでっかい船の進水式とかLondon Zooのペリカンとか、とにかく驚嘆すべきはそのサイズで、リュミエール兄弟の逸話で、電車が走ってくるシーンで客が泡食って逃げ出したとか聞いてふうん、くらいに思っていたのが、それがようくわかる。進水式の寄せてくる波は逃げなきゃ、になるし、ペリカンなんてラドンみたいだし、スクリーンのでっかさっていうのはそれだけでものすごい属性になるんだねえ。オンラインの小さい画面で見てちゃだめなんだなあ、て思った。

これ以外にはVictoria女王のJubireeとか、ローマ法王(何代前だろ)とか、お茶会の様子とか鉄道とか路面電車とか、パレードの様子とか、ヴェニスの運河とか、日曜日の市場(女性は家事で家にいるので男性ばかり)とか、兵隊さんとか、広告宣伝とか、劇場の演目とか、ごく普通の街角とか、そのなかを移動撮影で動いていくだけでとにかく楽しい。映っている人たちも、 みんなカメラが珍しいのだろう、手を振ってきたり目があったりする。

なんかね、誰もが最初にカメラを手にしたとき撮りたいと思うものを撮っていて、それが結果的にVictoria時代の生活とか彼らが見ていた風景を(我々が見たいなと思うようなところのを)捕えることになっていて、それってすごいななんだろうな、て思って見ていた。
昔の色あせた写真を見入ってしまうのと同じように、いやあれ以上に、見たことがない過去の景色に没入してしまう、それが大きな画面だとその世界を旅しているような感覚がやってくるの。

でもこれらの風景はもうどこにもないし映っている人々も(たぶん)もういない – それらはどんな運命を辿って、どんなふうに消えていったのだろう、ということを想像してみるのって、必要なことだと思う。 戻りたいとか、あの頃はよかった、とかじゃなくて、もう絶対に戻ることができない今・こことの違いに想いをめぐらせること。「後世の人たちに託す」みたいなのも「ご先祖に感謝」みたいなのも嫌いだけど、シンプルな、いまの我々の生は過去と共にあるという感覚と経験 – これって古典を読むときでもアートに接するときにも起こる – につかる・ひたること。
映画でそういうのが起こるのってあんまない気がしていたけど、これはきたねえ。

もういっかい見たい。 オンラインじゃなくとにかくでっかいとこで。

10.24.2018

[film] Life Itself (2018)

NYから戻った日、15日の晩、LFFのEmbankment Garden Theaterで見ました。この日はこれが3本目でくらくらしていたけど。

上映前に監督のDan Fogelmanと Olivia Cookeさんの舞台挨拶があった。監督は“Tangled” (2010)、 “Crazy, Stupid, Love” (2011)を書いた人(あと、”Me and Earl and the Dying Girl” (2015)の製作とか)で、わたしは週末の昼にTVで”Tangled” - 『塔の上のラプンツェル』 - をやっていたりするとつい見ちゃって、もう10回以上は見たりしているので、それならこれもしょうがないか、と見ることにした。

Olivia Cookeさんは最初のスクリプトを読んで風呂場でびーびー泣いちゃってあたしぜったいこれに出る、って絶叫したそうで、なんか彼女らしいねえ。

主催者側からはラストにはティッシュのご用意を、って言われて、確かに泣いてしまうのだが、全般のレビューは芳しくなくて、でもわたしはなんか好きで、嫌いになれない。あの“Crazy, Stupid, Love”と同じく、なんでもぶちこもうとして変に歪になってしまったようなところも含めて。
全体で5章に分かれていて、3世代にまたがる親子、家族のお話し。

第一章は、妻がいなくなって浮浪者みたいになって暴れまくるWill Dempsey (Oscar Isaac)とセラピストのCait (Annette Bening)とのやりとりが中心で、Willが妻のAbby (Olivia Wilde)と出会った経緯とか彼女に何が起こったのか、とかがWillが頭の中で組み立てたストーリー – ややこしいのだが、この部分はSamuel L. Jacksonがナレーションしたり、要するにWillを向こう側の世界のひとにしてしまうくらいAbbyへの愛は深く、その喪失は重いのだと。 そこではAbbyが7歳で両親を自動車事故で失って、彼女ひとりが生き残って、引き取られた先の叔父がやらしい奴だったので銃をぶっぱなしたり、Bob Dylanの熱狂的な信者であること、大学でLifeに関するテーゼを纏めようとしていたことなどが語られる。

第二章は、WillとAbbyの娘 – でも両親とは会ったことがない - Dylan Dempsey (Olivia Cooke)が主人公で、Willの親に育てられた彼女は成長してちょっと不良になってバンドで歌ったりしてて(なかなかよいの)、でもしょっちゅうぶちきれて周囲と衝突してばかり、道端でひとり泣いていたりする。

第三章で舞台はスペインに飛んで、そこでオリーブ農場を経営しているVincent (Antonio Banderas)がいて、ある日従業員のJavier (Sergio Peris-Mencheta)を呼んで、彼に自身と家族の身の上話をして、義兄弟のような契を結んで、やがてJavierはガールフレンドのIsabel (Laia Costa)と結婚して、息子のRodrigoが生まれてVincentは彼を自分の子のようにかわいがって十分な教育を与えて、家族でのNY旅行にも行かせるのだが、そこである事故を目の当たりにしたRodrigoは様子が変になって、そのケアもVincentは手厚くしたりするので、そういうのがおもしろくないJavierはひとり家を出ていってしまう。

第四章は、成長してNYの大学に通うRodrigo (Alex Monner)が主人公で、ガールフレンドもできたりしているのだが、他方で故郷には癌と闘病を続ける母がいて、自分のこれからと母や家族のことで揺れまくっている。

こんな具合に、ものすごくいろんな人達がぶつかったりすれ違ったりを(偶発の事故も含めて)とめどなく繰り返していて、そのありようを”Life Itself”とか言われても、Dylanの音楽に託されても、そりゃそうかもね、くらいしか返せないのだが、でも、誰もが自分にかつて起こったことのように振り返ったり思い至らせたりしてしまう、そうさせる渦のようなものはあるかも。 でも他方で、詰めこみすぎて全体のバランスが変になっちゃっているとこもあるかも。

かんじとしては悪人とか悪意のないPedro Almodóvar、とか、『ガープの世界』とか、思わせぶりなとこを排除した(そしたら何が残るのか?)Terrence Malickとか。

Oscar IsaacとOlivia Wildeのカップルは本当に素敵なのと、スペインでのキャストもみんなとてもよいので、公開されてほしいなー。

10.23.2018

[film] Colette (2018)

London Film Festival (LFF)は21日の日曜日に終わって、その前に見ているのもいっぱいあるのだが、とりあえず書いていく。 今回LFFで見たのは11本、12日間の会期中、NY行ったり出張出たりで5日間が行けなくなり、買っておいたチケットのうち2枚がだめになった。あーあー

11日木曜日の晩、Embankment Garden Theaterていう、この映画祭のために公園内に特設された会場(駅前。スクリーンも音もでっかくて見やすい。椅子だけがたがた)で見ました。

作家Coletteの若い頃を描いた評伝映画。
最初に監督のWash Westmoreland, 主演のKeira KnightleyとDominic Westの舞台挨拶があって、監督曰く - 内容からすると#MeTooムーヴメントに乗っかったと思われるかもしれないが、脚本のRichard Glatzerさんが最初のドラフトを上げたのは2001年で、そこからずっと推敲を重ねていって、その後彼は“Still Alice” (2014)の脚本を書く傍ら自身のALSと戦って、亡くなる直前までこれを仕上げていたのだと(監督はRichardのパートナーでもあって、この映画は彼に捧げられている)。

フランスの田舎に暮らすColette (Keira Knightley)は20歳になる前に14歳年上のHenry (Dominic West) - ペンネーム"Willy"と結婚してパリに出て、出版をやっている彼の求めに応じて自身の経験を元に女の子 Claudineを主人公にした小説を(Willyの細かな注文を入れていったので共同作業のような形で、でも筆名はWillyで)出したらこれが当たってシリーズ化されて関連商品まで売りだされて、ふたりは裕福になって社交界でも注目されるようになるのだが、そうやっていろんな世界に触れれば触れるほどColetteはWillyの浮気性とか浪費癖とか彼女の書いたものが彼の作品として持ちあげられるのがだんだん嫌になってきて、自分は自分でダンスとか劇団のみんなとのどさまわりとか女性への愛などに目覚めてしまい、Claudineはわたしだ、あの小説はわたしの世界を描いたものなんだ、って啖呵きってぶち切れて別れるところまで。(彼女が”Chéri” (1920)や”Gigi”(1944)を書くずっと前のはなし)

女性が自分の名前と性を表紙に小説を出すことが難しかった時代、というとついこの間の”Mary Shelley”(2017)との関連を見てしまうのだが(作家として同じ括りにするつもりはまーったくないよ)、あれは19世紀初の英国の話で、これは20世紀初のフランスの話で、そこには約100年の開きと国の違いがあって、そこに今世界中で起こっている21世紀初のうねりを置いてみるとだいたい200年くらいかかっている。 こいつはそれくらいにしぶとくでっかいヤマで、ここで緩めて諦めちゃだめよね、というのは改めて思う。
(It's Alive! Frankenstein ..)

あと、これは後で書くけどLFFで見たドキュメンタリー”Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché“も同じ文脈に置いてみると.. さらにああーってなる。

映画は、そういう不自由な闇に捕らえられてもがき苦しむColette、というよりも、田舎の暮らしも悪くないけど都会もやっぱすごいよね、って都市の雑踏に弾けとびながら自身を見いだして強くなっていく女性の物語になっていて、この娘がやがて”Gigi”を書くことになるんだねえ、というのは十分にわかるし、これを書いたRichardの思いもその辺にあったんだろうな、って。

もういっこあるのは、Willyって豆腐野郎が歳の差もあったからか結構緩くて間抜けで大らかで、割と簡単に折れたり謝ったり諦めたりしてくれる。これが粘着DV男だったらとっても厄介で悲惨だったかも、とか。

画面に出てくるファッションや風物がとっても印象派してて、むかしMetでみた“Impressionism, Fashion, and Modernity”の展示の世界 - Monetの”Luncheon on the Grass”とか -  のようで見てて楽しい。
物語をもう少しフィクションの方に寄せて、時代を少し前に倒して、ここにBerthe Morisotを登場させる、とかどうかしらん。

ほんの少しだけ欲を言えば、やはりフランスの女優さんたちの喋るフランス語で見たかったかも。Keiraの熱演にはまったく異議なし、だけど。

邦題、ひどいのが来そうだなー。これも終わんない戦いなのかねえ。ほんとどうでもいいことなのに。

10.22.2018

[log] NYそのた -- October 2018

NYのその他のあれこれ。

今回はデパートにも洋服屋にも行かず、本屋とレコ屋と美術館の間を走り回ってばかりで終わってしまった -  ことに戻ってきてから気づいた。

本屋レコ屋の順番は、Rizzori – Academy Records – Mast Books – Strand Bookstore – Books Are Magic - Black Gold Records -  McNally Jackson - Metrograph (の本屋)  ..これっぽっちなの。

新顔のBooks Are Magicは2016年に惜しまれつつなくなったコミュニティ本屋 - BookCourtの後を受けていっぽん向こうの通り - 並びにかのBattersbyがある - にEmma Straubさんが自力で立ちあげた本屋さん(経緯は以下のリンク参照)で、そんなに大きくない – おなじBrooklynだと、WORDよりは広い、けどGreenlight Bookstoreよりは小さい – もののとにかくとても居心地がよかった。子供連れ用のスペースがちゃんとあって、犬とかもいっぱいいて、こういう本屋って本当に地域に必要だと思う。

https://www.elle.com/culture/books/a46112/books-are-magic-emma-straub-bookstore/

Emma Straubさんのサイン本は当然のようにいっぱいあって、ギフトにしたい場合は言ってくれればメッセージを書くよ、とかあって、あー作家が自分で本屋だすってこういうことか、って。

でも、最初のほうで古本とかどーんと散財してしまったのでそんなに沢山は買わなかった。

食べ物関係も、ほんとにふつうのいつものとおなじで、一応雑誌FigaroのNY特集とかも見ていったのだがいつものー、になってしまった。 Café 2 – Prune – Lafayette – Prime Meats - Russ & Daughters Café。せめてあと1日~2日あればさー。

今回はPrime Meatsにお別れ、というのがあって、ここの(やや)ドイツ寄りのお料理はほんとうにおいしかったし、店の明るすぎない、暗すぎない落ち着いたかんじも好きだった。ドイツに行くようになってドイツの料理を結構戴くようになったけど、こっち(NY)の方が洗練されているかんじがしてて、そこを改めて確認した。料理自体は隣近所のFrankies 457でも出される(台所はおなじ)のでなにもかもなくなってしまうことはないのだけど、それでもなー。

あと、原宿にできたと聞いてびっくりしたButtermilk Channelはここのすぐそばにあって、つまりさっきの本屋と併せてマンハッタン以外に住むならこの近所かな、てかんじ(ちょっと高そうだけど)。

今回のPruneは、アンチョビの素揚げとかりかりの鶏皮が入ったチキンスープが圧巻だった。

帰る日の日曜日、ホテルのそばの通りを閉鎖してて、よくあるストリート・フェアだとおもったらピクルス祭りだった。いろんなピクルス - マンゴのとかあった - に、揚げピクルスにピクルスアイスクリームにピクルスマカロンに… 酢漬けマニアなので震えあがったのだが、どこもすんごい行列で時間がなくて諦めた。

あと、土曜日の深夜(2時過ぎくらい?)、LESのビルの屋上で(たぶん)酔っぱらって”Dancing Queen”を大合唱してた集団、あんたたちだれ?

行きの機内で見た映画2本;

Book Club (2018)

Diane KeatonとJane FondaとCandice BergenとMary Steenburgenの4人(すごいメンツ)はそれぞれそれなりに成功して安定した老後を送っていて、30年くらい仲良くBook Club(読書会)を続けていて、新たなテーマ本に“Fifty Shades of Grey”を選んだらこんなの本じゃないわよね、とか言いつつもなんか火がついたかんじになって、男たち - Andy GarcíaとかDon Johnsonとか - が寄ってきたりしてざわざわし始め、その後も続編ふたつを読み進んだら更に火事が広がっていくのだが、全体にちょっと大雑把で荒唐無稽すぎたかも。
娘たちに過剰に心配されてアリゾナに軟禁されそうになったDiane Keatonがもうあたしにゃ構うなってぶちきれてAndy Garcíaのもとに走るシーンでRoxyの”More Than This”が流れるのはよかったけど、でも”The Godfather: Part III”でのDiane Keatonて、Andy Garcíaからすれば義母だったじゃん。 Al Pacinoにぜったい殺されるよね。

Hearts Beat Loud (2018)

BrooklynのRed Hookでレコード屋Red Hook RecordsをやっているシングルファーザーのFrank (Nick Offerman)がいて、ひとり娘のSam (Kiersey Clemons)は、もうじき大学の医学部に行く予定なのだが、ふたりでたまにバンドのセッションをして遊んだりしていて、かつてバンドをやっていたFrankは夢を捨てきれずにそのデモをSpotifyにUpしたらIron and WineやSpoonと並んで取りあげられたりして有頂天になって、他方でレコード屋の方は先もないし、大家のToni Colletteにもうやめるよ、っていうの。
Brooklynの親娘人情バンドストーリー、みたいでわるくないのだが、そういうのよりも、ここの舞台になっているレコード屋って、GreenpointにあるAcademy Records – Williamsburgにあった頃からずっと通ってた最愛の場所 – なのでそこばかり見ていた。あと、レコード屋の客としてJeff Tweedyさんが現れたり、Tweedyのビデオが流れたり - 親子バンド繋がり? - しているの。 あと、Bakedの本店 – これはRed Hookなので正しい – も出てきてよいのだが、英国でもすぐに終わったちゃったし、日本では公開されないだろうねえ。

帰りの機内は、座って数分で落ちて、なんも覚えていない。 かわいそうにー。

こんなもんかしら。

[film] Love, Gilda (2018)

まだNYのはなし。 14日の午後、空港行く前、 Union SquareのWhole Foodsでベーコン買って(自分用のお土産。すぐには食べない)、ベーコンの束抱えてQuad Cinemaで見ました。

Quad Cinemaはほんと久々で、一回潰れたんだか潰れかけたんだかして、いまは見事に復活しておもしろい特集上映をいっぱい – 今だと“A Woman’s Bite: Cinema’s Sapphic Vampires”とか、”Très Outré: The Sinister Visions of Jean Rollin”とか、”Margarethe von Trotta: The Political Is Personal”とか – やっている。

Saturday Night Live (SNL)の第一期キャスト(7人のうちの1人)で、89年に癌で亡くなったGilda Radnerの評伝ドキュメンタリー。 こんなの英国でも日本でも上映されそうにないし。

昨年から今年にかけて”Love, Cecil” (2017) – ドキュメンタリー - があって、”Love, Simon” (2018) – フィクション - があって、これ。まだまだいろんな人を愛することが足りていない、ということなのだと真摯に受け止めたい。

わたしはSNLが大好きで、最初にはまったのは90年代初のAdam SandlerがいてRob SchneiderがいてDavid SpadeがいてChris RockがいてChris Farleyがいた時代で、もちろんその後もずっと追っかけてはいるのだが、ここんとこNYに行ってもぜんぜんだめで、だめというのは13日の晩もホテルに戻ってTVをONして、あ、Seth Meyersだあ、って喜んでいるうちに気づいたら落ちてて、Paul Simonが遠くで「明日に架ける橋」を歌っているなあ、と思いつつもまたずるずる落ちて、気がつくとまったく知らない番組だった … ていうのを繰り返している(平日の場合はJimmy Fallonでこれをやってて、だいたいCarson Dalyの番組で目覚めるの)。

で、SNLの昔のスケッチ(いくらでも見ていられる)を見るといつも豪快に笑顔をぶちまけているもしゃもしゃ髪のGildaが素敵で、どんなひとだったんだろうなー、というのはいつも思っていたの。

最初に彼女が遺した手書きのノートを割と最近のキャストだったBill Hader,  Melissa McCarthy, Amy Poehler, Maya Rudolph あたりが触れてざっと読んで感想をいうところから始まって、幼少期から、とにかくなんでもだれでも笑わしちゃえ!の女の子になって、劇団に入ってコメディを志すまで。

キャリアの最初期に知り合っていたPaul ShafferやMartin Shortのコメントもへえー、なのだが基本は誰に対しても表裏なくストレートにぶつかっていった人なんだろうなー、と。 SNLの男性陣ともいろいろ関係とかいざこざがあったようで当時のメンバーからのコメントは(Laraine Newmanを除いて)なかったりするし、最初の結婚相手だったG. E. Smith(..しらなかった)からもコメントはなく、次の相手のGene Wilderからも、まあそうだろうな程度の。 彼女の知られざる何かが明らかにされるようなことはなくて、彼女の見たままが見たままのまま、ずっとでっかく笑っている。

とにかく、笑い、コメディというのはこんなにもひとを明るく軽い気分にさせてくれるものなんだ、というのを彼女のSNLのスケッチのいくつかは教えてくれて、勿論そこにはLorne Michaels特有の志向があることはわかる – ジェンダー目線では結構際どい – けど、ここでのGildaについてはまったく異議なしで、炸裂する笑顔にこっちが戸惑うくらいだし、闘病中にGarry Shandlingのショーに出て「最近どう?」って訊かれて「癌なんだー♪」とか明るく応えるとこなんてすごいとしか言いようがない。 そこになんの作為もないように見せてしまう驚異。

“Love, Gilda”なんて言われなくても好きになっちゃうよね、って。

10.19.2018

[art] NYのあれこれ

NYの美術関係の、印象に残ったやつだけをざーっと書く。見た順で。

Pink: The History of a Punk, Pretty, Powerful Color

12日の夕方近くの午後、久々のFITで。
フェミニズム観点でPinkってどうなのさ? 議論があることは十分承知の上で、それでも、依然として女の子ファッション、あるいは「かわいー」が語られるヴィジュアルのまんなかにPinkという色彩(観)が頑としてあることは確かだと思うので、それってなんだろうね? と。
展示自体はいろんなデザイナーによる古今のPink色の作品がお花畑のように並んでいて、きれいねーっていうだけで特に考察する余地があるようなものではないのだが、並んでいるだけでPowerful、というかんじになっていく不思議。Pink → Punkっていうのは、革ジャンとかぎざぎざのマチズモPunkに対するアンチ、っていうことでいいのよね?   
Powerful ていう文脈もわかるけど、Positive –Negative ていう軸で見ていったほうが面白いかもな、と思ったところで、これはFashionの展示なのだからこれでよいのかも、とか。

Fashion Unraveled

FITのもういっこの展示。ほつれとかほぐれ、ほどけ、更には色落ちとかくすみとか、そういうった規格外の(意図したしないに関わらない)意匠や変化がファッションのありようにどう関わっていったのか。 前にMet Breuerで見た展示 - ”Unfinished: Thoughts Left Visible”に近いのかも、とも思ったがそれとも違っていて、単にほつれたりほぐれたりしているのって、そこにFocus置いて見ている分には何とも言えず素敵かも。そうじゃないと、あ… (恥)だったりするけど。

FIT MuseumからRizzori Bookstoreを経由してThe Morgan Library & Museumに小走りしていく途中のMuseum of Sexで”Leonor Fini: Theatre of Desire, 1930-1990”ていうのをやってて、うううって少し考えて、時間もなかったし諦めた。

It’s Alive! Frankenstein at 200

ここのとこ素敵な企画が多いThe Morgan Library & Museumで始まったばかりの展示。

Mary Shelleyのゴシック小説”Frankenstein: or, The Modern Prometheus”出版から200年を記念して、同様の企画が世界中で出てきてもおかしくないと思うのだが、まずはここから。入口にRichard RothwellによるMaryの優雅な肖像があって迎えてくれて、
会場は大きくふたつに分かれてMaryの草稿を含む当時の英国の風俗とか波紋とか波風を並べたセクションと、後世の世界中の演劇、コミック、映画等に与えた影響を概観するセクションと。面白さでいうと後者の方が断然なのだが、展示点数がやや少ないのが不満だったかも。 Nick Adamsのフランケンシュタインもののポスターもあったけど、あれってサンダ対ガイラかしらん?

Pontormo: Miraculous Encounters

ポントルモの代表的な祭壇画 – “Visitazione”(1528-29)  - 「聖母のエリサベツ訪問」がフィレンツェの聖堂を出てなぜかUSを旅していて、そこに習作ともうひとつ”Portrait of a Young Man in a Red Cap”があって、小さな部屋で人もいなかったのでMiraculousだわ、っていっぱい拝んだ。マリアとエリサベツのふんわりした邂逅、すばらしいったらない。 ポントルモというと『ポントルモの日記』の変な老人のかんじが抜けないのだが、絵はほんとにすごい。

Drawing in Tintoretto’s Venice

ルネサンス・ヴェネツィア派の大御所、ティントレットのドローイングを中心に集めた展示で、これもポントルモと同じくらいすごい展示だと思うのだが、なんでこんなに地味にやっているの?
色付きのもいくつかあったが、殆どが粗くてぶっといモノクロで、そうするとミケランジェロ的な肉のうねりがもくもく浮きあがってチョークが紙を擦っていく音まで聞こえてくるようで目が離せない。

Franz Marc and August Macke: 1909–1914

13日の昼過ぎ、Velvetsの展示の後、Strandに寄ってから上に上ってNeue Galerieで見る。
August Mackeが1914年に27歳の若さで戦死する直前まで続いた彼とFranz Marcの絵を介した交流の記録。August Mackeの作品が米国で纏まって紹介されるのはこれが初めてなのだそう。
どちらも青騎士からドイツ表現主義の画家、というのが一般的な説明なのだろうが、そんなのどうでもいいくらいにどれも暖かくて柔らかくて丸くて、特にFranz Marcの描く馬や牛たちはどうしてあんなに緑や黄色のなかで仄かに発光しながら浮かんでいるのだろう、触ったらどんなかんじかしら、って。
こんなにかわいくて素敵な絵を描いていたふたりなのにどちらも第一次大戦で亡くなっている(Franz Marcは36歳で)。帰りに入り口に並んだふたりのポートレートをみて泣きそうになった。戦争ひどすぎる。
そしてカタログはいつものように買う。

Everything Is Connected: Art and Conspiracy

バスで少し下ってMet Breuerで見ました(今回、Metの本体には行かなかった。アルメニアの見たかったけど)。国や組織の陰謀や黒い企て、それらをやっちゃう人々、等をテーマにしたり表に暴いたり、こういうのはNew Museum辺りでやってきたようなネタだと思うのだが、Metでもついに。やはり地図とか図面系を広げて読み込んで考えさせるようなのが多くて、つまりもうそこらじゅうに張り巡らされてて逃げようがない – というところからどうやって逃げるか小便かけるか、みたいのまで、モダンアートが正面から立ち向かってきた政治的な企ての数々、互いに全く噛みあっていかない騙し合い暴き合いが延々と続いていく。Jim ShawやRaymond Pettibonがこんなuptownの、Metなんかに並んじゃって、というだけで痛快でよいの。

Odyssey: Jack Whitten Sculpture, 1963–2017

今年の1月に亡くなった画家/彫刻家の彫刻に的を絞ったレトロスペクティブ、だけど絵画みたいな彫刻もあるし。 どれもブラックホールのようで、特にBlack Monolithシリーズのみっしり敷きつめられて純化された硬度、黒度は圧巻。つい触りたくなって、でも触ったとたんにきっと…  (くだんない映画みすぎよ)

Harmony Korine: BLOCKBUSTER 

MET Breuerの少し上のGagosian Galleryでやっていた個展。
塗りたくってLEGOみたいになったVHSをパネル上に敷きつめて、その上にいろんな映画のポスターイメージも落書きして、かつてVHSがお茶の間に運んでくれた夢のひと時を駄菓子ふうに再現してくれる。いつものように甘くてジャンクで後には何も残らなくて、それでよいの。

MOTHA and Chris E. Vargas: Consciousness Razing—The Stonewall Re-Memorialization Project

14日の朝、New Museumで、屋上に行って遠くの方を眺めてから5階に降りて見た。
MOTHAはthe Museum of Transgender Hirstory & Artの略でChris E. VargasはそのFounderで1969年のStonewall Riotを知り、伝えうる(Re-Memorialization) のか、というテーマで若め(なのかな)アーティストに製作を委託しているシリーズ(なのかな?)。 傾向としてはがりがりに突っ込んでえぐり出すかんじではなく、ほのぼのすっとぼけで、こういうことでしょ? みたいのが多いかんじ。

Sarah Lucas: Au Naturel

2〜4階のフロアぜんぶでやっていた英国のSarah Lucasの30年を振り返る展示。
彫刻に貼り紙にインスタレーションに、クールでドライな下ネタとかにょろにょろが盛大にブチまけられている。とか思っていると、あー? どこが“下“なんだか言ってみろや?  ってタバコを咥えた大量のケツの穴たちに言われてしまうの。
昨年の夏にここで見た”Carol Rama: Antibodies”に近いかんじだが、ここには痛みとか傷のようなのが余りないようで - Au Naturel - そういう点でもクールでかっこいいなあ、って。

これくらいかしら。
そういえばロンドンで見ているやつ、まったく書いてないねえ。

10.18.2018

[art] The Velvet Underground Experience

13日の午前11時、オープン時間の列に並んで見ました。一応チケットは買ってから行った。
場所は、バンドが初期にリハーサルをしていたという場所の近所 - 718 BroadwayていうNYUの界隈で、前に何のお店があったのか覚えていられないくらいテナントの入れ替わりが激しい地帯。

入口でIDの現物(運転免許、パスポート等)と引き換えにヘッドフォンを渡しているので、すごいことやっているなあ、と思った(引き換えてから後悔した。なくされたり勝手にコピーされたりしたらやだよね?)。ヘッドフォンはWirelessではなくて、ぶらぶらプラグが付いているWiredので、リスニングポイントには穴がいっぱい空いてて、聴きたければ各自そこに突っ込む(面倒なので結局使わなかったわ)。

倉庫のようなだだっ広い空間で地下と中二階のようなのがあって、写真、映像、重要関係者それぞれのプロファイルがスクラップで並べてあって、そこにレコーディング、ライブ音源いろんな音が流れてて、ヘッドフォンで聴くこともできるし寝転がって聴くスペースもある。 あれでもマルチメディアっていうの?

The Velvet Undergroundの音楽そのものにずば抜けた革新性やマジックがあった、というよりも、New Yorkの当時のアートシーンのうねりの中でファッションとか映画とか文学とかいろんな関係者や才能を巻き込みながら発光して大きな光の渦になっていった -  The Velvet Undergroundの音楽に接するというのは、単にレコードを聴く、ライブに行く、ということよりももう少しレンジの広い総花的な(時代の少し先を行くような)”Experience”としてあったのだ、ということで、そういう説明をされることに特に違和感はないのだが、そんなの当然知ってるわよ、だったし、だからなんなのよ、くらいは言いたくなるのだった。

例えば“David Bowie Is”の展示のどこが画期的だったのかというと、Bowieの軌跡を膨大な量のアーカイブ資料と共に並べつつも、それを見る我々はそれらに向かい合っていた自分の過去と現在を振り返って、そこからBowieの今に想いを巡らせる(自分が見たときはまだ存命だったし)、そういうことを可能にさせる裾野の広さと吸引力があったことで、それはBowieがBowieだったからだ、と言われてしまえばそれまでなのだが、今回のこの展示はVelvetsはVelvetsだから冷たくてジャンクでもいい、とかそういうこと以前に、彼らに対する愛がちっとも感じられない、ということに尽きる。 愛じゃない、必要なのは”Experience”なのだ、とかいうのかも知れないが、それって結局昔のシーンとか学生運動とかの「経験」や「総括」をしたり顔で語りたがるおやじ連中とたいして変わらないじゃん、て。

もちろん、過去になにがあったのか、をその現場に近いところで現物資料と共に触れる、というのが大事だというのはわかるけど、あの内容ならNYの60年代のDowntownシーン、ていう括りで別に済んじゃうよね。 それに、あの一帯に地上げ攻勢かけてレコード屋とか潰して安っぽい商業地帯にしちゃった企業共がスポンサーっていうのも笑わせる。 それで$25取るのかよ、って。

あのゴミのような喧騒の中で彼らはなぜ次のように、呟くように歌っていたのか。

“Watch out, the world's behind you  ~  There's always someone around you who will call  ~  It's nothing at all”

彼らが”Watch out”と言っていた世界がどんなものだったのか、せめてそこを見せて欲しかったのにな。

ていうか、VelvetsにしてもWarholにしても、Experience的に享受・共有されることを頑なに拒んだ先の轟音ライブであり退屈フィルムだったはずで、それを奉って”Experience”とか言っちゃうこと自体、悪い冗談にしか思えない。

音楽そのものに限っていえば、彼らのガレージっぽい音が会場のしょぼいかんじと合ってないこともなくて、フォロワーだかチルドレンだかの音もいっぱい流れてて、ふうん、だったけど。

展示のなかではJonas Mekasの“To Barbara, with Love” - Film makerのBarbara Rubinに捧げたコーナーがよかった。Mekasには”To Barbara Rubin with Love” (2007) というFilmもあって、彼女の素敵なポートレートに、Mekasの手持ちカメラも展示されていた。
Barbara Rubin - Gerard Malanga – Andy Warhol - The Velvet Underground という線。

中二階には物販コーナーみたいのがあって、古雑誌とかもあるみたいだったが売り出しは何故か午後から、ということでざっと見ただけ。あんま珍品はなかったみたい。Rockin‘OnのLou Reed追悼特集号とか置いてあった。あれいくらで売るつもりなのかしら?

10.17.2018

[music] Nine Inch Nails - October 13 2018

13日の土曜日の晩、Radio City Music Hallで見ました。ほぼこれのためにNYに渡った。

Radio City Music Hallに最後に来たのはずうっと昔のIron and Wine?  Modest Mouse?
(ちなみに最初に来たのは93年のThe B-52's、 前座はThe Juliana Hatfield Threeだった)

NINは6月のMeltdownとRoyal Albert Hall以来で、あれらは相当にとんでもないやつだったが、それでも、あれでも、頬をぱしぱしやって塩をまく(力士か)おめざの儀礼みたいなもんにすぎないことを、本丸が北米にあることは十分にわかっていたので、あれらの凄さが後からしみてくればくるほど、今回の機会を逃すのなんてまじありえないのだった。

チケットには7:00とあって、それってDoor openの時間だと思ってて、だって他にもやることいっぱいあったしさ、とか言い訳してもしょうがないけど、つまり着いたら”Just Like Honey”の甘いメロがホールにラウンジみたいに響いていて白目を剥いた。ばかばかばか何度やったら…

JAMCは3年前にシカゴで見た30th Anniversary of Psychocandyのライブ以来で、あの時よかごりごりの度合いは増してよい意味でdullでloseで、単に疲れていただけなのかもしれないが、とても気持ちよかった。こないだの新譜もよかったし再びやってくれるのではないか。

幕間は物販と飲み物とお手洗いの行列がごちゃごちゃにホールをうねって芋洗いでひどくて、でもとりあえず始まる。

ここんとこのNINは、加虐と被虐の狭間に落っこちてもがく自己と世界の相克のドラマを中心に引っ掻きまくるのと、そういうドラマをあらしめているぼろ絨毯としての世界 - 既に十分に腐れたそれ - をぼこぼこぶん殴るのと、極めて大雑把に分けると2系ある気がしていて、前者を象徴しているのが”The Downward Spiral”で、後者のそれが”The Fragile”で、今回のRadio Cityの2 Days もそういう軸を中心に分けることができる、気がしないでもない。  勿論、曲によってそんな綺麗に簡単に色分けできるわきゃないのだが、NINのsetlistを読むおもしろさ - NINやTrentの歴史を横に置きながら - というのは確かにあって、そういう中で今回のLegの冒頭の”Broken”全曲とか、”The Perfect Drug”初演とか、なにが起こってもおかしくない事態、というのが進行中で、それが爆裂しつつも完璧にコントロールされたバンドのパフォーマンスと絡み合って展開されていくスリルときたらない。なにを演っても初めて聴くみたいに聴こえてくる。

で、この日のでいうと”The Fireman”の音圧がサウナ地獄みたいになったところで、あの、なにでどこをぶっ叩いているのかいつも想像してしまう邪悪な打突音が脳幹に打ち込まれ、”Mr. Self Destruct”が始まったので、ああこれは血まみれ傷だらけの土曜の晩になるんだわ、と思って、実際にそんなかんじの殺気がびゅんびゅん飛んでくる。単に一枚板でラウドとか攻撃的とかいうより、個々のピースが絡まって結合してバンドサウンドとして生成されていく様をライブで追うことができる、そういう音の出しかたをしているから新鮮に聴こえるのかしら。

ここまで1日おきで演奏されてきた”The Perfect Drug”も、その法則に従えばこの日は演らないはずだったのだが、MSDをやった以上は来るよね、と思って、そしたらやはり演ってくれた。流れとしてはここまでが自壊/自滅の曲集で、この後の新譜からの3曲以降はこれとは位相の異なる新たな出発についての歌で、でもそんなのぜんぜん信用できないの - なにしろ”Bad Witch”だから - といったところも含めて全体の流れはとてもジャズのかんじがして、それは単にサックスを入れたりしているからというだけではなく、これまでパラノイアックに全体の整合や完成型を追求するクラシックのようなアプローチを止めて、よりランダムにスポンテイニアスに瞬間の刹那を求めていくような、そっちの方にシフトしているようで、その辺がツアータイトルの”Cold and Black and Infinite”ていうやつで、そこには晩年のBowieが志向したであろう「ジャズ」もあった(”Black Star”と”Bad Witch”)のだろうし、制御管制系をAtticus Rossに委譲できるようになった、というのもあるのだろうが、とにかく無軌道に痛快に暴れてくれるので、Trentがタンバリンひとつ叩くのですら見ていて楽しい。

(これまでも何をしでかすかわからないスリルがなかったとは言えない - けどそれってネガティブな方 – また音楽活動止めちゃうとか – でしかなくて)

おなじみのラストの”Hurt”ですら違って聴こえて、これまで自己の帝国の瓦解とそこに伴う痛みや腐臭にしか生を見いだせなくなったどん詰まりが世界の消滅として(あの映像と共に)語られていたのに対し、今回のは映像なしで最後のパラグラフ – “If I could start again ~ I would find a way”がKeyになっている気がした。(あの蛇が好きだったのでちょっと残念)

この日のBowieカバーは” I’m Afraid of Americans”で、これが自分にとってのBowieだ、と言っていた。”I Can't Give Everything Away”の方は、みんなに捧げるBowie追悼の曲である、と。

“The Perfect Drug”は初演のときの動画で見たときより随分こなれてばりばりに弾んでいた。終盤の暴れ太鼓のあと、Ilan Rubinが放心したようによろよろとドラムスから降りて、どうしたのかしら、て見ているとピアノのとこで最後のフレーズ弾いてた。(”Without you everything just falls apart”って君のことなのか)

次はいつ”We’re In This Together”をやるか、になるの、かな?

ライブはまだまだいくらでも見たいけど、どちらかというとこれの後、3部作の次にどういう音、アンサンブルに向かうのかを見たい。ひょっとしたらこれのライブレコーディング、かも –  どこをどう切ってもすばらしい記録になるよ。

ステージの真下に控えて、絶妙のタイミングでTrentにタンバリンをトスするのってDream Jobになるよね。

10月にはもういっこ大事なライブがあるので、そこは死守しないと。

[film] Dragonwyck (1946)

15日、月曜の朝にNYから戻ってきて、その日はもう会社休んで、いちんち寝る予定にしていたのだが、LFFのほうにうずうず行きたくなって結局その日は3本見て、翌朝は出張でドイツに飛んで、さっき戻ってきた。 今晩のLFF… 行きたいけどもういいかげん体が..

NY - JFKに着いたのが12日 - 金曜日の11時半くらいで、そこから車でMoMAに直行して見ました。
滞在54時間だけど、それでも1本くらいは映画見たいな、と。

一旦ホテルに入ってから移動というのも考えたけど、13:30からの上映なので微妙だったし。
で、例によって車に酔ってMoMAに着いたらへろへろで、何かお腹に入れないと、とMoMAの中に入って(それにしても、$25の入場料ってどこでも普通になっちゃったねえ)久々にここのCafé 2でピザ食べて - 相変わらずおいしい - 少し落ち着いた。

MoMAのFilm部門がやっているマチネ - 昼間上映のシリーズって年寄り向けのクラシック(泣かせる系)が多いのだが、内容は昔から充実していて、ちょうどVincent Priceの特集が始まったところ、これはJoseph L. Mankiewiczの監督デビュー作でもあるし、ハロウィンも間近だし、見ることにしたの。

映像の展示コーナーでは丁度特集上映が終わったばかりのJerry Lewisの絵コンテとかが沢山並んでいて、これの上映はでっかい方のシアターではない、小さいScreen 2の方で、上映前には扉のとこにいるおばちゃんが「はーい携帯消して~ 食べ物飲み物禁止~ 居眠りも禁止ね~」ってでっかい声で怒鳴るのでみんな目を覚まして座り直す。(上映前の注意なんてこれでいいのよね)

この映画の時点から100年前の1840年代、ConnecticutのGreenwichに暮らすMiranda (Gene Tierney)のところに母の遠い親戚で、ハドソン川の上の方の崖に聳える貴族のお屋敷Dragonwyck Manorに暮らすNicholas Van Ryn (Vincent Price)からしばらく滞在しないかって招待の手紙が来て、夢見るMirandaは行ってみたいってせがんで、厳しい父(Walter Huston)もしぶしぶ承諾して、川を上って行ってみると、Nicholasはなんかおっかないし、メイドは不愛想だし、彼の病弱で寝たきりの妻も不気味だし、一人娘は無表情にあたしは愛されていないっていうし、パーティに来る客はいじわるなのばかりだし、明らかに変で異様で、更には彼と彼が所有している一帯の土地で働く農民との間は土地の権利を巡って一触即発状態で、かつて憧れていたのとはぜんぜん様子が違う。

やがて彼の妻が亡くなって、なんかもういいやと疲れて実家に戻ったMirandaのところにNicholasが訪ねてきて父親にMirandaとの結婚を申し入れ、お話しとしては全く悪くはないし自分が少しは変えることもできるかも、と受けて、彼女は再びDradonwyckに戻る。

でもその後も不吉としか言いようのない不幸は続いて、男の子が生まれても心臓弁膜症ですぐに亡くなってしまったり、農民との諍いもあってNicholasは疲れて不機嫌にどす黒くなっていって、お先真っ暗になってきたMirandaの運命や如何に… になるの。

Dragonwyckという場所・建物にまつわる怪異譚みたいのかと思っていたら、それだけではない(なにが原因なのかどちらが先だか不明だが)Nicholasの妄執があり、彼の妻の不審死に関わるミステリーがあり、土地の権利に関わる争議とかもあって、それらに巻き込まれたMirandaと彼女を助ける医師のJeff (Glenn Langan)とか、最後は西部劇みたいになるし、ものすごく重層の拡がりがあっておもしろい。農地の争議の件は1846年にNY州で起こった史実ともリンクしているのだそう。

The New Yorker誌のRichard Brodyさんはこの辺を“mix of the macabre and the sociological plays like a blend of Poe and Tocqueville”と書いていてなるほどー、としか言いようがない。

そしてVincent Priceはひたすらでっかくて制御不能で不気味で、あんなにお屋敷のダークな威容にぴったりはまる人もいないのではないかと思われた。今だとAdam Driverあたりになるのかなー。

あーおもしろかった、って荷物を拾って地下鉄に下りてホテルに向かった。
まだまだ書くこといっぱいある。ありすぎ。

10.11.2018

[log] October 12 2018

英国は8月の終わりの祝日を最後に、クリスマスまでお休みがまーったくないので、中だるみが激しくてやってらんなくて、だから、というわけではないのだがここらでお休みをとる。

だから、というのはもちろんうそで、5月にチケットが出たときにとりあえず、というかんじで取ってもらったのがあって、このとりあえず、というのも実はうそで、これを逃すのなんてありえないのでなにがなんでも、だから会社休んで行くから、ていうのが正しくて、でもそこからそれ以上に大胆に強気に踏みこむこともできなくて、結局ライブは13日のひと晩のみ、現地2泊のみの弾丸で、この時期のホテル代が高騰している(なにあれ)ことに泣いて、一昨日(10日)から始まったLondon Film Festivalとモロ被りなので泣いて、じゃあまだかろうじてやっているNew York Film Festivalはどうか、というともうろくなの残ってなくて、BAMのNext Wave Festivalはというと、これもやや半端で残念で、わかったよライブに集中しろってことだろどうせ滞在54時間だしな、っていうのがいま。

金曜日の朝(5時間後)に発って、月曜日の朝に戻ってくる。

最後に行ったのは8月の真ん中で、実はまだ2ヶ月しか経っていない、というのが信じられないのだが、ここまでなんにもしていないのでものすごく時間が経ってしまった気がする、というのと、ついこないだのことなのにもう忘れてしまっていることが多すぎる、というののふたつがあって、これはもう老人性のなんかの兆候(or 只中)としか言いようがないのだが、だからと言って行くのをやめるかというと、もちろんやめない。 ハリケーンでも来てみやがれ、とか言ってたらほんとに来てやがるわ。

前回訪れてからまだ2ヶ月なので美術関係もそんなに新しいのをやっているわけでもなくて、でも探して並べていくと結構にょろにょろでてきて、これを54時間で..  とはちょっとだけ思う。Bowery Ballroomの Robyn Hitchcockも、あれこれ考えて諦めるしかなくて。 結局走るしかない –   のでお願いだから週末の地下鉄止まらないで。特にFとかDとかJとか。

こないだPrime MeatsのクローズとMcNally Jacksonの移転が発表されて、もういちいち驚いていられないし、東京でもLondonでもそういうのばっかだけど、そういうのがとにかく悔しいっていうこととかどれだけ感謝しているか、とかは書いて残していきたい。ディベロッパーとか家主にはどうやったら届くのかね。連中は別の宇宙で暮しているとしか思えないわ。

という見たい行っておきたい、はいつものようにあるけど、せっかくの秋の中休みなのだから楽しんできますわ。

あ、行先はNYで、ライブはNINだよ。
ではまた。

[film] 寝ても覚めても (2018)

これも先に書く。昨晩にみたやつ。
10日から始まったLondon Film Festival (LFF)の、自分にとっては最初の一本。場所はICAで席は無指定だし、扱いがちょっと失礼なんじゃないの- だから監督も(NYFFには行っても)来てくれないんじゃん、とか思ったけど、見れるならとにかく見るよ。

LFFは2回めで、ちょうど旅に出る件があるしそのすぐ後に出張も入ったりして見れないのが沢山出てがっくりで、更に先行予約のタイミングを少しミスしたらSold Outだらけで、こういうのが重なったので昨年ほど熱狂していない。 暫く待てば(ものによっては1年くらいだけど)ふつうに公開されるものも多いことがわかったので、より早く見たい - 作った人の顔も見たい、のがなければ無理して取らなくてもよいのかな、って。

でもこれ -濱口竜介作品は別で、『万引き家族』なんかよかぜんぜん見たいし、黒沢清のよか見たいかも、ていうくらいにこの人の作品はいつも考えさせられることが多くて、断固ぜったいおもしろいんだから。(『ゾンからのメッセージ』もとっても見たい)

英語題は”Asako I & II”。  原作の小説は読んでいない。

朝子(唐田えりか)が大阪の国立国際美術館の牛腸 茂雄の展覧会で麦(東出昌大)と出会って、爆竹にやられるように一瞬で恋に落ちて、奇跡のようなバイク事故も含めて朝子にとっては夢のような時間を過ごすのだが、麦は突然消えてしまう。

そこから2年後に東京に移った朝子はコーヒーのポットを回収に入ったオフィスで亮平(東出昌大)と出会って、外見が同じだし大阪弁だしあなた麦よね?と問うのだがどうも別人のようで、その後にやはり牛腸 茂雄の展示で亮平と再会して、これは何かあると思ったし、亮平の方も彼女のことが気になって、結局ふたりは外の階段で恋に落ちるのだが、突然朝子のほうからごめん無理だと一方的に言われて連絡を絶たれ、腑に落ちない状態で彼女に会うために劇場に行くと、そこに311の地震がきて、歩いて帰宅する途中に亮平は朝子と再会して、彼女を抱きしめる。

そこから5年後、もう一緒に暮らしているふたりは東北の方でボランティア活動をしたりしていて、猫もいて、そこで朝子は大阪にいたときの友人春代と偶然出会って、彼女経由でモデルになった麦のことや麦の親戚の岡崎が寝たきりであることなどを知らされて心が揺れて、亮平にもそれを伝えるのだが彼は落ち着いていて、でもふたりで大阪に引っ越す直前、麦が現れて。

恋はひとを狂わせて走らせる。狂わせるのは相手のひとで、その相手が同じ外見のふたりに分裂するかなんかしてふたり現れたらどうなるか。外見は同じだからどっちも好きで、中味は当然ちがうけど、どっちもそれぞれに好きだとしたら、どっちかの手を握るしかない。

そして震災というのもひとを根本から変える。海も川もドラマチックにではないけど、そのうねりやしぶきがひとを変える。
たぶん猫だって。
その変化の幅がでっかくて他者から見えなかったりすると狂っている、ように見えるのだが、それを言うのは他者のほうで、自分は恋をしているだけでそうは思っていない。

牛腸 茂雄って、自分にとってはE. ゴッフマンやR.D.レインと同列で、あなたはどうしてあなたで、わたしはどうして..  要は”Self and Others” -  他者や集団のありようを写真の表面に置いていったひとで、その写真たちに媒介されるかのように麦と亮平と(そしておそらく自分と)出会った朝子はひとの外観がどんなふうに自身の存在を揺らすものなのかわかっていて、それは赦されるとか赦されないとか、そういうことではなくて、いたたまれない、どうしようもないものなのだ、と。

朝子にとってのいたたまれないなにかと、それをもろに横っ面にくらった亮平の(あたりまえの)なんだそれ、が衝突して爆発して疾走して止まらないふたりを遠くから捕えるショットがとてつもない。 歓喜と怒りと恐怖が渦を巻き、ちぎれた雲が放つまだらな光が白いシャツを照らす。(Cassavetesの”Love Streams” (1984)の走るシーンを思いだす)

恋愛とはそういうものだから、と言って割り切ってしまえば終わりのことを可能な限りきちきちと選り分けていって、分かりあえるところだめなところいたたまれないところどうしようもないところ、みたいな惨状や継ぎ接ぎをぜんぶぶちまけて繋いで、でも、好きです。と海に向かってつぶやくように言う。ハッピーエンドで終わるかどうかなんてどうとも思っていない究極の、怒涛の恋愛映画だと思った。

東出昌大と唐田えりかのケミストリーは、Bradley CooperとLady Gagaのよかすごいよ。 あのラストなんて。

あと、震災と東北のシーンはこの映画には必要な要素だと思ったけど、海外だとどう見られるのかしら、って。じゅるじゅるの焼き牡蠣とか雲丹とかがどんなにすごいか、とか仲本工事がどんなにすごいか、って。(客席はいっぱいでこっちの人達のが多かった)

英国では受けないのかなあ。同じ顔のが入れ替わったりすり替わったりしてびっくりじたばた、ていうドラマは好きみたいだけど、そういうのとは違うしねえ。

ユリイカの濱口竜介特集もこれを見るために取り寄せて、巻頭のインタビューがとにかくものすごくてあきれた。
寝ても覚めても映画のことばかり考えている人たちの対話のおそろしさ。

Asako IIIはHappy Hour IIにマージしてまた5時間くらいのにしてほしい。← すごく見たい。

まだ書きたいこといっぱいあった気がしたのにな…  という映画なの。

[film] The Godfather: Part III (1990)

こっちから先に書く。
7日の日曜日の晩、BFIで見ました。 35mm版上映で、これはこれですごくよいの。

時代は79年のNYに飛んで、まだあそこにはツインタワーがある。
冒頭はごま塩の老人になっているMichael (Al Pacino)がお祝いのパーティをしているところで、彼は子供に囲まれて教会に沢山の寄付をする慈善家のようになっていて、そこにはKay (Diane Keaton)も息子のAnthony (Franc D'Ambrosio)もMary (Sofia Coppola)もいて、Anthonyからは稼業は継がずに音楽の道に進むと言われてがっくりきたり、甥 – Sonnyの息子のVincent (Andy García)がやんちゃに現れて厄介ごと起こしたり、でもMaryとダンスして幸せだからよいか、みたいなのがいまの彼の状況である、と。

今度のは大司教が持ちかけてきたヴァチカン銀行の土地投機の話しがあって、そこのも含めた過去の取り分とか扱いをめぐってJoey Zasa (Joe Mantegna)がキレて、ヘリで会合ごとぶっ飛ばすみたいな派手なことをしてくれて、MichaelとVincentはなんとか逃げることができたのだが、Vincentはお返しにリトルイタリーのお祭り(またお祭り..)で、Joeyを始末する。

という本筋とは別にMaryとVincentの切ないラブストーリーがあって、柔くなってきたMichaelもVincentにMaryだけはいかん、とにかく身を引けってきつく言う。

終盤はオペラ歌手デビューをするAnthonyの公演を見に家族みんなでシシリーに赴いて、MaryとVincentの関係はまだ微妙で、Michaelがここで結婚していた女性の件も思い起こされて複雑で、更には土地投機の鍵を握る法王の交替とか、敵対勢力が送りこんでいる刺客とかがいて、その状態でAnthonyの登場するオペラ - Cavalleria rusticana - が始まって、よりによってこんなエモ満載の逆恨みドラマをバックに、いろんな殺し – 橋から吊るし首、毒入りcannoli、メガネを首に刺す、それからついに法王まで…   でも一番最後にきたのは… 

シシリーに来たMichaelが教会を訪ねて告解をする場面があって、泣きながらわたしはxxを殺しましたーとか延々とやるのだが、あれ、受けるほうは絶句するよね。赦せるのか、って。

前2作にあったような時間や場所を大きく跨ぐようなことはもうなくて、その場所に置かれた写真、そこで聞かれ語られる言葉に過去も現在も全てが細かに表出してきて止まらなくなるかんじ。 たんなる老人の走馬灯なのかもしれないが。

誰もが考えるであろう大ボスの引き際、心身の衰弱があるのは当然としても、(自分が手をくだしていないにせよ)最後の最後までぐさぐさでテンションが途絶えることはなく、最後はそれが極まってそのままFrancis Baconの肖像画みたいに固まってしまう。

彼の扱うビジネスが貧乏人を救うカジノから全ての人を救う宗教の方にシフトして、それと並行して物語にはじめて恋愛が導入されて、(自分のでないとはいえ)その恋愛が彼にトドメを刺す、という皮肉な円環。 本当はVitoとCarmelaの間にも、MichaelとApollonia、MichaelとKayの間にもあったに違いないお話なのにそれがなぜここで?
(カジノから宗教へ、って今の政府の踏んでるとことおんなじだわ。何十年遅れてるのか)

3つのお話しの構成やテーマの置き方、その共通軸や転がし方を俯瞰して掘り下げることもできるかもしれないけど(Part II見るまではそう考えていた)、あまり意味ない気がしてきた。これは別に神話でもなんでもなくて、アメリカの近代化の流れのなかで出てきたファミリー的なお仕事集団の盛衰を描いたもので、たぶんこれと同様の集団や家族の物語が911以降のグローバル経済と難民の時代に変奏されることになる、のかもしれない。

でも、もう血まみれなの、泣き叫ぶのは見たくないんだ。

ここのSofia Coppolaはすばらしくよいのだけど、監督するほうに行っちゃったのね。

あの音楽に歌詞があるのを始めて知った。あと不穏なシーンになるとPart IIではピアノの低音が鳴って、Part IIIでは口琴のような音が響いてくるの。

これからは仕事関係の集まりで趣味とか聞かれても、映画鑑賞です、とか言えるかも。
どんなのを見るの? とか聞かれたら「ゴッドファーザー3部作かなー」 って胸張れるんだわ。

[film] The Godfather: Part II (1974)

9月29日、土曜日の晩(前、日曜日って書いてたけどまちがい)、BFIで見ました。

これも4Kリストア版だったが、こちらはこの回を含めて2回しか上映がないので売り切れていた。
202分、どんなものか想像もつかなかったけど、いろいろ詰まっていてすごかったねえ。

前作でVito Corleoneの後を継いで”Don”となったMichael (Al Pacino)の話になると思ったら、すぐに話しは1901年のシシリーに飛んで、まだ子供のVito(Michaelのパパね)が地元のボスに家族をぜんぶ殺されてひとり逃げて、そこからNYのエリス島に移民として渡ってきた彼がVito Corleoneと名乗り、おそらく今のリトル・イタリーあたりに落ち着いて、こんな具合にふたつの時代の話しが交互に展開されていく。

59年のMichaelの時代は、マフィアとしてカジノ・ビジネスを拡張させていく途上で、Lake Tahoeの家を急襲されたMichaelがファミリー内も含めて犯人をあぶり出そうとするのと、その流れで革命直後の危ういHavanaに飛んでパートナーのHyman Roth (Lee Strasberg)とどんぱちやったり、並行して彼らのビジネスとその挙動が公聴会にかけられて衆目に晒されたり、いろんなことがとてもやりにくくなっていく様子、それに対する苛立ちが描かれる。

Old NYのVitoの方は成人してRobert De Niroになって、結婚して赤ん坊もいて真面目に働いていろいろ面倒見もよいのだが、地場を仕切っているやくざのDon Fanucciのせいで職を失い、仲間と泥棒稼業みたいなことをやるようになって、でもやっぱしDon Fanucciの所業を見るにつけだんだんRaging Bullになっていって、お祭りの日にたったひとり、Taxi Driverをやって、更にシシリーに戻って親兄弟のかたき討ちをやる。

Michaelの方は側近も家族もどんどん切ったり殺したりしていったらKay (Diane Keaton)からはもう一緒にいられないって離婚を切り出されて、そんなふうにファミリーの体をなさなくなって、ほとんどひとりになっても続けなければいけないなにかって、一体なんなのか、と。

Vitoの方のお話しの方の最後は、Vitoの誕生日のお祝いの席で、なのに真珠湾の後ということもあって、Michaelは軍隊に入るから、ってひとりで飛びだしていっちゃうので残された家族はぽかん。

つまり結局、Michaelは終わりにはずっとひとりで行動していて、それをたったひとりでNYに渡ってこの稼業を始めたVitoと重ねることで、ファミリーを興す、それを維持することの面倒くささ - 最後はなにを言われてもひとりでやるしかない、というその孤独なありようを描いている。

のと、そこに20世紀の前半部分、シシリーの田舎の小競り合いで弾かれた子が移民となってNYに渡ってでっかい財を築く、それを革命や戦争、富国といった歴史の流れ、ヨーロッパからアメリカ、アメリカから中南米 - キューバ、アメリカ国内でもNYからベガス – ネバダ、という地理的な拡がり - 膨張としか言いようのない拡がりと高まりのストーリー上に置いてみること。

それは華々しく喧伝されるような夢物語では決してない地味な庭先の相談事から始まって暴力と裏切りの間を往ったり来たりするばかりの徒労感たっぷりのやつだった、と。

配布されたプログラムノート(Peter Cowie, The Godfather Book, 1997 からの抜粋)には前作から今作までの準備期間にCoppolaが製作スタッフに指示した膨大な量の調査収集のことが書いてあって、あれをそのまま実現できていたら”Gangs of New York” (2002) - これは19世紀の話しだけど - なんかとても及ばないNYの一大歴史絵巻になっていたのかも、って。
(”Apocalypse Now”の製作に向かう狂気の兆候が..)

Robert De Niroはよいのだけど、これを若い頃のMarlon Brandoが演じていたら.. とかつい夢想してしまう。 ものすごく微妙なところでなにかが違うかんじがして。

Al Pacinoは、例によって何が彼を突き動かしているのかがまったく見えない、その異様な暗さに磨きがかかっていてたまんない。 いまの時代のリーダーに求められるあらゆる要素を全部切り捨ててコンプラ系もまっ黒で、でも超然としている。
あ、べつにリーダーじゃないのか、”Father”なのか。

10.09.2018

[film] Autumn Leaves (1956)

9月27日の木曜日の晩、BFIのJoan Crawford特集で見ました。いよいよこの特集も最後のほう。

タイトルは誰もが知っているJacques Prévert - Joseph Kosmaの「枯葉」で、タイトルバックでNat King Coleの歌声が流れるのだが、ストーリーに出てくるわけでもなんでもなくて、変なの。

監督はRobert Aldrichで、彼とJoan Crawfordというと、まずは”What Ever Happened to Baby Jane?” (1962) なのかもしれないけど、こっちの方が断然おもしろいと思った。

Millie (Joan Crawford)は自宅でタイプ清書書き屋をやっている自立した女性で、仕事に対する評判もよくて、ある日貰ったチケットで(関係ないけど、ホールの窓口でバルコニー席2枚をオーケストラ席1枚に替えて、って頼んでた。昔はそんなことできたのね)ひとりクラシックの演奏会に行って、帰りにダイナーで食事をしようとしたら若者 - Burt (Cliff Robertson)が相席していいですか? って声をかけてきて見知らぬ人とのやりとりは苦手だから断ったのだがしつこいので諦めて座らせて、少し話しをしたら打ち解けて仲良くなってBurtはMillieを彼女の家まで送って、そしたら彼は海でデートしようとか言うのでなんとまあ、なのだがとにかく海に行って水着になって(←ちなみにこのシーンをトリュフォーは絶賛している)、”From Here to Eternity” (1953) - 『地上(ここ)より永遠に』みたいな波打ち際のキスをして仲良くなって、でもMillieはこんなおばさんじゃなくて同じ世代の娘を見つけなさい、って諭して一か月くらい会わずに間を置いてみるのだがBurtはやっぱり君じゃなきゃだめだ、って結婚を申し込んできて、なに言っても聞きそうにないので、メキシコに行ってふたりは結婚する。

Burtは毎日おみやげを買ってきてくれるし楽しい新婚の日々だったのだが、ある日Burt宛に女性が訪ねてきて、話を聞くとBurtのEx-妻だという。結婚したことないって聞いていたのでがーん、なのだが、それ以外にも虚言癖としか言いようのない聞いたことのない事実あれこれが出てきて、でも初対面だったのでさすがにあなた失礼すぎませんこと? って帰して、その晩にBurtを問い質してみると突然彼の様子が変わってしまったのでびっくりする。

で、MillieはBurtの父が滞在しているというホテルに行ってみると、先のEx-妻と父がいちゃついているので、あーそういうことか、と少し納得するのだが、Burtの挙動は日に日におかしくなって暴力を振るったり夜中にうなされたりが激しくなってきたので、やむを得ず精神科医に連絡して彼を施設に連れていってもらう。

彼は果たして治って(治療中の映像として電気ショックとか投薬とかいっぱい)戻ってくるのか、戻ってきてもMillieのことなんか忘れちゃっているのではないか、とか。

Joan Crawfordの後期に特有のこんなおばさんに若い男の子が… 案件と、やっと付きあってみた男は実は… 案件のミックスで、どっちにしてもかわいそうとしか言いようがないのだが、好きになった以上はどんなに荒れた原稿がきても辛抱強く責任もって面倒みるんだ、ってのが偉いなー、としみじみする。運命に翻弄されようが他から何を言われようが最後は自分で考えて判断してなんとかする、っていうのも彼女の後期の映画の特徴かも。 で、彼女もこの映画が自分の主演したなかではFavouriteなんだって。

あと、Burt役のCliff Robertsonの表裏で二面にくっきり別れる迫真の演技がすごくて、これがJoanの一枚板と激突したときに散る火花のコントラストが見事で、これがあるからラストがまた…

で、「枯葉」ってなんなのかねえ。

10.08.2018

[film] A Star Is Born (2018)

3日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。公開初日、でもチケットは割とふつうに取れた。

1937年に作られたバックステージものの3度目のリメイクなので、この悲劇の筋はだいたいみんなわかっているのではないか、ていう前提で書きます。 から、フレッシュに見てさめざめ泣きたいひとはこの先読まないほうが、かも。 ちなみにわたしはLady Gagaというひとの音楽はほぼ聴いたことがなくて、TVで集団で(はじめはこの集団をLady Gagaっていうのかと思ってた)踊っているのを見たことがある、程度だった。

Jackson Maine - Jack (Bradley Cooper)はフェスの会場をいっぱいにできる - バンドではなくソロで - くらいのキャリアの人気ミュージシャンなのだが、飲酒問題を抱えててステージ上でもちびちびやったりして割とよたっている。

ウェイトレスのAlly (Lady Gaga)は曲を書いたりしてはいるのだがどん詰まりで、しょうがないので場末のバーとかで歌ったりしていて、そこにライブ後のJackがひとり酒を呑みにきて、彼女の歌う”La Vie en rose”を聴いて、こいつは..  てなってその晩、ふたりは朝まで一緒にうだうだして、歌手は目指したけど鼻がでっかいから無理って言われた、とかそんなことを話して、彼女を家まで送ってから彼のライブを見に来ないかって誘うのだが、彼女はバイトあるし、っていう。

でも結局バイトなんかやめたる、ってマネージャーに吐き捨てて(いいなー)バイト仲間とJackのライブ行くことにしたら自家用機とかが用意されてて(いいなー)、着いたらすぐにステージの袖に案内されて(いいなー)、ライブが始まると、Allyが来たことに気づいたJackは一緒に歌おう、って誘ってきていやいやいや冗談じゃないわよ、て言うのだが、結局マイクの前に立って声をだしたら大喝采を浴びて、SNSでもこの娘だれすごい、って広がって、そのままずるずるJackのツアーにくっついて歌っていくことになる。

このあとはJackのマネージャーで兄Bobby (Sam Elliott)との確執とか、Interscope RecordsのプロデューサーRez (Rafi Gavron) に誘われてスターへの道を昇っていく - SNLにでて、グラミー獲って、ビルボードになって、などなど - があって、Allyと、それでも、それゆえに深まっていくふたりの愛と、でもやっぱしスケジュールとかで離れ離れにならざるを得なくなるふたりと、そうすると寂しくなって酒とドラッグに溺れて坂をぐだぐだに転がり落ちていくJackと、こういうときこそあたしがしっかり支えなきゃ、ていうAllyと、そんなこと許されると思ってるのか、って圧力かけてくる業界と、絵に描いたような愛と成功と献身と救済と犠牲をぐるぐるまわるメロドラマが展開される。(音楽とか歌う力は最初からあるらしいのでその辺の苦労や心配はないの)

このドラマを可能にしているのはBradley CooperとLady Gagaの間に起こる化学変化で、ほぼそれのみと言ってよくて、それが最初に炸裂する"Shallow”は確かにスターが誕生する瞬間を見事にとらえていると思うのだが、でもそれだけで、それがあるだけでもすごいじゃん、というか、それだけだとやっぱしなー、になるかは人によるのかも。

できれば、スターになる前のAllyがなんで女子トイレであんなに絶叫しなきゃいけなかったのか、とか、それなりに場数を踏んできたはずのJackがなんであの程度のコメントで折れてしまったのか、とか、もうちょっと掘り下げてあればじっとり盛りあがったかもなー、とか。

なので、最後の"I'll Never Love Again"もなんか昭和の演歌みたいにしか響いてこないの。そういうのが好きなひとには訴えるのかも。
ただ、そういうとこも含めて全体に軽い、ストリーミング・サービス時代の「スター誕生」ではある、のかなあ。

でも、折角21世紀のリメイクなんだから、ずっとこてこてのメンズ-メンズワールドであるショウビズ業界への批判があってもいいんじゃないか、とは思った。 – けど、最初にでかでかと”Live Nation Presents”って出て、「Interscope Recordsの..」とか平気で言ってるのでまだまだ道は遠いんだろうな、って。 最初の企画にあったClint EastwoodがBeyoncéとやろうとしたのがどんなものになったか、をちょっとだけ想像してみる。

自分にとっては   George Cukor - Judy Garland - James Mason (音楽はHarold Arlen & Ira Gershwin)の1954年版がとにかく決定版のとんでもないやつで、NYでのプレミアで一度だけ上映されたままでどこかの蔵に隠されている181分バージョンを死ぬまでには見たい、ていうのが数少ない映画的野望になっている。  (自分が見たのは2010年にリストアされた176分版)

[film] Do svidaniya, malchiki! (1964)

9月26日の水曜日、Barbican Cinemaで見ました。ここで9月末にあった小特集- “Generations: Russian Cinema of Change”の最初の1本で、ソビエト時代に当局から検閲されたり上映禁止になったりした映画たち or そういう世代の監督たち - の特集(全部で6本)で、まったく知らない世界なのでどんなものかしら、と。   英語題は、”Goodbye, Boys”。

最初にイントロで監督Mikhail Kalik - 70年代にイスラエルに亡命した彼の経歴と当局に没収されたこのフィルムが80年代、どうやって監督の元で再構成されて今の状態になって世界で公開されていったか、とか、Mikael Tariverdiyevの音楽の紹介と彼の音楽にインスパイアされたというピアノ曲が披露された(演奏のところは完全に落ちてたごめん)。

第二次大戦の前夜、黒海のほとりの町に17歳の3人の若者がいて、小さい頃からずっと一緒に遊んできた仲間で、学校を出たので次の進路を決めなければいけなくて、軍の学校からは当然のように熱い勧誘が来ていて、軽いかんじで行ってみようかなー、とか言っているのだが、そうすると親からも女の子からも離れ離れになってしまうことは全員わかっていて、でもそんなこと考えたくないし誰にもはっきりとは告げられないまま無為に過ぎていく最後の夏の日々を描く。

画面はドキュメンタリーのようにスカスカで、出てくる若者たちの演技もあってないようなもので、夏の光のもと、黒海で水着になってみんなではしゃいで一緒に泳いだり水辺でだらだらしてアイスクリーム舐めたり、でも家に帰ると母親が待っていて(軍に行くことを)とても心配していたり、といったスケッチを重ねていって、離れ離れになる日が近づいてくる、その、焦ったってしょうがないけど、なんかやだなこのままこうしていたいな、ていう後ろを向いていたいかんじ。

昼はどこまでも明るく眩しくて、夜はほんとうに暗くて、水辺は果てしなく気持ちよさそうで、3人でいるといっつも楽しくて、そこに女の子がいると更にもっと楽しくて、そんなあたりまえのことがあたりまえに重ねられているので、これが失われてしまうというのはどういうことなのだろうか、ということを素朴に考えてしまうし、このまま軍人になったら間違いなく戦争に行くことになるのだろう、それってどういうことなのか、この状態とどれくらい違うものなのか、そりゃぜんぜん違うよね、ということも頭には浮かんでくる。

具体的な描写というよりこんなふうに浮かんでくる印象のようなところを当局はけしからん、て忌み嫌ったのかもしれないけど、それを浮かべて忘れがたいものにしてしまう景色や感情の喚起力はすごいと思った。かんじとしてはBergmanの ”Summer with Monika” (1953) の楽しいパートみたいな(たぶん他にもいっぱいあるはずだけど、いま頭に浮かんだのはそれくらい)。

音楽は、どこを切っても青春、みたいな描写が続くので、へなちょこ系のネオアコ、とかでも合うのかもしれないが、Mikael Tariverdiyevの流れるようなピアノの旋律は確かに画面のなかの風とか波のようにそこに吹いて寄せては引いていて、これしかないかんじがとっても。 会場を出たら彼のCDとかアナログを売っていたのだが、少し考えてまたこんどにした。

ならず者国家、とか呼ばれている今のロシアよりこの頃のほうがよっぽど清々して見えるのだけど、そんなこと言ってもしょうがないね。

10.05.2018

[film] Matangi/Maya/M.I.A. (2018)

9月24日、月曜日の晩、Curzon Bloomsburyのドキュメンタリー小屋で見ました。
ここ、いつもはがらがらなのに結構入っていてびっくり。

UKでは、ドキュメンタリーにしては結構幅広く公開されていて、BFIでは彼女を招いたPre-ViewとQ&Aもあったのだがぜんぜんチケット取れなかった。 2018年のSundanceでThe Special Jury Awardを受賞している。

Matangi(本名)- Maya(呼び名) - M.I.A.(アーティスト名)のポートレート。

2011年に監督のSteven Loveridgeに過去の分も含めた映像をまるごと渡して彼がこれまでこまこま編集してきたもの。 ざっくりと時系列だけど、彼女の故郷Sri Lankaに関するところでは結構ランダムに遡っていったりもする。

幼少期をほぼ内戦下のJaffnaで過ごし、政治組織LTTE(Liberation Tigers of Tamil Eelam)の創設メンバーだった父とは接触を禁じられ、86年に母と共に難民として英国にやってきて、やがてCentral Saint Martins Collegeに入ってアート - グラフィックとかフィルム - を作り始めて、ElasticaのJustine Frischmann(ちょっとだけ出てくる)と知り合って、彼女の機材を借りて音楽を作り始めて、いろんな人々を巻きこんでその範囲がどんどん広がっていく。

彼女の個々のアート作品、創作に臨む姿勢、アート観等々を掘り下げていくような内容のものではないの。

生まれたときから今まで、アートに関してはここ20年くらい、M.I.A.がどこでどんなことをしてきたのか、どんな称賛やパッシングを受けてきたのかをざーっと並べていくだけ。弁解も言い訳も一切なく、内戦状態のなかで常に監視され家族からも引き離され国から追われて難民となってたどり着いた異国でアートをやる、それを通して声をあげる、そしてそれでも家族のいる母国の事情は悪化するばかり、彼らに必要なのは歌じゃなくて船で、そういうなかで打って叩いて鳴らす、ていうのはこういうことなんだ、と彼女の音楽そのままにラフで雑多で喧しめのスタイルで散らして滑っていく。 これがあたしだ、文句あっか?(と言っては散々お返しされ続ける日々)

アートは元気や勇気を与えるものとか、繋がる/繋げるものとか、そんなの糞くらえで、彼女にとっては自身がサバイブするための、苦しんでいる人達を救うためのツール・難民船で、それが機能する限りにおいては消費されようが炎上しようがスルーされようがどうでもいい、という極めて明瞭なスタンスでいて、でもだからといって、それを彼女の置かれた特殊な事情境遇故、にしてしまってはいけないのだと思った。

これだけ日常どこ行ってもテロが蔓延し、物理的なのから心理的なのまで、卑怯者とか経済的強者とかバカな政治家による陰惨な虐めや差別が日常化しているところで、これをアートでもってカウンターしないでどうするの、ってことよ。 それでもアートと政治は切り離して、とか言う糞尿欺瞞野郎は自分ちのサロンに籠って一切外に出てくんな。って、最近どのGallery行ってもBook Fair行っても本屋でZine見ててもそういう怒りのトーンをごく普通に感じる。それくらいいまの世の中はやばくなっているんだよ。

映画のなかでも彼女がテロを擁護しているとか、Super Bowlのハーフタイムの中指の件とかで叩かれるところがあるが、ぜーんぜん、気持ちいいくらいドライで屈しない。彼女はどんな野郎がどういうハラのどういう目線でそれを言ってきているのか、じゅうぶんわかっているの。 彼女はなぜ”Missing In Action”と名乗ったのだとおもう?

その上でのラスト、故郷でおばあちゃんの言うことがどこまでも沁みる。

彼女が米国でBreakした2005年のCoachellaのライブ映像が出てくる。ステージからテントをびっちり埋めた客のほうをカメラはさーっと横移動するのだが、あのごちゃごちゃの後ろのほうに自分はいたのだわ。  あの年のCoachellaはNINとM.I.A.だったねえ。(誰に言っているのか)

ところでこれ、フィルメックスとかで上映しないでどうするのさ?(アジアのことなのに)

10.04.2018

[film] The Godfather (1972)

9月23日、日曜日の晩、BFIで見ました。
なぜか4Kリストア版をリバイバル公開していて、Iは2週間くらいやってて、IIとIIIも数回上映される。

こんなのも見たことないの?と言われそうだが、見たことなかった。長いし、血みどろだっていうし。 公開されたときは小学生で大人の見るものだって言われたし、大きくなってから名作とか必見とか散々言われたけど、馬の首とかハチの巣とか、聞いただけで怖かったしヤクザの抗争なんて興味ないもん、だったし。その後3作を束ねたVHSとかDVDの箱が出ても、見るならでっかい画面がいいしさ、とか先延ばししてて、要はやるきがなかった、ということで。

最初にVito “Don” Corleone (Marlon Brando)が執務室のようなところで彼の力を求めてやってくる人の陳情みたいのを黙って聞いてて、そこから娘のConnie (Talia Shire)の結婚を祝うパーティになって、ここに親族 - 長男のSonny (James Caan)、海軍から戻ったばかりの末っ子Michael (Al Pacino)とか - がいて、周りを政財界を含む怪しげな人たちがいっぱい囲んでいて、陰で写真でも撮ろうもんならカメラごと潰されて、そういう密室とソーシャルでの彼らの重みとか陣容がざっと示される。

そこから先は長いのでいちいち書きませんけど、別のファミリーからの新しい取引への協力要請を断ったDonが狙撃されて入院先の病院でも狙われて、この辺から5つのファミリーを巻きこむ血みどろの抗争に入っていって、Michaelは大物ふたりをブロンクスのレストランで撃ち殺してシシリーに飛んで身を潜め、SonnyはVegasでハチの巣にされて、シシリーで現地の娘と結婚したMichaelは花嫁を車ごと吹っ飛ばされて、米国に戻ってきて跡目を継ぐべく前から付きあっていたKay (Diane Keaton)と結婚して子供ができて、孫と遊んでいるときにDonは亡くなって、そのお葬式とConnieの子供の洗礼式のあと、Michaelは邪魔者・裏切り者をざーっときれいにお掃除して、ファミリーの長 – 新たなDon - としてその椅子に座るのだが、おたくの旦那はギャングの大ボスだから、って告げられたKayのがちょーん、で終わるの。 これが1945年から55年にかけての家族のお話し。

ファミリーを裏で表で束ねるThe Godfatherの仕事とはこういうもので、その仕事が相手にしている奴らはこんなので、そのDonの交替というのは例えばこんなふうにして起こる、って。

ファミリーの外側に対して、やられたりやりかえしたりのあれこれは淡々と - 掟だの絆だの仁義だのくどくど言わずに - お仕事お仕事、って遠くからドライに映しだされて、ファミリーの内のごたごたしたせめぎ合いはゆっくりじっとり、でもそれぞれが何を思っているのかは親兄弟の間でも決して語られない。その不明瞭なところはその後に起こっていく出来事で全て説明されて(含.死人に口なし)、そのバランスというか廻し方がちょうどよいのかとても軽い印象を受けた。 「黒幕」という言葉が喚起する闇のイメージは幕の内側に入ってしまえばごくふつうの明るさで見える - それだけのこと。

この描き方って、「地獄の黙示録」(1979) の戦争のそれとも似ている気がして、あの映画で戦争の「狂気」として語られていたことって、カーツやキルゴアのそれぞれの言葉として発せられたわけではなく、彼らのなにかしらの指示指図がもたらした圧倒的な戦争のランドスケープ・惨状として、オペラ的なスペクタクルとして目の前に広げられるものだったような。

ということで、びくびくしながら見ていた、というのもあるけど177分、あっという間だった。

Al Pacinoの得体のしれない不気味なかんじ、突然のブチ切れ爆発芸はこのころからあったのね。シシリーで一目見ただけでいきなり結婚申し込むとか。彼の星座はなんなのかしら?

出て来る食べ物がどれもおいしそう、ていうかぜったいあれおいしいし、でもあんなおいしそうなの食べても殺し合いに行っちゃうんだよね。

あと、いろんな映画やTVで散々パロディにされているののおおもとを確認できたのは嬉しかったし、音楽もずっと耳に残って気持ちよいので流れるままにしておいたし、これからは映画館で見たから、って自慢できるし。

90年代初めにNYでアパート探し始めた頃、日本人向けに安全マップみたいのが配られてて、この近所はマフィアが治めているので比較的安全、とか書いてあったりしたのだが、あれってまだあるのかしら?  あってもなくてもどこにでも行くようになってしまったけど。

これの一週間後の日曜日にPart IIを見て、更にその一週間後(今度の日曜日)にPart IIIを見る(予定)。

10.03.2018

[film] The Rider (2017)

9月23日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
女性作家Chloé Zhaoの長編第二作。

Brady (Brady Jandreau)が悪夢にうなされて目覚めて嘔吐するところから始まって、見てみると彼の頭には生々しい縫い目とホチキスの痕があって、怪我の治療中であるらしい。彼はロデオのスターで、活躍していたが落馬して頭を強打してこの状態になり、手綱を握る右手には軽い障害が残っていて、医者からはもう馬には乗ってはいけない、と言われている。

彼の家にはもう十分には働けない父と知的障害をもつ妹がいて経済的には苦しくて、スーパーのレジでバイトを始めるのだが、ロデオで彼のことを知っている客から声を掛けられたり、近所の友人たちと原っぱで飲んだくれて遊んでも、かつてのロデオ仲間で、同様に事故を起こしてほぼ寝たきりで喋ることすらできないLaneを見舞ったりしても、やっぱり自分は馬に乗りたい、とそればかりを思うようになる。

ある日通りかかった牧場で荒れてて手がつけられない馬に鞍をつけるの(はらはらするけどすごいシーン)を手際よく捌いて感謝されてからは我慢できなくなって馬のトレイナーとして牧場をまわって馬を手なずけたり乗って走ったりするようになって、しばらくは快調だったのだが、突然気分が悪くなって昏倒して… 

医者はもう絶対馬だめだから、ときつく言うのだがなぜかBradyはロデオの会場に向かうの。

それまで馬の世界しかなくてそこに(フィジカルに)振り回されて生きてきたBradyが、怪我して馬から離れざるを得なくなって、でも自分は馬に乗るしかないんだって、Riderとして目覚めるところ、そうなっていくまでの彼の顔立ち(馬に乗っている横顔)がすばらしい。ほとんど喋らないのだけどぜんぶ顔に出てくる。

Bradyを演じたBrady Jandreauはプロの俳優さんではなくて、牧場にいるところを前作 – “Songs My Brothers Taught Me” (2015) – を撮っている時にChloé Zhaoさんが見つけたそうで、あの頭の傷もほんもので、Podcastでは怪我は結構重症でInduced Comaにされたりいろいろあった、とか自分でさらっと言っていて、彼の家族として登場する人達もラストネームが同じなので、実際の家族なのかしらん。 ぜんぜん演技に見えないそれぞれの緊張感も含めて、見事に馬と人の素の関係を捕らえている。

昔の映画だと”The Lusty Men” (1952) とか”The Misfits” (1961) とか、自分は暴れる馬の出てくる映画が好きなのかも、と改めて思わされた。 暴れる馬は大抵男の手で捻じ伏せられたり静かにさせられたりしてしまうわけだが、その男たちは馬以上にぼろぼろでどうしようもない、(他方で馬は支配されても毅然としている)ていうのがよいの。あと、馬の目がとてもきれいで、こっちを見るんだよね。

ここで描かれた世界って、今だとホワイト・トラッシュとよばれる層のお話し、にされてしまうのかもしれないけど、馬や家畜が元で怪我して動けなくなったり障害負った人々は昔はもっとふつうにそこらにいたのだろうし、それが特殊に見えてしまうのは今の経済とかお金のことがあるからで、それはそれで変だよね、とこの映画の星空とか原野とかのだだっ広さを見てて思った。 The Riderっていうのは昔からあるそういう場所を走っていく馬と人なんだな、って。

あと、”Skate Kitchen”のときにスケボーやりたい、て思ったのと同じようにロデオ… ってどうかなやってみたいな(ぜったい、100%、3秒で死ぬけど)、て思って、まず馬に乗ってみることからな、と。

[film] Bright Star (2009)

9月22日、土曜日の夕方、BFIで見ました。特に何の特集とも紐づいていなかった、のかしら?

そもそもこの映画はとっても好きで、日本で公開されて見たあとで、Londonの出張が入って、時間ができたときにHampsteadのKeats Houseまで行ったくらい。 何度でも見るの。

1818年(丁度200年前か)、Hampsteadで出会ったFanny Brawne (Abbie Cornish)とJohn Keats (Ben Whishaw)の恋が燃えあがって、彼女がBright Starになって、彼がローマで亡くなるまでの3年間を描く。 それだけなの。

Fannyは裁縫とかファッションが大好きな女の子で、弟と妹と本屋に彼の詩集"Endymion"を買いに行って、詩のことを教えてほしい、って割と彼女の方からアプローチしてだんだんに仲良くなっていく。

その間、Keatsの弟が病で亡くなったり、Keatsの同居人のCharles (Paul Schneider)からは横槍とかいちゃもん – こいつほんとやな奴 - が入ったり、いろいろあるのだが、彼は彼女のために詩を書いたり読んだりして、彼女はきれいな服を作ったりおめかしして、ふたりで手を繋いで小路を歩いていくだけで幸せで、なのにKeatsは結核に侵されて療養のため暖かいローマに行くことになって。(悲しいけど史実だから)

彼の詩人としての前途とか名声、収入、病気、それらが恋を締め出すダークマターとしてやってきて、でもFannyはちっとも揺るがずに裁縫の針と糸とか服とか弟妹とか猫とかを横に従えて静かに迎え撃って、あまり泣いたり叫んだりしない。ひたすら彼の恋と言葉を信じて静かに燃える彼女の丸っこい背中や後姿、表情の微細な変化を捕えることにカメラは注力している。
ほんとうは彼が療養のためにローマに旅立つシーンなんて、それが今生の別れになることはみんな解っているからぼろぼろに泣かすことだってできたかもしれないのに、そうはしない。

恋愛ドラマなのに起伏がなさすぎてつまんない、という人がいるのかもしれないし、Keatsの詩の世界観に彼女の存在はどんなふうに影響を与えたのか与えなかったのか、みたいなことを描くべき、という人もいるのかもしれないけど、一生懸命にPhantom Threadしておしゃれしてよくわかんない向こう側に手を差し伸べるのが精一杯みたいなFannyの姿だけで十分で、それをKeatsはタイトルになっているソネットで揺るぎなく不動であってほしい、みたいに讃えている(.. たぶん)のだから、これで十分なのではないか。
恋愛に明るいも暗いもない、暗いところを照らしだす星で、「見上げてごらん夜の星を」だけでいいじゃん、て。

だからこそ、彼の訃報を聞いた彼女が髪をばっさりと切って、全身に黒衣を纏うシーンが沁みてきてよいの。Fannyのある部分(星)が彼と共に消滅して光を失ってしまったことがはっきりとわかる。
ていうのもあるし、こないだの”Mary Shelley” (2017)のように、彼の反対側でめらめらと燃えあがって本一冊書いてしまう彼女、という行き方もある。詩人の彼女もいろいろだ、と。

Ben Whishawの雑巾みたいにぼろぼろに擦り切れているところとAbbie Cornishのどっしりしたところの組合せは、彼が彼女のどこに魅かれたのか、彼女が彼のどこに魅かれたのかが、なんとなくわかってよいな、とか。

Hampsteadで撮影したわけではないようだけど、英国の四季のきれいなところとぐちゃぐちゃでお手上げなところのかんじが出ていて、そこもいいの。

10.02.2018

[music] Soft Cell

9月30日、日曜日の晩、O2アリーナで見ました。

昨年のMarc Almondの還暦記念公演がものすごかったという声をあちこちで聞いていたので、2月にこれが発表になったときも、あっという間に売り切れちゃうんだろうな、と思って、実際にチケット発売のタイミングを少しミスしたらもうろくな席がなかったので諦めて、この同じ晩にBarbicanで行われるRyoji Ikedaのライブのほうを – こちらも売り切れていたけど - 2日くらい前に取っていた。

で、公演前日にさる方角から肩をとんとんされて、そういえばどうかしら、と朦朧した状態の朝にサイトのチケット見てみたらフロアの席が取れたので取っちゃった。(値段は目をつむって見ない)

Soft Cellに関してはそんなに情熱的なファンではなかった、ということは白状しておかねばならない。

彼らが81年に"Tainted Love"でメジャーになって、”Non-Stop Erotic Cabaret”で爆発したときはまだ高校生だったし、SoftでTainetedでEroticなCabaretなんてムリムリで、聴くならHuman LeagueがあったしTubeway ArmyがあったしDepeche Modeも出てきてたし、同じCabaretならCabaret Voltaireのほうだったし、同じエロを扱うにしてもThrobbing Gristleのほうがまだアートぽくて勉強になる気がした。 あと2年くらいして大人になってからな、って思っていると軽く40年とか経っちゃうんだねえ。

ただ、言うまでもなく、時代は彼らが正しかったことを証明している。クィアーでビザールでゴスでソドミーでジャッロでLBGTQのことだって当たり前のように歌っていた。”Non-Stop Erotic Cabaret”というのはいまのネットの世界のこととしか思えない。MCでMarcも言っていたが、彼らは最初からずっとOffensiveで、でも今や誰もが簡単にOffensiveになれちゃう時代になった、と。

これでSoft Cellとしての活動は終わりなのだろうが、悲痛感やこみあげる何かが一切ないのは、Marcはこれからも自分のライブでSoft Cellを歌っていくだろうし、時代がようやく追いついてきたようだから、彼らの子どもたちがウィルスのように自己増殖しながらいくらでもそれぞれの”Tainted Love”を歌っていくに違いないことを(彼らがGloria Jonesから持ってきたように、さらにMarilyn Mansonに継がれたように)みんなわかっているから。

19:30スタートで、ライブの模様は全英のでっかい映画館にも同時中継されてて、ヨーロッパと米国にもそのうちに行くって。前座はなかったけど入るとふたりのDJがまわしてて、選曲は”No.1 in Heaven”とか”Life in Tokyo”とかなかなか素敵で、締めは”The Sun Ain’t Gonna Shine (Anymore)”だった。

アリーナはスタンディングではなくて、大量のお年寄りを考慮して一応椅子が入っていた。けど結局みんな最初から最後までずっと立ってて、踊るというよりハグしてキスして互いに寄りかかってうっとりしているかんじ。

全面のスクリーン3つ(真ん中のだけ縦にでっかい)にピンク-紫のぴちぴちしたネオン文字とオープンリールとかミキサーの絵が映しだされて、彼らが現れて”Memorabilia”から始まる。Dave Ballが名の通りのBallになっていたのでびっくり。 寺内貫太郎みたい。

誰がやっているのか、昔からそうだったのか知らないが、曲ごとに変わっていく背後のヴィジュアル・グラフィックがすばらしいセンスでしかもばらけていて、そっちばかり見てしまう。”Darker Timess”は、これが今の時代だ!と宣言して、Trumpに原発にテロにスラムに異常気象に、かと思えばエロとかグロのほうは、こんなのアリーナで流すか?  みたいなのががんがんに来る。これでもまだアートに政治は … とか言うかね?

曲によってバックヴォーカルが4名、トランペットとサックス各1、奥のほうにドラムスとパーカッションがいた模様。
だけど基本はDave BallのプラスティックなシンセとMarcの声だけ。密室空間きちきちでもなく、ぱーっとした祝祭空間どかどかでもなく、その中間でひとりひとりに投げ縄とか蜘蛛の糸を放ってくるような。 Marcはたまにとちったりしていたが愛嬌でごまかし、他方で”The Best Way to Kill”とかではギター系の音がしょぼい、ってDaveに2回もやり直させたりしてた。

“Numbers”のところでBowieの話になって、John Rechyの”City of Night” (1963)はBowieも自分らもすごく影響を受けた小説で、そういえばBowieから一回サポートアクトの依頼が来たことがあったけど、蹴っちゃった – まだ僕らできていなかったのよね –  で、この曲もJohn Rechyの小説からね、って。 Marcにメモワール書かせたらおもしろいものができるだろうな。

“Last Chance”では後ろのほうで金魚みたいに赤い服の女性がひらひらと現れて、誰かと思ったらMari Wilsonで、あららお懐かし、だった。 The Compact OrganizationとSome Bizzareがダンスをする。 当時は両極のような気がしていたのにな。

短い休憩の間は、スクリーンに彼らが表紙になった雑誌とか12inchや7inchやカセットのジャケットとかMemorabiliaが次々と映し出され、Marcはお化粧直しして黒Tシャツからタイトな黒ジャケットになって、”Martin”(George A. Romeroの1978年のホラーね)から始まった第2部はややシリアスで固めの音(含. 新曲)が並んで、それでも最後は、というかこの流れに改めて置き直すかのように”Tainted Love”を - 12inch盤の、”Where Did Our Love Go”を挟み込むバージョンで。
この後にスクリーンには ”Isn’t It Nice” - “Sugar and Spice” - “Luring Disco Dollies” - “To a Life of Vice” の字幕が順番にでっかく出て、近所にいたファンの集団は発情した犬みたいに ”Sex!”と”Dwarf!”ばかり交互に叫びまくって狂ってて、最後にこんなの持ってくるかーと自分で言いつつも”Sex Dwarf”はMarcの極めて適切な煽りもあって客席ぜんぶが「Sex!」-「Dwarf!」- 「ぎゃぅぁーぁー!!」って絶叫しまくってて、それはそれは快感としか言いようがなかった。

ここまで、どこまでも不穏で淫靡な18禁のオンパレードでありながら、ちっともどろどろ陰鬱に凝り固まってくるものがないのは、彼らの音が常にイノセンスと紙一重の、というか常に若者のイノセンスを擁護し、それを解き放つかのように鳴っているからなのね、と、最後の最後の”Say Hello, Wave Goodbye” - このフィナーレのタイトルでもある - の大合唱とピンクのフラミンゴと炸裂したきらきらの紙吹雪でようやくわかる。

そして、わかったときにはもういないんだよね、と…

10.01.2018

[film] Searching (2018)

9月22日、土曜日の昼間、West Endのシネコンで見ました。

最初にPC(ひょっとしてWindows Vista?)上で、David Kim (John Cho)一家のアルバムが時系列で開かれていって、妻との間にMargot (Michelle La)が生まれて、幸せだったのに妻は闘病の末に亡くなって、父娘ふたりで暮らすようになってMargotは大学に通い始めたところ。 家族の記録をぜんぶPC上に整理していることからもDavidは相当に家族思いできちきちした性格(ちゃんとゴミ出ししろ、とか)であること、最近そのあたりをMargoから煙たがれていることがわかる。

始めから終わりまでドラマはぜんぶPCとかスマホの画面を通して展開される。このドラマを作ったひとのカメラではなく、Davidを含む登場人物たちが作成・加工したり受信したりする映像と主人公Davidの操作するポインタのクリックとダイアログのみで綴られる。つまり、Davidがここで考えたり推理したりして画面を通してあれこれ追っかけていくことは、これと同じようなことが起こったときに、我々が自分で考えたりぶつぶつ言ったりしながらPCやスマホに向かってとるであろう行動と同じであろうと思われて、ストーリーラインも時系列でDavidと一緒に経過と顛末を追っていくことになる。

なにが起こったかというと夜中の23時頃に外出していたMargoから電話着信がふたつとFaceTimeの呼び出しがひとつ入っていて(その時Davidはベッドで寝てた)、普段あまり向こうから電話してこないMargoがかけてきたということは緊急のことが起こったに違いないと。 実際に2日過ぎても彼女から音沙汰がないので、警察に連絡をして行方不明者としての操作が始まる。

なぜか家に残されていたMargoのPC (Apple)を開いてFacebookやSNSのコンタクトを端から調べて一覧表を作って、彼女が失踪した日にどこで誰と会っていたのかをこまこまチェックして埋めていく(彼の仕事はコンサルっぽい)。彼女のアカウントにどうやって入ったの? ていうのが疑問としてあると思うが、必死の親はどんなことだってするし神様だって許してくれるわよ、って。オンライン上のコンタクトをぜんぶ潰しても決定的な手がかりはないのでじゃあオフラインの方だ、って走り回るようになり、この辺りから単なるオンライン推理ゲームではない別の面白さが出てくる。

オンライン上のなりすましや擬装からその本人を特定したりたどり着くのは難しいけど、それはオフラインだって実は同じで、つまり、あたりまえのことだけどひとをそう簡単に信じてはいけませんよ、って。

その難易度とかなりすましを見抜くために求められる技術、みたいのはこういう時代、より面倒に困難になっているのかしら?  こういうのもこれからは検索技術に含まれてくるのかしら?
オンラインとオフラインの狭間とか組み合わせのようなところで犯人は見つかるのだが、あれはわかんないよね。 推理してどうこうのスリルとか面白さ、とは違うやつで、つまりはSearching、ってことなのだろうが、大変だねえ、しかでてこなくて、その大変さをこまこまこういうことなのよ、てきちんと説明してくれた、っていうとこがこの映画のえらいところなのかも。

Davidの大変さも身にしみるけど、人によっては自分が被害者になっちゃった場合、あんなふうにPCとかスマホの中味掘られたら.. というほうに戦慄するかもしれない。Forensicと通信履歴でデジタル上の動きはほぼわかっちゃうからねえ。やな世の中だねえ。

眉間の皺がずっと残るJohn Choは”Columbus” (2017)に続いてシリアスなやつで、ちっとも悪くないけどHarold & Kumarモノはもうやってくれないのかなあ。でもKeanuもあれに戻ってくるし、きっとだいじょうぶだよね。