8日の土曜日は、なんか変なかんじで、午前にBFIでTony Scottのキャリア最初期のHenry JamesのTV化作品を見て、午後にはMaggie Smithおばあさま❤️のトークを聞いて、晩がこれだった。 もう少し落ち着いた週末を過ごすべきではないか、って自分でもおもうようになってきた。
昨年の12月頭くらい、渡英が見えてきたときに真っ先にチェックしたのがこのチケットで、でもそのときから既に売り切れてて、それはそうだよねと思ったものの、こっちに来てからbarbicanのチケットのステータスをチェックするのが日課になって、そうやって地味に追っていたら3月の初めの昼間にいきなり空きが出てて - 2階の上のほうだったけどとにかく押さえた。
1月にJaki Liebezeitが突然亡くなってしまったときはそれでもやるのか? と当然のように思った。
バンドのまんなか、結成メンバーのドラムスとベースとギターがいない状態の再演にどんな意味があるのだろうか? Robert FrippとJamie MuirだけでKing Crimsonのカバーバンドをやるようなもんではないのか? いやCrimsonは関係ないじゃろ、これはCANなんだよ、Jakiの太鼓がなくて成立するものとは思えないし。
いやいやでもこれは50周年の記念”Project”なのだから見守って、見届けるべきではないか、と思って、そのうちドラムスにSteve Shelleyの名前が入って、ううう… (ああそう…) だったのだが、とにかくこの日がきた。
会場は年寄りだらけ、かその年寄りに連れてこられてきょとんとしている若い娘さんとか、物販はアナログのBOX、IrminやMalcolmのソロまで含めて結構どっさり出ていて、みんな並んでいて、メンバー全員のサイン入りポスター£120ていうのもあったが、ふみとどまった。
会場のドアにはストロボを使うのでご注意、の張り紙があって、でも中に入ったらフルオーケストラのセッティングがあって音のチェックをしているので会場を間違ったのかと思ったが、これが前座のLondon Symphony Orchestra & Irmin Schmidtなのだった。 ロックバンドの前座でフルオーケストラというのはあんましない気がしたのだがIrmin自身が指揮をするようなので、黙るしかない。 演目はふたつで、Irmin Schmidt & Gregor Schwellenbach作曲の”Can Dialog”とIrminが2008年に作曲したバレエ音楽”La Fermosa”のオーケストラによる初演。
"Father Cannot Yell”のイントロの細かいパルス、あれをストリングスに展開して刻んでやがてそれが爆発してカオスになりその雲のなかから"Halleluhwah”とか "Sing Swan Song”とかいろんなCANの旋律の断片が聴こえてきて、それはつまり、Jazzやロックやタンゴやいろんな民族音楽を縦断して交配させようとしたCANのエッセンスとしか言いようがなくて、たぶんクラシックや現代音楽の側からはもっといろんなことが言えるのだろうが、とにかく音が右左に飛びまくってスリリングて大喝采だった。 “dialog” - とあるようにIrminのなかでCANはまだ終わっていないのだろうな、と強く思わせる開かれかた。
2曲めはバレエ用なのでもっとフィジカルで力強く、でも自由で、ああこの人にもうちょっと色気があったらHans Zimmerくらいのところには行けるのに、とか余計なことをおもった。 どちらの曲も終盤のパーカッションの暴れ具合がすさまじい。、
London Symphony Orchestraは、弦はよいのだがバスが弱っちくてねえ、もっと強く重く揺れないでくれればなあ、とか。
この後、セット替えの休憩が45分、ロビーではCANの72年のパフォーマンス at Cologne Sporthalle のフィルムが流れていて、アイスクリームを舐めながら見た。 メンバーはFassbinderの映画に出てくるちんぴらみたいに誰もがぎらぎらしていて怪しくて殺気たっぷりだった。
そしてメインのバンドセット。 ステージ上はドラムス2、キーボード/エレクトロ2、ギター2、ベース1、Malcolm1、Irminは演奏しない(あの曲たちを指揮したら疲れちゃうよね)。
客席ぜんぶまるごと固唾をのんで見守るなか、がたがた電車のようなノイズがサラウンドでまわりだしてMalcolmがなんかぶつぶつ唱えはじめるのだが、あれって、NYのHudson Lineの駅名を順番に言ってただけじゃないの?
とにかく、それがそのまま"Outside My Door”のギターに繋がってわー、だった。 単純なカバーをやってもしょうがないこと、そんなの誰も聴きたがっていないことは誰もがわかっているので難しかっただろうな、でも、でもこれって、Sonic Youthのスケールがでっかくなっただけバンドみたいに聴こえないか?
Steve Shelleyは大好きなドラマーなのだが、あのばしゃばしゃ布団叩きのドラムスがでっかすぎて、もうひとりのValentina Magalettiさんの手数の多さを完全に上書きしてしまうのだった。
そのあとで"Father Cannot Yell”に行ってわーわー、でアンサンブルのクオリティは音数も密集度も完成度、みたいなところを言うとまったく申し分ないのだが、なんだろどこだろ。
バンドが4人でやっていたアンサンブルを7人でやっている、人数は倍なので音はわんわんいっぱい鳴っててライティングもばりばりで、でもCANの凄さは音数や手数の多さ、演奏技術のクオリティみたいなところにはなくて、自ら酔っぱらいながら客を酩酊状態に追いこむ酔拳の鮮やかさ、その理性と野生のせめぎ合いにあったのではなかったか。 CANの曲をやる、そのライブに接するというのはそういうことだったはずではないか、と休憩時間にみたフィルムを思い出しつつおもった。
This Heatが"This is Not This Heat"と名乗らざるを得なかったように、CANは"The CAN Project"とならざるを得なくて、でもそのプロジェクトの目指すところって缶をつくることではなくて、缶を開けて、その中身をむしゃむしゃ食べることにある、はずだった。はず..
“She Brings the Rain” 〜 ”Mother Sky"をやったところ - 50分くらいか - で一回ひっこんで、もう一回出てきて"Yoo Doo Right"と"Mary, Mary So Contrary"でおわり。 ぜんたいとしては"Monster Movie" - Malcolm Mooneyの晩であったが、おじさん、ああいうでっかいステージに慣れていないのか、ちょっと落ち着きなさすぎたかも。 いいひとなのはわかるが。
映像スタッフがいたのでそのうちどこかで公開されることでしょう。
4.10.2017
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