4.30.2016

[film] The Sheltering Sky (1990)

9日の土曜日の晩、新宿で”Room”のあと、恵比寿に移動して見ました。 部屋から砂漠へ。

これ、見たことがなかった。
理由はいくつかあって、ひとつは90年代始めにPaul Bowlesのブームみたいのがあって、白水社から作品集も出ていて、それらを読んでいたのでイメージを壊されたくなかった、ていうのと、もうひとつは、それらのせいでモロッコに行きたいぜったい行きたい、ていう野望が渦を巻いていて、やはり壊されたくなかった、ていうのと。 いまにして思えば、ばーか。 としか言いようがないわ。
原作なんてもう憶えてやしないし、本だってどこに埋まっているのやら。

冒頭の古いマンハッタンのシーンで頭が痺れてじーんとなって、ここだけで帰りたくなった。

Kit (Debra Winger)と音楽家のPort (John Malkovich)の夫婦とジャーナリストのGeorge Tunner (Campbell Scott)の3人がモロッコ(タンジール)の港に降りたって、そこから大量のスーツケースと一緒に都市と砂漠を点々と渡っていく。 なんでそこに行くのか/行きたいのか、なにがそこに向かわせるのかはあんま決まっていなくて、むしろそういう約束や決まり事を避けて、何かから遠ざかるかのように、彼らは大陸の奥に奥に分け入っていき、やがてその遠ざかりに合わせて彼らの愛もするすると解けて互いの手から離れていって、やがてPortはばちが当たったのか疫病で死んじゃって、Kitはひとり砂漠を彷徨いながら自分からも解き放たれていってしまうの。

でっかい砂漠と地平線を見おろす高い丘のうえで、ふたりがセックスをするシーンがあって、そのとき彼らの上を覆っているのは空しかないのだと、その底なしの恐ろしさと官能について語るところで、ちょうど見たばかりの”Room”を思いだした。
納屋の天窓と砂漠の空と、なにかが少し繋がった気がした。

Kitが正気を失いながら砂漠を転々としていくところはとても切なくてはらはらするのだが、あれはPortがいなくなって寂しすぎてそうなってしまったのではなく、砂漠が彼女の何かを削ぎ落として変容させ、彼女はその状態に適応していったのだ、と見るのが正しいだろう。 Bowlesが何度も言っているツーリストと旅行者の違い。 覆いが、蓋が外れてしまったとき、ツーリストは狂ってしまうが、旅行者はただ変容して次の土地を目指す。 ラストのBowlesの言葉が刺さる。

「生涯で何度、満月が昇るのを見れると思う?」
どっか行きたいよう。

90年代初のBowlesのブームって、80年代の終焉とリンクしていたんだっけ?
ま、どうでもいいけどさ。

放浪の旅の途中、一瞬だけど「Timbuktuへ」ていう台詞があってはっとした。
もうあそこには行けない。 ここで描かれている旅はアメリカが世界一豊かだった時代のお話し。

映像の、あの赤茶色、Vittorio Storaro だあ、と思った。 すばらしいカメラ。 70mm ...

シアターのスピーカーシステム、音がよいのはわかるのだが、普段聞いている映画の音の定位となんか違うかんじがして少し引っ掛かった。

4.29.2016

[film] Room (2015)

9日の土曜日の夕方、新宿で見ました。

ストーリーはシンプルで、部屋で長いこと監禁されているらしい母Ma (Brie Larson)とそこで生まれて外に出ないまま5歳になった息子Jack (Jacob Tremblay)がなんとかそこから抜け出して家族の元に戻って、ああ世界って … になるの。 事件そのものの異様さや悲惨さについてはあまり触れられない。

登場人物も少なくて、監禁した悪いやつ - Old Nickを除けば、MaとJackとふたりを受け入れた家族と、の心の葛藤すり切れすれ違いあれこれも、どれもわかりやすくきっちりと、ドラマとしての想定の枠を外れてなにかが起こるようなことはあまりない。

だからここは俳優さんの演技がすべて、のようなところがあって、その意味で自身の葛藤だのなんだのできりきりしつつも私が守らなくてどうする、の気概で歯をくいしばるBrie Larsonさんは”Short Term 12” (2013) に続いて見事というほかなくて、あとは離れて暮らしているMaの実父のWilliam H. Macyの居場所も含めて複雑すぎるが故に滲みでてしまう苦悶の表情とか。

そんななか、唯一わからなくて見えないのがあの箱部屋とMaだけを「世界」として育ってしまったJackが移動する車の荷台から切れ目境目なく広がる圧倒的な空を見あげて(あのシーン、なんか好き)から先、屋根や壁がなくなった後の「世界」が彼の知覚にどう作用して、それにどう応えるのか、というあたりで、おそらく過去の発達心理学の事例症例も参照しているのだろうが、Jackの世界と魂のありようは誰にもわかるわけがなくて、それとMaの目線 - 彼のことをわかっているのはわたしだけ - とそれ以外の目線 - だいじょうぶかしら早く周囲に適応させないと - との交錯や摩擦がどんなふうにJackの屋根とか覆いを剥がしていくのかとっぱらうのか、あるいは取り上げてしまうのか、それが起こったときJackはどうなってしまうのか、とか。

Maにとって忌まわしくおぞましい記憶であり事物でしかない納屋も、Jackにとっては温かいゆりかごでありベビーカーであり守ってくれるなにかで、ふたりが納屋を再訪するラストはとてもスリリングで、ふたりのぎりぎりした攻防が目に見えるようだった。 ふたりとも必死で何かから遠ざかることと何かに近寄って頬ずりすることを同時にやろうとして同じところをぐるぐるえんえん回っていて、それが”Room”というもので、この映画の中心はここ - あの納屋にあった。

で、そういう”Room”っていうのは広いのでも狭いのでも、おそらく誰にでもある/あったもので(あんなふうにバイバイしたよね)、この映画が感動を煽ろうとする割に、ふつーに見えてしまうのはその辺もあったのかもしれない。

音楽(空が迫ってくるときのとか)は悪くなかったけど、音響はもうちょっとがんばってもよかったかもしれない。 圧倒的な音のドラマとして鼓膜を震わせることだってできたはず。

[film] The Decline of Western Civilization Part III (1998)

8日の金曜日の晩、新宿の最終上映になんとかまにあった。
Part I (1981) も Part II: The Metal Years (1988)も見れなくて、最後の最後でなんとか。
“The Metal Years”は昔に見ていた気がしていたが、”Metal: A Headbanger's Journey” (2005)と混同していた。
すまん。

81年のPart Iで描かれたLA Punksの約20年後を描いたものとなるはず、だったのが、メルローズ近辺のGutter Punksの若者たちを撮り始めたら止まらなくなってしまった。というわけで特定の音楽スタイルやバンドの成り立ちやミュージシャンの世界観を追ったものにはなっていないの。

バンドはモッシュのバックグラウンドとして出てくる程度 -  Final ConflictとかLitmus GreenとかNaked Aggressionとか、コメントするのもKeith MorrisとかFleaとかその程度で、とっても地味で、でもおもしろかった。

Gutter Punksていうのは自らをPunkだ、ていうホームレスの若者たちで、無一文なので町で物乞いしたりしながら一緒に廃屋とかビルとかをねぐらにしながら風の向くまま気の向くままでふらふらしている。(極右のスキンヘッズとは映画のなかでも明確に線引きされている)

映画は彼らへのインタビューを通して、なんでそういう生活をしているのか、なんでそうなっちゃったのか - 家族から虐待されたり友達いなかったり除け者にされて居場所がなくなって - を追うのだが、外見はぼろぼろの彼らに寄り添って言葉を引き出す、コミュニティを描きだすかんじがとてもよくて、生活の糧として音楽をやっているミュージシャンの言葉よりもそもそもの生活が空っぽな彼らのほうがよっぽどPunkのその後と現在、を正しく伝えているかんじがした。 映画の終りでは彼らのひとりがボヤで焼死しちゃったりするのだが、そういうところも含めて。

わたしはDon Letts師が”Punk: Attitude” (2005)あたりで定義したようなPunkとしてずっと生きてきて、革ジャンもないしピアスもしてないし髪の毛逆立ててもいないけど、でもきほんは”No Future”で”Pretty Vacant”で、社会も組織も国もGivenなものに異議と疑義と中指の立てまくりけつまくりで、でもやっぱしここまで行かないといけないのだろうか、とか。 でも集団生活はむりだわ、とか。

どっかの道端で彼らを見かけたりしたら、かっこばっかしのエセパンクやろう! とか思っちゃうんだろうなー。  この映画が撮られてから20年経って、彼らはいまどこでなにしているのだろう。 元気で笑っていてほしい。

あと、タイトルの”The Decline”て、誰が誰に言っているのか、っていうこと。

監督のPenelope Spheerisさんて、”Wayne's World” (1992)と”Black Sheep” (1996)のひとなのね。
(途端に親近感が)

映画の日本語サイトにある「伝説」ていうとこの日本語が、ところどころたまんなくおかしい。

4.27.2016

[film] L'albero degli zoccoli (1978)

3日の日曜日の昼、神保町でみました。
『木靴の樹』。 英語題は”The Tree of Wooden Clogs”。

最初の公開のとき、あちこちでたいへん評判がよかったことは憶えているのだが、見るのは今回がはじめて。
あの頃の岩波ホールのイメージって、難しそうなおじいさんとかが難しそうな顔して見ているかんじしかなくてハードル高くて、そんななかで3時間の木靴の映画なんて見る勇気もお金もなかったの。

19世紀末、イタリアのロンバルディ地方の農村地帯で、教会の神父さんが夫婦の息子を学校に通わせるように説得していて、夫婦はもうじき次の子も生まれるし、とかぶつぶつ言いながらもそれに従うことにする、ていうのが冒頭で、同じ地主の敷地内の長屋のような家屋に暮らす四つの大家族の四季のあれこれを静かに追う。

静か、ていうのはどういうことかというと、四つの家族はそれぞれに農作業をしてその収穫を地主に(たまにズルしたりしつつ)納め、それ以外にトマトを工夫して売りに行ったり子供を産んだり育てたり恋をして結婚したり、教会に行ったり洗濯屋さんにいったり、冬に備えて豚(でっかいー)を屠ったり、ここで描かれる農村の家族の生活はどこまでも平坦でその動きが時間を止めたり遅くしたりすることなく、雇い主である地主の要求に反抗することもへつらうこともなく、ただただ生活のなかのいろんなことをするために時間は流れて、季節の時間の流れのなかに生活は全部あって、その時間のありよう - 無為、みたいなかんじ - はいまの時代の我々にもとてもよくわかる。

唯一、毎日村から歩いて学校に通う坊やの靴が壊れたからと道端の樹を勝手に切って木靴を作ってあげたら、それが地主にばれてその一家はラストで長屋を出ていくことになる、ていうのが事件らしい事件なのと、村で結婚式を挙げたふたりがハネムーンで町に出るとそこは市民運動みたいのでざわざわしているのと、これらによって村と町の間にある線、村の暮らしのなかの厳格な支配/被支配の一線が浮きあがるのだが、だからといって農民の暮らしがどう変わるということでもなく、それは歴史の時間から取り残された、というのとも違って、なんというか、矢野顕子の「ごはんができたよ」の世界があって、とっても泣きたくなる。

あと、誰もが言うことだろうけど、バルビゾン派の絵画の世界がそのまま動いているかのような映像の驚異 - あれをごく簡単そうに撮ってしまっているすごさ(もうちょっとクリアだったらなー)。

「緑はよみがえる」も見ないと。

4.24.2016

[film] Love Is Strange (2014)

2日土曜日の午後、”The Danish Girl”のあと、新宿から銀座に移動してみました。
「人生は小説よりも奇なり」。 愛というのはなんてしぶとく変てこでしょうもない、みたいなのを続けて見る。
映画には小説なんて出てこないし、ここで言っている「小説」がなんなのかわかんないけど。

37年間一緒に暮らしてきた画家のBen (John Lithgow)と音楽教師のGeorge (Alfred Molina)は、同性婚が合法になったので仲間家族の祝福を貰って式を挙げて晴れて夫婦になるのだが、その直後にGeorgeの勤務先であるカトリック系のミッションスクールからは子供達への影響を考えるとちょっと、と言われてクビになってしまう。

この状態では暮らしているアパートの家賃も払えなくなってしまうので、BenはBrooklynの甥一家(Marisa Tomeiのママが素敵)のところに、Georgeは友人のゲイカップルのところに居候することにする。
せっかく一緒になれたと思ったのに … ていう別居の辛さと、彼らの、特にBenの存在が居候される一家の方に与えるいろんな迷惑とか、Georgeのとこでしょっちゅうあるパーティとか、それでも、それゆえにこそ強まる絆と、それぞれの老いと時間と。ホームドラマとしては割とどこにでもありそうなテーマなのだが。

Benには甥のとこにいる男の子Joeyと家に遊びにくる友達のことがちょっと気になって、その子をモデルに絵を描いてみたりするのだが、もちろんそれ以上のほうに転がるわけでもない。彼らふたりが学校でなんか問題を起こしたらしい、と聞いてもどうすることもできないし。

やがてGeorgeはパーティの絡みでたまたま知りあった男が長期不在で空けようとしているWest Villageのアパートをそのまま借り受けることができて(いいなー)、そこから先の省略を駆使して描かれる時間の経過/点景と前半でみっちりと描かれた彼らの絆/愛との対比が見事で、特にラストのほう、JoeyがGeorgeのアパートを訪れてから先、突然画面は青春映画のような瑞々しさで息を吹き返してマンハッタンの風となり光となって町に飛びだしていく。

いきなり眩しくなってびっくり。
この突然の転移とか蘇生のことを”Love Is Strange”と呼ぶのはたぶん正しい。
それを言うのはいったい誰なんだろう? ていうのを考えるのはなんか楽しい。

John LithgowとAlfred Molinaのむっちりしたふたりは、いかにもいそうなかんじで、たまんない。


Benの甥のおうちの会話で、今日マンハッタンでBusby Berkeleyの”The Gang's All Here”を見てきてさあ、て甥がいうとそれに応えてBenが主題歌を歌いだして楽しく合唱、ていうシーンがあって、いいなあー、Film Forumに行ったんだね、とかおもった。

[film] The Danish Girl (2015)

4月2日、土曜日のごご、新宿でみました。『リリーのすべて』。
実話を元に.. ていうのはもういいよね。

20年代のコペンハーゲンで、Einar Wegener(Eddie Redmayne)は前途有望な新進風景画家で、その妻のGerda Wegener (Alicia Vikander)は肖像画家で、こっちはあまり売れてなくて、でもふたりは幸せに暮らしていた。

いちどEinarがGerdaの絵のモデルとして女装してみたときに、彼のなかの何かに火がついてしまい、その発火のときめきをGerdaもおもしろがって、更にその絵の評判もよかったりしたのでご機嫌で、「彼女」をLili Elbeと名付けて町に出たりパーティに誘ったりするようになる。

嬉しがったり戸惑ったりしつつも燃え広がってしまったLiliの人格と存在はEinarを圧迫するようになって、こんなはずは ... とふたりは思うのだったがEinarはやがて苦しみやつれてLiliなしではいられなくなって、医者にかかったり幼馴染を呼んでみたりやってみるのだが元には戻るのは難しくて、最後の選択として出てきたのが性器を切除する - 今でいう性転換手術を受けること、だったのだが、世界ではそんなの誰もやったことないというし、なによりもGerdaにとっては夫Einarを失う - 死んでもいないのに失うことになる - のでいろんなものが試されてしまうのだった。

監督のTom Hooperの前々作 - ”The King's Speech” (2010)と同様に、家族/夫婦が力を合わせて苦難/障害を乗り越えるドラマ、というのが基本の線なのかもしれないが、Einarが男としてあることの苦しみが顕在化してから後はともかく、そこに至るまでの過程はもうちょっと丁寧に描いたほうが迫るものになったかもしれない。 だってこれってEinarがLiliという内なる女性と出会ってときめいて、GerdaがLiliをひっぱり出して育てて、描き方によっては目覚めと快楽と嫉妬を巡るどたばた三角関係ラブコメになったっておかしくないような題材なんだから、それを苦痛と乗り越えと回帰の物語に仕上げるには結構がんばらないとさあ ー。

パーティでLiliに一目惚れしたBen Whishawが彼女を追っかけてお構いなしにぐいぐい迫るとことか、あんたいいかげんにしなさいよ(怒)、てGerdaがぶちきれるとこで犬のTeddy(かわいい)がどうしちゃったんだろこのひと、て見あげる - そのときLiliもおなじ顔してる - とことか、おもしろいところはいっぱいあるので、その線で行けばよかったのに。 原作もあるし実話だから難しいのだろうけど。

Eddie RedmayneさんはStephen Hawking博士に続いてお見事で、”Jupiter Ascending”のあれはなんだったんじゃろ? がすこしだけ ...

4.22.2016

[music] RIP Prince

朝いちでニュースみてもうなにもかも嫌になって会社行くのやめようと思ったがそれもできなくて更にやになった。 なんという4月だろうか。 2016年だろうか。

たった4ヶ月の間に王子様がふたりも星になってしまい、女王陛下におかれましては嘆き悲しみのあまり死んでしまうに違いないと思うし、それは我々にとってもまったく同じなのだ。キュートで美しくて、いかしてていかれてて、歌って踊れて宇宙の果てまでふっとばしてくれて、同時に押入れの奥までもバケツの底までも付きあってそばにいてくれる、そういう起伏を共にした仲だったからいまはべたべたに悲しくてなにをどうしたらよいのかわかんない、になっている。

Little Princeがページの上で彼とわたしの特別な、かけがえのない関係を築くことができたのと同様に、彼はヘッドフォンの振動膜と鼓膜の数センチの間にBetween the sheetsなあんなことこんなことを持ちこむことができた。 誰もがPrinceとわたしだけのスペシャルな一夜、一曲、あれとか、について目を潤ませて得意気に何時間でも語ることができるだろう。  (Bowieのほうはもう少しロジカルだったり形而上学してたり)

80年代のまんなか辺りから終りまで、Purple Rain (1984)  -  Around the World in a Day (1985)  -  Parade (1986)  -  Sign O’ the Times (1987)  -  Lovesexy (1988) とほぼ1年間隔でリリースされた彼の音がどれだけ奇異で異様で変態で気持ちわるくて気持ちよくてなんじゃこりゃに響いて鳴ったか、こっちに強引に迫ってきたか、説明するのは難しい。 BlackもFunkもJBも70’sもよくわかんなかったのだが、あのシンセの音、パーカッションの音の生々しさは聴いてきた英国音楽のそれとは全く異質ななにかで、始めのうちは困惑して憮然とするしかなかった。

最後に見た彼のライブは2010年12月のMSG、'Welcome 2 America' のツアーだった。
Larry GrahamやSheila E.との共演を見れたのでもうなにも思いのこすことはないや、と思ったのだが、でも勿論そんなのうそで、一生ずっとついていくから、て改めて思ったのにな。

追悼は、Bowieみたいなtribute liveはやらなくていい。(どうせだれも再現できやしないんだから)
Spike LeeがやったみたいにBlock Partyでがんがんに彼の曲を流してやれ。
彼の曲はそういうためにあったのだし。

ご冥福をお祈りいたします。
さみしいよう。


Black day, stormy night
No love, no hope in sight
Don't cry, he is coming
Don't die without knowing the cross
(from “The Cross”)

4.20.2016

[film] Richard Kern Film Collection 1983 - 2015

3月29日の火曜日の晩、渋谷でみました。
この週はなんかばたばたでここしか空いていなくて、なーんでいまRichard Kernなの? のあたりを確かめたかったかんじ。

彼の作品はNYであればAnthology Film ArchivesとかでKenneth AngerやStan BrakhageやGeorge Kucharなんかと並んで割と定期的に上映されていたりするので、ほとんどが見た覚えのあるやつだった。でも最近のは見たことなかったかも、だったので見てみよう、と。

結果として表出した怒りとか暴力とかを(主に)直截的に描くのではなく、いらいらとか、ざけんじゃねーよ、とか、つまんねー、とか、やってらんねー、とか暴発する手前の不穏で退屈でどうしてくれよう、の空気感とかざわめきを、撮る人と撮られるひとの距離も含めてそんなの知らねえよ、みたいに捕捉する。 どっかの知らない国の知らない動物や生物を撮ってみるかのように。 対象に寄り添うドキュメンタリーの視点も、なんらかのドラマとしての展開や収束を求める作家の視点もなくて、ただ獣道にカメラ置いてどうなるか、部屋の壁に穴をあけてみたらどうなるか、みたいなかんじ。

あるいは、手持ちの機材とレコーダー(カセットね)で、とりあえず、4~5分間音を出してみる、とか。

で、そこでそうやって開けられた風穴を通して80年代のNYの空気がぼうぼう吹いてくるの。
行ったこともない場所であり時間なのだが、わかるわかんないでいうと、はっきりとわかる - たまんないかんじなのだった。 最近の子達が見たら頭がおかしいか、心がどっかに逝っちゃった小汚い若者が猿みたいにひーひーくねくねしているだけなのかもしれないけど。
それって自分がKenneth Angerとかに感じるある種の距離感に近いものなのかどうなのか。

上映されたのは以下;

■Goodbye 42nd Street (1983)  4min.
■Stray Dogs (1985)  10min.
■Woman at the Wheel (1985)  7min.
■Submit to Me (1985)   12min.
■You Killed Me First (1985)  12min.
■Fingered (1988)   22min.
■X Is Y (1990)  4min.
■Nazi (1991)  2min.
■Face to Panty Ratio (2011)    2min.
■Clean (2012)    2min.
■FFP (2015)    2min.

あとは、”Death Valley 69” (1986) あたりが入っていてもよかったかも。
イメージでゆうめいなのはSonic Youthの”EVOL” (1986)のジャケットになった”Submit to Me”(音楽はButthole Surfersだけど)。”Xis Y”の音楽はCop Shoot Copだったり。

最近の - 歯磨きしているいろんな娘さんたちのいろんなスカートのなかを撮ったりしてる - American Apparelの広告みたいなの -  は、あんまよくわかんなかった。


あんま関係ないけど、4月16日のRSD2016。
この土曜日は、昼間に馬車道でChantal Akermanの追悼をするか、飯田橋でJacques Rivetteの追悼をするか、ていう泣きたくなるような選択の分岐があって、当日券がなくなりそうだった馬車道のほうを諦めて飯田橋に向かった。

ここ数年間のじたばたを通して、自分が探してて欲しいと思うような盤はRSDに決死で並ぶ人たちが求めるようなやつとは少し違うようなのであんまし急がなくてもよいのだ、というのがわかってきたのと、今年はそんなに欲しいとおもうのがなかったので、渋谷のレコ屋にいったのは夕方だった。

買ったのは7inch 6枚くらい、12inchをひとつだけ。

そのなかの“Patti Smith Horses Live Electric Lady Studios” - “Horses”のリリース40周年を記念して元のレコーディングが行われたElectric Lady Studiosで、少しの客を前に行われたスタジオライブを記録したやつ。 Rolling Stone誌でもレビューが出ていたが、録音のすばらしさと40年を経ても全く褪せない曲群の強さと。

2005年の11月、BAMで行われた30周年記念の”Horses”再現ライブは見ていて - もう10年かよ勘弁しとくれよ - このときのベースはFleaさんで、これもすばらしかったのだが、40周年盤のアレンジはこのときと基本同じで、なにを言いたいのかというと、オリジナルの75年バージョンの奇跡的な凄まじさなの。 あのときほどに混乱して絶望してつんのめって錯綜して生々しい音、ないよね、ていうのを改めておもった。

4.17.2016

[film] Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu? (2014)

元のトラックに戻って、3月27日、日曜日の午後、恵比寿でみました。

原題をGoogle翻訳にかけると『私たちは神に何をしましたか?』。 
英語題は、”Serial (Bad) Weddings” 。 邦題は『最高の花婿』...

郊外のお屋敷に暮らすパパとママがいて、彼らには娘が4人いて、最初の娘の結婚相手はアラブ系で、次の娘のはユダヤ系で、次の娘のはチャイニーズで、べつにそれぞれ幸せにやっているようだからよいのだが、ふつうの家庭の婿-娘親の関係の理想型から見るとやはりちょっと気遣いしなきゃいけないところ多いし、義兄弟間でもなんだよそれ、みたいなしょうもない小競り合いはあるし、なんかあれだよね、と思っていたところに末娘が結婚するという。 宗教違いはきついから神さまー、と思っていたらカトリックだったので少し安心したものの、おうちに現れたのはアフリカン(コートジボワール)の彼でした... と。

ほんとうに平均的な、引退して郊外に家があって割と裕福で、政治的にはやや右寄りで、平穏な日々を送れればそれで十分、という老夫婦に降りかかった災難 - とは口が裂けても言えないちょっとした引っ掛かり。 そういう家庭できちんとがんばって育てて/育てられた娘たちなのだし、きほん愛とリスペクトがあれば - もちろん自分たちにはある、という自信はあるし、それでやってきたのだし - 乗り越えられるに決まっているのだが、でもなんかやっぱりほら、相手次第ってこともあるかもしれないし、相手の家族とのつきあいだってあるし、今の3人の婿とのあれこれだってあるに決まってるし、簡単とはいえないよね。 でもやっぱり…

みたいに誰のためだか、なんのためだか、延々まわり続ける迷いとか問いとかの隙間とか合間とかでちょこちょこ暴発を続ける泣き笑いの連鎖とそのバランスが見事だった。 異文化間ギャップを誇張してくどくどした笑いに落とすことも、和解とかみんなの幸せとか家族の連帯を大旗ふって強要するところにも向かわない。 最後にはみんな気遣いしすぎてぐったりしすぎて、互いに目を合わせてつい笑っちゃう、みたいな軽さとやさしさが嫌味なく機能していて素敵で。

巷に溢れている(ように見える。本屋の棚とか見ると)国際結婚したらこんなんなったみたいな自慢本(日本人すばらしい本もおなじね)がつまんなくて醜悪(読まなくたってわかるわ)なのは、そこで語られるギャップって自分の育った家族のそれを無反省に(or自虐的に)反芻しているだけで、そんなことしてなにが楽しいんだろう? だからなのよね。

この映画は力点をその辺りには置かずに、家族ってなんなのでしょう?  家族はなにをもって家族となる/呼べるのでしょう? とか、異文化を認めたり、そのギャップを超えることなんてゴールでもなんでもない、まずは相手を愛することでしょ? といったことを、きちんと語ろうとしていて、これをフランス、フランス人だからさ、で片付けてしまうのはほんとうにもったいないことだ。

なんでこんなふつーによい映画が単館でしかやっていないのか、ほんと内向きでしょうもない国だとおもった。

4.16.2016

[film] ジョギング渡り鳥 (2015)

こっちから先に書いてしまおう。
15日、金曜日の晩、上映最終日に新宿でみました。

とにかく見なきゃていう想いだけはずっとあって、でもどんな映画かよく確認しないで行ったら、上映前に俳優さんとかが全員舞台に出てきていきなり合唱とかを始めてしまう - しかもとっても上手なかんじがしない - ので少し困って、そのかんじが157分、最後まで続いたのだったが、でもそれがいけないなんて誰がゆったか?

変な映画で、変なお話しだった。
冒頭からなんで日本語字幕のドイツ語ナレーションなのか。 あらすじなんてUFOの目撃情報とおなじで見た人によってぜんぶ異なるだろうし律儀に書けば書くほどわかってもらえないものになる可能性がありそうだから書かないほうがよいのかも。

でもいちおうがんばって書いてみると、河原とか畑の間のコースをジョギングしていく人たちがいて、河原のお茶飲み場で会う彼らは知り合いのようで、そんな彼らの上空に現れた円盤が鳥に攻撃されて(されたくらいで)地上に落ちてきてそのなかから集団で現れた連中は腐ったカワウソみたいな衣装でよくわかんない言葉をかけあいながら撮影機材一式を携えてその土地の人々の挙動を記録しようとしているらしい。そのうちこいつらはモコモコ星人というやつらであることがわかるのだが、 彼らの姿や声は地球人には見えなくて聞こえなくて、そいつらが、ひたすら走ってばかりの郵便局娘とか、オリンピックを目指す3人組とか、映画を撮ろうとしている3人組とか、建設会社の3人組とか - なんでみんな3人なの? - につきまとってなんかを記録していく。

スポーツもので群衆もので家族ドラマで異星人もので反原発ものでやきもち純愛ものでメタSFでメタ映画でバックステージもので御当地映画でそれらを全て包含した渡り鳥映画である、と。 渡り鳥の生態を追い、渡り鳥の生態を追う人々を追い、渡り鳥の目となり、それを追う日々の目となって世界を描く。そのえんえんぐるぐるを描くこと、その重なりと連なりの運動、或いは塊に固化し、或いは宙に飛散しようとする運動の総体として世界を捉えようとしている。 だからクリナメンでエピクロスでルクレーティウスなのね。

だからその世界 - 深谷市というところにあるらしい - には、水飲み場があり、ネギとブロッコリの畑があり、鉄道の駅があり、焼肉居酒屋があり、郵便局があり、古本屋があり、建設会社があり、片付けられない部屋があり、廃墟があり、河原があり、竹とんぼとかぱたぱた(あれなんていうの? ほしい)で遊ぶこともできて、ほんの少しの恋愛があって、ラジオから流れてくる歌があって - 要はほとんどすべてが揃っているわけだが、それなのになお、なんで鳥は世界の向こう渡っていこうとするのか、人は遠くに走っていってしまうのか、ということなの。

もちろんそれらに答えが与えられるわけではなくて、その点では我々のこちら側とつながった状態で、我々のそれ(それはそれ)がそうであるように、なにかが始まるわけでも終わるわけでもなく、移動とか渡りとか撮影とか歌うたったりとかを続けながら、でもなにかがどこかでどうにかなっている。 たぶん。

登場人物にはコントロールを失って害毒を撒き散らす世界の原発とかその関連の名前 - ちえるの、うくらいな、すりまい・るる、せしうむ、など - が付けられていて、そいつらがジョギングしたり映画を撮ろうとしたり恋愛しようとしたり、要するに地球にとってろくでもないことしかしようとしない。ひょっとして、だから渡っていってしまうのか、とか。 それで許されると思っているのか、とか。  ジョギングと同じように考えは同じトラックをゆっくりと周りはじめる。 それは世界制覇とか統一宗教とかをたくらむ連中の思う壺なのか。 或いはひょっとして、渡りは(渡りの撮影は)残された最後の希望なのか? 

複数のカメラの目と目線とそれぞれの濃さ淡さ、様々なレベルと粒度の走る音、羽音、ヒトも含めたいろんな鳴き声、少なくとも世界はそんな単純なもんではない、えらく錯綜していてぐじゃぐじゃでリアルで、そんなことも教えてくれる。

オルタナ・バージョンが作られるべきなのかも。
ぜんぜん渡らない、動かない無産のぐうたらの。 『うたたね眠り猫』みたいなやつ。 こんどのは空からじゃなくて地底から現れて、Minionsそっくりで、連中はやはりバナナをむさぼり食らうの。

上映後に現れた監督の挨拶がなんだかとても感動的で、ロビーに出るとさっきまでモコモコ星人だった人たちが沢山いた。 ひょっとしたらリアルモコモコ星人かも知れないので遠くから見るに止めておいた。  ぶじに飛んでいってくれたよね。


熊本の地震の被害が広がりませんように。早く安心して眠れるようになりますように。祈。

[film] O Menino e o Mundo (2013)

27日のごぜん、渋谷でみました。
『父を探して』 英語題は”The Boy and The World”。 『母よ、』の翌日は『父』、と。

ブラジルのアニメーション、くらいしか知らなかった。あと、Naná Vasconcelos追悼と。

単純な線と面と色だけの世界でぴーひょろ~みたいな音が鳴っていて、登場人物の喋る言葉は言葉としては聞こえなくて(ポルトガル語を逆回転させているらしい)、壁や広告の文字も全て倒立したりコラージュされていたり判読不能で、要するに虫が見たような世界 or 我々が見た虫の世界、のように倒立/反転していて、ぺらぺらの一軒家に父(仮)と母(仮)、その息子と思われる少年(仮)がいて、父(仮)はぴーひゃらの音と共に突然いなくなってしまって、少年は父(仮)を探して旅にでるの。

ただ、言葉のない世界だからこれらはすべてきちんと説明されたわけではなくて、ただの線でしかない目とか首の傾きとかからそうなんだろうなー、と推測できるたけのことでしかないのだが、父が消えてしまった世界とそれまで見たことのなかった世界はやたらカラフルで美しくて寂しそうで怖そうで、要するにいろんなの色とか線とか形 - それ自体は意味を持たない - の坩堝としての「世界」として目の前に広がっている。

やがて少年は野を超え山を超え町に出て路上ミュージシャンに拾われたり工場に行ったり支配層を知ったり、いろんなことを、「世界」を、経験してそのなかにいるはずの「父」の面影を求めて彷徨って、そういうのが延々地続きで続いていって、そういう際限のない広がりの期待と不安を同時にいっぺんに表わすのにアニメーションはすばらしい道具だなあ、ておもった。

例えば、2月にみた”World of Tomorrow” (2015)のエミリー。 クローンエミリーがエミリーを探して227年を遡ってくるぺらぺらの世界の、会話にならない会話の不思議な生々しさ。
あるいは、”The Little Prince” (2015) - なんで米国公開止めちゃったの? - の女の子。あれも父のいない女の子が父のような老飛行機乗りに出会って、ほんとうの世界を渡って大人の世界を知っていくお話しだった。

こうやって並べてみると自分がアニメーションに求めているのがどういうものなのか、よくわかるねえ。

あとは、Naná Vasconcelosの世界の至るところがざわざわ震えて鳴っているかのような音風景。
クレーの絵の裏側でいろんな太鼓がばちばち沸騰している、ていうのが全体の印象だった。

4.12.2016

[film] Batman v Superman: Dawn of Justice (2016)

ほんとうにねむい。だるい。

26日の土曜日の晩、六本木でみました。
既にいろんなところでネガティブなのも含めてあれこれ言われているようなので改めてになってしまうところもありましょうが。

ストーリーみたいのはいいよね。
SupermanもBatmanも悪いのをやっつけて治安をよくしてくれる正義の味方、ていう位置づけのヒーローだった。
でも、今度のは両方が対決することになっていて、しかもサブタイトルには"Dawn of Justice"とある。
両方が対決するのであれば、なんで対決しなきゃいけないのか、対決することになったのか、勝ち負けがあるとしたらそれはどういうクライテリアによって決められるもんなのか(ヒーローなのでどっちも死ねない)、そのけっか、どっちが勝ったのか負けたのか、そこで正義が立ちあがるのだとしたらそれはどういうもんで、これまであった正義と違うのか同じなのか、なにをもってどういう立場でそれは言えるのか、 などなどが、きちんと言えたり説明されたりしなければいかんと思うのだが、画面はなんか(Dawnだから)薄暗くていろんなことがそれぞれの人たちに見えないところで矢継ぎ早に起こって、爆発したりビルが崩れたりいろいろあって、更に悪夢、みたいのまで介入してきて、なんか気がついたら上になったり下になったり横に飛んだり飛ばされたりぼかぼか殴り合いしている、みたいな印象になってしまって、その理由が論理的にも倫理的にも最後まで明確になってこないので、たぶんみんな釈然としない、とか気持ちわるい、とか言っているのではないか。しら。

わかんないでもないけどさー、でも状況が状況だから「いまは説明している時間がない、そこをどけ!」ていうかんじなんだと思うよ、とか少し同情してみる。 いやいやこの宇宙人と蝙蝠人間の対決って物語の背骨じゃろう、ちゃんとつながってなきゃ機能しないでしょ、ていうのがあるのはわかる。他方で、人類における「正義」とか「責任」とか「友愛」とか、いまのこの世界でどんなふうにありえるのか。世界はもう一枚岩のプレートではできていないのだし、「正義の味方」や「ヒーロー」は反転する世界の反語としてしかありえない(→”Watchmen” )のだし。

だからもう、この延々ガキが陣地取りのケンカしているようにしか見えない混乱・錯綜ぶりはこういった状況、ていうか世界観(みたいなの)をそれなりに反映しようとがんばってみた結果として、しょうがないんだろうな、とか思って、だからそういう制約や膠着状態から一切フリーの、意味レスのところでどこからともなく突然現れるWonder Womanがかっこよくて爽快なのは当然のことなの。
あと、もうひとりかっこいいのは、なにか半分あきらめて機械の面倒しかみないAlfred (Jeremy Irons)ね。

で、このふたりがいたから、そーんなに悪いとは思わなかったけど。
むしろなんかエモ抜きで、諦めて突き放しているかんじが丁度よかったくらい。

あと、あのお化けみたいなのって、The Hobbitに出てたあいつだよね。
あと、収監されたLex Luthorは、一旦記憶を消されて”Agent Ultra”にされちゃうんだよね。

4.11.2016

[film] Mia madre (2015)

26日土曜日の昼、新宿でみました。
『母よ、』 - 英語題は”My Mother”。

主人公のMargherita (Margherita Buy)は映画監督で、長期化する工場のリストラと労働争議に関する映画を撮っているところで、離婚していてひとり娘の親権はex-夫のほうにあって、仕事もあるのでつきあっていた彼とは距離を置こうとしていて、それらに加えて入院していた母 (Giulia Lazzarini)の状態があまりよくないので最悪の場合の覚悟を、と病院から言われてしまう。
介護に専念するために兄 (Nanni Moretti - 監督本人)は会社を辞めて、自分も仕事や日常のあれこれの合間に当然のように病院に通って看病したり母といろんなことをおしゃべりしたりする。

これらの、どこの誰もがやっているようなあたりまえのことが、来るかもしれない母の死を前に少しずつあたりまえではないふうに変わっていく。 自分は母のことをほんとうにわかって生きてきたのだろうか、母はこんなふうにされて喜んでいるのだろうか、母は自分がもうじき亡くなってしまうかもしれないことをわかっているのだろうか、わかっていないのだとしたら娘として教えてあげたほうがよいのだろうか - などなどなどの問いが次から次へとやってきて、思い悩むようになって、仕事にも影響を与えるようになる。

これらの問いに主人公が自身で答えを見いだすわけでもなければ、ストーリー展開が主人公をその答えに向かわせるわけでもない。 ものすごく自然に、この手の喪失をテーマとするドラマとしては不自然なくらい自然に、ことが、仕事や生活が右から左に、奇跡なんて100%起こりようもないふうに流れていって、最後に母は旅だってしまうのだが、それでも、それ故にずうっと一定の悲しみが漂って流れてきていて、でもそれはそういうものなのだろうな、と素直に納得できるものだったから、終ってみれば、ああよかった(いっぱい泣いたけど)、になるのだった。

自分のアパートが水回りの故障で水浸しになったので入院中で不在となっている母の部屋で過ごすことにしたとき、母の日常を余りに知らなかったことに驚いたり嘆いたり、高校のラテン語教師だった母の教え子の話を聞いたり、娘のラテン語の勉強を吸入器を付けながら指導する母の姿を見たり、仕事のほうではアメリカから招いたちょっと面倒くさい俳優 (John Turturro)の相手をしたり、こんなふうに日々のスケッチを重ねつつ、誰にでも起こりうる母の死にまつわる不安や悲しみや祈りを抽出して幾層にも重ねて行ったとき、その悲しみや辛さのありようって濃淡はあるかもしれないが、自分の頭の裏にもずっとずっとあるものなのだな、と気づく。  この気づきをほんとに静かに繊細に拾いあげたり受けとめたりしてくれる、そういう映画なの。

何を思ったのか、母がおぼつかない足取りで病院の外に出ていって町を彷徨うシーンがなんかたまらなかった。

結局、John Lennonの”Mother”のように”Mama Don’t Go”って(静かに)(狂って)叫んでいるだけなのかもしれない。それでぜんぜんよいの。

4.10.2016

[film] Gold Diggers of 1933 (1933)

21日曜の連休最終日、シネマヴェーラのミュージカル映画特集でみました。
Busby Berkeleyの世界をふたつ。 至福。

Gold Diggers of 1933 (1933)
これ、1933 と 1935 と 1937 があるのね。

大恐慌どまんなかのNY、一緒に暮らしている3人の踊り子たちがお金も食べものも役もないー て嘆いているとプロデューサーが現れて、すごくいい演し物があるんだけどお金がいる、ていう。そしたらアパートの隣で素敵なピアノを弾いている青年 Brad(Dick Powell) - 歌手のPolly(Ruby Keeler)と窓越しの恋におちかけ - が、僕がお金を出そう、てぽんて小切手切ってくれて、怪しいんじゃね?と思ったらこいつはまぢでボストンのほうのほんもんの富豪の御曹司で、すげえーて盛り上がるのだか、当然のように青年の父と弁護士が速攻で現れてそんないかがわしい道楽だの芸妓だのに血道を上げるのはまかりならんて言うのだが、既にBradしか見えなくなっているPollyはもちろん、同居人のCarol (Joan Blondell)とTrixie (Aline MacMahon)もあきれて激怒して、おらおっさん、デブハゲ、なめんなよ、ってふたりしてふたりにべったり寄ってたかってむしりとってみんな玉の輿、どんなもんだい! ていう痛快極まりないお話で、これにBusby Berkeleyのぎんぎんのレビューショーも加わるんだから文句なしなの。

ちょうどこのとき、NYのFilm Forumでは”IT GIRLS, Flappers, Jazz Babies & Vamps”ていう特集(見たいよねえこれ)をやってて、で、3/20にこの映画がかかってて、時差を考えるとほとんど同時に同じ映画がNYと渋谷の一番おきにいりのシアターでかかっていたって、ひとりじーんとしていたのだが、いいもん。ひとりだって。

Hollywood Hotel (1937) 
『聖林ホテル』。

“Gold Diggers of 1933”に続けて見ました。前のは振付け監督だったけど、これはBusby Berkeleyの監督作で、Dick Powellふたたび。

Ronnie (Dick Powell)がセントルイスの空港からハリウッド万歳! って在籍していたバンド演奏(feat. Benny Goodman)で華々しく送り出されて、意気揚々をハリウッドに乗りこんだものの、現実は甘くなくて、代役みたいのばっかしで、代役同士で恋におちたりするものの盛り下がってどうしたもんか … のときにホテルでかつてのバンド仲間が演奏することになって、そのライブで水を得た魚のように歌いあげたRoonieにはオファーがいっぱいきて、めでたしめでたし、結果ハリウッド万歳! ショービジネスはやめられまへんな! になるの。

ほーんと楽しいんだよね。 それだけなんだけど、それのどこがわるいの? になるのがBusby Berkeleyなの。

4.09.2016

[film] Marguerite (2015)

20日のお昼に恵比寿でみました。『偉大なるマルグリット』。

20年代のパリ、郊外のお屋敷で音楽サロンつきのパーティみたいのが開かれようとしていて、新進画家と新聞記者の貧乏若者組がもぐりこんで遊んでいたら、宴のメインはそこの女主人 - Marguerite Dumont(Catherine Frot)の歌唱らしく、始まってみるとそれはそれはものすごい音痴のとんでもない代物だったのだが本人は完全に没入して歌いあげていて、周囲はまたか、ていうかんじで完全に無視していて、その構図の異様さに感動した新聞記者はそのライブを絶賛した記事を載っけてしまう。

それを読んだMargueriteはもちろん大感激で、二人組に誘われるままにパリのクラブでのライブも引き受けて、夫はそんなの大恥だから止めるべし、だったのだが工作に失敗、彼女は舞台に立ってしまって、ダダ・アヴァンギャルド前夜のパリのアングラクラブだったからよかったものの、結果としては散々で、でもというかだからというか、彼女はやっぱしちゃんとした先生についてもらってがんばらねば! となにかに目覚めてしまい、落ちぶれかけていたオペラ歌手Pezzini がトレーナーとして呼ばれ、彼は彼でそのありえないレベルに仰天するものの、なにかが引っ掛かったので協力するようになって、やがて大舞台の晴れの日がやってくるの。

勘違いした猛おばさんに周囲がきりきり舞いさせられ、やがて大円団、ていう小コメディかと思っていたらそんなでもなくて、新聞記者と新人歌手とか、夫人と召使とか、浮気している夫とか、出てくる人たちそれぞれがいろんな想い思い込みを抱えてばらばらに走りまくっていて、そういうなか、音楽は、歌はどんな救いをもたらすのか、或はそれがへたくそでレールから外れていったときに、なにが狂っていくのかいかないのか、狂っているってどういうことなのか、などなどがほんのちょっとの切なさと共に描かれる。  特に終盤の「奇跡」からラストまでのドラマときたら、それ自体がオペラのようだった。 - ていったら言い過ぎ?

オペラのヒロインのコスチュームを着てすっかり役に成りきったMargueriteの写真、でもその彼女の喉から奏でられる音が思いっきり外れてしまっているとき、その「外れ」がもたらすなにかって、いったいなんなのか? 降板? いったい何から? そんな簡単なものではないよね、とか、決して暇な田舎の金持ちが道楽で見て見て聴いて! てやっているだけではない、Margueriteの音痴にはひとをそんな思索に向かわせるなにかがある、というか。 そもそも音程とか音調が合ってしまうことの奇跡というか。

Margueriteのモデルとなったのは実在したアメリカ人のFlorence Foster Jenkins (1868-1944)ていうおばさんで、レコーディングまで残っていて、こっちのお話しはStephen Frears監督、Meryl Streep主演でもうじき出てくる。

ほんもんの方がこうして作られるんだったら、20年代のパリにもうちょっとフォーカスして、”Midnight in Paris” (2011)みたいに実在のアーティストをぱらぱら散りばめてもおもしろかったかも。
(出てきたのはチャップリンくらい?)

4.08.2016

[film] The Hateful Eight (2015)

19日の土曜日の夕方、二子玉川でみました。187分。

南北戦争の直後、一面雪まっさらのワイオミングの冬、乗っていた馬が死んじゃったからと馬車が止められて獲物の死体3つを抱えた賞金稼ぎWarren(Samuel L. Jackson)が乗りこむ。先に乗っていたのは生きた獲物(Jennifer Jason Leigh)を手錠で繋いだ賞金稼ぎRuth(Kurt Russell)で、賞金稼ぎふたりは知り合いらしい。更にもうひとり、馬車がこれから向かう町 - Red Rockの新任保安官(Walton Goggins)だという男が乗ってきて、この4人 + 御者でRed Rockに行こうとするのだが雪がひどくなったので途中のミニーの洋品店でひと晩を過ごすことにする。
店にいるはずのミニーとその旦那は出かけていて不在で、先にいたのは店を任されたというメキシコ人(Demián Bichir)と、足止めをくらったRed Rockの絞首刑執行人(Tim Roth)と、老将軍(Bruce Dern)と、得体のしれないカウボーイ(Michael Madsen)の4人で、いろいろ訳ありそうな計9人が閉じこめられたラウンジで暖をとったり食事をしたり話をしたり殺しあいしたり、ともあれ共に過ごすことになる。

宣伝では密室ミステリーとか言っていたが、解かれなければならない謎なんてどこにもなくて、知っている奴のことは知っているけど知らない奴のことは知らない。それだけのことで、でもなんか互いに探りあいみたいのを始めてしまったのはどいつもこいつも「自称xxx」みたいな嘘つき顔してて、ついでに血なまぐさくて殺気とかを感じたから、ていうか全員がそういう臭気ぷんぷんで棺桶片足みたいな連中ばっかしだったから。

ひとりは賞金がいっぱい掛けられた罪人女で、ふたりは割と名の知られた賞金稼ぎで、ひとりは勲章がついているから南軍の将軍で、あとは得体がしれない誰が誰やら。 もうひとつ、Warrenが持っているリンカーンから彼に宛てられた手紙、これが彼を「ありえない」レベルの「ひと」にのしあげているのだがそれにしたって、それがどうした? だったりして、結局のところ、ある出来事をきっかけに殺しあいが始まる。 それは生存本能が前にでるサバイバルゲームではなく、義を背負った懲らしめお仕置きでもなく、ほんとにシンプルな憎悪 - おれを誰だと思ってるんだ気に食わねえ - のみが火花を散らしてぶつかりあって、あとはひたすらいつものタランティーノの焼きごて。

水平方向をびゅんびゅん飛び交う銃弾とか、たまに縦方向で思いがけない動きがあったりするのだが、基本は狭い空間のなかで痛かったりげろげろだったりのバリエーションがたっぷりで、憎悪っていうのはこんなにもいろんな形をとって現れるものなのね、と。

という割とミニマルな、始まりも終りもないような、かっちり作りこんだ音楽みたいなかんじの映画なので、見えないところでエモが唸りをあげて爆発・暴発していくタランティーノ節の起伏はあんまなくて、でもそこにゆったり堂々としたEnnio Morriconeが被さるとなんかすごい。これと外界をみっしり埋めつくす雪と嵐に吹きさらしになって憎悪もなにもぱりぱりと彼方に散っていく。

それにしても残念なのはー、この雪のひんやりした細やかさを監督指定の70mmフィルムで見ることができたらなー。 3000円だって行くのになー。
もう日本には70mmの映写機ってないのだろうか。爆音だの4Dだのにお金かけるのもいいけど、フィルムで撮ったのはフィルムで見るのがいいに決まってるのにさ。
恵比寿でやっていた「2001年..」だってもうじきリマスターをやる「地獄の黙示録」だって、70mm版がどんなに凄かったか、あれに勝るものなんてあるもんか、て確信があるの(←やな年寄り)。
最近のだとPTAの”The Master” (2012)の70mmもすごかったなー。

4.04.2016

[film] The Lobster (2015)

19日の土曜日の昼、新宿でみました。
へんな映画だったねえ。

犬を連れたひとりの中年男(Colin Farrell ...)がホテルみたいな病院みたいな施設で、入所するところで洋服全部とっかえさせられて、厳格なルールのもとで規則正しく他の入居者と共同生活することを強いられて、ここのゴールは45日以内にパートナーを見つけることで、それに「失敗」すると動物に変えられてしまうのだと。 つまり、自身の技量で相手を獲得して子孫を残せないようなやつは動物みたいに一定期間に自動で生殖する仕組みのなかに組みこんでしまえ、ていう。  
男が連れている犬はかつて彼の兄だったやつで、男はロブスターになりたいのだ、ていう。

異性のパートナーを見つけることができない独身野郎は畜獣に堕ちろ、ていう近未来ディストピアもので、だから映画の冒頭には泣きながら(or 怒りに震えながら)牧場のロバ(だっけ?馬だっけ?)を撃ち殺すおばさんの場面が出てくるし、森のなかにはかつて人間だったと思われるいろんな動物(人なつこいのでそうかな、と)がうろうろしていて動物好きにはたまんないのだが、なんかとってもばからしいところもある。 『わたしを離さないで』の中年向け・ライト版かよ、みたいに思ったり。

そもそもなんでパートナーを見つけることを強制され、独身者であることが「罪」とされなきゃならんのか、とか、それができなかったとして、動物になってしまうことがなんで「罰」として機能しうるのか、とか。 主人公がその掟に抗って大騒ぎしたり泣いたり暴れたりするのであれば思いっきり貶してあげるのだが、映画のトーンはどんよりとすっとぼけていて主人公も無表情で既にロブスターになる決意を固めているようなかんじだからなんか始末にわるい。

そうしているうちに動物化を推進する体制に対抗する独身者の組織 - リーダーはLéa Seydoux - が現れて主人公を保護して、こんどのは恋愛対象を見つけたり恋に堕ちたりしたら目を潰すからね、てやつで、べつにそんなのいいよどうせ見つかんなかったんだもの、と思ったとたんに恋愛の相手(Rachel Weisz)が現れてしまったりする。 誰からも干渉管理されない恋愛が突然見えたと思ったら眼を塞がれてしまう、ていう強烈な皮肉。 動物になるのがよいのか、恋愛しないで生きるのがよいのか、暗闇で恋愛して生きるのがよいのか。

  → べつになんだっていいじゃん。 になるのと、いいやそれでも恋愛は。 みたいになるのと。

これらが適度な湿度と温度と粘度で、しょぼくれた中年同士のドラマとして描かれるとこが悪くなかった。 
"Never Let Me Go"

俳優さんがみんなすてきでねえ。すぐに鼻血だしたり呻いたり、じゅうぶん動物なんだけど。

森のなかで鼻歌でNick Caveの”Where the Wild Roses Grow”をうたうところがあって、そこはとってもよかった。 Nick Caveが鼻歌ででるのだったら、そんなにわるくない未来かも。 それか、どっちみち終わっているのかも。

動物、なにになるのがよいのかしら、てずーっと考えている。

[film] Iris (2014)

3月13日の午後、新宿でみました。
『アイリス・アプフェル!94歳のニューヨーカー』ていうドキュメンタリー。

この前日にみた”The Big Short”もそうだったが、そもそもどういう原理で動いているのかよくわからない、これはファッションの世界のお話し。 それも作るひと側の世界だったらまだわかりやすいのだが、これはコーデしたり着こなしたりというそれはそれはなにをどうやったらどうなるのかぜんぜんわからない世界の -。
でも、金融による世界制覇はもはやどうすることもできないしやるきもゼロだけど、着たりするほうならなんとかがんばれば(94くらいまでなら)、とかほんの少しの希望とか意欲くらいはある。 どっちみち無理だろうけど。

1921年アストリア生まれのIris Apfelの名を一躍有名にした2005年のMetropolitan Museumでの展示を切り口に、彼女自身の歴史とかNew Yorkファッション界/史における位置、みたいのをDries Van NotenとかBruce WeberとかHarold Koda とかTavi Gevinsonといった人たちの語りで明らかにしたり、実際に街なかで自在にじゃらじゃらお買い物するところとか。

べつにIrisに限ったことではなく、平日にBergdorf Goodmanとか行ってみるとジャングルで一瞬ありえない輝きをみせる極彩色の鳥みたいな老婦人がいっぱいいて、でも立ちどまってようく見てみれば長年の進化の果てにトランスフォームしたなにかとしか言いようがないふうに風景には馴染んでいて、それってTVでみる大阪とか巣鴨の老婦人方の格好と同系なのかちがうのか、たまに考えたりしてしまうのだが、とにかくそんな、都市とジェンダーとファッションと、個と変容と継承といったテーマを考えるのには最適のいっぽん。

ぜんたいとしては、ばばあただもんじゃねえな、くらいしか言葉はでてこない。

夫のCarlと夫婦そろって目利きぽいので、白洲 次郎 & 正子みたいなもんかしら、と少し思ったりもしたのだが、白州のふたりの毛並みと育ちのよさ、みたいのよりは、やはりNYという都市が彼らの目と捕まえたいろんなのを自分のものにする技を - 情熱と大胆さを慎ましさを - 育てて磨かせて世界にふたりしかいないようなふたりにした、ということは言えるのではないか、と。
そして彼らと同じようにこの都市が育てた唯一無二のファッションのひとに、例えばBill Cunningham - 1929年生まれ - がいる。

あとはやっぱり自分で試したんだろうなー、て。そのためには自分を外見も含めて本当によく知らないと、受け容れないと難しくて、その辺のナルシシズムと自己対象化の境界とか壁とか、そんなのふつうに生きていくだけでもさあ、ていうか、だからファッションていうのはそもそもそういうことなのよ、て このおばあさんはにっこり柔らかく教えてくれる。

もうひとり忘れてはいけない老人が、たまに画面の端に朗らかに映りこんでいて、それが監督のAlbert Maysles - 1926年生まれ - でこれがほぼ最後の作品となってしまった。本当に残念だなあ。
Rufusの“Milwaukee at Last!!!”もこの人なんだねえ。

前に住んでいたアパートが一瞬映ったので、ちょっとだけきゅんとした。

4.02.2016

[film] The Big Short (2015)

3月12日の土曜日の晩、六本木でみました。

Adam McKayにまさかまさかのオスカーをもたらしてしまった実録金融ドラマ。
映画もオスカーもほんとうにあったことなの。

ちょっと変わり者の投資家たち - Christian Bale, Steve Carell, Ryan Gosling, Brad Pitt - が、普通の人が目をつけないようなマーケットの隅っこの動きに目をつけて、何か(の予兆)に気づいて、やがて彼らがこわごわ予測した通りに世界がひっくり返ってしまう。同じ原作者 - Michael Lewis - による "Moneyball" (2011) も統計学を野球勝負に適用したらなんか変なものが見えてしまった、という話だったが、これも同じように、ふつうの投資家達の見ていないところを見ていた数人が「それ」に気づいて、気づいておいた人は儲かって、気づかなかった大半のひとは大損して世界は大変なことになった。金融とか経済の言葉がわかんなくてもだいじょうぶ。 たぶん。

Adam McKayがコメディの世界も含めて描こうとしているのは、そんなふうにふつーに認知されて成り立って機能している世の中がようく見てみるといかに変てこな原理原則とか偏見とか人とかによって支配されているのか、ということなんだと思う。

Anchorman(放送業界)もThe Other Guys(警察業界)も、正義や大義が公正さで動いていると思われがちな世界なのに、一部の変な野郎どもとか慣習とかによってぱんぱんに縛られているのかをてんこ盛りのギャグ風刺と共に明らかにしていた。”Step Brothers” (2008)は? ... きちんと見直してみたいところだが、家族 ..  かなあ。

とにかく今度のこれは世界経済の相当にでっかい部分を担っているアメリカの金融システムが実のところはゴミのロンダリング集積場で、更にはそいつが格差を助長する仕組みとしても見事に機能していた、というのを皮肉たっぷりに描きだす。んで、なんといっても一番の皮肉ときたら、これが本当の話で現実に起こって、沢山のひとが路頭に迷って経済大パニックになった、ていうことだよね。
あともういっこの皮肉、というかあーあ、は、これの本当の主因、というか悪い奴はなんなのか、だれなのか、がよくわかんないことなの。

だからほんとうであればその仕組みの、世界のゴミっぷりを暴いて大儲けした連中の痛快さがたまんないはずなのに、みんな苦虫で、最後にはなんだよこれ、みたいな顔になる。
お金の正体がわからなくてもお金儲けはできるし、神の正体がわからなくても神を崇めることはできる。 でもそれがうまいこと行き過ぎてそもそも経済って ... ? になってしまうのが、例えば最後のほうのSteve Carellの顔。

あともういっこ、Adam McKayが追っているのがマチズモ - 男根優位主義の異様さへんてこさで、この映画に出てくる連中はおとなしいけど、やはりその世界の住人なんだよね。 金融もメディアも警察も家族もスポーツも戦争も、牛耳っているのはオトコの論理で倫理で。 そこにAdam McKayは切りこんでいく。

これのオルタナバージョンができるはずだし作ってほしい。
Christian Baleの役をやるのはWill Ferrellに決まっているの。