3.31.2015

[film] Into the Woods (2014)

22日の日曜日の夕方、六本木で見ました。

おおもとは86年初演(ブロードウェイでは87年)のStephen Sondheimによる舞台ミュージカル。舞台版は見ていない。

子供を望んでいるけどなかなかできないパン屋の夫婦(James Corden + Emily Blunt)のところに魔女 (Meryl Streep)がびゅうんて現れて、それは呪いなのじゃ、と言って、それを解くには森に行ってミルクのように白い牛と、赤いずきんと、コーンのように金色の髪と、金の靴を持ってくるのじゃ、と言って、でもそれぞれの持ち主たち - Jack (Daniel Huttlestone)、赤ずきん (Lilla Crawford)、Cinderella (Anna Kendrick)、Rapunzel (Mackenzie Mauzy) - もそれぞれに願いとか養うべき家族とか人生の問題とかストーリーとか抱えてそれぞれ忙しくて、そもそもの魔女だって別の呪いを解くために動かされていて、こんなふうにそれぞれの願いだの思惑だのがこんがらがってそれ自体が森みたいになってて、みんな大変なんだねえ、ておもうの。

人々の欲望や願いが入れ子のように構造化されていて、それらは等価で、それらの集約された場が「森」で、人々はそこに行けば願いが叶うと根拠なしに思いこんでいるのでそこに向かう。 ポストモダンの時代に書かれた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のとってもわかりやすい翻案。 森にいけばあたしの願いは叶うはずなんだ、あたしはこんなによいこでまじめなんだし、報われないわけがないんだからって。 でも物事はそんなにうまくは運ばなくて、叶うひともいれば叶わないひともいる。 食い合いによる環境破壊とか森の外からの報復 - テロの連鎖みたいなことまで起こって、万人にとってのHapily Ever Afterなんてありえないことがわかるのだが、でも、それでも/それだからひとは森に向かう、森と共生しようとする。それが幸せに通じる道。

これなんじゃろ?  て思った。
ポストモダンの時代の物語を、スーパーキャピタリズムとグローバリゼーションの時代に、その突端でぐいぐい「勝ち」にいこうとするWalt Disney Picturesが映画化する。 どこにどんな思惑が企てが、て思わないほうが無理というもの。
おとぎ噺のキャラクター達を総動員/再利用して物語をエコに再生する、というと“Shrek” (2001)が思い浮かぶが、あれがものすごくシンプルなメッセージに回帰しようとしたのに比べると、こっちのは複雑怪奇すぎてあんまよくわかんないのね。  
辛い時代だけどみんながんばれ ?  ... まさかー。

俳優さんたちはみんな何とも言えない説明不能な暗さを湛えつつも無邪気に一生懸命歌っているのでそれでよかったのかしら。
あと、Chris Pineさんは、こないだ見た“Horrible Bosses 2”もそうだったけど、どんどんろくでなしが似合う風体に錆びれてきていて、これから楽しみかも。

というわけで当面はKenneth Branaghの”Cinderella"に期待することにしたい。(←さいてー)

もう3月終りってひどす..

3.29.2015

[film] 恐怖份子 (1986)

21日土曜日の午後、「光陰的故事」に続けて見ました。当然みるわよ。
英語題は”The Terrorizers”。

80年代の台湾のどこか、窓から銃を持った手がすっと伸びて、銃声が響き、道路に人が倒れていて、その様子をカメラに収める若者がいた。そのカメラに怪我をして逃亡する姿を撮られた混血の少女、彼女の母親がいて不良仲間がいて、そこから全く関係ないところに上司の死で昇進のチャンスが降ってきたまじめな医師と、なかなか新作を書けずに苛立ち苦悶している小説家の妻がいる。

カメラマンの青年は同棲している彼女のところを離れて事件の起こった部屋を借り、暗室を設けて暮らし始めて、怪我をした少女は昼間することもないのでいたずら電話を掛けたりして、全く関係のない、互いに名前も知らない人と人の間に線ができて、その線が思いもよらなかった何かを登場人物たちに運んでくる。

それらは本当に思いもよらなかった何か、関係ないはずだった何か、なのか。それを持ちこんだのはいったい何で、どこのどういう力なのか。

すべてが繋がってしまうかもしれないことが、そのさまの予測がつかないことがおそろしいのではなく、それらすべてのことがわかっていながらも突然に、あらゆる場所でことが起こってしまう、そういう後ろ頭の恐怖がある。『ヤンヤン 夏の想い出』(2000) で、わかっていないことを、見えていないことを、なんでわかっているように言えるのか? とヤンヤンは問い、自分には見えていない半分を見せてあげる、と人のうしろ頭をカメラに撮っていたヤンヤン、「光陰的故事」で、自転車に乗れるようにはなったけど... とぼやいていた眼鏡っ子の中間で、昇進目前の医者でも、賞を貰った小説家でも、金持ちぼんぼんのカメラマンでも、行き先と後ろ頭には気をつけないと、起こることは起こるし、防御しようのないものだ、と。

それにしても、どんな画面でも - それが犯行現場であっても医師のお宅であっても、構成として端正というか、揺るがずに美しいことのすごさ。 遍在して光のなかに居据わり、散っていく「分子」のありようを慌てず騒がず丸ごと捕らえること、エドワードヤンの恐ろしさはそこにあって、それは「ラルジャン」のような即物的な根を持たずに苔や黴の胞子のように空中を漂い、いつの間にかそこらじゅうに拡がっている。そして「彼ら」はホラー映画のようなわかりやすさで変わったりキレたりするわけではない、頻繁に手を洗ったりする普段の挙動はそのままに、その声音、目つき、がほんの少し、でも突然。 とにかくおっかないし、逃げようないし。

これって、昨今のIoT/EoTの世界になったら、例えば、デイブ・エガーズ「ザ・サークル」のサークルが完全化したら防げるのかというと、違うかんじがする。むしろ、環境の数値化/可視化が進めば進むほど後ろ頭に忍びよる恐怖の深度、噴出しようとする暴力の強度は大きく抗いようのないものになっていく、気がする。 そういうもんじゃろ、程度だけど。

できればもう何回か見たい。 そして「牯嶺街少年殺人事件」ももういっかい。 なんとしても。

3.28.2015

[film] 光陰的故事 (1982)

21日の土曜日の午前、渋谷でみました。
4人の監督による4つの短編からなるオムニバス。 英語題は”In Our Time” - こんなこともあったりあんなこともあったりして過ぎていった日々、とか。

1話『小龍頭』(監督:陶徳辰:タオ・ドゥーツェン) “Little Dragon Head”
恐竜の絵ばかり描いている恐竜好きの男の子がいて、両親は何故か弟のほうばかり可愛がって、裕福な親戚のお家にお呼ばれしていって、そこの女の子と少しだけ仲良くなるのだが、そこのおうちはアメリカに駐在に行っちゃうの。

2話『指望』(監督:楊德昌:エドワード・ヤン)”Expectation”
母、姉 - 受験前、妹 - 中学生の3人で暮らす一家がいて、妹は近所のガキの自転車の練習つきあったり、自分ちに間借りにきた大学生男子にときめいたりするが姉に取られちゃって呆然としたり、どんよりしている。 自転車に乗れるようになったガキは、自転車乗れるようになったらどこでも行けると思っていたけど、そうなってみるとどこに行ったらよいのかわからないんだ、とか言うの。

3話『跳蛙』(監督:柯一正:クー・イーチェン)”Leapfrog”
浅田彰似の大学生の男がいて、”Fatty”とか呼ばれててあんまぱっとしないのだが、留学生との対抗試合をやるんだ、て周りをたきつけて練習して、試合に勝ってやったぜ、なの。(こてこて)

4話『報上名來』(監督:張毅:チャン・イー)”Say Your Name”
アパートに越してきたばかりの若い夫婦がいて、朝、妻が新しい勤め先に出て行った後、夫は寝起きの上半身裸で階下に新聞取りに行こうとしたら鍵を部屋に置いたまま扉を閉められちゃって、外から妻の勤務先に電話したら妻は妻でオフィスに入れなくて大変で、どうする?  なの。

順番に小学生の頃 → 中学生の頃 → 大学生の頃 → 大人の頃のお話しになっていて、背景の時代は明示されていないものの 50年代 → 60年代 → 70年代 → 80年代(公開時)、と推移していって、当時の観客からすれば、誰もがああ、これあったかも、ありそうかも、と思えそうな話が出てくる。
あと、各エピソードに動物のイメージも貼り付いていて、順番に恐竜、猫、蛙、犬、なの。

作品のクオリティーみたいなとこでいうと、エドワード・ヤンの第二話が文句なしに圧倒的で、他のはTVドラマだけど、ヤンのだけは映画的な力強さのなかでとびぬけている。 一目瞭然。

大人の入り口に立っている少女の惑いと畏れと小さな期待と、やがて来てしまうその時、そして軽い失望と止まない不安と、さて。
冒頭の少女のクローズアップから、背筋を伸ばさなければいけない緊張があって、そこからどのエピソードもサイレントのようなカット割りと表情、光と影のなかに浮かびあがる。画面切り替えのフェードインとアウト、The Beatlesの”Hello, Goodbye”、でもそれらは過去のスクラップではなくて、今のお話しとしての普遍性と瑞々しさがあるの。 あと何十回だって見ることができる古典。


映画とはぜんぜん関係ないけど、木曜日にEast Villageで起こったガス爆発で、あの近所にあったPommes Fritesがクローズしてしまいました。 ベルギーフレンチフライ専門のちいさなお店。
あの近辺を散策していて突然血糖値が下がって死にそうになったとき、何度となく救ってくれた。

ほんとうにお世話になりました。 ありがとう。 またね。

http://www.pommesfritesnyc.com/

3.27.2015

[film] Song One (2014)

20日金曜日の晩、ぼろかす状態で六本木で見ました。
「ブルックリンの恋人たち」 - うちひとりは別にブルックリンじゃないけど。

若者Henry (Ben Rosenfield)は、地下鉄の通路(Lの6th Aveのとこ)で弾き語りして帰る途中で事故にあって昏睡状態になってしまう。 その頃姉のFranny (Anne Hathaway)はモロッコでフィールドワークとかやってて、その知らせで飛んで帰るけど弟はぴくりとも動かない。 ミュージシャンになりたがっていた弟と喧嘩ばかりだった姉はかつてのやりとりを悔いて泣いてばかりなのだが、弟の部屋を整理していたらJames Forester (Johnny Flynn)ていうSSWのポスターとかCDとかが目について 、彼のライブのチケットまで出てきたので行ってみることにする(Bowery Ballroomに)。

そいつのライブを見て聴いて、物販コーナーから引きあげようとする彼に、ひょっとしたらと声を掛けてみて、でも彼は弟のことなんか知らなくて憶えていなくて、でもまあいいか、と。

Henryの手帖や記録をぜんぶ見て、彼が目を覚ましそうな声、音、匂い、なんでも運びこんで傍に置いて、めそめそ泣いているとJames Foresterが現れてやあ、とかいう。彼がベッドの傍らで歌ってくれても弟の目は開かなくて、他にすることもないので一緒にライブに行ったり食事したりして仲良くなっていくの。 いいなー。

こうしてSharon Van Etten見たり(いきなり出てきたのでわー)、そのあとでPaul Whittyの歌うCaetanoの“O Leãozinho”聴いたり(なつかしくて泣きそう)、かつてHenryが追ったり浸ったり目指したりしていたに違いないNYに溢れる音をふたりで拾っていく。 それって弟のためというよりは彼女のためであり、新曲を書けなくなっていたJamesのためでもあり、音楽はそんなふうにそこらじゅうにある。 なにかを繋いだり癒したりするために、というより追えば追うほどふたりは世捨て人の役立たずになっていくようで、その後ろ向き加減がなんかよいの。 Henry起きてくれないし。

NYの音楽映画、として見たとき、こないだの、やたらポジティブで明るい”Begin Again”よかはっきりと暗くてだめなかんじで、でも、だからよい、というか、NYにてんでばらばら流れる音楽のありようをきちんと見せているのはこっちのほうかな。

あとプロデューサーのひとりがJonathan Demmeで、彼とAnne Hathawayというと”Rachel Getting Married” (2008)で、あれも家族のところに戻ったけど打ち解けられない彼女のおはなしだったねえ、とか。
Anne Hathawayが俯いて上を見上げるところ、本当に美しくて、”Interstellar”にもこういうとこが一瞬でもあったらなあ、とか。

唯一難点をいうと、Jamesのほうにオーラがなさすぎなのよね。Henryがなんであんなにこいつにのめりこんだのかあんましわかんなくて、そこだけ。 冒頭のHenryの歌のがよかったくらいだし ...

Bowery Ballroom、また行きたいようー。

3.25.2015

[film] The Imitation Game (2014)

15日の晩、六本木で見ました。 映画館、リフォームしてラグジュアリーなボックス席とかが増えていた。こんなところに自分の居場所はない。映画館がどんどん遠くなる。

Alan Turing (Benedict Cumberbatch)の評伝映画。 映画的な興味というよりたんなる評伝とか大河ドラマ的な関心から。 コニー・ウィリスの『オール・クリア』にも出ていたしね。

戦後のロンドンで、なにをしでかしたのか少しやつれて取り調べ室にいる彼、まだ寄宿学校でもじもじ羽化前だった頃の彼、ブレッチリー・パークでドイツの暗号化装置エニグマの解読に取り組んでいた彼、3つの時代それぞれで展開していく、自身のPredestinationへと向かう旅。 暗号を解いて歴史を動かすことはできてもやはり自分を変えることはできなくて、しかもその自分ときたら1024bitの強度で暗号化されていてしょうもなかったの。 だれかぼくを復号化して。

だれにも解読できない自我の強靭さの裏側にいる、なにかどこかの箍が外れたら崩れてしまいそうな「心に茨を持つ少年」、そして同様にいつドイツに占領されてもおかしくない危うい戦局、この三者が織りなすはらはらのドラマを”Imitation Game”として囲いこんでしまうのは果たして正しかったのかどうか。 ちょっと弱くなっちゃたのではないか、とか。 一気に見れるし、つまんなくはないのだけど。

取り調べ官に彼が問う、”Am I a machine? Am I a human? Am I a war hero? or am I a criminal?” のとこ。ちがうんだよ、こいつはただの変人なの、変態なの。 て正面から言って語ってほしかったのになー。 本人もそう願ったと思うよ。

理想をいうとね、David Fincherの”The Social Network" (2010)のあの地を這うような語り口がほしかったんだけど。(このふたつの映画のポスター、似ているの)
それか思い切って、ブレッチリー・パークの仲間たち、のような青春群像劇にしてしまうとか。

それにしても、こいつがいなかったら、こいつがどうかなっていたら、ノルマンディーはあんなふうにはならなかったかもしれないし、ITだって今とは違っていたかもしれないし、そしたらいまのこんなくそみたいな仕事だって、仕事だって ...とか思うとこのやろおー、とついその馬面をじっと睨んでしまうのだった。

3.23.2015

[film] Adieu au langage - 3D (2014)

15日の日曜日のごご、新宿で見ました。やっと見れた。 でっかいスクリーンでよかった。
「さらば、愛の言語よ」。なにが/どこが「愛の言語」なんだか最後までわかんないしわかりたくもないけど。

Jean-Luc Godardの新しいやつ。 ゴダールの新しいのはふつう最低2回見ないと入ってこないところもあるし、見ているうちに今度のは2Dも見ないといけないことがわかったので、今の段階であんまし書くことが出てくるとは思えないのだが、なんか書いてみる。

新作が3Dになる、と聞いたときはそんなに驚かなくて、前作の”Film Socialisme" (2010)の制御を失って画面の外に爛れて流れ出してくる毒液みたいなデジタル映像 - それは映像の冒険や実験というより、これでも喰らえ、とこちらに放り投げているようにも見えて、その流れでそんなに3Dだ4Kだ言うならこんなんでも見とけ、ほれ立体じゃろ、とでも言うのだろうか、とか。

表面に見えてくる3Dはやはり「ちゃち」で、昔よくあったぎざぎざしたシールの見る角度を変えると浮きあがって見えたりするあれ、を思い起こしたりもしたのだが、なんか目がおかしくなったかも、と思って右目を閉じて左目を開けて、右目を開けて左目を閉じて、をやってみたら右目左目でぜんぜん別の映像が動いていったりしたのでびっくらして、これってなんかの修行か眼科検診かなにか? とおもった。 つまり、そういうレベルで「見る」ことについて考えろ、ということを言っている。 これがひとつ。

前作の”Film Socialisme”は、”Social”の”ism”を”Film”としてこちらに投げていた。
クルーズ客船とかゲームとか子供とか参政とかをネタにそれらが織り成す社会の構造や基底(そしてそれ自体もまた…)をフィルムの上に再構成しようとした、というか。 今度のはそのレイヤーをもう一段降ろして言語/言語化とか犬とか糞とか裸とか男女とか血とか、そういうロー(Raw)な断片ばかりが転がっていて、しかもそれを(フィルムというより)3Dで見ろ、という。音声は、銃声とか犬鳴きとか赤ん坊泣きとか、エッジがとんがって鮮烈で、これまでのように設計されたかんじはなく、ただそこで生起した音の生々しさのみを捕まえようと。 こういった認識や思考の突端にある要素をかき集めて何をつぎはぎしようとしたのか。 主人公のひとりの女性(頬につぎはぎあり)の名前は”Mary Shelley”なの - 「フランケンシュタイン」 - “Frankenstein: or The Modern Prometheus”を書いた女性ね。

こうして映画はさんざん犬の目のつぎはぎを3Dで練りあげた筋も論理もくそもない代物、のようでいて、でもなんか、獣道のような線とか側溝のようなものが見えないこともない。 それらに筋道をつけて、たぶんこのあたりに向かっているなんか、などと言葉で表せるようになるにはさいてーでもリルケとデリダとアガンベンくらいはちゃんと(日本語だけど)読まないといけないのね、ということはわかった。 なんで猫じゃなくて犬なのか、とかも。

でも花粉にやられたところに風邪ひいて更に寝挫いて死んだ犬並みにひどいありさまなので、当分はむりなの。

ゴダールの過去の作品でいうと、”Prénom Carmen” みたいなへんなB級の勢いがあって好き。これでもうちょっとエロがあったらなあ、とか言わないこと。

3.21.2015

[film] Mercuriales (2014)

14日の土曜日の午後、カイエ週間の「少女と川」に続けてみました。
『メルキュリアル』104分。 英語字幕。 「少女と川」とおなじく、すばらしい出会いでしたわ。

メルキュリアル、ていうのはパリ郊外のパニョレていう町に立っているツインタワーで、地方でも羽振りのよかった時代にNYのそれを真似して作られた、けど作られた、ていうだけで、町には商売になりそうなものは他になにもない。 大昔の遺跡みたいのはところどころある。 郊外によくあるパターンのやつ。ここには都会のドラマに出てくるような華やかな人たちはいない。 移民もいればシングルマザーもいればムスリムもいれば昼も夜もなにをやっているのかわからない若者たちもいる。

そこで警備員をしている(でもころころ職場を変える)Tonyとか、メルキュリアルの展望台で出会ったLisa (Ana Neborac)とJoane (Philippine Stindel)のふたりの女の子とかの日々を中心に追っていく。 モルドヴァからやってきたふわふわしたLisaと友人Zouzouの家に住み込み子守りをして暮らしているきつめのJoaneは親友という程の仲ではないけど、会うとおしゃべりしたり散歩したりパーティやったり。

それだけといえばそれだけで、女の子ふたりが町のいろんな場所、いろんな人たちの現在や過去を、自分たちの(先の見えない)将来を睨みつつ彷徨うドキュメンタリーのようなフィクションのような。
エピソードをぽつぽつ置いていくところはJacques RozierのようでもあるしEric Rohmer(レネットとミラベル、あたりね)のようでもあるのだが、RozierほどおおらかでもないしRohmerほどファンタジーしていない。 現在の - 舞台になった2013年当時の、成熟しようのない - そもそも成熟ってなんだ? - 郊外のどん詰まり感があって、でもタフでつーんとサバサバした女の子の目つきとか態度とかがすばらしいの。じゃあどうしろっていうのさ。

こないだNYで見た”Girlhood” (2014)もそうだったが、なんでフランスの少女映画ってこんなにも大人で素敵なんだろうか。(日本のって、なんであんなにぎゃーぎゃー泣いたり叫んだり幼稚でしょうもないのか)

やがてLisaはモルドヴァに帰ることになるし、Zouzouのアパートは解体されていくのだが、それがなにか?  と誰かがいう。誰が - ?

最後のほう、Joaneの祖父の家でふたりが過ごしたバカンス、その家のなかにいきなり座っていたでっかい梟のシーンがほんとうによくて、なんか泣きそうだったの。
あのシーンだけでも、あと10回みたい。

追記;
Film Society+MOMAの”New Directors/New Films”の特集でも丁度これからかかるの。

http://newdirectors.org/film/mercuriales

あと、音楽はCANの”Alice”が流れます。

[film] La fille et le fleuve (2014)

14日の土曜日、日仏(もうちがうって何度ゆったら..)の第18回カイエ・デュ・シネマ週間 、で見ました。 『少女と川』 65分。英語字幕。

ぜんぜん知っている作家ではないし注目の度合いもしらんし、由来もストーリーもよくわかんない状態で見るこういう映画、ほんとにいいの。 日本でこういうふうに映画に出会う機会て、あんましないよね。

Samuel (Guillaume Allardi)が朝の森を散歩していると崖の上で思いつめた顔で飛び降りそうになっている女性 - Nouk (Sabrina Seyvecou)を見つけて引き留める。(それはいいんだけど、崖の上にあったでっかい熊の石像ふたつはなに? すごい気になった) で、ふたりは仲良くなって結婚するのだが、やがてあたりまえのように亀裂ができて溝になって、ふたりで自転車で出かけたときも彼がひとりで先に走っていっちゃって、まったくもう、て思ったとたん、目の前で彼は事故起こして死んじゃうの。

彼の魂は黒い川面を抜けてどこかのビルのオフィスのようなところにいて、そこはルビッチの「天国は待ってくれる」の地獄の受付みたいで、そこのひとに聞いてみると、ごめんタイプミスして間違ったみたい、とか言われて目を合わせてくれない。 他方、残されたNoukのほうは彼を失ったショックから立ち直れなくて精神療法のグループに通ったり、どこか彼が亡くなった気がしなくてずっとなにかを待っている。

彼のいるところではずっと男の人と女の人が分厚い紙の束にタイプされた名前を順番に読みあげている。男が読みあげるのは死んでゆく人の名前、女が読みあげるのは生まれてくる人の名前。 彼の名前はどっちで読まれるのか。 彼と彼女はふたたび出会うことができるのか。

天上にあるのか川の下にあるのか、のSamuelのいる世界とNoukのいる世界を安易に繋いだり結んだりせず、かつて互いの手を絡ませたふたりの間に絆とか奇跡とかを持ちこまず、それでも川は流れるんだから、と。 そんな適度な冷たさが素敵だった。

あっちに行ってしまったSamuelとNoukの橋渡しとして現れるのがSerge Bozonなの。“La France” (2007) の監督さんで、この映画、戦場のどこかに消えてしまった夫を探して妻が男装して兵士になって歩兵隊に加わるお話しで、なんか近かったかも。 これもすてきな映画だったねえ。

3.17.2015

[film] Predestination (2014)

8日の夕方、日仏から移動して新宿で見ました。

もう何言ってもムダ、ってわかっていて、それでも言うけど、最近の(ずっと「最近の」って言ってるけど、特に最近の)シネコンの上映前の宣伝のうざったいこと、幼稚すぎて気持ちわるいこと、あれ異常だよね。エンタメ、アミューズメントを提供する場なんだから、ということなんだろうが、あれじゃまるでゲーセンだわ。ゲーセンにしたいんだろうけどさ。

冒頭、顔の見えない男と男の格闘があって、片方の男は顔を焼かれて、でもぎりぎり(の測ったようなタイミング)で姿を消して、次の瞬間に全く別の場所で保護されて治療を受けて、その男は組織の一員でタイムトラベルをしながらある事件 - 70年代にNYで起こった大規模な爆破 - の犯人を追っていることがわかって、治療を終えて顔が変わったそいつ - Ethan Hawke - は最後のカタをつける、と再び時の旅にでる。  97分。ちゃきちゃきしててよいかんじ。

で、Ethan Hawkeは70年代のバー(The Stoogesの”1970”ががんがん)でバーテンをしてて、そこに若い生意気そうなガキが入ってきてカウンターに座るので話を聞いてやると、そいつはUnmarried Motherていう名前でConfession Magazineにお話を書いていると。 更に彼の身の上を掘っていくと、自分はもともと女だった、とか言いだして、映画も彼女の赤ん坊の頃からの生い立ちを律儀に追い始めるのでどうするんだ爆弾犯は、とかはらはらするのだが、お話しとして落ち着くところには落ち着く。 たぶん。

誰もが疑いそうなこの若者と爆弾犯との関わりを大きく踏み越えたとんでもないところに話は拡がる、かに見えて実は、未婚 - シングル - 女性の告白話にぱたぱたと環が閉じていくスリルがたまんない。 スケールがでっかいんだか小さいんだかわからないけど、おもしろいことは確か。 自分はどこから来て、何に導かれて、どこに向かうのか。 時間について考えることは、結局その思考のパスに巻き取られていくことなのだと。 そして、どれだけタイムトラベルを重ねても決して解決することができないなにかとはつまり。

もうひとつはEthan Hawkeが要所要所でカセットに吹き込むタイムトラベラー心得みたいなやつ。
Richard Linklaterの複数の作品でじゅうぶんに時の旅人を演じてきた彼ならではの深い言葉を聞くことができる。

原作はRobert A. Heinleinの59年発表の短編 "All You Zombies" - 「輪廻の蛇」(読んでない)- で、読んでみたいけど時間がない。 タイムパラドックス問題あれこれについては、わたくしタイムパラドックス問題には立ち入らないよいこの会の会員なので立ち寄らないの。

構造的には“Looper” (2012)と同じようなかんじなのだが、あれよかわかりやすいかも。
でも、ああいう人生て、しみじみたいへんよねえ。

[film] Le lion des Mogols (1924)

ううううねむいー

8日の日曜日、日仏のJean Epstein特集で、「アッシャー家…」 の後に見ました。
「蒙古の獅子」 これもサイレントの英語字幕。

タイトルにあるから蒙古、モンゴルのことだと思うのだが、そこの王子のRoundghito-Sing (Ivan Mozzhukhin)が王宮でいろいろあってパリに逃れて、見栄えがよいので映画俳優になることにして、女優のAnna (Nathalie Lissenko)と仲良くなるのだが彼女の後ろ盾のすけべっぽい銀行家は気に食わなくていろいろ意地悪してきて王子はつらいよ、なの。

で、やけおこして酒場にやってきた彼のまわりで夜通しどんちゃん騒ぎで踊りまくるパリの皆さんがなんかすごいの。 20年代のほんもんのパリの狂騒で、Woody Allenの”Midnight in Paris” (2011)に出てきたのよか、髪型も衣装もダンスも目つきもまじでリアルなやつら。

その酒場を出てから明け方(だよね?)にオープンカーでパリの街中をぶっとばすところ - ほんとうにぶっとばしてるように見える - も同様にすごい。20年代のパリの街中、その屋内と屋外の両方をやけっぱちの蒙古の王子が案内してくれる、なんかすごい不思議な絵。

で、最後に仮面舞踏会で追い詰められて絶対絶命になっても、王子は王子なのでむむむ、とか言いつつも超然としてておもしろかった。 それにしても王子、モンゴルのひと - 蒙古の獅子 - には見えないのよね。どうみてもあんたロシアのひと、アムールトラよね。

3.15.2015

[film] American Sniper (2014)

7日の土曜日、日仏で「アッシャー家…」の後に日本橋に移動してみました。
あのままエプスタインの「二重の愛」を見るべきだったかー、と今となってはおもうー。

のんきにロデオのカウボーイになろうとしていたChris Kyle (Bradley Cooper)は、98年のナイロビの大使館爆破や911でアメリカ人がいっぱい死んじゃったのを見て、俺が守る、って志願してNavy SEALに入り狙撃手になって撃ちまくり殺しまくって数えきれないアメリカ兵の命を救いました。 でも引退してPTSDの若者を救おうとしたらこんどは自分が殺されてしまいました。  ていう実話。

戦争というのは国と国が勝ち負けを決めること、ではなく人と人が殺しあうことなのだ、人を殺すというのはすごい遠くからの銃弾いっぱつで、鹿や獣を撃つように仕留めること、などなどを具体的に教えてくれる。

でも、彼が殺すのは相手がアメリカ軍の兵士達を殺そうとしたからで、でも、なぜ相手がそれをやろうとしたかというと、過去にアメリカにひどいことをされた(という記憶を他国側は共有している)から、というそこまでの経緯や背景は描かれていない。 こっちに危害を加えようとしている相手 - 顔が見えなくても、それが大人でも女でも子供でも - を認識したら自分の判断でそこ目がけて銃弾を撃ちこむ、という米軍のアクションが描かれるのみ。  暗がりから現れるゾンビとか怪物を倒すとポイントを貰えるソーシャルゲームに近いかんじ(やったことないけど)。

「硫黄島からの手紙」(2006)も頭がふっとんだり自害したり死にきれなかったり、兵士それぞれのあらゆる生と死のヴァリエーションをいっぱい並べて可能なかぎり「国」から遠ざかろうとすることで、そこに否応なく横たわる「国」のありようをグロテスクに浮かび上がらせていた。 けど、あの映画がどこか遠くの、もう誰もいない島で、合衆国国旗を立てた兵士たちの肖像、かつては友好関係にあった両国、などなどと共に、全体がまるで大昔の神話のような不条理のなかに浮かんでいたのに対し、この映画のアメリカはどこまでも孤絶していて内側で閉じていて、あまりに遠くて、そこで見えているもの見えなくなっているものの境界ばかりが際立っていて、その荒涼とした恐ろしさときたらすごい。 160人+を殺すことでアメリカ兵数千人の命を救って国のヒーローになりました、って、どういう算数だよ。

という見方もあるのだろうが、たぶん大多数 - 動員記録を作った原動力 - は共和党の思うツボみたいなところに落ちていくに違いなくて、それはイーストウッド信者がどれだけそういう映画じゃないと力説したところでどうしようもない。 それは「じゃあいったい何ができるというのか?」とか「自分の身内が攻撃されても黙って見ているのか?」とかお決まりの(彼ら得意の)誘導の中に消えていってしまうのだろう。

2050年の映画史でこの映画はどんなところにいるのかしら。 自分はまちがいなく死んでるけど。

3.12.2015

[film] La chute de la maison Usher (1928)

7日の午後、日仏のJean Epstein特集の"Mauprat"のあとに続けて見て、それから8日の午後いちに再見した。 
『アッシャー家の末裔』

7日に見たのはフィルムセンター所蔵、オリジナルネガから焼いたのをアベル・ガンス経由で入手した由緒正しい小宮登美次郎コレクションの35mmプリント(サイレントで音楽なし)、8日に見たのはCinémathèque française所有のオリジナルネガから世界各地のフィルムアーカイヴ所蔵版を参照して1997年にリストアされたものを2013年にデジタル変換したもの(その際に音楽も新たに付けられた)で、本邦初公開となるバージョン。

35mm vs DCPというこれまで散々議論されてきたやつを比較対照する絶好の機会でもあったの。

原作はE.A.ポーの超有名なやつだから書くまでもないけど、いろいろ違うの。
原作の兄妹は夫婦になっているし、ラストもずいぶんちがう。(ので助監督のLuis Buñuelはあきれて降りちゃったとか) 
客人がアッシャー家当主Roderickからの手紙を手にその館に辿り着いてみると、Roderickは明らかにおかしくなってて、弱りきった妻Madeleineの肖像画作成に没頭してて、絵が仕上がっていくにつれてMadeleineはどんどん衰弱していって、やがて息絶えてしまう。 納棺の日、Roderickは棺に釘を打ってはならぬ、というのだが召使たちは言うこと聞かなくて、やがて大嵐の日がやってきてすべての扉が開け放たれ、外に目を向けると閉じたはずのお棺の蓋からひらひらがー。

"Mauprat"のときにもかっこいいー、て痺れていたクローズアップやスローモーションが見事な構図のなか、いちいち決まりすぎててすごい。 特に彼岸にいっちゃいそうな/いっちゃっているSir Roderick Usherのギターを弾く姿、絵筆を持つ姿、その虚ろなんだか囚われているんだか判らない目 - 定まることのない目のおっかないこと。

生身の身体から絵画への転写とか、生の世界と死の世界の転換とか、これらが折り重なって倒壊していく世界の妖艶さ。 ゴス、と一言ではいえない力強さがあるの。

廃墟のような館を訪ねる系のホラーとか、"The Shining"にAdams Family, Harry Potterまで、そういう映画 - 闇の向こうに、紙一重で繋がって拡がっているからっぽな世界を描いたやつ - の元祖でもあるな、て思った。

上映メディアについては、「個人の好み」と言っちゃえばよいのかもしれないけど、でもやっぱし35mmフィルムの圧勝だったとおもう。 35mmのほう、冒頭の湿地を抜けていくところの青、というか藍の刺すような深みとか風で煽られる布きれの質感に対して、DCPのほうは隅々まで宙を舞う微細な粒子まで見えるくらい細かく鮮やかなのだが、画面のコントラストは意固地なまでに均質でぺたんこ、みたいな。 これ、音楽のアナログ盤とCDに感じる印象そのままなのだった。 確かに今後の映画配給とか普及にDCPが不可避なのはわかるけど、ああいう35mmを見ちゃうとねえ。

DCP版の音楽、きちんと考証を重ねて、ドビュッシーのオペラ(同名の未完作がある)を題材にして作られたそれは見事だとは思ったものの、もうちょっとダークで錆ついてぎしぎししたのでもよかったかも。
Gary Lucasさんがギターでやっているような音とか。

あと、すばらしかったのが両日の前説で出てきたCinémathèque françaiseのEmilie Cauquyさんで、シネフィル化したRebel Wilsonみたいで、おかっぱで、体はずっとバウンスしてるし、前歯欠けてるし、おもしろい動物みたいだった(話を聞いてやれ話を)。 彼女が解説するんだったら何回でも通ったっていいわ。

[film] Mauprat (1926)

7日の土曜日、日仏(じゃない、何回いったら...)の「カイエ・デュ・シネマ週間」で見ました。
前半のBruno Dumontは出張で見れなくて、これはなんとしても、だった。
恵比寿映像祭(17時なんて行けるわけないじゃん)でも神代辰巳でもなく、こっちだったの。

原作はジョルジュ・サンドの37年の同名教養小説(読んでない)で、そういえばぜんぜん関係ないけど、ジョルジュと言えば、ここで1月にやった「ジミーとジョルジュを巡って」の特集で見た『異郷生活者たち』 - “The Exiles” (1961) と『光あれ』 - “Let There Be Light” (1946) の2本はすばらしかったの。 書く時間さえあればなー。

貴族のお嬢様のEdmée (Sandra Milovanoff)が道に迷って盗賊にさらわれて連中のお城(実は苗字がおなじの分家本家)に幽閉されて、そしたらその一味にいたBernard (Nino Constantini)ていう若者が寄ってきて目をじっとのぞきこんでいきなり「君が好きだ」ていうの。(あ、英語字幕のサイレントなの。ねんのため)

で、お嬢様は城から抜け出すために彼に擦りよって、救いの軍が攻めてきたどさくさで一緒に外に出て実家に戻るのだが、戻ってみると彼女には婚約者がいて、突然彼に冷たくなって、でも彼はめげずに犬のように寄ってくるので彼女は揺れ始めて、この野蛮なガキを教育してよいこに育ててやろう、とか思うの。 ここから先は少女漫画展開 - 原作小説の邦題 - 『モープラ(男を変えた至上の愛)』、他のヴァリエーションとしては『モープラ(愛は道と共に)』とか - そのままで、なかなか盛りあがるのだった。

同じMaupratていう家名を持つ、異なる境遇に置かれたふたりのそれぞれの立場が上になったり下になったり、愛の名のもとにめまぐるしく変転していくので目が離せないのと、それらの合間合間に 空からぱたんと落ちてくる鳥とか風に揺らぐ木とかのショットがいちいちやたらかっこよくて、実験映画のようで、画面のつくりとテンションでいうとこれは確かに実験としか言いようがなくて、でもエモの力強さもあって、なにこれ、なのだった。

あと、Bernardの顔、特にじっと見つめる目がとっても強くて印象に残るのと、でもEdméeはずっと仏頂面でぼよんてしてて、 Bernardがなんであんなに追い回すのかよくわからないの。 それと城の坊主みたいな役で目つきのやばいおじさんが出てきて、それがLuis Buñuelだったり。

これが1926年て ...

3.08.2015

[theatre] A Streetcar Named Desire

6日の金曜日の晩、日本橋でみました。
ここでたまにやっているNational Theatre Liveのシリーズは行きたいと思いつつ行けてなくてようやく。 チケット取ってから上映(演?)が3時間以上(202分)あることに気づいてびっくりしたが、まったくもんだいなかった。

「欲望という名の電車」。上演はロンドンのYoung Vic、まえにOld Vicは行ったことあったが、Young、のほうはなかった。 Broadwayのだと、2005年に、Blanche: Natasha Richardson, Stanley: John C. Reillyていうのを見ている。

舞台には上に延びる階段、扉にリビング、キッチン、ベッドバスまで一通りの生活セットがコンテナのように置かれていて、これがまるごと、ゆっくりと回転していく。客席はそれを囲んでおなじ目線の高さから、或いは見下ろすかたちで彼らの攻防を見守ることになる。

原作のフレンチクォーターの一角のぼろ住居の、みっしりじっとりなかんじはあまりない。

Staley (Ben Foster)とStella (Vanessa Kirby)の夫婦が暮らすその住処に、Stellaの姉のBlanche (Gillian Anderson)がひとりよれよれと転がりこんでくる。
姉妹の実家はかつて裕福な地主だったが、姉のやつれようからすると、全部売っぱらってすっからかんのご様子。  でも態度だけは高慢でおしゃべりで鼻についてべたべただらだら酒びたりで、そのくせ愛ばかり求める彼女のステイは夫婦の間にも姉妹の間にも波紋を起こして、やがていろんな修羅場を呼んでくる。

全てを失ってもなお愛にしがみつこうとするBlancheと、そこから更に奪って搾りとろうとする野卑で野蛮なStanley、そんな彼を憎みつつも彼に支配され、姉を庇いきれないStella、この象徴的な三者の三つ巴の闘い - としか言いようがない - がぐるぐる回る舞台上で執拗に反復され、その挙句に狂気に堕ちるBlancheと、それでもやはり残るものは残り、伝染するものは −

このテーマ設定は原作が書かれた当時よりも間違いなくアクチュアルに、というか単により多く曝されるようになっただけかもしれないけど、すぐそこにあるやつで、「欲望」という名の電車に乗って「地獄」という名の電車に乗り換えて6つ目の角にあるはずなのに決して辿り着けそうにない「極楽」、みんなが知ってるのになぜ、なお。

皮膚の裏側までキズだらけトゲまみれのようなBlanche - Gillian Andersonと全身分厚いゴムの筋肉とタトゥで覆われているようなStanley - Ben Fosterの絡み、特にふたりが闇のなか最後に対峙する場面の殺気はとんでもなくて、あれ、客席からみたら格闘技のように見えたのではないか。

音楽はこの作品のために作られた伴奏もあるのだか、決定的な場面では曲が鳴る。
PJ Harveyの”To Bring You My Love”、Chris Isaakの”Wicked Game”、ラストにはCat Powerの”Troubled Waters”が。 そして吼えるようにSwansの強烈な轟音。
なかでも愛欲と憎悪、野蛮の間で鳴り渡るPJの曲のはまりようときたら。

カメラは定点ではなくて複数、基本は喋っている人物に寄っているのでどうかしら、だったのだがあんまし気にはならなかった。 この作品の場合はこれでよかったけど、劇作の内容によるよね。
どちらにしても映画の画面を見るのとは全然違う経験。

次は5月の”Of Mice and Men”だね。 これはぜったい。

[log] Singaporeそのた - February 2015

まだ一週間前のことだというのに、あんまし思いだすことができない。
低気圧ひどいし、粉が目を直撃してくるのでなんのやるきもでないし、やること多すぎやしないか。

行きの飛行機は深夜0時の搭乗だったので映画みないでそのままぐーぐーねた。
でも着陸1時間くらい前には目覚めてしまい、なんか見たいのあるかなーと思って、久々に “You've Got Mail” (1998) でも見てみよう、と。

ストーリーはどうでもよいとして(あれこれ言わなくたっていい、てことよ)、いまモデムのぴーひゃら音がわかる若者とかいるのかしら、そもそもモデムって死語かしら、とかAOLのブラウザなつかし、とか、この頃はスタバの扱いなんてこんなもんだったのよね、とか、結局このあと大規模書店みんな、Amazonに負けちゃって堅めのインディー書店のほうが生き残っちゃったねえ、とか、いろいろ感慨深かった。
この作品て、”The Shop Around the Corner" (1940)の伝統を正しく継承した文通ラブコメの最後の姿になったのかしら、SNSの時代以降、こういうのはもう、いよいよ成立しなくなったのかしら。

木曜の晩ごはんは、海沿い(East Coast?)でカニたべた。ブラックペッパークラブとチリクラブ。
ぶっ叩かれてブツ切りされたでっかいカニが黒胡椒ソースとかチリソースとかにべしゃべしゃにまぶされて出てきて、ソースはきれいにシャツに飛び散ってくれやがって。 そりゃおいしくなくはないけど、こんなにごつくでっかく立派に育ってばりばりに硬い甲羅もできてたのに、こんなふうにバラされてチリソースにまぶされるのってとっても屈辱だろうなあ、て思ってしまって集中できない、ていうか身をほぐすのに集中するとそういうことばかり頭に浮かんでくるのだった。

金曜の晩ごはんは、どこだかよくわかんない住宅街みたいなところでアメリカのBBQを。
St Louis Pork Spare Ribsとかがあって、あまりに普通にあたりまえにアメリカのBBQとかBafflo wingsがどかどか出てきて、聞くとお肉ごとアメリカから輸入しているのだと。 というわけでアメリカのほうにホームシックになってしまうのだった。

土曜日の昼ごはん - 映画を見る前 - は、映画館の対角線反対側のION Orchardの地下街にあった御寶粥麺専家(Imperial Treasure Noodle & Congee House)ていうとこでひとりお粥と皮蛋。 食堂街でここだけ混んで並んでいたので入ってみたらやっぱりおいしくて、ついでにエッグタルトも戴いた。

映画の後は、タクシーに乗ってBotanic Gardensに行った。 Orchid Garden以外は無料で、歩いているだけで熱帯系の変な植物、だけじゃないいろんなのが次から次に現れるので飽きない。 Ginger Gardenで、数台のカメラが這いつくばって数メートル先のちっちゃい何か(動いているようだったがちっちゃすぎてわからず)を撮ろうとしていて、彼らの背後でなにかとっても不謹慎なことをしたくなったが、がまんした。
それにしても、New YorkのともBrooklynのともKewのともちょっとずつ違うもんだねえ。
(そりゃそうか、ひとんちの庭だってぜんぶ違うしね)

陽射しが強くなかったらもう少しうろうろしたかったのだが、5時過ぎにタクシーでもどった。
帰りの便は夜の10時発で、映画のリストだけは3月のに更新されていて、”Horrible Bosses 2”があったのでこれだけみる。

Nick (Jason Bateman), Kurt (Jason Sudeikis) , Dale (Charlie Day) の3人はもう上司に縛られるのまっぴら、と自分たちでベンチャー立ち上げて独自開発のシャワーヘッド(シャンプーもコンディショナーも自動で出てくる... )を売り出そうとしていて、そしたらある会社がすごいオーダー入れてきたので舞いあがったらそこの経営者(Christoph Waltz)も息子(Chris Pine)もひでえ奴らで、あたまきて息子を誘拐してやれ、とか言ってたらファザコンの息子もその計画に入ってきて。

かつてのBossたち - Kevin Spaceyも獄中からあれこれ言ってくるしJennifer Anistonもちゃんと出てくるし、他にJamie Foxxなんかも出てきて、キャストだけはやたら豪華で、でもブラック上司の話とは関係ない、ぼんくら3人のどたばたでしかなくて、でもそこそこおもしろいからいいかー、程度。 めちゃくちゃお下品な言葉を吐き続けるJennifer Anistonさんがたまんないの。 あとChris Pineのしょうもない崩れっぷりと。

こんなもんかしら。 もう当分シンガポールはいいかも。

3.03.2015

[film] Kingsman: The Secret Service (2014)

28日の土曜日ごご、仕事は午前で終って、ごごはどこでどう過ごすべきか。飛行機が飛ぶのは晩の10時。
午後いっぱいシンガポールの街中をうろうろしたら熱射病になりそうな気がしたので、映画を見ることにして、Shaw Theatres - Lido Cineplexていうとこにタクシーで行ってみた。 伊勢丹が入っているビルの5階とかにあるシネコン。
このShawって、あのShaw BrothersのShawなの?

コミック原作のMatthew Vaughn新作なら、眠くなることはないじゃろう、て。
いやー、ふんとバカみたいでおもしろかったー。

冒頭、Dire Straitsががんがん鳴る中、中東で人質救出劇みたいのがあって、それに失敗してあるスパイが死んじゃって、その遺族を訪ねたリーダーのHarry (Colin Firth)が彼の息子にメダルみたいのを渡して、なにか困ったらここに連絡するんだよぼうや、ていうの。

で、そのガキ - 'Eggsy' (Taron Egerton)は成長して町のチンピラになって警察にお世話になったところで電話したらHarryがやってきて、Kingsmanていうスパイ組織に誘われ、そのまま訓練施設に送られて、候補生達とサバイバル特訓を経て一人前のスパイになるまでと、Samuel L. Jackson率いる悪の大富豪組織の世界征服を阻止すべく対抗するKingsmanの戦いを描く。

Kingsmanていうのは第一次大戦の頃からある英国紳士の伝統を重んじる私兵組織で、でも残っているのはじじいのArthur (Michael Caine)とHarryとMerlin (Mark Strong)くらいで、でもお金はいっぱいあるので武器とか兵器とかすごくて、訓練もなんかめちゃくちゃなのだが、とにかくEggsyはサバイバルして、悪との戦いに加わることになる。

“Kick-Ass”がヒーローとは何かという問いかけを親子鷹とぼんくらの成長物語のなかに冗談まじりに、しかし真摯に問うたのと同じように、いかにも英国的な師弟愛のなかに紳士とは、スパイとはなんぞや、を追っかけて、でもとにかく最後は痛快かつ爆裂などんぱちがくるのでそんなのどうでもよくなる。

“Kick-Ass”のちびっこ殺戮を遥かに凌ぐスケールで、”The King's Speech”の吃音の王様Georgeが蹴って殴って刺して撃ちまくって殺しまくるのとか、セレブ連中の脳天花火大会とか、あそこまでやってくれるのなら文句ないの。 英国紳士もくそもないのよ。

あ、パグ好きは絶対みるべし。

3.01.2015

[film] Fifty Shades of Grey (2015)

シンガポール2日め、27日金曜の晩の9:30に見ました。Cathay - Cineleisure Orchard ていうとこ。
ホテルの近所に映画館があったわけではないので、自分で探してタクシーで行って戻ってなかなか面倒だった。

この映画、日本でもやっているわけだが、ボカシ問題でたぶん頭きて集中できなくなってしまうだろうから、海外で見ようと - シンガポールではR21指定だし。 座席指定で20分前にいったらほぼ満席でびっくりした。
シアターはTHXとDolbyばりばり、音はすんごくよくて、 お客さんのマナーはあんまし - アメリカとおなじような。

原作は読んでいない、けど"Twilight”からの派生モノならたぶんだいじょうぶ。

ストーリーとかはいいよね。
ぼんやりした英文学専攻女子学生のAnastasia Steele (Dakota Johnson)が大富豪のChristian Grey (Jamie Dornan)と出会って、Greyは不思議とあれこれ寄ってきて、これは愛なのかしら、と思っていたらぼくは恋愛はしない、とか言ってある契約の話を持ち出してくる。

“Twilight”が典型的な少女漫画目線で本来おどろおどろの吸血鬼モノをソフトにドリーミィに再構築してみせたのと同じことを、SMモノに対してやっている。

であるからSMモノで提示されがちの情念とか業とか限界越えみたいなこと(憶測だよ)は、すべて契約条項のなかに明文化されていて、しかもNegotiableであると、さらにDue diligenceまであると。これなら初めての(でも英文学専攻なのよ侮らないで)わたしでもだいじょうぶかも、になるに違いないのだが、こんなの作ったり、部屋とか道具とか用意したりする余力があるなら、そういうサービスのとこ行けば使えば、とは言うまい。

というわけで、“Twilight”に叩き込んだつっこみは殆どそのまま適用可能なのだが、画面も音楽もとっても控えめに綺麗できちんとしているので、ま、いいか、になるの。
特にDakota Johnsonさんは見事で、Jamie Dornanさんはもうちょっと堂々としててもよかったかも -  Ryan Goslingとまでは言わない、Robert Pattinsonでよかったのにな。

でも”Twilight”の世界が実現した怖くない吸血鬼モノ、という建付けが今回の、やらしくないSMポルノというものへの適用において正しく機能しているのかというと、どうなのだろうか。 「血を吸わせろ」はまあ冗談ですんじゃうことが多いけど、「いいからやらせろ!」は「…」になってしまいやしないだろうか、と。 
愛は血(族)を超えられるのか、というテーマはわかりやすいけど、SMて血というより気質みたいなとこだから、難しいよね。(そこでなにが? と聞いてはいけない)

それにしても、この内容と画面でどこをどうボカすというのか? あたまおかしいんじゃないか。

あと、中国語(たぶん)の漢字の字幕が付いてて、日頃の習慣でつい字幕のほうも追ってしまうのでなかなか混乱した。漢字ってところどころわかっちゃうところもあるし。 Mr.Greyは「格雷先生」で、Anastasiaは、「安娜塔希姫」なの。 そこはいいとして、場内爆笑だった契約条項のネゴのシーン、字幕で漢字で出てくるものがなかなかびっくりで集中できなくて困った。

続編(あるかどうかも知らない)は”Twilight”の狼くんに相当する超M男がライバルとして現れるとか、Anastasiaが対案としての「純愛」契約を持ちこんでくるとか。 Greyのすべてを握っているTaylorが実は、とか。

Dakota JohnsonさんのSNL見たかったよう。 ぜったいおもしろかったはず。

[film] Begin Again (2013)

22日の日曜日の昼間、新宿でみました。 「はじまりのうた」

全編NYでロケした音楽もので、Keira KnightleyとMark Ruffaloが主演してて、Catherine Keenerも出てて、プロデュースにJudd Apatowも参加、ときたら見ないわけにはいかない。

ダウンタウンのライブ小屋のアマチュアナイトで強引にステージに上げられたGretta (Keira Knightley)の弾き語りを聴いた酔っ払いのDan (Mark Ruffalo)がこれだ、こいつだ、て喝采するところから始まってふたりが出会うまでの経緯と、ここからのふたりのリベンジを含めた再出発を描く。

もともとGrettaは彼のDave (Adam Levine)と一緒に音楽を作っていて、そのレコーディング契約でNYにやってきたのだが、会社が必要としていたのは彼のほうで、こいつはプローモーションで西に行ったときに別の女の子とできちゃったので、彼女は同居部屋を飛び出して旧知の路上ミュージシャンのとこに転がり込んで、Danはかつては名の知れたA&Rマンとして90年代(たぶん)にレーべルを興したものの最近の業界のやりかたについて行けずに飲んだくれてて、会社のパートナーと大喧嘩して辞めちゃったところで。

こうして、過去をすっかり清算しすっからかんで路上に迷い出てしまったふたりは、いろんなツテでミュージシャンを集めてNYのいろんな場所で野外ライブレコーディングしよう、て大所帯のバンドごと駆け回って、そうしてできあがったデモをどうしようかー。

風のように集められたいろんなのを再び風のもとに散らして、さて。 
という現代の都市の夢物語を”Once” (2006)の監督はものすごい気負いも泣きも感動もなく、あっさり風味のラブコメのように仕上げていて、それ故にこれってひょっとしたら… みたいなかんじすら漂うところはさすが。 “Once”みたいにミュージカルにも転用化。
でもこれ、Tokyoではぜったいに起こらないよね。

Keira Knightleyさんは、あの役にしては線が細すぎやしないか、とちょっとだけ思うけど、歌も素敵だし、Mark Ruffaloさんはぷーんと匂ってきそうな小汚い怪しい中年男を見事に。
Danの娘Violetを演じるHailee Steinfeldさんは、”True Grit” (2010)の女の子なのね。

Grettaの彼役のAdam Levineであるが、わたしはMaroon 5を冗談バンドとしてしか見たことがなくて、彼の背後に終始Will Ferrellの影がちらつくものだから、おかしくてしょうがなかった。

朝ふたりが会う場所がSchiller's Liquor Barだった。 ほんとに朝食にはよいところなの。
あと、ちらっと映ったのはCongee Village ?   数少ないお粥場なの。