2日の月曜日の午前、雪みたいな霙みたいのがぼたぼた落ちてくるなか、久々に(12年ぶりくらいかも)E.A.T.で朝食をいただいて、そのあとにMetropolitan Museumで見ました。
この日の仕事は午後からで、後発部隊はそこ目がけて月曜の午前に上陸することになっていて、でもこの陽気なら飛行機着陸できずに仕事つぶれていちんちふらふら、というのも夢想(...そんなのばっかし)したのだが、やはりぜんぜんうまくいかない。
週7日オープンになった(昔は月曜は休みだった)Metに行くのは初めてで、こんなに腐れて凍える陽気の月曜日、エントランスの階段のところには鳩さん達が群れて固まって震えていて、ヒトはぜんぜん群れていない。 これなら美術館の廊下を手を繋いで駆け抜ける(だれと?)例のやつだってできる、のだったがとにかくしーん、と静まりかえっていておそれおおいかんじ。
見たかった展示はひとつだけ。
セザンヌが描いた妻 - Hortense Fiquet (1850 - 1922)の肖像画、20年以上に渡って描かれた29点のうち、24点を一箇所に集めて見せているやつ。 なんかねえ、おもしろいのよこれ。
どの肖像の彼女もちょっと中心線から傾いて頭も斜めで口ひんまげた仏頂面で、ぜんぜん楽しくないふうに、なにやってんのあんた? ていう顔でこっちを見て固まっている。 そういうのが24点。
もちろん、有名な"Madame Cézanne in the Conservatory" (1891) とか "Madame Cézanne in a Red Dress” (1888–90)はあるし、赤ドレスのシリーズ(という訳ではないらしい)がずらりと並んでいるのは壮観なのだが、なんだろこれ、ておもうの。
ルノワールやマネが描く女性の肖像はわかりやすい。 そこには画布のむこう側とこちら側の間の、見るものと見られるものの間の生々しいやりとりが光や曲線のなかに再生・投影されている。
セザンヌは彼女に手紙を書いたりしたことはなかったそうだが、彼は彼女のことをどう思っていたのか、何度も何度も絵の具を画布に置いたり擦ったりしながら自分の妻についてなにを考えていたのか、ここにはそういうのの一切がない。見えない。
いちおう本棚の奥から30年ぶりくらいにガスケの「セザンヌ」(求龍堂版)をひっぱりだして見てみたのだが、妻についてはなんも書いてない - 「プロヴァンス」の章に『恋愛をした。息子が生れた。結婚をした。』てあるくらいなの。
そこには愛おしさからも欲望からもどんな感情からも離れた、人の形をした外郭とその陰翳を形作る色と線の層があるのみで、まあ、それこそが網膜の反対側で「セザンヌが」「存在」させようとした世界であることは間違いないのだし、その一貫したありようは確かにひとつの「世界」なのだといおう。
でもあれか、あたしゃ Mont Sainte-Victoireとかリンゴとおんなじようなやつなのか? とか。
(そうなのじゃよ…)
なんでか異様に分厚いカタログに込められた熱には感動したのだが、ちょっと考えよう、ということで買うのはやめた。
これの後、折角なので他もふらふらした。 館内から見る雪景色がすてきで、モダンのコーナーで久々に”Thérèse Dreaming” (1938)の猫をみて、あと企画展でやっていた”Wolfgang Tillmans : Book for Architects”ていうのをみた。
真っ暗な室内で直角に交差した2面のスクリーンそれぞれに世界中で撮られたいろんな建物の写真が自動投影されていくやつで、ところどころ退屈、ところどころ新しくて古くて。
このあと、渡米組は無事上陸してしまったことが判明したので、ちっ、とか言いつつバスでホテルに戻った。 そいでバスは当然のようにぜんぜん来ないしさあー。
2.11.2015
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