昨年12月の23日、シネマヴェーラで「性盗ねずみ小僧」のあと、イメージフォーラムに移動して見ました。
曽根中生 → ポーランド映画祭のパターンが2回続いた。 どちらも束縛と不安の間をぐるぐると。
「結晶の構造」。英語題も“The Structure of Crystal”。
真っ白の凍える原野で男女ふたりが待っていると車が現れて、降りてきた男がふたりと再会のハグをしている。 彼はハンサムで快活でとってもよいひとっぽい。
待っていた男女は夫婦らしいJan (Jan Myslowicz)とAnna (Barbara Wrzesinska)で、やってきたのはMarek (Andrzej Zarnecki)、JanとMarekは大学の同窓でかつて同じ研究室にいたらしいことがわかる。
Janは自宅のそばに自製の測候所みたいのを作ってこつこつ観測と研究をしていて、Annaはそこの学校の先生をしていて、家にはおじいさんがいて、犬と猫と鶏もいる。 家はがたぴし寒そうだし電気も不安定だし家計のやりくりも大変そうなのだが、Marekを一生懸命もてなして、休みの日はマーケットに繰りだしたり、凍えるけどのどかで楽しい田舎の生活を一緒に過ごす。
Marekは学会でアメリカに行ったり自身の華々しい研究生活を紹介しながら、どうやら優秀な研究者だったJanを都会に連れ戻しに来たらしい。 機関の上も君に是非来てほしいと言っている、とか。
でもJanは揺るがずにここの生活を選んで、Marekもそれに納得してひとり帰っていくの。
振り返ってみればストーリーとしてはこの程度なのだが、最初のほうはいつ氷上の殺人が起こるのか、ふたりの関係が崩壊しやしないか、ひやひやどきどきで、そういう(それだけではない)緊張を孕みつつ進んでいくドラマはすばらしく、決して田舎生活ばんざい、みたいなものにはなっていない。 そこには彼らが科学者として取り組む対象である「結晶の構造」のように内部と外部の拮抗のなかに見出される規則性、見出された規則性があって、そこに依拠する生、生活のありようが提示されていて、それは84年の「太陽の年」でも反復されることになるテーマだったように思う。
あの映画で試されたのは「愛」の領域で、人の生を生に繋ぎ留め、生たらしめるその背後にあるのはどういう構造なのか、時間(歴史)なのか、とか。
この映画で語られる「結晶構造」については、ドゥルーズの「シネマ2」の第4章「時間の結晶」のなかで、「現働的イメージと潜在的イメージの識別不可能性」というかたちでより詳しく書かれているのよ、とこれは自分向けのメモ。
1.03.2015
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