1.27.2015

[film] Macbeth (1948)

17日の土曜日ごご、シネマヴェーラでみました。

ちょうど、NYのFilm Forumでは元旦から2月の頭まで”Orson Welles 100"ていう生誕100年の回顧特集上映が組まれていて(オープニングは"Citizen Kane"の4Kリストア版。みたいー)、しかも現地16日の晩は、これとおなじ"Macbeth"のScottish version(108分)が上映されてて、Q&AのゲストはWellesの娘さんのChris Welles Federさん(映画ではマクダフの息子役で出ている)だという。 なんかどうでもいいかもしれないけど、無視できない共時性を感じてしまったの。

ちなみにFilm Forumの特集ではアメリカンアクセントの英語でオーバーダブされた89分のU.S. release versionていうのも上映されている。 見比べたいな。

荒野で3人の魔女がうにゃうにゃ運命だのを吟じているところから、シェイクスピアの原作には忠実なふうで、見通しの悪いもやもやした視界、閉塞感たっぷりの至近距離の間に踏ん張って立ち、ひとり熱弁を振るって妄執妄想にかられ、ほぼ自動で孤立して破滅していくMacbethの存在感がすごい。カメラはそんなMacbethの自撮りであるかのようにコントロール可能な距離範囲を保ちつつ、突然バンクォーの亡霊が現れるとことか妻の投身(これって原作にはないよね?)のところで、決定的な距離と救いようのない断絶とを表に出してきて、こういうのを示すことができるのはやはり映画だからだねえ、とおもった。

ものすごいスペクタクルとか、すべてを一瞬で変えてしまう魔法の仕掛けや瞬間があるわけではなくて、Macbeth = Wellesの狂信的な言葉と身振りがあらゆる空間を作り、拡げ、自らをその中に縛りつけていく、そのありさまをMacbethと真正面から向き合わされて見て聞いていく体験。これってシェイクスピアをきちきち読んでいくのとほぼおなじ、というかそれ以上の没入を強いてくるのだった。

こんなの、演技へたくそだったら絶対見ていられないのだが、このMacbethはほんとすごくてやかましくてうざくて、誰が見たって首斬り落とさないことには気が済まなかったのだな、というのがようくわかるのだった。

いま製作中(? もうできたの?)の”Macbeth”の主演ふたりは、Michael FassbenderとMarion Cotillardで、これはこれで楽しみなのだが、ここでのOrson WellesはJack Blackに見えてしまうのだった。


SWANS行けなかった。 今年さいしょのお先まっくら…

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