2日の昼間、京橋から流れてアテネフランセで見ました。
特集『フレデリック・ワイズマン・リローデット!』からの1本。『 最後の手紙』
コメディ・フランセーズの女優、Catherine Samieの一人芝居をフィルムに収めたもの。
ワイズマンのドキュメンタリーの流れでいうと、芝居が完成するまでの舞台裏やそのプロセスを追うのだと思うが、この作品は、約1時間、完成された芝居そのものを忠実に追う。 登場人物も女優さんひとりで、語りのなかに出てくる兵士などは全てシルエットとして背後にあるのみ。
Vasili Grossmanの小説『人生と運命』(みすず書房からでっかい3巻本が出ている)の一章が原作で、元々芝居用の脚本をワイズマンが書いて、舞台で演出までしていた。
ナチスのウクライナ侵攻ですべての望みを断たれたユダヤ人の老女医が前線にいる(同様に絶望的な状況にあると思われる)息子に宛てた手紙を口述する、その口述を記録する媒体としてこのフィルムはあって、でもこれは単に記録することを目的としたビデオレターとは少し違って、彼女の言葉が、表情が、その愛と涙が、手紙に生のすべてを注ぎ込む生々しさと悲しみが、それを見る人々にできるだけ正確に伝播されることを目指している。
それを伝えるために、彼のドキュメンタリー撮影の手法 - 表情や目の動き、喋りをまるごと、丁寧に追うこと - はフルに活用されていて、だから、これは、厳密にはドキュメンタリーではないかもしれないが、(被写体とカメラの間に入りこみそうなもの -オーラとか聖性とかも - すべてをとっぱらって)ドキュメンタリーとして撮られた芝居ぜんぶで、その芝居はとてもお芝居とは呼べないような圧迫感と迫真性をもって迫ってくるものだから、それをフィクションだ、と呼んでみたところでそれがなにか? となる。
原作(の脚本)を読んだわけではないが、これとおなじ濃度と密度で書かれた「最後の手紙」が1や10や20どころか、100も200も1000もあったであろうことは容易に想像できて(なんでだろうね?)、それを我々は「歴史」と、決して忘れてはいけないものと名付けて、何度でもその封を、その扉を開くの。 その限りにおいて、それは決して「最後の手紙」とはなりえないのだが、それが、100年過ぎても「最後」たりえないことの悲しさと悲惨さを、歴史の救いようのない野蛮さを、改めて知るべきなのだ。
というようなことをワイズマンは女優の語りを正面に据えて、渾身の力でこちらにぶつけてくる。
その強さにおいて、これまで知っているワイズマンの中でははっきりと熱い作品だった。
コメディフランセーズのお芝居って、BAMで2回くらいしか見たことないのだが、とにかく金縛りにされるんだよ。 あの力はほんとにすごくて、この作品にもそれがくっきりと。
3.12.2013
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