11日の土曜日、次郎長の第四部を見たあとに六本木で見ました。
次郎長の第四部は、不義理を働きそうになった三五郎に「生まれたときは別々でも死ぬときは一緒に死のうじゃねえか」て大政が言って、売られた喧嘩をきちんと買うべく全員横並びの勢揃いで束になってやってきた連中を思いっきり蹴散らす、そんなラストがしみじみ気持ちよくて快感の作品だったのだが、こっちは同じ群像劇でもぜんぜんちがうわ。 (ちがうだろ、そりゃ)
20年代から70年代まで、米国の警察機構のおおもとを作り上げ、その権力の中枢にあったJ.Edgarの一代記。
年老いた彼が自伝を口述筆記する、その内容に沿うかたちで行き来する過去と現在、彼の周囲にいて彼を支えた人たち(母、秘書、友人)との関わりを口述筆記(自己目線)の中心とその外側、の二層 × それぞれの時間のなかに描く。
J.Edgarは、ものすごい悪玉とか妖怪、のようには描かれてはいない。
「男なんだから強くなりなさい」という母の言葉に導かれて泣きながら自身をごりごりと改造し、アメリカの「正義」のためにFBIを立ち上げ、光も闇もぜんぶ取りこんで自分の元に置こうとする彼。
でも彼の - 彼だけではなく、彼のまわりの思いはなにひとつ成就されない。
彼の母への強い愛は、最後まできちんと応えられなかった(ように見える)し、秘書にプロポーズしてもあっさりふられるし、セレブと結婚しようとしてもClydeから怒られるし、Clydeの思いはずっとプラトニックなままだし、仕上げた自伝は嘘であることがばれてしまう。
仕事では完璧にがちがちの崩しようのない機構を(「アメリカ」を)作りあげたものの、リンドバーグ(の子供)は救えなかった、その容疑者もほんとうのところはわからない、その落着きと後味の悪さ、その反対側で、彼らが作り上げて強引にリリースしたゴシック太字の「アメリカ」。
ここには"Gran Trino"や"Hereafter"にあったふんわり天上と繋がっているかのような軽さはない。
全ては"J.Edgar"という固有名と、彼の眉間の皺にぎゅううっと収斂していく。 「だってママが言ったんだもん」と。
「ねえねえ、しあわせだったの?」 という問いには答えない。 とりあえず。
Tom Sternのカメラがとにかくすんばらしい。
J.Edgarのねっとりした道行きをほとんど笑うことのないその表情と、象徴的に用いられるハンカチ、固く冷たく固まった(彼の、母の)死体、それらにぎっちりと収斂させていく。
"Mystic River"のあの黒い河の流れが、そのまま大統領就任パレードの車列に重なっていく気がしたの。
2.14.2012
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