2.14.2012

[film] Olafur Eliasson : Space is Process (2010)

日曜日、ユーロスペースの「トーキョー ノーザンライツフェスティバル 2012」、というのから2本。

どうでもいいことだが、北欧系みたいなかんじのひとがいっぱい。
これがブラジル映画祭になると、ラテン、みたいなのひとたちでいっぱいになる。 
にほんじん、いろいろね。

オラファー・エリアソンの作品については、この作品のメインで出てくるNYの滝のも含めて、ふつうに押さえている程度だった。
特に好きでも嫌いでもない、きれいだなー、たのしそうだなー、くらい。

タイトルでもある"Space is Process"も含めて、もんのすごくあたりまえのこと - 見るひとの作品へのポジション、関わりかた、関わる時間のありようによって、作品は変わる、世界も変わる (超省略)-  ということを言っている。

でもこんなことさあ、50年代よか前からずっと言われていることだよねえ。
もちろん、それを実現するための仕掛け - テクノロジーとメディウムは今のもんなのかもしれない。
けど、そんなのアートの本質とはなんの関係もないし、それを新しげな「なにか」として提示されてしまうことにはどうも違和感がある。

いやいや今のアートはそういうのなんですよ、そうなっちゃったんですよ、と言われたらああそうですか、なんだけどね。

でも、最後のほうで彼がもっともらしく言っていたInclusiveなResponsibilityという考え方については、ううむ、だった。
そこまで言っちゃうのか、と。
たぶん、アートの社会的責任、みたいなところを言いたかったのかもしれんが。

彼のようなアートの形態(お金がいっぱい流れる大規模なやつ)のなかでこんなことを言い始めると、このResponsibilityを形作るヒエラルキーの最上位にくるのって、スポンサーとかコレクターとかディーラー(画商)になってしまいやしないか、と。
それでいいの? 結局のところキャッシュがじゃぶじゃぶ流れるとこに流れてみんなうはうはで、「観客参加型」なんて集金のためのただのお題目じゃねえの? とか思ってしまうわけだ。 (←要はメジャーで大規模なやつが好きではないらしい)

それでいいのです、こういうことを通して環境も社会も活性化するのです! なにがわるいのですか? なのかもしれない。
でも、そんなら、みんな大好きスポーツイベントでもやってりゃいいんだわ。

映画のなかでプロジェクトXしてがんばっていたイーストリバーの滝プロジェクト、あのアートを通して世界は変わった? あれって見る人の意識とか世界との関わりかたを変えたと思う?

あの滝が巻きあげる海の塩のせいであの辺の川べりにあった樹はみんな枯れてしまったんだけど、それでもやった価値はあったと思う? (ひょっとしてそっちのほうの「気づき」をもたらしたかったのか?)

滝の後でリーマンショックがあって、もう$15milものアートプロジェクトにお金出すひとなんて誰もいなくなっちゃったと思うけど、それでもやっていく? やる価値あると思う?

Occupyのあれって、どう思う?

とか、聞いてみたいところだわ。

本人が真面目で実直そうなひとだったので、がんばってほしいところなのだが、なんかあまりにも無邪気そうだったのが気になったのよね。

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