「ノーザンライツ...」の続きで、Benjamin Christensenによる1921年の「魔女」を。
サイレントで、柳下美恵さんのピアノが伴奏でつく。
モダンアートの世界から一挙に古代まで遡ってしまう。
これはおもしろかったー。 おおあたり。 しかしこれが公開禁止になったのか。
全体は7つくらいの章に分かれていて、本を読むかんじで進んでいく。
最初に古代のひとの世界観・宇宙観をざーっと紹介して、そのなかで昔からある悪魔とか魔女の起源とか位置を確認する。(おもに文献資料が中心)
それから悪魔や魔女がどういう姿かたちをしているのか(しているとされてきたのか)、を実写で示す。 これが適度にリアルで、うそっぽくなくてよいかんじ。
それから悪魔や魔女がどんなふうに人々をたぶらかしたり、悪いことしたりするのかを説明する。
僧侶を誘惑するには、猫の糞と鳩の心臓をこねて媚薬を作る、とかそれよか強力なのが欲しかったら雄の鳩を5月に煮詰めるべし、とか、いろいろと実用的な情報も教えてくれるの。
そこから中世の社会で、魔女はいかにして魔女になる(される)のか、というのと異端訊問の仕組みがでてくる。
ここんとこがこわい。 悪魔や魔女が、その姿や行状がこわいのではない、と。 ほんとにこわいのはそれを生みだす仕組み、システムなのだ、それが社会のなかで機能して、その機能が「正しく」動作して維持されてしまうことなのだ、という描き方をしている。
そして、このシステムが年間数万という「魔女」をつくって、それを火あぶりにしてきたのだ、と。
ぶくぶくの僧侶・審問官と、その犠牲になる老婆や娘さんの演技のまじですさまじいこと、おっかないこと。
更に、そこから現代(映画の作られた1920年代)に飛んでしまうのもすごい。
たしかに魔女も魔女狩りも現代ではなくなったかもしれない、けど、社会にとって不合理だったり、都合のよくない挙動や現象を「魔女」的ななにかとして村八分したり抑圧したり「病気」 - ヒステリーとか神経症とか - にして「治療」しようとする仕組みそのものは、あんま変わっていないんじゃないか? と。
そうだよねえ。 この映画から90年経っても、そんなに変わってはいないのよ。 このあたりは。
あとは、中世の拷問器具あれこれの解説も楽しかった。 見るぶんには。
柳下さんのピアノは見事にはまっていて素晴らしかったのだった。 が、それ以上にはまりそうな音楽も、あるところにはある。
というわけで箒にのって吉祥寺のほうに飛んだの。
2.14.2012
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