5.02.2011

[film] The Ballad of Genesis and Lady Jaye (2011)

朝いちでGenePのドキュメンタリーを見て、晩はノイズで締める。 
ちゃんとしたおとなの、正しい連休の過ごしかたと言えよう。

毎年恒例のイメージ・フォーラムフェスティバル、今年も新宿からシャトルに乗って、面倒な場所に分け入っていって、座り心地わるい椅子で。  
あれ? 去年はどうしたんだっけ、と思ったが米国にいたのだったね。

最初にPVだと思うが、同じ監督によるGenePの"Papal Broken-Dance"。80'sふうエレクトロに乗って、リングの上で複数のレオタード人がくんずほずれつ。
New Orderの"True Faith"のクリップを下世話に下品にしたかんじというか。

本編は、Genesis P-Orridgeの最近の活動を伝える、程度なのかと思っていた。
基本なんでもアートにしてしまう方なので、生涯のパートナーを得て云々、とか言われてもまたネタなんでしょ、とか。 だから、へたしたらげろげろ阿鼻叫喚のとてつもない修羅場もあったりして、とか覚悟していたのだが、そういうもんでもなかった。 

それはタイトル通り、GenePとLady Jayeのバラードで、それはJohnとYokoのバラードと同じように、大通りのど真ん中を堂々と、しかしあっさり感動的にこちらに迫ってくる(←まだ戸惑い中)、ドキュメンタリーなのだった。

NYのSMパーティーの後で彼(まだ、彼)は彼女と出会って、お互い運命のひとだと思って、結婚して、pandrogynousのコンセプトの元、おなじ身体顔かたちを共有すべく、性を変え、双方に豊胸と整形をして一緒の時間を過ごす。 

すごいのはそこから。 70年代からの彼の活動 - Burroughsとの交流、彼に紹介されたBrion Gysin、更にCOUMからTG - Industrial Recordまで、最初からぜんぶ方法論として一貫していたことがわかってくる。 
いろんなパズルの断片が突然、ぜんぶきれいにはまるみたいに。
そういうことだったのかー、と。 ようやく。

インダストリアル・ミュージックの思想の根幹は、うんと圧縮していうと、「脱・肉化」ということだと思うが、70年代からずうっと、そのサバイバルのための(と明確に語られる)アートフォームは、様々な展開をしていって、21世紀に入ったあるところで、ミューズとしてのLady Jayeが現れた、と。 
できすぎている気がしないでもないが、アートというのはそういうもの、ということをこれ以上解体不可能な地点まで追いつめていって示しているように思えた。

そしてそれは、別のかたちの極限 - Lady Jayeの死によって、突然に止まってしまう。
彼女の肉体の消滅によって訪れる、アートの、ひとつのおわり。

インダストリアルの起源を語るところでNINの名前がでたりもするのだが、Johnny Cashの"Hurt"がなんでああも凄まじいものとして聴こえてきたのか、ようやくわかった気がしたり。

他にBatthole SurfersのGibbyさんとかPeachesとかもちょっとだけ出てきます。

最初にTGを聴いたのって、たしか79年くらいだとおもうが、そこから現在まで、死によって区切られてしまったとりあえずの区切りが、ふたり仲良く手を繋いで公園(Central Parkかな?)を歩いていく後姿で締めくくられることになろうとは。
わかんないもんだねえ。

あと、改めてうわーって感嘆したのはGenePの楽曲のポップで美しいこと。”The Orchids”とか久々に聴いたけど、いいのよなー。

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