5.14.2011

[film] Vincere (2009)

今年最初の爆音、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』。

これだけはなんとしても。

とーにかくすごかった。とんでもなかった。あんぐり。
爆音は結構来ているほうだと思うが、そのなかでも相当。

若き日のムッソリーニと出会ったイーダは瞬間で恋に落ちて、財産ぜんぶ貢いで、息子もできて、でも昇り龍の彼はそれどこじゃないし妻子もいるし。
彼を追い回すイーダはやがて捕えられて監視下に置かれ、さらに病院送り~転々と。

こないだ見た『もう一度キスを』が『最後のキス』よか少しだけ弱かったのだとしたら、『最後のキス』でジュリアを演じたGiovanna Mezzogiornoがいなかったからなのだな、と、改めて。
最近だと、"Changeling"(2008) のアンジェリーナと比べても、だんぜん。

ふたりの最初の抱擁の、獣のような咆哮が爆撃音になだれこむ瞬間のとてつもなさに鳥肌がたって、あとはその状態がずうっと続く。波の上に波が来る。

でもその波をドライブするのは彼女の狂気ではなかった。彼女は狂っていなかった。
限りなくまっすぐで聡明で、その愛でもって、自分が会いたいものに会おうと、自分がいるべき場所に向かおうとしただけだった。

記録された歴史の映像と映画のなかの現実がメルトダウンを起こし、我々は遠巻きに見ることしかできない。が、主人公は画面ではなく映写機の放つ光に直に向きあい、ひたすらその場所 - 爆心地に立つことを、(愛の)どまん中にあることを望み、「歴史の証人」たろうと外側にあろうとする姑息なメディアに、「歴史の番人」として背後に立つ政治家たちにこんなの茶番だ、と噛みつき、何度でも逃亡を試みる。

「彼ら」がひたすら隠そうとし、潰そうとし、しかしそれでも放射能のように溢れ、流れていくもの - かつてGena Rowlandが、「とめどなくながれていくのよ」と断言した、あの愛が、激動の時代のなか、炸裂する爆音のなか、絶えず聞こえてくるちいさな鳥の声のように、高い格子の向こうで瞬いていた光のように、そこにある。

それを何故「勝利」と、あの決してハッピーエンドとは呼べない結末に対して、「愛の勝利を」と声高に求めるまでもなく、静かに確信的に「勝利」と呼んでしまうことができるのか。
それは最後のほう、車で送り返されるイーダが、我々に向けてくる静かな眼差しのなかに、はっきりとあるの。

或いは、この映画が映し出す20世紀初のイタリアの総合芸術ー映画、オペラ、クラシック、未来派、ダンス、それら総てが志向し、探究しようとした秘密のなかに、それはあるのだと思った。
そして、ベロッキオのこの映画もまた、そのなかに含まれるほんもんの宝石なのである。

それが、神すらも手を出せなかったあの5分間に、そこにふたりの全てが、この時代と世界の全てが凝縮されてがあったのだということ。

ベルトルッチが”1900”で描き出そうとしたものとの違いをしばらくの間、考えてみよう。

爆音で一週間でもやってくれないかしら。

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