7.14.2025

[theatre] REWIND: Bosnia and Herzegovina

7月5日、土曜日の晩、Kings Crossより奥に行った変なとこにある小劇場みたいな寄席みたいなPleasance Theatreで見ました。

連日の公演ではなく、この日のこの回のみの上演で、昨年はBosnia and HerzegovinaではなくChileのケースを”Rewind”していたらしい。 この場合の「ケース」とは、国や政府が特定の民族や思想をもった人々を拘束、勾留、拷問して最終的に(大量に)虐殺した歴史的に記録されるべき惨事のことで、遺体の検屍をしたフォレンジック・チームの報告を元に彼/彼女に何が起こったのかを”Rewind”しようとする。

上演時間は1時間程、舞台の奥にはコインロッカーのように四角で仕切られた蓋つきの棚が壁みたいに覆っていて、電気ブズーキから打楽器からループからヴォイスまでをひとりで操作していくマルチ奏者の他に4〜5人のパフォーマーがOHPでヴィジュアルも操作したり歌ったりアジテーションしたり叫んだり全員がフル稼働で、演劇というよりマルチメディアのパフォーマンス - ストーリーを語るというよりRewindされた結果をなりふり構わずぶちまける - に近いのかも知れず、これを連日上演していくのはしんどいのかも、と思った。

30年前のこの7月、ボスニア・ヘルツェゴビナで、当時のスルプスカ共和国軍と大統領によって8000人以上のボシュニャク人が虐殺された - これは2つの国際法廷からジェノサイドとして認定されている(と上演後のトークで言及があった)。映画だと拘束される家族の側から描いた”Quo vadis, Aida?” (2020) - 『アイダよ、何処へ?』があって恐ろしくて震えてるしかない。

入り口はひとつの男性の遺体のフォレンジックの結果、彼がどのような状態でなにをされて亡くなったのか、そもそも彼はどこの誰なのか - 確かめる家族もいない - 等が明らかにされて、背後のロッカーの蓋に彼の写真が貼り付けられ、エンディングではその枡目がひとつまたひとつと順番に埋められていく。そしてこの遺体の特定作業は現在も続けられている、と。

科学的手法(フォレンジック)により身元や死亡時の状況が精緻に詳細に明らかになればなるほど、怒りと嘆きのエモーションは暴走して行き場を失って止まらなくなっていく。それはパフォーマンスが喚起するなにか - 広げられた史実を超えて、ただただ恐ろしく、打ちのめされるしかなかった。

上演後のトークはこの件を追っている政治学者の人と現地でずっとフォレンジックを担当している医師の人、今回の劇を作った劇団側の人などが集まって、彼らが口々に語っていたのは、ここまで事態が悪化し広がってしまう前に、なぜ国際社会は何もしようとせず、またできなかったのか、アウシュビッツを経験していてもなお。 そして今も全く同じことがパレスチナで繰り返されようとしている、と。 なぜ?

11日金曜日の夕方、ハイドパークでNeil Youngの前座として登場したYusuf / Cat Stevensも、懐かしく暖かい曲の合間に今から30年前、ヨーロッパの中央で多くの人が殺害されました、と静かに語り、そこから更に”Free Palestine!”を叫んで喝采をあびていた。

“REWIND”と言えば、週末にBBCでLIVE AIDの40周年で当時放映されたライブ映像をずっと流していた。イベント史上空前の出来事だったのかも知れないが、よい話だった、って酔う前になんで未だに国・地域の間の格差も、難民もなくなっていかないのか、検証すべきはそっちだろう、と改めて思った。世の中はどんどん酷くなっている  - 日本の選挙のことも含めてすっかり(ずっと)政治の季節になっている。

7.12.2025

[film] Walker (1987)

7月5日、土曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
7月から8月の2ヶ月間を使った特集 – “Moviedrome: Bringing the Cult TV Series to the Big Screen”からの1本で、でもそもそもこれってなに? になる。
 
“Moviedrome”というのは1988年から2000年までBBC2で放映された「カルト」とカテゴライズされた(されがちな)映画を放映していくプログラムで、88年から94年までAlex Coxが、97年から00年まではMark Cousinsがホストとなり、全207本が放映されて、今BFIに通ってきているような50代の中高年たちはこのプログラムに脳をやられてしまった連中が多いのではないか、と。 で、この特集はここで放映・紹介された当時カルト呼ばわりされていた古今東西の変てこ映画たちを上映していくのだそう。ちなみに特集の初回は放映の初回とおなじ”The Wicker Man (Final Cut)” (1973)。

興味がある人はWikiの”Moviedrome”の項に放映された映画のリストがあるので見てみてほしい。こんなのが不定期とはいえ国営放送でじゃんじゃか流れていたなんてうらやましいったらない。
 
で、Alex Coxが1987年に監督してAlex Coxのホストにより1992年に放映された映画を、Alex Coxの紹介つきで見る。
 
配られた紹介ノートにはAlex Coxが当時番組内でカルトについて語った言葉がある。
 
『カルト映画とはなにか?カルト映画とは、熱狂的なファンがいるものの、万人受けするわけではない映画のことです。カルト映画だからといって、必ずしも質が高いとは限りません。ひどいカルト映画もあれば、非常に優れたカルト映画もあります。興行的に当たった映画もあれば、全くスカスカだった映画もあります。質の高い映画とされるものもあれば、ぼったくりのような映画もあります』 - カルト映画の定義というよりはこんなもんです、くらいのー。
 
登場したAlex Cox氏は、パンクで荒んで怖いイメージかと思ったら全然ちがう、スマートでおしゃれで朗らかに喋る人だった(ちょっとJohn Watersぽい)。
 
ニカラグアで撮影されたアメリカ映画で、原作は”Two-Lane Blacktop” (1971)や”Pat Garrett and Billy the Kid” (1973)を書いたRudy Wurlitzer。
 
1853年、戦地で弾も当たらないし向かうところ敵なし(と思いこんでいる)の傭兵William Walker (Ed Harris)が太平洋と大西洋を結ぶ陸路の権益を狙う富豪のVanderbiltに焚きつけられて内戦状態のニカラグアをどうにかすべく自ら「大統領」を名乗って兵を寄せ集めて進軍を開始するのだが簡単に自滅する、という話を無駄なエモ(婚約者のEllenが亡くなるところ以外)抜きで直線で描いて、いまのニカラグアと同様、誰にも顧みられず放っておかれるばかり、というひどい話。
 
目の前で何が起こっても壊れてしまったかのようにちっとも動じない、そしてそのままあっさり消えていくWalker = Ed Harrisがすばらしく、”Apocalypse Now” (1979)のKilgore (Robert Duvall)のよう、と思ったが、上映後のQ&Aで二本立てを組むとしたら併映は?の問いに監督は『アギーレ/神の怒り』 (1972)と即答していたのでそっちの方なのか。
 
あとは(映像で少しだけ登場する)レーガンの時代のアメリカを、あの当時のあの国の傲慢さを反映したものでもあって、比べられるものではないけど、今の方がよりひどいのではないか、とか。
 
音楽は(出演もしている)Joe Strummerで、この頃の彼の取組みだったのか、ややトロピカルで能天気な音楽が戦場の悲惨さをまったく無視してさらさらと流れていって、これはこれでおもしろい。戦争の悲壮感や悲惨さから遠くあろうとする映画の距離感とうまく合っているような。

音楽関係で他に出演しているのはPoguesのSpider Staceyで、上映前にステージから「Spiderいるかー?」って監督が呼んでいたが、来ていなかったみたい。
 
映画のカルトはおもしろいし歓迎したいけど政党のあれは許されるものではない。ふざけてるんじゃないよ、って怒りを込めてあのしち面倒くさい在外投票に行ってきたりした。

7.11.2025

[theatre] Girl From the North Country

7月3日、木曜日の晩、Old Vicで見ました。

2017年、ここで初演された後Broadwayまで行った、全てBob Dylanの曲を使ったミュージカルで、作・演出はConor McPherson。

大恐慌時代のミネソタ(Dylanの生まれた州)の田舎町に大きなゲストハウスがあって、そこの暗めで広いラウンジの左手にはアップライトピアノ、右手には簡素なドラムセットがあって、そこに楽器を抱えたバンドが四方からふらーっと寄ってきて適当に音を鳴らし始めて気がつけば曲がうねっている。楽器はほぼアコースティック中心 - フィドルとかハーモニカとか - で専任のミュージシャンは4人、メインキャストも歌ったり楽器を弾いたりするので、ステージ全体で歌ってダンスができてはねてまわって、コーラスは厚め - ゴスペルのようだったり、ちょっと聞いただけではBob Dylanの曲とは思えない。もちろん、Dylanの曲であることを意識して聞く必要はなく、そもそも彼の曲ってこんなにも多様性に満ちた豊かなものだったのだ、と改めて思わされるのと、ここは賛否があるところかもしれないが、音楽がドラマの進行に寄り添って、場を盛りあげたり怒りや悲痛感を煽ったりというふつうのミュージカルの役割を担っていない。もちろん場面の情景や雰囲気にリンクはしているものの、Dylanの曲・歌はただそこに流れてくるだけでその場の空気や気配や面影のようなものを作りあげてしまう。

ゲストハウスを経営しているのはLaines家で、家長のNick (Colin Connor)がいて、ちょっと壊れていて危なっかしいが歌がはいるとサングラスしてかっこよくなるElizabeth (Katie Brayben) 、彼らの息子で作家志望のGene (Colin Bates)、彼と別れようとしているKatherine (Lydia White)がいて、養女のMarianne (Justina Kehinde)は妊娠している。

その家 - というよりただ屋根や敷居があるだけの囲い、のようなところに逃亡中の男や(大恐慌だけど気にしない)富豪、牧師、医師など、いろんな職業や境遇の人たちが現れて、その都度広がったり狭まったりするLaines家の誰かに絡んだり言い寄ったりどつきどつかれ、音楽に合わせて歌ったり踊ったり隠れたり逃げたり消えたりの寸劇を繰り返して最後にはLaines家もどこかに風のようにいなくなってしまう。”Girl from the North Country”もそんなふうにどこかから現れて消えていったのか - そうやってもう遠くにいってしまった人々や場所についての舞台で、ドラマの展開に涙したり拳を握ったり、登場人物たちに思い入れたりするような劇ではない。時折背景に映し出される森と湖のどこかの情景、Dylanのカバーバンドがジュークボックスのように彼の曲を演奏していくなかに現れたり消えたり浮かんだりしていく家族や人々、その愛や喜びや怒りを映しだし、これこそがDylanがその音楽を通して歌い描こうとした世界まるごとなのだな、ということに気づかされる。なんでそういうことをするのか? なんて聞かないこと。

演奏されるDylanの曲は23曲、年代もアルバムもばらばらで、”Sign on the Window” (1970)から始まって”Pressing On” (1980)で終わる。”I Want You” (1966)や”Like a Rolling Stone” (1965)や”Hurricane” (1976)や”All Along the Watchtower” (1967)といった有名なのもあるし、タイトルの”Girl from the North Country” (1963)ももちろん。Dylanの曲と詞の世界をよく知っていればこの場面でこの曲、の意味や理由もより深く理解できるに違いないが、そうでなくても十分に楽しめる。というか、ここまで年代もテーマもばらばらのジュークボックスをやってもある時代、そこに生きていた人々の像を浮かびあがらせてしまう劇構成の巧さと彼の音楽の普遍性に改めてびっくりして終わる。彼のライブはずっとひとりでそれをやっているわけだが。


Wilko - Love and Death and Rock “N” Roll

7月4日、金曜日の晩、Prince Charles Cinemaの隣にあるLeicester Square Theatreで見ました。

Wilko Johnson (1947 - 2022)の評伝ドラマで、でもWilkoのギターなんて誰がやったって弾けるわけないので、見ないでいいや、と思っていたら、最初サザークの方の小劇場でやっていたのがこちらに来て、日替わりでゲストが出る、と。そのゲストがWreckless EricとかJohn Cooper ClarkeとかBob Geldof とかBilly BraggとかChris Diffordとか、なんとも言えない人たちなので、しょうがないか.. (なにが?)って見に行った。

彼が末期ガンの宣告を受けるところから入って生涯を回顧していく内容で、妻Ireneとの出会いからLee Brilleauxと出会ってDr. Feelgoodからソロ活動から、日本に行って感動した話から、”Game of Thrones”出演 - 彼のキャリアのなかでこれは相当大きかったのだな、と - まで、いろいろ。ギターを抱えてバンドで演奏するシーンもあるのだが、やはりやや残念だったかも。

劇が終わった後で、Wilkoの息子でやはりギタリストのSimon JohnsonとNorman Watt-Roy先生がこの日のゲストとして登場して、”She Does It Right”などを演奏した。Norman先生はお元気そうでよかった。

Wilkoのライブを初めてみたのは渋谷のLive Innというもう消えてしまったライブハウスで、それはそれはすばらしかったので、彼が来日するたびに - Ian Dury and the Blockheadsで来た時もDr. Feelgoodと来た時も - 通ったものだったが、ほんとうにぜんぶ遠い昔になってしまったことだなあ、と。

7.10.2025

[film] F1 The Movie (2025)

7月2日、水曜日の晩、↓の”The Swimmer”を見てから、BFI IMAXで見ました。

海パンいっちょうで、ひとりで歩いてプールを渡っていく男の話と最先端ハイテクのユニフォームを纏って世界をぶっ飛ばしていくF1レーサーの話のギャップがすごいと思ったが、主演男優でいうとBurt Lancaster→Brad Pittのオトコの映画なので、そんなに段差はないかも。

前もここに書いたかもだが、クルマもスーパーカーもF1も子供の頃から一切、他のスポーツと同様なんの興味関心も持たずに来てしまったので、これを見ようかどうしようかも含めてちょっと迷っていた。別に見なくても暮らしていけるのだが、いっぱい宣伝しているし、”Filmed for IMAX”とか言われるとなんか弱いのかも(ということに気づき)。

Sonny Hayes (Brad Pitt)はキャンピングカーで寝泊まりしながらデイトナとかで日雇いレーサーなどをして気楽に暮らしていて、ナリはぼろくても結果は出したりしていて、そんなある日、昔のレーサー仲間だったRuben (Javier Bardem)が訪ねてきて、彼のF1チームに入らないか、って英国への航空券(ファーストクラス)を置いていく。

彼は30年前のF1のサーキットで乱暴運転で大事故を起こしてからその世界からは退いてギャンブラーをしたりタクシー運転手をしたりで生きてきて、Rubenは彼のところの若手レーサーで昇り龍のJoshua Pearce (Damson Idris)の横に置いて、どんな化学反応が起こるかも含めて見ようとしているらしい。

でもPearceからは「おじいさん」呼ばわりされ、最新の技術にもうまく適応できず、最初のうちは問題ばかり起こしていて、「F1はチームプレーなんだから」って諭されたり、技術者の女性と仲良くなったり、事故を起こしたり起こされたりで険悪だったPearceとの仲も修復されていって、最後のアブダビのサーキットまでくるの。

外からやってきた得体の知れない老人が一番やばいやつで、でも最後に頼りになるのは彼だった、みたいな話は”Top Gun: Maverick” (2022)にもあったし、少子化が進むなか、シニアに求められることもいろいろ、とか昨今のうさん臭い巷の話にもきれいにはまって、やがてそれがチーム全員の結束を高めて… あたりまでくるとさすがに吐気がしてやってられない。なーんのひねりもない、気持ちわるくなるくらい外ヅラだけ綺麗にポリッシュされた男の勝負の世界のドラマで、それがブランド広告の束と「ステークホルダー」にまみれた流線形の車のボディにきらきらと映しだされると、よくできたPVみたいで、騙されるなみんなー! って叫びたくなる(そしてあっというまに轟音で消される)。

思ったのは、今ゲームでいくらでも(限りなくリアルな)疑似体験ができるようになってきている中、F1のゴージャスな体験(みんなどうして自分はパイロットだって思うのか?) ってそんなに求められなくなってきているのではないか、むしろ、オリンピックやワールドカップや万博と並んで、一部の金持ちと広告屋とやくざを儲けさせるだけの、地球にとっては有害でしかない屑イベントになっているので、そこをどうにかして業界として盛りあげたい、バブル期の夢よもう一度、になっているのではないか。だから主人公はPearceではなく、年寄りHayesの方だし、プロデューサーはJerry Bruckheimerだし、しょうもないなー、って。 (あと、若い子向けのは”Gran Turismo” (2023)でやったから?)

というかんじで全体にあんまのれなかった。パッケージ商品としてよくできているとは思った。

あと、McLaren Technology Centreが出てきた。むかしなんかの仕事で行ったなー。
 

7.09.2025

[film] The Swimmer (1968)

7月2日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
“Big Screen Classics” - クラシックを大画面で見よう、といういつものやつで、7月のテーマは「プール」だそう。

最初にJean Vigoの短編”Taris” (1931)が上映される。水泳チャンピオンのJean Tarisの泳ぐ姿、水中の姿を撮ったもので、Taris本人よりも水の動きや揺らめきの不思議、その音にフォーカスしているような。

監督は先月に”Last Summer” (1969)がBFIで異様な熱狂と共にフィルム上映されたFrank Perry、脚本はパートナーのEleanor Perry。原作はNew Yorker誌に掲載されたJohn Cheeverの同名短編で、Cheeverはカメオで出演もしている。 撮影終了後にリテイク/差し替えられた部分の監督はノンクレジットでSydney Pollackが担当し、差し替えされたパートにはBarbara Lodenが出演していたそう。邦題は『泳ぐひと』。 

アメリカ東部のコネチカット州 - お金持ちが暮らす州 – の森のなかの邸宅、日曜日のホームパーティーを開こうとしているプールがある一軒家の庭先に、どこからか水泳パンツいっちょうのNed Merrill (Burt Lancaster)が現れて、迎えた側もみんな彼を知っているようで歓待して、二日酔いが酷いけど一緒に飲もうよ、などと誘うのだが、彼はこの近辺の家にあるプールを全部泳いで渡っていけば自分の家に帰れるはずなのでそれをやってみたい、って一人で決めて意気込んで、そこのプールにざぶん、て飛び込むと、困惑する友人たちを置いてすたすたと次の家に向かう。

その行動を通して、Nedはその近辺のコミュニティに顔と名がそれなりに知られた人であることがわかってくるものの、彼がどこから、どこで水着一枚になって、そもそも何をするためにそこに現れたのかはわからないし、彼のアイデアも、なんでプールなのかも、何が起点や動機になっているのかも一切わからず、映画は彼の明るく屈託のない「アメリカン」の笑顔と年齢にしてはそんなにたるんでいないボディをアップでCMのようにとらえつつ追っていく。

庭には囲いや柵がない(囲う必要のない広さと安全がある)ので、彼はすたすた誰かの庭に入っていくと、彼を知っている人のなかにはよい顔をしない人もいるし、道端でひとりレモネードを売っている少年に会って、水のないプールで泳ぎを教えてあげたり、かつて彼の娘のベビーシッターをしていたJulie (Janet Landgard)と会って彼女がかつてNedに憧れを抱いていたと聞くと、一緒に行こう、って誘うのだが怖くなったJulieに逃げられたり、すっ裸の老夫婦がいたり、かつて愛人だった女優Shirley(Janice Rule - Barbara Lodenから替わった)の庭先でやっぱり冷たく(←すごい温度差で)追い払われたり、公営プールでいじわるされたり、足を怪我して寒いし、心身共にぼろぼろになっていく。

展開があまりに唐突だったり変だったり、だんだん彼への当たりがきつくなっていくにつれ、これが寓話のようなものだとわかってきて、ラストでやっぱり、となるのだが、それ以上にアメリカの階級や富裕層の当時の空っぽな(に見える)ありようがプールを介したランドスケープとして芋づるでずるずる連なってくるのがおもしろい。 David Hockneyはこの映画を見たのかしら?

アメリカでは普通の一戸建てでも庭にプールがあったりしてなんでだろう?と思っていたが、人種差別・偏見の煽りでパブリックのプールには入りたくない層をうまく取り込んでこのスタイルが広がっていった(というのがイントロで説明された)とか、Nedは白人なのであんな恰好で庭に入っていっても笑って手を振れば許されるのだろうとか、そういうことも思う。そんな特権的な”The Swimmer”(の終わり)。

そしてここに”Wanda” (1970)の真逆の、ネガティブであてのない彷徨いを重ねてみることは可能だろうか。可能なのではないか、とか。

それにしても、最後(は崩れてしまうが)までアメリカの笑顔と態度を維持しつつ半裸で歩き通したBurt Lancasterの力強さ、刻印するパワーのようなものにはすごいな、しかない。本人はすごく気に入っていた作品だというし。

そして、Frank Perryの映画としては(間にTV作品はあるみたい)、この後に” Last Summer”が来る、というのがなんとも。 そして、この後の映画”Trilogy” (1969)は未見なのだが、こないだ古本でこれの原作?本を見つけた。Truman Capote, Eleanor + Frank Perryの共著で、”An Experiment in Multimedia”とあって、Capoteの3つの短編 – “A Christmas Memory”, “Miriam”, “Among the Paths to Eden”の原作小説(by Capote)とScript(by Eleanor Perry + Capote)とFilmのスチールとクレジット、翻案にあたってのNote(by Eleanor)がセットになっているの。 まずは映画を見たい。
 

7.07.2025

[film] 花樣年華 (2000)

6月29日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。

公開25周年を記念した”In the Mood for Love 25th Anniversary Edition”として、6月27日からお祭りのようなリバイバルが始まって、まだ上映されている。Sight and Sound誌の5月号の表紙&特集がこの映画だったのは、そういうことだったのか。

2022年のデジタル・リマスター版の時のリバイバル - 新宿で見た – から改めて4Kリストアされて、色の落ち着きというか濃度・質感はこっちの方がよくなった気がするのと、9分の未公開シーンが追加されている。当初、撮影されたものの使われなかった二人のセックスシーンが加わるのでは、という話もあったがそれはなく、どこが追加されたんだろーあそこかな?くらいのもの。Sight and Sound誌の特集に掲載されたWong Kar-waiのインタビューを読むと、この作品の成り立ちやテーマのありようからして、細かなところで前にでたり後ろに隠したり、ずっと続いていく追加編集はあってもよいのかも、と思わせるし、見る側にしても、最初に見た時、前回見た時、今回見た時で印象は刻々と変わっていって、今度のが一番よかった – よく見渡せて湿気等が目に張りつく気がした。それもまた – In the mood for Love, ということか。

そもそもは1960年代の香港を舞台に、炊飯器の登場とそれが家庭内の女性たちに与えたインパクト、解放感に焦点を当てた作品を作ろうとして、そこにRaoul Walshによるミュージカルコメディ”Every Night at Eight” (1935)のために書かれた曲"I'm in the Mood for Love"を1999年にBryan Ferryがカバーしたものからタイトルが取られて、そもそもはふんわりとした食べ物の話が真ん中に来るはずだった。

配偶者が出張によって長期間不在となり自分で料理をつくって食卓を囲んだりする必要がなくなった彼らはポットに麺を入れてもらったのをテイクアウトすればよくなったし、日本から炊飯器も来たので、食事は自分で作らなくなって、そういえば隣人も配偶者が不在で狭い廊下ですれ違う – なにやっているのか興味ないしどうでもいいけど、でも向こうも同様のことを思っているのだとしたら... というすれ違いが毎晩のようにMrs Chan (Maggie Cheung)とMr Chow (Tony Leung)の間で繰り返され、はじめはMrs Chanの勤め先の上司の動向と同じように「その」匂いみたいのを感じるくらいでどうでもよかったのだが、ひとりの食事の時間が続いたり同じように雨に降られたりが繰り返されているうちに、どこからか(毎度)In the Mood for … のリフレインが。

カメラはいつまでもふたりの物理的な距離を測れる側面からの位置(時折変な動き)を保って、それぞれの手の動きは追うけど正面から見つめ合う切り返しにはいかなくて、その距離を保とう守ろうとすればするほど、ふたりのもどかしさ、互いに認めたくない己の欲望が湯気のように沸きたってきてどうしようもなくなっていく。のが見える。雨に降られたくらいで冷めるものではなくー。

舞台となった1962年といったら日本では『秋刀魚の味』の年で、同じく食べ物がテーマの映画として(ちがうか)、こうも違ってきてしまうものなのか、とか。『秋刀魚の味』はひっぺがす話で、こっちは(ひっぺがしたい、もあるけど)匂いに寄っていく – 寄せられてしまって困惑してどうしようもなくなる話、というか。

このふたりは互いの事情を明確に語らず、嗜好やああしたいこうしたいも、自分が何をどうしたい、どこまで行きたいのかも最後まで語らず、謎のままで放置の知らんぷりして、それでも彼らが画面の上であんなふうになってしまう肉の声~求めている親密さは調光や衣装や音楽を通して痛痒いほどの距離感で伝わってくる。この点においてMaggie CheungとTony Leungは本当にすごい俳優だと思うし、この作品はどこまでもそんななまめかしいMoodと空気を、その微細さを伝えるべく迫ってきて止まらない。 そして我々はその細部を料理を楽しむように何度でも味わって、口のなかで転がして…


In the Mood for Love 2001 (2001)


上映前にBFIの人が、終わってもおまけがあるから席を立って帰らないで、と言っていたのがこれ。
2001年のカンヌでのWong Kar-waiのマスタークラスで「デザート」として上映されただけだった9分間の短編。

21世紀の街角にコンビニ、というか深夜までやっているデリがあって、ちょび髭をはやしたTony Leungは店員で、Maggie Cheungはそこにやってくる派手な格好にサングラスの謎めいた客で、彼女は何かを抱えてて大変そうだが、お腹を減らしてていつも何かを食べていなくなって、彼はそれを毎晩見つめているだけなのだが、これが2001年に現れるMoodのありよう、というのはわかる。チープに外した洋楽のPVのようだし、ちょっととっぽい兄さん姐さんのかんじは『恋する惑星』 (1994) のようでもあるし。

一皿で終わっちゃうのなんて「デザート」じゃない。まだなんか隠している気がする。
 

[film] M3GAN 2.0 (2025)

6月29日、日曜日の夕方、CurzonのAldgateで見ました。
 
監督は前作M3GAN (2022)からのGerard Johnstone。ストーリーも脚本も同じく、主要登場人物たちもそのままの、正しい続編。制作はBlumhouse。
 
“M3GAN”は“Child’s Play”とか悪魔人形とかのおどろおどろしい人形ホラーに連ねられるべき作品だったのかもしれないが、(自分には)そんなに怖いと感じなかったのは、M3GANが開発者Gemma (Allison Williams)の姪のCady (Violet McGraw)を守るというコマンド通りに動くおもちゃ/ロボット/AIだったからで、そこには人形ホラーにつきものの憑き物とか怨念邪念とか超自然的なところが一切なかった。自律型のロボットが命令の通りに動いて少女を守る、それだけの話なので、すべてが、ま、そうくるよね、で終始していてわかりやすかったの。
 
今回もそこは明快で、米軍がM3GANのコードを転用して作ったAmelia (Ivanna Sakhno)という軍用ロボットが暴走して軍関係者を殺していなくなって騒ぎになり、Gemmaのところにはバックアップから生き延びていたM3GANが現れて自分ならあれを止められるので戦えるボディーをくれ、とか言っているうちにAmeliaはAI富豪のクラウドから邪悪AIを使って世界を支配しようとしていて、要はT2みたいにバージョンアップされた敵とこないだのMIみたいに全世界を乗っ取って支配しようとする話のミックスで、ラストもT2そっくりだし、バカバカしくてうさん臭いったらないの。
 
唯一の救いは、これをArnold SchwarzeneggerやTom Cruiseのような正義感たっぷりの男性役者が演じるのではなく、お人形さんが - 戦闘用のボディを貰う前の壺みたいなやつもおかしい – 軽やかにダンスしたりしながらバサバサ殺しまくってくれることで、怖さという点では前作より更に怖くなくなっていて、この辺はそれでよいのか。背後の悪い奴だってすぐわかっちゃうし。どうせなら思いきって笑える方に振りきっちゃってもよかったのではないか、と少し。
 
印象に残ったのは前作のあれこれを後悔しているGemmaがAI規制に乗りだしつつも押し切られてしまうあたりで、まず規制すべきはAIじゃなくて富豪の方なんだよね、って改めて思った。AIはどれだけ規制かけたってArtificialにがんばって乗り越えようとしてくるので、世界支配系のネタとしては尽きないけど、どうしても飽きがくるかも。

たぶん3.0はそのうち来るのだろうが、どこに向かうのかを想像するのは楽しい。もうAlienやPredator 系のを出すしかないのか、Gemma/Cadyと一緒にThunderbolts*に入って貰うとか、思いきってハイスクールもの(既にやられている気がする)の方に吹っ切ってしまうか。
 

How to Train Your Dragon (2025)

6月21日、土曜日の午後、BFI IMAXで見ました。3Dのもあったが目が回る気がしたので2Dで。

原作となったCressida Cowellの絵本が元であるのはもちろん、2010年のアニメーション版を書いたWilliam Daviesのも元にしていてストーリーもメッセージもあのまま(当然)だし、アニメ版で父親の声をあてたGerard Butlerはこの実写版でも父親役だし、つるっとしててびゅんびゅん飛び回るドラゴンは実写化してもどっちみち3-Dアニメでしかないし、実写化して大きく変わったところをあまり見出せないのがなんか。

爬虫類ぽいぬめぬめびたびたをもっと前に出しても、と思うと確かに魚とかはそんなふうなのだが、ドラゴンが人を襲って食べちゃったりするとこをリアルにだすわけにもいかないし、最大の魅力である空を自在に飛び回るとこはそんなに変わらないしー。ただ実写であれだけぐるぐる飛び回ったりしたら酔ってげーげーしたりもありかと思うがそれもないしー。

アニメと同じようにシリーズになるのかしら? 白いのはまだ出てきていないし。