3.08.2025

[theatre] Hadestown

3月2日、日曜日の午後のマチネを、Lyric theatreで見ました。

ふつう演劇って、日曜日は公演しないと思っていたのだが、これは日曜日のマチネがあって、今週は特に時間がないので取りたいと思ったのだが、人気があるのかリリースされる端からすいすいなくなっていくし、チケットの値段高いし。 でもしょうがないのでどうにか取る。

最初は2007年にバーモント州のD.I.Y.プロジェクトとして始まり、2019年のブロードウェイ公演はTONY賞の14部門にノミネートされ、Best Musical、Best Original Scoreを含む8部門で受賞していて、ロンドン版は2018年にNational Theatreで上演された後、2024年からここでリバイバルされている – のが今回見たバージョン。こういう人気ミュージカルって、実はあまり見たことないの(”Wicked”も”Hamilton”も”SIX”も見てないや...)。

客層はみんな若めで華やかで、物販にわいわい並んでいるし、看板のとこで記念写真撮っているし、自分がいつもいく演劇とか映画のかんじとは結構ちがう(それがどうした?)。

原作はギリシャ神話の”Orpheus and Eurydice” - 『オルペウスとエウリュディケ』を元にAnaïs Mitchellが脚色、作詞、作曲までぜんぶやっていて、この舞台の演出はRachel Chavkin。

舞台は現代の栄えているとは思えない町の居酒屋、天井高のあるサロンバーのようなところで、左右に各3名くらいのバンド、奥の扉の向こうにドラムス、その上には工場を含めてその一帯を支配しているHades (Phillip Boykin)と妻のPersephone (Amber Gray)がふんぞり返っていて、その周りをモイラ - 「運命の三女神」が歌って舞って動きまわる。 という全体図をMCにあたるHermes (André De Shields)がゴスペルの司祭の威厳と貫禄でもって紹介していく。音楽から離れた台詞や会話はなく、すべてが音楽のなかで語られ、怒り、泣き、愛もまた。

そういう雑踏のなか、仕事を求めて流れてきたEurydice(Eva Noblezada)とミュージシャンになりたいけどまだ半端なOrpheus (Reeve Carney)の若いふたりが運命の出会いをして、互いに運命の出会いであることはわかるけど、日々の生活をどうにかしなきゃ、なので、EurydiceはふらふらとHadesのブラック工場に契約して、ふたりは引き離されてしまい…

ギリシャの神々が大恐慌時代のアメリカの貧富がくっきり分かれた社会階層の断面に現れて(いて)なんかする、というのはわかるし、そこに現代の格差や労使問題を練りこむ、のもあるだろう、し、そこで貧しいけれど心のきれいな男女が出会って、純愛... になりそうなところで女性が売られて一転悲恋に、というのは昭和の労働者を描いた映画やドラマで散々に見てきたので今更、なのだが、格上の権力者に敵いようがない圧倒的な強者であるギリシャの神々を置いた、というのが(少しだけ)新しいのか。

あとは使い古されたドラマでも、歌いあげるミュージカルにすることで心に灯が(ポスターにあるような紅いバラが)ともる、のかも知れない。音楽はオーケストレーションやコーラスを多用して音の壁で盛りあげるのではなく、フォーク、ブルース、ゴスペル、R&Bなど、アコースティック寄りで、踏み鳴らす足音と耳元の歌声で切々と親密に持ちあげていくので、圧倒される、というよりもつい拳とハンカチをぎゅううっとしてしまう、というか。(すすり泣いている人が結構いたのでびっくりしたけど)

でも最後の結末が鶴の恩返し(ふう)になってしまうのは、ギリシャの神々にしてはせこすぎやしないだろうか? (いまのUSAを見ると全く笑えないけど) そしてそのせこいのに負けてしまったOrpheusもさー…

あ、でも、若いふたりはきらきらしていてとてもよかった。ちょっと疲れたPersephoneも。

このアンプラグドみたいなバージョンとは別にパンク(スチームパンク)バージョンとか作ればいいのに。

この回ではないが、フィルム撮りをしていたようなので、そのうち日本の劇場でも見れるようになるかもしれない。

3.07.2025

[film] Ainda Estou Aqui  (2024)

3月2日、日曜日の昼、Curzon Sohoで見ました。英語題は”I'm Still Here”。

この日の晩に発表されるオスカーで、外国語映画賞はこれだろうなー、と思ったので見ておいたら、ほうら当たった。

監督はWalter Salles、オリジナルスコアはWarren Ellis - これも見事なのだが、挿入されている当時のブラジルの音楽がすばらしすぎ。

1970年軍事政権下のリオで、元国会議員で技師のRubnens Paiva (Selton Mello)と妻のEunice (Fernanda Torres)と沢山の子供たちは本とか音楽とか友人たちに囲まれて、近くにはビーチもあるし楽しく幸せに暮らしていて、でも上空を軍用ヘリが飛んでいったり装甲車が走っていったり、やや不穏で、でも自分の家、家族には関係ないと思われた。

そんなある午後に、銃を持った男たちがやってきて、Rubensに支度をさせて車で連れ出し、Euniceと娘のEliana (Luiza Kosovski)も別の車に乗せられ、途中でフードを被せられ、Elianaはすぐに釈放されたようだが、Euniceは12日間監禁され尋問 - 写真を見せられてこの中にコミュニストはいるか? - されて、そんなことより夫は? 娘は? どこにいてどうなっているのか、誰に何度聞いても答えは返ってこない。

Rubensがいなくなってから先、視点はEunice中心に固まっていくが、釈放されて家に戻っても政府が差し向けたガラの悪そうな男たちが家に常駐して子供たちも含めて24時間監視している、というホラーで、どういうホラーかと言うと、すべてが突然で、何が起こっているのかこの先どうなるのか、いつまで続くのか、どんなことをされるのか全くわからないことにある。

Rubensと同時期に尋問を受けていた人から少しだけ彼の様子を聞きだしたりすることはできたものの、過ぎていく時間と共にEuniceは彼がこのまま帰ってこないこと、おそらく拷問の末亡くなってしまったことを受けいれざるを得なくなっていく。映画は彼女の悲嘆や絶望をダイレクトに映しだすのではなく、世紀を跨ぐ長い時間のなかで彼女がその事実 - もう彼はいない、会えない - をどうやって一人で受けとめ、その後を生きたか。リオにいてもしかたないので、サンパウロに引っ越すことにした際の、がらんとなったみんなで過ごした家にお別れを告げるところが痛切にくる。原作は、Euniceの息子で作家になったMarcelo Rubens Paivaの回想録に基づいていて、そこには監督のWalter Sallesも子供の頃に出入りしていたという。そういう点では”I’m Still Here”と言いつつ、みんなそこにいたのだよ、というそれぞれのパーソナルな場所と時間を刻んだものにもなっているような。

サンパウロに移ったEuniceは大学に入り直して人権弁護士として活躍して、2018年に亡くなる前、最後の15年間はアルツハイマーだったと。なんと過酷な人生だったことだろう …

あと、ブラジル音楽に親しんだことがある人にとっては必見でもある。Caetano VelosoやGilberto GilのTropicáliaがどういう文脈で起こったのか、なぜ彼らはイギリスに亡命しなければならなかったのか、この映画を見ると当時の空気感がわかったりする。(Euniceの家に押し入った政府関係者が家にあった1971年の”Caetano Veloso”のLPジャケットをみて、「ふん」って言うとか)。 CaetanoでもTom ZéでもRoberto Carlosでも、音楽がどんなふうにあの土地に馴染んでいたのか、についても。(これは現地に行くとほんとにびっくりする。あんな土地はない)

これは全く別の国の、別の時代のお話しとも思えない –という視点と構成もきちんとある。共産主義に対する子供みたいな嫌悪とかウィシュマさんへの拷問だって、どっかの国でつい最近起こって、だれがやったかわかっているのに、だれひとり責任取ろうとしないのは大昔から。

3.06.2025

[log] Paris - Mar 01 2025

3月1日の土曜日、日帰りでパリに行ってきたのでその備忘。

一週間後には日本に行かなければならず(行きたくない)、しばらくの間、行けなくなってしまうのは悲しいから、という理由で。

ここんとこ、パリの滞在は、1泊滞在して、うまく時間を使えなかった → これなら日帰りで十分 → 日帰りだとやっぱり時間が足らなすぎ →1泊にする – のループを繰り返していて、やっぱり1カ月くらい(1週間でもいい)塩漬けになってみないとだめよね、と思い始めている。

今回は特になにがなんでも、というのはなかったのだが、こまこま見ていくとそれなりに出てくるし、なくたって本屋でも食べ物屋でもいくらでもあるし、でも引越し直後で体力あまり残ってないからー、など - こういう時はだいたいなし崩しでしょうもないことになる。 でも日帰りならいいんだ。

9:30くらいにパリ北駅について、そのままGrand Palaisの塩田千春展に行ってみる。チケットはぜんぶ売り切れていることは知っているが当日の分が出ることもある、ことも知っている。

こういうのは慣れているので、この列だろうな、というのに並んで待っていると、そのうち係員の人が来て、フランス語で何か言うのだが、それもだいたい、並んでもらっても入れる保証はありませんよ、と言っているのだ、というのもわかる。1時間くらい並んだところで何か言われて、それで列全体が崩れたので、もう本日分は終わりかー、とわかった。念のため英語で聞いてみるとやはりそうで、明日また来てね、と言われたが、明日はないんだよ。

ルーブル(だけ)は14時のチケットを取っていたので、それまで、マレ地区の方にいって本屋を見たり、MuséePicasso Parisに入って展示–“‘Degenerate’ art: Modern art on trial under the Nazis”を見たり。 いろんな画家の作品が出ていておもしろいのだが、” Modern art on trial under the Nazis”という観点だとちょっと弱いかも、というかテーマとして広すぎて難しいような。

LOUVRE COUTURE: Objets d'art, objets de mode

英語だと”LOUVRE COUTURE: Art and Fashion: Statement Piece”。 Kinoshita Groupがサポートに入っている。

ルーブル美術館初のファッション系の展示、ということで注目されているが、METやV&Aのそれとは随分違う、違うことを狙ったのだろうな、というのはわかる。
リシュリュー宮の膨大な宮廷装飾品の豊かさと分厚さを見せつけるために、現代のファッション・アートをぽつぽつと置いてみました、というかんじで、ブランドやデザイナー目当てでいくとちょっと外れるかも。ながーい宮廷・貴族文化の文脈に置いた時にモダンのクチュールがどう映えるのか、そーんなに映え映えいうならここまでやってみろ、と。

確かにこういう展示ができる美術館は限られてきてしまうかも、というのと、ルーブルのいろんな装飾品がお蔵だしのように気合入れて並べられていて、服飾よりもそっちを眺める方が楽しかったかも。

Revoir Cimabue: Aux origines de la peinture italienne

英語だと、”A New Look at Cimabue: At the Origins of Italian Painting”。

こちらの方が見たくて会場に行ったら、この展示は別にチケットがいると言われて、えー、それなら今オンラインで取ったら入れてくれる?ってスマホを出したらめんどくさそうにいいから行け、って入れてくれた。ありがとうー。

13世紀イタリアの巨匠チマブーエを再発見しよう、という企画展示。修復された”Maestà” - 『荘厳の聖母』と、2019年に台所で見つかって修復と獲得を終えた『嘲笑されるキリスト』を中心にDuccioや弟子のGiottoの『聖痕を受ける聖フランチェスコ』なども並べて、「絵画」的ななにかが地面からめりめりと立ちあがる瞬間、のようなものを沢山のキリストやマリアの目 - あの目! のなかで感じることができる。10年前だったらこういうのあんま興味なかったのだが、最近おもしろくてねえ。

カタログ、どうしようか散々悩んで、英語版がないので諦める… 5月までやっているので次来た時にたぶん買う。

そして、今週末からはNational Galleryで待望の”Siena: The Rise of Painting, 1300 ‒1350”が始まる。それでたぶん(また)簡単にイタリアに行きたくなってしまうにちがいない。

あとは、Yvon LambertとかL'INAPERÇUといった本屋でいろいろ漁っていた。引越しした直後なので当分の間は怖いものなんてなにもないの(..ちがう)。

そして最後はいつものようにLa Grande Épicerie de Parisでいろんな食べ物を買いまくり.. たかったのだが、一週間後に帰国なので最小限にせざるを得ない。引っ越して冷蔵庫も大きくなったしフリーザーまでついたのに..  って泣きながら魚屋についている食事スペースでイワシ缶とトーストを食べた。イワシ缶とトースト、F&Mのカフェにもあったのだが最強だと思う。

戻りのEurostarは - ここのとこずっと、行きも帰りもほぼ意識を失った状態で運ばれていて、昔のわくわくしたかんじが(自分のなかで)消えてしまったのが悲しい。これじゃ通勤電車と同じではないか、って。

3.04.2025

[film] Mujeres al borde de un ataque de nervios (1988)

2月17日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。個別の特集とは紐づけられていない、”Big screen classics”の枠。

英語題は”Women on the Verge of a Nervous Breakdown”、邦題は『神経衰弱ぎりぎりの女たち』。 作・監督Pedro Almodóvarの名を世界に知らしめた1本で、1988年のオスカーの外国語映画賞(ノミネート)やGoya Awardや、いろいろ受賞していて、ブロードウェイのミュージカルにもなった。けど、これまで見たことはなかった。

洋画の吹き替え声優をしているPepa (Carmen Maura)が一緒に暮らしていたIván (Fernando Guillén)から別れを切りだされたところにIvánの先妻の子のCarlos (Antonio Banderas –まだぴちぴち)など一連隊が芋づるで絡んできてそれぞれが神経衰弱ぎりぎりに追い詰められていく女たちを描く。

みんな自分の伝えたいことは(直接話したくないから)留守電にもなんにでも勝手に入れたり割りこんできたりするくせに自分の大事なことはこれぽっちも伝わらず宙に浮いて、結果みんなが先回りしたり裏工作したり何やっているのかわからないところにまみれてきて、全員がいいかげんにしろよお前ら!になって小爆発が連鎖していく様を、女性の視点中心で見ていて、Altman的な男性がなぎ倒していくアンサンブルのどたばたとはちょっと違うかも。

現在のAlmodóvar作品の特徴でもあるモダンなインテリア/エクステリアなど、Pepaはペントハウスに住んでいるけど、そこまで大きな比重は占めておらず、エモや激情が前面に出ていて、でも(そういう波動の反対側にある)睡眠や昏睡、といったAlmodóvar得意のテーマは既にあったり。

とっちらかっていて変人ばっかり出てきておもしろくて、もう一回見たいかも。


La ciénaga (2001)

2月27日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
特に特集に紐づけられていない。 英語題は”The Swamp”。 
脚本がSundance/NHK Awardを受賞した作品だそうで、NHKの名前がクレジットに出てくる。

“The Headless Woman” (2008)や”Zama” (2017)の、アルゼンチンのLucrecia Martelの監督デビュー作で、(やっぱり)ものすごくおもしろかった。でもなんで/なにがこんなにおもしろいのか、あんまよくわからない。

アルゼンチンの田舎の方の、結構古いお屋敷のような別荘で、中年女性のMechaとその家族がプールサイドで酒を飲んだりしながらだらだらと休暇を過ごしている。子供たちは山で沼にはまって動けなくなっている牛を見つける。Mechaは転んで血だらけになって医者に運ばれ、その息子もなんだか怪我をして血まみれになっていて、娘たちは使用人も一緒になって好き勝手に遊んでいて、TVでは屋根の上に聖母マリアが現れた、というニュースをやっている。大きい息子はダンスクラブで喧嘩して怪我をして、ボリビアに文房具を買いにいく計画があって、従姉妹たちは野山で猟銃をぶっ放して遊んでいて、万事がこの調子の、ただただいろんな物事が起こって、放置されたり、途中までいってキャンセルされたり、うまくいかなかったり、の連続で、こんなふうになった!はなくて、怪我をしたり血にまみれたりしても、ふつうにどうにかやっています、ずぶずぶ(沼)… みたいな。 監督自身の家族の記憶に基づいているそうで、なるほどなー、この落ち着きはそういうやつか。

一家は何を生業としているのかあまりよくわからない、別邸がいて使用人もいるので貧乏ではないようなのだが、ブニュエルの映画にあったようなブルジョアの「ブ」の字もなくて、生活感、みたいのとも無縁(というか垂れ流し)で、どちらかというと清水宏の映画に出てくるたくましい人たち(とそのエピソード)を思い起こさせるし、実際そこらにいそうなノラのかんじというかがたまんないのだった。


オスカーはどうでもよかったのでどうでもよいのだが、音楽賞を”The Brutalist”で受賞したDaniel Blumberg (ex. Yuck)が壇上でDalstonのCafe Otoに謝辞を述べた、というところだけちょっと嬉しかったかも。

3.03.2025

[film] Picnic at Hanging Rock (1975)

2月14日、金曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

いま公開50周年を記念した4Kリストア版が全英でリバイバルされているが、その少し前のひと晩だけの公開で、なぜかというと、映画で描かれる事件の起こったのが1900年の2月14日だったから、と。50年前と125年前。

原作はJoan Lindsayによる同名小説(1967)をCliff Greenが脚色してPeter Weirが監督した。実際に起こった出来事にインスパイアされてはいるが、元は小説で、フィクションである、と。(“Virgin Suicides” (1999)もその傾向があるけど、勘違いしたがる人が多いのはなんでなのか?)

全体としてものすごく変で奇妙な映画。 1900年の2月14日、オーストラリアのビクトリア州の女学校で校長らしき女性が、Hanging Rockにピクニックに行きます、と宣言して、喜ぶ娘も少しいるが行けないでひとり残される娘もいる。引率の女教師を含めて白い服を来た女学生たちはみんなで馬車に乗って休憩したりしながら岩に向かう。どこが遠足の到達点なのかわからないのだが、Miranda, Marion, Irma, Edithの4人が集団から少し離れたところで英国人男子とすれ違って昼寝をして、起きあがるとちょっと夢遊病のようなかんじで3人が岩の隙間に歩いていって、それを見ていたEdithが絶叫して逃げだして – 何を見たのかなんで叫んだのかは明らかにされない - それを見た引率のMiss McCrawが彼女たちを探してやはり岩の向こうに消えて..  描かれて説明される失踪の顛末はこれだけで、あと冒頭にMirandaの声で”a dream within a dream…”という呪文のようなナレーションが入る、くらい。

その後は、地元の人たちも含めた何度かの捜索が行われて、少女たちが着ていたと思われる布の切れ端が見つかったりするが、なにも出てこない。そもそもHanging Rockがどういう土地(岩)で、なんでそこに遠足に行くことにしたのか、捜索はどこまでどんなふうに行われて十分だと言えるのか、とか失踪ものに不可欠な状況とか理由とか説明とかがあまりになさすぎて、反面、ぴょろろろーっていう笛の音とかまぶしい空とか、空のかんじ、岩のかんじは何回も出てきて、なにも説明されないホラーの黒とか赤とか闇がやたら怖くなるのと同じように、ここでの白さ、陽の光と透明さは事件の不気味さ不吉さをぐるぐるかき回していって、失踪した少女たちがとらわれたのと同質のなにかに巻きこみに来ているかのよう。

他方で、これはべつに謎解きでもなんでもなく、ただ少女たちが岩場のどこかにいなくなって見えなくなってしまった – 気がついたら125年が経っていました、というだけの話で、ちょっと気持ちわるいけど、かわいそうだけど、なにもできることはないー、という話。そうして見ると、校長も地元民も若者たちも、なにも「外側」からはどうすることもできない、理解しようがない、そういうこともある、というだけのー(無理しない)。

あと、消える側からすれば、あんなふうに消えてしまうことができたら、というのはあるかも。古本屋とか美術館であんなふうに忽然と消えてしまえたら、というのはよく思うしー。

リストア版は、例えば古いフィルムが持っていた傷みとか色褪せとかをぜんぶきれいにしてしまったので、彼女たちの着ている白が異様にまぶしい白さで迫ってきて、より非現実的な魔法のようなリアリティを実現している。David Hamiltonの、あのソフトフォーカスの世界が見事な解像度で。

で、この後にIMAXに”Captain America: Brave New World” (2025)を見に行って、とってもたいへんつかれたの。

3.02.2025

[theatre] Much Ado About Nothing

2月26日、水曜日の晩、Theatre Royal Drury Laneで見ました。
原作はこないだ映画“Anyone But You” (2023)にも翻案されていたシェイクスピア (1958-1959)の。邦題は『空騒ぎ』。

演出は年末に同じ劇場で見たSigourney Weaver主演の”The Tempest”と同じくJamie Lloyd (一部のキャスティングも被っている。どこかで繋がっているのかシリーズなのか?)。

Tom Hiddlestonの芝居を見るのは2回目で、前は2019年にHarold Pinterの”Betrayal”を見ている(この時の演出もJamie Lloydだった)。 ものすごく舞台映えのする俳優だと思うし、今回はコメディだというので。

えーでも、自分が見たいと思う演劇にみんなで歌って踊って楽しくしゃんしゃん! みたいな、温泉街の余興みたいな(←偏見)のは余り求めていなくて、でも今回のこれ、Tom HiddlestonとHayley Atwellが真ん中にいてまさかそういうのだとは思わないじゃん、でもそういうので、でもこれは許すかー、になった。

劇場の中に入るとバリバリのライティングのもとダンスミュージックががんがん掛かってて(どこかにDJもいたのか?)、でもEDMみたいにハードでごりごりのじゃなくて、お年寄りにも馴染めるエモっぽい90年代頃のダンスミュージックで、とってもあざといとこを狙っているかんじ。

巻くが開くとぎんぎらのMargaret (Mason Alexander Park - この人、”The Tempest”ではArielを演じて歌っていた)がマイクを片手に演歌歌手のように歌い出し、桜吹雪が舞って、登場人物たちも全員マイアミとかリゾートにいるようなチンピラかひらひらきらきらの衣装を纏い、この「ノリノリ」の狂躁状態の中で全員が恋をしなくちゃ踊らなきゃ! みたいなアホウになっていて、それは恋でもしなけりゃやってらんない、というのと恋だの結婚だの、そんなのばっかりやってらんない、の両方があって、その流れのなかで、Hero (Mara Huf)とClaudio (James Phoon)は簡単に恋に落ちて結婚することになり、Beatrice (Hayley Atwell)とBenedick (Tom Hiddleston)はあいつとだけはイヤだ、みたいな犬猿の仲になり、でも全体としてはみんなハッピーで、ハッピーでいるためにそうしているのだ、のヤク中のノリというかお約束の世界。

登場人物たちは全員が舞台の上に椅子を並べてずっといて、踊っているかやかましい音楽のなかで会話していて、全員がヘッドマイクを装着していて舞台の奥にいても話している内容は同じ音量レベルで聞こえて、たまに頭だけ被り物 - ワニとかパンダとかブタとかタコとかかわいい - をして、要は誰もヒトの顔と目を見て言うことなんて聞いちゃいないけど、自分がどう言われているかだけは地獄耳になっていたり。

音楽はDeee-LiteとかBackstreet Boysとか”Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)”とか、懐メロであるがヒトをのせたりのせられたりのBGMとしての殺傷力はたいしたもので、そういうのにのって、ClaudioはHeroの不貞を簡単に信じてしまうし、独身を貫く! とか偉そうにほざいていたBenedickはBeatriceとあっさり恋におちてしまう。

この軽薄さのラインの際どいこと、なので下手な俳優が演じたら簡単に化けの皮、なのだが、Tom Hiddlestonは”Loki”だったのでこの辺がめちゃくちゃ巧いし、Hayley AtwellはCaptain Carterだったので - 理由になってないけど - このふたりの舞台上の相性がめちゃくちゃよくて楽しい - 一瞬ふたりのAvengers姿がハリボテで登場したり。

冒頭からノリノリで走っていった1幕目に対して、2幕目は最初から落ち着いた、やや内省モードになってそれぞれが少し立ち止まって考えたり、そしてそこからすべての収束〜一件落着に向かって弾けまくる - とてつもない量の桜吹雪エンディングまで、多幸感という言葉はあまり使いたくないけど、くやしいけどそういうのがくる。

これならフルバンド入れてかっちりとしたミュージカルにしても、と一瞬思ったが、たぶんこれくらいのスカスカでよいのかも、と。だってこれは「空騒ぎ」で、恋なんてその程度のもんでしかないのだから、って。

2.28.2025

[film] Les Années 80 (1983)

2月は引越しだのなんだのいろいろあって、ぜんぜん動けなくて呻いて嘆いてばかりだったのだが、映画に関していえば、Chantal Akermanの月、正しくはBFI Southbankの特集 – “Chantal Akerman: Adventures in Perception”の月で、これが底抜けにすごくて、時間があればぜんぶ通いたいくらいだった。

特集は3月まで続くので、まだ少し見るかも知れないが、ここまでで短編中編長編ぜんぶで30本見ていた(既見のもあるが、半分以上は未見)。BFIでかかる本特集の予告には”Complete Retrospective”とあったので、おそらく全作品を網羅しているのだろう。それならもっと気合いれて見ればよかった… (に、いっつもなる。何万回繰り返せば気が済むのか)

メモ程度になってしまうのだが、いくつか。全体として、80年代のChantalは最強ではないか、と。

Les Années 80 (1983)


ミュージカル映画”Golden Eighties” (1986)公開の3年前に、おそらくその資金集めを目的として、40時間に及ぶリハーサル映像を編集したメイキング(というか、それ以上)で、NFFの深夜枠で1回とPublic Theatreで細々と上映されただけだったので資金は集まらなかったのかもしれないが、ここで描かれた”The Eighties” – 80年代にこそ、ちっとも「ゴールデン」ではないけど、あのミュージカルに込めようとしたものがぜんぶ詰まっているように思えた。

主人公の彼や彼女が伝えようとする愛の言葉やメロディは、ミュージカルの文脈から切り離されて、ものすごく浮いて変な – でも焦りとか切実さだけがくっきりと浮かびあがってくるし、それをあの歌やダンスのパッションにあげていくものは一体なんなのか、と。えんえん耳に残って回り続けるあの主題歌をAurore Clémentが歌い続ける傍らで、壊れたみたいに指揮(というのか特殊な踊りのような)をぶん回し続けるChatalと。これを見ると”Golden Eighties”を再び見たくなる。

これとの併映で、コロナの頃、Chantalの誕生日に配信された短編 - “Family Business” (1984)も。 やはり”Golden Eighties”の資金繰りでアメリカに赴いたChatal一行の珍道中というか、なにやってんだろ、の記録。これらも併せると、ほんとあれ、なにが”Golden”やねん、になるに違いない。


L’Homme à la valise (1983)

英語題は”Man with the Suitcase”。TV用に制作されたドラマで、荒れ放題のChantalの部屋に、Henri (Jefferey Kime)という男が居候に来て、部屋は別だけどキッチンとかは共有で、一緒に暮らすのにあれこれ気を使いすぎて(しかもそれらは全て空回りして)頭がおかしくなりそうだったので、出て行って貰おうとするのだがうまく言いだせず、そのうち彼はいなくなって、というそれだけの話。

俳優としてのChantalはデビュー作の頃からずっといるのであまり驚かないのだが、ここでの殆ど喋らずにアクションだけでぜんぶわからせてしまう彼女の演技のすばらしさとおもしろさに改めて驚く。”Golden Eighties”の主題歌も歌ってくれる。

併映は大好きな傑作短編 - ”La Chambre” (1972) – “The Room” - 部屋でごろごろしているだけのChantalをゆっくり回転するカメラがとらえて、それが最後に不意に逆回転をはじめる、ただそれだけなのだが、これが宇宙だ、っていつも思う。 もう1本は、”Le Déménagement” (1992) – “Moving In”。新しい部屋に越してきたSami Freyがなにやらぶつぶつ言っているだけなのだが、この3本で、Chantalの世界観を構成する大きな要素である「部屋」が、そこで横になる、というのがどういうことか、が見えてくるような。

Demain on déménage (2004)  

英語題は、“Tomorrow We Move”。 自分が引越しの最中だったのでなんとも言えない気持ちで見る。
Aurore ClémentとSylvie Testudの母娘が、グランドピアノを吊り下げたりしつつ新居に引っ越してくるのだが、いろいろ問題が出たのでやっぱりここを出ようかと、次の住人を探すべく、オープンハウスにしたらいろんな夫婦や家族が次々にやってきて勝手なことをしたり言ったり居ついたり、騒がしくなっていくコメディ。家に染みついた記憶や匂い、住んでいた人、住んでいる人の顔や影が次々に去来して、出ていきたいような、行きたくないような、になっていくの。ものすごく楽しくて、なにより馴染んだ。

そして併映が、Portrait d’une paresseuse aka La ParesseSloth (1986) – “Portrait of a Lazy Woman” – これも動きたくないよう、って言って動かないだけのフィルムで、もうほんとうにすばらしいったらない。


Un jour Pina a demandé… (1983)
– “One day Pina asked…”

Pina Bauschを追ったドキュメンタリーで、前にも見たことはあったのだが、改めて。あの頃のTanztheaterのメンバー、なつかしー。 上映後のトークでチェロ奏者のSonia Wieder-Athertonさん(彼女の演奏を撮ったChantalのドキュメンタリー作品がある)が、ChatalはPinaに惚れこんでいて、彼女はPinaのダンスの登場人物のように騒がしい(そこにいるだけで勝手に騒がしくなってしまう)人だった、と言ってて、なるほどー、って。


Letters Home (1986)

Sylvia Plathの分厚い書簡集”Letters Home” (1975)から、母Aurelia (Delphine Seyrig)と娘Sylvia (Coralie Seyrig –Delphineの姪)の手紙のやりとりをRose Leiman Goldembergが舞台化したものをTV用に撮ったもの。離れた国に暮らす母とのやり取り、というと”News from Home”(1976)をはじめ、ママの娘としてのChantalはいろいろなところに顔を出す。そしてSylvia Plathがオーブンに頭を突っこんで自殺した5年後、自分のデビュー作”Saute ma ville” (1968)で部屋ごと自分をぶっ飛ばしてしまうChantal…

Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles(1975)

本特集を機に、4Kリストア版が全英で大々的にリバイバルされている”Jeanne Dielman…”も久々に(10年以上ぶりくらいか)見る。

3時間22分の作品なので、だいじょうぶか(寝たりしませんように)だったのだが変わらずすごいスケールの作品だと思ったわ。とにかく彼女はずっと動いていて、落ち着きなく騒がしく、屋内の静けさのなかで沈着していく狂気、みたいのとはぜんぜん違う、やかましさのなかで最初からなんかおかしいぞ、って。そしてそのやかましさが止まったとき…

まだあと少し見ると思うが、これからも時間があったらずっと追っていきたい。
あと、今度ブリュッセル行ったらぜったい“23, quai du Commerce”に行くんだ。