3.28.2025

[film] 舞姫 (1951)

3月22日、土曜日の午後、↑の『流れる』に続けてシネマヴェーラで見ました。

上映後に岡田茉莉子さんのトーク、聞き手は蓮實重彦、ということで、今回の日本滞在中、ほぼ唯一のイベントっぽいやつ。立ち見になるかどうかのぎりぎりくらいだったが座れた。

原作は川端康成の新聞連載小説(1950-51)、脚色は新藤兼人。当時18歳の岡田茉莉子の、これがデビュー作である、と。

元バレリーナで、現在はバレエ教師をしている波子(高峰三枝子)が銀座で竹原(二本柳寛)とバレエを見ていて、そこを出てから波子は彼を引っぺがすようにして別れて、娘の品子(岡田茉莉子)と会って食事をしていると波子のマネージャーの沼田(見明凡太朗)が現れてねちねち絡んできて、ここまででどんな人物配置になっているのかが見えてくる。

波子には考古学者の地味な夫 - 八木(山村聰)がいて、彼との間に高男(片山明彦)と品子が生まれて約20年くらい、でも竹原とは結婚するずっと前から付きあってきて、子供が大きくなって手を離れそうで、自分がこれからどう生きていくか、を考えたときに、いろいろ内面とか良心の呵責などが湧いてきて悩ましく、それを察した八木は波子に意地悪く嫌味を言ったりぶつかってきて、それに高男が加担して、そうなると品子は母親の方について、家庭内の不和分断が染み渡って誰にも止められない。

そんななか、品子は高校時代のバレエの恩師香山(大川平八郎)が怪我をしてからバスの運転手をしていると聞いて穏やかではいられなくなり..

谷桃子バレエ団が協力したバレエのシーンはやや遠くからではあるがちゃんと撮られていて、バレエで表現される舞姫の魔界や煩悩、エモの奔流など、女性たちの揺れや狂いようが高峰三枝子と岡田茉莉子の見事な演技と共に精緻に重ねられていく反対側で、それらをドライブする(できると思いこんでいる)男性たちの一本調子の愚鈍さ、ろくでもなさはもう少しどうにかできなかったのか。 と思うのは、結局男たちがどれだけしょうもないクソ野郎であっても、表面の和解の後、のさばってなんのダメージも受けずに社会を渡っていける(と彼らは確信できるであろう)から。原作と脚本が「彼ら」だからか。それにしても山村聰って、教養もあって育ちもよいのに爽やかに粘着して相手を潰す、みたいな役をやらせるとしみじみうまいよね。

あと、バレエの公演中、見ている横から割りこんでなんか言ったりしても当然、と思っている(そういう脚本を書ける)神経がなんかいや。どうせ女子供の、って思っていて、自分はどこまでも冷静に事態を見渡せるんだ、って無意識的ななにかが。

全体としては暗くてブラックで舞姫がじんわり絞められていくお話しだったが、反対側の男たちの薄っぺらさが鼻についてどうにもバランスがよくなかったかも。

上映後、岡田茉莉子さんのトークは、これまで、吉田喜重と一緒のも含めて結構聞いてきて、でも今回の聞き手の人のは初めてで、どうなるんだろ? と思ったがなんだかんだいつもよりややつんのめった(つまり)いつもの蓮實重彦だったかも。

それにしても、東宝演技研究所に入所して2週間くらいでこれに出演して、演技について成瀬から特になにも言われなかった、っておそろしいし、実際高峰三枝子とのやりとりの滑らかなことったらすごい。『坊っちゃん』 (1953)は見なくては。


あさって日曜日から収容されてしまうのでしばらく更新はとまります。やだなあー。

3.27.2025

[film] 流れる (1956)

3月22日、土曜日の午後、シネマヴェーラ渋谷でこの日から始まった特集 - 『初めての成瀬、永遠の成瀬』で見ました。

「初めて」と「永遠」の間に「久々の」と入れたくなるような成瀬。特集の初日で、トークもあるので少し早めに行って、9:20くらいに列の終わりに着いたらカチカチを持った映写のおじさんが現れてこの辺から立見になる可能性ありますー、とかいうのでびっくり。レオス・カラックスがすぐ売り切れたのはわかるけど、こっちは… そうかーネットに行けない老人がぜんぶこっちに流れる、のかー。

『流れる』は本当に好きでこれまで何回も見ていて、日本映画のなかで一番好き、というくらい好きかも。理由はよくわかんないけどとにかく見ろ、流されろ、こんなにすごいんだから、しかないの。

原作は幸田文の同名小説 (1955)で、ラジオドラマにも舞台にもなっている。映画版の脚本は田中澄江と井手俊郎。フィルム上映だったのもうれしい。デジタルで見るよか断然の、あのしなびた風情。

川べりの下町にある置屋「つたの屋」に女中の仕事を求めて梨花(田中絹代)- 呼びにくいから「お春」でいいだろ、って勝手に変えられてしまう – がやってきて、彼女の目を通して、ではなく、つたの屋にいる芸者たち - つた奴(山田五十鈴)、染香(杉村春子)、なな子(岡田茉莉子)、芸者ではないがつた奴の娘の勝代(高峰秀子)、つた奴の妹で幼い娘を育てている米子(中北千枝子)らが紹介され、つた屋のある路地、その界隈がちょっと困った顔で彷徨う田中絹代と共に描かれて、ここで背後に鳴っているどーん、どーんという音がまるで西部劇のようなテンションで空気を震わせる。 こんなふうに「流れる」が流れ始める。

いきなりすごい事件が勃発したり凶悪なキャラが登場するわけではなく、つた奴の姉のおとよ(賀原 夏子)が訪ねてきてずっと滞留しているらしい借金のことをねちねち話したり、冒頭にいてどこかに出て行ってしまう芸者の叔父だという鋸山(宮口精二)がどうしてくれるんでえ、って家までユスリに来たり、お春が買い物に行ってもおたくは払いが溜まっているから、とよい顔をされなかったり、全体としてお金に困っていて、でもそれはこれまでもずっと続いてきたことだし、と言いつつも見ての通り商売として繁盛しているわけではないので、いろんなコネと資金に恵まれているかつての同僚のお浜(栗島すみ子)に助けて貰ったりして、「流れる」というよりは「沈む」ような。

それでも沈まずに流れていくのは、事態を柔く受けとめてばかりの母への苛立ちとともに冷静に見つめる勝代とか、他人事のどこ吹く風で呼ばれない芸者としての日々をへらへら過ごす染香やなな子がいるからで、彼女たちの言葉や行動は大勢を打開したりすることはないものの湿気の多い暗めのメロドラマにすることから救って、ものすごく豊かでおもしろい(おもしろいのよ)女性映画になっている。元気を貰える、とかそういうものではないが。

反対に男性の方はというと、薄くて弱くて、米子の元夫で体面はねちねち気にするけど圧倒的に力になってくれない加東大介とか、今でもそこらじゅうにいそうなクレーマー鋸山とか、なに考えているのかわからない官僚タイプの仲谷昇とか、借金のカタによく知らんじじいと一緒になってほしいとか、なにもかもうっとおしくていなくてもいい存在ばかり、余りのどうでもよさに感嘆するばかり。

なので見事に恋愛なんて出てこないの。染香が逃げられた、って少し泣くくらいで現在形の恋愛はまったく別世界のことのような潔さがある。

こうして、誰もがそれぞれに流れていってしまうその先で大海にでるとか、大船に拾われるとか、そういうことはなく、冒頭とあまり変わらない光を柔らかく反射する川があるだけなの。今後の生活もあるから、と(母からはやめておくれ、と言われた)ミシンの下請けを始めた勝代のたてる機械音と、向かい合って稽古をするつた奴と染香のツイン三味線が重なりあってひとつの音楽に聞こえてくるラストのすばらしさときたら。

そして、この後の『舞姫』上映後のトークで明かされた染香となな子の「じゃじゃんがじゃん..」がその場で楽しくなってやってしまったふたりのアドリブで、それがそのまま無言で採用されてしまったという驚異も…

3.25.2025

[film] Scandal Sheet (1952)

3月20日、木曜日の春分の日、シネマヴェーラのSamuel Fuller特集で見ました。

監督はPhil Karlson、原作はまだスクリーンライターだった時代のSamuel Fullerが書いた小説”The Dark Page”(1944)。 この頃の彼は第二次大戦の歩兵だったと。

やり手の編集長Mark Chapman(Broderick Crawford)の下、ケバケバのスキャンダル記事をメインに据えたら部数を伸ばして快調なNew York Express紙が勢いに乗って独身者向けのパーティ(ここで出会って結婚したら家電を!など)を開いて盛りあがっていると、会場にいた初老の女性がMarkに声をかけてきて、Markはかつて妻だったらしい彼女を捨てて名前を変えて現在の地位にのしあがったことがわかり、揉めてもみ合っているうちに彼女は頭をぶつけて死んじゃって、彼は指輪を処分して彼女の持っていた質札も処分しようとするのだが、それが飲んだくれの元新聞記者 - でも推理は冴えている - に渡ってしまったので、取り返すべく次の殺人が起こって…

うちが主催のパーティで起こったこんなネタ、部数伸ばすのに恰好かつ最適じゃん、とMarkに育てられた若い記者Steve (John Derek)と社の方針についていけなくて辞めようと思っているJulie (Donna Reed)が動きだし、亡くなった女性の持っていた写真に写っていた男(若い頃のMark)の正体を割り出していくと…

部下が事件を掘り下げて、容疑者特定に近づけば近づく程、部数は伸びて株主も(配当があるから)盛りあがって、その反対側で追い詰められたMarkの焦りはじりじりと焦げて広がっていって…

あんま期待していなかったのだがすごくおもしろかった。前の週に見た”Park Row” (1952)と併せてジャーナリズムとは、で突っこんでいくとここまで行ってしまう、という暗黒篇というか。どっちにしても泥まみれで楽な仕事ではなさそうだけど。

パーティの雑踏とか、酒場のごちゃごちゃの捉え方がよくて、これらとラストシーンの夜のオフィスのだだっ広い空間の対比とか。

あと、やはりDonna Reedが素敵。


Underworld U.S.A. (1961)

3月16日、↑のに続けて見ました。邦題は『殺人地帯U・S・A』。

The Saturday Evening Postの1956年の記事を元にSamuel Fullerが脚色・監督したもの。彼特有の粗さ、暗さ、猛々しさがノンストップでぶちまけられていく。

14歳のTolly Devlinは街をふらふらしている時に父親が4人のギャングに殺されるとこに出くわして、その中心にいたVic Farrarが刑務所にいることを知ると自ら犯罪を繰り返して刑務所に入り、そうして大きくなったTolly (Cliff Robertson)は、終身刑をくらっているFarrarに近づいて、彼が亡くなる直前に残りのギャング3人の名前を聞きだして、シャバに出てからギャングの内部に入りこんで大物になっている3人に近づいていって、他方で警察にもコネを作って両方からの情報を掴んでうまく捌いて、ひとりまたひとりと消していくのだが…

復讐を誓ったものが、それを実現するために地下に潜って、時間をかけて裏社会でのし上がっていくお話しで、でも結局はコネと人脈とそれらの使いよう(あと努力)、みたいなところにおちて、そういう点ではUnderworldもOverworldもそんなに変わらないのかも。母親的な存在のSandy(Beatrice Kay)も、情婦的な存在のCuddles (Dolores Dorn)のモデルのようなありようも含めて。

その説得力の強さ、迷いのないTollyの輪郭の太さは末尾に”U.S.A.”って付けても違和感のない汎用性普遍性を湛えている、と思う反面、あんまりにも極太ゴシックの男社会絵巻なのでちょっとしんどい気はした。昔のヤクザ映画なんてみんなこんなんじゃん、と言われればそうなのだが。そして、どっちみち破綻してほれみろ、なのだが。

他方で悪も正義もなく(見えない映さない)、復讐/敵討ちの情念でなんでも突破しようとする、それが万能で、説得力をもって認められ許されてしまう世界ってずーっと今に続いていて、これってなあー。


Samuel Fuller特集のはここまで。 ちょっと物足りなかったのだが、どれもぜんぜん古いかんじがしなかったのはさすが。何回見ても新しい。

3.24.2025

[film] Quatre nuits d'un rêveur (1971)

3月16日の午後、Alain Resnaisの↑のに続けて角川シネマ有楽町で見ました。

邦題は『白夜』、英語題だと”Four Nights of a Dreamer”、原作はドストエフスキーの短編、監督はRobert Bresson、撮影はPierre Lhomme、音楽はF. R. Davidが聞こえてくるのがうれしい。

4Kリストアされた版で、その色合い – モデルたちの顔とか頭よりも、首から少し下に纏っている服装の赤とか青の、くっきりではなく滲んだようにしみてくるその重なりよう、夜の河べりの雑踏など - の美しいこと、それを見てうっとりするだけでもよいの。暴力や激しい修羅場が出てくるわけではなく、夢見る者たちの四夜、でもあるので。

他方で、Robert Bressonの映画はシネマではなくシネマトグラフで、動いているのは俳優ではなくモデル、というところから始まっている。 例えば料理をお皿として、食材を原料として置き直したところで(ちょっとちがうか)、お料理の味が変わるのか(結構変わると思うよ)、というと、Bressonの映画の場合、映画の見方を根本から変えてくれるくらいにおもしろく変化してくれるので、とりあえずパンフレットだけでも買って読んでみると深まるのでは、とか。

画家志望のJacques (Guillaume des Forêts)はヒッチハイクで郊外に出かけて、発散というより悶々として戻ってきた晩、ポンヌフの橋のたもとで靴を脱いで身投げしようとしているMarthe (Isabelle Weingarten)を見かけて助けて、明日の晩もまたここで会おうって約束して、そこから始まる四夜のお話し。

Jacquesは携帯型のテープレコーダーに自分にとっての理想の出会い、みたいのをぼそぼそ語って、それを再生しながら絵を描いたりしているのだが、友人をアパートに招いて絵を見てもらっても、自分の絵や出会いのイメージを理解してくれる人なんて現れそうにない。

Martheは、離婚してひとりの母親の家に母と暮らして、そのうち一部屋を下宿人に貸しているのだが、新しく来た下宿人の部屋に積んである本をみたり、彼に映画に誘われて、最初はそんなでもなかったのだが、段々惹かれていって、互いに離れ難くなってきた頃に、下宿人はアメリカに留学するので1年待ってほしい、必ず戻ってくるから、と告げて消えてしまう。

JacquesがMartheに出会ったのは、下宿人が戻ったということを知っても連絡がないのでもう先はないのか、ってMartheが死のうとした晩で、JacquesはMartheに諦めないで手紙を書いてみれば、と言って励ましたりするのだが、そうしているうちにJacquesはMartheを好きになってしまったことに気づく。

最初の晩で出会ってすくいあげて、2日めの晩で過去からを振りかえって今がどうなのか、なんでそうなのかを確認して、3日めの晩で好きになっちゃったかも、になり、4日めの晩でMartheはJacquesの想いを受けいれる…と思ったら、のどんでんがあって夢から醒める、そんな4日間のふわふわ落ち着かない橋の上の日々、橋の下では船が楽しそうに流れていく。

Martheは戻ってきた彼のところに駆け寄ってキスをして、その後Jacquesの方にも戻ってきてキスをしてそのまま向こうに行ってしまう。

Jacquesについてはその後のことも少しだけ描かれて、彼は変わらずテープレコーダーにぶつぶつ吹きこんでいて、夢から醒めていないのかもしれない – でも勿論、醒めていようがいまいが、恋は続いているように見え、でもその恋が、どんなものなのかは描かれずに多分くすぶった状態のまま、それはBressonの他の映画で主人公たちが抱えこんでいる色を失った/黒めの何かと同じようなー。この映画はその際どい境い目のようなところを捕えようとしているような。

「俳優」ではなく「モデル」なので、この辺の「魂がこもって」いない、浮ついて彷徨っていくかんじがとてもよいの。

Jonathan Rosenbaum氏がエキストラとして映っているそうで - “Two Nights of an Extra: Working with Bresson” - エキストラとして夢のなかを彷徨う、というのがどんなかんじなのか、などがわかっておもしろい。

[film] Je t'aime, je t'aime (1968)

3月16日、日曜日の昼、角川シネマ有楽町で見ました。

Alain Resnaisの映画はおおおー昔に日仏でレトロスペクティヴがあった時にひと通り見て、この映画もその際に見た記憶があるのだが、今回見てみたら記憶から落ちている気がして、そういうこともこの映画のテーマではあるのかー。 原作はJacques Sternberg。

ベルギーに暮らすClaude (Claude Rich)は自殺未遂で病院に運ばれて、退院できるようになったところでよくわからない研究施設かなにかの人たちから声を掛けられ、よくわからないまま彼らの車に乗せられて、郊外の施設に運ばれる。 もう少し用心したら、とか思うがどうでもよかったのかも。

彼らがいうには過去の時間に戻る実験をしていて、ネズミを使って1分間向こう(過去)に滞在して戻ってくるのに成功した(どうやって検証確認したのだろう?)ので、次はヒトで確かめてみたい協力してくれないか、と言われて、自分はどっちみち死のうとした人間なのでやけくそで協力することを期待されているのだろうな、と察してやってみることにする。

お話しはその科学的な建て付けとかその確かさについて突っ込んだり暴いたりするのではなく、その実験用のブースに成功済みのネズミさんと一緒に入れられて、トランスポート用のフォームマットに転がって実験台となるClaudeの姿と、その様子を別棟からモニターする - でもなんもしようとしない科学者たちを追うのと、あとはClaudeの目だか意識だかに入ってくる過去(だからどうしてそこに映っている「過去」を、「過去の記憶」ではなく「過去の時間」そのものである、と外側から言い切れるのか?)を並べていく。

まずは海の中をこちらに向かって泳いでくるClaudeがいて、浜辺には恋人のCatrin (Olga Georges-Picot)がいて、サメがいたとか他愛ない会話をしたり、その先は寝たり覚めたりを繰り返しつつ、彼女との出会いとか会話の断片、寝起き - 寝室の壁のマグリット、何度か同じイメージ、その断片が繰り返されつつ、その繰り返しのなかに彼が後悔しているのかずっと痛みとして抱えているのか、その地点、その記憶の周辺に戻って(戻されて?)いくことがわかり、Claudeもしょっちゅう現在時に戻りつつも、実験をやめるのではなく、目覚める前の地点になんとか戻ろうとする。

覚める直前の夢に戻りたいからもう一回寝る、って単に眠いから、も含めてふつうにあることだし、そんなふうにうだうだしていると、隣にいたネズミさんも過去時点に現れたりするので、これ夢じゃないんだ、とか思いつつ、でも彼は一番スイートなところではなく、一番痛切だったあの地点に吸い寄せられていって…

記憶って、それが甘くせつないものであればあるほど、そこに吸い寄せられて身の破滅を招く、ってこれまで何度も描かれてきたようなテーマをSF(ただしヌーヴェル・ヴァーグのそれ)っぽい時間旅行という設定 – 実はねちねちとストーカーのように寄っていくのと変わらない – のなかで展開して、つまり人は愛のなかで何度でも死ぬのだ、ってちょっとロマンチックなところに落ちて、それはベルギー郊外の殺風景な研究施設の穴のなかであっても変わらない。 “Je t'aime”は2回どころか、何度でも重ね塗りされて繰り返されていくのだ、と。

Alain Resnaisの記憶や時間に対する執着というか世界観って、これだけではなく何本か続けて見ていくとはっきりと見えてくるので、やはり特集で立て続けに見たいなー。

3.22.2025

[film] Park Row (1952)

ここからは日本/東京の備忘。たぶんそのうちネタが尽きる。

平日は朝からオフィス行って仕事、夕方からはロンドンともやりとりがあるので早めに抜けることができないし、なんか体力なくてすぐ疲れてしまうので映画は週末にならざるを得なくて、要は何ひとつ大変におもしろくない日々。

シネマヴェーラ、会員のを更新しても5回くらい見ればモトが取れそうだったのでそっちにしてこの日の3回分を買う。いま手元のカードには来店回数は245回、累積:0ポイント って打ってあるのだが、ポイントでは見れないのか - ポイントってよくわかんないわ。

Park Row (1952)

3月15日、土曜日の昼、シネマヴェーラの特集『映画は戦場だ! サミュエル・フラーの映画魂』で見ました。Samuel Fullerの映画は基本ぜんぶ、映っていなくても戦争ものなので体が弱っているときに見るのはちょっとしんどいのだが、でも見る。

作・監督・プロデュース、ぜんぶSamuel Fuller。
これとか”The Bowery”(1933)とか”Crossing Delancey” (1988)とか、ローワーイーストの通りの名前が入っているとなんか見たくなってしまうのはどうしてなのか? (あの通り界隈にはなにかある、って思うから)

1886年のNYで新聞記者のPhineas Mitchell (Gene Evans)が社の方針を批判して解雇され、その隣に仲間を集めて自分たちのやり方で新しい新聞社を立ち上げよう、って奮闘する。そこに横から口や手を挟んできて目障りな隣の旧来型新聞社のCharity Hackett (Mary Welch)との熾烈な戦いを通してジャーナリズムとは、を叩きつける。それを演説とか長台詞とか涙で訴えるのではなく、せかせかしたアクションと過去の先達の紹介の対比で一気に見せて、例えば新聞社を作る、っていうのがどんなかんじのものなのか、がバンドをくんでいくみたいなわくわくする痛快さの中で描かれていてかっこいいー しかないの。


Pickup on South Street (1953)

前に見たことあるやつだった。マンハッタンの犯罪、みたいな特集があると”The Naked City” (1948)と並んで必ず入ってくる一本。 邦題が『拾った女』って… 女を拾う話でも、女が拾う話でもないよ。

NYのラッシュ時の地下鉄で、スリのSkip (Richard Widmark) がCandy (Jean Peters)の鞄から財布をスったらそこに彼女が運搬を頼まれた極秘情報入りのマイクロフィルムが入っていて、警察と送付元の両方とCandyがそれぞれにSkipを追い始めるのと、自分が盗ったブツの価値を知ったSkipも動き始めて…

土地の闇をぜんぶ掌握しているかのような情報屋のMoe (Thelma Ritter)の存在感が彼らを交錯させ、かき混ぜ、それでもすべては元に戻っていくようなー。

Skipが住んでいる河の上の小屋、洗濯とかどうしているのだろう、っていつも。

コミュニストから国を守れ、っていう当時のお題目はあるものの、それをスリに言わせているのでじゅうぶんに軽くて怪しそうで、J. Edgar Hooverのお気には召さなかったらしい。


Margin for Error (1943)

この日の三本目、邦題は『演説の夜』。なにを見ても楽しくなってくる。

監督はOtto Preminger(出演も)で、原作はClare Boothe Luceによる同名戯曲 (1939)、脚色にLillie HaywardとクレジットなしでSamuel Fuller。

NYのユダヤ人の警官Moe (Milton Berle)がドイツ領事館の領事Karl Baumer (Otto Preminger)の公邸での警護を命じられて、あんなナチ野郎の護衛なんてまっぴら御免、って嫌がるのだが、説得されて任務につくと、Karl Baumerは秘書のMax (Carl Esmond)にも妻のSophiaにもめちゃくちゃ忌み嫌われていて、その事情も尤もで、他方でデモによるナチスへの抗議が渦を巻くNYではヒトラーのラジオ演説の晩に破壊工作が計画されていて…

邸内で息詰まる攻防が.. と思ったら領事は割とあっさり盛られて刺されて撃たれて死んじゃって、いなくなったのはよいけど後始末と爆破計画の阻止をどうする? の方でじたばたしていくのがほんのりおかしい。

この辺、どことなくルビッチの”To Be or Not to Be” (1942)にもある、ナチスなんてちーっとも怖くなんかないもん! が少しあるかも。こっちの方がやや堅くて真面目だけど。

3.20.2025

[film] Wolfs (2024)

ロンドンから日本行きの機内で見た映画ふたつを。
作・監督は”Spider-Man”シリーズのJon Watts。

バスにでっかい広告まで乗せて結構宣伝していたのに劇場公開直前になって(1週間は公開されていた?)配信にされて”?”になったやつ。

高級ホテルで地方検事の女性が夜中、部屋に招き入れた若い男が突然死んじゃった、ってパニックになり、なんかあったら使え、って言われていた番号に電話したら闇の仕事人George Clooneyが現れて男の死亡を確認し、片付けるからどいてて、となったところに別のルートから派遣されたらしいBrad Pittが現れて、互いに、お前は誰だ? お前の依頼主は誰だ? になるのだが、いまここで揉めても意味ないのでまずはこの依頼を片付けよう、って死体を包んで地下の駐車場の車まで運び、George Clooneyの車に積んだところで若い男が生きていることがわかって、とりあえずトランクに押し込んでチャイナタウンの闇医者のところに向かい…

仕事の内容が死体の片付けではなくなってしまったので、仕事人としては生き返ったその若者を始末して死体に戻って頂くしかないのだが、こいつがすごい勢いで逃げ出したので、彼を捕まえてそもそもなんであのホテルに行ったのかも含めて聞きだすと、こいつが運ぶのを依頼されたドラッグの怪しいルートまで遡らないとまずいかんじになってきて…

呼び出された仕事人が思いもよらなかったやばい方に巻き込まれて悪夢のような一晩を過ごすことになる、というクライム・コメディで、監督が好きだという”After Hours” (1985)っぽくもあるのだが、真ん中のふたりはやはりミスキャストだったのではないか。

George ClooneyもBrad Pittもそれなりの場数を踏んできて腕は確かなのだろうが、「オレはできる男」のナル臭が強すぎて鼻につくし、これに近いやり取りは”Ocean's -“ (2001-)のシリーズなどで既に見てるし、もうわかったよ、になる。

どうせならあの若者をモンスターかエイリアンかミュータントにでもしちゃえばよかったのに、とか。


Quiz Lady (2023)

制作会社がGloria Sanchez - Will FerrellとAdam McKayの - だったのでよいかも、になる。
監督はJessica Yu。 全世界で配信のみだったのかー。

Anne (Awkwafina) は子供の頃から長寿クイズ番組 - “Can't Stop the Quiz”に浸かって内に籠り、父は家出蒸発し、ギャンブル狂の母は借金を背負ったままマカオに高飛びして、姉のJenny (Sandra Oh)も夢を追うんだ、って家を出て、最後にはAnneと老パグのリングイネが残されて、彼女は勤務先の会計事務所と家を行き来するだけ、毎日のクイズ番組だけを楽しみに生きているので、クイズならいくらでも答えられる。

でも破産して車上で暮らすJennyが戻ってきて、母親の借金のカタでリングイネが誘拐されて身代金を要求されて、最後に残された道はAnneが“Can't Stop the Quiz”に出演して賞金を稼ぐことしかなくて、後半はWill Ferrellが司会で、陰険なJason Schwartzmanがずっと挑戦者を退けて勝ち続けている番組にJennyと一緒に臨むのだった…

例によってまともな人がひとりも出てこないドタバタコメディで、アジア人、女性、借金、等々のネガをはねのけるの。大好きなクイズ番組とパグのために。

パグがかわいいからぜんぶ許す。