5月2日、金曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
ベルギー映画で、監督はこれが初監督作となるLeonardo Van Dijl、昨年のカンヌの批評家週間で上映されて、共同プロデュースにはダルデンヌ兄弟の名前が、そしてExecutiveプロデューサーにはNaomi Osakaの名前がある。 英語題は”Julie Keeps Quiet”。
ポスターは主人公Julie (Tessa Van den Broeck)が叫んでいるように見える歪んだ顔のクローズアップで、それでも“Keeps Quiet”とは?
15歳のJulieはエリート向けテニスアカデミーに通っていて、その中でも将来を見込まれて特別待遇を受けている選手で、本人もやる気十分でばりばり練習している - Julie役のTessa Van den Broeckは演技経験のないテニスプレイヤーで、撮影前に6週間のワークショップに参加しただけだそう。
ある日、同じアカデミーにいて、しばらく前に自殺したAlineという選手のコーチをしていたJeremyが協会から謹慎処分を受けてもうここには復帰できない、という連絡を受けてざわざわする。JeremyはJulieの専任コーチでもあった。
はじめのうちはふーんそうか、と独りで黙々と練習をしていくJulieだったが、そのうち何でこんなことになっているのか、Jeremyの指導がないと前に進めない、という苛立ちや焦りが彼女を追いつめていく(ように見える - ただし推測)。そしてJeremyからはJulieのスマホにちょこちょこチャットでメッセージが入ってきたりする – がそれに応えたらいけないと思うので相手にはしない(後で少し話してしまったりはする)。
何も語らないJulieは、Alineの自殺の根にあったものもおそらく知っているし、なぜJeremyが謹慎処分になったのかもわかっている。これらを吹っ切って練習を続けないと自分に選手としての将来がないこともわかっている。これらに囲まれて塞ぎこんでいる彼女のことを心配した大人たちが集まってきてカウンセリングのようなことも始まるのだが、Julieは沈黙を続ける。ここでJeremyとの間にあったことを話すと自分の今後の活動に影響するかもしれないし、最悪の場合、好きなテニスを続けられなくなってしまうかもしれない。そして大人たちは大人たちで、Julieが何かをスピークアップしまうことで自分たちの監督責任が問われてしまうかもしれない、ので無理な深掘りはせず遠くから恐々眺めるだけ。 - という状況が延々繰り返されていって、全体としては袋小路のなか、これはなんなのだろう? の不条理が浮かびあがってくる。 そしてこうして、周囲になにも言えなくなる空気や状況が形づくられていくのか、と。
少し前のテニスドラマ – “Challengers” (2024)では上位にいる女性プレイヤーとその下位の男子2名の性的なところも含めた丁々発止のやりとりがバカっぽくエネルギッシュに描かれていたが、男性と女性の位置関係が逆転すると、こうまでテーマや明度が変わってしまうものなのか。
監督は12歳の体操選手だった少女が怪我をしても周囲に言わずに我慢して無理しているのを見てこのドラマを思いついたそうだが、スポーツの場合、何故か子供たちを「大人」のように扱って(尊重して?)彼/彼女の「自主性」に任せたりする – そうすることで何か起こった場合でも責任回避できるし、うまく行ったら彼/彼女は更に成長するかもしれないし。でもやはり、彼/彼女は子供なのだから、適正に監督されてケアされなければならないし、子供たちには言いたいことをきちんと伝えられる環境が用意されるべきなのだ、と。それをずっと体育会系のカルチャーに染まってのし上がってきた協会にいる大人たちが用意できるのか? はあるけど。
この作品を集ってくるメディアに対して明確に”NO”を突きつけたNaomi Osakaがプロデュースしている、というのはとても納得がいく。
日本でも見られてほしいと思うけど、Julieの沈黙を「えらい」って勘違いするバカが大量に湧いてきそうでとてもこわい。
5.14.2025
[film] Julie zwijgt (2024)
5.13.2025
[music] The Pogues
5月3日、土曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。
彼らの2nd “Rum Sodomy & the Lash” (1985)のリリース40周年に合わせてフルで演奏するライブで、2024年の”Red Roses for Me” (1984)の40周年記念ライブに続くシリーズなのか。
2023年のShane MacGowanの死と共にThe Poguesというバンドは無くなったのだ、と誰もが思っている。 ShaneもPhilip ChevronもDarryl Huntも亡くなり、Terry WoodsもAndrew Rankenもいない。残っているのはSpider StacyとJem FinerとJames Fearnleyの3人だけで、ゲストをいくら加えたからといってそんなのThe Poguesとは名乗れないのではないか、と。
でも、アイリッシュトラッドの野卑な獰猛さをパンクに結び付けて、それを一揆の音楽として練りあげていった彼らのスタイルはバンドがなくなったからといって塵にしてしまうのは惜しいし、それにShaneなんて生きている時から(90年代以降はずっと)ステージ上では死んでたようなもんなのだから、こういうのもありなのではないか、と。しかも会場はAcademy Brixtonなのだし。
などと思ってチケットを探そうとしたらとっくに売り切れていて、たまにリセールでフロアのスタンディングのが出てくる程度。あの会場で、Poguesのスタンディングで揉まれたら体が八つ裂きにされてしまうと思って、2階席のを追っていたらどうにか一番前のが釣れた。
直前まで映画を見ていて、開演に間に合わないかと思ったが、Brixtonの駅の近くから"Dirty Old Town"を肩を組んで歌いながら会場に向かう酔っ払いの群れを見て少し安心する。着いたのは9時少し前、そこから5分くらいで始まる。フロアを見下ろすと、既に“Rum Sodomy & the Lash”のジャケット - ジェリコーの『メデューズ号の筏』 (1818)みたいな状態のぐじゃぐじゃで。 病みあがりだったので、あそこに入っていったら簡単に死ねるな、とか。しかし40周年であるのでモッシュでべちゃべちゃになっているのって老人ばかりなのよ。
さて、”Rum Sodomy & the Lash”というアルバムは、この後の”If I Should Fall from Grace with God” (1988)でそのスタイルを完成させて世界的に成功するひとつ手前、バンドのラインナップが固まって、でもレーベルはStiffでプロデュースはElvis Costelloで、粗削りのライブの勢いをそのままもちこんで、でもトラッドもいっぱいあって、危なっかしいけどひたすら前のめりで、”If I Should Fall from...”よりも生き生きと跳ねまわっていて、よいの。
ステージ上にはアイリッシュハープもあるし、でっかい太鼓もあるし、バグパイプもある。曲によって替わる女性ヴォーカルは3人、ホーンもいるし、多いときで13人くらいがステージ上にいる。Spiderがご機嫌に客を煽って、つるっぱげのJames Fearnleyがそれに乗っかり、Jem Finerはいつものように学校の先生で、それ以外はミュージシャンみたいなミュージシャンたちが椅子に座ったりして演奏する。でも結局リズムがどんどこで、ぎゃーって雄叫びがあがったら突撃するしかないのだろうな(かわいそうに..)。
一曲目の"The Sick Bed of Cúchulainn"はスタンディングの前方からばしゃーんとかびしゃーんみたいな水が炸裂する音(要はビールの)がいっぱい聞こえて、そういう盛りあがりとは別に、音の方は細かったり荒縄いっぽんだったところが重ねられたり補強されたり、よい意味での大船になっていた。これなら旗を立てても帆をはっても飛ばされることはあるまい。音をきちんと重ねてもその勢いが削がれることはなく、客はどっちにしても幸せに突っ走っていくので、なんの不満があろうか、って何度も頷く。
曲順はアルバム通りではなくて、やはり盛りあがりを考えているのか、本編の最後は女性3人が横並びで"London Girl" – エムザ有明での初来日公演のアンコールがこの曲だったなあ、鼻からビールをぶわーってやったShaneの笑顔が忘れられないなー、とか。 アンコールの最初は“The Irish Rovers”、エンディングは”Sally MacLennane”だった。
それにしてもさー、40年だよ。「ラム酒と淫行と鞭打ちしかない」(by チャーチル)が40年って、なんで? も含めて、なんでこんなことに?/こんなふうになっているなんてー、しかない。狂っていなかったらとてもやってらんないよね。
5.11.2025
[theatre] Richard II
4月29日、火曜日の晩、Bridge Theatreで見ました。
Bridge Theatreは久々で、ここでは過去Maggie Smithの一人芝居やLaura Linneyのこれも一人芝居の”My Name Is Lucy Barton”などを見ていて、今回のは一人芝居ではないがJonathan Baileyがメインでフィーチャーされている。
原作はShakespeare、演出はNicholas Hytner。プログラムにも原作の文庫にもファミリーツリーが載っていて、これがあるといつもビビるのだが、今回はだいじょうぶ(なにが?)だった。後で振り返るのによいの。
舞台はシンプルかつダークな黒で統一され、真ん中に執務机とかベッドやシャンデリアが上から下からすーっと出てくる程度。客席を四方で囲み、裁判や演説の際は、客席やバルコニーも使う。Richard II (Jonathan Bailey)も周囲の部下たちもぱりっとした現代のスーツを着て出社(?)すると秘書から社員証のように王冠を受けとる。
王Richard IIを中心とした一族のドラマ、そのなかでも権力抗争にフォーカスして、だからQueen Isabel (Olivia Popica) の影は薄めで、硬軟いろいろのじじいたち、忠犬みたいに同じ顔した同じ動作の幹部っぽい男たち、それらに憧れていきりたい若者たちが右から左から現れては消えていく、男たちのお話し。原作を読んでいなくてもどんな話なのかはわかる - そういう話に集約してよいのかどうかは別として。
男の威厳とか人を操って言うことを聞かせる王のパワーとかオーラ - それ相当のなにかはどこでどうやって手に入れて広がってコトを起こし、それらはどうやって他の権力者 or 継承者に移って次の代にトランスフォームされていくのか。それを情緒と無常感たっぷりに”Why~??”って泣いて騒いで訴えるのではなく、権力とは、その抗争とは、その遷移とはこういうものなのだ、とドライに描いていく。弦を中心とした音楽だけは映画音楽のようにドラマチックに響いてくるが。
それでも叔父のJohn of Gaunt (Nick Sampson)の死後、Richard IIがその遺産をかっさらったり、コカインを決めながらアイルランド侵攻を決めたりしていると周囲から不満の芽が出てきてらそこに政敵、というかRichard IIの反対側に立って追放されていたHenry Bullingbrook (Jordan Kouamé - 元のRoyce Pierre sonからこの晩だけなのか替わっていた)がどこかからやってきて、彼はRichardとは反対に寡黙でなに考えているのかわからないしふてぶてしいし、スーツの他にパーカーのようなラフな格好もして、騒がしい決闘も政変もないまま気がつけば王位を奪って、側近も替わっている(ように見える)。
それでもRichardは余裕でHenryを憐れんであげたりもするのだが、周囲には響いていかない。自分の頭で叩き割ってしまった鏡は元には戻らず元の像を写すこともなく、上が替わったらすべてが入れ替わり元に戻ることはない、時間と実績とか達成の度合いとそれに纏わる合意と総意がすべてで、交替後は死体袋に入れられて滑らかな床面を滑っていくだけ、と。どこまでもドライで、でも取り巻きも含めてそういう風にしたのも彼なのだ、と。
Jonathan Baileyのそんなに大きくない身体は、とてもよく響く声(怒鳴っても痛くない)と合わさって、そのしなやかな動きは自身のエゴとパブリック・イメージを見事に統御しているかのようで、やはりかっこよいと思った。
5.10.2025
[film] 風櫃來的人 (1983)
4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの4月の特集 - “Myriad Voices: Reframing Taiwan New Cinema”で見ました。 侯孝賢を含めて台湾のニューシネマはこれまで全然見れていないので、いろいろ見たかったのだが、この特集もこの1本で終わってしまった。4月のばか。
邦題は『風櫃の少年』。英語題は”The Boys from Fengkuei” CINEMATEK - Royal Belgian Film Archiveによる4Kリストア版。 別の日には撮影を担当したChen Kun-hou(陳坤厚)によるイントロがあったそう(聞きたかった)。侯孝賢の半自伝的なドラマである、と。
いつの年代かの台湾の離島、ひなびた漁村の風櫃に中学生くらいのAh-chingがいて、彼の父は草野球で打球がおでこを直撃してから椅子に座ったまま動けなくなっていて、彼の他にはAh-rong, Kuo-zai, Ah-yuの3人がいて、いつも4人で浜辺でバカなことをしているか、他のガキ共に喧嘩を売ったり売られたりで逃げては集まり、女の子にちょっかいを出しては逃げたり避けられたり、だいたい退屈ですることがないのでそういうことをして、全体としてここにいてもつまんないし、ろくなことがないからここを出てどこか別のところへ行こう、になる。 若い頃(の特に男子)というのはそういうバカなことをいっぱいしたり、いろんなところに行って自分が少しはなじめそうな場所なり集まりなりを見つける動物の時期、というのはわかっていて、それが風櫃の少年たちに起こったら、それは例えばこんな日々になる、という絵を描いている。
映画になるのであれば、最終的にどこそこに落ち着いた、か、落ち着くことができず挫折してはぐれ者になった、辺りが世の青春映画としては一般的だと思うが、この映画の主人公たちはそのぎりぎり手前、バカなことをしてふらふらしている地点、どこにも行けない吹きだまりのような場所を永遠に彷徨っているように見えて、そうしていながら4人は3人に、3人は2人になったり、父が亡くなったり、その周りで切り取らていく風景は、いつまでもあの時のまま、決着つかないまま時間ごと止まっていて、我々はそういうふうに止まった時間のありようを、あの風景を通して見る・見返す、というか。そういう印象とか残像のようにして残るなにか。
これって多分に、思いきり男子のもので、家の事情で勝手に動けなかったりする女子だと見え方も残り方も違うのだろうな、と思いつつも。
片方には家の玄関があり、片方には遠くに延びていく道路があって、バイクは画面の奥に遠ざかって消えていき、玄関の前には時間が止まって動かなくなってしまった「父」が座っていて、そのどちらにも向かえないまま乗り遅れたり(何に?)、そこにいるはずの誰か(誰?)がいなかったりした時に見える(特に見たくもない)風景、がずっとそこにあって、このパノラマはいったい何なのだ?って打ちのめされて見ていた。
とにかく風櫃には何もないので、外に出ていくしかなくて、そのきっかけとか動機は仕事か女性かしかなくて、仕事も女性も常に裏切ってくる – fitする何かなんてどこにあるのか? - ので、場所を渡って仕事を変えて、女の子には必ず振られて、を繰り返す – それが4人の男子の王兵のドキュメンタリーフィルムに出てくるような俳優顔じゃない彼らの顔と共に後ろに流れていって、それは風景と一緒にどこかに消えていく – けど消えていかずにずっと残る。
音楽はクラシックが流れて、Jia Zhangke(贾樟柯)の使うJoy Divisionがもたらす効果とはやはりぜんぜん違う。どちらもよいの。
こういうイメージを捕らえて重ねて編んでいく、って誰でも実現できそうなようで実はものすごく難しい - ゴダールの映画がそうであるように、なのかも。
5.08.2025
[film] Thunderbolts* (2025)
5月1日、木曜日の晩 - まだpreview扱いだったが - BFI IMAXで見ました。
監督は”Paper Towns” (2015)のJake Schreier、撮影はDavid LoweryとやってきたAndrew Droz Palermo、音楽はSon Luxなど、とてもMarvelフランチャイズの諸作に並べられるような粒立ちやメジャー感はなくて、それはキャストもそうで、Florence Pugh, Sebastian Stan, Julia Louis-Dreyfusを除けば有象無象すぎでヒーローものの華も勢いもなくて、しかもタイトルに雑検索用の”*”まで付いて、要は従来路線とは違うことをやろうとしている、そしてそこに間もなく公開される(やたら宣伝がうるさくなってきた)”The Fantastic Four: First Steps” (2025)のレトロフューチャー仕様を加えるともうぜんぜん違う何かに投資・変態しているようなのだが、このシリーズはずっと追っているのでしょうもなく付きあって公開初日に見てしまうのだった。
冒頭からYelena (Florence Pugh)は浮かない顔でマレーシアの高層ビルの上から飛び降りてやりたくもない請け負いの殺し仕事をやってて、雇い主のCIAのValentina (Julia Louis-Dreyfus)は弾劾裁判をくらって旗色も顔色もよくなくて、気分が晴れないYelenaはAlexei (David Harbour)を訪ねて、一緒に指令を受けた秘密施設に赴くのだが、そこに有象無象の連中がいて勝ち残りバトルをしながらこれは互いに潰しあうホイホイ系の罠だ、って気づいた時にはもう遅い。
その中にはBob (Lewis Pullman)っていうパジャマみたいな拘束衣みたいのを着た毛色の違う男がいて、のらくらぶりが気になるのだが、力をあわせてその施設を破壊して抜けだして車で逃げていくと追っ手がきて、彼らを助けるのか捕まえるのかBucky (Sebastian Stan)も現れて。
こんなふうに、明白な敵や強者が現れてそこに向かって立ちふさがる、或いはFirst Avengerのようにお国のために立ちあがる、といったポジティブな動機もなければ、スーパーパワーもそれに沿うべく積極的に獲得されたものでもない、単なる金づるだったり、AlexeiもBuckyのように過去からの柵でしかなかったり。
ストーリーラインも、集められた者同士で殺し合い、その中の突出したひとりが手に負えないので力を合わせてどうにかする、それを抜けてみると明らかな政治利用目的(と弾劾目眩し)で勝手にリプランドされて周知されて逃げようがなくなる、というもので、こないだの”Captain America: Brave New World” (2025)がそうだったように、はっきりとどーでもよいインナーポリティクスのごたごた(のエサ)を描いているだけ。
たぶんもう”New World”も新たなヒーローもこんなふうに押しつけられる形でしかやってこなくて、そんなとこで”Brave”もクソもないのだ(拡張戦略もマーケティングも)という背景の暗さと脆さが公開前から丸見えで、でもだからこそ愚連隊がやけくそでめちゃくちゃやってくれることを期待したのだが、そんなでもなかったところが苦しくて、そんなふうに置かれた苦しさや苦さも含めてわかって、というのかもしれないが、そこまで暇でもマニアでもないのよねー、とか。
寄せ集められ、束ねられて見られる、そこで期待されるやっつけ仕事の徒労感と先の見えないかんじはよーくわかるので、あと少しでおーやったやった、になれたかも知れないのに、あのラストは興醒めしてしまうし、こんなの契約違反、って椅子を蹴る人がいてもおかしくないのに。
戻りの飛行機でYelenaの姉の代の”Captain America: The Winter Soldier”(2014)を再見して、誰が本当の悪なのかわからない中、ただ正直でありたい、と語ったSteve Rogersのあのわかりやすさ明快さは政治や地政がコミックになってしまった今、望みようのないところまで行ってしまったのだろうか、とか。
こんなふうにぐだぐだどうでもよいことを考えるネタは与えてくれるのだがなー。
[film] Rich and Famous (1981)
4月30日、水曜日の晩、BFI Southbankの特集 – “The Old Man Is Still Alive”で見ました。 これがこの特集で見た最後の一本。見れてよかった。
上映前にBFIの人が出てきて、今回の上映はBFIのアーカイブにある35mmによるものです。少し退色がありますが楽しんで貰えると思います、って。うん、すごくよいプリントだった。
監督はGeorge Cukor。原作は英国のJohn Van Drutenによる戯曲 - “Old Acquaintance” (1940)をGerald Ayresが脚色したもので、オリジナルタイトルでの映画化は、1943年にBette DavisとMiriam Hopkinsの共演 - 邦題は『旧友』 - により既にある(これも見たい!)。今作の邦題は『ベストフレンズ』。
当初はRobert Mulliganの監督で撮り始めていたのだが、俳優組合のストで3ヶ月間の中断があり、彼の都合で続行不可になり、81歳でセミリタイア状態だったGeorge Cukorのところに話が行った、と。これが彼の遺作となる。
すばらしい音楽はGeorges Delerue。あと、Meg RyanがCandice Bergenの18歳の娘役でスクリーンデビューしている。80年代初のヘアスタイル。
1959年のSmith Collegeで親友だったLiz (Jacqueline Bisset)とMerry (Candice Bergen)がいて、寒そうな雪の晩、LizはMerryがBFのDoug (David Selby)と駆け落ちするのを助けて、そこから10年経った1969年、成功した作家になった(でもシングルの)Lizは、あの後Dougと結婚して一人娘がいて、西海岸の社交界で成功したセレブになっているMerryの邸宅を訪ねる。
何ひとつ不自由ない暮らしを送っているはずのMerryがLizを見ていたら自分もなんか書きたくなった - ひとつ書いてみたので作家としてLizのコメントがほしい、と言うので読んでみたら悪くないので出版社を紹介してあげたら、マリブの社交界をモデルにしたその小説は当たって、Merryは小説家としてデビューしてしまう。
こうしてずっと独身のままNYで若い青年複数も含め行き当たりばったりで相手をとっかえひっかえしつつ、こんなんでよいのか - いいや、を繰り返していくLizと、Dougとも別れ、娘のDebby (Meg Ryan)も手を離れ、作家として独り立ちしてもどこか満たされずに煩悩にまみれて落ち着かないMerryの周辺と、喧嘩してはくっついてを繰り返してなんとなく続いていく22年間の友情? を描いて悪くないの。
それは「ベストフレンズ」的な愛とプライドと確信に満ちたものではなく、ちっともふたりそれぞれのイメージしていた落ち着いた大人になれないまま、でもそうしかできないのでやりたいように過ごしていくうち、それぞれの岐路でいちいちなんかぶつかったりぶつけられたり、泣いたり呻いたりの先にいるのがやっぱりあんたか! になっていく様がひたすらおもしろかったり息を呑んだり、それだけなの。
そしてGeorge Cukorの演出は、なにがどうしたらあんなふうにおもしろくできるのかわからないが、見事に振り付けされたバレエがどんなに遠くの席からもその感情のひだひだを的確に伝え運んでくるように、ふたりの22年間をそれぞれのカットでしっかりと切り取って、そこにGeorges Delerueのスコアが絡まるとびくともしない。女性たちが言いあったり張りあったりしているのがひたすら続く”The Women” (1939)の画面から目を離せなくなってしまうのと同様の魔法、というか正しさのようなものがある。
60年代マリブのパーティーシーンではChristopher IsherwoodやPaul Morrisseyがカメオで出演していたことを後で知る。 もう一度見たい。
Frenzy (1972)
4月27日、日曜日の夕方、↑と同じ特集で見ました。
Alfred Hitchcockの終わりから2番目の作品、だけどHitchcockなもんで、おもしろくて怖くて釘づけだから。
ロンドンで、ネクタイで首を絞めて女性を殺して棄てる連続殺人事件が起こって、職を失ったばかりのRichard (Jon Finch) が犯人に仕立てあげられてどうする? の恐怖と、犯人Bob (Barry Foster) が女性に近寄って殺すシーンのどちらも(特に後者が)怖くて、これに関してはThe Old Man Is Still Alive”どころではないわ、になった。
あと、犯人が暮らしているCovent Gardenの青果市場界隈、ここには1974年まで実際に市場があって、その様子は昔のドキュメンタリーフィルムとか写真集でよく見るのであーこれがー、ってなった。
5.07.2025
[film] Sister Midnight (2024)
4月28日、月曜日の晩、JW3っていう少し北のFinchley Rdにあるカルチャーセンターみたいな施設の映画館で見ました。久々の観客自分ひとりだけ、だった。
6週間英国にいなかった間に新作としてリリースされた作品で、見たいと思っていたやつは戻ってきた時はほぼ終わって配信に移ったりしていて、それなら配信で見ればいいじゃん、なのだが配信て面倒じゃん? なのでこんなふうに地方で上映してくれていたら見にいく。
インド系英国人のKaran Kandhariが作・監督した彼の長編デビュー作で、2024年のカンヌでプレミアされ、BAFTAの最優秀新人英国映画にノミネートされた(でも”Kneecap”に敗れた)、英国 - スェーデン - インド映画。BFIも制作に関わっていて予告がおもしろそうだったの。でも予告から受けたどたばたコメディとは結構違う印象だった。
冒頭、Uma (Radhika Apte)はひとり列車に乗ってインドの田舎を旅してムンバイの町まで来て、そこの長屋の一軒にいた男と式をあげて一緒に暮らし始めるのだが、おそらく親が決めた見合い結婚の相手と思われる夫Gopal (Ashok Pathak)はほぼ喋らず顔も合わせず、TVを見て酒ばかり飲んで朝になると仕事に出て行き、夜は布団の隅で固まってUmaには触ろうともしない - たまにUmaが腕の装身具をじゃらじゃらさせて威嚇しても無反応で - といった辺りがなんのナレーションも会話もなく、アクションのスケッチのみで綴られていく。
隣のおばさんに料理を教えて貰ったりしてもおもしろくないし、Umaは歩いて4時間かかる先にあるビル清掃会社で夜間の清掃のバイトを始めて、そのビルでエレベーターを操作している老人と仲よくなって一緒に帰ったりもするのだが、それで深夜や朝にに帰宅してもGopalは何も言ってこない。
やがて深夜の帰宅中に、道端にいた山羊に寄っていって噛み殺してしまったり、そこらの鳥を捕まえて齧ったりしてている自分に気づき、ああ何をしているんだ? って慄いたりしていると、そのうち彼らはぎこちないストップモーションのアニメ(なかなかかわいい)となって蘇り、彼女の方に寄ってきて遊んでくれたりする。
新婚家庭での虐待(ネグレクト)によってゆっくりとおかしくなっていくUmaの姿を描く、というよかもう少し広い視野に立ち、ご近所界隈を含めた世界全体に向かってこれってどうなってんだふざけんな! って吠える彼女の姿を描いていて、それが女々しく痛々しいトーンではなく、鼻に絆創膏の傷だらけジャンキーのいでたちなので痛快だったりおかしかったり、その仁王立ちする像はIggy Popの”The Idiot” (1977) の収録曲 - “Sister Midnight”に見事に重なってくる。
最後には夫Gopalへの復讐へ、というシンプルなホラーの方には向かわず、我こそは夜の女王なりー、みたいに闇の中に厳かに立ちあがって、それが何? って平然としていて、結果なんかかっこよく見える。印象としてはWes Andersonのすっとぼけたトーンにガレージの錆びた臭いをまぶしたような。
音楽はInterpolのPaul Banksで、挿入曲には、The Bandの”The Weight”とか、Buddy Hollyとか、Motörhead とか、T.Rexの”Mambo Sun”とか、The Stoogesの”Gimme Danger”とか、いろんなブルーズが、インドの田舎の荒んだ景色にうまくはまっていて、よいの。