6.28.2025

[theatre] Fiddler on the Roof

6月6日、金曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。

Sholem Aleichemの短編小説” Tevye”を原作として、1964年、NYで初演された(演出、振付はJerome Robbinsだったのか)ミュージカルで、既にいろんなところでロングランされているクラシックで、このバージョンは、昨年の夏にRegent’s Park Open Air theatre - 野外シアターで上演されたものの屋内リバイバル。演出はJordan Fein。

『屋根の上のヴァイオリン弾き』というと子供の頃、新聞の夕刊に森繁久彌主演のこれの広告がずーっと掲載されていて、なので森繁というのは屋根の上でヴァイオリンを弾く人なのだ、とずっと信じこんでいた(Wikiで当時のキャストなどを見るとすごいのね)。そういう根深いインパクトをもつ芝居であるし、他のバージョンも全く知らないしどうしようか、だったのだが一度は見ておこう、と。

演出はJordan Fein。舞台上には屋根の上に藁が茂るようにはられた掘っ立て小屋が一軒建っていて、その上には楽隊がいて、ヴァイオリン弾き(Raphael Papo)がそこで黙って弾きだして、そこに主人公のTevye (Adam Dannheisser)がやってくる。Tevyeがヴァイオリン弾きなのではなくて、彼は牛乳配達人で、ヴァイオリン弾きは彼の影のように傍にいたり屋根の上にいたり、彼とその周りのエモーションをダイレクトに音として奏でてみんなの歌を紡ぎだす。

全体としては彼の5人の娘たちの結婚 - 彼女たちひとりひとりが相手を決めたり決められたりで結婚して家を出ていく話と、彼らを包む村の人たちみんなが追いたてられて住処を追われる話を、悲劇的ではなく、どちらかというと悲喜こもごもの調子で、でも力強い歌と – ところどころコミカルなやりとりとかコサックダンスとかも交えつつ - アンサンブルのなかで高揚感たっぷりに描いていって、Tevyeひとりが出っ張るのではなく、妻のGolde (Lara Pulver)も娘たちも、等しく印象に残る。

Tevyeの伝統に忠実であろうとする誠実さ、家長としての真面目さと強さ、この揺るぎなさが一族と劇全体を支えて、それが時勢の不条理感 – なぜ自分たちばかりが? - を際立たせ、混乱の時代を生きた家族、家族のありようを描いたドラマとしてとてもよくできていて、すばらしい家族の、人々の像として迫ってくる。

他方で、でもだからこそ、家や家族を奪われ続けているガザの人たちのことが映りこんできてしまう。ここでのTevyeや女性たちの辛苦や決断が、彼らの歌や音楽が、それなりの普遍性をもって響いてくるなら(そういう造りになっていると思った)、そちらに思いが至らないわけないよね? ということを当然のように差しだしてくれる、という点でも、よいミュージカルだった。


Mrs.Warren's Profession

6月10日、火曜日の晩、Garrick Theatreで見ました。

原作はGeorge Bernard Shawの同名戯曲(1893) - 『ウォレン夫人の職業』で、発表当時検閲を受けて上演禁止となった。Shawの”Plays Unpleasant” - 「不愉快な劇」の第3作めで、ベンヤミンがこの作品について論じているベンヤミン・コレクションの文庫は日本に置いてきてしまった。演出はDominic Cooke。

実の母(Imelda Staunton)と娘(Bessie Carter)が劇中の母役娘役を演じるということで少し話題になったが、この劇で実の母娘が演じるのは過去にもあったらしい。

舞台上には円を描いて英国の庭園のようにきちんと花が植えられていて、その手前真ん中にベンチがあり、行きかう人々は円のまわりを行き来しつつ、ベンチで会話をする。舞台衣装は当時のクラシックなそれ - 貴族のきちんとしたナリをしている。

Vivie (Bessie Carter)はケンブリッジを出て、法曹の道に進もうと意気揚々で、そんな彼女のところに母Kitty (Imelda Staunton)が訪ねてきて、自分の仕事は太古からある伝統的な仕事 - 娼館の経営である、と大げさでもなく、隠すふうでもなく、堂々という。

そこから、そんなー、って大騒ぎの大喧嘩になるのではなく、基本は会話劇で、やってくる牧師や貴族の男たちも絡めつつKittyは自分の仕事のある意味での「正しさ」や誇りのようなところまで語り、Vivieは正義に燃えるひとりの女性として対峙して、その対立する中味はわかるのだが、劇としてはやや静かすぎて、眠くなってしまうやつだったかも。

Imelda Stauntonはさすがに巧くて、Bessie Carterもがんばってはいるのだがママにはやはり及ばない、その辺が正直に出てしまうところとかも。
 

6.26.2025

[theatre] London Road

6月11日、水曜日の晩、National TheatreのOlivier Theatreで見ました。

この時期(初夏?)は、リバイバルされる劇が多いようで、もうじき”Nye”も再演されるし、Old Vicでは”Girl from the North Country”もかかる。 この劇も初演の2011年以降、National TheatreやOld Vicで再演され、アメリカでも上演され、2015年には映画化もされている(未見)。今回も短期間の再上演だったが、人気のようでいっぱい入っていた。

ミュージカルだが、音楽と歌ががんがんに飛び交ってクライマックスに向けて力強く盛りあげていくタイプのではなく、ステージの奥にいるのもオーケストラではなく、木管とギターと鍵盤と打楽器を中心としたバンドが7名。つぶやくように歌い始めたり声を掛けあって繰り返していくうちに周囲の人たちが別のメロや調子で絡んで広げていくようなスタイル。13名いるキャストは住民の役だけでなく、取材に来た記者とか、いろんな役柄を掛け持ちしている。 原作はAlecky Blythe、スコアと歌詞はAdam Cork、演出はRufus Norris。

始まる前から舞台上 - 町の集会場なようなセットに普段着や部屋着に毛のはえたような服装の人々が寛いだ様子でだらだらとやってきてお茶やお菓子を用意して会合を開こうとしている。

イギリスの東、サフォーク州のイプスイッチのLondon Roadの界隈で、2006年、5人のセックスワーカーが連続して殺された。これにLondon Roadに住む住民たちが自分たちも含めこの地域をなんとか立て直さなきゃ、と立ちあがって自警団を作ったりいろんなケアもしたり奔走して、町は明るさを取り戻した - この実話を元にしていて、劇の登場人物たちには実在のモデルがいて、彼らの台詞もインタビューなどで記録されたものから来ているのだそう。実話ベースといっても事件の詳細、動機に背景、犯人像を追ったりフォーカスしたり、というところは限定的で、ニュースを聞いたりするシーンはあるものの、あくまで住民の目で見て聞こえてくるもの、が軸になっている。

冒頭に開かれる最初の会合では、どこの住民会でもそうであるように、纏まっているようないないような、ひとりひとりが思いつきのような勝手なことを言って微妙な相槌が打たれて、など、なにが合意されたのか否定されたのかわからない、なあなあの空気を音楽はうまくとらえて纏めていて、それが段々にやっぱりこのままじゃいけないよね、ってどこからかでっかいフラワーポットが持ちこまれたあたりから、音楽のアンサンブルも登場人物のアンサンブルも歌の調子も少しづつ変わって力強いうねりを作っていく。

事件が起こったのはたまたまここLondon Roadだったが、どこかで今も起こったっておかしくないことを、警察でも政治家でもない、そこに住む人たちはどう捉え、考えて、よい方向に変えていこうとするのか、したのか。えらいと思ったのは、被害者であるセックスワーカーへの偏見や、台詞として聞こえてくる「移民のせいでは?」のようなところに持っていかず、捜査や犯人捜しは警察の仕事なのでそれはそれ、自分たちがやるべきことは夜が恐くて通りを出歩けなくなってしまったこの町に誰でも来て貰えるような明るさを取り戻すことだ、って、もちろん全員が一枚岩でがっちり進むわけでもないのだが、最後に舞台が上から降りてくる花花で溢れかえるところはやはり感動するし、いいなー、って。

そうやって実際に町を復興させた彼らは偉いけど、でも彼らって自分たちのことでもあるのだ、あるはずなのだ、と思えば思うほど、今のメディアやSNS等に蔓延しているしょうもない島国根性のようなのが嫌で嫌でたまらなくなる。いまのあの国や自治体のトーンだとセックスワーカーも移民も安心安全の対象外、ってそれに全員が簡単に同調してGo、になりそうで。

この劇はすばらしくて大好きになったのだが、そういうことを思ってとても暗く悲しくなってしまった。

[film] The Rain People (1969)

6月8日、日曜日の夕方、BFI Southbankの特集 – “Wanda and Beyond: The World of Barbara Loden”で見ました。

作・監督はFrancis Ford Coppola。邦題は『雨のなかの女』。Coppolaがこんなのを撮っていたんだー、というのと、CoppolaとBarbara Lodenという線について考える。

ロングアイランドに住む主婦Natalie (Shirley Knight)は夫が寝ている間に家のワゴン車に乗って家を出て、実家に寄って、でもそこにいられそうにないので、更に西に向かい、途中のガソリンスタンドで夫にコレクトコールをかけて、自分が妊娠していること、でもしばらくは離れていたいことを告げる。両親からも夫からも離れて、彼らからするとNatalieの行動は理解できない。彼女もわかって貰えるとは思っていない。

途中でヒッチハイクしていた若者を拾い、彼はかつて大学フットボールの花形選手で‘Killer’ (James Caan)と呼ばれていて、試合で脳に損傷を負って見舞い金として貰った$1000を手元でほら、って見せてくれたりちょっと挙動が変なのだが、なんか捨てておけなくて、モーテルで関係をもったりもするのだがそこまでで、犬を躾けるように彼を扱って、彼はそれでも静かに付いてくる。 この後もKillerの元恋人の家を訪ねたり、道端の動物園で虐待飼育されている鶏とかをリリースして騒ぎになったり、コレクトコールでしつこく絡んでくる夫の電話線をずたずたにしたり、はらはらすることばかりなのだが、家的なものから逃げていくふたりのロードムーヴィーの雨に降られて錆びれたかんじがよいの。

Killerを吹っ切るようにして置き去りにしてから、スピード違反の切符を切りにきた警官のGordon (Robert Duvall)と仲良くなって、彼と娘の暮らすトレーラーハウスに呼ばれ、そこからの展開は”Wanda”の最後のようにしょうもない…

主人公はNatalieのはずなのだが、どうしてもKillerとかGordonといったバカで単細胞な男たちの危なっかしさの方に目がいってしまう、これはしょうがないことなのか…  すべて雨に降られちゃったから、って立ち尽くすしかないRain Peopleに、暗い道をとぼとぼ歩いていく”Wanda”の姿が重なる。


次の短編4本も特集”The World of Barbara Loden”からのひと枠で、6月9日、月曜日の晩に見ました。

“Sentimental Educations: Barbara Loden’s Classroom Films”というタイトルが付いていて、彼女が”Wanda”の他に監督(これらも16mmで撮影)した教育プログラム用の短編を見ることができて、このなかの1本は16mmフィルムで上映された。 Barbara Loden監督の2本を見ると、Kelly Reichardtだなあ(Barbara Lodenからの影響の大きいことよ)、って改めて。

The Frontier Experience (1975)

25分の作品。1869年、カンサスの荒野で子供たちふたりを抱え、夫はいなくなり、を生き抜いた女性Delilah Fowlerの手記をもとにした映画で、主人公をBarbara Loden自身が演じている。想像もつかないくらい大変そうで悲惨でかわいそうで、こんな過酷なところでどうやって?って話なのに、全体のトーンは乾いていて力強く、彼女はあそこで生きていたんだなー、がこちらに迫ってくる。

The Boy Who Liked Deer (1975)

これだけ16mmプリントでの上映。現代の話で、家でも学校でもやりたい放題の傲慢なガキがいて、近所にいる鹿たちを(鹿だけは)可愛がっていて、仲間たちと一緒に先生が大切にしていたE. E. Cummingsの初版本をぼろぼろにして泣かせたり(ここは先生がかわいそうすぎる)、でも彼らが別の悪戯をして狼藉して逃げる時に鹿の餌に毒が入っちゃって、大好きな鹿がしんじゃってわーわー泣くの。大好きなものってこんなにも脆いものなので、意地悪はやめようね、と。


The Fur Coat Club (1973)

次の2本は↑の”The Frontier Experience”でスクリプトを書いたJoan Micklin Silver – あの“Crossing Delancey”(1988)を監督した人だよ! - の最初期の作品で、どちらもすごくよかった。

現代、マンハッタンのセントラルパークの冬、小学生くらいの女の子ふたりが一緒に遊んでいて、道行く人の着ている毛皮にタッチする、タッチすれば幸せになれるらしくて、毛皮のひとを見つけては追っかけて背後にまわって毛皮なでなで、を繰り返していると、毛皮店の前に来て、そこは毛皮の宝庫だったのでなんとか忍びこんで幸せに満ち溢れていると閉店の時間になって鍵をかけられてしまってどうしよう、になっていたら夜更けに強盗がやってきて…

とにかく跳ね回るふたりがかわいい。90年代、毛皮反対の大波が来るNYにもこんな時代があったのねーになる。彼女たちはまだ毛皮をなでなでしたりしているのだろうか?

The Case of the Elevator Duck (1974)

古くて大きなアパートに大きめのエレベーターがあって、ある日そこの住人の少年が乗って自分のフロアまでいくと、エレベーター内にアヒル(生)がいるのを発見する。家に連れていったら怒られたので、アヒルと一緒にエレベーターに戻って、ひとつひとつ降りながらアヒルがどこのフロアで反応するのかを見ようとするのだが…

なんでアヒルがエレベーターに乗ってるねん? という突っこみを掘りさげていくのではなく、迷いアヒルをなんとかしてあげなきゃ、ってアヒルの身になって考えてあげる少年の魂がすばらしい。食用だったりして… とかそういう心配もいらなかった。

6.24.2025

[film] The Killing (1956)

6月14日、土曜日の晩、BFI SouthbankのFilm on Film Festivalで見ました。

この日は朝からStratford-upon-AvonにRoyal Shakespeare Companyの芝居を見に行って、夕方Londonに戻ってきた。土日は電車が突然止まったりなくなったりするので少しはらはらしたがどうにか間にあった。

この上映には”From Stanley Kubrick’s Personal Collection”とあって、ある日BFIにKubrickの住んでいたChildwickbury Manorから連絡が入り、ここにフィルムがいっぱいあるけど見たい? と言われたので見るに決まってるだろ、って行ってみると、よい状態で保管された彼の監督作の各国語版なども含めた大量のコレクションがあって、まだ掘り進めている最中だそうなのだが、その中からとても状態のよかったこれとデビュー作の短編ドキュメンタリーを。

Day of the Fight (1951)

監督・制作・撮影・編集をKubrickがやっている。
NYに暮らすボクサー(Walter Cartier)とその双子の兄弟がその晩の大事な試合に向けて準備していく様をDouglas Edwardsのナレーションが実況中継のように追って、その語りのテンションがそのまま試合の熱に繋がっていく。彼らの長い一日を12分に凝縮していて、終わると肩の力が抜ける – という点では既にKubrickの映画。リング上に寝転がって撮ったようなショットがあったけど、あれってやって許されたの?


The Killing (1956)

邦題は『現金に体を張れ』。Stanley Kubrickのハリウッド映画第一作。Lionel Whiteの小説をKubrickとJim Thompsonが脚色した作品。

上の“Day of the Fight”から続けて見ると、ヤマのイベントに向けて男たちが準備していくのをナレーション(Art Gilmore)が横から緊張感たっぷり、運命を語るかのように併走していくスタイルは似ている。

そしてもちろん、一対一のスポーツの試合とJohnny Clay (Sterling Hayden)が集めてくる仲間たち-それぞれで主演作を撮れそうな男たち - の群像劇&その背景となる競馬(試合)、という違いもある。どれだけ抜かりなく準備していっても「殺し」 - “The Killing”という巻き戻しのきかない一線を越えたものが出てしまったところから、事態は狂うべくして狂っていく、というノワール。

競馬の馬券売り場からお金を盗む、そこからよくあんなふうに世界とお話しを膨らませることができるなあ、って。なんでここにチェスプレイヤー兼レスラーを絡めたりすることができるのか。しかも最後なんてあんなちっちゃい犬ころに...

そしてフィルムの陰影のクオリティはすばらしかった。前見たときはデジタルで、全体に白っぽかったがこの粗い白黒の粒立ちは見事で、最後に舞い散る札束の一枚一枚がJohnnyにそう見えたであろうのと同じように非情に焼き付いてくるのだった。上映後、立ち上がって喝采する人たちがいたが、それくらい。


Hard to Handle (1933)

6月15日、日曜日の夕方、BFI SouthbankのFilm on Film Festivalで見ました。
この日、Westward the Women (1951)~Strongroom (1962)に続く3本目。35mmのフィルムはBBCが放映用に保管していたものだそう。

監督Mervyn LeRoy、主演James Cagneyによる78分のpre-codeコメディ。日本では公開されていない?

ホレス・マッコイの『彼らは廃馬を撃つ』(1935) で小説となり、Sydney Pollackの“They Shoot Horses, Don’t They?” (1969)で映画化もされた、あの悲痛な大恐慌時代のマラソン・ダンスをネタに、当時大スターだったJames Cagneyがどたばたコメディとして引っ掻き回している。

マラソン・ダンスでへろへろになりながら優勝しかけていたカップルの賞金が男の方に持ち逃げされて、その片割れだった恋人(Mary Brian)とその賞金で借金をどうにかしようとしていた詐欺師のLefty (James Cagney)は押し寄せてくる借金とりの相手をしたり逃げたりしつつ、新手の詐欺を仕掛けていって… というお話しで、恋人よりもそのママのRuth Donnellyのキャラの方がより強烈だったり、いろいろ。 

金儲けのネタとして出てくる万能のグレープフルーツ、半分に切ってお砂糖をかけてスプーンですくって食べるのって、この頃からあったのかー、っていうのと、最近そういう食べ方しなくなったよね.. とか。

そして、これくらいはったり仕込んで仕掛けて搔きまわさないと回らないくらい大変だったのが大恐慌時代、というのはなんとなく伝わってくる。そういう中でスターとして輝いていたJames Cagneyのことも。

あと、恋人役はCarole Lombardがやる予定だったけど降りた、って。

[music] LCD Soundsystem

6月19日、木曜日の晩、O2 Brixton Academy で見ました。

この日はRoyal Albert HallのYeah Yeah Yeahsもあった… と気づいた時には遅かった。NINも入れて、なんでこれらがロンドンの、この18-19日に集中するわけ? ぜんぜん行けてないけど裏ではMeltdown (Festival)も進行中だし。

彼らのライブを見るのは再結成/再起動した2016年のNYのPanorama (フェス)以来。最初に見たのは2003年のNYのBowery、The Raptureの前座で、当時のNYシーン - Yeah Yeah Yeahsもこの辺から - の狂騒のなか、何回か見ていて、なのでNIN〜LCDが続く二晩というのは自分にとってはフェスに行っているようなかんじになった(いちおう会社には行っている)。

彼らは今回このヴェニューで、6月12日から6月22日まで、間に3日間の休みを入れて、計8回のライブをやる。そんなに入るの/やるの?と思ったがぜんぶSold Outしている。

彼らはNYでも他の土地でもこのスタイルでサーカスの興行みたいに何日間も連続のライブ/パーティをやって大人気で、これが彼らのライブのスタイルとして定着している、と言ってよくて、これは2016年の再起動後のシフト、なのか、というのはちょっと確認したいところ。

DJもするJames Murphyにとっては、踊らせて、踊ってもらってなんぼ、で客の方も踊りたいからやってきて、音楽を聞く、というより約2時間のおいしい料理のコースを楽しんでお腹をいっぱいにして帰るかんじ。ステージは彼らのオープンキッチンでその上にところ狭しと並べられた機材は彼らの調理器具で、James Murphyはシェフで、お任せで定番も出すし、その日のスペシャルもあるしー。何度も通いたくなるライブにはそういうレストランみたいなところがあると思うが、LCDの場合は特にそういう食欲とか踊欲に近いようなところでの快楽を供する要素が強いと思って。

こうしてメニューはほぼ決まっているので、こんな曲をやった!とか、この曲をこんなアレンジで!とか、所謂ライブで話題になるようなことにはかすりもしない。でっかいミラーボールが回り、ストロボがばりばり、ドラムスのキックに連動したフラッシュが雷となり、ネオンのように瞬く粗めの豆電球による電光がバンドの演奏する姿を浮かびあがらせるが、全体としては歓楽街のディスコでありダンスフロアであり、新しく革新的な要素はまったくない。客層も普段着のおじいさんおばあさんがいっぱいいる。自分もだが。

一曲めの‘“You Wanted a Hit”から2階の椅子席の一番上まで(自分は後ろから2列めにいた)きれいに立ち上がって阿波踊り状態になったのはびっくりで、それはエンディングまで続いた - 疲れたひとは座るのではなく帰る。

ただ、ロンドンでいよいよ始まった年に数日あるかないかの夏日のせいか、会場内がものすごく暑くて、バーのあるロビーはひんやりしていたのでエアコンが故障していたのかもしれないが、サウナのように異様に蒸し暑く、ライブの中盤はストロボの光とこの暑さにやられて椅子の上でしんでた。そうなっても去る気になれなかったのは、どこかに気もちよく触れてくるなにかを感じていて、それをつきとめたかったのかも知れない (そんなの別にねーよ、修行かよ)。

“Home”が終わったところで電光板に”Intermission”と出たので、よろよろとロビーに出る。バーでは大きいプラスチックのコップにtap waterを注いだのを「持っていきなー」ってじゃんじゃん配っていて、ありがたく貰ったら、会場ではアンコールの”North American Scum”が始まっていて、まるで全体が最終コーナーをまわったレミングのように踊りまくっているのだった。

謎だったのはこれの2曲あとの“New York, I love You but You’re Bringing Me Down”での大合唱だろうか。NYの暮らしがどんなにしんどくしょうもなく、でも愛しいものかを(カエルが)切々と歌いあげてぶちあげる曲なのだが、ロンドンの人たち、わかんないよね?ロンドンの暮らしもいろいろあるけど、NYのとはぜんぜんちがうし。でも、わぁぁーってなんだかわめきたくなるのはわかる。

あと、“Losing My Edge”を聞けなかったのは残念であった。
 

6.21.2025

[theatre] Hamlet Hail to The Thief

6月14日、土曜日のマチネをStratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare Theatreで見ました。

Stratford-upon-Avonはロンドンから電車で2時間くらい掛かるところで、コロナ禍で劇場もなんもやっていない頃に一度来た。 RSCの演劇もずっと見たいと思っていたのだが、夜の部だと現地に泊まらなければならない可能性もあり、でもこの演目は見たくてどうしよう… になっていたら土曜日昼のが取れた。(で、これを取ってからBFIのFilm on Film Festivalともろ被りしていたことに気づく…) なので朝は早めに出て、シェイクスピアの生家とかアン・ハサウェイのコテージとかをまわり、ふつうに観光していた。

Radioheadの”Hail to the Thief” (2003)をモチーフにしたシェイクスピアのHamletで、Thom Yorkeが音楽監督として入って、”Hail to the Thief”をそのままサウンドトラックとして流すのではなく、彼が再構成・アレンジ - パンフでは「脱構築」 - したものを8人編成のバンド(うち男女のヴォーカル2名)がライブで演奏していく – 「Radioheadは演奏しません」とチケット購入時の注意事項としてll書いてある。

劇のパンフレットにあったThom Yorkeへのインタビューには、シェイクスピアの劇はトーテミックなものなので、そこに向かって音楽を作るのは冒涜になると思った、とかあったが、”Exit Music (For a Film)" (1997)は? エンディングだからよいの?

アメリカ大統領を讃える歌"Hail to the Chief"をもじった”Hail to the Thief”は、ブッシュの二期目に対する失望と911のカウンターとしての理不尽な対テロ戦争に対する怒りが生々しく充満した一枚だった。それは”OK Computer” (1997)から”Amnesiac” (2001)までで描かれたテクノロジー・ランドスケープへの不安や諦念、怖れからの大きめのジャンプであると同時に、これも不安と同様、持っていきようのない、決着のつかない生の感情であることも示されて、自分にとってのRadioheadは、ここまでで止まっている。

舞台は黒で統一されて、がっちりとした制服のようなスーツのような、重そうな男性の上着がステージの上から沢山吊り下げられている。奥には四角で仕切られたブースが上下に5つくらいあってガラスで覆われ、スタジオのブースのようになっていて、ミュージシャンたちがその中で演奏しているのが(暗いけど)見える。高いところにはヴォーカルのひとが立って歌うスペースもある。床には繋がれていないフェンダーのギターアンプが6つくらい放置されたように置かれていて、椅子になったり岩になったり。

脚色・演出はSteven HoggettとChristine Jonesの二人で、彼らはDavid Byrneとsocial distance dance club - ”SOCIAL!”を手掛けたり、”Harry Potter and the Cursed Child”や”American Idiot”といったメジャーなのも沢山やっている人たちで、今回のはChristine Jonesが別の”Hamlet”の演出の手伝いをしている時に思いついたものだそう。 休憩なしで1時間40分。

問答無用のクラシックである“Hamlet”は過去にいろんな角度からいろんなテーマで語られたり取りあげられたりしてきたのだろうし、でもライブの演劇として見るのは初めてなので他との比較はできないのだが、ここでのHamlet (Samuel Blenkin)は、華奢で、髪は長めのぼさぼさで、全体にずっと内を向いていて、それが父の殺害とその周辺に漂う陰謀策謀だのの臭気に触れて怒りが噴きだして止まらなくなり、母や叔父たちだけでなく自身をも蝕んでどうしようもなくなっていく。その怒りの奔流を底に沈めるのではなく撹拌してドライブしていくのがより分厚くアレンジされた”Hail to the Thief”で、すぐ隣というか裏のブースで鳴っているライブの音も含めて、上塗りを重ね彼の目を塞いでいく苛立ちと復讐への思いがどれだけのものか、だけはよくわかる。 と同時に彼ひとりでわーわーなっているので、ひとり孤立していって、それが結果的にOphelia (Ami Tredrea)の狂気をもたらす – あの“To Be or Not to Be”はそんな彼女がいう。

そして、今のアメリカ、というか世界はブッシュの二期目の時以上に、ものすごくキナ臭くやばい状態になっている懸念があり - “Hail to the Slaughterer”で、本当に真っ暗で怒りと絶望しかない、そういうのともリンクして違和のない狂った熱の地盤。

ちょっとだけ残念だったのは結構でてくる男たちの群舞シーンが、アイドルグループのそれみたいに、なんかちゃらく見えて、全体のダークな轟音のなかでやや浮いているように見えたこと。そんな無理に群れて踊らなくたってよかったのに。

6.20.2025

[music] Nine Inch Nails

6月18日、水曜日の晩、O2 Arenaで見ました。
“Peel It Back” ワールドツアー、欧州公演の3つめ。
 
野外のフェスをまわっていた2022年から3年ぶりとなるライブで、自分の履歴をみると前回見たのは2022年のLAのPrimavera(フェス)で、その前は2018年のRadio City Music Hall、その前は同年のRobert SmithがキュレーションしたLondonのMelt Downから2つ、その前は2017年のNYのPanorama(フェス)、その前は2014年のHollywood BowlでのSoundgardenとのライブ、と、だいたい3~4年周期で見てきていて、ほぼ野外 or 大規模ホールで、アリーナは - アリーナの仕様をフルに使ったライブは久々だったのだが、なかなかすばらしかった。
 
19:20くらいに会場に入るとDJらしき人がモニターの上に組まれたやぐらでがんがん始めていて、Boys Noizeとあった前座がなかなか始まらないなー、と思っていたら、この人がBoys Noizeなのだった。名前だけ見てどっかの三文パンクバンドかと思っていた。やや80年代のカーブがはいったぶっといエレクトロで、年寄りにもやさしい。
 
ステージがふたつあることは聞いていて、スタンディングエリアの真ん中に幕に覆われた立方体のでっかい箱が組まれていて、やってくる客はそっちの方を向いて取り囲んでいるのでそこから始まるらしい、ということはわかる。20:20くらい、直前までBoys Noizeがノンストップでやっていて、気がつくと幕がなくなっていて、むきだしのキーボード類が積まれていて – そのむきだし感がまたたまらない – Trent Reznorがひとりで座って静かに”Right Where It Belongs”を歌いだす。
 
NINのライブというのは、だいたい最初からフルスロットルでぶちかまして走り抜けて、最後に満身創痍の傷だらけのへとへとで”Hurt”を歌って消える、というパターンだったので、これは新しい。そしてTrentのテンションの、漲っているかんじは変わらない。 その状態で、彼が改めて覚醒した”With Teeth” (2005)の曲から、“What if all the world you used to know is an elaborate dream?” なんて素で歌われたら… そして、この後の”Ruiner”のエンディングの吐息。 これだけでじゅうぶんモトが取れたかも。
 
続く“Piggy”でIlan Rubinを除く3人が小さなステージにあがり、Ilan Rubinは..? と思っていると、曲のエンディングで突然ドラムスが爆裂して、メインステージのスクリーンに雷神になったでっかいIlanが映しだされ、おおおって慄いている間にメンバーは仕切られた通路を通ってメインステージの方に向かう。(Taylor Swiftみたいにダイブして消えたりすればよかったのに)
 
ドラムスのばりばりはそのまま”Wish”に繋がり、いつものNINモードになるのだが、ステージを覆う蚊帳みたいな薄膜状のスクリーンに淡くプロジェクションされて揺れて、その上に火花や電光や雲が走りまくるヴィジュアルがすごい。新しい”TRON”の宣伝(音楽 by NIN)が並んでいたが映画会社からお金が出ているのではないか、というくらいの完成度。
 
そして音質もまたものすごくよくて、”March of the Pigs”のエンディングは極上最速のスラッシュだったし、延々とまらない”Reptile”の、爬虫類の肌がぴたぴたしてくる密着感ときたら卒倒もんだし、過去さんざん試行錯誤してきた”Copy of A”のビジュアルは、まるで宇佐美圭司のタブローだし。
 
“Act3”ではTrentとAtticus Rossは再び通路を渡って真ん中のステージに向かい、そこで待っていたBoys Noizeを加えた3人編成で”The Warning” – “Only” – “Came Back Haunted”の3曲を。オープニングのアンプラグド(ではないけど)の静謐さとは真逆のみっしりマッシブなエレクトロで、しかし間にスタンダードのAct2を挟むことで、逆立った毛とかトサカの裏に張りついていた怒りが肉となって膨れあがる – “Haunted”の過程を目の当たりにして、そして再びメインステージに戻った”Act4”は、せっかく盛りあがった肉たちを再びミンチにかけてしまう(Mr. Self Destruct)。
 
とてもわかりやすいストーリーラインを描いているようで、でもタイトルは”Peel It Back” – 「剥がせ」なんだよね。

セットに”The Fragile” (1999)からの曲がない(別の日にはやっているけど)、「憑りつかれ」がテーマとしか言いようがない構成で、明らかにステロイド筋肉を落としてスリムになったTrentのシェイプとあわせて相変わらず「どうしたのあんた?」 であった。(関係ないけど、典型的なBass & Drums体型になってしまったAlessandro & Ilanはどうにかすべきではないか)
 
Act4でのマイクロフォンのトラブルはやや残念だったが、彼が”Sorry about that”って謝ったり、メンバー紹介をしたりの珍しい場面を見れたのでよしとしたい。「自分で機材を壊すのは最高に楽しいけど、他人がそれをやるのは許せない」、って久々にギターを叩きつけて壊し、マイクをぶん投げていた。

こんなひとがアカデミー賞獲っているんだからなんだか痛快よね。