1月8日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
“Projecting the Archive”っていう上映される機会のあまりなかった映画をアーカイブから拾いあげてフィルム上映で紹介していく試み。 特集上映でも映画祭でも取りあげられる機会のない映画って、実はものすごく沢山あると思うので、こういうのは嬉しいし、実際毎回売切れたりしているし。
タイトル、なんかフィッシュマンズの曲みたいかも、と思ったのだが『ナイトクルージング』と『バックビートにのっかって』を勝手に混ぜていたことに後で気づく。
“Brit Noir”と呼ばれる、戦中~戦後の混沌期 – 街は瓦礫の山、復員兵で溢れてぐじゃぐじゃのなんでも起こりうる -にあった英国の都市部で人々の闇(&社会)や犯罪、その背後にある狂気をあぶりだす米国ノワールの亜種のようなジャンルがあって - 前回このシリーズで見た”The Brighton Strangler” (1945)もそうだったかも - そこでキャリアは短かったものの英国産Vampとして強烈な印象を残した女優Christine Nordenの生誕100周年を記念して、彼女のフィルムデビュー作を上映する、と。
監督はHarold Huth、制作はAlexander KordaのLondon Films – だけど、Kordaは本作のリリースに結構難色を示していたらしい(なんかわかる)。あと、やはり日本では公開されていないみたい。
戦争を終えてロンドンに還ってきた復員兵で親友同士のAndy (Ronald Howard)とDon (Hector Ross)は喧嘩っ早くて威勢がよくて、警察官になるべく揃って警察学校に入って、DonはAndyの姉でかつて恋人だったJulie (Anne Crawford)と再会するのだが、彼女はSohoのナイトクラブを仕切るギャングのFelix (Maxwell Reed)に囲われていてうそー、ってなってFelixを睨んでぎりぎりしつつ近づいて対立を深めていくのと、Andyはやがて登場するFelixのナイトクラブで歌うブロンドのJackie (Christine Norden)に惚れてしまい、そしたら彼女もまたFelixに囲われていて、そのうちFelixとJulieが結婚することになると…
親友ふたりのどちら側にとっても、Felixの奴はうざいな、邪魔だな、になっていくのでふたりで団結して片づけてしまえばー、になるのだがやっぱりJulieを悲しませることになるし、Jackieの圧もすごいし、そうしているうちに思いもよらない方向に転がって、Andyが殺人の容疑で追われることになったりする。 この辺の展開は結構強引なのだが、登場人物の重ね方やひとりひとりの線の太さで、これってあってもおかしくないかも、になるとあれよあれよ、で気づいてみれば結末はノワールのなすすべもなし – 目が覚めて、あれはなんだったんだろう.. になっていたりする。
ノワールで言われるところの闇とか非情さが、アメリカのそれほど、狂って箍の外れたアナーキーななにかによってドライブされていない、よりかっちりしたマナーとか登場人物たちの境遇の枠で説明できてみんなが納得できる地点にもっていこうとするところがあるような、そういう点では日本のやくざ映画のそれに近いかも、と思った。あ、けど、やっぱり「仁義」とかそういうのはないから、違うか.. でも、FelixみたいのもJackieみたいのもああいうクラブも、夜のロンドンにいたりあったりしたかんじはすごくわかる。今のロンドンでもたまにそれらしいのを見かける。街からパブがなくならないように、ああいうのもなくなるとは思えないしー。
やはり強烈なのは(主役でもないのに一番像として残る)Jackieを演じたChristine Nordenで、IMDbには”Britain first notorious post-war sex siren in films”とあって、なるほどー、なのだが今だとこういう枠で括られるひとっていたりする?とか。 実際の彼女はBFIにもよく足を運んでくれるとても素敵な女性だったそうな。
1.16.2025
[film] Nightbeat (1948)
1.15.2025
[film] Le notti bianche (1957)
1月7日、火曜日の晩、BFI SouthbankのLuchino Visconti特集で見ました。
4Kリストア版のUKプレミアだそう。 前回にこの作品を見たのもBFIだったかも。同じドストエフスキー原作 (1848)で、もうじき4Kリストア版が日本でもリバイバルされるブレッソンのも(ぜんぜん別物だけど)よいが、こちらも大好きで、これまでに見た(大して見てないけど)Visconti作品のなかで一番好きかも。英語題は”White Nights”、邦題は『白夜』、イタリア=フランス合作で、ヴェネツィアで銀獅子を受賞している。音楽は Nino Rota。
原作の19世紀ペテルブルク、ではなくイタリアの港町リヴォルノ(場所はほとんど動かず、全編スタジオ撮影だそう)の、寒そうな冬の夜、町に来たばかりらしいMario (Marcello Mastroianni)が、人(含.犬)恋しそうに誰かを探していると、橋の袂でしくしく泣いているNatalia (Maria Schell)を見つけて、声をかけようとしたら彼女は逃げだし、しばらくはその追いかけっこ - なんで彼はそんなに彼女に執着するのか、なんで彼女はあんな懸命に逃げようとするのか、こんなに凍える晩に - がひたすらおもしろかったり謎だったり。
バイクに乗って彼女をひっかけようとしたちんぴら二人組をMarioが追い払ってから、Nataliaは少し打ち解けて、Marioに自分はなんでそんなことをしているのかを話し始める。下宿屋をしている自分ちの戸口に突然現れた運命の男 - Jean Maraisに彼女は一瞬でやられて運命の人だ! って恋におちて、彼が同じ屋根の下にいる間はすべてが夢のようで、でもやがて彼はここを出ていかなければならない、1年待ってほしい、1年したら戻ってくるから、と告げていなくなり、彼女は約束した橋のところで毎晩彼が帰ってくるのを待っているのだと。
Jean Maraisの忠犬ハチ公のようになってしまった彼女をかわいそうに、って笑ってあげることは簡単だが、Marioにはそれができないの。なぜなら彼もまたNataliaと同様に、彼女にやられてしまって、彼女の泣き笑いする一挙一動から目を離せなくなってしまったから。こればっかりはもうどうしようもないし、Marioにできることと言ったら聞きたくもないNataliaの信仰にも近い止まらない愛の吐露を傍で聞いてあげることで、でもそうやっているうちに彼女が少しづつMarioの方を見てくれるようになってきて..
そうやって凍える夜の追いかけっこも含めてなにをやっているんだろ?の愛のどうしようもなさと面倒さが極まったところで突然降ってくる雪の奇跡 – ほらね、でも、そらみろ、でもないただふわふわと降り注いでくる白い光の渦に歓喜する彼女の姿を見ると、もう結末がどうであろうが、彼女があんなふうに笑ってくれただけで十分ではないか、になるの。 主人公たちそれぞれの境遇と来るべき運命をこねくりまわすViscontiぽいドラマのありようから離れて、すべてをもうお手あげ! きれいすぎる! にしてしまう白い夜の白い雪。
登場人物の序列でいうと明らかに神のように威圧的に(最後にすべてかっさらっていく)天辺にいるJean Maraisがいて、彼に振り回されるMaria Schellがいて、おろおろ落ち着きのない青年Marcello Mastroianniが底辺にいて、でもこの映画のまん中にいて、この世界を作って持ちこたえさせているのはどう見てもMaria Schellで、それだけで”It’s a Wonderful Life”になってしまうのだった。
あとね、事情もなにも告げないで1年間どこかに消えてしまうような男はやくざに決まっているのでついていかないほうが、って誰か彼女に言ってあげて。
東京に来ているのですが、なにもかもつまんなくてしんでる。
[theatre] Julia Masli: ha ha ha ha ha ha ha
1月6日、月曜日の晩、Soho Theatreで見ました。
“HA”が7つ。 今年最初のシアターもの。
上演が21時からだったので、その前に映画”Nickel Boys”を突っ込んだらこれが(よい意味で)重くて、演劇だかパフォーマンスだか、そんなの見る気力体力ないわ、になったのだが、チケットを取ってしまっていたので、とりあえず行ってみる。
Julia Masli というのが人の名前なのか、なにかの組織なのかなんなのかまったく知らないで、後になってこの女性はエストニアから来たCrownである、と知る。
なんで見ようと思ったかというと、2023年のエジンバラのフリンジ - 演芸フェス - で評判になった、とあったから、程度。 前の方の座席に座ると彼女にいじられる可能性があります、と注意書きがあったのでそうではない上の方の席にしたのだが、割とすぐ横に来たよ。
ステージは暗め、マネキンの脚が転がっていたりややゴスっぽい、怪しげな占い師や祈祷師の部屋のイメージで、片手にマネキンの脚を装着して自分の顔を青でライティングして、ゆっくりと動きながら客の顔を見て、ひとりひとりに”HA HA HA HA…”って声をかけていく。最初は何をやろうとしているのかわからないのだが、ひとりがそれに応えて”HA HA”とかやると、それそれ、というかんじで個々の対面のやり取りが始まる。
ただの”HA HA HA.. ?”でも人によって返し方は本当にそれぞれでおもしろいのだが、その返しがなんか彼女のお気に召さなかった客は突っ込まれたり、彼女に椅子を取り上げられ、さらにそれをステージ上で粉々に叩き壊されたりしている。これだけ延々やっていても十分おもしろいのだが、これは挨拶で、続けて同様に「プローブレーム?」ってひとりひとりに聞き始める。そのイントネーションがちょっと東欧風にとぼけていてまたおかしいの。
返しはなんでもよくて「将来が暗い」とか言うと、仕事はなにをしてるの? って続いて、これがテンション高めだったりマツコみたいに突っ込むやつだったりすると微妙な空気になってしまうのかも知れないが、Juliaのやりとりは絶妙に客を真ん中に持っていく。
身体の調子があまり.. というと客席にお医者さんはいませんか? って声をかけるし(医者いた)、Exelが.. とか言うと会計士の人はいませんか? って手を挙げた男性をステージにあげてアドバイスをさせるし、眠れない、っていう人もステージにあげて簡易ベッドに寝かせてアイマスクにヘッドホンつけてリラクゼーションの音楽を流したり。 さっき椅子を壊されたひとは「椅子がない」ということだったので、彼もステージにあげて椅子の破片と工具一式を与えて自分で直しなさい、って - 結局彼は最後までずっと壊された椅子をとんかんしていた。プロブレームが解決するとよかったね、って2階席にいるスタッフがラッパを吹いて祝福してくれる。
たぶん事前の仕込みみたいのを少しはしているのかも知れないが、それにしても、あれだけの多様で雑多なプロブレームにあんなふうに咄嗟かつ絶妙に応答できるのとか、すごいなー、だったのと、あと、ひょっとしたらほとんどのプロブレームって”HA HA HA?”と同じくらいの重み/軽みでどうにかできてしまう - できた気になってしまう - ものなのかもね、ってそんな気づきのおもしろさと、悩みなんてさー、って。
約60分、ちょうどよい長さで年初のうざいあれこれをきれいに祓ってくれて、少しだけ気持ち楽になったかも。
1.11.2025
[film] Nickel Boys (2024)
1月6日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。
LFFでかかった時に見たくてずっと粘ったのだが見れなかった1本。クリスマスの様子が描かれたりもするのでもう少し早く公開してくれてもよかったのに。
原作はColson Whiteheadの2019年の同名小説、監督はドキュメンタリーともフィクションともつかない”Hale County This Morning, This Evening” (2018)が印象的だったRaMell Ross - 見終えてからこれを撮った人だったか! って(気づくの遅い)。
あの映画がそうだったように最初のうちは何がどうして映っているのかよくわからなかったりする。ぼんやりノイズが入ったような、過去の記憶を引き出そうとするときの断片やそれらが繋がっていかないもどかしさが、地面とか木になったオレンジとか、その色とかに現れてくる。
やがてそれはElwood (Ethan Herisse)という少年の視線 - 一人称のものであることがわかってきて - だから初めの方で彼の顔はわからない - Martin Luther Kingや公民権運動に関心があって、彼の視界に入り込んでくる彼の優しそうなグランマ(Aunjanue Ellis-Taylor)の様子から彼がよいこであることが見えてきたところで、好意で乗せてもらった車が盗難車だったことからNickel Academyという矯正施設 - フロリダに別の名前で実在したに入れられて、そこでTurner (Brandon Wilson)と知りあって友人になる経緯が綴られる。
そこからカメラ、というか目線はTurnerのそれに変わっていったり、現代でPCを前に頭を抱えている男性の後ろ姿になったりして、それらを繋いでいくと複数の視線でNickel Academyで起こったことを静かに追っていることが見えてくる。
施設に入れられている白人の子と黒人の子の間には明確な待遇の違い - 差別があり、黒人の子は別の場所に呼びだされ連れ出されて性的なのを含む虐待と暴力が茶飯事で、ボクシングの試合で八百長に応じなかった子は目配せひとつでどこかにやられ、現代では施設の跡地から大量の子供たちの骨が発掘されている、というニュース映像が流れている。
虐めにまみれ辛かった日々を懸命に生きた(涙)、というドラマではなく、なんで? という不条理に慣れないながらもElwoodとTurner、その他の子供たちもとにかく生きていた - それしかできなかった - その果てが掘り出された無名の骨たちで、彼らは”Nickel Boys”としか呼ばれなくて、それってどういうことかわかる? というお話し。
あの視線、というか人称が転移・転生していくようなカメラの動きはそういうことだったのか、というのと、それを語る主体、そういうリレーをさせている想いは、とかいろんなことを思う。何万といたであろうElwoodとTurnerたち。ごめんね。自分は君らの側に立つから。誰になんと言われようとも。
人種差別の歴史ははっきりとあったし今だに続いているし、これらをどう語って繋いでいくのか、まだこんなふうに語ることができる、そしてどれだけ語っても彼らの痛みや無念には届くことがないのだ、というのに気づかせてくれる作品だった。監督は、それをさせたのはElwoodとTurner - Nickel Boysだ、というのだろうが。
日本も遊廓からヨットスクールから精神病棟から、昔から同じように親の勝手な恥都合で犠牲にされてしまった少年少女は山ほどいたはずなのに、いまだに社会としてなにひとつの謝罪も反省もしようとしない、いまだに闇の中にあるのでそれらがどれくらい酷いことなのか見えないのね。
そのうち書くかも知れませんが、新年からなんだかんだ慌しくて、明日の夕方から約2週間日本に戻ります。ぜんぜんうれしくないわ。
[film] No Way Out (1950)
1月1日、元旦の18:40からの上映で、前の“Ossessione”(1943)の後に見ました。
BFIももうちょっとお正月ぽい明るめの映画とかやればいいのに。
前の映画が終わってから次までの約4時間、がらんとしたBFIのロビーの椅子にだらしなく座って、スマホで2024年のベストなどを打っていた。そんな素敵なお正月。BFIのロビーに炬燵とか置いてくれたらよいのにな。
これも今月から始まる特集 – “Sidney Poitier: His Own Person”の最初の1本。なぜSidney Poitierなのか、は昨年末にここであったJames Baldwin特集から繋がってくるものなのか、公開された”Nickel Boys”で彼への言及があるからか。
監督はJoseph L. Mankiewicz、邦題は『復讐鬼』 - でも主人公は復讐鬼に狙われる側なのでこの邦題はよくないと思う。 Sidney Poitierの長編映画デビュー作。オスカーのBest Story and Screenplayにノミネートされたが『サンセット大通り』に敗れた、って(こっちの方が断然すごいと思うけど)。
Dr. Luther Brooks (Sidney Poitier)は郡の大きめの病院で研修医から常勤の医師になったばかりで、上司のDr. Dan Wharton (Stephen McNally)も彼の実力には太鼓判を押しているのだが、本人はまだ十分な自信を持てないでいる。
そんなある晩、併設されている刑務所病棟に、抗争で足を撃たれた兄弟 – Johnny (Dick Paxton)とRay (Richard Widmark)の二人が搬送されてきて、Rayは口だけは達者でLutherに差別的な言葉を浴びせて、こんな奴にかかりたくない、とか騒ぐのだが、それに動じず隣に横たわるJonnyの様子がおかしいことに気付いたLutherが脊椎を調べようとしたところでJonnyは亡くなってしまう(ここのシーンは映らない)。足を撃たれただけなのに突然死んでしまったのは診ていたLutherが殺したからだ、とRayは騒いで、Lutherの上司のDanはLutherの初期の治療対応は間違っていなかった、と言うものの実際には検視をするしかない、となって、でもRayはそれで証拠を潰すつもりだ許さないというし、病院側も騒ぎを広げたくないので静観、になってしまう。
どうしようもなくなったLutherとDanはJohnnyの別れた元妻のEdie (Linda Darnell)に会いにいってRayを説得してもらうようにするのだが、これが逆効果で、彼らの育った白人の貧民街に根をおろしているヘイト感情を思いっきり煽ることになって、黒人居住区を襲撃してやれ、にまで膨れあがる。
この経緯と並行して、疲れて帰ったLutherの実家で、苦労と努力で医者にまでなったLutherをどんな家族が囲んでいたのかが描かれて、でもそんな彼らも白人たちの襲撃計画を知ると先制攻撃を仕掛けてやる、って揃って出て行って大騒ぎになって怪我人が沢山…
そんなごたごたを通して、いろんなことに疲れ切ってしまったEdieをDanのところの黒人メイドがやさしく介抱してくれて、よいかんじになるのだが、突然Lutherは自首してしまう - 自首すれば証拠を確認するために検視をせざるを得なくなるから、と…
最初は平等でなければならない医療の現場に差別の問題が絡んでくる、程度のお話しかと思ったら、差別と貧困に苦しむコミュニティの実情と根深い対立構造にまで踏み込み、更には暴動まで巻き起こし、そこから更に、それでも静まろうとしない憎悪の塊りをえぐってあぶりだす。最後にLutherがRayに言うことの重み。 デビュー当時のSpike Leeがやっていたことを既に軽々と。
ほぼ狂犬のようになってヘイトをまき散らすRichard Widmarkがすごいのは簡単に想像できると思うのだが、それを(内臓を沸騰させつつも)静かに受けとめて持ちこたえて、最後にあんなことを言えるSidney Poitierの佇まいがすばらしい。このかんじ、正しく今のDenzel Washingtonではないか、とか。
終わって、半分くらいは埋まっていた客席から強い拍手がわいた。年の初めによいものを見たわ、って。
1.10.2025
[film] Ossessione (1943)
1月1日、水曜日 - 元旦の正午、BFI Southbankで見ました。
今月の特集 - ”Luchino Visconti: Decadence & Decay”からの最初の1本で、今年最初の1本。なんでいまVisconti? はわかんないわ。
Viscontiのデビュー作で、原作はJames M. Cainの1934年の小説 – “The Postman Always Rings Twice”、なので邦題も『郵便配達は二度ベルを鳴らす』なのだが、映画は郵便配達とは関係ない話になっている – ので欧米でのタイトルも”Obsession” - 「妄執」で。
イタリアン・ネオレアリズモの最初の1本とされることもあるようだが、そこはよくわからず。
ファシスト政権下の検閲が入ってやりたいことができない状況のなか、30年代のフランスでJean Renoirから貰った原作小説の仏語版が彼を救ったと。ローカル・ネタのようでイタリア-フランス-アメリカの連合が背後にあったりするというか。 ファシズムから逃れた先 – この世の涯で男女の欲望を軸に空回りして壊れる三角形。お話しはぜんぜん違うけどルノワールの『浜辺の女』 (1943)を思いだしたりもする。
車の荷台に乗って埃っぽい道を抜けて、どこからかやってきたGino (Massimo Girotti)がポー川沿いの食堂/ドライブインに立ち寄って、そこにはやや疲れた/でもどこかが漲っているGiovanna (Clara Calamai)と動物のようなその亭主のGiuseppe (Juan de Landa)がいて、食事の後に追い払われたGinoをGiovannaは強引に呼び戻して、Giuseppeが車の部品を買いに行っている隙に近づいて関係をもって、そこからGinoはうまくGiuseppeに気に入られ、そのままそこで手伝いなどをしながら暮らしていくことになる。
いまの生活と亭主が嫌で嫌ですべて蹴っ飛ばしたいけど、家の外に踏みだすことまではできないGiovannaと、元が根無し草なのでどこにでもいける – なのでずっと縛られるのはごめんのGinoと、酒と歌が大好きでお人好しのGiuseppeの3G - 今でもどこの世界にでもいそうなこの三人が行き場のない、逃げ勝ちなんてありえないごたごたに首を突っこんだり突っ込まれたり。
Ginoはあのまま、途中で出会う大道芸人のように宿無しの旅を続けていけばよかったのに、Giovannaはあと少し我慢していれば夫は勝手に膨れて潰れて自由になれたかもしれないのに、どこかで何かがおかしくなった – それが”Ossessione”、というものなのか。一度憑りついてしまうと自動で動きだして止められない、取返しのつかないことを引き起こす、それが”Ossessione”。誰が誰に向かってそれを引き起こしたか、というよりその根源にある愛と欲望と自由をめぐる”Ossessione”についての犯罪スリラー。
ただ3人のなかで、もっとも先の自由を奪われて押し潰されて、しかも子供まで… でかわいそうすぎるのがGiovannaであることは確かで、そんな彼女の表情の移り変わりとありようを描いて、そこを基点として、まずGiuseppeがああなって、続けて彼女とGinoがあのような運命を辿る、ということについては、主人公たちの思惑を超えて明確な意図というか構図があって、それが当時のファシスト政権を苛立たせたのはよくわかる。単なる個々の「妄執」がなにかをしでかした、という話ではないの。
Giovanna役が当初想定されていたAnna Magnaniだったらどんなふうになっていただろうか? とか。
こういう一本から始まってしまう一年がどんなものになるのか - どっちにしたって碌なものにはならないだろうから、いいんだー。
1.09.2025
[film] We Live in Time (2024)
1月2日、木曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。
これまでの慣習で、新年最初の1本は昔の映画を見ることにしていて、だから1月1日はBFI Southbankで過ごしたのだが、2日は新作を見ようと思って、でも新作の一本目が”Nosferatu”(2024)なのはなんか嫌かも、だったので、その前にこれを無理やり突っこんだ。なのでこれが今年最初に見た新作映画となる。
監督は”Brooklyn” (2015), “The Goldfinch” (2019)のJohn Crowley、脚本はNick Payne。音楽はBryce Dessner、Executive ProducerにはBenedict Cumberbatchの名前がある。
主演のふたりが結構仲良く楽しそうにプロモーションしていたので、明るいrom-comかと思ったら難病ものだった.. けどそんなに暗くないし辛くならないのでだいじょうぶ(かな?)。
Weetabix - シリアルの会社を経営するTobias (Andrew Garfield)とレストランを経営するシェフのAlmut (Florence Pugh)が出会って - 夜の道路上でバスロープ一枚で道路を歩いていたTobiasをAlmutが車で轢いてしまう - 少しづつ仲良くなって、彼女の病気がわかって、化学療法で髪を切って、赤ん坊ができて、出産して、娘Ella (Grace Delaney)が大きくなって、など、どうってことなさそうな細切れが、過去現在の脈絡なし順序の行ったり来たりでえんえん重ねられていく。最初はこの調子で最後まで行ってだいじょうぶかなあ? なのだが、すぐ涙目になって柔らかく受けとめてばかりのTobiasとなにかと突っかかって負けないのが基本のAlmutの(誰もが想像できるであろう)ケミストリーがすばらしくよいので、あまり気にならない。 いつのどの断面で切ってもふたりはふたりで連なっていて互いに目を離すことができなくて、そのうち大きめのイベント - 料理のコンペティションに英国代表として出るんだって踏んばっていくところ、そして、ガススタンドの身障者用トイレで娘を出産してしまうところ – めちゃくちゃおもしろい - など、ずっと一緒の時間のなかにいたふたり。
思えば、Andrew Garfieldの“The Amazing Spider-Man”シリーズの最大の失敗は“2”でEmma StoneのGwen Stacyを亡くしてしまったことだった(私見)。彼があの後に悲しみでぐだぐだの用なしになってしまうことは十分に見えていて、実際にそうなった。 今回も同じなのかもしれない。そんなにAndrew Garfieldの嘆き悲しむ姿はよいのか?(悪くはない。あんなふうに泣けるひとはあまりいない)とか。
Tobiasがどこまでも彼女を受けとめてベソをかきながら見守ってついていくのに対して、Almutは周囲を吹っ切ってでも前を向いて進行方向を変えない。元からなのか、かつてフィギュアスケートの選手になるのを諦めてしまった過去があるからなのか、どちらにしても絶対に振り返らず、後悔もしようとしない – この組み合わせは特に新しくはないと思うし奇跡も起こらないけど、この2人だから、という途方もない根拠もない確信と強さに貫かれているのでなんかよいなー、になって、でもほんとそれだけなの。
Almutの病は間違いなく幸せな家族を引き裂いて残された者をどん底に叩き落とすだろう、その決定的な別れとか最期の時からどこまでも離れて目を逸らそうとする - それがTobiasの取った態度で、映画はそれに倣うように中心にある病と死から離れようとして、この映画はそれでよいのだな、って思った。