11月9日、土曜日の夕方、Curzon Sohoで見ました。
正式公開を前にしたドキュメンタリーのPreviewで、上映後に監督Hasan Oswald(とあと一名)とのQ&Aつき。Executive Producer はEmma Thompson。
昨年のDOC NYCでGrand Jury Prizeを獲っている。DOC NYCって、たまたまNYにいた時に第二回があって参加したけど、よい映画祭になってきたねえ。
2014年、ISISの侵攻〜虐殺によりYazidiの村が襲われ、父母、弟たちと平和に暮らしていたMedihaの一家は連れ去られ、家族は散り散りとなり、彼女は10歳で見知らぬ男に妻として買われ、そこから転売されて数年間、5年前に救出されて避難キャンプで別のところから戻ってきた双子の弟たち(末の弟は不明)と一緒に暮らし始めたところ。
監督がMedihaにカメラを渡し、カメラを手にした彼女は自分や弟たちにカメラを向けて自分たちが今いる場所について〜自分たち家族に起こったことを語り始める。なので、映画には監督がMedihaたちやISISの拠点から人々を救出するスタッフの姿を撮った映像、Medihaが弟たちやキャンプの生活を撮った映像、更には姉に教えられた弟たちが撮った映像の3種類があって、でもそれぞれに大きな段差はない。なんでこんなことになっているのか? の重い問いかけは3者に共通している。
話としてはとにかく酷くて陰惨で、父も祖父も行方不明のまま、母は後の方の調査で生きているらしいことはわかったが他の男の妻となり、その男の子供もいて名前も変わっているので救出/帰還の話を持ちかけても戻ってくるかどうか微妙、と言われるし、末の弟はトルコの方で別の家族に売られていて、買い戻した(!)あとにキャンプにやってくるのだが、ママがいないと寝れないなんで引き離した、って延々夜泣きがひどいし。
比較できるものではないが、やはり最もひどいのは現地で売られたMediha本人が語る自分の身の起こったことだろうか(注:具体的なところまでは語られない)。本人にそれを語らせるのって酷くない? と思ったが、上映後の監督の発言によるとMedihaの方からきちんと語りたいと言ってきたのだそう…
宗教とか原理主義とか見ている世界が違うとか第三者がいくらでも慮って言うことはできるだろう。けど普通に幸せに暮らしていた家族や一族や民族の生活をある日突然勝手に壊して潰してよいわけがない。許されてはならない。
ここだけじゃない、今の(いや、ずっとそうなのかも知れない)世界はこんなのばっかりで辛すぎて考えるのを止めたくなるけど、彼らが生きて晒されているのは考えたらどうなる、という世界ですらない。どうしたらよいのだろう…
終映後のQ&Aでも今のメディアはパレスチナとウクライナばかりで、現在の危機として重要であることは確かだけど、この問題もシリアのも、ずっと継続していて、なんの罪もない市民が理不尽に殺され続けている。報道の流行り廃りのようなことも問題、と。その通りではあるけど…
少しだけほっとした(でよいのか?)のは、Medihaは今はNYで暮らしていて、シティガールとして街にも馴染んで、人権問題の法律家になるべく勉強をしているのだそう。(アメリカの上映会には顔を出しているって)
地方選の結果を聞いて、ますます子供の頃に聞いた発展途上国の選挙みたいになってきたなーやだやだ、って思っているところに、少しだけ出張で帰国します。映画も音楽会もこっちで見たいのが山ほどあるのにー。
というわけで更新は少し止まる、か。
11.17.2024
[film] Mediha (2023)
[film] Point Break (1991)
11月8日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
BFIのアクション映画特集の目玉 - ‘“Art of Action: Celebrating the Real Action Stars of Cinema”となるリストア版によるリバイバルで、その公開初日。それを記念してなのか土曜日の晩のIMAXでは”John Wick”ぜんぶをオールナイトでやるって(すごく疲れそう&ぜんぶ同じじゃないか)。IMAXで『七人の侍』が一度だけ掛かった際も、まだ完成はしていないが、という断りつきでこの予告編が流され、予告なのに拍手が起こったのだった。
監督はKathryn Bigelow、音楽はMark Isham、邦題は『ハートブルー』 …
“Bram Stoker's Dracula” (1992)よりも、”My Own Private Idaho” (1991) よりも前のKeanuがいて、これだけで一見の価値かも。
冒頭はJohnny Utah (Keanu Reeves)がLA警察に入る前のトレーニング風景で、射撃訓練とか完璧! って言われたり恥ずかしくなるくらいキラキラで、そんな彼がどことなくBoris Johnsonみたいな上司のPappas (Gary Busey) と組んで、神出鬼没の銀行強盗グループを追うことになる。 そいつらはレーガンとかニクソンの覆面をしていて、きっかり30分で済ませて逃げてしまうので足がついていなくて、でもこれまでの調査であるビーチにたむろするサーファーのグループである可能性が高い、と。
そこでJohnnyはサーフィンを習いたい、とその浜の売店でバイトをしていたTyler (Lori Petty) に声を掛け、経歴を偽って彼女と仲良くなりつつ、グループのリーダーのBodhi (Patrick Swayze)に近づいて、最初怪しまれていたグループの連中からも(運動神経はよいし根が素直なので)認められていって…
よくある潜入捜査で抜けられなくなっていってヤバいモノ、ではあるのだが、ありがちな仲間たちとの絆、というよりはJohnnyとBodhiの間のブロマンス、そして銀行強盗と同列に並べられるサーフィンやスカイダイビング、といった”100% Pure”アドレナリン放出系の死と隣り合わせのスポーツの快楽があり、それらを彼らと一緒に経験していくJohnnyは警察の顔を露わにして – 簡単に見抜かれる - 裏切るなんてことができなくなる。
そしてこの映画のBodhiは、わかりやすく邪悪なヴィランではなくそのような生をど真ん中に据えて堂々と生きる魅力的なアニキとして描かれていて、Johnnyが彼のと比べたら自分の仕事なんて… になることはわかっているし、BodhiもJohnnyの正体をわかってしまうし、彼が自分に惹かれていることも十分わかった上で、Johnnyを試すかのように最後の銀行強盗にうってでる。
どこかに『狼たちの午後』 (1975)と『ビッグ・ウェンズデー』 (1978)の変てこミックス、と書いてあって、確かにそんなふうなのだが、ここに70年代風の強いわかりやすさはなく、イノセンスが転がされ白とも黒とも言い切れない狭間で誰かが誰かを – 愛するのか殺すのか、という刹那。 例えば漫画の『バナナフィッシュ』にもこの感覚はある。 そういうのがあるのでアクション映画としては、大波ざぶーんで終わり、でやや大味、というか、アクションのもとにあるのは憎しみとか怒りとか、犯罪の動機になりそうなエモではなくただのアドレナリンではないか(動物か..)、という辺りにKathryn Bigelowの冷めた目があって、変な映画ではあるかも。
あと、きらきらのKeanuよりもPatrick Swayzeがすごくよいのでびっくりした。”Dirty Dancing”(1987) よかぜんぜんよいじゃん。
11.16.2024
[film] Heretic (2024)
11月6日、水曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
A24制作、Hugh Grant主演によるホラー。作・監督はScott Beck、Bryan Woodsの共同。撮影はPark Chan-wookと一緒にやってきたChung Chung-hoon – とてもよくわかる。
怖そうなので見るか見ないか少し悩んだのだが、見ることにしたのは、Hugh Grantだから…? なぜ彼なら怖くないかも、と思わせてしまうのか。こないだの”Blink Twice” (2024)もそんなだったかも - Channing Tatumならいいか、とか。
熱心なモルモン教徒のふたり - Sister Barnes (Sophie Thatcher)とSister Paxton (Chloe East)が伝道のために一緒に戸別訪問をしている。Sister Barnesは力強く確信と使命感に満ちていて、Sister Paxtonはやや気弱で自信がなさそうで、そんなふたりが雨も降ってきたし、とっとと片付けましょう、とある家の入口に自転車を停めてロックして、ブザーを鳴らすとMr. Reed (Hugh Grant)が出てきて、英国人ぽいユーモアたっぷりのどうでもよい世間話をしつつ、妻がブルーベリーパイを焼いているから、とかなんとか、数回に渡って彼らを置いていなくなったりして、やがてSister Barnesがブルーベリーパイの匂いが蝋燭の贋物であることに気付いて、なんかこいつおかしいから出ようよ、ってなったところで鍵がかかっていて外に出られない状態になっていることを知る。
基本的にはHugh Grantの独壇場で、彼のすごいところは、なんで、なんのためにそんなこと – べらべら喋りまくるとか – をやっているのかぜんぜんわからない – 悟らせたり突っこませたりする隙を与えずに、その場を強圧的じゃないかたちでどんよりべったり支配してしまうことで、どう返したり対抗したりすべきか、と思い始めた頃にはもう遅い。
あとは、囚われたふたりとも宣教師なので力でねじ伏せるようなことは考えていない – それをやったら終わり、というのを自分も相手もわかっているので、でもそうやっているうちに気付いた時には泣いても騒いでもどうしようもなく無防備な状態にされていた、と。
しかもそういう状態にしてしまってからMr. Reedは宗教の話をふっかけてくる。すべての宗教の類似性とか根っこは.. とかなんとか、よくあるやつ。真面目な宗教者であればあるほど – ここではSister Barnesが食らいついて、でも落ち着いて蹴とばされて心証を悪くしたのはMr. Reedのほうだったようで、彼はますますこの娘にお仕置きしてやらねば、強く思ってしまったらしい。
時間までにどうにかしないと、とか、謎解きをしないと、とか、人質が.. とかではない、シンプルに、でもがっちりと幽閉されてあまり気持ちよくないものをいろいろ見せられて、先に何が待っているのか、なにをされるのかわからない、そういう種類の落ち着かない恐怖で、気の持ちようみたいなところで悲観も楽観もできて、その幅が結構広いので見ているほうはややしんどい(111分ある)。Hugh Grantが七変化したり、女性になって出てきたりすればまた別だろうが(ジャージャービンクスの真似はしてくれる)。
“Drive-Away Dolls” (2024)や“Love Lies Bleeding” (2024)にあったような邪悪な男(たち)に女子ふたりが立ち向かってぼろぼろにする・退治する、という最近の傾向を期待したのだが、そっちの方には向かわずトラディショナルで陰湿な監禁虐めサバイバルものになっていて、これが神学とかタイトルの「異教徒」の方に行ってくれたらもう少しおもしろくなったのではないか。
それにしても、クマを虐めて、今回は宣教師を虐めて、Hugh Grantはいつまでこんな小物感たっぷりの小悪党をやっていくつもりなのだろう… っておうちに着いてBBCをつけたら”Four Weddings and a Funeral” (1994) をやってて、なんだこれは… って思って気がついたらソファで落ちてた。
11.15.2024
[film] Emilia Pérez (2024)
11月3日、日曜日の晩、”Juror #2”を見たあと、Curzon Sohoで見ました。
LFFで見れなかったやつを順番に見ていくシリーズ。
監督はJacques Audiardなので、痛そうだし辛くなるかも、だったのだが、今年のカンヌでJury PrizeとBest Actress(女性のアンサンブルに対して)を受賞しているというので、見るしかないかー、と。原作はBoris Razonによる2018年の小説” Écoute”をもとにJacques Audiardがオペラ用の台本として書いたものだそう。
事前に情報を入れてなくて、なぜか中世ヨーロッパの女性ドラマだと思いこんでいて(なんで? どこで?)、現代メキシコのお話しだったのでびっくりして、更にミュージカルだったのでそれが更に倍にー。
冒頭、弁護士のRita (Zoe Saldaña)の上司もクライアントもなにもかもしょうもない女性(ではない男性)問題の訴訟とかいいかげんにして、の姿が歌と踊りで示され、そんな彼女が目隠しされてどこかに連れていかれ、悪名高い麻薬カルテルの大ボスManitas Del Monteと面談することになる。どうみてもラティーノのマチズモの大波をサバイブしてきて実際にそういうもの凄い風体と臭気を放つ彼は、ずっと間違った身体に生まれてきたことを苦しみ、その人生を後悔してきた(そういうタイプの人が犯罪組織の大ボスになれるかどうか、は少し考える) のだと。ついては、誰にも知られないように性別適合手術を受けたいので、しっかりした腕の外科医を探しだし、自分をどこかに隔離・失踪したことにして、家族(妻と2人の子供たち)も心配だからどこかに移す、この大作戦を企画・実行してほしい、報酬はたんまりいくらでも。
お話しとしてあまりに荒唐無稽で、それが突然Ritaのところに来たのも解せないのだが、あんな化け物みたいだった「男」が性別を変えたらどうなるのか? - ここにミュージカルの要素 - 歌とダンスを強引に突っこむことで、こんな世界ならこんなこともあるかー、くらいに思わせてしまおう、と。最近だと”Annette” (2021)がそんなふうだったのと同じように。
手術はうまくいったようで、Ritaも報酬を貰って解放されて、そこから4年後、再び呼びだされた彼女はどうみてもふつうの中年女性であるEmilia Pérez (Karla Sofía Gascón)と出会う。 それがかつてのManitasで、彼女は過去を隠した状態で自分の家族をこの家に呼んで一緒に暮らしたい、そして家族が失踪して悲しむ女性たちのためにできることをしたい、と言い出す。こうして再び動き出したRitaはEmiliaと一緒に失踪により生の時間が停止してしまった女性たちをケアし支援する団体を立ちあげて社会的なうねりを作っていくのだが、他方で夫Manitasが失踪した状態の妻Jessi (Selena Gomez)は悲しむどころかかつて付き合っていた男とよりを戻して、駆け落ちしようとしていて…
後半は悲劇の元を大量に作りだしていた過去の自分を、その性を反転させて、その結果のような形で多くの女性に救いと希望をもたらすのだが、自分の足下にいたex.妻だけは知るかそんなの、って突っ走り、その暴走が彼/彼女自身を... という極めてオペラティックな転換と階段おちがあって、構造としておもしろいなー、ではあった。けど、メキシコの悲惨な現実とも性適合手術のリアルともきちんとリンクしていないシュールなファンタジーとして見るなら、で、当事者からすればふざけるな、になるのではないかしら。メキシコでの反応はどうだったのだろう?
昨晩、Cursiveのライブに行く途中、道路を渡ったところで躓いて転んで膝と手数箇所を打って流血して、ライブはすごくよかったのだが、一晩寝たらすごく痛くなってきていやだ。なんでライブに行くと階段から落ちたり転んだりするのか?
11.13.2024
[film] Juror #2 (2024)
11月3日、日曜日の午後、Leicester SquareのCineworldで見ました。
94歳になるClint Eastwoodの新作。
どういう事情によるのか、なんか事情があるのかどうかすらもわからないのだが、Clint Eastwoodの新作って、駅やバスにそこそこの広告は出ているのに自分が普段行っている映画館のチェーンではかからなくて、カジノに併設された変なシネコンなどで細々とやっていたりするので、よほど意識していないと見逃してしまう – なので前作の”Cry Macho”(2021)も前々作の“Richard Jewell” (2019)も見ていない(←言い訳)。 英国での彼の扱いって、そんなものなの。理由はしらんけど。
原作はJonathan Abrams、撮影はYves Bélanger、音楽はMark Mancina。
ジャーナリストでアル中歴のあるJustin (Nicholas Hoult)には身重で出産間近の妻 Ally (Zoey Deutch)がいるのだが、ある事件の裁判の陪審員として召集される。
それはバーでカップルが喧嘩して、男性James Sythe(Gabriel Basso)の方が女性Kendall Carter (Francesca Eastwood)を殴って、女性は怒ってその場を去るのだが、男性はそれを車で追って、その晩、橋の下の河原でCarterは死体となって発見された、という殺人事件で、日頃から暴力をふるう傾向のあった男性が彼に反抗的な態度をとった女性を殺した、という一見、わかりやすいものに見えた。
出産前でいつそれが来るのかわからない妻がいるJustinにとって拘束時間の長い裁判に付きあうのは懸念もあったのだが、毎日18時には終わります、という説明を受けて陪審員をやることにする。 こうして彼は陪審員#2となる。
裁判は誰が見ても圧倒的に被告不利で進んでいくのだが、当時の状況を聞いていくうちに、Justinは自分が豪雨だったあの晩、現場の橋を車で通る時に何かにぶつかり、車を降りて確認したことを思いだす。なにも見えなかったので鹿かなにかかと思い、そのまま帰って車を修理に出したのだが、ひょっとして… という小さな疑念が審理が進むにつれて膨らんでいって止まらなくなり、ひと通りの聴取や尋問が終わり、陪審員同士の協議に入って、ほぼ全員が被告有罪で進んでいくなか、思い当ることがあるJustinはどうしても有罪、と言い切ることができず… 他の陪審員たちの「なにこの人?」を振り切って..
自分から見て無罪の可能性がある被告をどうしても有罪とすることはできず、その反対側で自分が有罪となることはなんとしても避けたい、という両極に引き裂かれたJustinの周りで起訴した地方検事補(ばりばり)のToni Colletteや、やる気がなさそうで証拠提示のミスをする公選弁護人のChris Messinaや、引退した警官で、Justinの妙な拘りをみて何かあるのでは、と勝手に調べ始めるJ. K. Simmonsなどが(彼から見て)禍々しく動きだし、結論が出ないので陪審員全員が現場に行って再検証するなど、平坦だった法廷ドラマが汗びっしょりのサイコスリラーに変わっていくところは見応えたっぷり。
陪審員の間では被告有罪が多数なんだし、子供も生まれて忙しくなるから早く切りあげたい、それなら目を瞑って有罪に入れてしまえば誰もなにも言わないのに、反対側でそちらに踏みきれない何かがあり、でもそれは善なるなにか、というものでもない。でもほんとうに鹿だったのかも知れないし… いや、彼は知っていたのだ、という方に淡々と追い詰めていくカメラの怖さ。そしてこれらが公正な裁きをすることを求められる陪審員の頭の中で起こっていること。例えば、と。
Clint Eastwoodがなんであんなにシネフィルやフランスで騒がれて讃えられるのか、ずっとあまりよくわからなくて、これを見てもそこは変わらないのだが、ものすごくおもしろくていろいろ考えさせることは確かかも。
Toni ColletteとNicholas Houltは“About a Boy”(2002)で母子をやっていたふたりで、そう思うとラストシーンがすごくじわじわくる。犯人(にさせられてしまう)役がHugh Grantだったら最高だったのになー。というおふざけを断固許さない気がするEastwood映画。
11.12.2024
[film] Paddington in Peru (2024)
11月9日、土曜日の午前10:00、BFI IMAXで見ました。
こんなの公開日に見ないでどうする、なのだが、8日の金曜日晩のBFI IMAXは”Point Break” (1991)のリストア版の公開日だったので、そっちに行った。
クリスマスシーズンが始まって、街の電飾も華やかになって、あちこちにPaddingtonが描かれたり置かれたりしている。
夕方は5時には暗くなって、誰もが早くおうちに帰りたくなるこの時期に、このクマ(なの?)はペルーに行くのだと。カリブでもマヨルカでもなく、ペルー?
冒頭、Paddington(Ben Whishaw)がLucyおばさん(Imelda Staunton)に助けられて育てられる経緯が語られ、大きくなったPaddingtonはロンドンに来て、Brown家の一員になるのが前2作。今回、Mrs BrownはSally HawkinsからEmily Mortimerに替わっていて、娘も息子もそれぞれ成長しているが、全体としてあの一家に大きな変更はない。監督は前2作を手掛けたPaul KingからDougal Wilson – John Lewis(こっちの百貨店)のCMなどを作っていた人 - に替わっている。 あと、Paddingtonは最初の方で英国のパスポートを手に入れている。前科のあるクマなのに。
Paddingtonはペルーの”Home for Retired Bears”で暮らすLucyおばさんから来てほしい、と誘われて、保険会社に勤めるMr Brown (Hugh Bonneville)はあんな危険なところにはとても.. って渋るのだが、新たにやってきたアメリカ人上司(Hayley Atwell)から“embrace risk!”って焚き付けられたこともあり、リスクマニュアルを携えて一家で行ってみることにする。
でも着いてみたら、歌って踊る尼で、”Home for Retired Bears”の所長のマザー(Olivia Colman)がLucyおばさんは少し前に行方不明になってしまった、というので、それなら探しに行かなきゃ、とブレスレットとか少ない手掛かりを元にジャングルの奥地に向かうことにして、観光船のキャプテンHunter (Antonio Banderas)とその娘を雇って連れて行ってもらうことにするのだが、このHunterはエルドラドの秘宝を探しておかしくなった先祖 – たぶんWerner Herzogの『アギーレ/神の怒り』(1972)に出ていると思われる - などに祟られていて、時々狂ったようになる。彼の周りを彷徨う他の先祖たちも他の呪われた先祖たちもぜんぶAntonio Banderasが演じている。こうして棄てられた船は壊れてみんなは投げ出されて、それを救出すべくMrs. Bird (Julie Walters)とマザーたちが飛行機で救出に向かう、などなど。
Indiana Jonesぽいアドベンチャーがてんこ盛りで、見ていて飽きないのだが、この河や大地を転がっていくアクションと、従来のPaddingtonが得意とする屋内でのピタゴラスイッチ的な玉突きアクションがうまく連動していかないので、やや中途半端で残念だったかも。 あと、これは狙ったのかどうか不明だが、ラピュタ(財宝~桃源郷探し)とトトロ(大切なおばさん探し)のミックス、というのもある。あのトトロみたいな咆哮、Ben Whishawがやっているのかしら? 英国のクマたち(含. Pooh)とジブリ系のは別種のモノとしておきたいんだけど…
相変わらず楽しいし、マーマレード・サンドイッチは食べたくなるし、家族で楽しめる映画になっていると思うけど、やっぱりPaddingtonはあの恰好でロンドンにいてほしいかも、というのを改めて確認する、ということなのか。 最後のところは移民の人々のありようについてのひとつのコメントになっていると思った – なんで彼の名はPaddingtonなのか、等も含めて。
あと、生物多様性の宝庫であるアマゾンのジャングルまで来て、なぜクマだけがあんな社会を形成してヒトと共存できているのか、ちょっとは言及あるかと思ったのに。“Puss in Boots”くらい出てくるかと思ったのに。出していいのに。
あと、Hugh Grantも最後にちょっとだけ獄中から顔を出す。 でも“Heretic”を見たばかりだったので、こいつほんと極悪でしょうもないな、しか浮かんでこないのだった。
[theatre] The Fear of 13
11月2日、土曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
チケットはずっと売り切れでぜんぜん取れなかったのだが、当日の昼、ぽこりと空いた晩のが取れた。
アメリカのペンシルベニアで21歳の時に誘拐とレイプと殺人の容疑で捕まり、22年間死刑囚監房で過ごさなければならなかった冤罪事件 – その被害者であるNick Yarrisを取材した英国のドキュメンタリー映画 - “The Fear of 13” (2015) - 未見 - を元にLindsey Ferrentinoが舞台化したもので、Adrien Brodyはこれがロンドンの舞台デビューとなる。演出は”Prima Facie”を手がけたJustin Martin。休憩なしの約1時間50分。緊張で終わると少しぐったりするけど、だれることはない。
もともと狭いシアターで(StallはD列が最後尾)、折りたたみ椅子のA列はかぶりつき、というよりほぼ目の前にあり – そこの椅子の背に貼られた番号はそのまま独房の番号にもなっている。A列とB列の間には狭い通路が敷かれていて、そこも人が走ったり抜けたりしていく。
奥はガラス窓がはめ込まれた壁に重そうな扉があり、壁の向こうはしばしば監房の向こう側(の社会、連れだされて拷問されたりの部屋)だったり、その上のテラスのようになったところは、監獄映画にもよく出てくるような監視塔だったり。ごちゃごちゃしているようで、場面ごとにうまく工夫された見せ方をしていて、これが重苦しい牢獄の閉塞感をうまく救っている。
Yarrisの手記をベースにAdrian Brodyがナレーションで読みあげていく形で、若い頃にしでかした悪いこととか、どうやってあの晩のあの事故が起こって、それにどんなふうに巻きこまれて不本意に拘束されて – そこからの捜査ミスに誤認に手続きミスと偏見が重なり戻りのきかない雪だるまになって、全てがなんの根拠もない状態から歪んだ恐怖(The Fear of 13)に溢れた状態 - 牢獄に入って抜けられないようなことになったのか。牢獄での日々は、暴力的な看守や警官や囚人らが束になってのしかかってきて - 囚人役のひとが看守役も兼ねていたり – 変わり身が速い - その団子になったお先真っ暗の酷さに抵抗しようがないので自棄になるなか、調査にきた学生のJackie (Nana Mensah)と会話を重ねていくうちに仲良くなって獄中結婚して、でもやはり無理がきて別れることになったり、途中でDNAによる科学的捜査が可能となり、これが決定的に覆してくれる、とやってみたらここでもミス - 配送時にサンプルが破損する - が起こったり、ついていない、なんて言うのが憚られるくらい、全体として酷いしさいてーすぎて言葉を失う。
すっとそんなふうに、あらゆる出口と希望を塞がれ続けていくので、Adrian Brodyの、あの途方に暮れた表情や絶望で打ちひしがれている様子は重ね絵で当然のように見ることができるものの、あんまりの極限状態だらけなので、彼以外の俳優がやってもそんなに違いが出なかったのではないか、とか少しだけ。彼特有の軽み – なにやってるんだろう、ってふと洩れてしまう溜息のような巧いところ、見たいところをじっくり見ることはできなかったかも。 劇全体としてじゅうぶんに見応えあるのでよいのだが。
最後のカーテンコールの後に、Nick Yarris本人のメッセージが映像付きで流れて、日本でもついこないだひどいのがあったばかりだし、英国でも富士通の件が今だに話題になるし、なので、そうだよねえ二度と起こしてはいけない、しかないのだが、こんな劇を警察や検事たちが見るとは思えないし、こうして取り上げられるケースの方が稀なんだろうなあ… になる。こういう間違いや誤りはいつでもどこでも起こる可能性がある、という前提でどこかにチェックしたり救済できる仕組みがあるかどうか、なのだが、そんなの誰も作ろうとしないだろうし… ってぐるぐる。