10.15.2024

[film] Lee (2023)

10月6日、日曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。写真家 Lee Millerの評伝ドラマ。

監督は撮影出身でこれが長編デビューとなるEllen Kuras、原作はAntony Penroseによる評伝”The Lives of Lee Miller” – こないだまで書店にサイン本が積んであった。

制作はSkyで、TVドラマのやや豪華版のようなのかと思っていたらゲストも何気にすごいし見応えもあるし。 音楽はAlexandre Desplat – 今回はやや弱いか。

Lee Millerって、昔はMan Rayの写真のモデル、くらいの認識しかなかったのだが、こちらに来てみると、写真家としての彼女の方がよく知られている。特に戦時下のロンドンを撮った写真集は新刊でも古本でも沢山でていて、それらの写真は未だに生々しくて、とても近い。

第二次大戦前夜、それまでVogueのモデルとして活躍して写真は少し、くらいのLee Miller (Kate Winslet)は、ボヘミアンとして南仏で友人たちと楽しく遊んでいた(飲んで、セックスして、写真を撮る日々)のだが、戦争になって、その頃知り合ったアーティストのRoland (Alexander Skarsgård)と恋におちて、その関わりのなか、なにかに追いたてられるように戦争をテーマに撮っていくことにする。

ずっとモデルとしていろんな写真を撮られてきて、撮られる側、見られる側の立場や弱さ危うさを十分にわかっている彼女が、戦争の悲惨や辛苦を前にしたりもろ被りしたりしている女性たちを見てなにかを感じとり、自分の目を通して撮って伝えるのだ、と前線に向かうのは十分な説得力があり、そのぶれない目線や記憶を補うかのように若いジャーナリストのような男(Josh O’Connor)- 最後に正体が明かされる - が晩年の彼女と一緒に当時の写真を見たりしながらインタビューしていく映像が挟まれていく。

まずは当時のUK Vogueの編集長Audrey Withers(Andrea Riseborough)に戦場に行って写真を撮ることをかけあって、横でそれを聞いてへらへら笑っているCecil Beaton (Samuel Barnett) – まああんなかんじだったんだろうなー - を無視して、でも前線に向かおうとしたら英国軍は女性カメラマンが赴くのを許していなくて、そうだわたしはアメリカのパスポートがあるんだった、ってアメリカ軍のジャーナリストとしてヨーロッパに渡り、Life誌のカメラマンDavid (Andy Samberg)と一緒に戦地を渡っていって危険な目にも遭う。 

Paul Éluard (Vincent Colombe)の詩 - “Liberte”を書いたビラが降ってきてパリ解放を知るが、戦争はまだ終わっていないという予感と人々が消えた..という噂を聞いて、ドイツの収容所の方に向かう。ここでの凄惨な写真たちは、Webにもあるだろうから見てほしいのだが、彼らはダッハウでの強制収容所の惨さを最初に目撃したジャーナリストたちで、彼女はまだ30代だった。

言葉を奪われてしまう経験、であることはよくわかるが、それ以上に彼女を激昂させたのが、前線で撮った写真を掲載しなかったUK Vogueの姿勢だったというのはなんとも(その後、US Vogueは掲載した)。戦場での扱い - 女はこんなところにくるな、も含めて充満する理不尽さに翻弄されつつもいろんな怒りを起爆剤に歩んでいった彼女の苛立ちと強さをKate Winsletは見事に表現していて(ポスターでこちらを真っ直ぐ見据える彼女を見よ)、くっきりとしたLee Millerの像を描き出すことに成功していると思った。

南仏時代の仲良しとしてFrench Vogueの編集者Solange d'AyenをMarion Cotillardが、Paul Éluardの妻Nusch ÉluardをNoémie Merlantが演じていて、この3人のやりとりをもっと見ていたかったかも。

10.14.2024

[film] The Legend of Hell House (1973)

10月7日、月曜日の晩、BFI Southbankの特集 “Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema”で見ました。

この特集はもう終わってしまったのだが、特集でかかった21本のうち、見れたのは18本だけ。選んだのがMartin ScorseseとEdgar Wrightなので、ややB級サスペンス-ホラー寄りのが多くて、あとちょっとコメディとか文芸よりのがあればなー、とか、女性が選んだら全然異なるものが出てくるのでは、とか。

邦題は『ヘルハウス』 … と聞いて、小学生のとき『エクソシスト』が公開されてヒットして、もちろん怖くて見に行けるわけないのだが、それより恐ろしいのが『ヘルハウス』だ、っていう伝説があって見にいった人は英雄になっていた - などを思い出し、いままさに見ようとしているのがその『ヘルハウス』であるのをシアターに座ってから気づいて、でも怖くなったのでやめますなんて言えず… がんばった。

監督はJohn Hough、原作はRichard Mathesonによる71年の小説”Hell House”で、脚本も彼が書いている。音楽は共同でDelia Derbyshireの名前が。35mmフィルムの傷や退色も含めて、すばらしくよいプリント。

物理学者のDr. Lionel Barrett (Clive Revill)が大富豪から幽霊屋敷と呼ばれて名高いBelasco Houseの調査を依頼される。同行するのは彼の妻Ann (Gayle Hunnicutt)と霊媒師のPamela Franklin (Florence Tanner)と前回の調査で唯一生き残ったBen Fischer (Roddy McDowall)の計4人で、クリスマスイブの一週間前に屋敷に入って、シーンごとに日時が字幕表示されて、記録や証拠 - Legendとして残る – 50年経っても残っているねえ、と。

最初から相手は幽霊屋敷である、あそこにはなにかある/でる、と明確に言われていて、これは科学的に対処できるはず、とする科学者と直接話したり相手してみれば、という霊媒師と両極がいて、お金くれるなら、という適当なのがいて、要は霊だろうが科学だろうが両面で絶対にでる設定なので準備・用意はできているはずなのだが、やっぱり画面に現れくるのは猫だろうが鳩だろうがぜんぶ怖い – 怖いと思うからこわいんだ、って言われるその罠に簡単にはまる。だって視野の幅から高さからすんなり見てわかる怖さ - 流血とか傷とか、そんな説明なくても見てみれば - だし。

Edgar WrightはJack Claytonの”The Innocents” (1961) - 『回転』の反対側に位置する恐怖映画だと語っているが、確かに最初から種も仕掛けもなくぜんぶ見せていて、ほれ怖がれ、こんなのもあるぞ、ってほいほい投げてくるようで、それでも怖いのだからどうしようもない。

あとは時間の経過か、何時何分に何をした、が記録されていくが、それと同じ時間の流れの中にあれらはぜんぶ置かれ、ずっとそのままにされてきたのだ – 世界の殆どはそういうのでできているのだ、という念押しで浸みだしてくる恐怖。なんでお墓や古屋敷が怖いのかがぜんぶここに。


Dr. Jekyll and Sister Hyde (1971)

10月3日、木曜日の晩、上と同じ特集で見ました。邦題は『ジキル博士とハイド嬢』。

イントロと上映後のQ&Aでは脚本を書いたBrian Clemensの息子のSam ClemensとSister Hydeを演じたMartine Beswickが登場してお話しを。

監督はRoy Ward Baker、原作はR.L. Stevensonの小説”Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde” (1886)、制作はHammer Film Productions。

ヴィクトリア朝時代のロンドンで、まじめな研究者であるDr. Jekyll (Ralph Bates)は名をあげるべく不老不死の薬を研究していくうち、墓荒らしの鬼畜コンビBurke & Hareが持ってきた女性の死体から抽出した女性ホルモンを自分で試してみたら女性の身体に変態してしまうことを発見し、自らMrs. Edwina Hyde(Martine Beswick)と名乗り、最初は隠そうとしていたのだがいろいろやめられなくなって、変身するために自分で夜の街に出て女性殺しを始めるようになり…

ここにDr.Jekyllにプレッシャーを与え続ける年長の教授とか、下宿の上階に暮らしてJekyllとHydeそれぞれに恋をしてしまう姉妹とかが絡んできておもしろいの。

Burke & Hareは感想を書いていないけど同じ特集で見た”The Flesh and the Fiends” (1960) – 邦題『死体解剖記』に出てくる連中だし、舞台はWhitechapelで明らかにJack the Ripperを参照しているし、ドリアン・グレイもあると思うし、フィクションも含めてあの時代のロンドンで起こりえた老いと美と死に対する憧れや畏怖を巧みに放り込んで見事な絵巻物にしていると思った。ファッションも素敵だし。

今だったら男と女の性がどう切り替わるのかをクローネンバーグからこないだの”The Substance”まで、ボディホラーふうに見せる方に寄ってしまうのかも知れないが、それなしでも十分おもしろくできるねえ。

上映後のQ&AはBrian Clemensがどれほど真摯にこれに取り組んでいたか – 細かい資料が遺されているそう - と、あとMartine Beswickさんはすごくチャーミングな方だった。

Whitechapelって、もろ今住んでいるとこの近所なので生々しいったらない。


今回の特集、70年代の選択に所謂B級ホラーっぽい作品が並んだのは、彼ら(Martin Scorsese & Edgar Wright)の映画人としての目覚めや立ちあがりとも関係あったりするのだろうか?

10.13.2024

[film] My Old Ass (2024)

10月5日、土曜日の昼、Curzon Aldgate で見ました。
作・監督は女優でもあるカナダのMegan Park。

カナダの田舎で家族と暮らして18歳の誕生日を迎えるElliott (Maisy Stella)がいて、コーヒーショップの女の子とよい仲になったり、トロントの大学に進学するので最後の夏を仲良し3人組で過ごすべくボートで離れたところに行って - 家族はおうちでバースデイケーキと待ってるのに - 焚火を焚いてひとりが持ってきた怪しげなキノコみたいなのを煎じて飲んでみると、みんな一様に変になり、げらげら笑っているとElliottの隣に中年の女性 (Aubrey Plaza)が座っていて、聞くと39歳の自分だと言う。

そんなバカな話あるかよ、って会話していくと自分しか知らないはずの自分の身体の細かいこととか知っているし、そんな変でやくざな大人にもなっていないみたいなので話をしていくと「Chadには気をつけろ」と言い残してAubrey Plazaはどこかに消えてしまう。

しばらくすると突然本当にChad(Percy Hynes White)という青年が現れてクランベリー農家をしているElliotの家の手伝いを始めて、最初は警戒していたものの、寄れば寄るほど素敵な奴でしかなくて、でも自分はゲイだし違うんだけど、と思いつつもどうしようもなく好きになっていったり、それとは別に親が農地を売ろうとしている計画を知って、なんで何も言わずに勝手に決めるのか? って荒れたり、そんないろいろ区切りの季節に。

39歳の彼女 - My Old Assがスマホに連絡先を残しておいてくれたので試しにチャットしてみたら返してくれたので、なにかある度にそれで相談してみたりするものの埒があかなくなってきて、手に負えないのでもういい加減にでてこい! ってなる。

大人になっていくどこかの過程や岐路で相談したくなる誰かが必要になり、それが親とか他人ではなく39歳の自分というのはわかるし、中高年になった自分から愚かな選択をした/しそうなガキの自分にやめとけ、とか言いたくなるのもよくわかるので、過去を変えたら未来も変わるとか面倒なとこをすっとばしておけばcoming-of-ageものの設定としてはよいと思った。結局はキノコのせいかもだけど。

でも最後に明かされるその謎というか秘密があまりに普通のあれで、こんがらがった何かでもないし伏線回収とかどうでもよいこと以前にこんなんでよいの? にはなったかも。で、明確に示されるわけではないが結局は今のままでよし、に落ちたってこと.. でよいの?

野山でデートするElliotとChadのふたりも素敵なのだが、ふたりのElliottのやりとりがとても自然でよい感じでおもしろいのでずっとかけ合い漫才みたいにやっていてもよかったのに。

あと古くさいかもだけど「大人になる」っていうこと、とか「大人」のありようについて - 便利帳みたいにドラえもんみたいに使うだけじゃなくて - もう少し考察みたいのがあってもよかったのではないか。Elliotの世代はそもそもそういう連中、なので難しいのかもだけど。

Aubrey Plazaがふだんのぶっきらぼう風情はそのままにあんなナチュラルに(≒毒のない)年長ぽい「女性」を演じているのが新鮮で、それを正面から平熱で受けとめてしらっとしているMaisy Stellaもよいの。

仮に自分が39歳だったとして、そいつが18歳だった自分に会えたとしたらなにを言っただろうか? とか考えたり。①まず、ノストラダムスのあれは来ないし日本も沈没しないから期待せずにちゃんと勉強しとけ  ②特に英語はまじめにやっとけ かなあ。 他方で18歳のあのやろうの方はぜったいいうこと聞かなかったし話そうともしなかっただろうなー (嘆)

10.11.2024

[music] Fairground Attraction

10月5日、土曜日の晩、”A Face in the Crowd”を見た後、歩いていってRoyal Festival Hallで見ました。

6月の日本公演はクアトロなどだったようだが、こっちではRoyal Festival Hall(NHKホールかな)で、上の方まで結構埋まっている。客席は当然シニアばっかしで、静かなカップルか同窓会か、のような人たち。お酒を手にしているけどお行儀よい。

前座は、Scott Matthews。ギター1本と歌でNick Drake直系 ~Rufus辺りにも通じる深くしっとりくる歌を聴かせる。秋のかんじ。
 
最後に彼らを見たのは1989年の初来日のクアトロで、当時の待望だったこともありものすごくよくて楽しくて、みんなでゆっさゆさ揺れてスイングしながら聴いて踊りながら帰って、こんなに素敵に楽しんでしまってよいのか?って首を傾げたりしつつ、とにかくよかったの。これの翌年にThe Sundaysがやはりクアトロに来て、すっかりつまんなくなっていた(個人の体感差あります)当時の英国シーンにこれからはもうこういうのだけでよいかも、とかしみじみしていたらグランジのどぶ波がー(以下略)という記憶。

最初の”The First of a Million Kisses” (1988)のジャケットはElliott Erwittによるキスの写真で、これは
Tracey Thornのソロ7inch - “Plain Sailing” (1982)のジャケットのキス - これはRobert Doisneauだった - に続く素敵なやつで - そうやって写真の方に広がっていくのもあったり。
 
でもこの後はというと、EddiがLiberty Horsesと一緒にRough Tradeから7inch出した頃とか、Mark E. NevinがMorrisseyと「おじさん殺せ」をやっていた頃までは追っていたんだけどなー。Eddiは高い声がちょっと不安定になるところもあったが豊かに広がるようだったし、Markは変わらず鳴りを意識させないようなうまさがあるし。

ステージ上のバンドは6人(も)いて、1曲めはみんなあれ本物だわよ、歌ってるわよ、みたいにざわざわしてて(なんかわかる)、2曲めで“A Smile in a Whisper”が静かに寄せてくるとようやくわーってなる。“Words are unable to speak of love ~ Like a smile in a whisper does”、これと”Perfect”の” It's got to be perfect ~”を頭のなかで鳴らしながら、岡崎京子的に夜の街を突っ走る、という80年代末の風景が走馬燈でまわりだしてくらくらする。

彼らもそういうのは承知しているのだろう、35年ぶりのー、とか35年前にはロンドンのあの辺でさー というのをEddi Readerは何度も繰り返し語ってこちらの何かを煽ったり火をつけたりするのだったが、とにかくあの時あんなふうにいたけど、いまもここにこうしてあるんだよ! というのをJudy Garlandの”Get Happy”のようなスタンダードを突っ込んだりしつつ撒き散らし、柔らかいヴィブラフォンの音に包まれたブランコのような回転木馬のようなぐるぐる繰り返される戯れ - FairgroundのAttraction! - のなかで彼女の愛はずっと誘うように歌われてきて今もほらね、って。35年前に遊んだ遊園地で、同じメリーゴーランドががたがたになってるのに迎えてくれたらじーんとするでしょ。彼らの曲って、元々そういう奴らだったんだ、って改めて気づいたり。

そういうのに気づいてきた真ん中くらいの”Find My Love”は、最初のうちみんな独り言を呟くように歌っていたのが最後は大合唱の大波になったり、アンコールの最初の”Allelujah”で、”Alleluiah, Here I am!”と大きく両手を広げてくれたりすると、もうそれだけで… 最近そんなのばかりで、ほんといやだわ。

久々に”Perfect”のPVを見返したらIslington TunnelとかがあるCanalで撮ってるのなー。当時はどこの田舎だとか思っていたが割とすぐそこなのだった。


LFF、当日のチケットが取れなくてしんでる。現地まで行って並べば入れるであろうことはわかっているのだがそこまでの元気もでない。やだやだ。

[theatre] A Face in the Crowd

10月5日、土曜日のマチネのをYoung Vicで見ました。

Elvis Costelloが音楽(詞も)を担当しているミュージカルで、こないだの彼のライブでも若者たちががんばっているので、見にいってくれよな、と言って主題歌を歌ってくれたので見る。タイトルの一曲だけじゃなくて、ミュージカルで流れるいろんな音楽 - 広告のジングルみたいのまで - を全部彼が書いているのだとしたらすごい、って思った。ステージ右端のバンドは菅を含めて6名。

おおもとは1957年のElia Kazanによる同名映画 – 邦題『群衆の中の一つの顔』で、その原作は脚本を書いたBudd Schulbergの短編"Your Arkansas Traveler"。 舞台の脚本はSarah Ruhl、演出はKwame Kwei-Armah。

アーカンソーのローカルラジオ局でレポーターをしているMarcia (Anoushka Lucas)は町にネタ探しにいった時に拘置所の前で寝ていたLarry “Lonesome” Rhodes (Ramin Karimloo)に出会って、彼の喋りとその場で歌ってくれたのをおもしろいと思ったので、自分の番組に呼んで好きに語らせてみたら、リスナーから「よく言ってくれた!」~「ありがとう!」のような反響がすごくて、あっという間に人気番組の人気者となり、やがてシカゴのTV局から声が掛かる。

それなら行ってみようか、とシカゴに赴いたMarciaとLarryの前にはTV局が用意したライターやスポンサー達がみっしりいて、ふたりで好きにやっていた頃とは遠くて制約だらけでおかしい、と思った時には遅くて、でも人の好いLarry “Lonesome” Rhodesはうまく機転をきかせたりして、お茶の間のヒーローになっていく。

Elvis Costelloの主題歌は、君が疲弊して”only a face in the crowd”だと思っていても、ぼくは傍にいるし助けるし、”You're more than a face in the crowd”なんだ、と歌って、更に、君は強くなれるしプライドも立て直すこともできる ~ 僕の手をとって、もし君が”more than a face in the crowd”だと信じさえすればー♪ と歌う。歌詞としては”I Wanna Be Loved”の反対側にあるような曲で、Costelloとしてはあんまり”らしく”ない曲で、ちょっと曲のかんじも含めて弱いかなあ。

やがてLarryの大衆のこころを鷲掴む力に目をつけたスポンサーの薬屋が精力剤”Vitajex”の宣伝に引っぱりだし、更に政治家が自分の選挙のキャンペーンに彼をもちだして、そのキャンペーンガールのBetty (Emily Florence)と結婚する - これもまた宣伝戦略 - ことになったり、それに伴いぐいぐい良くなっていく自分の待遇にテングになっていく彼と、反対に自分ひとりではどうすることもできなくなったMarciaは彼から離れることにして。

このミュージカルのなかの主題歌の使われ方を見ると、政治家にいいように使われているLarryの、薄っぺらいキャンペーンソングにしか聞こえなくなるのと、Marciaに去られた後の彼が最後にどうなってしまうのか、あまりにわかりやすく単純化されていて先が見え見えで、これが50年代の映画ならわかるけど、トランプの時代にこんなの見せられてもどうしろというのか。(一部の観客には小さい星条旗が配られてて、選挙キャンペーンのシーンの盛りあがりを示すのに振るように煽られたので振った。旗振ったの初めて)

SNSやYouTubeの時代のメッセージとしては”A Face in the Crowd”みたいなわかりやすいメッセージには気をつけろ、しかないと思うのだが、その部分がまったくないので、Larryも根はよい人なんだけどねえ … で終わってしまう。それは極右の差別主義者に話がおもしろくてよい人だから、って近づいていくのと同じでだめなんだよ - ってCostello先生だったらここで”Watch Your Step”をー。

“A Face in the Crowd”がLarryと大衆の間ではなく主演のふたりの間で啓示のように鳴り渡る瞬間があれば.. とも思ったけどそれもなく。でもふたり - Anoushka LucasとRamin Karimloo - は歌もうまくて一緒にいる姿がとても素敵だったのでよいかー、と。

10.09.2024

[film] The Outrun (2024)

9月29日、日曜日の午後、Barbican Cinemaで見ました。

英国の天気予報を見ていると、スコットランドの北の端の方って、いつも気温が低いし天気が荒れてて悪そうだし、でもそこで暮らしている人たちもいるんだよねえ、っていつも想像して感心してをするのだが、タイトルの”The Outrun”はスコットランドのOrkney islandsの海沿いの農地のことを指す、のだそう。

原作はベストセラーになったAmy Liptrotの同名のメモワール(2016)で、彼女は脚本にも参加している。監督は(つい最近日本でも公開された、ときいた)”System Crasher” (2019)のNora Fingscheidt。ドイツとイギリスの共同制作。 主演のSaoirse Ronanと夫のJack Lowdenもプロデュースに加わっている。

物語はRona (Saoirse Ronan)の語りに沿って、時間軸はランダムに行き来していく。冒頭はOrkney islandsの寒そうな海の描写で、海で死んだ漁師はアザラシになる、という伝説 – などが紹介され、やややつれた顔と格好でその海岸沿いを歩いていくRonaが父親の農場を手伝って羊の世話をしたり、別居している(後で父の双極性障害が原因とわかる)信心深い母親と会ったり、そこからロンドンで生物学の大学院の生徒だった頃の彼女に替わり、パーティ三昧と乱れた生活でアル中と鬱病になり、面倒を起こすたびにやさしいBFのDaynin(Paapa Essiedu)がケアしてくれていたのだが、彼もそのうち愛想がつきていなくなり、それで更にやけになって襲われそうになって、これは自分でも相当やばいと思ってリハビリ施設のセラピーセッションに参加したりの姿が描かれる。

Orkneyに戻って手伝いとかをしていって、でもそのうちロンドンに戻る、という計画もたてるのだが、フェリーの船中で酒に手をだしたくなって、これはだめだ、って船を飛びだして島に戻り、諸島のなかでも更に僻地のPapa Westrayという島で、RSPB (Royal Society for the Protection of Birds)のボランティアとして、corncrake(和名:ウズラクイナ – 鶉食いな?)っていう絶滅危惧鳥の保護活動をしつつ、島の人たちのなかに入っていったり。

要約すればセルフ・リハビリの記録で、だめになった環境から自分をひっぺがして僻地でひとりになった、その過程で近しい人たちもみんな傷ついたり過去にいろいろあったことを知っていく、というだけの話なのだが、彼女がひとりで海辺を歩いて風に吹かれているところ、粗末なコテージでひとりになったところ、ひとりであるのってこういうことなんだ、と彼女が思い知るその描写と、その反対側でパーティで酒浸りの日々の荒れっぷり - ”System Crasher”の監督なので容赦なくぶちかましてすごい – があり、全体としては傷だらけのSaoirse Ronanのひとり舞台で、おそるべし、しかないのだった。 Ian McEwan原作の”On Chesil Beach” (2017)などでも、海を歩いていく姿が絵になるひと。

ただ、全体として絵になっていることは確かなのだが、酔っ払って暴発する癇癪とかエモと、この状態は絶対よくないのでなんとかしないと、という焦りにまみれたエモと、こんななんもない田舎だけど、アザラシしか応えてくれないけど、いいや、っていうエモがうまくひとつの像に繋がっていかなくて、それを力技で絵にしてしまうのはSaoirse Ronanの演技の力(と背景のOrkneyの海)でしかないのがー。

最後に姿は見えないものの、そのカエルみたいな変な鳴き声を聞くことができるcorncrakeとか、吠えると吠え返してくる(ほんとかな?)アザラシとか、Orkney islands行きたい、になる。いつがよいのか? 冬だと厳しすぎるか、でも夏だとつまんないか… とか。

で、ウズラクイナの声とRonaの笑い声であーよかったねえ、になったところで、The Theの”This is the Day”がエンドロール中にフルで流れるの。 前日の”Megalopolis”のエンディングに続いてだし、翌々日に彼らのライブを控えていたところだったので、なんだこれは? ってひとり勝手に。

10.08.2024

[film] Joker: Folie à Deux (2024)

10月6日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。日曜の昼からだからかもだけど、がらがらだった。

これの1週間前の”Megalopolis”より見る気がしなかったし、2019年の前作もみんな大絶賛だったけどどこがよいのかあんまわかんなかったし、この前作がArthur Fleckからサイコパス Joker (Joaquin Phoenix)のできるまで、を描いていたので、今作は彼が刑務所の外に出ることになって、そこにHarley Quinn (Lady Gaga)が絡んでくるのだろう、くらいに思っていた。

他方で前作以降、2021年1月6日の議事堂襲撃が起こり、その発端となった白人男性のサイコパスが大統領候補になって毎日のようにTVに出ていたり、白人男性のサイコパスが国連で演説して、その大量殺戮がG7首脳に肯定されたり、そんな状態の世の中で白塗りピエロの恰好した白人男性のヴィランが都市の真ん中でなんかやらかした! ようなのを見たっておもしろいわけないよね – というのは作る側も十分認識していたのだろう。 今回のArthur Fleckは監獄と裁判所の間を行ったり来たりするだけで、爽快に暴れたりぶっとばしたりしてくれない – たぶんそこが不評の原因で、それがわかる分、これはこれでこわい。それでもまだJoker的な暴力の構図になにかを求めようとするのか、とか。

冒頭はLooney Tunesふうのアニメーション - “Me and My Shadow”で、Jokerの本体とShadowが分離して、Shadowが勝手に悪さをしていってあーあ、になる。このクラシカルなトーンは都度挿入されるミュージカル・シークエンスで歌われるスタンダードナンバーと並んで昔話のような効果を生むのと、ここで示されるふたつ/ふたりの狂気 - “Folie à Deux”というテーマは最後までいろんな形で回りながら変奏されていく。 同じ「分裂」を扱っても”The Substance”の現代におけるそれとはやはり随分異なる。

精神病院?の看守(Brendan Gleeson)に虐められたりいろいろ言われたりしながら、骨しかないやつれ切ったArthur Fleckの日常が描かれ、そこで収監されていたHarleen Quinzelと運命の出会いをして、裁判に向けて弁護人(Catherine Keener)は幼時の虐待やトラウマが原因で完全に別人格Jokerが生まれ心神喪失状態にあった、といい、法廷で地方検事のHarvey Dent (Harry Lawtey)は分裂なんてしていない、と訴え… ストーリーとしてはほぼこれだけで、前作でのあれをやらかしたのは、Arthur FleckなのかJokerなのか、やったのが別人格のJokerなら無罪にできる可能性があるらしいから - というあたりの、お前はどっちなんだ? 本物のワルなのか? の周辺をずーっと行ったり来たりぐるぐるしたりしていて、その法廷でのやりとりや、 Harley Quinnとの出会いから一緒に歌ったりダンスしたりしながら関係を深めていくまで、の映像としての濃さ豊かさは、確かにすばらしくよく撮れている – そこだけは。 でもそれをIMAX 70mmで見るかというと…

Harley QuinnがArthur FleckのIF - Imaginary Friendのような扱いでしかないのがやや残念 – だってHarleyの過去や内面は殆ど描かれないし、あの状態のArthurになんであんなに寄ってくるのか、あんなスターふうに現れるのか、なんか変じゃない?- で、裁判所が爆破されたときにArthurもふっとばされて、Harley Quinnが「このいくじなし!」くらいのことを吐いて立ちあがるくらいならみんな少しは納得したのではないか。

あのラストについては、この内容ならあれしかなかったのでは、くらい。そういう意味で映画として破綻しているとか、そういうのではないの。ある確信をもってJokerを掘り下げて解剖している。見たい見たくないは別にあるとしても。

しかしここにBatmanとか、どうやって絡ませようというのか? 絡みようがないよね、というところもまた...


明日(9日)からLondon Film Festival(LFF)が始まって、BFIとかCurzonの一部は、ぜんぶ映画祭のプログラム一色になってしまうので、つまんない。映画祭での出会いなんて、苦労せずにどこでもアクセスできる業界の人たちの特権で、ふだん見れる時に見れるのを摘んでいる自分のようなのにとってはほーんとにつまんないったらないの。あーあー。