11.02.2025

[film] Stiller & Meara: Nothing Is Lost (2025)

10月27日、月曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
Ben Stillerの監督によるドキュメンタリー作品で、こないだのNYFFでプレミアされ、Apple TV+でも配信が始まっているので、日本でも見れるのかしら?

Ben Stillerが彼の両親 - Jerry StillerとAnne Meara、60-70年代のTVを中心としたショウビズの世界で花形だった夫婦コンビの足跡を辿っていく。
まず、Benが両親が住んでいた(Anneは2015年に、Jerryは2020年に亡くなっている)NYのアパートに足を踏みいれると、膨大な量のフィルム、写真、手紙、メモラビリア等がぜんぶ遺されていて、TVのThe Ed Sullivan Show等を中心としたフッテージ - ユダヤ人の夫とアイリッシュの妻、とか - の数々、彼ら二人が遺したホームムービーなどから振りかえりつつ、彼らが辿ってきた道と、途中からBenと姉のAmyも生まれて家族ができて、セレブとして多忙だった彼らの家族として過ごすのってどういうことだったのか、等も含めて追って、そこにはBenの妻や子供たちも加わる。

Anneはコメディではなく俳優を志望していて、でもJerryと出会ってコメディの道に入って、漫才コンビとして成功して、生活も安定して、アメリカ中を転々とするような生活になって、幼いAmyやBenからするとそんなに幸せではなかったようなのだが、でも、大量の記録を通して浮かびあがってくるのは、どれだけふたりがずっと愛しあっていて、どれだけ子供たちのことを気にかけていたかで、それはこの、ここで映しだされる分も含めた記録の総量を見ればわかるし、だから”Nothing is Lost”なんだよ。彼らはいなくなってしまったけど。

ということを、Ben Stillerが自分と、自分の今の家族にも言おう、言わなければ、と思って作った作品で、それはJerryとAnneがずっとお互いに見つめ合って言い続けていたこととも重なって、ああ、ってなる。家族ってそういうものだ、って言ってしまうのは簡単だけど、こんなふうに正面きって言う – ずっとぺらぺら冗談ばかり言っていたBen Stillerがふと真顔になるあの瞬間を思いだしたり。

Benが父に今の自分ほど有名じゃなかった、って言うと横にいた母が即座にあなたおねしょしてたでしょ、ってBenを激怒させたりとか、とにかく素敵な家族なの。


Omar and Cedric: If This Ever Gets Weird (2023)

10月18日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
こんなの見にくる人いるのか? と思ったが結構入っていた。でもここの上映のローテーションには入っていないみたい。

Omar Rodríguez-LópezとCedric Bixler-Zavalaの80年代から、特にAt the Drive-InとMars Voltaを中心とした活動の記録。タイトルの”If This Ever Gets Weird”はその後に、すぐにやめような、が来る。

監督はNicolas Jack Daviesで、上映前にシアターに顔を見せて、トークとかできないけど、上映後も上のバーにいるからなんか聞きたいことあったら声かけて、と。

監督はいるのだが、素材の殆どはOmarがずっと撮り続けてきた膨大な量のビデオや写真で、一番古いのは80年代のプエルトリコからやってきた移民としての家族のこと。そこから、テキサスのハードコアシーンでのふたりの出会いから、あきれるくらいにぜんぶ揃っていて、そこにOmarとCedricが交互にナレーションを被せていくので、ドキュメンタリー作品としての強さはあまりなく、ふたりによる活動の回顧-総括みたいなものになっていて、このふたりについてはそれでよいのかも。 上映時間は127分だが200分にしたって見たい人は見るだろう。

At the Drive-Inが爆発して、そのピークに分裂してMars Voltaを作った頃のなぜ?についてもJeremy Wardの死についても、CedricのScientologyの件についても、Teri Gender Benderのことも、彼ら自身の言葉で率直に語られているし、おもしろい、というのとは違うのかもしれないが、バンドの活動を記録する、というのはこういうことだよね、というのがよくわかる内容になっている。 と同時にOmarのばけもののような創造の裾野、その広がりを目の当たりにして、なんてすごい、になる人はなると思う。


Kim Novak's Vertigo (2025)


10月18日、土曜日の午後、LFFをやっているBFI Southbankで見ました。少しだけ書いておく。

監督はAlexandre O Philippeで、監督自身が大ファンであるKim Novakの自宅を訪ねていろいろ昔話を聞いて記録していく。

タイトルから、彼女の名を一躍有名にしたAlfred Hitchcockの”Vertigo” (1958) - 『めまい』の撮影時のことなどが、スキャンダラスなところも含めて赤裸々に語られるのかと思ったのだが、そうではなく、彼女のキャリアを振りかえって、自分がいかに恵まれたスタッフやキャストに囲まれて「女優」として成長できたか、等について感謝を込めて語っていく。クライマックスは、ずっと箱にしまわれていた『めまい』でのグレイのスーツを出して抱きしめるところで、分裂をテーマにしていたあの映画のあれこれが幸せに統合されていくようでよかったねえ、になるのだが、他方で、(犬猿だったと言われる)Hitchcockのことがあまり出てこないのは、ちょっと残念だったかも。

[film] Frankenstein (2025)

10月26日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
LFFでも上映されていた、Guillermo del Toroによるフランケンシュタイン。

原作はMary Shelleyの小説 – “Frankenstein; or, The Modern Prometheus” (1818)。

人間の欲とか傲慢が生みだした半(反 or 超?)自然が作りあげた「人間」になれない、なりきれない怪物、化け物が必然的に巻きおこしてしまう悲劇を、そのどうすることもできない情動と共にメロドラマとして描く、これを通して「人間」の異様なありようを逆に露わにする、というのがdel Toroが一貫してやってきたことではないか、と思っていて、今度のも怪奇ではあるけどホラーではない。ただそこから宣伝コピーにあるような”Only Monsters Play God”の領域まで行けているのか、については微妙かも。

上映前に録画されたdel Toroの挨拶があって、最初にBoris KarloffのFrankensteinを見たのは父に日曜日の教会に連れていってもらった後で、なので自分にとってのFrankensteinの記憶は、教会と共にある、と語っていた。

二部構成で、最初がVictor Frankenstein (Oscar Isaac) - 造ったひとが語るお話し、後半がFrankenstein (Jacob Elordi) - 造られたモノが語るお話し、で、冒頭、北極海で氷で動けなくなった大きな船にひとりの男と毛皮に包まった大男が現れて船員たちと暴れて騒動を起こして、結果瀕死になった男 - Victorはなんでこんなことになったのかを振り返って語り始める。

厳格かつ傲慢な父 (Charles Dance)のもとで捩れて、でも先鋭的な医学者となったVictorは学校で寄せ集めの器官から永遠の命をもつ人造人間のデモをして顰蹙をかうのだが研究を止めず、そこに叔父の武器商人Harlander (Christoph Waltz)が出資してくれて戦場から適切な屍体を調達して理想のあれを造っていく話しと、そこに優しい弟のWilliam (Felix Kammerer)と彼の婚約者のElizabeth (Mia Goth)が絡むのだが、結局は誰の話しも聞かない妄執に駆られて爆発していくVictorの野望がdel Toro得意の(やりたくてたまらない)でっかい機械装置と共にぶち上がり、その崩壊と共になし崩しで野に放たれる。

後半のFrankenstein - 怪物パートは、凶暴で言葉を持たず愛を知らなかった彼がElizabethや老人との出会いによって少しづつ獣からなにかに…

父親の冷血とネグレクトがVictorを歪な方に導いて、Victorはその最期に怪物を、っていうのは原作もそうだったっけ? というのと、結局これだと神=父、になっちゃうのはやだな、っていうのと、だから素敵なElizabeth = Mia Gothがもっと前面に出てほしかったのになーとか、ものすごいオトコの野蛮さを素直にあっさり垂れ流していて、怪物をあんなきれいな顔のにしたとこも含めてどうなのか。最近のスーパーヒーローものの設定やストーリーラインにきれいに乗っかれそうなところがちょっと嫌かも。

エジンバラの要塞のような施設とか教会とか、美術はお金かけてて荘厳ですごく圧倒的に見えるのだが、闇の深さが足らなくてちょっと軽くて紙のように見えてしまうところもある。

あと思うのだが、怪物に毛皮いらないよね。北極の海に落ちたって死なないんだから。

“Poor Things” (2023)もそうだった気がするが、人間を造る、みたいなことをやると、その監督のすべてが隅々まで出るよね - よくもわるくも。というかすべてを曝け出してわかってもらいたいちゃんがこういう人造人間モノを造るのではないか。

10.30.2025

[theatre] Every Brilliant Thing

10月24日、金曜日の晩、@sohoplace theatreで見ました。

作はDuncan Macmillan、初演は2013年で、世界80か国以上で上演されてきたのがロンドンに来た。演出はJeremy HerrinとDuncan Macmillanの共同。

ひとり芝居で、Lenny Henry, Jonny Donahoe, Ambika Mod, Sue Perkins, Minnie Driverらの各俳優の舞台が、この順番で8月から各4週間くらいかけて交替しながら上演されてきた。自分が見たのはMinnie Driverの。休憩なしの85分。

四方を囲むかたちのシアターに入ると、開演前なのにMinnie Driverさんがいて、ひとりで客席をあちこち移動しながらそこにいた観客に向かって個別に何か説明して紙を渡していて、紙には番号と、名詞だったり長めの台詞だったりが書かれていて、舞台で彼女が番号を言うと、その番号の紙を持っているひとはそこに書かれていることを聞こえるように読みあげてね、という指示をしている。端から全員に渡しているのではなくて、客席全体に満遍なく渡しているような。 番号は1番から1000000番くらいまで、連番ではなく、ランダムで、呼ぶ順番も規則も特にないようで、教室で先生に突然あてられるのを思いだしたりする。そういう客席とのインターアクションも含めて、アドリブの要素、それに瞬時に対応する機転も求められるんだろうし、大変そうかも。

メインの筋書きは、彼女が7歳の時、母親が「バカなこと」 - 自殺未遂をしてそれ以降何度か病院に運ばれて、彼女はお母さんが少しでも幸せになれるように、自分にとってBrilliantなことをリストアップして、それを母親の枕元に置いておくようになる(母は読んでくれていたらしい)。それらは母親が亡くなったあとも、人生の節目節目でいつもどこかで湧いてきて振り返ったり復唱したりすると元気になって支えてくれたり – なぜってそれらはぜったいBrilliantなものだったし、今もそうだから – というシンプルなものなのだが、これをどうやって脚本にして役者のひとり舞台に仕あげていったのか。

リストは1.がアイスクリーム!とか、他愛ないものも多いのだが、これらのリストは(月替わりの)演者によっても違うみたいだし、単に並べていくだけではなく、それにまつわる思い出とかもくっついてあるし、過去の再現場面 - 父親との会話とか初デートとか - では、何人かの客をステージにあげて即興で芝居をして貰ったりする。事前に言ってあったのだろうけど、彼らとのやり取りもすばらしく、特に靴下を脱いで手に嵌めてジョークを言うように指示されたおばあさんなんて、あなた本当に素人? になるくらいすごかった。

で、そんなふうにいろんなThingsに埋もれていっぱいになっていきつつ、最後にはCurtis Mayfieldの”Move On Up”と共にぶちあがる姿はとても感動的で、一番のBrilliant Thingはあなたでしょ、になるの。付箋だらけの本がかけがえのない一冊になったとき、そのかけがえのなさを抱きしめるあなたこそが。

だからね、床に積まれた本だって、ほら。(何がほら、だ)


Lessons on Revolution

10月25日、土曜日の晩、Barbican内の小劇場 The Pitで見ました。

4日間公演の最終日。 自由席、60分強で休憩なし。
殺風景なオフィスのような舞台には机と、その上にOHPがひとつ。背後にプロジェクションする白幕、あとはキャプションを流すディスプレイがふたつ。

2024年のEdinburgh Fringeで好評を博したらしいDocumentary Theatre(というの?)。Gabriele UbodiとSamuel Reesのふたりが書いて演じる。パフォーマンスというよりレクチャーみたいな要素もある。これも何人かの観客に紙を渡して読みあげて貰ったり、インターラクティヴに進められていったり(読んでくれた人にはお茶がふるまわれる)。

1968年、London School of Economics(LSE)を3000人の学生が占拠し、学長の辞任とアパルトヘイトの撤廃を要求した。それについて語る現代のふたりはCamdenのBTタワーが見えるフラットで一緒に暮らしながら、LSEのアーカイブに行って、なにがどうしてどうなったのか、当時の資料を掘り続ける。そうやって発見された紙切れやドキュメントをプロジェクションしながら、話は1920年代にイギリスの植民地となったローデシアから、当時世界中を吹き荒れた学生運動の嵐まで、地理と歴史を縦横に跨いで繋いで、LSEの学生運動で絶望して亡くなった学生、最後まで辞めずにナイトの称号まで貰いやがった学長、さらに家賃の値上がりでやってらんなくなっている現代の彼らまでを軽やかに結んでいく。

こんなふうにすべては繋がっている。意図的に繋げる、というよりはっきりと繋げることができて、そこには無意味なことなんてひとつもなかったし、これらの連鎖を学んでいくことって決して無駄なことではないんだから、というLessons on Revolution。

とてもおもしろくてあっという間の1時間だったのだが、敵の方もこれと同じように、改竄された歴史に基づくストーリーを紡いで、世界征服の夢を性懲りもなく膨らませているはずなので – 日本の新しい政局とかみると特に - ほんとやってらんないわくそったれ、になるのだった。

10.29.2025

[film] Too Much: Melodrama on Film

LFFが終わって、通常営業に戻ったBFI Southbankで始まったのが、特集” Too Much: Melodrama on Film”で、なんで日が目に見えて短く、午後の早めから暗くきつくなっていく季節に、わざわざ泣いて貰いましょう、みたいなのやるのだろう? - 11月終わり迄 - ってふつうに思うのだがしょうがない。

BFIのサイトの始めにはLillian Hellmanの有名な言葉 - 『もしあなたが、古代ギリシャ人のように、人間は神々のなすがままになるものと信じるなら、あなたは悲劇を書くでしょう。結末は最初から決まっているから。しかし、もしあなたが、人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならないと信じるなら、おそらくメロドラマを書くことになるでしょう』 が引かれている。

これに倣うのであれば、メロドラマというのは『人間は自らの問題を解決でき、誰のなすがままにもならない』と信じ、これを実践しようとする女性のもの=女性映画、という気がしていて、そういう角度で見ていきたいかも、と。

Love – Obsession – Duty – Defiance – Scandal – Spectacle、のサブテーマの下に作品がキュレートされていて、日本映画からは『乳房よ永遠なれ』 (1955)と、『浮雲』 (1955)と、『西鶴一代女』 (1951)が上映されるのだが、日本なんてどろどろメロドラマの宝庫なのに、これっぽちなんてありえないわ、になるけど、こんなものなのか。”Spectacle”では『さらば、わが愛/覇王別姫』 (1993)とか”Written on the Wind” (1956)のIMAX上映があったりする。


Leave Her to Heaven (1946)

10月23日、木曜日の晩に見ました。
監督はJohn M. Stahlで、もう何度も、昨年春のGene Tierney特集でも見ているやつ。邦題は『哀愁の湖』。20世紀FOXのこの年の最大のヒット作になったそう。

テクニカラーのパーフェクトな色調のなかで描かれるアメリカの砂漠、湖、家族といったランドスケープの反対側で描かれるEllen Berent (Gene Tierney)にとっての天国と地獄。盲目的に愛していた父を亡くし、作家のRichard Harland (Cornel Wilde)と出会ってしまったばっかりに。 Ellenは彼とずっと一緒にいたい、ふたりだけでいたい、そればかりを一途に願って、彼の弟を殺して、自分も流産して、最後には自分まで殺してしまって、これだけだとなんて恐ろしい女、になると思うのだが、彼女の反対側にいるRichardはあの程度の罪で済んでしまってよいのか、彼女がああなっていったのはこいつのせいでもあるのではないか、とか。

そういう変えられなかった、どうすることもできなかったあれこれをドラマ(華やかで動かしがたい落ち着いた空気)の根底に見て感じることができる、というのがメロの基本なのだなー、って。


All That Heaven Allows (1955)

10月25日、土曜日の昼に見ました。『天はすべて許し給う』。
↑からの続きでいうと、彼女を天国に置いておけば、あとはすべてが許される、って繋がっていて、どちらも下界にHeavenがないが故に起こりうる悲劇であり、だからメロになるのか、と。

これももう何度も見ている、監督はDouglas Sirk。制作のRoss Hunter、撮影のRussell Metty、音楽のFrank Skinnerらは、こないだ見た”Portrait in Black” (1960)の面々と同じ。

Cary Scott (Jane Wyman)はニューイングランドの貴族社会で、夫を亡くして息子と娘を育てあげて、友人も言い寄ってくる男たちもいっぱいいるのだがなんかこのままでよいのか、があって、ある日庭師のRon Kirby (Rock Hudson)と出会って惹かれはじめるのだが、ふたりの間にはいろんな壁とか溝とか崖が湧いてくるのだった…

いつの時代もどんな場所でも昼メロの恰好の題材となる保守的で中に入れなくて見透しゼロの上流社会とその外側に奇跡のように現れた王子さま(あるいはその逆)の狭い世界の上がって下がって傷ついてを流麗に描いて、世間なんて知ったことかー、という状態になったところで現れる鹿も含めて、果たしてこれは地獄なのか天国なのか? 天が許したまう「すべて」って果たして誰にとってのどこからどこまで? のパーフェクトなサンプルを示す。


Enamorada (1946)


10月21日、火曜日の晩に見ました。ニュープリントの35mmフィルムでの上映。

Emilio Fernándezの監督によるメキシコ映画で、日本で公開されたのかどうかは不明。タイトルを直訳すると『愛』。とにかくおもしろいのよ。

見たことないと思っていたのだが、最初の場面で見たことある!になって、調べたら2019年にBFIで見ていた。

Cholula(チリソース)の町にやってきた傲慢で恐いものなしの革命家のJosé Juan Reyes (Pedro Armendáriz)は逆らう地元民を簡単に銃殺したりしていたのだが、町の有力者の娘Beatriz (María Félix)に一目惚れして革命どころじゃなくなり、でもBeatrizは自惚れるのもいいかげんにしろ寄ってくるんじゃねえ、の針ネズミで、教会の神父とかも巻きこんでどうなるやら… のこれ、メロドラマというよりふつうにrom-comとして楽しいのだが、どうなんだろう? 寄ってくるJosé Juanを花火屋で火まつりにしてやるところとか痛快だし、最後はハッピーエンディングみたいだし(あのままふたりで突撃して死ぬつもり?… にも見えないし)、でも、Beatriz、あんなにJosé Juanを嫌っていたのに、ああなっちゃうのはやはりちょっと謎かも。

まだこの後も泣きながら見ていくつもり。

[film] The Mastermind (2025)

10月20日、月曜日の晩、Curzon Sohoで見ました。

LFFでプレミアされたばかりで、主演のJosh O'Connorのイントロつき(この晩、彼はBarbicanでも上映後にトークをしていて、そっちの方に行きたかったのだが)。こんなに早く公開されて、トークまで付いてくるのだったら、別に映画祭で見なくても、にはなるよね。

トークは短かったが、Alice Rohrwacherの”La Chimera” (2023)でも美術品泥棒でしたけど? という問いに、自分の考えだけど”La Chimera”の彼は泥棒ではなくて、今度のはふつうにシンプルに泥棒だと思う、とか。

作・監督はKelly Reichardt、撮影は監督とずっと組んでいるChristopher Blauvelt、音楽はRob Mazurek –Chicago UndergroundでTortoiseのJeff Parkerとかと一緒にやっていた人。

Kelly Reighardtの映画、余りそんなイメージはないかもしれないけど、ずっと犯罪とか窃盗 – どす黒い本流の「クライム」というよりやむにやまれずおどおどびくびくしながら実行していくアクションの顛末などを描いていて、“Night Moves” (2013)や“First Cow” (2019)もそうだと思うが、最近のGuardian紙のインタビューによると、彼女の母は潜入捜査官、父は現場捜査官で、両親の離婚後の継父はFBI捜査官で、そういう事象・対象としての犯罪が空気のようにある家庭で育った、のだそう。

1970年のマサチューセッツの郊外で、James Blaine "JB" Mooney (Josh O’Connor)は無職で、妻のTerri (Alana Haim)とふたりの男の子がいて、実家の父(Bill Camp)は裁判官だし母(Hope Davis)もちゃんとしているのに彼だけぱっとしていなくて、でもそんなに苛立ったり困ったりしているかんじはない。

彼は地元の美術館からArthur Doveの抽象画4点を盗むことを計画して下見して、母に嘘をついてお金を借りて仲間を集めて、でも実行の日、ひとりは現れないし、残りのふたりも素人だし、子供たちは学校が休みで面倒を見なければならないし、現場にいっても盗み決行中に小学生が絡んできたり、警備員にも見つかって出る時にひと悶着あるし散々なのだが、でもどうにか盗み出すことに成功する。 ここまでが冒頭30分くらいでさっさかと描かれて、そこにはなんで強盗に踏みきったのか – しかもあんな微妙で半端な抽象画を – の説明も犯罪実行時の高揚も緊張感もまったくないの。すべてが場当たり的でいいかげんで、抜けられたのは運がよかっただけ、みたいな。 そしてそれらについてJB本人も焦りも怒りも後悔もせず、とにかく逃げて、隠して、捕まりさえしなければ(いいや)を淡々とやっていくだけ。

やがて逃げた共犯者が別の強盗をしてあっさり捕まり、JBの名前を言っちゃったので自宅にFBIがくるし(もちろんシラをきる)、ギャングにも名前が知れちゃったので盗んだ絵画も連中に持っていかれて、手ぶらの指名手配された窃盗犯となった彼は美術学校時代の仲間のところに行ったりそこからヒッチハイクで遠くに向かおうとするが結局…

前半の窃盗の場面と同様、その後の逃亡劇もぜんぜんぱっとしない、家族からも友人たちからも追われたから言われたから逃げていくだけの、しょうもない後ろ向きの立ち回りをJosh O’Connorは強い信念も動作も激情も繰りだすことなく、ひょこひょこ渡るように演じていて、そのどこまでも後ろ向きの態度と表情 - 犯罪映画の主人公としてはありえないくらいへっこんだ容姿って、悪に立ち向かうヒーローと同じくらいにすごいと思った。過去の映画だと、やはりJean-Pierre Melvilleの映画に出てくる一筋縄ではいかない、でもどこか魅力的な連中だろうか。

”La Chimera”での彼も疲れてぼろぼろだったが、そんな彼のところに欧州の神の啓示(のようなもの)がやってきた。これに対し、ここにはベトナム戦争後の米国を生きる疲弊と混沌がそのまま垂れ流されていって、神もくそもなく、ただ遠くに消えていくさまがどこか生々しい。

あと、これがアートを中心に置いた営為で、ちっともアートっぽくない構えで動いていく、というところだと監督の前作 - “Showing Up” (2022)でMichelle Williamsが演じたアーティストの姿とも重なる。周辺の雑務とかどうでもいいヒトやコトばかりがあれこれ纏わりついてきて、やりたいことのずっと手前とか周辺をぐるぐる回って出口が見えなくなって塞がっていくことの悲喜劇とか。

Kelly Reighardtの長編映画のここ数年て、男性主人公ものと女性主人公ものが交互に来ている気がして、次は女性ものになるのだろうか。Michelle WilliamsとJosh O’Connorが共演したら、とか。時代劇もよいかも。

あと、主人公の70年代ファッション(by Amy Roth)がなかなか素敵で。”The Mastermind”ブランドとかいって出してみたらよいのに(で、ぜんぜん売れないの)。

そしてさっきO2アリーナでHaimを見て帰ってきた。
この映画の唯一の不満は、ろくでなしの夫をしばきまくるAlana Haimがあまり出てこないこと、なのよね。

10.28.2025

[film] 100 Nights of Hero (2025)

10月19日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

LFF最終日のクロージング作品で、この上映の1時間前に隣のRoyal Festival HallではこれのレッドカーペットとGala上映が行われていた。隣なんだからちょっとだけこっちに来てくれたってよかったのに。

作・監督はJulia Jackman(2作目の長編作品)、原作はIsabel Greenbergによる同名グラフィックノベル(2016)。タイトルからスーパーヒーローものと思いこんでいたら、ぜんぜん違った。

シェヘラザードの『千夜一夜物語』と『侍女の物語』のミックス - 他にもいろいろありそう。全体としては90分のB級で、プロダクションの完成度みたいなところからすればがたがたの穴だらけなのだが、手作りの創意工夫に溢れた楽しい作品で、とてもよいと思った、というか大好き。

月が3つあるので地球ではないかもしれないどこかの星の中世みたいな時代に、Birdman (Richard E Grant)ていう見るからに陰険邪悪なじじいっぽい鳥の神が支配している世界があって、元は彼の娘のKiddo (Safia Oakley-Green)が理想郷として描いた男女平等の世界があったのだが、Birdmanが男女平等なんて我慢できない、ってじじいの癇癪をおこしてから女性は読み書きを、それを習うことも禁じられている。

そんな世界のお屋敷に暮らす貴婦人Cherry (Maika Monroe)とそのメイドで親友のHero (Emma Corrin)のお話し。 Cherryは表面は優しそうなJerome (Amir El-Masry)と結婚するのだが、彼はCherryを妊娠させることができず、というかベッドに誘うことすらできないままでいて、後継ぎを産めなければCherryは死刑にされてしまう。彼の親友で女たらしのManfred (Nicholas Galitzine)は自分がその気になれば大抵の女なんて、って豪語するので、じゃあ自分が出張に出ていなくなる100日の間にCherryを誘惑できるか賭けをしよう、って持ちかけて自分はさっさと出ていってしまう。

こうしてCherryとHeroの前に現れたManfredはぴっかぴかのナルシスティック(でバカな)な目線と身振り - 自分が倒したでっかい鹿を上半身裸血まみれで担いできたり – でふたりをドン引きさせるのだが、あの手この手を使ってなんとかCherryをベッドに連れこもうとして、懲りずにあらゆる手口を駆使してくる。これに対抗すべく立ち塞がったHeroは、彼女の祖先の代から伝わる女たちのストーリーを、読み書きの替わりとなる不思議な能力を駆使する三姉妹 – このうちのひとりがCharli XCXだったり - の伝説を語りながら、100の夜を乗り切ろうとする。そのかわしたりかわされたりの駆け引きの日々。

見るからに頭の足らなそうなManfredの誘惑をかわしきったところで、子供ができなければCherryは死刑にされてしまうので、どっちにしても、なのだが、Heroの語り続けるストーリーは彼女たちふたりの思いと絆をしっかりと固めていって… ラストに悲壮感はまったくないの。 ”Thelma & Louise” (1991)もあるかも。

衣装とか屋敷の装飾の艶やかだったりゴスだったりの手作り感がとても素敵で、そこに迫害と漂流を余儀なくされていった女性たちの儚くて終わらない夢と物語が重ねられていく。という辺りはとてもよいのだが、もう本当に辛いばかりだし、ここに出てくるバカな男どもをいい加減どうにかしてほしい。Emma Corrinが最後に連中をぼこぼこの皆殺しにしてくれると思ったのになー。この背景設定だったらそれをやってもぜんぜん映えたはず - と思ったりもしたのだが、バカな男たちと同じ土俵に立ってやりあってはいけないのだ、という強い意思もあるのだろうな、って。

10.27.2025

[film] Roofman (2025)

10月19日、日曜日の午前10時、IslingtonのVue (シネコン)で見ました。LFFの最終日でいろいろ詰まっていたのでこの時間になる。

LFFでも上映されたやつで、ポスターはでっかい熊のぬいぐるみを肩車して黄色縁サングラスのChanning Tatumが銃を構えているやつで、その手前にKirsten Dunstがいる - こんなの絶対楽しく弾けまくるクライム・コメディだと思うじゃん。 ぜんぜん違った…

監督は”Blue Valentine “や”The Place Beyond the Pines” (2012)のDerek Cianfranceで、実話を基にしている。音楽はGrizzly BearのChristopher Bear。

00年代、Windows XPの頃のアメリカでJeffrey Manchester (Channing Tatum)は元軍人で3人の子供がいるが社会に馴染めなくて妻からは嫌われ子供たちからもちょっとひかれている。で、お金を稼ぐためにマクドナルドの屋根に穴を開けて中に侵入し(だから”Roofman”)、礼儀正しく従業員を傷つけることなく現金を強奪すること45軒、でもとうとう捕まって、でも刑務所を天才的な器用さと機転で抜けだしてしまう。

次に捕まったら永久にアウトなので軍人仲間のSteve (Lakeith Stanfield)に連絡して偽造パスポートを作って貰うまでの間、でっかいトイザらスの店舗に入り、フロアに死角のエリアを見つけると店内監視カメラのレコーディングをOFFにして、布団も髭剃りもドライヤーもM&Mとか食料もぜんぶ店内のものを調達しながら店内で生活を始める。

店長(Peter Dinklage)は厳格で陰険な奴で、彼に苛められている従業員でシングルマザーのLeigh (Kirsten Dunst)が気になったので、店長のPCのパスワードを盗んで彼女のローテーションを軽くしてあげて、彼女が通う教会にも行ってそこのコミュニティに受け入れられて、付き合いが始まる。

政府系の人には言えない仕事をしている、と嘘をついて、店内のおもちゃを沢山お土産にして、彼女のふたりの難しい娘も彼に馴染んでいって…

破綻することが見えている話なので先は書きませんが、JeffreyとLeighが親密になっていく過程と、それが儚くあっけなく壊れてしまう瞬間の切なさは実話、ということもあってかとても生々しく、それをChanning TatumとKirsten Dunstのこれ以上は望めない組み合わせが支えている。夢を追って有頂天になる姿、それが壊れたときの痛みを全身で表現できるふたりなのでー。だからどうしてもこの2人がありえないやり方で編みだすであろうハッピーエンディング - 別の結末について、つい夢想してしまうのだった。

それにしても、Jeffreyの器用さがあったらなんでもできるんじゃないか、って素朴に思う。自分は彼がさっさかできることの10%もできない気がする。


Good Fortune (2025)

10月22日、水曜日の晩、Picturehouse Centralでみました。

ポスターには背中に羽を生やしたKeanu Reeves Aziz AnsariとSeth Rogenが並んでいて、久々のバカ映画な気がした(けど実際にはそんなでもなかった)。 簡単に機内映画に行きそうなB級風味。 作・監督はAziz Ansari。

Gabriel (Keanu Reeves)は見習いの天使でTexting & Drivingをしてて危機一髪の人を救うのを - まだ見習いだから - 主にやってて、ある日、定職を持たず、車に寝泊りしてデリバリーサービスの顧客ポイントで日々食いつないでいるArj (Aziz Ansari)が目にとまってなんとかしてあげたい、と思う。

Arjは配達先の豪邸でなんでもあるけどあれこれ要領悪く暮らしているテック系の投資家Jeff (Seth Rogen)と出会って、彼の家の住みこみの小間使いとして働き始めるのだが、ちょっとしたことで解雇されて、車もなくなって、いよいよ崖っぷちになると、Gabrielは大天使Martha (Sandra Oh)が止めるのも聞かず、ArjとJeffの立場を入れ替えてやったら元に戻せなくなり、その罰として天使からふつうの人間にされてしまう。

こうして、立場がすべてひっくり返ってしまった富豪 - 極貧 - 天使はどうやってサバイブしていくのか、元に戻ることができるのか? っていう寓話、教訓話しみたいなやつで、人の運とか金まわりなんて、天使がいようがいまいが結局関係ないのだ、っていうことなのだろうが、それをこの文脈でやっても、貧乏人は諦めて努力していくしかない/そのうち回ってくるかもー、でしかなくて、それってなにがおもしろいの? になるのだった。貧乏が昔ほど笑いのネタにならなくなっている - 他にもあるけど - という事態をおちょくる、という高度な意図もあったりするのか。

あと、人間になったGabrielがナゲットとかバーガーとかタコスを、こんなに美味いものがあるなんて! って頬張るシーンは微笑ましいけど、天使って食事したことないのにどうしておいしいって言えるのか。 馬糞食べさせても歓ぶんじゃないの? とか。

『ベルリン・天使の詩』(1987)の頃、天使はヒトと恋におちるべく決意して人間になったのに、いまは罰で人間になるのかー、とか。