1月16日、金曜日の晩、@sohoplaceで見ました。 Chichesterでの上演後、West Endに来たもの。
原作はJohn le Carréの同名小説(1963)、脚色はDavid Eldridge、演出はJeremy Herrin。
John le Carréが生前は許可しなかった自作小説の舞台化が彼の死後に実現されて、これが最初の舞台作品となる。
原作を最後に読んだのは前世紀だが、舞台化にはやはり大丈夫かな? ってなる。le Carréのスパイ小説の醍醐味 – 小さな町の小さな出来事がいろんなものを引き摺ってグローバルに転がっていく、そうして狂った世界全体を見せるスケールと、その反対側で万能でもなんでもない主人公達が苦悩し逡巡しやがて破滅的な行動に出る、背負ったものや宿命を巡る押したり引いたりの微細なせめぎ合いを舞台上できちんと表現できるとは思えなかったし。
今作に関していうと、やはりそれなりに単純化したり、George Smiley (John Ramm)をある種の(典型的なスパイの)象徴のように - 高いところにサーチライトで照らされ、無言で、銅像のように立っているだけ - 描いたりすることで、テーマである冷戦時代のスパイの過酷さ/に対する非情、など、いろんな落差も含めてある程度は表現できていたのではないか。
上演前の舞台上には自転車が無造作に転がっていて、床の上には矢印で国境の向き → UKとかが描いてある。
冷戦時代のベルリンでスパイ活動をしてきたAlec Leamas (Rory Keenan)は、部下の情報提供者が自転車で国境を跨ぐ手前で射殺され、うんざりして飲んだくれてロンドンに戻されて干されて、どん底で入った図書館で司書のLiz (Agnes O’Casey)と出会って、少しだけ上向いたようになる。
粗暴なアル中でだらしなくてゴミ溜めの底まで落ちた男が、そこで出会った女性と恋に落ちて、その恋に囚われて最後は破滅する – 恋は何かのはじまりではなく、Endを後押しし、視界を塞いで破滅に導くものでしかない、というのはle Carréのスパイ小説でも繰り返し現れる風習のようなものなので、わからなくはないのだが、舞台上の流れの中でやはりちょっとこのパートは浮きあがって見えた。
なのでこの後、終盤にかけて、Leamasに与えられた任務の入り組んだ、敵方との間で罠のように仕組まれた罠と、その必然でやってくる最後の悲劇をどう見せるか、のところも相当あっさりに見えた。じゃあ、あっさりじゃない風ってどんななのか? って考えるとどれも違うかも、になるので、この見せ方しかないのかー、って。
The Spy Who Came in From the Cold (1965)
こちらは60年前に作られた映画版。
少し前だが、昨年12月8日、月曜日の晩にBFI SouthbankのRichard Burton特集で見ました。
Richard Burtonの孫娘の方がイントロで紹介していた。
監督はMartin Ritt、脚色はPaul Dehn、Guy Trosper、撮影はOswald Morrisで、アメリカでブラックリストに入って撮れなくなったアメリカ人たちが多く参加して作ったイギリス映画でもある、と。あと、ヒロインの名前が原作から変えられてNan Perryになっているのは原作の”Liz”だとRichard Burtonの妻と混同される恐れがあったため、とか、トリヴィアがいろいろある。
モノクロで、割と原作に忠実 – であろうとしすぎてスパイ映画としてはやや複雑で暗くて難しく見えてしまう感もあるが、こういう裏とか陰がいっぱいある役をやらせるとRichard Burtonはさすがにうまいなー、しかない。うますぎてサスペンスの流れのなかで彼ひとりが浮きあがってしまう – ほんとは屑として葬られる役なのだが過剰で、かっこよすぎる。同様にヒロインのClaire Bloomもきれいすぎて、le Carréの最初のチョイスはRita Tushinghamだった、とか。
あと、Globe座にある蝋燭照明の大好きなシアター、Sam Wanamaker PlayhouseのSam Wanamakerが出演していて、この人だったのかー、って思った。アメリカ人だったのね。
1.22.2026
[theatre] The Spy Who Came in from the Cold
1.20.2026
[film] Sotto le unvole (2025)
1月14日、水曜日の晩、ICAで見ました。
英語題は”Below the Clouds”。昨年のヴェネツィアでプレミアされてSpecial Jury Prizeを受賞したGianfranco Rosiによるナポリの町とそこに暮らす人々を3年に渡って撮影して作ったモノクロ、ナレーションも字幕もなく進んでいくドキュメンタリー作品。音楽はDaniel Blumberg。 ローマ郊外を描いた”Sacro GRA” (2013) – ランペドゥーザ島を描いた“Fire at Sea”(2016)に続くイタリアの町シリーズ。前2作は見ていないが、これはすばらしくよかった。
冒頭、タイトルはコクトーの“Vesuvius makes all the clouds in the world”から来ていることがわかり、ポンペイを灰の下に埋めてしまったヴェスヴィオ山のもと、いまも頻繁に地震が起こっている町と人々の様子を紹介していく。
市内をゆっくり走っていく電車、人のいない映画館(ロッセリーニの『イタリア旅行』がかかったり)、夜とか地震の度に緊急コールセンターにかかってくる電話(いま揺れたよね?ね? 程度でかけてくるのがすごい)、夜のコールセンター宛にかかってくるその他の電話(家人の暴力とか)、過去に墓泥棒が入って根こそぎ持っていったりしたその跡地、博物館の学芸員の活動 - というか彫刻を眺めてほれぼれする、日本から遺跡の発掘にきたチームの活動、シリアからの労働者のこれからどうする、の会話、などなど。
ナポリは近くにポンペイ遺跡があって、観光客で賑わっていて、自分も行ったことはあるが、こんななだらかな地形の穏やかそうな土の上で、突然に自分たちの築いてきたものが一瞬で灰で埋まり、家族も親族もぜんぶ亡くなる、消滅する - そういうことが起こった、地政も含めて、そういう脆く危うい脅威やリスクにずっと曝されながら暮らしてきたんだな、というのがだんだん見えてくる。ここで、モノクロの鉛のような質感のなかで描きだされる町の情景は静かで深くて、終わりの見えている閉塞感のなかにあり、どこにも動けないまま止まっているような。
日本も地震はいっぱいあるし、経済的にも安定していないので、同じような風景が見えてきてもおかしくない気がするのだが、そうならないのは家長を含めた共同体ががっちりといろいろガードして固まって異質な空気や不安を排除してしまうから、だろうか。あと、子供みたいに落ち着きなくずっとちゃかちゃか… (これはこれでいやだ)
イタリアの、ナポリの陽光溢れる陽気で華やかなイメージはまったくなくて、どちらがよい正しいとかいう話でもなく、山の上に雲がでて、それが広く町を覆っている時、その下で人々はこんなふうに生きて活動している、してきたのだよ、と。ここに年末に行ったフィレンツェとか他の町の聖堂の暗がりに浮かびあがったフレスコとかモザイクの擦りきれた影や跡 - とその彼方に広がる宇宙、噴火の火砕流で固められてしまった人々、墓泥棒がフレスコのあった壁ごと剥いでしまった石室、そしてほぼ人がいない状態で走っていく夜の電車、映画館、博物館のぼわーっと浮かびあがる - ”Below the Clouds”というかんじがすばらしい。
ナレーションや説明の入らない世界について、Frederick Wisemanの描こうとしているのが所謂「社会」であるとすると、Gianfranco Rosiの描こうとしているのはその土地を流れていく、その土地をつくってきた雲とそれができるまでの「時間」のありようなのではないか、と思った。
[theatre] When We Are Married
1月12日、月曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
原作はJ. B. Priestley (1894-1984)の同名戯曲 (1934)で1943年にはLance Comfortによって同じタイトルで映画化されている。演出はTim Sheader。なかなかチケットが取れなかった。
舞台はクラシカルでゆったりとしたリビング、中央にソファがあり、端にはピアノがあり、鉢植えの植物だけ異様にでっかい。
1908年、ヨークシャーの中流階級家庭で、25年前の同じ日、同じ場所で結婚式をあげた3組の夫婦が仲良くみんなで銀婚式を祝おうと集まってくる。
ホストとなる家の家政婦は見るからに聞き耳たてる詮索好きで、記念写真を撮りにきた写真家はべろべろに酔っぱらっていて、中心の夫婦は一見まともふう、一組は夫ががみがみ内気な妻を怒鳴りつけていて、もう一組は逆に妻が夫を尻に敷いていて、そんなテーブルを囲む手前で、25年前に式を執りしきった神父が現れて、ごめん、君らの結婚ちゃんと手続きしてなかったかも、という。いやいやいや、それはとーんでもないことだしなんで今日のこの日にそんなこと言うわけ? なので聞かなかったことにしましょうか、にしようとしたのだが、家政婦が全員にばらしちゃったのでざわざわし始めて止まらなくなる。
まずは全員が体面体裁もあるので穏やかで、でもそのうちずっと尻に敷かれていた側のそれぞれの妻と夫が、おうおうそれってどういうことだよ~こういうことか? って立ちあがってこれまでの恨みも含めてとにかく散々やってくれたよなあー もう関係ないってことよね? っていきなり逆の態度で反乱を起こすし、夜の繁華街からやってきたそれっぽいレディーまで絡んできて…
結婚なんて紙切れ一枚のー というのが事実だとしたら、紙切れの拘束が解けたらこんなふうになる、なにやったっていいんだよね他人だし、というのを普遍性をもってわかりやすく描いていて、とにかくおもしろいったら。切れ目にどかどか流れるBeyoncéの”Single Ladies”なども違和感なく溶けこんでいて、俳優みんなすごくうまくて楽しいし。
戸籍とかマイナンバーとかがあると、こういうおもしろいことも起こらなくなるので、みんな気をつけようね、って。
The Rivals
1月13日、火曜日の晩、Orange Tree Theatreで見ました。
これもなかなかチケットが取れなかったやつで、テーマ的には結婚制度のばかばかしさを嗤う系のが連日偶然重なったかも。(月曜日のが事後、火曜日のが事前、というか)
原作はアイルランドの劇作家Richard Brinsley Sheridan(1751-1816)の同名戯曲 (1775)、これが彼の最初の作品だそう。ここから250年を記念した公演で、演出はTom Littler。舞台の床上には18世紀バースの古い地図が描かれている - 上の席だったので、この地図とGoogle Mapを重ねてみたけどよくわかんなかった。
舞台上にはマイクスタンドがあって、最初のアナウンスから大勢でセット(リビングからお風呂から食堂から)を置いたり組んだり、それを振付や場合によっては歌もダンスも込みの一連の動作として、目まぐるしくレビュー・ショーのように移し替えていく。囲み型の結構狭いシアターなのによくあそこまで、ちゃきちゃきと、って感心する。
そんな慌しい交錯のなかに浮かびあがる若い貴族のJack Absolute (Kit Young)が貧しいけど聡明なLydia (Zoe Brough)に恋をして、彼女を落とすべく、階級が下のBeverley軍曹になりすまして近寄っていく話と、もう一組、Jackの友人の“Faulty” Faulkland (James Sheldon)とJulia (Boadicea Ricketts)のうまくいっているのかいっていないのか一部壊れたような付き合いが進行して、息子の恋愛→結婚にやきもきするJackの父Sir Anthony (Robert Bathurst)とLydiaの後見人で叔母のMrs Malaprop (Patricia Hodge)の言い間違いなどが混乱に拍車をかけて、それぞれが思いこみも含めたいろんなライバルたちに翻弄されつつも、最後にはどうにかなる、というかなってしまう。そうさせたパワーってなんだったのかしら? というすっとぼけた、でも勢いにあふれたコメディ。
舞台とか回転しないかわりにセットを人力で目まぐるしく回転させていくせわしない演出で、それがこの劇のテーマ – 身分階級なんていいから、恋は自分で勝ちとれ、みたいなのにうまくはまっているようで、よかった。
それにしても、自分が知らないだけだし、考えてみればあたりまえなんだけど、いろんな劇作家がいてまだまだ知らないことだらけだなー、って。
[film] Moss Rose (1947)
1月6日、火曜日の晩、BFI Southbankの古いやつをアーカイブから引っ張りだす”Projecting the Archive” のシリーズで見ました。90年代にオリジナルのナイトレートから焼かれた35mmフィルムでの上映で、一般公開用の上映で使われるのは初めてのプリントだって。
主演のPeggy Cumminsの生誕100年を祝う上映でもある。Joseph H. Lewisの”Gun Crazy” (1950) - 『拳銃魔』でのぶっとんだ役が有名だが、元はイギリスの女優さんで、晩年はBFIのイベントによく来てくれたり地域のボランティアに参加したり、とても素敵な方だったそう。
「霧のロンドン」をたっぷり見せたいアメリカ映画で、監督は、俳優としてもいろいろ出ているGregory Ratoff、原作はJoseph Shearing aka Marjorie Bowenの1934年の小説。ヴィクトリア朝の頃、実際にあった事件を元にした小説。IMDBには邦題『モス・ローズ』とあるので、日本でも公開されたのかしら。
ミュージック・ホールで踊り子をしているBelle aka Rose (Peggy Cummins)が、仕事仲間のDaisyがフラットで殺されているのを発見して、亡くなる直前まで彼女と一緒にいたRoseは現場近くにいて怪しかった男Michael (Victor Mature)を追っかけて、あんたやったでしょ?あたし見たんだからね、 って脅迫してお金ではなく田舎にある彼の屋敷に滞在させてもらうことにする。
連れていかれた貴族のお屋敷と生活にはほぇーってなるものの、そこには彼を溺愛する母親(Ethel Barrymore)がいて、彼の婚約者もいるし、なにやってんだろあたし、になったりするのだが、そこに次の殺人が起こって…
現場に残されているMoss Rose(和名マツバボタン)が意味するところは、とか、肝心なところでかき乱してくる警部Clinner (Vincent Price)とか、犯罪推理モノっぽいところはあるものの、犯人捜しの建付けと謎解きはどうってことなくて、なんにでもクビを突っ込みたがりのキュートなRoseのスクリューボール・コメディのように見ることもできるかも。でも興行的には惨敗だったって..
それにしても“Gun Crazy”でめちゃくちゃぶっとばしてしまう前にこんなことを、相当度胸のあるあれだと思うが、とにかく彼女の軽くてとっぽい仏頂面などがたまらなくよいのだった。
High Treason (1929)
1月18日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
1月の特集に、”Magic Rays of Light: Early Television”という特集があって、初期のTVプログラムを集めて上映している。時間があれば見てもおもしろいだろうな、と思うものの、知識としてはなんも持っていない世界なので、見れる範囲で、くらい。
これは1950年頃の世界を舞台にしたサイレントで、トーキーの到来を意識した音声付きバージョンも作られたらしいが、今回の上映は35mmフィルム上映でピアノ伴奏がつく。なんでこれをEarly Televisionの特集でやるかというと、劇中にTV電話のようなディスプレイ機械が出てくるからで、工夫された未来描写はなかなか楽しかった。
第一次世界大戦は終わっていて、世界は"United States of Europe" vs アメリカを中心とした"Empire of the Atlantic States"のように分かれていて、このふたつが国境でのしょうもない小競合いの果てに一触即発になり、イギリス海峡の海中地下トンネル – Eurostarぽい豪華列車が走っている - が爆破されて次の大戦まであと一歩、のところでイギリスの平和連盟が動きだして… という政治サスペンスなのだが、筋書きやキャラクター造型以上に、TV通話とか、シャワー(シャワーシーンがあるの)の後の全身ドライヤー(拭いたほうがぜったい早い)とか、どうでもいいところに目が向いてしまう。
女性のぴっちりした衣装とか、Fritz Langの”Metropolis”(1927)に影響を受けたことは見ればわかるのだが、それ以上に絶対平和を唱える平和大臣(ヒロインの父)が戦争をしたくてたまらない偉ぶった大臣を撃ち殺しちゃうとか、なかなかリアルでよかったかも。全ヨーロッパ vs アメリカなんていままさに。(とにかくあのバカほんとどうにかして)
1.19.2026
[log] Athens - Corfu - Jan.08 -11 2026
1月8日の木曜日から1月11日の日曜日の晩まで、ギリシャのアテネとコルフ島に行ってきた。
あと残り3ヶ月でどこまで行けるか、を考えたとき、行ったことないとこで行けるところから行っちゃえモードになっていて – でもそういうのを「考えた」とは言わない。
まずはアテネで、ギリシャというのはヨーロッパ文明の源流みたいなとこ(あくまでイメージです)があるし、どうせ見るところなんて死ぬほどあるだろうし、アクロポリスだけでも、程度で。実際には見るところいっぱいで途方に暮れた。
細かく書いていったら終わらなくなることがこないだのイタリアのでわかったので、簡単に。
着いた日の午後はベナキ博物館とかキクラデス博物館とかを見て宿の近くを散策して終わり、アクロポリスとかの本丸(いかにも本丸ってかんじ)は、9日にまわった。アクロポリスとスロープも、少し歩いたところにあるゼウス神殿も、世界遺産だし有名な遺跡なのだが、でっかい怪獣の死骸のようにやたらでっかくて見あげるしかない。なんであんな山の上に建てるのか - 山の上だからか。 絵葉書で見るのともTVで見るのとも当然のように違って、偉い人たちは日々ここでなにをしていたのか、と。猫がいてカササギがいた。コルフでは「カカサギ」になるやつ。
遺跡以上にそれらからの出土品を集めたAcropolis MuseumとNational Archaeological Museumのふたつのてんこ盛りがとんでもなくて、特に部屋を渡っても壁を超えてもずらずらきりがなくやってくる彫刻群が圧巻で、ずっと見ていた。お寺で仏像がいっぱい並んでいるときに来る壮観さとかありがたみ、みたいのはあまりなくて、なんでこんなに - 胸像から女神から獣から家具みたいのから - いろんなのがあるのか、なにをしたい?しろというのか? など。
この後に、先日15:30で閉まっていたByzantine and Christian Museumに入って、年末のイタリア旅行も振り返りつつ、ビザンティンいいなー、って回る。あんなカサブタみたいなのばかりなのに、暗いなかに浮かんでいるだけで、素敵で。ここの庭にはみかんの木があって、人懐こいネコが2匹いるの。
10日は日帰りで、コルフ島に行った。飛行機で片道1時間、この時期は朝に一便、戻りは夜の一便のみ。
元々ギリシャに行くならコルフ島はぜったい、の決意があった。
子供の頃、市の交通標語かなんかのコンクールで当たって(当たって、じゃない)、ご褒美に図書券を貰って - 自分で稼いだ最初のお金(相当)で - 近所の本屋でジェラルド・ダレル(池沢夏樹訳)の『鳥とけものと親類たち』を買ったの。当時は動物生態学者になりたいという夢があって、そのためのお勉強をしようと思ったのだが、この本は動物は出てくるもののそういう類のではなくて、動物たちよりヒトの方がめちゃくちゃ変でおかしくて、これがきっかけでロレンス・ダレルを知り、そこからヘンリー・ミラーを知り、あとはしょうもない変態の道を転げ落ちたのだったが、その土壌となったコルフ島については、ずっと自分のBucket Listに入っていた。
ダレル家は、TVシリーズの” The Durrells”もあったので、英国人には人気で、ゆかりの地を巡るツアーもいくつかあるようだったが、いまはシーズンオフであちこち閉まっていて、小さな島なのでレンタカーして周るのがお勧め、と言われたのだが、それも無理だし、公共バスでの移動もできないことはないが、時刻表通りに動いている可能性は低い.. などなどをAIさんと話して、空港到着から4時間分、タクシーをチャーターして行きたいところに連れていって貰うことにした。AIさんはチャーターしても仲間で割れば安くなりますよ、とか言うのだったが、仲間ってなんだよ。そんなのいねえよ。
空港でタクシーの運転手の人が待っていて、Durrells知ってる? と聞いたら知らん、というので不安になったが、行き先として告げてあった場所はふつうに有名なところらしく、すいすい連れていってくれた。
アテネはよい天気だったが、コルフは雲が厚くて風が吹いてて、晴れて曇って雨が来て、まるでいつものロンドンだった。最初に東の北の海辺の彼らが住んでいた家 - The White Houseを見て(もちろん開いていないので外側だけ)、荒れた岩場の海を見てから西の方に横断して夏だったら素敵に違いなくて、ボートでいっぱいになるという入り江と砂のビーチを眺める。酔っ払った船長のせいで船がひどいことになってラリーが死にかけたとこ。
あとは風のせいか低いところでよれてぶっとく捻れ捻れたオリーブの樹のしぶとそうでかっこよいその輪郭。入り江を見渡せる高台にも登って、荒れた海と風に痺れた。海のごうごう呻くような様が昔行ったアイルランドのようだ、と思ったら運転手の人が「コルフは緑の島なんだよ」って言うのでおおー、って。
4時間なんてあっという間で、お昼頃にコルフの旧市街で降ろして貰ってから魚市場などを覗く。海が荒れていたせいかそんなに並んではいなかったが、シャコやイカタコはさすがにぴかぴか。運転手さんに教えてもらったシーフードの食堂でBourdettoっていう郷土料理をいただいた。サソリ魚などを辛めのトマトソースで煮込んだ - たしかジェラルドの本にもあったやつ。
世界遺産にもなっている旧市街は潮と風に曝された建物の色合いと寂れ具合が極上で、ダレルの世界以上にやられてしまったかも。美術館 - Byzantine Museum of Antivouniotissa - 15世紀からヴェネツィア共和国の支配下にありビザンツ帝国との交易の要でもあった - 19世紀には英国の統治下だった島なので、要塞のがっちりしたかんじとかビザンティンのコレクションは見事で、考古学博物館にも行ったのだが、お店も含めて16時前に閉まるところが殆どで、天気も回復しないし寒いしで、早めに空港に行って寝てた(空港にもなんもないし)。
空港に並んでいたコルフのお土産に金柑があって、ジャムの他に個別包装された甘露煮みたいのがあったので買ってみたら、これがほぼ和菓子のおいしさで、飛行機を待っている間に袋の半分くらい食べてしまった。
でも行ってよかったー。ちゃんとしたシーズンにまた行けたらなー。
11日の最終日は、National Gallery に行って常設展示を見て、Basil & Elise Goulandris Foundationに行って印象派を中心としたモダン・アートを見て - ずっと古代〜中世中心に浸かってきたのでなんか新鮮 - その後にその近くのLyceumに行った。野外の原っぱ - 遺跡の発掘現場なのだが、ここにアリストテレスの哲学の学校があったの。自分が初めて読んだ(気がした)哲学の本は『ニコマコス倫理学』だったので頭の奥で何かが燃えあがって、個人的にはアクロポリスより盛りあがったかも。
この後はNational Gardenをふらふらして、いろんな鳥とかヤギとか鯉とか金魚とか亀とか(ノラ?)猫とかいっぱいいるので和んだ。セントラルパーク、ハイドパークみたいな市民の憩いの場なのだと思うが、ここなら毎週来てだらだらしたい。
食べものはGreekのつくサラダもヨーグルトもとてもおいしかった。滞在していた界隈、華やかな表通りから外れると怪しげなアジア系の飲食店、レコード屋が並んでいて、緩めの坂があって、まるで前世紀末の渋谷のようだった。
ネコはちょっと気をつけていれば町角にいくらでも見つけることができて、でもイスタンブールの奴らよか人懐こくはなかった。古代からずっとああしていたんだろうな、と思わせる威厳と温度感で媚びることなく歩いていてかっこよかった。
こんなものかなー。まだあったようなー。
1.16.2026
[theatre] Indian Ink
1月5日、月曜日の晩、Hempstead Theatreで見ました。
原作は昨年11月に亡くなったTom Stoppard (1937-2025)の同名戯曲(1995)で、その元はラジオ劇の”In the Native State” (1991)だそう。当初は初演から30周年を記念して上演されるはずのものだった。 演出はJonathan Kent。
舞台の右手にはいろんな植物が植わった小屋のようなものが建っていて、左手の方にも植物はあるのだが、少し植栽が違うような、と思ったら理由は後でわかった。
1930年、エドワード朝時代のインドを旅する詩人Flora Crewe (Ruby Ashbourne Serkis)がいて、ひとり旅でも平気な奔放さと物怖じしない強さがあって、小屋 - コテージを借りて、そこで出会った地元の若い画家Nirad Das (Gavi Singh Chera)に肖像画を描いてもらいながらいろんな話をしていく。
舞台の左手は80年代の英国で、とうに亡くなったFloraの妹Eleanor Swan (Felicity Kendal)がアメリカ人の学者Eldon Pike (Donald Sage Mackay)からFloraのインドでの足跡について聞かれて話していく。30年のインド - 舞台の右手でお話しが進行しているときは、左手が少し暗くなり、でも俳優はそのままいて、スイッチが切り替わるように80年代のイギリスに移った場合も同様。 Floraは自分が話したりやったりしていることが80年代のEleanorに影響を及ぼしているなんて思っていないし、Eleanorがそんなことを話しているなんてFloraにとってはまさか、でしかない。 でもそんなふうに思いがけないかたちで時間と場所は明滅しながら繋がっている。
Niradは(当時としては)モダーンなイギリスの女性Floraにインドのラサについて教えて、それは9つあって、色彩、雰囲気、そして音階と結びついていて云々、Floraはふーん、くらいなのだが、Niradと一緒の時間を過ごしていろんなことを楽しく突っ込みあいながら話していくうちに、西洋の描き方で絵を描いているNiradとインドの陽気や空気に触れているFloraはだんだん近寄っていく。 タイトルの“Indian Ink”はエロティックな愛のラサであるShringaraを示していて、でも右手の舞台の上で話を続けていくふたりがこの後どうなったのかは示されない。
こういうことだったんじゃないか、ということが見えてくるのは80年代のEleanorの方で、でもそれも遺されたものを辿って、でしかない。FloraとNiradの間に愛は生まれたりしたのだろうか? でも確かなものはなにも、遺されていたのはNiradが描いた肖像画くらいで…
異なる人種、言葉、文化、歴史、育った環境などなどを跨いで、人はどんなふうに、どこまで近くなって恋に落ちるものなのか、そんなの人によってだし、場所によってだし、互いの思いこみであることだってあるし、でもそれでも、例えばこんなふうに恋がありえたことを描くのはできるのではないかと、二重三重のロマンチックとしか言いようのない妄想のようなものが、インドとイギリスの30年代と80年代をピンポンしながら広がっていく。植民地時代の縛りや不幸を超えて何かが見えてきそうなこれとか、80年代のMerchant Ivory (films)のようなケースを思ったり。
チェコに生まれてナチスから逃れて幼少期をインドで過ごしたTom Stoppardが90年代初、この作品の元となったラジオドラマの”In the Native State”のFlora役に当時のパートナーだったFelicity Kendalを起用し、彼女はそのまま”Indian Ink”の初演時にもFloraを演じ、今回はElenorの役で舞台に帰ってきた。彼女自身も7歳でインドに移住し、“Shakespeare Wallah” (1965) – Tom Stoppardはこの映画が好きでFelicity Kendalのためにこれ-“Indian Ink”を書いた、とプログラムにはあった。それはそうとこの映画おもしろいんだよ – に出演していて、インドに関わってきた彼女のドラマとして見てもよいと思う。
同じくTom Stoppardの生前のインタビューが載っているプログラムで、FloraのモデルはEdith Sitwellか? と聞かれて明確にNo. と返している。特にモデルはいないんだって。
[film] Hamnet (2025)
1月7日、水曜日の晩、Curzon Bloomsburyで見ました。
イギリスでの本公開日は1月9日、旅に出る予定だったので、あーあになっていたが出発の前夜にPreviewをやってくれた。
LFFでいくらがんばってもチケット取れなかった1本、でもある。
監督はChloé Zhao、原作はMaggie O’Farrellの2020年の同名小説、脚本はChloé ZhaoとMaggie O’Farrellの共同。音楽はMax Richter、撮影は”Ida” (2013)などを撮ったポーランドのLukasz Zal。ProducerにはSteven SpielbergやSam Mendesらの名前がある。
最初に”Hamnet” - ”Hamlet”という名前には互換性がある、という字幕がでる。William Shakespeareの息子Hamnetは1596年に11歳で亡くなり、Shakespeareの悲劇”Hamlet”は1599年から1601年にかけて書かれた。彼の息子の死と彼の代表作となる悲劇の間には関連があったのではないか、という想定に基づいて書かれたドラマで、あくまで想定なので学術的にどう、とかリンクや謎を明らかにしていくような話ではない。両者の間に関係はあったのかなかったのか、は横に置いて、悲劇”Hamlet”上演の背後には、William Shakespeare (Paul Mescal)と妻Agnes (Jessie Buckley)の間にはどんなドラマがあったのか、を描いてみる。ここでももちろん、ふたりの人物像、その造型は、ふたりの女性による創作である。
最初はStratford-upon-Avonの森の奥で鷹を操ってジブリのアニメの主人公のようにノラに自由奔放に生きているAgnesの姿が描かれて、その姿を見たWilliamは魅了されて近づいていく。彼は粗暴な父親(David Wilmot)の虐待とやはり強い母Mary (Emily Watson)に囲まれて家業の手袋作りをやらされていて、Agnesの鷹匠用の手袋を新しいのにしてあげるところから扉を叩いて、野生の彼女と一緒になる。
やがてAgnesは森の中で長女Susannaを出産し、続いて屋内で、難産の末に双子JudithとHamnetを出産し、演劇の仕事が当たり始めたWilliamはロンドンでの仕事が多くなるがStratford-upon-Avonに大きな家(New Place)を持つこともできて、幸せが見え始めたころ、Agnesの鷹が亡くなり、双子にペストの病が…
Judithが危篤と聞いてロンドンから馬で駆けつけたWilliamはJudithの姿を見て安堵するが、Hamnetが... 悲嘆の後、あっさり慌しくロンドンに戻ってしまったWilliamにAgnesは激怒するが、ロンドンで上演される彼の新しい芝居のチラシ – “Hamlet”を見た彼女は、弟Bartholomew (Joe Alwyn)を連れてロンドンに行ってみる。
最初の方は森のおとぎ話のように、Chloé Zhaoの過去作のように社会の柵から離れて自由に生きようとする人々を描いて謎めいていて、結婚して家族ができたところで、その幸せがあっけなく崩れ落ちて、どうして? なぜ彼が? というとてつもないエモの渦に飲みこまれる。向こう側に行ってしまうのがなぜ自分ではなく、彼なのか?亡くなるべきなのは彼ではないはず、という強い思いが劇作のHamlet”をあんなふうにした – という解釈の是非すらなぎ倒して、父は真剣に息子を蘇らせようとする。
最後のグローブ座のシーンは、ものすごく臭くなってしまう可能性もあったがぎりぎりでそうなっていない気がした。舞台の上で甦る、鏡の向こう側に転生する生を見あげるAgnesの姿は宗教画のようで、”Eternal”のようでもあった。ここでのJessie BuckleyとPaul Mescalは視線も会話も交わさないけど、彼らの演技はやっぱりすごい。物語というより俳優の映画だと思った。
Stratford-upon-Avonもグローブ座も、Shakespeareの劇も、ここ1年ずっと追いかけるように触れてきたもので、でもそういうのとは切り離して見ないと、と思っても、やっぱりこれはShakespeareのお話しなのだと思ってしまうと、この映画での彼とあれだけのいろんななんでもありの劇たちを書き散らかしていった彼とがあまりうまく繋がらなくて、もう少し勉強しようか、って思った。
後日談というかこれに続く劇、Williamと舞台でHamletを演じた彼(Noah Jupe)が恋仲になってしまってAgnesを含めて周辺パニック、というコメディはどうだろうか?