11.23.2025

[theatre] Porn Play

11月15日、土曜日の晩、Royal Court TheatreのUpstairsで見ました。

シアターのあるSloane Square周辺は始まったばかりのクリスマスマーケットできらきらのぐしゃぐしゃだった。

座席指定ではなく全席自由なのだが、A4サイズバッグより大きい荷物は預けるように、というのと、入る前に入り口に置いてあるソフトカバーで靴を包むように、という指示があって、中に入ると客席が四方を囲む形で全体が乳白色のふかふかので覆われたソファのようになっていて中央は大きな楕円の2段くらいのすり鉢型 - たぶん女性器を模している - に凹んでいる。

タイトルだけでもはっきりと18禁なのだが、ポルノがダイレクトにプレイされるわけではもちろんなくて、いろいろ考えさせてくれるとてもよい内容のものだった。

プレイテキストの最初にはMiltonの引用と、もうひとつ、”All paradises are defined by who is not there, by the people who are not allowed in.”というToni Morrisonの言葉が引いてある。

原作はSophia Chetin-Leuner、演出はJosie Rourke、休憩なしの約75分。冒頭、女性 - イヴ? - が現れて無言のマイムをして誘惑の世界に誘ってくる。

大学の修士を出て講師としてJohn Milton (1608-1674)を教えているAni (Ambika Mod)は学業は優秀で学界で有望な若手と言われいて、彼Liam (Will Close) もいるし、彼との仲がうまくいっていないわけでもないのだが、インターネットポルノに嵌っていて、彼と会った(やった)後の寝る前とかにPCとかスマホを出して(セットのクッションの隙間に挟みこんであってすぐに取り出せるようになっている)サイトにアクセスして、マスタベーションをするのがふつうの癖のようになっていて止められない。Liamもそれを知っているのでやめてくれない? と頼むのだが、Aniはなんで? 浮気しているわけじゃないし、あなたに満足していない、ってことでもないし、酒とかドラッグみたいに習慣化によって体によくないことになるわけでもないし、嫌なのはわかるけど誰にも迷惑かけてもいないし、個人的な愉しみなんだからほっといてほしい、ってつっぱねている。

その習慣はやがて真面目な父にも見つかって器具を取りあげられてしまったり、Liamからも距離を置かれるようになったり、どこかおかしいのかも、って産婦人科に行ってみたりするが、どうにもならない。やめられない。これって悲劇なのか喜劇なのか?

なんでそれをしてはいけないのか、の方よりも、どうしてそれが彼らからよろしくないこととみなされてしまうのか、の方にどちらかと言うと力点が置かれ、それは彼女の研究テーマである『失楽園』の方にも及んでいく。他方で、彼女が見ているサイトの映像は抽象化され(見えた範囲ではりんごみたいのが映っていたり)てて、喘ぎ声とか、音声のみが聞こえてくる。あと、ここで商業コンテンツとして提供されているポルノ業界がその根に孕んでいそうな暴力や虐待についても触れられてはいない。

性の快楽に根差したことは決定的な答え、ありようとして説明しにくい気がするし、逆に汎化しすぎるとわけがわからなくなるだろうし、そのバランスをうまくとって、全体としてはどうしたもんかねえ… みたいな途方に暮れる系の軽めのコメディに仕上がっているような。

あと、こないだの”Every Brilliant Thing”にも出演していたAni役のAmbika Modのさばさばした態度と軽妙な受け応えのトーンが絶妙で、彼女なしには成り立たなかった気がする。

これを見た後で、既に書いた映画 - ”The Choral”を見たのだが、世界があまりに違いすぎて変なかんじになった。

11.22.2025

[film] The Choral (2025)

11月15日、土曜日の晩、Curzon Victoriaで見ました。
監督はNicholas Hytner、脚本はAlan Bennett - このふたりによる新作は”The Lady in the Van” (2015)以来だそう。

1916年、第一次大戦中のヨークシャーの架空の町で、郵便配達の青年が戦死の通知を家族に届けたりして暗くなっているところで、コミュニティのコーラス団が団員を募集しているので行ってみよう、って見に行ったらなんとなくテストを受けさせられて気がつけば団員になっている。そんななか、指揮者が戦争に行ってしまったので新たにリーダー/指揮者として採用されたDr Guthrie (Ralph Fiennes)と寄せ集められた個性的な団員たちとのやり取りとどうなることやら、等を描いていく。

Dr Guthrieは敵国であるドイツに長く暮らし芸術を愛する、という点から始めはバッハの『マタイ受難曲』を採りあげていたのだが反ドイツの声も強くあったのでエルガーの『ジェロンティウスの夢』を歌うことにする。あと掘り下げられることはないが彼はゲイで、つまりあらゆる点で(この時代には)不適格な属性の人なのだが、音楽に対する思いと情熱、指導力は確かなのでみんな彼の言うことを聞いて練習に励んでいく。

団員の方も個性豊かで、元からいたメンバーに加えてDr Guthrieが軍の病院やパン屋からスカウトした面々がいて、団員同士の男女の恋があり、よいかんじになったところで戦地から片腕を失った彼が帰還してきたり、本当にいろいろあって、エピソードが散りすぎていることはしょうがないのか、とりあえずエルガーを歌うクライマックスに向けて… となったところで本番の日に現れたエルガー(Simon Russell Beale)本人は結構嫌な奴だったり。

やがて楽団メンバーにも招集がかかるようになり、戦地に赴く前の晩、ひとりは憧れていた娼婦のところに行って、ひとりは憧れていた彼女のところに行くが無事に戻ってきたらね、ってやんわり拒まれたり。ラストの出征のシーンも、あまり盛りあがるような、感動的な描き方はしていなくて、そこはよいかも。

全体としてものすごくいろんな人、エピソードが散らばっていて朝ドラみたい - 朝ドラほぼ見たことないけど - なのだが、Ralph Fiennesひとりがずっとしかめ面のすごい重力で全体を繋ぎとめるべく指揮棒を振っているのだった。そこはまるでこないだの『教皇選挙』のようだったかも。


Move Ya Body: The Birth of House (2025)

11月6日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
毎年やっている音楽ドキュメンタリーフィルムの祭典 - Doc’n Roll Festivalからの1本で、このフェスはいろんな映画館に散らばってランダムに上映があるので、気付いたら見逃していた、のものも多くて、今年のではButthole SurfersのとCoilのが痛かったよう。

上映前に監督Elegance Brattonの録画されていたイントロが流れて、自身のハウスミュージック体験の初めは90年代初のNYのLimelightっていう元教会の建物だったところだ、って語っていて、おー、あたしはあそこでGang of FourとかGeneを見たよ、ってなった。

70年代後半、ディスコ・ブームが馬鹿な白人たちによって潰されて行き場を失ったシカゴのアンダーグラウンド・シーンで、数キロ先でも聴こえるような強い輪郭と断線されたって途切れることのないぶっとさをもったリズムを生みだすこと。それは当時のシカゴのまるでアパルトヘイトの人種隔離された居住区画と常態化した人種差別からの解放を担う革命の音楽でもあった、と。

当時その突端にいて、とにかくシンセで音を作りたかったVince Lawrenceとその周辺の仲間たちに話しを聞きながら、当時の革命の様子をダイナミックに描いて、それもやがては白人に搾取されてしまうことになるのだが、とてもおもしろかった。ここからどうやってNYやUKに飛び火していったのか、とか。主人公も編集も、そんなにドラマチックに盛りあげる方にいかないところもよくて、この淡々とした静けさが今も続いている大きなジャンルのベースを作ったのだねえ、って。

11.20.2025

[theatre] The Weir

11月13日、木曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。

事情はよくわかんないけど、チケット代高すぎ。Stallの後ろの方で£200くらい、それでもびっちり埋まっている(ずっと)。

7月にOld Vicで見た”Girl From the North Country”のConor McPhersonが1997年に書いて初演した劇の再演で、アイルランド公演からのツアー。今回も彼自身が演出を手掛けている。休憩なしの1時間40分。

アイルランドの田舎のバーで、時代設定は明示されていないのだが、登場人物が酔っぱらってFairground Attractionの”Perfect”を口ずさんだりするので、80年代末か90年代初ではないか。

オープニング、幕があがると古くて暗いバーで、向かって右側にカウンターがあり、左奥にドアがあって、椅子がいくつか。そこにJack (Brendan Gleeson)が立っていて、ひとりでカウンターの中に入ってコップを出して、何を飲みたいのか蛇口をがちゃがちゃやってうまくいかず、そうやっているところにバーテンダーのBrendan (Owen McDonnell)が入ってきて灯りをつけて、ふたりのやりとりからJackは常連中の常連で、BrendanはJackのすることも求めているものもぜんぶわかっているのでなにも気にしないで放っておいている。

そこから別の常連らしいJim (Sean McGinley)が現れて、彼も自宅の居間にいるかのように自然にそこに溶けこんで、更に男女ふたり – ちょっとお喋りで騒がしいFinbar (Tom Vaughan-Lawlor)と地元民ではなさそうな女性のValerie (Kate Phillips)が現れる。別にバーなんだから誰が来たっておかしくないのだが、ふたりの登場によって少しだけいつもと違う雰囲気になったよう – に見えて、でも誰もそんなこと気に留めず、騒ぎもしないでいつもの会話のトーン、リズム、間合いを維持していく、それを可能にしている仄暗いバーのセット、外で微かに鳴っている風音、なによりも俳優たち、が見事。”Girl From the North Country”の大きな家もそんなかんじで維持しているなにかがあったような。

他所からきたValerieがいたせいもあるのか、それぞれにこの土地に古くから伝わる変な話や怪談をしていって、みんな知っている話のようで、ほぼどれも酔っ払いの独り言戯れ言で、合間合間にFinbarがバカなことを突っこんで、やがてValerieの番になると、彼女の話は幼い娘を失った実話に基づく悲しいそれで、みんながちょっと静まりかえってしまったところで、Jackがある話を始める…

それは喪失のこわさ、哀しさを語るというよりも、その不在がずっと自分の身に纏わりついて、自分自身になって、ずっとそこから逃れられないのだ、という根源的な底についてのもので、それがあの薄暗い穴のような場所で、Brendan Gleesonの口から語られると、この人はもうこの世にいない何者かなのではないか、このバーは向こうの世界との間の堰(Weir)としてあるのか、など。あるいは、こういう人の語りが堰のように別の世界の何かをこの世と繋ぎ留めたりしているのか、とか。

勿論、話はその奥に向かっていくことはなく、みんなはぽつりぽつりと帰り支度をして抜けて行って、最後に冒頭と同じようにJackとBrendanがのこる。それだけなのだが、なんとまあ、しかない。こうやって、こんなふうにアイルランドのいろんなお話し(と歌)はずっと語り継がれてきたのだろうな、と思うし、だからみんなあんなに酔っぱらっちゃうんだな、っていうのも感覚としてわかってしまうような。

1時間40分という時間はたぶん丁度よくて、これ以上続いたら戻って来れなくなる可能性があったかも。
でももう一回見て浸かりたくなる、濃厚な時間だった。Brendan Gleesonの立ち姿がとにかくすごすぎ。

あと、こんなふうに特定の場所の周りに渦のように巻かれて浸かって流れる時間て、映画を見ている時のそれとは明らかに違うと思って、それがなんなのかを掘りたくて演劇に通っているのだわ、って。


Playing Burton

11月16日、日曜日の昼にOld Vicで見ました。
Welsh National Theatreの制作で、ロンドンではこの日の昼と夜の2公演のみ。

作はMark Jenkins、演出はBartlett Sher、Matthew Rhysのひとり芝居で、彼がWales出身の名優Richard Burtonを演じる。 1時間40分くらいだけど1回休憩が入る。

ステージ上には簡素なテーブルと椅子があるだけ。スーツにタイ姿で登場するなりコップに酒をぐいぐい注いでがぶがぶ飲んで、壊れた機械のような勢いでウェールズのPontryhdyfenの炭鉱夫の極貧家庭で生まれた幼少の頃からのことを語っていく。

後半は、まず新聞に載った自分の訃報を読みあげ、ちゃんちゃらおかしいわ、みたいに自身の名声やElizabeth Taylorとのこと、KennedyやChurchillと会った時のこと、要は俳優として頂点にあった自分のキャリアを高いところから喋り倒していく。

Richard Burtonは、12月のBFI Southbankの特集でかかるので、そこで作品を見ながら考えていきたいのだが、あんな高い声でべらべら喋っていく人だったのかしら、というのが少しだけ気になった。
 

11.19.2025

[film] The Running Man (2025)

11月14日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。

監督はEdgar Wright、原作はStephen King(Richard Bachman名義)の近未来SF小説(1982)。1987年にもPaul Michael Glaser監督、Arnold Schwarzenegger主演で映画化がされている(未見)。

Ben Richards (Glen Powell)は病気の子供を抱えた状態で無職になって、妻Sheila (Jayme Lawson) にホステスのようなことをやって貰って暮らすしかなくて、絶望してネットワークTVの人気リアリティ番組 – “The Running Man”に応募してしまう。プロの殺し屋(本当に殺すよ)たちから30日間逃げ続けることができたら10億ドル貰える、というので、サインしたらいろいろ話がちがう、があったりしたものの逃げることができないまま番組が始まって、最初は3人いた候補のうち2人は簡単に消されて、ものすごく悪い奴 - ほぼ凶悪犯 - としてターゲットにされて追われる身となる。

番組のプロデューサーのDan Killian (Josh Brolin)も大人気TVホストのBobby T Thompson (Colman Domingo)もまるで漫画のキャラクターで、ディストピアでのリアリティ・ショウの怖さ、とかよりヤクザに借金をして妻子を人質に取られて逃げ回る構図とそんなに変わらない気もするのだが、ポイントはどこにも逃げようがない状態のなか逃げまわって、本人は必死なのにそれがお茶の間のエンターテインメントになってしまう、という徒労感と辛さだろうか。

変装してNYに行って、そこからボストンに逃げて、追ってきたハンターたちをビルごとぶっ飛ばしたら、彼は多くの警備隊を皆殺しにした極悪テロリストの扱いにされて、いやそうじゃないんだ、というTV局側の手口の非道について収録ビデオで伝えても、TV側が放映時にフェイクの映像に差し替えてしまう。そんなふうにフェイクに置き換えられるんだったら局側はなんだってできちゃうし、賞金渡さずに闇に葬っちゃうとこだってできるだろうし、「リアリティ」もくそもないじゃん、と思うのだが、それこそが監視社会のやること - ストーリー作りなんだろうな、となる。ぜんぶがこの調子の仕込まれたどん詰まり感のなか動いていくのでしんどい – なにがしんどいかって、まさに今の監視社会とメディアがやろうとしている囲い込みのお祭りを直に思い起こさせてくれるから。

というジャンクで重い空気を吹っ切るかのように走り抜けていくGlen Powellのアクション(といかにもEdgar Wrightぽいつんのめって転がっていく勢い)はちょっとじたばたして重いけど、痛快なところもそんなにないけど、悪くはないし、彼を助けたり匿ったりする反体制のグループも出てきたりするのだが、全体としては今あんまり見たくないものを横並びで見せられているかんじがどうしても。もちろん、これはホラーなのだから、って言われたら黙るしかない。

80年代にこれを見ても、近未来は大変そうだなあ、で終わっちゃうのかもだが、いまこれを見ても思い当るところがありすぎて、それがきつい。いまのアメリカや日本の政府(とメディア&マス)が向かっている方向とわかりやす過ぎるくらいに同期している。 だからすごい! と言うひともいるのだろうが、わかっているけどさ… のしんどさが先にくるというか。

昨晩、”One Battle After Another” (2025)の2回目をBFI IMAXで見て、監督のPaul Thomas AndersonとLeonardo DiCaprioのイントロが付いていて、これも体制側に追われて追い詰められていくお話しなんだけど、いま欲しいのはこの、こっちの軽さなんだよねー、と。

[film] Melo-dramarama

11月15日、土曜日の昼から午後にかけて、BFI Southbankでのイベントで見たり聞いたりした。

この月の特集”Too Much: Melodrama on Film”の方も見てきているのだが、この日は目一杯メロに浸かって頂きましょう、という催し。 NFT3という中サイズのシアターでランチやティーブレイクを挟んで夕方まで、トークを中心としたいろんな発表があって、久々にメモを取ったりしながら見てしまった(が、いつものように何が書いてあるのか、きったなすぎてほぼ読めない。いいかげんにしろ)。

時間割りはこんなかんじ –

① 11:00-12:00: The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation

② 12:00-12:50: To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood

③ 13:30-14:15: Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama

④ 14:15-14:50: Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History

⑤ 14:50-15:30: In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama

⑥ 15:40-16:20: Small Screen, Big Emotions: 40 Years of EastEnders and Beyond

⑦ 16:20-17:00: The Future of Melodrama: Tears in the 21st Century

用事もあったので、①から⑤までしかいられなかったのだが、どれもおもしろいったらなかった。


The Many Faces of Melodrama: Christine Gledhill and Laura Mulvey in Conversation

まず全体の導入のような位置づけで、イギリスにおけるメロドラマへの着目がどこからどう、のような話。
Douglas Sirkの”Sirk on Sirk”が出版されたのが1972年、これをフォローするかたちでエジンバラの映画祭でSirk作品のレトロスペクティブが組まれ、それがロンドンにも来て、まだFilm Studyが学として立ちあがる前くらいのタイミングだったがこの辺りからいろいろ始まったのだ、とLaura Mulvey先生が。

バルザックやヘンリージェイムズの小説の頃からドラマのなかにあったギルティ、イノセント、ヴィランといった角度からの揺さぶりと、19世紀フランスのシアターでのステレオタイプなステージングがドラマチックな音楽と共に映画の方に流れていって、そこではHighly Stylizedなかたちでゴミ(trashes)- マスキュリニティの危機、Fem、自分が何をやっているのか考えようとしない - 等が、過剰に強調されて”motion”が”emotion”へと変容していった、と。他ジャンルからはグランドオペラやバレエのコレオグラフからの影響もあった、と。

こんなふうな汎用化によってぼんやりしてしまう危険もあるのだが、クリップとしては”Written on the Wind” (1956)、“The Bourne Supremacy” (2004), “A Cottage on Dartmoor” (1929)等が参照された。このイベントでは、”Written on the Wind”と”Leave Her to Heaven” (1946)からの引用が圧倒的で説得力あったような。

To Have (or Have Not): Class Representation in Britain and Hollywood

まずはHollywoodのクラス表現として、”Working Class Melodrama” – “Middle Class Melodrama” –“Victorian Melodrama” – “Street Melodrama”などの切り口からいくつかの例を示して、そこからドラマとしてクローズアップされがちな階層間の移動(mobility)については、Mobility with Nobility の例として、”Stella Dallas” (1925, 1937)が、Mobility without Nobilityの例として"Mildred Pierce" (1945)が参照される。ここらで使われる階段(階段おち)についても。

Britainのクラス表現は、当然これとはぜんぜん違ってディケンズから入って、邪悪さを象徴する悪い男 – 特に“Man in Grey” (1943)でのJames MasonのプレゼンスとMargaret Lockwoodの話し方(Posh)の違いとか、クラスを抜けて成りあがりを求めていくGainsborough Picturesのヒロインたち。あとはこの特集で80周年を迎える”Brief Encounter” (1945) - 『逢びき』のこと。成り立ちも傾向も異なる相容れないふたつの、ふたりの世界を描きつつ、Unifyさせようとする何かを描いてきた、とか。

Mommy Dearest: The Evolution of the Maternal Melodrama

Fatherhoodの不在によって起動されるMotherhoodのありよう – ふつうの家族とは異なる、より複雑な事情が強調したり導いたりする弱さとそれを乗り越えよう(or 抑えよう)とする力とか愛、ここに挟まってくる教会、犠牲を払う、という考え方とか、こうして書いているだけでもいろいろ迫ってくるので、相当に熱い。

この特集ですばらしい音楽と共に再見した”Stella Dallas” (1925)の時にも思ったのだが、時代も境遇もまったく異なって共感なんてできようがないはずのこんなドラマに揺さぶられてみんな揃ってびーびー泣いて(泣かされて)しまう、その動力の根源にあるものってなんなのか、なのよ。

ここで挙げられていたイタリアのメロドラマ –“Maddalena” (1954)は見たい。
現代のドラマとして参照されていたのは”We Need to Talk About Kevin” (2011)、Joan Crawfordが体現していたある時代のアメリカの母親像、あとPre-Code時代のシングルマザー像と、Post-Code時代のそれの違い、変化など。

Bylines and Backlots: Fan Magazines and How They Saved Film History

ファン・マガジンの存在は、映画の初期から観客と映画会社を結ぶ大きな架け橋となっていて、それがメロドラマの変遷 - 観客は何を求めているのか - にも大きく寄与していったことを資料と共に見せていく。 最初期にはFlorence LawrenceやMary Pickfordといった女性の存在が大きかったと。

いまは「マーケティング」とか「ファンダム」とか素人の手でどうこうできるようなものではなくなっている気がするが、初めの頃はこんなふうにやっていました、と。

In Glorious Technicolor: Costume Design in Hollywood Melodrama

映画の初期から、映画のなかの人々がリアルに生きているものであることを知らしめるべく、コスチューム・ディレクターはプロデューサーや監督とずっと一緒に動いて、色がないモノクロフィルムの頃ですら赤いドレスを赤く感じられるようにするための生地の工夫をしたりしていたのだそう。

カラーの時代に入ってからの具体例としては”Leave Her to Heaven” (1946)でのコスチュームを担当したKay NelsonがGene Tierneyの衣装を場面ごとに、ガウンのイニシャルとか壁紙との調和とかも含めてどう見せようとしていたか、とか。

“All That Heaven Allows” (1955)のヒロインJane Wymanの衣装の色調の変化を彼女のエモーショナル・ジャーニーとして捉えて、最初と最後の場面で同じ衣装を着ていることの意味とか。 “Written on the Wind”でのLauren Bacallの着ていたグレイの意味とか。あたりまえなのだが、ぜんぶに意味があって、それはプロデューサーも含めて作る側はすべて把握して、きちんとコントロールしていた、と。

最近の映画だと”Far From Heaven” (2002)のSandy Powellがやったキャラクタリゼーションと個々の色調を同期させるやり方とか。

斯様にコスチュームの世界は映画のテーマの中心を貫いて緻密な職人芸でデザインされてきたのに、なんでクレジット上では”Gowns by ..”くらいしかないのか。資料がなくて調べるのが大変すぎるんだよ! と発表者は嘆いて終わっていた。 けど、ものすごくおもしろかった。


これらのテーマをクラシックな日本映画にはめて考えてみても、相当におもしろいものができる気がした。
材料も人もありそうだから、誰かやらないかしら。

全体を通して、なぜメロドラマを見るべきなのか、がなんとなくわかった気がした。いま自分がここにこうしてあらされているありよう、ガサツさ無神経さに対する抵抗、ふざけんじゃねえよの裏返しとしてそれは組織されて、風に書かれた暗号として散っていったのだ。なんて。

あと、久々にこういうのに漬かって、ああどうしてこういう道に進まなかったのだろうか、なにがいけなかったのだろうか、ってメロドラマっぽく天を仰いで自分で自分を殴打するのだった。(そういう季節)

11.17.2025

[film] Laura Mulvey

BFI Southbankの11月の特集に”Laura Mulvey: Thinking Through Film”というのがあって、恥ずかしながらこの人のことは知らなかったので、勉強してみようと思って見ている。

彼女の論文 - “Visual Pleasure and Narrative Cinema” - 『視覚的快楽と物語映画』(1975) - 翻訳はフィルムアート社の『新映画理論集成① 歴史/人種/ジェンダー』(1998)所収 - の出版50周年 + これ以降の膨大な著作等、を讃えて彼女にBFI Fellowshipの称号が与えられ、今回の特集では彼女が共同制作した8作品を上映したり、シンポジウムが開かれたり、上映前のトークにも頻繁に顔を出して、12月には彼女がセレクトしたクラシックの特集も組まれている。

Laura Mulvey in Conversation

11月4日、火曜日の晩、BFI Fellowshipの受賞記念を兼ねた彼女の業績紹介と本人によるスピーチがあった。

BFI Fellowshipというのはフィルム・TVの世界で多大な貢献を認められた個人に贈られる最高の位で俳優とか監督とか、彼女の直前にこれを受賞したのはTom Cruiseだったりするので、素朴な「?」が浮かんだりするものの、過去の受賞者のリスト(Wikiにある)を見てもなかなかすごい賞であることはわかる。

スピーチの前に彼女を讃える関係者のビデオが流れたのだが、最初がTodd Haynesだし、Joanna Hoggは客席にいたようだし、以降、日々自分がBFIに通って映画を見ていく時にお世話になっている(とこちらが勝手に思っている)プログラマーやキュレーターの人たちがほぼ全員登場して、彼女の論文や映画の見方にいかに影響を受けたかを感謝をこめて語っていくので、つまり自分が映画を見る際の軸にもたぶん相当影響しているのだろうな、と壇上の小さく丸っこいおばあさんを見て思った。

こんにちの我々がクラシックを含むいろんな映画を見るにあたって、その制作物を構成する視覚的な物語が提供する快楽やカタルシスが主にいかに白人男性(The male gaze)のそれに資するものとなるべくいろんなシステム込みで組みあげられてきたのか、これって今や映画だけではなくてTVでも広告でも、基盤とか常識に近いところで根をはっていることだと思っているのだが、これを50年前に提起したのが先に挙げた彼女の論文であった、と。

映画なんて理屈ぬきでおもしろけりゃいいじゃん、とか、これで泣けないなんて人間じゃない、とかいう宣伝も込みの「理屈」がいかに傲慢な思いあがりに基づく乱暴なものか、はずっと感じていて、それを確かめるため、くらいの意識で見ていくとすんなりはまったり思い当ったりするところがいっぱいあって、この理屈って文化全般に渡って蔓延してきたなにかで、自分がメジャーではないマイナーな何かを追っていくその根にあるものにも繋がるのだが、そういうところを踏みしめながら見ていきたい。

Riddles of the Sphinx (1977)

11月4日の晩、↑のセレモニーが終わったあとに同じ会場(NFT1)で見ました。16ミリフィルムでの上映。
Laura MulveyとPeter Wollenによる2本目の共同監督作品で、実験映画の範疇にカテゴライズされるのだろうが、あまりそういう堅苦しさ、込み入った構築された難解さは感じされなくて、映っているものをするする見れる(その分、あまり残らなかったり..)。

いくつかのパートに別れていて、Laura Mulvey自身がカメラに向かってオイディプスとスフィンクスの神話を語るシーン、主人公の女性が暮らす家庭生活のいろんな局面を映しだしたり。 後者は定点に置かれたカメラがゆっくり回転していったり戻ったり、その動きはChantal Akermanの”La chambre” (1972) のぐるーん、を思い起こさせる。

ずっとぴろぴろ鳴り続けて頭に張りつく電子音楽はSoft MachineのMike Ratledgeによるものだった。

Crystal Gazing (1982)

11月10日、月曜日の晩、”Predator: Badlands” (2025)を見る前に。これも16mmでの上映。
最初と最後に水晶が映し出される。丸くてまっすぐに光と像を通してくれない水晶。

サッチャー政権下(この特集が始まって、彼女のトークを聞いていくと、サッチャー政権下のUKがどれほどひどいダメージを受けて変わったかが何度も語られていて、やはりそうだったのか、になった)のロンドン市民の生活を3人の主人公を中心に描いていくのだが、うちひとりのKimを演じるのがX-Ray Spex~Essential LogicのLora Logicで、映画のタイトルもバンド解散後の彼女のソロ” Pedigree Charm”のなかの曲名から採られている。(レコードは実家にあるので確認しようがないわ)

彼女がライブをしている映像もでてきて、ここでドラムスを叩いているのはCharles Haywardだったり、彼女がレコード屋に入るシーンがあって、そこはやっぱりオリジナルのRough Trade(1982年の!)だったり、いろいろ興味深い(いやそっちじゃないだろ)。

この翌日にかかった短編”AMY!” (1979)でも、主人公の女性がこちらに向かって下地からメイクをしていくシーンで、X-Ray Spexの”Identity” (1978)が轟音でフルで流れていったり、彼女の問題意識に当時のパンク/ポストパンクシーンの女性バンドなどがどんなふうに関わって影響を受けたり受けなかったりしたのかについて – どこかに纏まっているかもだけど - 聞いてみたいと思った。

まだ続いている特集で、これからも見ていくので、振り返りながら書けるものがあったらまた。

[film] Predator: Badlands (2025)

11月10日、月曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
チケットを取った回が3D上映だったので、3Dになった。
Terrence MalickともBruce Springsteenとも関係ないのだった。

監督はDan Trachtenberg。Predatorのシリーズで言うと、Arnold Schwarzeneggerが出ていた頃のは見ていなくて、最近の数本はなんとなく見ているが、積極的に見たくて見るというより、なんなのこいつら? の得体の知れない薄気味悪さに触れて楽しむ、というか。今回のは予告を見たら怪獣映画のようだったのでそれでもいいか、って。

これまで雑に見てきたPredatorの特徴は、とにかく喧嘩と殺し合いが好きで、相手が強かろうが弱かろうがまずやっつけることが第一で、宇宙船とか武闘方面の技術はあって言葉があって会話もできて、種のなかでの序列とか掟とか家族はあって名前もあるって。今回の主人公はDek (Dimitrius Schuster-Koloamatangi)っていうある家族の落ちこぼれで、冒頭の兄との喧嘩に負けて、その流れで兄は強権的な父によって殺されて、父に対して実力を示すためにある星の化け物退治に向かうことになる。

ここまでで、これなら人間のドラマと変わんないじゃん、ていうのと、いま大量に予告が出ててうんざりの”Avatar”のことを思ったりした。あの物語設定にもんのすごい大金をつぎこんで「映画」としてでかでかとリリースすることの意味がずっとわかんなくて、いや映画というのはそもそもなんでもありの雑多なジャンルだから、という括りも可能なのだろうが、そういう設定がルールのような基底前提として存立しうるゲームやアニメの世界ならまだしも、映画として、これまでの映画の世界がもたらしてきたのと同等の「感動」や「共感」を強いてくるのだとしたら、日々の人間関係ですらきちんとできずに苦しみ続けてその解に近いなにかを過去の映画に求めたりしている側としては勘弁しておくれ、になる。なんで別の星に暮らす生物(と呼んでよいかどうかも不明な)連中の挙動や行動の意味や理由を地球人の基準水準から推して把握したり理解したりしなきゃいけないのか。その正しさは誰が決めて汎用化した/されたものなのか。それらは測定不能な未知の脅威・恐怖としてあったからこそ、エイリアンの映画は成立したのではなかったか。

とにかく、その化け物がいる星に飛んで退治して父を見返してやりたいDekはそこに着いてもやっぱりうまくいかずに苦闘していると、上半身だけで転がっていたレプリカント?のThia (Elle Fanning)に愛想よく英語で声をかけられて、教えて貰ったりしながら一緒に戦っていくのとThiaにはコピーだけど気質は真逆で冷酷非道なTessa (Elle Fanning)がいて、彼女と彼女に操作された男の戦闘ロボットみたいのがわんさかやってくる。あと、外見は緑のオランウータンで顔がパグの変な生き物がついてきたり。言葉や意思は互いにふつうに通じていて、襲ってくるかそうじゃないかで敵味方はきれいに分かれて、もろに仲間の獲得と学習〜鍛錬が基本のゲームの世界になってしまう… のってわかりやすいけどつまんないよね。(Wolf .. Pack.. ) とか。ゴジラが仲間と一緒に闘いだした時と同じで。

DekがThia(半分)を背負っているのを見て、子連れ狼にすればいいのに、ってちょっと思ったのだが、あれはもうMandalorianでやっちゃっているのか…

人間が一切でてこないのはよいこと、と思ったが最後に現れるあれが… このシリーズはぜんぶ次があるように見せかけて、中途半端に終わっていくのが恒例なのでこれもそうでありますように。