16日の土曜日の午前から午後にかけて、ついに、ようやく見ることができた。
今年の映画の大きな目標のひとつは達成。もういっこは「アウト・ワン」だったが、これは来年になるもよう。
『チリの闘い 武器なき民衆の闘争』 モノクロ。計263分。
75年から79年にかけて製作された3部構成のドキュメンタリーで、クーデターの前から現地で撮影され、クーデター後に逮捕・監禁された後に国外に亡命した監督パトリシオ・グスマンと共にフィルムは奇跡的に持ち出され、Chris Markerらの協力を得て完成された。 映画を捧げられたカメラマンのホルヘ・ミューラー・シルバは逮捕 - 尋問 - 拷問ののち「行方不明」となる。
第一部『ブルジョワジーの叛乱』の冒頭で炎に包まれていた大統領官邸、第二部で細かに描かれる1973年9月11日、軍の起こしたクーデターは「成功」し、アジェンデは亡くなり、ピノチェトによる軍事政権はその後90年まで続き、そのピノチェトは病気を理由に罪を逃れたままに亡くなってしまったので、もういいじゃないかというかもしれない(どっかの島国みたいに、な)、でも断じてそうではないのだ。 昨年の夏、国会前で怒りをこめて拳を振りあげていた人にとっては。まるでいまの腐れたにっぽんを見るかのように(も)見れる。
農民や労働者たちの圧倒的支持のもとに誕生したアジェンデ政権、でも中間層やミイラと呼ばれる旧体制を支持基盤とする野党が過半数を占める議会は政権の転覆を狙ってあらゆる手を繰り出してくる。
大統領の弾劾権をもてる議員数を確保できなかった議会選挙が野党側にもたらした動揺が第一部の最初にあって、以降、デモやストライキを扇動して物流を絶って国政混乱の責任を負わせ、なんとか政権退陣に追い込もうとするブルジョワ勢力 - 野党と、そのやり口を見抜いて自前のネットワークを構築して持ちこたえ、アジェンデを信じて支えようとする労働者たちの攻防。 その過程でアメリカ政府による野党や軍部の抱きこみやメディア統制のカラクリが明らかにされ、軍の一部が暴走してカメラに銃を向けるに至るまで、が第一部。
第二部『クーデター』は、誰もがクーデターの予感に脅えつつあらゆる手を尽くして国を建て直し持ちこたえようとするが、アジェンデが最後の手段として用意した国民投票に向かおうとしたそのときに、堤防が決壊したかのようにクーデターが勃発する。
グスマンのカメラも我々も、ただその映像を見ていることしかできない無念と絶望で真っ暗になるなか、アジェンデの最後のラジオ演説 - 「歴史は人民のものであり、労働者のものである」でおわる。
第三部は、クーデターが起こる前の72年に巻き戻って、ブルジョワが起こしたトラック運転手組合のストライキを巡る攻防に焦点を当て、沢山の労働者 - 当事者の証言を繋ぎながら彼らはどう闘ったのか、を詳細に追っていく。
それは、なぜクーデターを防げなかったのかでも、そもそもどう闘うべきだったのか、の反省でもないの。闘った民衆は、誰ひとり間違ったことは言っていない、ひとりひとりの決意と覚醒と団結しかなかったし、そこにしか未来はないのだ、ということを再確認して、大地を踏みしめておわる。
すべては軍と共産主義を病的に嫌うアメリカによって資金援助も含めて周到に準備・計画されていたという、どす黒い、滅入るしかない史実だし、ぶんなぐりたくなるような顔もいっぱい並ぶのだが、めちゃくちゃおもしろくて、拳を思いっきり握りしめてしまう。なんでなのかうまく説明できない。
そしてその渦の余りのすごさに、自分の足元を見てしまう、そういう見方や思考を強いる映画だとおもう。
政界と財界の癒着とブラック化の進行、おかしいことを追求しない(させない)メディアへの介入、暗躍する不可視の勢力に陰謀、アメリカ大好き/共産主義大嫌い、共通するところだらけだし。いやそれらに加えてこっちは、悪賢い与党の圧倒的多数、くそみたいな迎合・多数派工作、メディアに加えて教育への関与と干渉、ポピュリズムの嵐に幼児化、なにもかも絶望的でしょうもないんですけど。
アジェンデのお話しでも軍やピノチェトの話しでもなく、これの主人公は「武器なき民衆」で、すべては規模や経済や軍部の力が決するのではない - 政治的な闘争なのだと、自分たちがアジェンデを生産や流通を支えるのだと、この映画はそこに突破口があると、「あったはず」ではなく「ある」とそれだけを力強く言っている。
だからこれは、わたしの、あなたの話でもあるの。 必見なの。
昨年のラテンピート映画祭でかかった”Allende, mi abuelo Allende” - 『アジェンデ』をもういっかいやってくれないかしら。 アジェンデの孫娘がまだ存命だった祖母に当時のことを聞いてみようとするお話し。 家族にとって、あの政変、あの一日はなんだったのか、を追うの。
あと、8月にアテネでやった「パトリシオ・グスマン監督特集」もお願いだからもういちど。
一年前。 忘れてないから。
9.19.2016
[film] High-Rise (2015)
16日の金曜日の晩、渋谷でみました。 最終日だった。
先週みた『アスファルト』がフランスの低所得者層向け集合住宅を舞台にした出会いの物語だったとすれば、これはイギリスの富裕層向け高層住宅を舞台にしたサバイバル階級闘争と瓦解を描いた、というか、そんなの比べてもしょうがないんだけどさ。
冒頭、死体が転がる廃墟と化したマンションのなかでみんな犬のもも肉とか焼いてサバイバル生活していて、さてなにが起こったのでしょうか、と。
医師のRobert Laing (Tom Hiddleston)は、高層マンションの25階に引っ越してきて、鼻歌うたいながらクリーンなモダーン・ライフを楽しもうとしていて、建物のなかにはスーパーマーケットもジムもプールもスパもなんでもあるし、住民同士の交流もハイソで洗練されているみたいだし。
最初に声をかけてきたのは26階に住むCharlotte (Sienna Miller)で、そのとき彼女に絡んでいたのがTV局に勤務するWilder (Luke Evans)で、彼の妻のHelen (Elisabeth Moss)は臨月なのになかなか子供が出てこなくて、やがて最上階 - 庭園があって羊(ヤギ?)とか馬もいる - に住むタワー全体を統治する神である建築家のRoyal (Jeremy Irons)とも知り合ううちに、上層階住人と下層階住人との確執も含めていろんな住人の見栄とか虚栄とか見下しとか妬みとか不満とかがどろどろ渦を巻いていることがわかってきて、繰り返されるいろんなパーティを通してそれらが雪だるま式というかドミノ倒し式というか、メルトダウンとパンデミックをいっぺんに起こして、上から下に重力で落下するかのように、一旦暴発したらそこから不可避的に着火して連鎖して手をつけられなくなっていくの。
で、逃げようにもみんなここに住んでいるもんだから逃げようがないし、実際誰も逃げないし警察なんか呼ばない。 だってこれはふつうに戦争で闘争で、闘って生き残りさえすれば生きられるんだもの、あたりまえだけど。
ねえねえ、みんな社会の上のほうに君臨するエリート、のはずだったんじゃ? ていうつっこみが。
原作は75年発表のJ.G.バラードのSFで、まだテクノロジーや進歩や高度化、といったことに夢を見ることが許されていた時代、当時それらに対するカウンターとして機能したかもしれない近未来の寓話が、この21世紀、富裕層はじっさい高いところに住んで見下ろしてて明確に可視化された格差が360°問題視されている今、どんなふうに受け止められるのか。 建築家がLaingに説明するようにこの建物は「変化の坩堝」 - “a crucible for change” となるべくデザインされていて、その点では確かにそれは起こった、と威張って言えるのだろうが、坩堝がありえない、想定外の化学変化まで引き起こして、収拾不能になっちゃって。
引き起こされてしまった混乱、暴力と憎悪とその連鎖、映画でそれは描かれているのだが、手がつけられないカオスを描くのは割と簡単で、他方でもういっこ大きなテーマとしてある(はずの) - 快楽とはなにか? てとこまで踏みこめていない気がして、それは難しいのだろうなー。
音楽は痛快としか言いようがなくて、パーティでCANの”Outside My Door”が流れていたりするし、”Spoon”だって流れるし、”PortisheadがあのトーンでABBAの”SOS”歌ったりするし、ラストにはThe Fallの”Industrial Estate”になだれこむ。 これをやりたかったのだとしたら、まあいいか、とか。
でも、かちかちの英国映画のかんじでしたわ。 Jeremy ThomasプロデュースでJeremy Ironsが出演する、それだけでまあいいか、とか。 (こればっか)
先週みた『アスファルト』がフランスの低所得者層向け集合住宅を舞台にした出会いの物語だったとすれば、これはイギリスの富裕層向け高層住宅を舞台にしたサバイバル階級闘争と瓦解を描いた、というか、そんなの比べてもしょうがないんだけどさ。
冒頭、死体が転がる廃墟と化したマンションのなかでみんな犬のもも肉とか焼いてサバイバル生活していて、さてなにが起こったのでしょうか、と。
医師のRobert Laing (Tom Hiddleston)は、高層マンションの25階に引っ越してきて、鼻歌うたいながらクリーンなモダーン・ライフを楽しもうとしていて、建物のなかにはスーパーマーケットもジムもプールもスパもなんでもあるし、住民同士の交流もハイソで洗練されているみたいだし。
最初に声をかけてきたのは26階に住むCharlotte (Sienna Miller)で、そのとき彼女に絡んでいたのがTV局に勤務するWilder (Luke Evans)で、彼の妻のHelen (Elisabeth Moss)は臨月なのになかなか子供が出てこなくて、やがて最上階 - 庭園があって羊(ヤギ?)とか馬もいる - に住むタワー全体を統治する神である建築家のRoyal (Jeremy Irons)とも知り合ううちに、上層階住人と下層階住人との確執も含めていろんな住人の見栄とか虚栄とか見下しとか妬みとか不満とかがどろどろ渦を巻いていることがわかってきて、繰り返されるいろんなパーティを通してそれらが雪だるま式というかドミノ倒し式というか、メルトダウンとパンデミックをいっぺんに起こして、上から下に重力で落下するかのように、一旦暴発したらそこから不可避的に着火して連鎖して手をつけられなくなっていくの。
で、逃げようにもみんなここに住んでいるもんだから逃げようがないし、実際誰も逃げないし警察なんか呼ばない。 だってこれはふつうに戦争で闘争で、闘って生き残りさえすれば生きられるんだもの、あたりまえだけど。
ねえねえ、みんな社会の上のほうに君臨するエリート、のはずだったんじゃ? ていうつっこみが。
原作は75年発表のJ.G.バラードのSFで、まだテクノロジーや進歩や高度化、といったことに夢を見ることが許されていた時代、当時それらに対するカウンターとして機能したかもしれない近未来の寓話が、この21世紀、富裕層はじっさい高いところに住んで見下ろしてて明確に可視化された格差が360°問題視されている今、どんなふうに受け止められるのか。 建築家がLaingに説明するようにこの建物は「変化の坩堝」 - “a crucible for change” となるべくデザインされていて、その点では確かにそれは起こった、と威張って言えるのだろうが、坩堝がありえない、想定外の化学変化まで引き起こして、収拾不能になっちゃって。
引き起こされてしまった混乱、暴力と憎悪とその連鎖、映画でそれは描かれているのだが、手がつけられないカオスを描くのは割と簡単で、他方でもういっこ大きなテーマとしてある(はずの) - 快楽とはなにか? てとこまで踏みこめていない気がして、それは難しいのだろうなー。
音楽は痛快としか言いようがなくて、パーティでCANの”Outside My Door”が流れていたりするし、”Spoon”だって流れるし、”PortisheadがあのトーンでABBAの”SOS”歌ったりするし、ラストにはThe Fallの”Industrial Estate”になだれこむ。 これをやりたかったのだとしたら、まあいいか、とか。
でも、かちかちの英国映画のかんじでしたわ。 Jeremy ThomasプロデュースでJeremy Ironsが出演する、それだけでまあいいか、とか。 (こればっか)
9.17.2016
[film] Asphalte (2015)
11日、日曜日の昼、新宿で見ました。
『アスファルト』。英語題は、”Macadam Stories”
イザベル・ユペールさま、ていうだけでなんとなく。こんな話しだとはしらなかった。
フランスの郊外の、半分壊れて打ち棄てられたようなでっかい団地があって、雲が遠くに広がっていて、あーこれだけでいい、みたいになりがちな風景。
そこの一室で住民会議が行なわれていて、老朽化したエレベーターを住民負担で取り替える決議をしてて、ひとりだけ反対したのが二階に住むクマみたいな男(Gustave Kervern)で、他の住民の白い目を浴びながらも二階だし使わないもん、と譲らず、結局あんたには使わせねえからな、使わないよな、と念を押してエレベーターは新調される。
会議があったその部屋に置いてあった自転車漕ぎマシーンが気になったクマさんは、自分でも取り寄せてみて、気持ちよく漕いでいるうちに失神して朝まで機械にオートでもてあそばれて、結局車椅子の生活になってしまう。
で、一人暮らしの彼が困ったのが食糧の調達とエレベーター利用禁止の件で、エレベーターは利用状況をモニタリングして人がいない時間帯を狙い、食べものは病院まで車椅子を転がして、そこの自販機でなんとかしようとがんばるうち、タバコを吸いに外に出ている夜勤の看護婦さん(『イタリアのある城で』のValeria Bruni Tedeschi !)と知り合って、自分はカメラマンなんだとかウソついて仲良くなっていく。
もうひとつは、同じ団地の別の部屋で独り暮らししているらしい高校生(Jules Benchetrit)がいて、反対側の部屋に越してきた女優 - 80年代少しは有名だったらしい - Isabelle Huppertと知り合って、カギを開けてあげたり、一緒に彼女が出ている昔のビデオを見てあげたり、プロデューサーにオーディションをすっぽかされて酔い潰れて帰ってきた彼女の面倒を見てあげたりして、つんけんしながらも少し仲良くなる。
もうひとつは、団地の屋上に空から宇宙船のポッドが落ちてきて、中から這い出てきたのはアメリカの宇宙飛行士(Michael Pitt)で、NASAに電話したいから電話貸して、と言葉のまったく通じないアルジェリア系移民のおばあさんのとこに世話になる。電話が繋がったNASAはそんなとこで即時回収すると世間にみっともないからしばらくそこに滞在して時間稼げ、と冷たくて、息子が刑務所にいるらしいおばあさんと宇宙飛行士の数日間の同居がはじまる。 おばあさんの作るクスクスがおいしそうでのう。
住民それぞれがめんどくさい事情を抱えているのがあたりまえの壊れかけの団地 - 別に団地じゃなくてもよい気もするが - を舞台にした噛みあいそうにない、別世界を経由してきて壁の向こうの別世界に生きるふたり x 3組の出会いをぜんぜん劇的じゃないふうに - 住民全体を巻きこんだり、それぞれの組がぶつかったり絡まったり、団地を物理的に壊したりすることなく - しらーっと描いている。 みんなそれぞれ忙しいんだからさ。
始めのほうは団地の上のほうに宇宙があって飛行士がいて、おもしろくなりそうな予感もあったのだがなんかしんみりと落ち着いちゃったところがなんかなー。 俳優さんがみんな上手かった分、なんかもったいなかったかも。
宇宙飛行士、Michael Pittもよいけど、あそこでMatt DamonかGeorge Clooneyかだったらうけたのになー。
『アスファルト』。英語題は、”Macadam Stories”
イザベル・ユペールさま、ていうだけでなんとなく。こんな話しだとはしらなかった。
フランスの郊外の、半分壊れて打ち棄てられたようなでっかい団地があって、雲が遠くに広がっていて、あーこれだけでいい、みたいになりがちな風景。
そこの一室で住民会議が行なわれていて、老朽化したエレベーターを住民負担で取り替える決議をしてて、ひとりだけ反対したのが二階に住むクマみたいな男(Gustave Kervern)で、他の住民の白い目を浴びながらも二階だし使わないもん、と譲らず、結局あんたには使わせねえからな、使わないよな、と念を押してエレベーターは新調される。
会議があったその部屋に置いてあった自転車漕ぎマシーンが気になったクマさんは、自分でも取り寄せてみて、気持ちよく漕いでいるうちに失神して朝まで機械にオートでもてあそばれて、結局車椅子の生活になってしまう。
で、一人暮らしの彼が困ったのが食糧の調達とエレベーター利用禁止の件で、エレベーターは利用状況をモニタリングして人がいない時間帯を狙い、食べものは病院まで車椅子を転がして、そこの自販機でなんとかしようとがんばるうち、タバコを吸いに外に出ている夜勤の看護婦さん(『イタリアのある城で』のValeria Bruni Tedeschi !)と知り合って、自分はカメラマンなんだとかウソついて仲良くなっていく。
もうひとつは、同じ団地の別の部屋で独り暮らししているらしい高校生(Jules Benchetrit)がいて、反対側の部屋に越してきた女優 - 80年代少しは有名だったらしい - Isabelle Huppertと知り合って、カギを開けてあげたり、一緒に彼女が出ている昔のビデオを見てあげたり、プロデューサーにオーディションをすっぽかされて酔い潰れて帰ってきた彼女の面倒を見てあげたりして、つんけんしながらも少し仲良くなる。
もうひとつは、団地の屋上に空から宇宙船のポッドが落ちてきて、中から這い出てきたのはアメリカの宇宙飛行士(Michael Pitt)で、NASAに電話したいから電話貸して、と言葉のまったく通じないアルジェリア系移民のおばあさんのとこに世話になる。電話が繋がったNASAはそんなとこで即時回収すると世間にみっともないからしばらくそこに滞在して時間稼げ、と冷たくて、息子が刑務所にいるらしいおばあさんと宇宙飛行士の数日間の同居がはじまる。 おばあさんの作るクスクスがおいしそうでのう。
住民それぞれがめんどくさい事情を抱えているのがあたりまえの壊れかけの団地 - 別に団地じゃなくてもよい気もするが - を舞台にした噛みあいそうにない、別世界を経由してきて壁の向こうの別世界に生きるふたり x 3組の出会いをぜんぜん劇的じゃないふうに - 住民全体を巻きこんだり、それぞれの組がぶつかったり絡まったり、団地を物理的に壊したりすることなく - しらーっと描いている。 みんなそれぞれ忙しいんだからさ。
始めのほうは団地の上のほうに宇宙があって飛行士がいて、おもしろくなりそうな予感もあったのだがなんかしんみりと落ち着いちゃったところがなんかなー。 俳優さんがみんな上手かった分、なんかもったいなかったかも。
宇宙飛行士、Michael Pittもよいけど、あそこでMatt DamonかGeorge Clooneyかだったらうけたのになー。
9.16.2016
[film] Suicide Squad (2016)
10日の晩、六本木でみました。
横浜でメアリー・カサットみて、神保町で「めぐりあう日」をみて、母子の情愛にじーんとしたあとで、これを見るとなかなかぐったりした。
極悪人とか極変態ばかりが収容されている地の果ての監獄があって、そこの何人かの囚人を極秘プロジェクト用にリクルートする、ていう話を進めている政府の偉いおばさん(Viola Davis)がいて、その話のなかで極悪人もしくは極変態のプロファイルとか捕まえたときの経緯 - バットマン(Ben Affleck)が出てくる - が流れて、じゃあこいつらはなにをやるんだ、というとメキシコの山奥の洞窟で発掘された古代の魔女の話が出てきて、バットマンじゃあかんのか? とか思いつつも、逆らったり逃げたりしようとしたら首に埋め込まれた爆弾がふっとばすからね、と言われた囚人たちは軍の大佐(ややこしいのだが、魔女 - Enchantressがのっとるのがこいつの恋人の体なのね)の指揮下で魔物狩りに乗りだすの。
囚人たちは鉄砲撃ち名人(Will Smith)とか、凶暴で手がつけられないあばずれ娘Harley Quinn(Margot Robbie)、とか、でっかい爬虫類みたいなのとか、火炎放射男とか、オージー(野蛮なだけ)とか、日本刀ふりまわす仮面女とか、そんなので、射撃男の一人娘とのエピソードとか、あばずれ娘とJoker(Jared Leto)の愛と絆、とか、火炎放射男のあたたかい家族の話とか、も紹介される。
魔女のほうは唯一の弱点だった心臓を人間から取り戻して、そこらの人間たちをゾンビみたいな自分の手下にして、その数をどんどん増やしていってゾンビまみれにして、更に世界を滅ぼす武器も作ろうとしていて、人類危うしなのはまちがいないの。
古代からの封印みたいのが解かれて、邪悪ななにかが急成長して世界がピンチになったときに世界の端っこにはじかれていた連中がより集まってそいつらをやっつける、というと、こないだの”Ghostbusters”がそうだし、”X-Men”だってそうだし、古代から来るやつと宇宙から来るやつにもう並みの人類は勝てないってことね。
で、そいつらと割とガチで戦うのがX-Menで、意外な飛び道具と冗談のミックスで乗り切ってしまうのがGhostbustersで、これはノリのあんまよくない不良のX-Menみたいなかんじ。 同じ不良犯罪者でもDeadpoolみたいに小気味よくちゃらちゃらやってくれればよいのだが、ひとりひとりのいろんな事情があるらしい、といちいちカメラは立ち止まってクローズアップしてあげる。
“Suicide Squad”なんだし、どうせ死んじゃう運命なんだし、と死を恐れない無軌道なならず者共が、好き勝手にむちゃくちゃをやって、気がつけば辺り一帯まるごと蹴散らしてそのまま暴走して地の彼方に消える、ていうのが理想に決まっているのに、なんかそれぞれがそれぞれののストーリーとか過去とかに引きずられて、なんかしめしめして重くなっているかんじ。 そんなに語りたいのか、見て聞いてもらいたいのかー。
いっそJokerとHarley Quinnの狂恋爆走ドラマにしちゃえばよかったのに。
このふたりのぶきちれたとこだけ、ストーリーから妙に浮いててよかったの(よくもわるくも)。
音楽は新旧のこてこて系名曲をやたら豪勢に贅沢に流しているのだが、なんか使いかたもったいないかも。
“Bohemian Rhapsody”をあんなとこで切っちゃうとかさ。
横浜でメアリー・カサットみて、神保町で「めぐりあう日」をみて、母子の情愛にじーんとしたあとで、これを見るとなかなかぐったりした。
極悪人とか極変態ばかりが収容されている地の果ての監獄があって、そこの何人かの囚人を極秘プロジェクト用にリクルートする、ていう話を進めている政府の偉いおばさん(Viola Davis)がいて、その話のなかで極悪人もしくは極変態のプロファイルとか捕まえたときの経緯 - バットマン(Ben Affleck)が出てくる - が流れて、じゃあこいつらはなにをやるんだ、というとメキシコの山奥の洞窟で発掘された古代の魔女の話が出てきて、バットマンじゃあかんのか? とか思いつつも、逆らったり逃げたりしようとしたら首に埋め込まれた爆弾がふっとばすからね、と言われた囚人たちは軍の大佐(ややこしいのだが、魔女 - Enchantressがのっとるのがこいつの恋人の体なのね)の指揮下で魔物狩りに乗りだすの。
囚人たちは鉄砲撃ち名人(Will Smith)とか、凶暴で手がつけられないあばずれ娘Harley Quinn(Margot Robbie)、とか、でっかい爬虫類みたいなのとか、火炎放射男とか、オージー(野蛮なだけ)とか、日本刀ふりまわす仮面女とか、そんなので、射撃男の一人娘とのエピソードとか、あばずれ娘とJoker(Jared Leto)の愛と絆、とか、火炎放射男のあたたかい家族の話とか、も紹介される。
魔女のほうは唯一の弱点だった心臓を人間から取り戻して、そこらの人間たちをゾンビみたいな自分の手下にして、その数をどんどん増やしていってゾンビまみれにして、更に世界を滅ぼす武器も作ろうとしていて、人類危うしなのはまちがいないの。
古代からの封印みたいのが解かれて、邪悪ななにかが急成長して世界がピンチになったときに世界の端っこにはじかれていた連中がより集まってそいつらをやっつける、というと、こないだの”Ghostbusters”がそうだし、”X-Men”だってそうだし、古代から来るやつと宇宙から来るやつにもう並みの人類は勝てないってことね。
で、そいつらと割とガチで戦うのがX-Menで、意外な飛び道具と冗談のミックスで乗り切ってしまうのがGhostbustersで、これはノリのあんまよくない不良のX-Menみたいなかんじ。 同じ不良犯罪者でもDeadpoolみたいに小気味よくちゃらちゃらやってくれればよいのだが、ひとりひとりのいろんな事情があるらしい、といちいちカメラは立ち止まってクローズアップしてあげる。
“Suicide Squad”なんだし、どうせ死んじゃう運命なんだし、と死を恐れない無軌道なならず者共が、好き勝手にむちゃくちゃをやって、気がつけば辺り一帯まるごと蹴散らしてそのまま暴走して地の彼方に消える、ていうのが理想に決まっているのに、なんかそれぞれがそれぞれののストーリーとか過去とかに引きずられて、なんかしめしめして重くなっているかんじ。 そんなに語りたいのか、見て聞いてもらいたいのかー。
いっそJokerとHarley Quinnの狂恋爆走ドラマにしちゃえばよかったのに。
このふたりのぶきちれたとこだけ、ストーリーから妙に浮いててよかったの(よくもわるくも)。
音楽は新旧のこてこて系名曲をやたら豪勢に贅沢に流しているのだが、なんか使いかたもったいないかも。
“Bohemian Rhapsody”をあんなとこで切っちゃうとかさ。
9.15.2016
[film] Je vous souhaite d'être follement aimée (2015)
10日、土曜日の午後、神保町でみました。
『めぐりあう日』。 英語題は"Looking for Her"。
お昼に横浜でメアリー・カサット展を見て、女性 - 主に母親のまあるい背中とか身体とか眼差しの像、イメージが残っていて、そういう状態で見たらとても沁みるものがあった。
理学療法士のエリザ(Céline Sallette)は生みの親を探すためにひとり息子、8歳のノエを連れて港町のダンケルクに滞在していて、夫とは離婚を考えているし、なかなか複雑らしい。 ノエは新しい学校に馴染めなくて、そこで清掃とか給食の配膳をしているアネット(Anne Benoît)がエリザの施術を受けにきて、ふたりが施術を通して少しずつ仲良くなっていく話と、エリザの家庭をめぐるいくつかの決断の話と、自分を産んですぐ養子に出してしまった母親(とその理由)を探す話が、ゆっくりと絡みあいながら、ひとつの物語になっていくさまが、ぜんぜんドラマチックに描かれないところも含めて、なかなかよかった。
実母が見つかる可能性がほとんどないことは冒頭で役所のひとから告げられていて、でもなぜそんなに懸命に探し続けているのか、育ての母にも夫にも息子にもよく見えない、彼女だけがその理由を抱えた惑いと葛藤のなかにいて、見つかりそうにないことは自分がようくわかっているし、見つかったからなにかがどうにかなるわけでもないこともわかっている。
そういうなかで、彼女だけの悲しみ、彼女だけの痛み、共有不可能なそれらが静かに淡々と描かれていって、最後にずっとこびりついていたかさぶたが剥がれるようにいろいろ明らかになって、よかったねえ、なのだが、でもこれはよかったねえ、で終わる話ではなくて、子供を棄ててはいけませんとか母と娘の普遍的なありようを示す、ような話でもなくて、縁とはまこと不思議なものじゃのう、みたいなお話。 だろうか。
撮影のCaroline Champetierのカメラはエリザとアネット、ふたりの細やかな表情の陰影を細かに正確に捕えようとしていて、それとアネットの丸く豊かな身体を滑らかに撫で摩るエリザの手の動きが重なると、ふたりそれぞれの行く末に明るい未来なんてぜんぜん見えないのだが、それだけでなんかよいの。 すばらしい女性映画。
最後に流れるブルトンの『狂気の愛』。
『バナナブレッドのプディング』のエンディングとおなじく。
昨年の11月に”Suffragette”を見て、感想に「頼むからくだんない邦題なしで」と書いた。
公開が軽く一年以上遅れて、それであのクズなタイトルかよ。 ふざけんな、だわ。
この映画そのものが悲惨な怒りの、捨て身の渾身の糞玉だと思うのに、映画を見ていないとしか思えない。
なにが「花束」だよ。
これに限らず邦題全般があったまに来るのばっかりなのでずっと文句や嫌味を言い続けてきたけど、改めて、ちゃんと映画のテーマや本質を見ることができない、その資格のない連中が暇つぶしで映画見るような連中に向けて売ることだけを考えてタイトルをつけているようなやりかたに改めて文句を言いたい。
あんたら、どこまでグロテスクで気持ち悪いのか。
これじゃあ洋画のマーケットなんて衰退するよね、で、「彼ら」は衰退しているからこそ懸命なんです、とか言うのだろうが、そんなこと以前にこのやり方/売り方は真剣に映画を作った人たちに対して失礼だし、この映画に描かれた戦いで亡くなった人たちにも失礼だし、そしてそれはつまるところ女性に対する侮蔑、他者に対する鈍感さ、に他ならないの。
こんなことやってるから、女性に参政権が与えられた国リストに日本は入れてもらえないんだわ。
『めぐりあう日』。 英語題は"Looking for Her"。
お昼に横浜でメアリー・カサット展を見て、女性 - 主に母親のまあるい背中とか身体とか眼差しの像、イメージが残っていて、そういう状態で見たらとても沁みるものがあった。
理学療法士のエリザ(Céline Sallette)は生みの親を探すためにひとり息子、8歳のノエを連れて港町のダンケルクに滞在していて、夫とは離婚を考えているし、なかなか複雑らしい。 ノエは新しい学校に馴染めなくて、そこで清掃とか給食の配膳をしているアネット(Anne Benoît)がエリザの施術を受けにきて、ふたりが施術を通して少しずつ仲良くなっていく話と、エリザの家庭をめぐるいくつかの決断の話と、自分を産んですぐ養子に出してしまった母親(とその理由)を探す話が、ゆっくりと絡みあいながら、ひとつの物語になっていくさまが、ぜんぜんドラマチックに描かれないところも含めて、なかなかよかった。
実母が見つかる可能性がほとんどないことは冒頭で役所のひとから告げられていて、でもなぜそんなに懸命に探し続けているのか、育ての母にも夫にも息子にもよく見えない、彼女だけがその理由を抱えた惑いと葛藤のなかにいて、見つかりそうにないことは自分がようくわかっているし、見つかったからなにかがどうにかなるわけでもないこともわかっている。
そういうなかで、彼女だけの悲しみ、彼女だけの痛み、共有不可能なそれらが静かに淡々と描かれていって、最後にずっとこびりついていたかさぶたが剥がれるようにいろいろ明らかになって、よかったねえ、なのだが、でもこれはよかったねえ、で終わる話ではなくて、子供を棄ててはいけませんとか母と娘の普遍的なありようを示す、ような話でもなくて、縁とはまこと不思議なものじゃのう、みたいなお話。 だろうか。
撮影のCaroline Champetierのカメラはエリザとアネット、ふたりの細やかな表情の陰影を細かに正確に捕えようとしていて、それとアネットの丸く豊かな身体を滑らかに撫で摩るエリザの手の動きが重なると、ふたりそれぞれの行く末に明るい未来なんてぜんぜん見えないのだが、それだけでなんかよいの。 すばらしい女性映画。
最後に流れるブルトンの『狂気の愛』。
『バナナブレッドのプディング』のエンディングとおなじく。
昨年の11月に”Suffragette”を見て、感想に「頼むからくだんない邦題なしで」と書いた。
公開が軽く一年以上遅れて、それであのクズなタイトルかよ。 ふざけんな、だわ。
この映画そのものが悲惨な怒りの、捨て身の渾身の糞玉だと思うのに、映画を見ていないとしか思えない。
なにが「花束」だよ。
これに限らず邦題全般があったまに来るのばっかりなのでずっと文句や嫌味を言い続けてきたけど、改めて、ちゃんと映画のテーマや本質を見ることができない、その資格のない連中が暇つぶしで映画見るような連中に向けて売ることだけを考えてタイトルをつけているようなやりかたに改めて文句を言いたい。
あんたら、どこまでグロテスクで気持ち悪いのか。
これじゃあ洋画のマーケットなんて衰退するよね、で、「彼ら」は衰退しているからこそ懸命なんです、とか言うのだろうが、そんなこと以前にこのやり方/売り方は真剣に映画を作った人たちに対して失礼だし、この映画に描かれた戦いで亡くなった人たちにも失礼だし、そしてそれはつまるところ女性に対する侮蔑、他者に対する鈍感さ、に他ならないの。
こんなことやってるから、女性に参政権が与えられた国リストに日本は入れてもらえないんだわ。
9.13.2016
[film] Song of the Sea (2014)
4日の日曜日の午後、杉本博司のあとに見ました。 恵比寿まできたのはこっちがメインだった。
昨年のEUフィルムデーズ2015で見逃して悔しくて泣いていたアイルランド=ルクセンブルク=ベルギー=フランス=デンマーク映画 - をようやく見れた。 『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』。
ポスターを見てアザラシの大群が大活躍するお話しかと思っていたら、ぜんぜんちがった。
でもアイルランドの昔話とか海とか音楽とか民俗とかがだいすきなひとにとってはたまんないやつだった。
すんごくよかった。
島の灯台で暮らしているお父さんとお母さんと男の子のベンとわんわんのクーがいて、身重だったお母さんは海の音が聞こえる巻貝の笛を残して「ごめんね...」って海のほうに消えてしまう。 そこから6年たって、妹のシアーシャはまだ喋れないまま、ベンはお母さんがいなくなったのはシアーシャのせいだと思っているのであんま兄妹の仲はよくない。 お母さんの命日でもあるシアーシャの誕生日、白く輝くアザラシの妖精セルキーのコートを纏ったシアーシャが嬉々として海に入っていくのを見た家族はびっくりして、お父さんはコートを海に捨てちゃって、意地悪なおばあちゃんは、こんなところに母のいない孫たちを置いておけない、と海から遠く離れた町の自分ちに無理やり連れて帰る。
でもなんとしてもクーとお父さんのところに戻りたいベンは町がハロウィンで賑わっている隙にシアーシャを連れてふたりして灯台のほうに戻ろうとするの。
その道中、シアーシャの不思議な力を察知したいろんな妖精とかが(ハロウィンだし)寄ってくるのだが、そのなかの一派、フクロウの魔女マカとフクロウ族はその歪んだ愛でシアーシャの力を吸いとって、妖精の国を滅ぼそうとしていて、それを防ぐには夜明け前にシアーシャの歌とあのコートが必要なのだが、彼女はどんどん衰弱していって。 シアーシャを抱えて踏んばるベンとだんだんに明らかになっていくいろんな秘密とか伝説とか。 ひとの悲しみや辛さを安易に癒してしまってはいけないんだって。
かつてあった妖精たちの国と海の巨人伝説という横糸に母を失った兄妹の一途な物語が絡んで、そのまわりをアザラシの群れが取り囲むの。どこまでも切なく元には戻らない/戻れない妖精と人間と海と灯台とあざらしのお伽話 = 海のうた で、しみじみ不思議だとおもうのは、われわれはかつてこの歌を聞いたことがある、彼方に踊るケルトの波模様を見たことがあるかも、ということなの。
なんで海の遠くの一点を見つめてしまうのか、そうしているとなんで悲しくなってしまったりするのか。 そのわけは例えばここに。
アザラシさんたちは海の向こうから揃ってこっちをじーっと眺めているだけで、変にかわいらしくなくてよいの。
坂田靖子のファンタジーを好きなひとも必見だよ。
あ、これアニメーションなの。 ねんのため。
昨年のEUフィルムデーズ2015で見逃して悔しくて泣いていたアイルランド=ルクセンブルク=ベルギー=フランス=デンマーク映画 - をようやく見れた。 『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』。
ポスターを見てアザラシの大群が大活躍するお話しかと思っていたら、ぜんぜんちがった。
でもアイルランドの昔話とか海とか音楽とか民俗とかがだいすきなひとにとってはたまんないやつだった。
すんごくよかった。
島の灯台で暮らしているお父さんとお母さんと男の子のベンとわんわんのクーがいて、身重だったお母さんは海の音が聞こえる巻貝の笛を残して「ごめんね...」って海のほうに消えてしまう。 そこから6年たって、妹のシアーシャはまだ喋れないまま、ベンはお母さんがいなくなったのはシアーシャのせいだと思っているのであんま兄妹の仲はよくない。 お母さんの命日でもあるシアーシャの誕生日、白く輝くアザラシの妖精セルキーのコートを纏ったシアーシャが嬉々として海に入っていくのを見た家族はびっくりして、お父さんはコートを海に捨てちゃって、意地悪なおばあちゃんは、こんなところに母のいない孫たちを置いておけない、と海から遠く離れた町の自分ちに無理やり連れて帰る。
でもなんとしてもクーとお父さんのところに戻りたいベンは町がハロウィンで賑わっている隙にシアーシャを連れてふたりして灯台のほうに戻ろうとするの。
その道中、シアーシャの不思議な力を察知したいろんな妖精とかが(ハロウィンだし)寄ってくるのだが、そのなかの一派、フクロウの魔女マカとフクロウ族はその歪んだ愛でシアーシャの力を吸いとって、妖精の国を滅ぼそうとしていて、それを防ぐには夜明け前にシアーシャの歌とあのコートが必要なのだが、彼女はどんどん衰弱していって。 シアーシャを抱えて踏んばるベンとだんだんに明らかになっていくいろんな秘密とか伝説とか。 ひとの悲しみや辛さを安易に癒してしまってはいけないんだって。
かつてあった妖精たちの国と海の巨人伝説という横糸に母を失った兄妹の一途な物語が絡んで、そのまわりをアザラシの群れが取り囲むの。どこまでも切なく元には戻らない/戻れない妖精と人間と海と灯台とあざらしのお伽話 = 海のうた で、しみじみ不思議だとおもうのは、われわれはかつてこの歌を聞いたことがある、彼方に踊るケルトの波模様を見たことがあるかも、ということなの。
なんで海の遠くの一点を見つめてしまうのか、そうしているとなんで悲しくなってしまったりするのか。 そのわけは例えばここに。
アザラシさんたちは海の向こうから揃ってこっちをじーっと眺めているだけで、変にかわいらしくなくてよいの。
坂田靖子のファンタジーを好きなひとも必見だよ。
あ、これアニメーションなの。 ねんのため。
[art] 杉本博司 ロスト・ヒューマン
9月4日、日曜日の昼間、TOP MUSEUMというとてもとても恥ずかしい名前になってしまった(でも売店以外になにが新しくなったんだかぜんぜんわからない)東京都写真美術館でみました。
3階のスペースをぜんぶ使った『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』ていうシリーズ。てっきり写真の展示だと思っていたのでややめんくらう。
ぼろいトタン板などで仕切られた部屋がいっぱいあって、各部屋には紙に手書きされたその部屋の所有者と思われるいろんなひと - 理想主義者、比較宗教学者、養蜂家、古生物研究者、政治家、軍国主義者、安楽死協会会長(渋谷慶一郎)、美術史学者、コンピューター修理会社社長(宮島達男)、国際連合事務総長、隕石蒐集家、ジャーナリスト、耽美主義者、コンテンポラリー・アーティスト(ロバートキャンベル)、解脱者(千宗屋)、ラブドール・アンジェ(芋束)、善人独裁者、漁師、バービーちゃん(朝吹真理子)、遺伝子矯正医(橋本麻里) ー などなど - ぜんぶで33だって - による 『今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない』ではじまるステートメントというか遺言というか、最後っ屁みたいのが貼ってあって、彼らが関わったり使ったりしていたであろうオブジェとか骨董品とか道具とかが置いてあって、たまに動いたり音をたてたりもする。
もう世界は終わっているのだからこれらはオブジェでも骨董品でもなんでもない、ただの無用のゴミでしかない - 終わっていなかったにしてもなんとか主義者とかなんとか研究者のものなんて大多数のひとにとってはどっちみちどうでもいいゴミでしかない - のだから持ち帰ったり触ったり壊したり燃やしたりしてもいいじゃん、とか思わないでもないのだが、いちおう、美術館の展示、ということで監視の目はきびしい。 さーすがTOP。
7月にNYで見たNew Museumの展示 - "The Keeper"は、あれはニンゲンの営みがそれなりに永続することを前提に、残したいものを残さねば、って残そうとする一握りのひとたちの展示だった。
これに対し、ここの世界はもうすっからかんに終わっていて、それを使ったり愛でたりするニンゲンもいないわけだから、ほんとうに単なる、繰り返しになるがただの「ゴミ」でしかない。 じゃあいらねえだろ、ていうのと、「昨日かもしれない」というのだったらおとといだって、一週間前だってよいはずで、つまり、もうとっくの昔に終わっているんじゃないのか。 さらに踏みこんで、そもそもいらねえんじゃねえかこんなの。ていうのと、ヒトはほんとうにこれらのゴミと向き合ってあれこれやってきたんだねえ、ていうか最後に残ったのはゴミばかりなんだから ゴミ > 人間てことよね ... のようなことがぽつぽつと見えてくる。
でもゴミの展示にしては、とてもよい具合に枯れてて萎びてて美しいの。 同様のテーマだったらJim ShawとかMike Kellyとかのほうがゴミ感も臭気も爆裂満載で、やっぱり世界は終わり/終わってるんだよねえ、て思い知らされるのだが、こっちのは捨てがたい - だから骨董として残ってたのか。
で、2階のほうに降りていって、ふたつの2Dの展示 - 『廃墟劇場』と『仏の海』を見てみれば闇と光のコントラストがしみじみと爛れて美しく、彼岸の遥か彼方から「救い」みたいなテーマが蜘蛛の糸のように下がってくるのが見える気もして、ああそういうことなんだねえ、ておもった。
ここにきて時間のアートとしての写真の意義、がくっきりと表れて、それって減衰を示すものなのか光明を示すものなのかどっちなのかしら、というと、3階の展示の始まりと終わりに貼ってあるフラットな海 - 水平線が浮かびあがる。
全体の印象としては、高級なゴミで構成された壮大な曼荼羅。 でもニンゲンいらない、みたいな。
たぶんひとによって受けとめかたはいろいろで、展覧会のサイトにあるように、『人類と文明が遺物となってしまわないために、その行方について、杉本博司の最新作と共に再考する』 ひともいるんだろうなー。 えらいなー(棒読み)。
もういっこやっていた報道写真の展示のほうは見ませんでした。
3階のスペースをぜんぶ使った『今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない』ていうシリーズ。てっきり写真の展示だと思っていたのでややめんくらう。
ぼろいトタン板などで仕切られた部屋がいっぱいあって、各部屋には紙に手書きされたその部屋の所有者と思われるいろんなひと - 理想主義者、比較宗教学者、養蜂家、古生物研究者、政治家、軍国主義者、安楽死協会会長(渋谷慶一郎)、美術史学者、コンピューター修理会社社長(宮島達男)、国際連合事務総長、隕石蒐集家、ジャーナリスト、耽美主義者、コンテンポラリー・アーティスト(ロバートキャンベル)、解脱者(千宗屋)、ラブドール・アンジェ(芋束)、善人独裁者、漁師、バービーちゃん(朝吹真理子)、遺伝子矯正医(橋本麻里) ー などなど - ぜんぶで33だって - による 『今日、世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない』ではじまるステートメントというか遺言というか、最後っ屁みたいのが貼ってあって、彼らが関わったり使ったりしていたであろうオブジェとか骨董品とか道具とかが置いてあって、たまに動いたり音をたてたりもする。
もう世界は終わっているのだからこれらはオブジェでも骨董品でもなんでもない、ただの無用のゴミでしかない - 終わっていなかったにしてもなんとか主義者とかなんとか研究者のものなんて大多数のひとにとってはどっちみちどうでもいいゴミでしかない - のだから持ち帰ったり触ったり壊したり燃やしたりしてもいいじゃん、とか思わないでもないのだが、いちおう、美術館の展示、ということで監視の目はきびしい。 さーすがTOP。
7月にNYで見たNew Museumの展示 - "The Keeper"は、あれはニンゲンの営みがそれなりに永続することを前提に、残したいものを残さねば、って残そうとする一握りのひとたちの展示だった。
これに対し、ここの世界はもうすっからかんに終わっていて、それを使ったり愛でたりするニンゲンもいないわけだから、ほんとうに単なる、繰り返しになるがただの「ゴミ」でしかない。 じゃあいらねえだろ、ていうのと、「昨日かもしれない」というのだったらおとといだって、一週間前だってよいはずで、つまり、もうとっくの昔に終わっているんじゃないのか。 さらに踏みこんで、そもそもいらねえんじゃねえかこんなの。ていうのと、ヒトはほんとうにこれらのゴミと向き合ってあれこれやってきたんだねえ、ていうか最後に残ったのはゴミばかりなんだから ゴミ > 人間てことよね ... のようなことがぽつぽつと見えてくる。
でもゴミの展示にしては、とてもよい具合に枯れてて萎びてて美しいの。 同様のテーマだったらJim ShawとかMike Kellyとかのほうがゴミ感も臭気も爆裂満載で、やっぱり世界は終わり/終わってるんだよねえ、て思い知らされるのだが、こっちのは捨てがたい - だから骨董として残ってたのか。
で、2階のほうに降りていって、ふたつの2Dの展示 - 『廃墟劇場』と『仏の海』を見てみれば闇と光のコントラストがしみじみと爛れて美しく、彼岸の遥か彼方から「救い」みたいなテーマが蜘蛛の糸のように下がってくるのが見える気もして、ああそういうことなんだねえ、ておもった。
ここにきて時間のアートとしての写真の意義、がくっきりと表れて、それって減衰を示すものなのか光明を示すものなのかどっちなのかしら、というと、3階の展示の始まりと終わりに貼ってあるフラットな海 - 水平線が浮かびあがる。
全体の印象としては、高級なゴミで構成された壮大な曼荼羅。 でもニンゲンいらない、みたいな。
たぶんひとによって受けとめかたはいろいろで、展覧会のサイトにあるように、『人類と文明が遺物となってしまわないために、その行方について、杉本博司の最新作と共に再考する』 ひともいるんだろうなー。 えらいなー(棒読み)。
もういっこやっていた報道写真の展示のほうは見ませんでした。
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