1月23日、火曜日の晩、BFI Southbankでやっている”SCALA!!!”の関連上映企画 – 同館でよくかかっていたB級カルト作品を上映する - で見ました。
英語題は”The Beast”、邦題は『邪淫の館・獣人』。SCALA!!!”のポスターのなかに、目をむいて頬に手をあててムンクの「叫び」みたいになっている女性の写真があるのだが、それはこの映画からのものであった。入口には「ものすごく不快になるかもしれない表現があります」って注意書きの立札があったのでどきどきして入る。
いまフランスで上映されているBertrand Bonelloの同名の新作とは関係ない、と思う。
監督はポーランドのWalerian Borowczykだがフランス映画で、言葉もフランス語、イタリア語、英語。メリメの”Lokis” (1868)がベースと言われているが、それより単に『美女と野獣』のエロ版、で通っているらしい。
冒頭、結構肉肉しい馬の交配シーンがあって、それを仕切っていたMathurin (Pierre Benedetti)に実業家の娘Lucy (Lisbeth Hummel)との縁談が持ちあがり、父の侯爵Pierre de l'Esperance (Guy Tréjan)はMathurinの頭が悪くて奇形だったのを隠してきたので、ばたばたと自分ひとりで息子の洗礼をすませたりするのだが、同じ屋敷のなかにはその結婚に強く反対しているPierreの叔父もいたりしてややこしい。
やがてLucyが叔母と一緒に車で野山を超えて屋敷にやってくる。天真爛漫でポラロイドで写真を撮ってばかりいるLucyは、馬の交尾写真とかお屋敷で200年前にここの領主だった女性が獣と戦った話を聞き、そこでの獣姦を描いた絵 – まるで春画 – を見てひとり興奮している。
ここから先は婚礼前夜にMathurinと対面して夢のなか(なのか屋敷を彷徨う古の何かが乗り移ったのか)でひとり暴走していくLucy(と獣)と、Mathurinとの結婚を巡って枢機卿まで巻きこんだすったもんだのお家騒動に発展していく、全体としてはホラーになりたかったコメディ、なのかもしれない。
特にLucyが夢のなかで熊さん(なのかすら不明な毛むくの化け物)と出会って追いかけられて夢中で走っているうちに裸になっていて熊が... というとこ。おそらくリアルにやったら検閲に絶対通らない – でもどっちにしても通らなかった... - から着ぐるみぬいぐるみでやっとけ、とやってしまったのがなんだかはまっていてほのぼのおもしろくなんかおかしい。
画面全体の佇まいはヨーロッパの山奥に潜む変態貴族のあれこれ – いつも物陰で靴を脱いでやっているところで声を掛けられて中断させられてしまう下男とPierreの娘とか、お稚児さんふたりを連れている変態ぽい教会の神父とか、どこかブニュエルのように見えなくもないトーンできちきち描いているところで、あんな変てこ熊が現れて、しかも熊の性器まで作りこんであって..
夢のなかで勝手に絶頂に達した熊は鮭のように死んじゃって、夢から醒めたLucyがMathurinのところに行ってみると彼も死んでいて、包帯をしていたその腕は獣の毛むくで、お尻には尻尾が…
女性ふたりがお屋敷に来るところから這う這うの体で逃げだすところまで、ホラーと呼ぶにはあまりにスカスカで、かすりもしていないのでポルノでもないと思うし、でもつまんないかというとぜんぜんそんなことはなくておもしろかった。客席もみんな朗らかに笑っていたし。
なんとなくBjörkの”Human Behaviour”のクリップを思いだした。熊がでてくるし。
1.30.2024
[film] La Bête (1975)
[art] Women in Revolt ! Art and Activism in the UK 1970-1990
アート関連のをいくつか纏めて。アートは(映画もだけど)専門でもなんでもないし、きちんと確認している時間がいまあんまなくて、事実誤認などがいっぱいあるかも – のとこはごかんべんを。
1月13日、土曜日にTate Britainで見た展示など。Sarah Lucasのが終わりそうだったので。
Women in Revolt ! Art and Activism in the UK 1970-1990
展示のメインビジュアルで顔面大写しで叫んでいる女性、これはThe RaincoatsのGina Birchさんによる3分間のショート“Scream” (1977) からのもので、会場内のある一角ではこの彼女の叫び声がそのビデオと共にずっとリピートされている。
英国の女性たちが1970年から1990年にかけて、貧困、労働環境、女性差別、人種差別、等に如何に声をあげてどんなふうに戦ってきたのかをチラシ、ポスター、報道、アート(パフォーマンス)等、包括的に展示していて、まずはその物量に圧倒される。記録したりアーカイブしていた側の苦労もそうだが、それ以上に女性たちの、ひとりの女性であろうとするだけでのしかかってくるあれこれへの怒りの強さと深さに。それはサフラジェットの頃からずっと、なのだろうし、それは男性中心の支配やそこで設計された制度や無意識的ななにか、がどれだけ深くしぶとく根を張って生き残っているのか、の裏返しでもある。
あと、Cosey Fanni TuttiさんがTG加入前のCOUMでやっていたパフォーマンスの映像記録とか、知っているけど見たことなかったのが多く、これがあれだったのかー、など。
時代的にはもろに直撃されていた方なので、自分の持っている7inch - Girls at Our Best!の”Going Nowhere Fast” (1980)とかいろんなレコードや写真集なども並んでいた。展示を記念したCompilation 12inchも販売している(けど、ほぼ持っているのばかりだったので買わず)。カタログはすばらしく充実しているので買ったほうがよいかも。
なんでこの20年間に区切った展示なのか、についてはいろいろあるのだろうけど、「パンクだから」で、こいつはいまだにぜったい有効なんだから、でよいと思う。
Sarah Lucas - Happy Gas
YBAのひとりとされてきた彫刻家の個展。本人がタバコを吸ったりバナナを食べたりしているポートレート写真が壁にでっかく並べられ、床にはでっかいサンドイッチとか半切りにされた車とか、どこかぐんにゃりと柔らかそうな彫刻作品が置かれている。Claes Oldenburgのおめでたくない英国版、というか。なんで男性器をテーマにするのか、については、「自分は持っていないから」と。
Ethel Walker
Tateに行ったら常設展示も必ず見ること。ひとつでもきっとぜったいなんか素敵な発見があるからー。
Ethel Walker (1861-1951)はエジンバラ生まれの英国の画家で肖像画がいくつか。Vanessa Bellを描いた肖像画がとてもよかった。
RE/SISTERS - A Lens on Gender and Ecology
1月14日、日曜日にBarbican Art Galleryで見た展示。クロージングの日だった。
ジェンダーとエコロジー? をテーマとした写真 - 事故や自然/人為災害の、プロテストの、動画、オブジェ、パフォーマンス、インタビュー等がいっぱい。これらって別個の「問題」ではないのか? と最初は思ってしまうのだが見ていくうちに、例えば女性差別と環境破壊、共通の視点で括って共闘できそうな箇所が沢山あることに気づかされ、目を見開かれる。どちらも男社会のやっちまえのノリと利害で勝手に決めて進められて、少数派を無視した強引な侵犯ができて、許されてしまって、それによる付随した差別や更なる破壊が常態化して、結果として必要とされるケア、についてまで。 知っている範囲だとFrancesca Woodmanの写真やBarbara Hammerのフィルムもあった。いまこれらを、ここに立ち向かわないでなにがアートやねん、という意思と勢い。 そしてこの暫く後で映画 – “The End We Start From” (2023)を見たので余計にー。
Guerrilla Girls
1月25日、木曜日の晩、Tate Modernでのトーク・イベント。この日は自分のとこの小引越しで、大小のガラガラ4つを車で運びこんで、事前と事後の運び入れも含めてどうにかした後で、へろへろのパワーゼロだったのだが、すばらしくおもしろくあっという間で、いろいろほっとして救われた。
40年に渡って活動を続け世界で約60人のメンバーがいるとされる彼女たちのなかから中核のふたり - Frida KahloとKäthe Kollwitzがゴリラのマスクを被って現れて、お話しをする。ホストはギャラリーの側で長年彼女たちの活動を見て支援してきて、こないだTate ModernのDirectorを退いたばかりのFrances Morrisさん。背後にはスライドで彼女たちの「作品」が流れて、Tateの売店も彼女たちに乗っ取られた形でいろんなグッズを売っている。
美術界にはびこる/はびこっていたセクシズムやレイシズムを具体的な数字と広告宣伝のビジュアルでもってもしもーし? これこれ? そこのおっさん? ってでっかく訴える彼女たちの手法は極めてクリアでわかりやすくて、突きつけられた白人男性側は肩をすくめるしかなく - つまり無敵で。
トークの後には客席からのQ&Aがあり、質問した人はバナナを1本貰える(バナナ10本がなくなったら終わり)。
活動の初期にはなかったSNSの手法は自分たちのやり方に馴染んでてやりやすく、これからも活用していきたいと思っている他方で、世の中はこんなにも動こうとしない頭のかたいバカばっかしというのもあぶり出され、パレスチナがあんなことになっているのになにができるんだろう、ってなりません? という問いにもぜんぜん落ち着いて、冷静にやってみることよ、と。アートは政治そのものだから、って(拍手)。
あと、Tateでの女性アーティストの展示の数(指標)については? と聞かれたFrancesさんは、うちは、50:50だったと(拍手)。なんでここではそんなことができたのでしょう? と問われると、わたしがDirectorだったから。だから女性がパワーを持つことは大事なのよ、ってさらりと。かっこいいなー。
終わってサイン会があったのでサイン貰った。隣のバーで続けて飲み会もあったようなのだが、もう限界だったので帰った。
1.26.2024
[film] The End We Start From (2023)
1月21日、日曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。
パリをずっと走り回っていたその翌日に映画3本続けて見るのはきつい、とも思ったのだが、日曜の晩てお店もみんな早く閉まっちゃうからすることないの。つまんなかったら寝ちゃってもいいや、って。 - でもこれは眠れるようなもんではなかった。とてつもない緊張感の渦が。
監督はMahalia Belo、Megan Hunterの同名デビュー小説(2017)を”Lady Macbeth” (2016)、”Normal People”(2020) のAlice Birchが脚色している。原作権を買ったのは少しだけ出演もしているBenedict Cumberbatchだそう。 登場人物たちには名前がない。Cast表の役名はAとかBとか”Mother”とか。つまり意味するところはー。
どこかの一軒家で、Jodie Comerが入浴しようとしている。バスタブの中でお腹ははちきれそうに丸くでっかく、彼女はその丸みに向かってハローとか声を掛けたりしている。外はずっとざーざーの豪雨が続いていて暗くて、大丈夫かしら、と外を見たりしていると破水が起こり、それに合わせるかのように洪水により家の中への浸水が始まり、近辺一帯がパニックになっていることがわかる。夫(or パートナー?)に電話をしても出ないし救急車の方にも当然繋がらず崩れおちて、次の場面ではどうやって助かったのか、病院のベッドで彼女の傍には赤ん坊がいて、夫とも連絡が取れたらしく彼女の横にいてくれる。(この辺の事情や顛末についてはうまく抽象化できていると思った)
でも、病院のなかも当然大混乱が続いていて、時期が来たら退院しなければならなくなり、大雨のなか車で家に帰りつくが食料も今後も心配なので、少し離れていて被害も少なそうな夫の実家の方に行くことにする。道路は軍によって閉鎖されて先に行けなくなる心配はあったのだがすぐそこに実家があるから、ってなんとか通してもらう。義父母(義父はMark Strong)はやさしく迎えてくれるのだが、ここも食料が少なくなってきたので、夫と義父母は銃を携えて車で食料の調達に向かう(どこも食料が不足して軍が出ているものの飢餓状態での泥棒や略奪が茶飯事になっている、という設定)。 と、彼らが戻ってきた時に義母の姿はなく、みんな打ちひしがれていて、やがて義父は自殺し、夫も自分は君を守ってあげることができないのが辛い、とどこかに消えてしまう。
仕方なく赤子を抱えて避難所 - 日本スタイルの雑魚寝形式 - に向かって、そこも全員がぴりぴりで男性が突然怒鳴ったりしていて怖いのだが、同じくらいの子供を抱えたKatherine Waterstonと仲良くなって心強くて、でもそこにも食料狙いの襲撃が入ったりするので、二人(+赤子二人)でそこを出て野宿をしながら - 途中でBenedict Cumberbatchと出会ったりしつつ - Katherineの家族がいる離れ島のコミューンに向かって…
突然の豪雨災害に襲われて家を失った(夫はいるもののほぼ役立たずの)赤子を抱えたひとりの女性が遭遇するであろう恐怖 - 飢餓の、略奪されるかもしれない、暴行されるかもしれない、子供になにかされるかもしれない、等に直面して緊張と共に段々に疲れてすり減っていく女性/母の姿をJodie Comerがものすごくリアルに演じている。
還るところを失いひとり疲れきった彼女の頭に何度もよぎるのは夫とクラブで出会った頃の甘い記憶で、自分をひとりにして逃げた頼りなくてひどい奴なのに、なんでか浮かんできて、その辺にもなんかきっと、そういうものかもしれないなー、という妙な生々しさがある。
自然災害によりパニックに襲われた凄惨な現場と、そこで生じた混乱をどうにかしようと(or 生き延びようと)する人々(政治家、軍、救命隊、いろんな人々)を多面の群像劇として描くのがこれまでの定型だった(あんま見たことがない&見る気もしない)のだろうが、これはそういう不安定な中で突然赤子と共に一人放り出されてされてしまった決して強くはないひとりの女性の視点にフォーカスして、それがどれくらい怖く恐ろしいものなのか、を描いていて、それはそれは生々しく本当にありそうなので震えるしかない。
ちょうど北陸であのような震災が起こって多くの人たちがまだ避難生活を強いられている中、そしてその様子を外から見ていて、そのあまりに人でなしの政府や自治体の対応を見たり聞いたりするばかりなので、ここで描かれた理不尽で暴力的で怖い男たちや決して守ってはくれない組織の姿はちっとも他人事ではないし、自分の身は自分で、なんてボケた為政者の戯言でしかないなー、って。
人によっては思いだしたくないなにかを突いてしまうであろうから公開については慎重になるべき、と思う反対側で、能天気な政治家連中には見てほしいもんだわ。
Jodie Comerさんはほんとうにすばらしいったら。
1.24.2024
[film] Ferrari (2023)
1月21日、日曜日の午後、Odeon LuxeのWest Endで見ました。
映画はもう二番館の方に来ててあまり上映されなくなっているので、少し慌てて。
上映していたLuxeっていのはシネコンチェーンのOdeonが新しく始めたラインで、シアターとか画面はそんな大きくないのだが、椅子がリクライニングしてゆったりできる仕様なの。Leicester Squareだとここが2軒め。リクライニング、してもいいけど寝ちゃうよね。
監督はMichael Mann、原作はジャーナリストによる評伝 - ” Enzo Ferrari: The Man, the Cars, the Races, the Machine” (1991)。Adam Driverがこないだの”House of Gucci” (2021)に続いてイタリア近現代のカリスマ的な人物をややイタリア訛りの英語で演じている。この辺、彼の俳優としての佇まいとか、ハリウッド映画としての要請などの観点から「なんで?」って考えていったらおもしろいかも。
1957年から始まる話で、”Ford v Ferrari” (2019)で描かれた60年代中頃よりも前で、それがどうした?なのだが車に関してはブランドとか種類とかなんで動くのかとか、知識がゼロに等しいのでほんとどうでもいい。ここからの積み重ねがあったから今がある、っての?
ここでのEnzo Ferrari (Adam Driver)はすでに白髪で貫禄も十分の同社のワンマントップで、速い車を作って会社を維持したり大きくしたりすることに頭がずっといっぱいで悩ましく、会社のお財布を管理している別居中の妻Laura (Penélope Cruz)との仲は一人息子だったDinoが亡くなってからは険悪のどろどろで、別のところにいるLauraの知らない別の家族 – Lina (Shailene Woodley)と息子のPieroは彼に安らぎを与えてくれるがこれからどうしたものか、になっている。
速い車には速く走れるドライバーが必要で、映画の最初の方で死亡事故を起こしたりもしているのでチーム編成も含めてどうにかしたいところに、若くてイキのよさそうなドライバーのAlfonso de Portago (Gabriel Leone)が加わって、イタリアの公道を夜中もぶっ通しで走るレース - Mille Migliaに向けてがんばっていくのと、そういうのとは別にLauraとLinaのふたりとの関係をどうするのか、があってなかなか落ち着かない。
男の快楽で夢、であるらしい金属でできた速い車でぶぅーん、てぶっ飛ばすというのをビジネスとして成り立たせてでっかくするためになにが求められてEnzoの場合はそこにおいてなにが突出していたのか、という観点の洞察も、彼の哲学や思いのようなものが語られることもあまりなくて、スピードの探求も、会社の財務問題も、家庭問題も、なにひとつうまく回せないようなのに周囲から崇められ、プレスからは追い回されている。 例えば、確かに”Ford v Ferrari”にも出てきたデーモニッシュな闇のように深く暗いなにか、はあるように見えるのだが、それがどうした? でしかないし、なんであんなひどい事故を起こす/起こした車に、夢だなんだと燃えてしまえるのか、ちっともわからない。ひとり勝手に燃えていてほしい。
という具合に、Enzoも彼の生み出した車も、なんで/なにがそんなにすばらしく、いまだに「ステータス」らしきなにかを生み出しているのか、ちっともわからないような描き方をしていて、それがめちゃくちゃ重みがあって - でも速そうな路面の走行とか最後の方の大惨事と絶妙な対照を描く。ことはわかるのだが、でもやっぱり、ただの走る車じゃん。とPenélope Cruzは怒っているようだった。
うん、この映画で本当にすばらしいのはずっと暗い不機嫌な目で呪いをかけるようにEnzoを追って責めたてていくPenélope Cruzの方で、あの、ずっと、ばっかじゃないのあんたら、っていう目がたまんなくよくて、Adam Driverがどれだけあの、彼特有のなにが起こってるんだかわかんないし考えてないよ …? っていう無垢な獣の目をしたってだめなの。
あと、漫画とかで人が事故で吹っ飛んだりするのは見たけど、映画だとあんな風に飛んでいくのかー とか(なんかほんとうっぽいし)。
小引越しの真っ只中で、布団(Duvet)一式を買って地下鉄で運んだり、袋でちょこちょこ運びだしたり - そんなことをしても実は何ひとつ片付いていないのだが、それが楽しくて、この感想も移動している地下鉄で書いたりしているのだが、実際に生活が始まるとなんかつまんなくなって片付けもなんもしなくなる。ってだめよね。
[film] The Holdovers (2023)
1月21日、日曜日の昼、Picturehouse Centralで見ました。
70年代初のアメリカ東部を舞台にしたクリスマス映画で、クリスマスに見たらどんなにかー、なのと昔のカラーフィルム映画のテクスチャーをわざと模しているので、35mmフィルムで上映してくれたらー、もあったのだがデジタル上映のみの模様。監督はAlexander Payne、脚本はDavid Hemingson。
冒頭のクレジットとかロゴとか審査通ってる画面とかから昔のスタイルの真似をいっぱいしてて、雪のなかにニューイングランドの全寮制の男子校が浮かびあがり、過去から東海岸のエリート養成校として有名大学にいっぱい送り出してきたここも、みんな実家に帰るクリスマス休暇に向けていつもと少し違う雰囲気でほかほかしているのだが、ここにずっと暮らしている独身の古典教師Paul (Paul Giamatti)にはそんなの関係ないし、裕福な家のぼんが成績不良で進学できないかも知れない状況になっていても知らん、勉強できない奴は必ず落とす、って聞かないので、校長は彼にクリスマス休暇にいろんな事情があって家に戻ることができない居残り組(The Holdovers)の面倒を見させるようにする。教師にも生徒にも世の地獄と恨み節しか浮んでこないどんよりさいてーのクリスマス休暇。
残留組となった生徒のひとりには再婚した母親が新婚旅行に行くからって一方的に旅行をキャンセルされたAngus (Dominic Sessa)がいて、あとは年少組の子供ふたりを加えた5人だったのだが、その中のいかにもいそうな金持ちのぼんがうちのスキーリゾートで一緒に過ごそうよってヘリを飛ばしてみんなを誘ってくれて、それなのにAngusだけは親と連絡が取れなくてひとり残されることになる。
あとそこに食堂で給仕をしている女性たちの長で、ここの卒業生だった息子をベトナム戦争で失ったばかりで悲嘆にくれているMary (Da'Vine Joy Randolph)が加わる。
親から見放され学校からも罰ゲームのような教師をあてられて自棄になる(なるよね、自分は悪くないんだもの)Angusと、そんな敵意といろんな憎悪むきだしの彼に振り回されていくうちに教師としてどうあるべきかを少し考え始めるPaulと、自分の孤独と悲痛さからすればこんな連中ほんとどうでもよいけど、なんとなくふたりの大人子供たちを見ていられなくなっていくMaryが1971年のカウントダウンに向かってじたばたしながら少しづつにじり寄っていくドラマで、最近のは知らないけど昔の学園ドラマってこんなふうにあーあーあー(やっちゃった..)、って騒ぎながら人肌の温度にゆっくり上昇していくやつだったかも、などと思ったりした。
今のドラマなどにこのやさしいかんじがないとしたら、それは一体なんでなのか、世代なのか関心のありようなのか、とか。もちろんAlexander PayneもDavid Hemingsonも、音楽も含めてこれらをぜんぶ計算して、雪のなかのエモとして散らしているのだが、3人の関係がほんわかよくなっていく反対側で、甘いお伽話では終わらずに現実はやっぱりなんだかんだきついのだよ(悪い奴らはのさばるし)って … でもそうであったとしても、だ。
あとこれはやっぱりPaul Giamattiのすばらしさを堪能する映画で、彼が彼なのでよいの。彼が歴史・古典の教師としてすばらしくかっこいいことを言うので、そこだけでも。
音楽は予告でも流れてくるDamien Juradoの”Silver Joy”とかCat Stevensの"The Wind”とかしんみりしたアコースティックならなんでもはまる。あとバーで流れているBadfingerの”No Matter What”もたまんないの。
[art] January 20 - Paris
1月20日の土曜日、日帰りでパリに行って帰ってきた。
パリはここ数年、届きそうで届かない半端な憧れ状態のまんなかが続いていて、前回滞在時のロックダウンの際にもなんとか行けないか隙間を狙って何度か画策したのだが難しすぎた。その前に行った時は地下鉄がストでものすごく動きにくかったし。
今回はどうしても見たいわ見なきゃの展覧会が3つ連なってあり、うち2つが1月の末で終わってしまうので、チケットは英国に渡る前に確保して、Eurostarのチケットも来て早々に取った。それくらいに行ったる、という決意は固かったの。
日帰りなのでいつも近所をふらふらする時のRough Tradeのずた袋だけ下げて、行きはKing’s Crossの駅を6時半に出る始発だったのだが、出国・入国のところはいつも激混みではらはらするので早めに行って並ぶ。それでも不安になってしまうのは(飛行機だったら諦めきれるけど)列車だとまた(目の前で)行かれちゃったあーあー… になりがちだからだろうか?
トンネルを抜けてフランスに出たらいきなり真っ白の雪景色だったので少しびっくりしたが、駅についてからはNavigoのカードを(初めて)買って地下鉄に乗ってつんのめるように祈るようにー。
Mark Rothko @ Fondation Louis Vuitton
地下鉄のLes Sablonsで降りて、雪まじり半凍りの路面だとぜったい(転ぶからふだんなら)転ばないようにペンギン小走りで着いたときには10:40で、チケットは10:00のスロットだったのだがもちろん平気。
初期の地下鉄の駅や人物を描いた具象寄りの絵の空間や輪郭、その錯綜具合に臨んでいるような、どうしても抽象に向かってしまう形象がおもしろくて、その線と形がMondrian的な方には向かわずに歪んであの色と面の四角に塗り潰されていく様がそうならざるを得なくなる溜息とか重力込みで展示されているかのような。計算されていたような(そりゃ計算するよ)部屋ごとの照明もみごと。private collectionのにおもしろいのがいっぱいあったかも。
次のパリ市立美術館までまだ時間があったのでオルセーに行ってみる。混んでいて入れなかったらスキップすればよいし。大人気のVincent van Gogh のはどうせ無理って諦めていたので、これを。
Peter Doig - Reflets du siècle / Reflections of the Century @ Musée d'Orsay
同館が所蔵するPeter Doigの絵画数点と、彼自身がオルセーの所蔵品から選んだ影響を受けたという作品たちを一緒に並べてみる企画展。彼のセレクションは古典から印象派までいろいろあって、でもなんかやっぱり輪郭がよれて崩れたり滲んだりしたなにかが広がっているようなのが多いかも。Édouard VuillardによるFélix Vallottonの肖像、とか。 あといつもの4階とNavi派のがいろいろ出ていたのでその辺も。
Nicolas de Staël @ Musée d'Art Moderne de Paris
最終日前日だったせいかなかなか混んでいた。Rothkoよりもこっちのが見たかったかも。
1940年代くらいまでのどこまでも線を引いていって、その線を使ってハサミで切るように切り出していた空間が少しづつ面を為すようになり、そこに光が当てられて厚みが加わり、その厚みが実際の空間とか事物と衝突して小さな音をたてていく。
Rothkoの面がカーテンを引いていくかのようにすべての光を覆っていき、こちらの目の裏に染み入ってくるのとはぜんぜん違う即物の目の前の、強く確かなそこにある表面にぶつかってくるパワーと不思議と。続けて見ていくと抽象のおもしろさがとめどなく湧いてくる、というか。
Viva Varda ! @ La Cinémathèque française
前回ここに来たのはChris Markerの回顧展だったなーそういえば。
Agnès Vardaの回顧 – といってももちろん映画作家としてのそれだけではなく、写真家であり批評家でありフェミニストであり活動家でありいろんな家族がいて猫飼いであり、ものすごく幅広いし、映画だけに限っても長編もあれば短編もあるしドキュメンタリーもあるし、アメリカとの関わりも沢山あるし、そういういろんな点や線をスナップショットから動画から書簡からメモから置物まで、”Viva”としか言いようがない物量で網羅していて、ぜんぶ見ていたら軽く2時間は掛かると思った。
『冬の旅』の撮影時のスナップとか、Sandrine Bonnaireが映画のなかで着ていたジャケットなどが浸みた。被写体としてのAgnèsってほんと素敵なのよね。
ここまでで展覧会の旅は終わりで、各会場でお土産としてカタログを買ってしまったりして、この3冊がどれもなかなか分厚いのでしんどかったのだが、最後にLa Grande Épicerie de Parisに行った。
ここはずっと自分にとってはヘブンで、いようと思えば軽く3時間くらい過ごすことができる。
これからの生活用に塩とかよくわかんないハーブ系スパイスとかブイヨンとか、いろんなマスタードとか、MAYOとか、やっぱり我慢できなくてBordierの瓶ヨーグルトいくつかとか、そういう瓶たちをがちゃがちゃ買って - 電車移動がよいのはこれらの液体とか関係ないことよ - バターとチーズをどうしようか悩みはじめたところでいいかげんにしろよ、ってアタマの奥でハリセンを抱えたもう一人の自分が言った。
帰国便は19:10発で、18時には北駅に戻りたくて、そこはなんとか。ほぼなんも食べていなかった - パリに行ってなんも食べないなんてありえない、って自分に怒っても遅くて、駅構内のPaulでデニッシュ買って食べて、電車乗ったらそのまま落ちて、気づいたら21時少し前、朝いた駅に戻ることができた。
見れていないのはまだいっぱいあって、Musée Marmottan Monetの”Berthe Morisot and the Art of the 18th Century” は行きたいよねえ - とするとまた来月なのかなあー。
1.23.2024
[film] Aguirre, der Zorn Gottes (1972)
1月14日、日曜日の午後、BFI SouthbankのWerner Herzog特集で見ました。
どうにかなんとかアパートも見つかって、それまで待てずに買ってしまってできた小さな本の山とか寒くて買ってしまった服などを束ねて小引越しに臨まなければならないこのタイミングでHerzogがやってきて頭の奥とか芯とかをかき回す - これもまた神の試練と思えばよいのかどうか - どうでもええわ。
英語題は“Aguirre, Wrath of God”。邦題は『アギーレ/神の怒り』。音楽はPopol Vuh - ぽぽる・ゔふ。
16世紀、実在した歴史上の人物(だとは知らなんだ)Lope de Aguirreが伝説の黄金都市エルドラドを求めて南米アマゾン川を下った破滅的な旅を綴る。作はWerner Herzogで、史実には基づいてはいないらしいが、山を越えた軍の一部が筏で川をくだっていく、これだけなので史実もくそもないかも。
数十人のスペイン人と大量の現地住民奴隷がアンデスの山を越えて川の辺りにたどり着く。冒頭の山越えから既にぐちゃぐちゃで大砲とか籠に乗せた貴族とかを上げたり下げたり、見ているだけでぐったりしてくるのだが、川まで来たところで物資が底をついてしまったので先行隊としてAguirreたちに川を下ってこの先を見てこい、と命令し、1週間で戻ってこれなかったらさようなら、と。危険な旅なのに指揮官の愛人とかAguirre(彼は副指揮官)の10代の娘などもこの旅に同行する。
旅をはじめてすぐに一隻の筏が渦にはまって動けなくなり、気がつけばそこの全員が死んでいたり、ジャングル周辺は敵ばかりであることが明らかになって、その時点で引き返せばよかったのになんだか沸騰してしまったAguirreは命令に背いて少人数でメキシコの帝国を征服したHernán Cortésの名前をあげて指揮官に刃向かい、手近にいたぼんくらを皇帝に仕立てて遠征を強行する - 女性ふたりもそのまま。
こうして飢えと恐怖でジャングル川下りをしていって、部下も奴隷もみんな端から殺されていくばかりなのだが、奇跡もなんも起こらずに最後は大量の猿が湧いてくるの。これらがろくな台詞も議論もなく、ずっと怖い顔をして燻ぶってて不機嫌で、口を開けばここで引き返してどうする、みたいなことしか言わないAguirreを中心に静かに展開して、そりゃこうなるよね、なのだが、その「自然」に対する向きあい方はとてもありそうでよくて、しかも画面としては整っていて美しいとしか言いようがない。
たぶん探せばどこかにあるのだろうが『地獄の黙示録』への影響はぜったいにある。
Aguirreと同じことをやった and/or やろうとしているのが戦前・戦中・戦後・いま、の日本であることは言うまでもない。死んでも自分の非を認めようとしない人たちとそれでもそいつらに従順な奴隷たちと。
Herz aus Glas (1976)
1月19日の晩、BFI Southbankで見ました。これもWerner Herzog特集で、この前に隣のBFI IMAXで”Queen Rock Montreal” - 1981年のライブ映像が4日間だけIMAXで! - というのを見て、やや食べ合わせ悪くないか? だったのだが、寝ちゃったっていいや金曜日だし、と。
英語題は”Heart of Glass”、邦題は - 公開されていたんだ… - 『ガラスの心』。Blondieの同名シングル曲(1978)とは関係ないよね.. と思っていたらMike Chapmanはこの映画からタイトルを取ったって…
18世紀、ドイツのバイエルンの山の上で羊(?)に囲まれて予言者ぽい男Hias (Joseph Bierbichler) - 現地の予言者Mühlhiaslにならっていると - が予言のようなことを呟くと、山の上から白い風がぼうぼうと吹き流れていく。
ガラス工場のガラス生産で生計をたてている村で、ガラス職人の大家であり工場主でもあったMuhlbeckが亡くなり、彼のみが製法を知っていたルビー色のガラスを生産できなくなってしまった。さて、これから村はどうしよう、というのが残されたなんも考えていない村人たちの魂のない幽霊のような人形劇のような演技 - 一部を除いて俳優たちは催眠術をかけられて台詞を言わされているのだという、本当なのかどうか、そんなこと許されるのかもしらんが – と共に綴られていく。
催眠術で操られた人物たちの会話はかみ合っておらず、いろんなエピソードはあっても絡んだり関連したりしているようないないような、結末もよくわからない。のだが、とにかく画面は異様に美しく山や谷はCaspar David Friedrichだし、室内の光が浮かびあがらせるのはGeorges de La Tourとしか言いようがない。そこに向かって彼方から吹いてくるPopol Vuhの音楽もすさまじく、話の筋だけ聞くとわけわかんなくて眠そうだったのに画面があんなふうなのでちっとも眠気がやってこないのだった。これもまた催眠術か。
ラストは何故だか突然海の方に飛んであのSkellig Islandsの空撮が。”The Last Jedi” (2017)より40年も早い。
1.19.2024
[film] Scala!!! (2023)
1月15日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
前にも書いたが映画の正式タイトルは“Scala!!! Or, the Incredibly Strange Rise and Fall of the World's Wildest Cinema and How It Influenced a Mixed-up Generation of Weirdos and Misfits”という。『あるいは、世界で最もワイルドで狂った映画館の信じがたく変てこな興亡と、それがどんなふうに変態や除け者の混じりあった世代に影響を与えたか?』 ででん!(太鼓)
前世紀のロンドンに実在した映画館とそこでかかった映画とそこに集まった変人たちに関するドキュメンタリーで、監督はJane GilesとAli Catterallの共同。冒頭いきなりJohn Waters先生が出てきてやあやあ、って口上を述べる - そういう。
映画館として存在していたのは、1978年から1993年の間、King’s Crossの通りに建物自体はすぐわかる姿形で今も建っててライブハウスとして使われていて、Otoboke-Beaverはここで見た。ここにくる前のFitzrovia- Tottenhamにあった頃はライブ会場として有名で、Beatlesの”A Hard Day's Night” (1964)のライブシーンはここで撮られているし、ぎらぎらだった頃のIggy PopやLou Reedもここでライブをしているのは有名だし。
ふたりの若者がキュレーションして凝りまくったチラシでカルトに実験映画、ホラー、スプラッター、カンフー、エログロ、LGBTQIA+、分類不可のジャンクなんでも、作家だとDavid Lynch にPasoliniにRuss MeyerにJohn WatersにDerek Jarman に... 普通じゃないのであればなんでも、を上映しまくり、集まってくる客もサッチャー時代の反動のように、オールナイト上映の晩は特に居場所を失ったパンクにゴスに変態がうじゃうじゃ。有名になる前のBoy George、Spandau Ballet、JAMCなどもうろうろ吹き溜まっていて、映画にも出てくるMatt Johnson氏と映画には出てこないけどJG Thirlwell氏もここの映画館で出会ったことなどを以前語っていて、そういう磁場を形成していた。あと劇場猫もいた。二匹も。
映画はまだ残っているので見ることができるけど、こういう場所に紐づいていたものは記憶にしか残らなくて、でも結局それが一番強いのかも、って思うようになってきた今日この頃。
日本にもあったのだろうか。ぴあ(雑誌)とかシティロードの時代って、映画館巡りをするお金がなかった分、あの雑誌のなかで紹介されているいろんな場所やプログラムを隅から隅まで眺めて想像するしかなくて、そんな想像のなかにあるとか。黙壺子フィルムアーカイブ、とか? 昔のユーロスペースとか?
もうなくなってしまった溜り場を回顧するにしては湿っぽくなく、この映画そのものに変で不思議なパワーが漲っていて、いまやもうネットや配信でなんでも.. って言いかけたところで鼻の穴に指つっこまれて耳に噛みつかれるような勢いがあった。それがなんなのかよくわかんないのだが、変態なめんな、っていうことでよいのか。変な映画がもたらすイメージ(ダメージ?)って残るものはずっと残るよね。
ここ10~20年くらい、仕事などがつまんなかったり辛かったりが多すぎることもあって映画を見に映画館に通ったりするようになって、そういうのが嫌になったこともないのでたぶん自分は映画も映画を見るのも好きだと思うのだが、自己紹介とかで映画好きです!なんて言えないし本当に好きなのかまだわかんなくなったりするし、映画サークルみたいのに入ったこともないので、まだなんか信用できないのだが、そういうひとから見ても、ああこんなふうにこんな映画を見ていた人たちも猫たちもいたのなら ... って少しだけ元気になった。気がした。
Rock ‘n’ Roll Cinema
1月18日の晩、BFI Southbankであったこの映画の上映関連トークイベント。
ホストはCathi Unsworth、ゲストはBarry Adamson(映画のサントラを担当), Douglas Hart(The Jesus and Mary Chainのオリジナルメンバー), Mark Moore, Caroline Catz, Jah Wobble、の5名、みんなドキュメンタリーの方にも出演していて、彼らが自分にとってのRock ‘n’ Roll映画この1本! のクリップを紹介していく、という構成。紹介された映画はJah Wobbleが”Les quatre cents coups” (1959) - 『大人は判ってくれない』 - なんか意外、Barry Adamsonが”Beat Girl” (1960) - John Barry Seven! 、Douglas Hartが”Point Blank” (1967)、Mark Mooreが”Performance” (1970)、Caroline Catzが”Jesus Christ Superstar” (1973) – Jah Wobbleが、この音楽ってAndrew Lloyd Webberなんだろ?このベース、信じらんないくらいかっこいいんだけど、って - で、他には”Tommy” (1975)のThe Acid Queenのシーン、”The Man Who Fell to Earth” (1976)なども取りあげられて、全体としては、英国ではNicolas RoegとKen Russellは外せないな、って無難なところに落ちたかも。
最後、ホストのCathi Unsworthさんが、ここはあたしに締めさせてほしい、とJordanがDerek Jarmanの”Jubilee” (1978) で"Rule Britannia"を歌ってのし歩くシーンでおわる。ここについてはまったく異議なし、だった。
1.18.2024
[film] Anatomie d'une chute (2023)
1月14日、日曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
英語題は”Anatomy of a Fall”、邦題は『落下の解剖学』。監督はJustine Triet、今年のカンヌでパルムドールとパルムドッグ(犬、かわいい)を受賞している。2時間半を超えて、皮膚を裂いて組織をばらしてひたすら解剖していくだけの法廷ドラマだが、とてつもない緊張感と冬山に凍りつくように見た。(料理をしているところをずっと見ていられるのと同じように解剖もそうなのかも)
グルノーブルの山間の山荘のような家にドイツ生まれの人気作家Sandra (Sandra Hüller)とフランス人の夫Samuel (Samuel Theis)と視覚障害のある息子のDaniel (Milo Machado Graner)と盲導犬のSnoopが暮らしている。Sandraが若い女性のインタビューを受けている時、階上でSamuelが大音量でカリビアン音楽を鳴らし始めたので、タイミング悪かったかも、ってインタビューの女性は帰り、DanielはSnoopと外に散歩に出て、戻ってくるとSamuelが頭から血を流して雪の上に横たわっていて、既に亡くなっていた。
Sandraはすぐに旧友の弁護士Vincent (Swann Arlaud)を呼んで自分はやっていない、と落ち着いて言って、彼はわかった、というのだが、Samuelの頭部には単純な転落だけのものではない別の傷があり、地面に衝突する前に上から降ったと思われる血の跡もあり、彼と誰かの間で何かあったとしか思えないような。
捜査が進んで、審理は法廷の場に移って、SandraとSamuelが言い争った末にSandraがSamuelを殴って突き落とした、と疑ってかかる検察側と、窓から落ちて手前の物置にぶつかって落ちたのだとする弁護側で食いちがい、そこに精神的に不安定だったSamuelの自殺の可能性とか、バイセクシュアルであるらしいSandraのこと、Danielの障害のきっかけとなった過去の事故のこと、その事故の時の責任を巡る確執、夫婦間の会話は英語でやるのか仏語がよいのか、作家になりたくて何かを書こうとしていたSamuelのこと、などが明らかになってくると、犯罪のありよう、犯罪性のようなところをとりあえず置いて、実は互いに根底から憎みあっていたらしい夫婦の像が明らかになっていく – これが「解剖学」の醍醐味というか、解剖というのはここまで微細に深いところまで分け入っていくのかー、彼の方はもう死体なのでなにをされてもなーという残酷さも。
解剖の果てに明らかになるのって、実は「正義」や「悪」や「真実」がどう、ということよりも、あるものがあるべき(あってほしかった)姿や形からなぜ、どんなふうにズレたり歪んだりしてしまったのか、というのを示すだけでそのズレや亀裂のありようからこの辺りかも、というのを推測したり落としどころを見つけたりするのかも、って。なにが善でなにが悪なのか、なんてのもここから逆算してなんとなく言っているだけじゃないのか、とか。 解剖で皮膚の表と裏がひっくり返るかんじ、というか。
最後にそんなものがあるとは誰も思っていなくて決定的な証拠として明らかにされるテープとずっと静かにすべての審理を聞いて何かを考えている(ように見える)Danielの証言があって、そうなるかー、なのだがそれだけで終わるものでもなくて。最後までいって、あ。ってなったりするかも。
Jehnny BethさんがDanielを守って面倒をみる保護士の役で出てくるので、ファンの人は行くように。
[film] Looking for Mr. Goodbar (1977)
1月13日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。邦題は『ミスター・グッドバーを探して』。
ここの1月の別の特集企画で、”Scala!!! Or, the Incredibly Strange Rise and Fall of the World's Wildest Cinema and How It Influenced a Mixed-up Generation of Weirdos and Misfits” (2023)という長いタイトルのドキュメンタリー映画 - 感想は後程 - 公開を記念して、このなかで取りあげられたSCALAっていうロンドンにあった映画館で定期的に上映されていたRuss Meyerのとか”Pink Flamingos” (1972)とか”The Warriors” (1979)とかのB-C級カルト映画(要は柳下毅一郎系)などがいくつか上映されていて、そういう枠でかかった。小学生だった頃、「スクリーン」誌とかで子供が見るやつではありません指定があった気がしたが、そういうものだったのかー? って – いうのを確かめたい人たちがいっぱいいたのだろうか、2回ある上映回はどちらもSold Outしていた。
上映前に”Scala!!!...”の監督のひとりであるJane Gilesさんによるイントロがあった。この映画はScalaの歴史のなかでは2回上映があって、最初の時はBette Gordonの”Variety” (1983)との併映だったと。なんか変でしょ? どう変なのかは見て確かめてね、って。
最初に”Dick” (1989)っていう13分の短編がかかる。長いこと失われていたと思われていたものがVHSで発見されて、それを復元したのだ、なのでクオリティにはご勘弁を、と言われる。
クオリティもなにも、画面に静止画像で出てくるのはものすごい物量のDickたち - モノクロで男性器のそこそこのアップが、スライドショー形式で次々に出てきて、そこに「これ、どう呼んでいますか?」とか、「やはりサイズは重要でしょうか?」などの字幕の問いに対するいろんな女性たちの声(のみ)が被さっていく。当たり前だが人の顔と同じようにびっくりするくらいにいろんな形状とか大きさ長さのものがあって、どこかのサンプル画像を持ってきているだけかと思ったら、エンドロールですべてのDick(の持ち主? 飼い主?)たちの名前(イニシャルのみのもある)が結構な数で並んでいて、これぜんぶ撮っていったのか… って。 あ、音楽はJohn Cale(電子系)。
Looking for Mr. Goodbar (1977)
すごくよいかんじの35mmフィルムでの上映だった。監督・脚本はRichard Brooks、原作はJudith Rossnerのベストセラー小説で実際に起こった事件を元にしている。Richard Gereの映画デビュー作のひとつとされている、と(Tom Berengerも、Brian Dennehyもそうだって)。Diane Keatonはこの同じ年に”Annie Hall” (1977)にも出ているってなんかすごい。
シカゴに暮らすTheresa (Diane Keaton)は障害児童の学級の先生をしていて、一人暮らしでも家族ともどうにかやっているのだが夜になるとバーに出かけてお酒をやって薬をやって適当に男を引っかけてアパートに連れて帰って寝て、を繰り返している。
その様子がまじめな職業や家族関係からの逃避やジャンプではなく、ごくふつうの生活サイクルの一部のようにして描かれ、そんな習慣や行為に悩むことも、どこかによくない、悪いところがあるとも思っていない。
Richard Gereもそんなふうに引っかけて遊んで、それを何回か繰り返すうちに明らかに自分のそれと違うぎらぎらした夜の世界に生きるnon堅気の彼のことを恋しいかも、ってなったりするものの、ものすごく狂ったりすることはなくて、それはそれ、くらいで、それと同じ軽いノリでTom Berengerに出会うと…
初めのうちはそんなにやばいかんじはしなくてSATCのような散らかっていくコメディとして見れないこともないかも、とかふんふん見ているといきなりあんなことが。もちろんそこを狙ったのであろうが。
世界はまったく違うのだが、なんとなくPTAの”Boogie Nights” (1997)を思い出したり。Richard Gereの変なテンションとか年越しのとことか。
それにしても橋を渡って帰るときの、痺れるような寒さのロンドン、ひさびさ。
[film] Poor Things (2023)
1月13日、土曜日の昼にPicturehouse Centralで見ました。35mmフィルムでの上映。
邦題は『哀れなるものたち』。原作はAlasdair Grayによる1992年の同名小説(未読)、監督はYorgos Lanthimos、彼の前作”The Favourite” (2018)と同じようにほんの少し昔のクラシックに凍結された時代を舞台に更にやりたい放題をやってしまったかんじ。以下、ネタばれはあります。
冒頭、思い詰めた顔の女性(Emma Stone)が高いところから飛び降りるシーンが描かれ、続けて画面は白黒になり、つぎはぎ顔のDr Godwin Baxter (Willem Dafoe)のもとでBella Baxter (Emma Stone)と名付けられた冒頭に登場したのと同じ顔の女性が屋敷のなかでばたばた騒がしくいろんなことを学んでいく様子が描かれる。 彼女の周りにはやはりつぎはぎ合成された動物たち - フレンチブル/チキンなど - が沢山いて、彼女もその実験サークルの仲間らしい。
そのうちGodwinは身の回りのあれこれを試したり覚えたりしていくにつれ日に日に奔放になり手を付けられなくなっていくBellaの面倒をみる(観察する)べく、彼の教室にいた学生Max McCandles (Ramy Youssef)を屋敷に住まわせて観察・研究させ、Bellaも彼になついてきたようだからふたり一緒になってみるか(これもまたお試し)、となったところで横から現れた法律家のDuncan Wedderburn (Mark Ruffalo)が連れ去るように彼女をもっていってしまう。
ここから画面はカラーになって、LisbonからParisへ、Duncanをへろへろにしながら性と食を貪るように吸収し、それを通して「人間」のいろんなことを学んでいって、というBellaの成長物語として(やや類型的すぎるものの)読んでいくことができる。それは飛び降り自殺によって壊された女性 – Bellaの脳は彼女が身籠っていた胎児のそれを移植された – の生がなにかを取り戻し回復していく過程のような、或いは子供から大人に成長していくBellaが少しづつ学んでいく過程のような、どっちにしてもくそのような腐った大人たちから「正しく」学ぶことを求められるこの渡世のあれで、でもBellaはその程度では負けないの。
「哀れなるものたち」って果たしてどっちの方なのか。魚眼レンズのような穴から覗かれる妙に歪んだ視界とか景色とか、調律がどこかでおかしくなっている弦とか。でも結局はセックスとお金の話なのか、とか。
ベースは誰もが知っているようであんま知らない気がする「フランケンシュタイン」の、改造されて空っぽ状態から作られた「人間」はどんなことでもできてしまうから - という怖くて哀しい被造物のお話しをゴシックロマンのようなスチームパンクのような、あの時代にありえたかもしれない痛快なお話しとしてリ・アレンジしている。昭和末期のガロなどにあったみっしり描かれたエログロ漫画みたいなかんじ - 雰囲気ね、画面は作り込まれていてすごい - がないこともないが、タイトルと画面の造りから当初想起されたような悲惨なだけの人形ホラー - “M3GAN” (2022)みたいのに持っていくこともできたかもなのに、そうはしなかった - 心配だったんだよ、だってYorgos Lanthimosだし。
最後、LondonでBellaはふたりの「創造主」と対面する。ひとりは死にかけてて、もうひとりは再び彼女を殺しにかかってくる。どっちもいらんし、っていうあの態度とおとしどころは悪くなかったかも。
とにかく覚醒してからのBella - Emma Stoneがすばらしく、これは隅から隅まで彼女の映画で、オスカーは当然とるであろう。
監督の前作“The Favourite” (2018)の Sandy Powellさんの衣装もよかったが、今回のHolly Waddingtonさんの – “Lady Macbeth” (2016)の衣装も彼女だったのか - も見事で、Barbicanで展示されているのを見た(無料)。Bellaの衣装、なんとなく羽化のイメージがあるのと、ものすごく細かく編みこまれているので驚いた。
1.15.2024
[film] Sunrise: A Song of Two Humans (1927)
1月10日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
もう一回英国に渡ってきてからのBFI Southbankの最初の1本。
4つのシアターとライブラリがあるここは新作もやるし映画祭の上映もあるのだが自分にとってはNYのFilm ForumとMuseum of the Moving Imageと並ぶ映画の学校で、前回にいたときは4年間で463本見ている。その時の最後のはコロナの(再)ロックダウンになる前、2020年12月の”How Green Was My Valley” (1941)だった。
邦題は言わずと知れた『サンライズ』。イントロでMargaret Deriazさんによる紹介があった。映画史に残る大名作なのであまり書くことないかも。監督のFriedrich Wilhelm MurnauがWilliam Foxに招かれてアメリカに渡って当時のドイツ映画からの蓄積と先端技術のありったけをぶちこんだやつ。
第一回のオスカーで”Unique and Artistic Picture”っていうこれ限りとなったアワードを、Janet Gaynorが主演女優賞を、撮影賞はMary Pickfordのお気に入りだったCharles RosherとNYで写真家をしていたKarl Strussのふたりが撮っている。
Murnauがやっていたドイツ表現主義的ななにかをアメリカ映画に持ち込む、ってどういうことかというと、映画的な出来事や世界の様相あれこれをフィルムにうつしとる、のではなく、フィルムのなかに世界のすべてを現出させる、そんな”Metropolis” (1927)みたいな壮大な大風呂敷を描こうとしていて、当時としてはものすごいお金をじゃぶじゃぶ使っているものの、それが実現できてしまっていることがわかる - いま見てもどきどきはらはらできるのってやっぱりすごい。
土地の名前も人の名前もいらない。男(George O'Brien)がいて、その妻(Janet Gaynor)と赤ん坊がいて、男を誘惑してあの女(妻)を殺しちゃいなさいよ、ってそそのかす都会の女(Margaret Livingston)がいて、男のだらしなさと弱さが、田舎女(妻)の一途さと清らかさが、都会女の悪魔のような毒と闇が農村から都会までを覆い、サスペンスとホラーとメロドラマが嵐を含むあらゆる天候のなかで渦を巻く。ふたりを結ぶひとつの歌が陽を昇らせる。ここでは当時の世の中の嫌なところも含めて全部が見渡せて、なにかを説明するようななにか、なんて一切いらないの。これの少し前の”Der letzte Mann” (1924) - 『最後の人』が世の中の闇と悲惨をぜんぶ呼び寄せてなにもかも凍らせてしまったのと同じように。
あとこれ、でっかいスクリーンで見てでっかい音で聞くと改めて気持ちよいなー、って。
Land des Schweigens und der Dunkelheit (1971)
上のとは関係ないのだが、同じ日に”Sunrise”が終わってからBFI Southbank内のシアターを移動して見ました。英語題は”Land of Silence and Darkness”。
1月のBFIではWerner Herzogについてのドキュメンタリー”Werner Herzog: Radical Dreamer” (2023)公開に絡めて彼の回顧特集 - “Journey Into the Unknown: The Films of Werner Herzog”をやっていて、こんな初期のドキュメンタリーも見ることができた。
盲聾者 - 視覚と聴覚の重複障害者であるドイツ人女性 - Fini Straubingerが紹介され、彼女の(見えない聞こえない)世界がどんなふうかが示され、彼女が同様の盲聾者を訪ねていって、彼らがどんな日々を送っているのか、を描いていく。彼女は歳を経てから障害者になったのだが、生まれつきそうである青年も出てきて、そういう人達の普段の暮らしの様子とか表情とか - 彼らは当然自分たちがフィルムに撮られていることを - そもそもフィルムや映画がどんなものかすらわからないかもしれないし、どんなに近寄って描写を重ねていっても彼らが自身の感覚で感じとっている世界がどんなものか、表すことはできないし .. そういったことも考えさせつつ、触覚が感覚のすべてであるようなところで例えば水とはどういうものかを知るのにシャワーを浴びたりする姿を追う。
それは本当に「追う」だけですこし離れた傍でカメラを廻していくことしかできないのだが、それでも彼らがそうやっている、生きている姿にはなんだか胸を打たれてしまう。Rolf Illigによるナレーションも最小限のことしか語らない。
彼らは、まだどこかで生きているのかしら? 生きていてほしいな – というか彼らのような人たちは周りにいくらでもいるのだよ、って。
終わって、ごくふつうに自然に拍手が起こって、そうなったことについてもとても納得したのだった。
1.13.2024
[film] Saltburn (2023)
1月7日の夕方、CurzonのBloomsburyで見ました。
英国の階級に関するみんな大好きこてこて変態まみれのドラマなので、こちらではふつうに映画館でかかっていて、そこそこヒットしている模様(11月から公開しているって)。
監督は”Promising Young Woman” (2020)でオスカーの脚本賞を受賞しているEmerald Fennell。プロデューサーにはMargot Robbieの名前がある。
舞台は2006年、不器用で不器量でぜんぜんいけてないOliver Quick (Barry Keoghan)がOxfordに入学して、なにをやってもドジで気弱でバカにされてて、そんななか分け隔てなく接して少しだけ優しくしてくれた、学内の人気者 - その毛並みだけで見るからに貴族のぼん – Felix (Jacob Elordi – “Priscilla”でElvisをやっていた)に魅了されて、いつも学内のどこかにいる彼を目で追っていくようになる。
やがて落ち込んでいるOliverから父が亡くなった、と聞くと、Felixは夏の間、彼の父が所有する豪邸 – Saltburnで一緒に過ごさないか、と彼を誘って、え.. いいの?ってなると、カメラは扉を叩くなり現れる執事からしてなんなのこれ? の世界に入りこんでいく。しきたりも成り立ちもよくわからない貴族社会、そのお屋敷に入り込んだ平民男子のひと夏のめくるめく体験 - 当然のようにウォーの『ブライズヘッドふたたび』なんかを思いだすのだが、あそこにあった戦時の倦怠/退廃やカトリシズムへの行儀のよい目配せはほぼなく、どいつもこいつも冗談のようにリアルっぽい変人ばっかし - 当主のSir James (Richard E Grant)、元モデルの妻Elsbeth (Rosamund Pike)、そのけばい友人Pamela(Carey Mulligan – おもしろすぎ)、Felixの妹Venetia (Alison Oliver)、大学にもいたアメリカ人のいとこFarleigh (Archie Madekwe)、などがなんもしないでごろごろしてて、Farleighを除いたそこにいる全員が田舎者Oliverをペットのように気にいって声を掛けてくれるようになり、そうなるとOliverは..
しめしめ、あの世界にうまくもぐりこめると思ったのに、Oliverのお誕生日にFelixはサプライズで彼の実家へのドライブを決行して、訪ねてみると彼の父は死んでいないし母は薬物依存症でもないごくふつうのおうちだった… Felixのお金持ちの善意が踏みにじら…
これでもうOliverも絶交されて追いだされて終わりかー、と思ったらここから更に蛇のようにぐねぐねしたうねりがやってきて、最後の最後まで気を抜かせない底意地の悪さは”Promising Young Woman”にもあった気がする。はじめのうちはFelixへの同性愛的な執着なのか、それがやがて貴族階級への同一化要求なのかな、になり、最後には裸踊りして地面にひれ伏して、というただの変態なのだった… になってしまうなんだこれは、のかんじ。そこには貴族階級に潜りこんで転覆させる下剋上のスリルも面白さも、確信的で抜け目なく狡猾な悪への執着もそんなになく、彼をそんな半端な変態に留めようとする状況や思いの提示もなく、その反対側にある貴族社会の腐臭やそこへの風刺もなく、ただあるのは期待通りぐにゃぐにゃ変幻自在で捉えどころのないBarry Keoghanの裸でどーん、だけという。
これが00年代だっ、という言い方はできるのか、してしまってよいのかどうか。それはとにかくBarry KeoghanでSaltburnは彼の王国、で説明できてしまって、見ているこちらもそれだけでなんか納得できてしまう、という強さ。”Barbie” (2023)に彼がいたら、Barbie Landももっとおもしろくなったのではないか。
1.12.2024
[film] Anselm (2023)
1月7日、土曜日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。
がらんとしててチケットをチェックする人もいなかったのでそのまま入っちゃったけどよいのか?(ここ、昔からそんなかんじ)
3Dではなくて2Dでの上映、ドイツ語の原題は” Anselm – Das Rauschen der Zeit” – “The noise of time” - 「時間というノイズ」。
Anselm Kiefer (1945 - )の作品とその人のポートレートを同じ年に生まれたドイツ人であるWim Wendersが映像にする。ドキュメンタリー、というよりは戦争直後の瓦礫と焼け跡を背中に背負って生まれたアートとアーティストに関する省察、エッセイ、といった趣きが強い。同じく3Dで撮られた”Pina” (2011)の、彼女への愛に溢れたポートレートよりも、深く切実に自分の足元を見つめ直しているかんじがあるかも。
冒頭、ドレスを纏った頭のない女性たちの像が点々と立って並んでいる屋外の景色から、南仏の広いアトリエのなかを自転車で移動しながら作品を動かしたり作ったり – 火炎放射器で焼いて焦がして、横で水をかけて消火している – Kieferその人の「創作」風景が描かれる。
Kiefer本人だけではなく、彼の子供時代、青年時代も別の俳優を使って描かれたりするものの、彼自身の口から作品やアートについてストレートに語られることはない。作品を - 作品が置かれたり転がったりしているさまを、作品が置かれているランドスケープを見ろ、しかなくて、それが3D、6Kの解像度で示される。我々はすでにどうすることもできなくなった焼け跡や廃墟を見るようにその前にたつ。
ナチスが荒らし、壊して燃やして消尽しつくしぼろぼろにした人と世界、それを受けてなにができるのか、について例えばPaul CelanとMartin Heideggerの関係が、さらにPaul CelanとIngeborg Bachmannの関係が、おなじアートの領域ではJoseph Beuysの試みが紹介される。ナチスのありよう、彼らがやったことに対してのなんらかの距離を示し、その近さ遠さが測られ、それでもアートを「創る」なんてことが可能なのか、可能であるとしたらどんなふうに? 焼いちまえ – ごぉぉー。(2021年、Grand Palaisの展示、見たかったな)
Kiefer作品の掘っても削っても層をなした炭とか泥しか出てこなくて、それでもその上から引っかいたり燃やしたりするしかなくて、それ自体が墓場のように暗く塞がれた視界のなか、そこに置かれたかつて人間だったものの束や焦げ跡は果たしてなにを見るのか、見ようとするのか、という、そんな想定すらもぶち壊すただの黒く畝る塊りとして、ブラックホールのようにして、ただ打ち捨てられてある、その静かな強さ。
今世紀に入ってから随分見ていなかった気がするKieferの作品を久々に見て – というかWendersの目を通して見ることで、改めてこちらに来るものがあって圧倒される。ガザの焼野原の絶望を前に改めて彼が必要だと思ったし、環境系?のOlafur Eliassonなんてほんとどうでもいいわ、って思った。
あと、自国のアートや歴史にこれだけの目を向けることのできる彼が、異国で撮った”Perfect Days” (2023)となると、どうしてあんな甘くてしょうもないものを作ってしまうのだろうか、って。あんなトイレ、Kieferだったら跡形もなく燃やして終わり - 水もかけてやらないだろうにー。
1.11.2024
[art] Impressionists on Paper : Degas to Toulouse-Lautrec
1月6日、土曜日の昼にRoyal Academy of Artsで見ました。まずはとにかくメンバーになっておく。
こっちに来て最初の、今年に入っても最初の美術館になるので一番見たい、好きなのを見ようか、と。
印象派の画家がカンバスではなく紙の上に描いた作品を集めたもの。ドガやロートレックやルドン、モネもセザンヌもゴッホもピサロもモリゾも、はたして印象派に区分けしちゃってよいの? みたいのもあるけど。
ヌーベルヴァーグの作家たちがカメラを街中に持ちだして映像の革命を起こしたように、印象派の画家にとっては紙がそれにあたる、のかしら? 紙と鉛筆、チョークにパステルを外に持ちだしてそこに漂うなにかを描いてみれば、とりあえずその場その時の光や色や風を速攻で捕まえて絵にすることができる – できるのか? - やってみよう - いう問いや試みがあり、そしてそれはカンバスに描かれる絵画とどこがどう違うというのか、と。
それは勿論違っていて、紙の上というのは色彩や陰影、タッチの強弱など、いろんな実験をする格好の場であり砂場の砂であり、デモの映像やマテリアルを作っては表に出すメディアでもあった。ドガのけばけばしい緑色とか、塗り潰されたスーラの黒とか、殴り描きのようなのもあれば、作りこみすぎてわけわかんなくなっているのもある。へーこのひとこんなことをー、の意外性がいっぱいあって飽きない。
いちばん興味深いのはパステルの発色のすごさ、そのビロードの滑らかな、粒だつ輝きだろうか。その効果を十分にわかっていたルドンのは狙ったようにすごいのだが、ドガもゴッホも、彼らの有名な油彩作品よりよほどおもしろい表面を広げて見せてくれるし、セザンヌの水彩の針のような刃物のような鋭さはなんなのか、って。
これらの絵はこれまで規模の大きなレトロスペクティブでもない限り、ふつうの展覧会ではあまり見ることができないものだった。ほとんどの成分が紙と粉なので弱くて劣化しやすいのと、個人蔵でささやかに所蔵されていたものが多かったからだ、って。もう一回見たいかも。
David Hockney: Drawing from Life
上のに続けて、National Portrait Galleryで見ました。
Hockneyの絵画の一番おもしろかった頃って、ドローイングで、ポートレートで、60-70年代だと思っているので、一番かゆくてむずむずするとこが凝縮されたようなやつだった。コロナのロックダウンの時にセレブたちをいっぱい描いた肖像画、やはりあんまおもしろくないのはなんでだろうか。
70年代の、具象にいくのか抽象にいくのか - それらはなにをもってそう呼ばれるのかうーむ、みたいに悩みながら線を引いて面を切っているような、それをクレアやグレゴリーらと対話していくかのように重ねられていく絵たちがすばらしい。そのプロセスと時間も含めて絵としか呼びようのないなにかが滲んでいるようにある、と思った。最近のは描く歓び - グラフィックス! みたいのに溢れているのだが、おじいちゃんよかったねえ、しか浮かんでこないの。
Hiroshi Sugimoto: Time Machine
1月7日、日曜日の午前、Hayward Galleryで見ました。最終日だった。写真家としての活動に絞った展示。
この写真家 - おじいさんは、自分のなかでは割と微妙なところにいるひとで、シリーズの好き嫌いもあって、水平線のと劇場とぼけぼけの建物のは好きだけど、ジオラマとか蝋人形はあんま好きじゃなくて、でも言っていることはなんとなくわかって、Time Machineとしての写真とか、表象の裏側に積まれた時間とか重ねられたロジックとか、ほんとどうでもよいことを嬉々として語るおじいさん、のおもしろさ、それだけでよいのかも。なんだかんだ頑固に一貫していることは確かだしー。
もうこっちに来て一週間経ってしまったわ。この調子で一ヶ月も、一年もすぐに過ぎちゃうんだから、知らんぞ。
1.10.2024
[film] Tension (1949)
(高飛び間際でそんな時間ないのに)新年に見て、まだ書いていなかったやつを。
年の初めのはいつもクラシックを見るって決めていて、でも元旦に開いているとこってイメージフォーラムくらいなので、昨年と同様Carl Theodor Dreyer特集になった。”Vampyr” (1932) – すばらしい初夢、というかなんというか。
1月2日にはシネマヴェーラが開いたので、今年もよろしく~ とは言えないもののしばしのお別れをしに、そして特集『Film Gris 赤狩り時代のフィルム・ノワール』を見て気を引き締める。
ある意味”Vampyr”よかホラーで怖くてためになりそうなやつ。こんなテンションを抱えて一年を送りたいもの – ちがう。
監督はJohn Berry、音楽はAndré Previn。
冒頭、殺人課の警部補がカメラに向かって、容疑者から自白を引きだして解決するやりかたとして、必要なのはテンションだよ、テンションを加えていくこと - 「ぱちん!」て確信に満ちたふうに語ってお話しに入る。
カリフォルニアの24時間営業のドラッグストアでマネージャーをしているQuimby (Richard Basehart)は眼鏡の見るからに真面目さんで朝までせっせと働いてお金を貯めているのだが、妻のClaire (Audrey Totter)はそんな彼に愛想をつかして毎晩夜遊びし放題で、彼ががんばって買った家を見せてもちっとも喜んでくれず、ビーチ沿いに家を持つ金持ちのBarney (Lloyd Gough)のところに入り浸っている。
いいかげんにしろよって、Barneyのところに赴いて直談判したら彼に逆に殴られて、あたまにきたのでこいつを殺して完全犯罪をやったる、って決意して、眼鏡をコンタクトに変えてPaul Sothernという名前で見知らぬ土地に家を借りて計画を練るのだが、借りた家の隣に暮らすMary (Cyd Charisse)と仲良くなったりして、決行の晩も彼の家に入るものの手を下す手前でなんとなくやめてしまう... と、突然Claireが戻ってきて、Barneyが殺された… というと、すぐに警察が現れて心当たりはないか、と調べ始める。
警察は参考人としてPaul Sothern氏を探しているようなのだが、Paulであれ彼になりすましたQuimbyであれ、Barneyを殺す動機は十分にあるし、QuimbyがPaulであることがばれたら – Paulは殺しを実行するために作られたキャラなので、確実に相当にやばい。
本当はいちばん近くにいたClaireがまず疑われてもよさそうなもん、て思うのだが、彼女は警察にうまく取り入って被害者のふりをしているので、どうしよう…
真面目に妻に尽くしているのにちっとも報われない夫の殺意が、いじわるな妻ではなく妻を囲っている金持ち野郎に向かうところとか、その殺人のために作ったパーソナリティに新たな恋が生まれてしまうとか、ここまででやめちゃって十分だったのに殺人事件に巻きこまれちゃってなんてこった.. とか、ぜんぶQuimbyが思った方に向かわないってのに、その反対側でClaireはやりたい放題だとか、そういう事態にいちいちぜんぶ突っこみたくなるのが止まらなくて、それらが最後にどうなるのかー は見てのお楽しみ。
ひとの、世の闇を表にひっぱりだして戦慄するノワールだけじゃなくて、まっ暗どんよりな世で起こったこんな「他人事」をすごいなー、って眺める、そんなノワールもある。
The Big Night (1951)
12月31日、2023年の最後、シネマヴェーラで見ました。
監督Joseph Loseyが赤狩りのためヨーロッパに逃れる前、アメリカで最後に撮った作品。
Stanley Ellinの小説 - “Dreadful Summit” (1948) を彼とJoseph Losey他数名が脚色していて、助監督はRobert Aldrich、ボクシングマッチのシーンで少しだけ画面に出てくる。
17歳の誕生日を迎えたGeorgie (John Barrymore, Jr.)は内気で奥手で自分でもどうしたものかになっていて、バーをやっている父のAndy (Preston Foster)がケーキで祝ってくれても蝋燭の最後の一本を吹き消すことができないでいると、突然スポーツコラムニストのAl Judge (Howard St. John)がバーにやってきて父をステッキでぼこぼこに叩きのめすと出ていって、復讐を誓ったGeorgieは拳銃を手に夜の街に出ていって、いろんな人々 - 教授とその恋人、恋人の妹のMarion (Joan Lorring)、差別的なことを言って気まずくなってしまう黒人歌手、などに会って、お酒を飲んで、恋みたいなこととか、痛い目も含めていろんな経験をしてなんなんだこの世の中は … になる。
大人の世界ってなんでこんなにも面倒で野蛮で生き辛いのか、っていうGeorgieの目線はそのまま嬉々として赤狩りに勤しむアメリカ合衆国にも向けられているようで、そんなところに広がっている”The Big Night”。
これの前に上の”Tension”のJohn Berryが16mmで撮った(この後、彼もアメリカで映画を撮れなくなる)15分のドキュメンタリー作品 - “The Hollywood Ten”`が上映される。10人を淡々と紹介しておかしいだろ? って言うだけなのだが、ちっとも他人事じゃないのよ。
1.09.2024
[film] Aquaman and the Lost Kingdom (2023)
1月6日、土曜日の夕方、Leicester SquareのOdeonで見ました。
邦題は『アクアマン/失われた王国』。もう小さいシアターの方に落ちて来てしまっているので早く見ないと、だった。
関係ないけど、赴任した時に少し嫌になるのが、日本でまだリリースされていないけど、本国ではもう上映を終えていて、結果的に見れなくなってしまうやつ。前のときはJim Jarmuschの”Paterson” (2016)でこれをやられてとっても悔しくて…
久々の英国のシネコン、日本みたいにうるさいマナーCM(マナーCMなのにいちばんマナー的によくない)はないのだが、ふつうのCM – 割とくどくてださくて、こてこてした関西みたいなの – がどさどさとかかって、あー久々だわ、になった。
なにがなんでも見なきゃ、でもなくて、DC Extended Universeの最後のだというし、監督はJames Wanだし、くらい。
前作の終わりで王になったArthur (Jason Momoa)はMera (Amber Heard)と結婚して息子もできて、じじばばも含めて家族で幸せに暮らしていたのだが、Black Manta (Yahya Abdul-Mateen II)はまだ前作の恨みを引き摺って科学者のStephen (Randall Park)と復讐の機会を狙っていたら、古代アトランティスを探し続けていたStephenがそれっぽいところで折れた黒い矛を見つけて、こいつで不思議な力を得ると、さらに掘っていったら海水温度があがって地球がやばくなって、ArthurはBlack Mantaをやっつけるべく砂漠の地下に囚われていたOrm (Patrick Wilson)を外に出して一緒に戦うことにするの。
アトランティスなんかの古代神話系と地球の環境危機と家族愛が絡まって、そこに独自の海産クリーチャー – 海の底にはあんなのがいたんだな、って - が次々わらわらと湧いてくるので、宇宙人とかミュータントどころではない漫画っぽいバカバカしさが全開になってて、その辺は賛否あるかも。 同じ監督の”Fast & Furious”のシリーズにしても、どっちにしても漫画じゃん、はあって、それならもっとバカに徹してくれてもよかったのでは、とか。
でも、舞台を地球の海、にしてしまうと限界、というかどうしても目の前の現実を見てしまうので、むずかしいよね。 Black Mantaがなんであんな脇目もふれずにAquaman憎しなのか、もう前作とか忘れちゃっているし、 あいつよか実際の海を汚しているしょうもない国(うち)とか企業とかじじいとか、そういう小悪党どもをやっつけないで、そういうのなしで、アトランティスもくそもないだろ、っていうのが今ではないのか、になってしまう。 そういう点では”Guardians of the Galaxy”はうまくやったよねー、って。
今回は兄弟愛、みたいのが中心に来たせいか、全体に大変オトコ臭くしょっぱくて、Nicole KidmanもAmber Heardもあんま活躍しなかったのは残念だったかも。嫁姑戦争なんかを期待したのにな。 あと、ミニラみたいな輪っかを吐くあのガキが最後になんかやってくれると思ったのにな。
あと、黒くてかてかしたあの虫がだめな人は注意した方がよいかも。
こっちに来て最初に買った(まだ買うな、家も決まってないのに)本は、SFのFrankel Galleryが2022年にやった展示 - ”Peter Hujar Curated by Elton John“のカタログ - 20%びき - と、Paul Bowlesのサイン本(古書)だった。円安なのでちょっとひどい値段なのだが、まずは記念に。
[film] Priscilla (2023)
1月5日、金曜日の晩、Curzon Soho で見ました。
身の回りがいろいろ落ち着くまで、映画館・美術館などに通うのは絶って、仕事と家探しに集中すべきでは、という天の声が聞こえないでもなかったのだが、目も耳も遠くなってしまったのと今年に入って最初の金曜日だしー、等から簡単に崩れた。
原作はPriscilla Presleyそのひと(とSandra Harmon)による” Elvis and Me: The True Story of the Love Between Priscilla Presley and the King of Rock N' Roll” (1985)、それを監督のSofia Coppolaをはじめ3人で脚色している。こわくて辛い内容だったらやだなー、だったが、Priscilla本人がヴェネツィアに登場していたようにそこまできついものではなかったのかも - 時間が経ってしまったらだけなのか、わかんないけど。
ここを含むいくつかのシアターでは35mmフィルムでも上映していて、その回で見たのだが、これがまた時代とかテーマとかあの時代の色味などを計算していたかのような - もちろん計算したのだろうが - 見事な調和と落ち着きをみせる。フィルム上映だとこんなにも、というその違いとか段差を示すよいサンプルにもなっているような。撮影は Philippe Le Sourd。
冒頭、ふかふかのカーペットの上をペディキュアをした小さな足(の甲)が歩いていって、そこにRamonesの”Baby, I Love You”が被さって、これだけでやられて、PhoenixとSons of RaphaelによるサウンドトラックはいつもながらのSofia Coppolaとしか言いようのないオーケストレーションをもたらして、すばらしいったら。
ストーリーはシンプルで、家族で50年代初の西ドイツに駐留していた15歳 (!) のPriscilla (Cailee Spaeny)が軍にいた父の知り合いの大人に誘われ、同じく徴兵されて現地にいたElvis Presley (Jacob Elordi)の家のパーティーに行って彼と出会って、彼は既に大スターだったのでぼーっとしていたらまた会いたいって呼ばれて会っているうちにどうしようもなく好きになり、両親から相手も相手だけどおまえは未成年なんだからせめて学校を出るまではだめ、と強く言われ、でもElvisから声が掛かり続け、誘われるごとに彼女の想いも募って、卒業試験もずるして通ってとにかく彼と一緒になる。
中心にいるのはPriscillaなので、ぎんぎんのロックスターとしてのElvisは広告とかTVとか固定された華やかなイメージの数ショットにしか現れなくて、でも彼女の目の前に現れるリアルElvisは時計をくれたり車をくれたり犬をくれたりクスリ(錠剤)をくれたり、なに言ってるかわかんないとこもあるけど彼女にはどこまでも優しくて、でも時折不安定になってぶちきれてモノを投げてきたりするのでとても怖い。そういうやさしさとおそろしさの間に囚われて固まって、どこまでも彼にすがって、彼しか見えなくなってしまう少女の姿と、その結果として孤島での孤立した夫婦生活が - いまであれば誰でも容易に想像できるしそこらじゅうに転がっている典型的なスターシステムとDVのありようがあって、でも後半に向かってPriscillaがその恐怖と洗脳に立ち向かい、どうにか自分を取り戻そうとする方へと向かう。
ここにはBaz Luhrmannの”Elvis“ (2022)に出てきたTom Parkerを中心にした彼を取り巻く男たちの病理、彼の周りにあったかもしれない別の地獄、みたいのはほぼ出てこない。 そんなの知るかよ、でよいと思った。 あと、日本だと変な勘違いをする大量のバカ(男)が湧いて出そうなので、上映前に注意書きとか啓蒙映像を加えたほうがよいかも。
偶然なのだろうが、まだやっている”Maestro” (2023)も、50-60年代のアメリカでカリスマ的な才能を持った人気男に惚れて惚れられて結婚した女性の、どちらかというと女性映画だった。 こちらのタイトルも”Felicia”にすればよかったのにね。
1.04.2024
[log] January 03 2024 -
長い一日だった、気もするので備忘(というか後でおもしろがるため)にあったことを書いておく。
旅立ちの朝だったので、7時くらいに羽田に行って荷物を4つ預けて、現地の人たちへのお土産を買って、結局どうにもならなかった円安を嘆きつつ呪いつつ英ポンドに替えて、少しだけラウンジに、と行ってみるとカレー臭が耐えられず(喫煙室と同様にカレー部屋つくれば? あれって異常だよ)、30分くらいで出てしまった。別にカレー嫌いではないのだが、なんかおかしくない?
ようやく飛行機に乗りこんだらぜんぜん動いてくれなくて、説明によると昨晩の事故で滑走路がひとつしか使えなくなり、それによる重量制限対応のため、一部の荷物を下ろさなければならなくなった、下ろされた荷物は翌日のこの便で送って指定された住所に送ります、って。これはやばいかもー と思っているとお客様の荷物はだいじょうぶです、と言われて、でも自分のがそうだったら.. って思うと。こうして機は2時間くらい遅れて動きだし、滑走路上にも当然キューが出来てて、結局2時間半くらいの遅れだったか。でも、あれだけの事故からまだ半日くらいしか経ってないのに飛べたこと自体すごいわ。
機内映画はまーったく見るものがなくて、”Expend4bles” (2023) だけ見た。
過去3作もぜんぶ機内で見ていたかも。いまのこういう状況下(あたまの中も含め)だとああいう戦闘とか爆破とか人殺しのシーンがまったく入ってこない、どうでもいいし、なんでこんな映画が作られてしまうのかしら、むかしは自分もここまでではなかった気がするのだが、だった。映画は中心の主人公というかリーダーが死んでしまって、その弔い合戦という設定なのだが、彼は死んでいないよねこれ、と思っていたらその通りで、みんなそんなふうに実は死んでいなかった、にできたらどんなにか、と。
静かにむかついて混乱してああどうしてくれよう、のかんじになってしまったので、”Barbie” (2023) を見たら少しだけ落ち着いた。ああいう映画のあとに見るとよいのかも。
ヒースローに着いたのは夕方の5時過ぎ、荷物は全体の容量が減っていたからかすぐに出てきて、アパートを見つけるまでの間に滞在するサービスアパートメントに向かう。もう暗くて小雨が降っているのに誰も傘さしていない - のってロンドンだわ。
サービスアパートメントは2017年に来た時にも最初に滞在したところだったし、この界隈も住んでいたご近所だったのでものすごく勝手知ったるで懐かしくて、部屋に荷物を引っ張りあげて当面の水とかミルクとかシリアルとかを買いに近くのスーパーマーケットに行ったら、正月休み最後の夕方だからかろくなもんがないし、かつて使っていたものもラベルが変わったりしていてこれでよいのか、になったのですぐにいらないものは保留した。
晩御飯は近くのBYRONでバーガーをいただいた。ロンドンにいくつかあるチェーンで、アメリカのややふにゃっとしたのとは違う、ごつごつした、ごくふつうのバーガー。あと、ここのシェイクはバーボンとかラムとかのショットを追加できて、これをのむと割と簡単に眠ることができる。
こうして部屋に戻って横になったら簡単に落ちて、いくつか変な夢をみて、起きだしてから荷物を開けていなかったことに気づき、BBCの”RAYE at the Royal Ablert Hall”を見ながらアンパックした。あれこれめんどうだー、なのだがどうせやらないと、なのでやっているうちにこんな時間に。
1.02.2024
[film] Perfect Days (2023)
12月29日、金曜日の午後、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
年明けにみたら気分が悪くなってよくないのでは、という予感があったので年末で片付けといた。
監督はWim Wenders、脚本は彼と電通のひと。カンヌで役所広司が男優賞を受賞した作品。
キャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」、だってさ。 下の句は「苦労はしねえよ!」だわ。
個人差はあるのだろうが、全体としてものすごく気持ちのわるい、土建屋やディベロッパーや代理店のよく作り込まれた宣伝ビデオにしか見えなかった。うそばっかり! とまでは言わないけどこれが”Perfect Days”というタイトルでほんわかと受けいれられてしまう空気に対する怖さ、ってある。
東京スカイツリーが近くにある古い木造アパートでひとり暮らしをする清掃作業員 - 平山(役所広司)が朝暗いうちに起きて、髭を整えて顔を洗って階段を降りて(ここなら階段落ちがある/できる、と思ったのになかった)、自販機で飲み物を買ってワゴン車に乗りこんで、カセットテープの音楽を聴きながら公衆トイレに行ってルーティーンの掃除していく、そんな日々と重ねられていく彼の周りのエピソードを細かく追いながら、特に大きな事件もなくてよかったね明日もがんばろうかー、で終わるの。
清掃を中心とした仕事とその周辺で起こる小さな出来事についてはふつうによくできていて、それは最後に字幕の説明つきで映しだされる「木洩れ日」のように陽や風のありようによって自在に姿形を変えて、でも目の裏に像として残る美しい模様を描いて和ませてくれてよかったねえ、なのだが、そんな木洩れ日を作ってくれる樹木を根こそぎ切り倒して金儲けしようとしている側の連中が企画している映画なのだって冗談としか思えないし、そう思うとあの「木洩れ日」映像のあとに「XX不動産」とか「XXホーム」とかのロゴが入ってもおかしくないし、入れてくれた方がまだすっきりしたかも。
そもそもが渋谷区内17か所の公共トイレを刷新するプロジェクト「THE TOKYO TOILET」のPR目的 - 役所広司もその制服を着ている - で企画されたものだそうなので、そこで映しだされるトイレはクリーン(であってほしい)に決まっているし、その周りにいるホームレスと思しき男(田中泯)も変な動きや踊りをしたりするだけで静かに雑踏の向こうに消えていく。あんなふうに音もなく幻のように消えてほしかったのだろうねえ。
彼が60-70年代のロックではなく”Pretty Vacant”でもがんがん鳴らしながら、トイレの個室で「◯X」ではなく、破壊計画に関わるメッセージをやりとりして、田中泯が安保闘争で殺された学生が変転した天使か亡霊だかで、そして個々の「個性的な」トイレをその個性に応じた機能不全に落として小パニックを連鎖させていくようなドラマだったら、まだ見る気がしたのになー。助成金とかは出なかったろうけど。
彼が過去に背負ってきたであろうもの、いまも傷として抱えている(かもしれない)なにか、そこに触れる必要はないのかもしれないけど、施政者やその下でそれを請けている業者がああいう労働に従事せざるを得なくなった人たちをどう扱ったり見たり(見るようにしむけたり)してきたのか、がふつうに知っていることとして挟まってくるので、彼はその仕事にやりがいと誇りをもって取り組んでいるのだとしても、なんだかとてももやもやする。
ここで描かれる平山の一日の活動すべてがあのトイレと同じようにクリーンな律儀さで並べられ、彼は周囲に待遇や収入や物価高や生活苦にグチや文句をこぼすことも、泥酔して迷惑をかけることもなく、せいぜい欠員で自分の仕事が回らなくなった時に声を荒げるくらい、代理店が理想として描く従順で帰属意識の高いいち市民としてあって、ちょうどコピーライターの糸井なんとかが犬猫は文句を言わないから大好きだ、と讃えたあれを思い起こさせる。犬猫だって怒る時は怒るわぼけー。
脚本はそういうヒビや傷みなどを見る側に意識させることがないように漂白・去勢され、監督が意識したであろう小津的な規律で主人公たちの表情や俯きを追うカメラだけがその不穏さ、怪しさを木漏れ日のなかにぼんやりと映し出す程度。
NYのCBGBのトイレも、Londonの公衆トイレも、めちゃくちゃ汚れてて酷いものだったが、それらは街の様相やアウラやその魅力を貶めたり損ねたりするようなものではまったくなかった。クリーンであるに越したことはない、のかもしれんが、駅のホームでも通路でも電車内でも下品で幼稚なケバケバしい広告まみれにして、その反対側でゴミ箱も浮浪者も見えないところに追いやって、みたいなことが街の魅力(どんなもんであれ)をあげることに繋がるって信じているのだとしたら、そのアタマって相当にやばいよ。
というような、五輪や万博や神宮再開発を前にした時の、なんでこんなことを欲にまみれたくそじじい共にわからせなあかんのや、の不快感や無力感が前面に出てきて思い起こされて、ちっともよいとは思えなかったの。
荷造りなどをしながらだらだら書いていたら、羽田でとんでもないことが起こって、明日の午前、本当に飛べるかどうかわからなくなってきた(... だいじょうぶっぽい)のだが、とりあえず空港に向かうしかない、のかな。
[film] Francesco, giullare di Dio (1950)
ここ1年くらい、ここに書く感想は1エントリーでMS Word換算で1500文字以上、を自分で勝手に目標として課していたのだが、その長さでやっていくのが面倒になってきたので、もっと短いのでもよいことにした。異議なし。
12月24日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。 邦題は『神の道化師 フランチェスコ』、英語題は”The Flowers of St. Francis”。デジタルリマスター版での公開。監督はRoberto Rossellini、脚本はRoberto RosselliniとFederico Felliniの共同、音楽はRenzo Rossellini。
この映画は、おおおお昔に三百人劇場で見た時に衝撃を受けて、90年代のNY、Kim’s Videoでどこかのシネマテークが作った怪しげなVHSを高い値段で買ったり、日本でDVD化された時にもすぐに買ったり、自分が生涯ベストのようなものを選ぶ時には必ず入ってくると思われるやつなので、当然みる。
14世紀前半に書かれた名詩選、逸話集をベースにしたエピソードが10あって、ウンブリア地方のフランシスコ会修道士の(ほんもんの)人たちがフランチェスコとその兄弟たちを演じている。
1210年に、ひどい雨のなかの泥道をフランチェスコと11人の信徒たちが向こうからずぶ濡れの小走りでやってきて、農民の小屋に入れて貰おうとするのだが農民とロバに占拠されていて追い出されて、でも彼らの役に立ったのだからよかったではないか、とか言うのが冒頭。
すべてがこんな調子で、フランチェスコたちがいかに聖人で奇跡とかすごいことを為した人々だったか、その教義や秘義がどんなだったか、を描くのではなく、向こうからわらわらやってきてなんか与えたりやられたり、向こうからやってくる誰かを迎えたり受けいれたり、お許しください、って泣いてしまったりそういう姿ばかりが描かれていく。 夜中にハンセン病の人がひとりとぼとぼと通り過ぎた時も、フランチェスコは泣いて抱擁してあげることしかできない。
どんな状況にあっても隣の人に向かって布教をする、お祈りをする - そうして神の近くにあろうとすることがすべてで、そのために周りの人々からどんな苦難を侮辱を迫害を受けてもへっちゃらでにこにこしているの、そんな、どちらかと言えばいけてない姿が描かれるだけで、宗教劇にありそうな感動的な、啓示をもたらすその瞬間とか輝けるなにかとかを見せてくれることはちっともない。ただ向こうからやってきて一緒に暮らして、最後のエピソードでみんながみんなに別れを告げて、別々の方角に散っていく。本当にそれだけで、それなのにいつも半泣きのようになってしまう。
べつにキリスト教者である必要なんてない、それでも隣のひとにやさしくあろうとすることはこんなふうにして可能なのだ、と、それは隣のひとを貶したり暴力をふるったりするのと同様に、あなたにもできることなのだ、そこに完全なる歓びはあるのだよ、ってフランチェスコたちは映像でおもしろおかしく語りかけてくる。どっかの宗教法人のいんちき啓蒙動画の1000000倍くらいは見る価値があって、いま、この世界でもっとも必要とされる目線をもたらしてくれるなにかだと思う。
とにかく、どうかみなさん、ご無事で、しかない…
1.01.2024
[log] Best before 2023
新年あけまして.. どころではなく、北陸の地震を被ったみなさま、どうかご無事でありますように。
そして、いまの世界にあるいろんな苦しみ悲しみから救われますように。虐殺と戦争が一刻も早く終わりますように。お願いだから。
2023年の最後に見た映画はJoseph Loseyの”The Big Night” (1951) - 『大いなる夜』でした。2024年最初に見たのは、たまたまつけたBSでやっていた”The Blues Brothers” (1980)で、これを無視することはできないので、みた。劇場では、イメージ・フォーラムでの”Vampyr” (1932)が最初の一本。帰ってきて、Netflixで”Rebel Moon: Part One - A Child of Fire” (2023)を見ていたら地震が…
[film]
2023年、映画は配信、短編も含めると463本見ていた(うち配信は32本、シネマヴェーラでは90本..)。見た順で。
[新作10+]
▪️Empire of Light (2022)
▪️Saint Omer (2022)
▪️Hommage (2021)
▪️Les passengers de la nuit (2022) - 午前4時にパリの夜は明ける
▪️Esterno notte (2022) - 夜のロケーション
▪️The Novelist's Film (2022) - 小説家の映画
▪️Große Freiheit (2021) - 大いなる自由
▪️Barbie (2023)
▪️Passages (2023)
▪️Los delincuentes (2023) - 犯罪者たち
▪️O Trio em Mi Bemol (2022) - 変ホ長調のトリオ
▪️May December (2023)
▪️Kuolleet lehdet (2023) - 枯れ葉
▪️Showing Up (2022)
[やっぱりこれらも]
▪️Magic Mike's Last Dance (2023)
▪️Tori et Lokita (2022)
▪️Un beau matin (2022) - それでも私は生きていく
▪️Le otto montagne (2022) - The Eight Mountains - 帰れない山
▪️Indiana Jones and the Dial of Destiny (2023)
▪️夢の涯てまで (2023)
▪️Nimona (2023)
▪️Revoir Paris (2022) - パリの記憶
▪️Killers of the Flower Moon (2023)
▪️あずきと雨 (2023)
[ドキュメンタリー]
▪️Harlan County U.S.A. (1976)
▪️日本原 牛と人の大地 (2022)
▪️NOUS (2021) - 私たち
▪️Los Angeles Plays Itself (2003)
▪️Voyage à travers le cinéma français (2016) - フランス映画への旅
▪️Fashion Reimagined (2022)
▪️Angelheaded Hipster: The Sound of Marc Bolan & T.Rex (2022)
▪️Writing with Fire (2021) - 燃えあがる女性記者たち
▪️Loving Highsmith (2022) - パトリシア・ハイスミスに恋して
▪️My Name is Alfred Hitchcock (2022)
▪️Gaza (2019) - ガザ 素顔の日常
▪️Zorn I (2010-2016) + Zorn II (2016-2018) + Zorn III (2018-2022) (2022)
[旧作いっぱい] - 見た順
▪️Les vampires (1915)
▪️女の暦 (1954)
▪️Toute une nuit (1982) - 一晩中
▪️Nil by Mouth (1997)
▪️Ők ketten (1977) - マリとユリ
▪️EUREKA (2000)
▪️Van Gogh (1991)
▪️Schatten der Engel (1976) - 天使の影
▪️Lady Chatterley (2006) - レディ・チャタレー 完全版
▪️Maine Ocean (1986)
▪️Les naufragés de l'île de la Tortue (1976) - トルテュ島の遭難者たち
▪️La maman et la putain (1973) - ママと娼婦
▪️Numéro zéro (1971)
▪️Minnie and Moskowitz (1971)
▪️Stop Making Sense (1984) IMAX
▪️浮雲 (1959) IMAX
▪️月夜鴉 (1939)
▪️Je l'ai été 3 fois! (1952) - これで三度目
ギトリとイオセリアーニとユスターシュとフォードだった。アサイヤスも。
今年は、”Oppenheimer”が顕著だったが、洋画の本国リリースからの遅れとか配信のみとかそれすらない、などの多さがとても気になった。結局はビジネスだし売れるか売れないかだし「コンテンツ」だし、でもだからって今の邦画のあんなアニメとかヤンキーみたいなのばっかしでいいの? 業界のひとたち?
[art] ... ロンドンでがんばる
▪️ヴァロットン―黒と白 @三菱一号館美術館
▪️諏訪敦「眼窩裏の火事」 @府中市美術館
▪️Donatello: Sculpting the Renaissance @Victoria and Albert Museum
▪️Cezanne @Tate Modern
▪️Very Private? @Charleston
▪️合田佐和子展 「帰る途もつもりもない」 @三鷹市美術ギャラリー
▪️佐伯祐三 自画像としての風景 @東京ステーションギャラリー
▪️自然という書物 15~19世紀のナチュラルヒストリー&アート @町田市立国際版画美術館
▪️スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた @国立西洋美術館
▪️After Impressionism - Inventing Modern Art @National Gallery
▪️Hilma Af Klint & Piet Mondrian @Tate Modern
▪️「あ、共感とかじゃなくて。」 @東京都現代美術館
▪️Gabrielle Chanel. Fashion Manifesto @Victoria and Albert Museum
▪️Christian Marclay: Doors @White Cube Mason's Yard
▪️ジャム・セッション 石橋財団コレクション × 山口晃 ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン @Artizon Museum
▪️特別展「やまと絵-受け継がれる王朝の美-」 @東京国立博物館
▪️女性と抽象 @国立近代美術館
▪️奈良美智: The Beginning Place ここから @青森県立美術館
▪️北宋書画精華 @根津美術館
▪️倉俣史朗のデザイン - 記憶のなかの小宇宙 @世田谷美術館
[theatre] - 見た順で
▪️NTL: Leopoldstadt (2022) @Tohoシネマズ日本橋
▪️The MET Live - The Hours (2022) @東劇
▪️NTL: The Crucible (2023) @Tohoシネマズ日本橋
▪️Hamlet à l'impératif ! ハムレット (どうしても!) @ 静岡県舞台芸術公園
▪️The MET Live - Don Giovanni (2023) @東劇
▪️Groundhog Day @Old Vic
▪️NTL: Best of Enemies (2023) @Tohoシネマズ日本橋
▪️Vanya @Duke of York's Theatre
[music] - まずは体力の方をなんとかしないと。ロンドンでがんばる。
▪️The National + Patti Smith and Her Band @Madison Square Garden
▪️PJ Harvey @Roundhouse
▪️Quasi + toddle @ 新代田Fever
今の時点で、2024年がどんなふうになるのか、住むところも仕事の詳細もこれからなので、まずはそっちだし見当もつかないし、とにかくよいものに出会えますように、体だけはなんとかなりますように、しかない。
というわけでパッキングとお片付けを続けまする。
とにかく地震と津波、みなさまどうかご無事で。