9月17日、金曜日の晩、シネマヴェーラのサイレント映画特集で見ました。ここまでくると止まらない。
Fritz Langがサイエンスフィクション大作 “Metropolis” (1927)の次に撮った作品。お金をかけた割に興行的には難しかった“Metropolis”のあと、世界はこうなる、から、今の世界はこんなふうだ、って肌身に近い生々しい接近戦を重ねて煮詰めていった国際スパイアクションで、おもしろいったらない。オリジナルは178分らしいがムルナウ財団が2004年に実施したリストレーションで143分。原作は彼の妻Thea von Harbouによる同名小説、脚本はふたりの共同。 イギ`リスとアメリカでの公開タイトルは”Spies”。
自分がFritz Langを知ったのは前世紀に千石にあった三百人劇場での『死刑執行人もまた死す』(1943)のリバイバルのときで、この時は散々すごいんだから、っていろんな人に言われて見たらほんとにすごくて驚異的でこの辺から昔の映画にはまるようになった。以降、Langはなにを見てもすごい(Lubitschも同様ね)になっているのでこれもとうぜん。
冒頭、金庫の鍵を開けて書類を盗みだして、移動(逃走?)中の銃撃があって、国を跨いだ電波塔のあいだを電波が行き交って.. 一次大戦後の世界がまるごときな臭くやばい方角に向かい始めた頃、政府には市民からなにをやってるんだ/やられてるんだ、の文句が来始めたし、身内の諜報員はやられてばかりなので、あまり外部に顔を知られていない切り札の諜報員326 (Willy Fritsch)を投入するのだが、敵側はそんな奴知ってるわ、ってロシアのスパイSonya (Gerda Maurus)を彼にあてがってとにかく潰せ、って。
最初から顔がわかっている悪の首領は大銀行のトップにいる車椅子のHaghi (Rudolf Klein-Rogge)で、大勢の人がわらわら蟻のように働く要塞のようなピルのどこかに潜んですべてを掌握して操っていて、彼には何を隠してもムダ、誰も逆らうことができなくて、ロシアで兄弟を殺されたSonyaにもああはなりたくないだろう、とか言うし。
他にも阿片に浸っているマダム - Lady Leslane (Hertha von Walther)を脅して巻き込んだり、日英同盟策定の中心にいる松本アキラ (Lupu Pick)のところにはKitty (Lien Deyers)を雨のなかの捨て猫にして寄り添わせたり、欲しい情報を手に入れて敵を潰すためだったら脅し・ゆすり・強奪・誘拐・偽造・逃亡、色仕掛けなんでもやるし裏切り者は死んでもらうし、ばれてもばらしても死んでもらうし、どうしようもないの。
複数のスパイ工作を並行して流しつつも、あっと驚く真相が明らかになったりどんでん返しがあるわけでもなくて、善玉と悪玉は見りゃすぐわかるし、画面の上では起こったことしか起こらない。すべての暴走も裏切りも殺人もハラキリも部屋の中か外、窓の内側か外側、壁のこちら側か向こう側、国境線のこちら側か向こう側のどちらかで起こって、どちらかの側に非情な、虫ケラの死をもたらす。 唯一、内側と外側の見境いがつかなくなって双方に決定的にやばいなにかを晒してしまうのが326とSonyaの恋で、なのでこれはものすごくデンジャラスで甘美な恋の物語でもある。
クライマックス、Haghiのビル内に毒ガスが放たれてどこかに消えてしまったかに見えた彼がどこで、どういう形で姿を現し、そして再び消えるのか - ここのテーマはやがて『死刑執行人もまた死す』でも変奏される、というか国家だろうがなんだろうが巨大組織と個人は常にこういうかたちで騙して殺して滅びるのだざまあ、っていうLangの根っこにある冷たい認識がくっきりと浮かびあがってすごいねえ、しかない。こんなのが第二次世界大戦の前に作られて、それでも、もちろん戦争を防ぐことなんてできなかった、と。
ここには悪も正義もない。悪も正義も存在しない、というのではなく、それらが本来機能すべき方に機能せず、スペクタクルとして消費され続けるばかりの現在を正確に照射している。丁度“Metropolis”が「進歩」の概念を無化したのと同じようにー。
松本アキラの机の上とかにある新聞の広告 - 婦人公論? とかが気になった。どこで手に入れたんだろう。
9.24.2021
[film] Spione (1928)
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