7月14日、土曜日の夕方、BFIで見ました。英語題は”The Eyes, The Mouth”。
BFIでは7月に”Satire and Morality – The Cinema of Marco Bellocchio”ていうMarco Bellocchioの回顧特集上映があって、監督本人もトークで来たりしていたのだがぜんぜん行けなくて、終わりの方の数本を見れただけだった。 そしてものすごく後悔している。おもしろいのが多すぎる。
ボローニャの街に俳優のGiovanni (Lou Castel)が降りたって、ぜんぜん帰りたくなさそうに実家に戻ると双子の弟が棺桶に冷たく横たわっていて、こめかみには銃弾の跡があって、自殺したのだと。(80年代初の大晦日、花火があがる中、自殺しちゃう若者が出てくるイタリア映画、確かあったよね)
その理由や背景を探るというより、後に遺されたGiovanniとか母(Emmanuelle Riva)とかおじ(Michel Piccoli)がどんなふうに死を受けとめて変わったのか/変わっていくのかと、婚約者だったWanda (Ángela Molina)のあまり悲しんでいないふうだったところが気になったGiovanniは彼女と過ごしていくうちに親密になってしまったりとか。それって不謹慎とか言うのかどうなのか、それを言うなら突然命を絶ってしまったあいつの方だろふざけんな、などなど。
『ポケットの中の握り拳』(1965) - (実は見てない)に続いて家族の中心の主人公にLou Castelを置いたことについて、Marco Bellocchio自身がミスキャストだったと語っていたり、彼の双子の兄弟も68年に自殺していることなどを考えると、簡単に括ってしまうことができない作品なのだと思うが、自殺しようが生き返ろうが、遺されたものはのこって、遺された彼らの行動や言動、表情(目と口)がどんな歪な形や軌跡を描くにせよ、少なくとも家族というものが消滅することはない。 そんなふうに変容しながらもそこに遺っていく家族のありようがやや過剰に表現されたのがこの作品なのではないか。
というのと、これはそれぞれの置かれた場所で強烈な輪郭を見せる俳優たちの映画でもあって、終始でっかい音をたてまくって睨んでくるLou Castelにしても、その反対側で消え入りそうな – でも絶対に消えない聖母の柔らかさで立ちつくしているEmmanuelle Rivaにしても、更にその反対側で不敵に笑っているÁngela Molinaにしても、みんなあまりに強くて濃い。双子の片割れからすれば - 自身の半身が失われ、母からすれば子供たちの半分がいなくなっても彼らが凝視して食いしばる世界は頑としてそこにあって対峙しているかのよう。なんでだろ?
それを、間違っても家族ばんざいとか、だから家族ってすばらしい、にするのではなく、この逃げても振り切ってもどこまでもしつこくまとわりついてくるやつ(ら)、なんなの? って何度も何度も問いかけてくるの。
家族内のミクロな諍いや瓦解がそのなかにどのような波紋を投げて揺らして、それでも彼らを家族の規範とか規律のなかに留めているものがあるのだとしたら、それって何なのか。そこにこそ社会が社会として維持される秘密や神秘もあって、同時にそれを転覆したり変異させたりする可能性も見えたりするのかもしれないけど、でもそれにしても … みたいな革命への野望とその足下の泥沼を並列させる目線がおもしろくて、これ以外で今回見たBellocchio作品でも主人公は医者だったり画家だったり映画監督だったり、彼らは社会的には成功していて「全体」を見れる立場にいる人達なのに実際にはいろいろあってぼろぼろで死んでたりして、なにやってるの? だったり。
ていうようなことが、今回の特集でひとつひとつを見ていくとわかってきて、ひとりの作家を追いかけるおもしろさがしみじみわかって、よかった。
ところで、リビングで子供たちが見ていた日本語のアニメ、あれなんだろ?(「xxx提督!」とか言ってた)
8.02.2018
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