20日、金曜日の晩、リフォームして再開された(ただしリフォーム前は知らず)SouthbankのQueen Elizabeth Hallで見ました。
この日の朝にNYから戻って会社に行って、会社では目がしんでる顔がしんでるとか散々言われて、好き勝手言うくせに帰してはくれなくて、ぜったい寝ちゃうよなと思いつつ行ったけど、こういうのはぜったいに寝ない寝れない。
昔の話をすると、彼の渋谷Live Innでの初来日公演(86年?)はそれはそれはとてつもないもので(最前列に巻上さんが並んでいた)、それ以降しばらくの間、彼の来日公演は通うようになって、最後に見たのはおそらく川崎クラブチッタでの、John Ellis(ex. The Vibrators)と一緒にやったときのではなかったか。それでも軽く1/4世紀ぶりくらい。
昨年のCafé OTOでの3日間公演は売り切れてて見れず、自分にとっては最も英国的なアーティストのひとりでもあるので、なんとしても見たくてチケットは出てすぐに買った。前から2列め。 客席は断言していいけど圧倒的に50代以上ばっかし。若者なんていやしないの。
ステージ上にはグランドピアノとアコギ1本だけ。全身真っ白の服で、真っ白の短髪で、ひょろひょろで風吹いたら飛んでいっちゃいそうで、だいじょうぶかしら、だったのだが勿論だいじょうぶなの。 最初はピアノを前にした”Don’t Tell Me”で、昔からこの曲はオープニングで、打鍵も歌声も割れ鐘のように強く響いて鳴り渡る(ホールなのでやかましいくらい)。
曲は今世紀に入ってからのと昔の(70-80年代。”The Silent Corner and the Empty Stage” (1974)からのとか)を交互に演奏していくのだが、製作年代の間のギャップは全くない。ぜんぶ今のPeter Hammillの音にしか聴こえない。
途中でギターに切り替えての弾き語りになるのだが、いわゆる弾き語りではぜんぜんなく、ピアノをぶっ叩くのと同じ強さ、弦を切るような勢いで引っ掻いていく。このひとのエレクトリックギターの刃物のようなストロークが大好き(特に”Nadir's Big Chance”とか”Over”の頃)なのだが、その硬い質感はアコギでも十分に感じられて、ギターパートの最後にやった”La Rossa” – VDGGの – はみんな立ちあがって大歓声だった。再びピアノに戻ってからは新しめのが続いて、でも最後は、“Refugees” (1970) – これもVDGGだった。
所謂プログレッシブ・ロックの(思索系の)人達がやってきた自己認識(→ 狂気)や時間認識(→ 歴史)の相対化ということでいうと、この人は常に自分の内なる狂気と(そいつを飼い慣らしたり庭で育てるかのように)向き合ってきて、それはもう一人のPeter (G)の仮面や仮装に仮託したり反射したりしながら共犯者を増やしていくやり方とは異なり、極めて英国的に執拗で籠っていて表には気軽に出てはこなくて、でもこうして削がれて転がされて現れてくるのが彼にとっての生で、これ以外に何を歌えばよいのか、と。 これまで同様、ぜーんぜんメジャーなところとは関係ないところでこれからもやっていくのだろうけど、いやーそれにしても、強烈すぎる。 久々になにかを思い出した気になった。
(同じ系列で括ってしまうのには抵抗があるのだが)24日の晩、Tangerine Dreamを見た。
場所はUnion Chapelっていう教会のお堂で、これまで見たことなかったし、2015年にEdgar Froeseが亡くなってどうなっているのかとか、あと前座がRichard Barbieriだったので今どんなのやっているのかしら、と。
この日、BFIでの映画とぶつかっていて、映画見たあとに向かったので結局Richardは見れず、メインが始まっている状態だった。教会のでっかいホールに3人、そこの天井やステンドグラスをいかしたライトショウがんがんで、きれいで壮大で荘厳なのはよいのだが、やっぱりなんか違ったかも。70年代のこういう音が今の時代の技術によりテクノとかアンビエントとかニューエイジみたいなところに寄ってしまうのはしょうがないのかもしれないけど、なんかわかりやすすぎる適用のされかたで、でもかつてはそういう明快さとかわかりやすさを求めて彼らの音を聴いていたわけではないよね、とか。
4.25.2018
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