4.23.2018

[art] Before the Fall: German and Austrian Art of the 1930s、他

15日、日曜日の美術館関係のつづき。
Neue Galerieのオープンは11時なのでMetを見た後にこちらに来る。

Before the Fall: German and Austrian Art of the 1930s

ナチスのダークサイドに堕ちて没落していく30年代ドイツ、オーストリアのアートはどんなふうだったのか。気分が晴れ晴れする展示ではないけど、こういうのは目の玉ひんむいてでも見ないといけないものなの。肖像画、静物画、風景画、人物写真、風刺画、メディアに掲載されたもの、などなど。

作家はMax Beckmann, Otto Dix, Oskar Kokoschka, Alfred Kubin, Max Ernst, August Sanderといった大御所以外にも いろんな作家が。 静物画ですら暗く、どこかしら誇張されたり歪んだりしているようで、これは単に心象風景というより実際にそうだったのだろうな、としか言いようがない迫力というか説得力に満ちていて、でもそれでなにかを止めることができたのかというとできなかった。できるとも思えなかった、そんないろんな力のせめぎ合いが縁から滲んでくるかのよう。

例えば米国のGrant Woodの一連の作品(Whitney Museumでの”Grant Wood's American Gothic”、無理しても見にいけばよかったかも)との違いとか、比べてみてもよいかも。

風景画のFranz Sedlacekとか、Georg School の”Female Nude on the Sofa” (1928) とか、すばらしいのもあった。カタログは、当然のように買った。
そこから少し下ってThe Met Breuerに移動してふたつ。

Like Life: Sculpture, Color, and the Body (1300–Now)

ここの2フロア分を使った展示。思っていたよかぜんぜんおもしろ。
彫刻作品における生々しさ – 生きてるみたいに見える – って、どういうことなのか、という角度から古今東西の人体(含. パーツ)の彫刻作品を並べてみて、例えば色がついているとどう? とか素材の肌理がこんなだとどう? とか、本物ぽいって、だからって何?(笑)とかいろんなことを聞いてくる。

それに対してこっちは、うーんなんかきもい、とか、やられた、とか、あとちょっと、とか、あんた誰? とか返したくなって、返してみればそいつは15世紀のやつだったりする。
太古の昔からいちばんこれの槍玉(ていうか)にあげられてきたのは言うまでもなく神さまで、それは神さまがここに現れたらぜんぶ解決するんだから、ていう強くしぶとい願望と共にあって、その熱が昂じてどれだけ上手く騙せるか、みたいなとこに行って、やがてはこんなことまでできちゃったのよ、になった、のかしら。時系列ではなくテーマ別の展示で、時系列だともう少し解りやすくなったのかもしれないが、たぶんこっちの方が頭を掻きまわしてくれておもしろい。彫刻のリアリティって、絵画のそれとはまったく別の角度から、生理的なとこも含めて揺さぶってくるんだなあ、って。

Leon Golub: Raw Nerve


NYのアーティストLeon Golub の1940年 から2004年までの作品を集めた展示。タイトルは彼のエッセイにあった”Artists manage extraordinary balancing acts, not merely of survival or brinkmanship but of analysis and raw nerve.”から来たもの。

入口に10人の裸の男達が延々殴り合いをしている大作”Gigantomachy II” (1966)が置かれ、今回の展示はこれと、生首がぶら下がる”Vietnamese Head” (1970)の収蔵を記念したものだという。戦時(彼の場合はベトナム戦争)に顕著に表れる独裁やテロによる暴力や野蛮をダイレクトに描いたRaw Nerveにびりびり来る作品ばかりで、でもそれのみではないbalancing actも確かにあって、それが作品に普遍のなにかを持ちこんでくる。(暴力が普遍、ていうことではなくて)

ランチを食べて、一旦荷物を部屋に置いて、レコ屋と本屋を経由してBoweryのICPに走りこむ。

Then They Came for Me: Incarceration of Japanese Americans during World War II

第二次大戦時、米国は自国にいた120,000人の日系人(合法滞在していた市民)を収容所に送った。その暗くて重い史実をDorothea LangeやAnsel Adamsの写真を通してドキュメントする、というもの。写真に写っているのは自分の祖母や祖父の写真と同じような服装で、顔つきと表情で、そこにいる。 そこにいた。彼らはこの写真のあと、どこに行ってどうなったのか。

日本人だからどう、ということではなく、普通に(悪いこともせず)暮らしていた人々が突然の号令と共に生活の場から引き剥がされて有無を言わさず監獄送りになって囚人として虐待されたり殺されたりした、それがある時期に世界のあちこちで起こって、それは今も起こっていたり起こる可能性がある(あるよね、特にあの腐りかけた国)、ということ。 それを具体的な出来事としてイメージするには『火垂るの墓』なんかよかこっちの方が確かかもしれないね、とか。

Edmund Clark:  The Day the Music Died

911以降のアメリカで、「テロとの戦い」の名の元にGuantanamo Bayからアフガンまで、CIAや合衆国が裏に表に繰り広げてきた公だったり闇だったりの暴力、拷問、虐殺等々を入手可能な資料やイメージから再構成して可視化したもの。こういう情報の常としてマスクされたものはマスクされたものとしてそのまま提示されているのだが、でももうわかるよね。我々が享受できている(と信じる)「平和」の床板ときたら薄いベニヤ板一枚っきりで、その下には国家によってオーソライズされた暴力や憎悪が渦を巻いているのだと。

受刑者を眠らせなかったり錯乱状態に置いて尋問する際に使われたBGMのリストが貼ってあって、この展示タイトルが含まれる”American Pie”もそのリストには載っていて、場内ではこの曲がエンドレスで流れている。このことを知った瞬間に、子供の頃から慣れ親しんでいた甘い音楽は死ぬ。でもそれ以上に、実際に死んでいる人はいっぱいいるのだと。

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