23日の金曜の晩、British Libraryで見た、というか聴いた、というか。以下ざっとメモの書き起こし。
ここには別に講義用のホールもあるのだが、閉館後のエントランスホールぜんぶに人を入れて、結構広いとこなのにSold Outしてて、19:30の開場時にはなかなかの行列ができてた。
お題は間もなくリリースされる彼の6枚組CD Boxセット”Music for Installations”に因んだもので、会場ではBowers & Wilkinsのばかでかいスピーカー(なんか「売り」らしい)から彼のInstallation musicがぼうぼうに流れている。
Enoのインスタレーションと言えば、83年くらいに赤坂でやったのがあって、その時は会う人ごとにあれ見なきゃだめよ、って散々言われ続けたのでぷーん、てむくれて当時はお金もなかったし行かなかった、そういう思い出があるの。
19:30開場で始まりは20:30から、ベンチみたいな椅子は後ろのほうにしかないので、ぶおぶお鳴り続ける彼の音楽に包まれて立って待つ。客層はほんと幅広くて、お年寄りから若者まで、普段図書館に来ている層とほぼ変わらないかんじ。
最初に図書館の偉いひとから挨拶があって、Eno先生が登場し、つかみで自分が最初のインスタレーションをやろうとした時のものです、と65年、ばかでっかいシルクハットを被ってなんかやってる写真が。
講義はOHPを使って手元の本を見せたり、PCの画面を映したり、別のPC経由でモニターから音も出したり、会場のあちこちに置いているCDプレイヤーからも音を出したり、ただのトークやレクチャー、というより明らかにパフォーマンスのよう。音楽そのものに加えて、音楽の置かれ方とかそこに向かう態度とか考え方とか志向といったところまで踏みこんであれこれ語ってきた彼であるからして、ここで展開されたのはBrian Enoのパフォーマンスと言うしかないの。
最初に”Discreet Music” (1975) から、当初Robert Frippの演奏のバックに - タペストリーのように - 流しておく ことを想定して作られたこれの原理をPC上のグラフィックで説明してくれる。 まずわかりやすいシンプルなノートを反復させて、ここにもうひとつ、長さもトーンも異なる別のノートの反復を重ねてみる、このふたつの重ね着だけで次の同じループにぶつかるまでに相当な時間がかかるようになる、そうやって生まれてくる複雑さが起点。これを別のかたちで説明するサンプルとして、机の上の振り子の実演 - 関節がいっこの振り子を回転させるだけだとその動きも減衰も予測できるけど、その腕の関節をいっこ増やしてみるだけで、予測不能な複雑骨折の動きを見せてくれるでしょ、と。
Simplicityの衝突がもたらす無限の、エンドレスのComplexity、その驚異。
それから昔、ヘルシンキのイベント会場で流されたサウンド・インスタレーションの簡単な再現。
会場のあちこちに置かれたCDプレイヤーからそれぞれ別個にシンプルなノートを流していくだけなのだが、ここには二度と起こすことのできない、常にそのフォームを変えていくので今ここでしか聴くことのできない音、常にnew versionとして聴こえてくる音があって、その創作過程は建築家が建物を作っていくというよりは、庭師のガーデニングに近いものなのだと。 整合、同期、同調を目指さない音。
この辺から彼のアートに対する考え方に入っていって、若い頃は画家にも音楽家にもなりたくて、あの当時の多くの若者と同じくまずはバンドに入ったわけだが、70年代頃から先のようなビートもメロもない(ということでプレスから散々に言われた)、多数のチャネルを持つが決して繋がっていかない音、空間を支配する – でも何もしない音への志向が出てくる。 ここではカンディンスキーの無題の絵画、ラウシェンバーグが町を散歩していく冒険のようでありたいと語ったアート、アートは常に哲学(Philosophy)を具現化(embody)するものだと教えてくれたケージ、等が言及され、自分のは川辺に座って川を見ているような気にさせる音楽 - 一瞬で現れて消えてしまい永遠に戻ってこない/永遠に去っていく音を目指すのだと。
これらの音は、複雑性(Complexity)がどのように世界にもたらされたのかについての洞察を、複雑性を軸として世界(の見方や概念)を変えるには何が必要なのか、そこにおいてアートはどんなふうにあるべきなのか、といったことを考えるきっかけを与えてくれるのだ、と。
そういうアートのありようは、今の社会のとにかくトップダウンで同期や同調や注意喚起を求めてくる流れや態度とは根本的に相反するものであり、我々のアートに接する態度にしても、とにかく写真撮ってInstaしたりTweetしたりすれば経験したことになって、今ここで生起する瞬間を生きようとしないのもトップダウンで降りてくるなんかのあれである、と。
自分の音楽をセラピーと結びつけて考えるのは好きではないが、ブライトンの教会でのインスタレーションをきっかけに現地の医師から依頼がきて、そのインスタレーションのミニ版を病院の一室に作ったことがある。そこでは、自分が別の人であるかのように感じさせてくれる空間、自分ではコントロールできない - 別の(Digestiveな)神経系が働いて、Surrender, Let Go, といった感覚を呼び醒ますことを意識した、と。 (いまもあるのかしら? 行ってみたい)
最後にまとめとして、昨年のカザフスタンの万博で建築家のAsif Khanと彼がデザインしたUK Pavilionで流していたインスタレーションの一部をPCから実演 - 昨晩ずっと作っていたので眠いけど、とか言いつつ。
さらにダメ押しというか念押しのように、とにかくアートが何になるのか、何をしてくれるのか、それが何を意味するのか、といったしょうもない問いとか、答えを求めるのをやめよう。日本の展覧会に並んでいる観客をみろ、彼らはみんなラベルの解説を見るばっかりで絵そのものをちっとも見ようとしないではないか。
(ほーら言われた。見なきゃ損、みたいに煽ってばかりの今の日本の美術マーケティングはほんとに最低だとおもう。競争原理みたいなことしか言わない政治家もクズだけど)
更に余談のように(ぜんぜん終わらない)、昨日ジャーナリストに聞かれた、これまで聴いたなかで最も非包括的(incomprehensive)な音楽は?という質問について。 ひとつはバンコクできいた中国のオペラ - 音楽はユニバーサルでカルチュラルなものであるという概念を軽く打ち砕いてくれた。もうひとつは、これとは全く異なる角度で、Derek Baileyの音だと。inadequateな、そこにあるだけの音に対する賞賛と共におわった。
あ、あと最後の最後にUniversal Basic Incomeについても言及してて、あーそこまで行くのかあ、そりゃそうよね、て思った。
とにかく、ある程度予想はしていたものの、約1時間強でここまで包括的に、わかりやすく語ってくれたことに感動した。アートと社会の、アートと意識のありよう、SimplicityとComplexityのせめぎ合いを実演込みで見せて、しかもそれはEnoその人のどこまでも一貫しているアート観に留まらず近現代アート史のある側面にも接続されているという魔法、そしてそれに触れることがインスタレーションの複雑系の経験にまで拡がっていくという。根っこからラディカルだよね。音だけだとぜんぜんそう思えないけど。
館内に期間限定で、EnoshopのPopupをやっているというので帰り際に寄ってみたが、食い荒らされてほとんど残っていなかった。Enoデザインの壁紙(PCのじゃなくて巻物の)がちょっと素敵だったけど、貼るとこないので諦めた。
あしたからMadridに行って絵をみてきま。
3.29.2018
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