13日の火曜日の晩、BloomsburyのCurzon(のドキュメンタリー専用のシアター)で見ました。
フィギュアアイススケートをスポーツというよりアートの領域まで高めた最初の人で、94年にエイズで亡くなってしまったJohn Curryのドキュメンタリー。
こないだのオリンピックのフィギュアは(いや、フィギュア以外もだけど)なにひとつ、録画すら見ないまま、実況に熱狂する人たちのTweetとかTV画面に反応したりしなかったりの猫動画とかを見るだけで終わってしまって、こんな人でも見ておもしろい映画なのか。
でもこないだ、”I, Tonya”を見たときに、スケートってサーフィンと同じくらい映画との相性ってよいのではないか、と思って、そういえば中間にスケートボードっていうのもあるよね、とか思ったりして、見にいった。 当然サーフィンのドキュメンタリーとはぜんぜん違うのだが、例えばなんもしなければ滑って飲みこまれてしまうところをいかにバランスをとって毅然と美しくあることに集中できるか、というあたりをたった一人で突きつめていく、という点は近いのかも、とか。 サーフィンも実況を見たりやったりするわけではぜんぜんないのだが。
John Curryは76年のインスブルック五輪で金メダルを獲った英国人で、でもあまり知らなかった。カルピス劇場のCMのジャネット・リンでフィギュアを知った – ムーミンとロッキーチャック(山ねずみだよ)とジャネット・リンを並列の森の生き物として認識していた – ものとして、知らないってないんじゃないか、と少し思ったが記憶にはなくて、でもここで知ってよかった。
映画は今の地点から彼の友人知人が振り返るところと映像として残されている彼自身の歩みを交互に映し出しながら進むのだが、こういうことを成し遂げたひとに限って、なんて言ってしまってよいのかどうか、やはりぜんぜん幸せとはいえない何かを抱えこみながら進んでいくのだった。
本当はバレエをやりたかったのに父親に女々しいからだめ、って言われてスケートに進み、スケートでの美を追求すればするほどゲイ疑惑報道が膨らみ、選手引退後に自身で率いたカンパニーでは負債を抱え、ゲイをカミングアウトしたと思ったらエイズに倒れる。この人が本当に自分の思うままに滑らかに滑って翔んでいくことができたらどこまで行けたのだろう、って。
それでも、残された記録映像(ほとんどが唯一確認されているような客席から撮ったビデオとか)が示す彼のフィギュア(というかダンス) - “Don Quixote”や”Scheherazade” - は神か… と呟くしかない驚異に溢れていてものすごい。バランスといい安定感といいしなやかさといい、今のフィギュアのそれとは根っこから異なる美が統御していて、それは彼の身体でなければ実現できない類のものだったのだと思う。 だからこそKenneth MacMillanやPeter MartinsやTwyla Tharpといったバレエ界の大御所が彼のために振付をしたのだろうし、でもそれはもうニジンスキーやヌレエフと同様、擦りきれた写真や映像の向こうにしか存在しない。
最後に少しだけ出てくるJohnny Weirが羨望するのはとてもよくわかるの。
彼の時代のフィギュアと今のフィギュアの比較に意味があるとは思えないのだが、それを美しいと感じたのであればやはり自分の目で追い自分の首をまわしてきちんと見ておいたほうがいい、ていうことは間違いなくいえる。 METのオペラハウスに氷を張って滑ったなんて、見たかったなあ。
というわけで、自分はここしばらくバレエを追ってみようかな、と。
3.23.2018
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