3日の雛祭りの晩、BFIのBergman特集で見ました。原題は”Efter repetitionen”。元はTV用に撮られたもの。
昨年9月にBarbican TheatreでIvo van Hove演出 - Toneelgroep Amsterdamによるこれの舞台版を見てから、その元の映画版は絶対に見たいと思っていた。
大御所の演出家のHenrik (Erland Josephson)が次の舞台 - ストリンドベリの“A Dream Play” -のリハーサル後、舞台セットの机でまどろんでぼーっとしていると、主演女優のAnna (Lena Olin) が忘れ物のブレスレットを取りに戻ってくる。 そのブレスレットの魔法なのかなんなのか、たわいない会話からHenrikがなぜ彼女を主演に選んだのか、彼が女優に求めるものはなにか、みたいなセンセの演劇論説教が展開される .. かと思いきや、Annaの母 - アル中でHenrikの愛人だったRakel (Ingrid Thulin)が現れて、さっきの問いのカウンターのようないちゃもんを若い頃のHenrikにか現在のHenrikにか投げつけてねっちりと絡んでくる。
時間の切り取り方が現在から見た過去に向かっているのか、過去のある地点を切り取ったものなのか、あるいはAnnaを通してかつてのRakelを ~ 老いて手に負えなくなったRikelを見ているのか。場面場面の繋ぎにギャップがないのでどの時点の、どの地点の話なのか見えにくくて、でもそれはマイナスではなく、過去から吹き溜まる時間や出来事の集積場としての舞台の上で、舞台の上でしか起こりえないようなことが、だからどんなことだって起こりうる、という形で舞台の全てを司る神である演出家の上に降りかかってきて、ううむ、っていうメタ演劇を映画にしたもの(演劇の可能性を映画にしかできない形で表現する)、ということでよいのかしら。 これが古くから続く演劇人一家を中心に据えた”Fanny and Alexander” (1982) の後に撮られた、ていうのは興味深いこと。
一瞬だけど、若い頃のHenrikとして、Alexander (Bertil Guve)の姿が映る。あの演劇人の家に生まれて舞台のミニチュアで遊んでいたAlexanderがやがてHenrikになる ... 好色家の家系の血はそのままに、とかね。
昨年の舞台版との比較でいうと、舞台版はドラマが舞台上ではなく控室のような部屋で展開されて、時間はシーケンシャルにしか流れないし過去の記憶や夢との混濁を表現するのは難しいので、母娘とひとりの男の確執を描く(それだけじゃないけど)ような骨格のドラマになっていた(同時に上演された”Persona”との関係もこの線であれば整合するかしら? 安易すぎかしら)
シンプルで長くなくて、でもものすごくいろいろ詰まっているのでもう一回見たい。
Hour of the Wolf (1968)
3日の夕方、“After the Rehearsal”の前に見ました。これもベルイマン特集で、原題は”Vargtimmen”。 ベルイマンのホラーだって。
失踪した画家で夫のJohan (Max von Sydow)について語る妻のAlma (Liv Ullmann)の独白が、7年前に島の一軒家に船で渡ってくるところから始まって、初めは庭の木のこととか創作に集中できるとか喜んでいるのだが、だんだんにJohanが夜が怖い、眠れないって言い出すようになり、昼間の行動も常軌を逸してきて、やがて変な老婆が現れて彼の日記を読むように言うので見てみると…
島にあるお屋敷に暮らす怪しい住人たちとかの描写も既に狂っているJohanだけに見える世界なのかもしれないし、あるいはAlmaだってひょっとしたら、なのかもしれないし、後半の狂った世界は確かにゴスで暗くてMax von Sydowの長顔とかカラスとか洞窟とかピストルとか仮面とかおっかない要素はいくらでもあるのに、そんなでもないのはSven Nykvist さんのカメラが静かで落ち着きすぎててホラー向きじゃないからかもしれない。 というか、怖い映像ってどういうものかしら? って確かめながら撮っているようなかんじがあって、ベルイマンのだと、テーマ的にはこれよか深くて底なしに怖いのがいくらでもあるので、あんま来ないの。
多分、「呪い」みたいな要素が明確に出てくれば怖さは増したのかもしれないけど、ベルイマンの映画って、生きていること=すでに呪い、みたいなとこあるしねえー。
でもホラー苦手なのでこれくらいでちょうどいかったかも。
3.11.2018
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