8日、月曜日、公演最終日の遅い方の回のを見ました。
また場所が変わっていたブルーノート(みっつめ?)、昔の席配置の、いじめかというほどのきちきち感はなくなって少しは音楽を聴かせるスペース、のようにはなっていたけどそれなら椅子もテーブルもとっぱらって立ったり踊ったりできるようにしたいなー。
わたしのJohn Caleライブ歴は、88年のパルコ劇場でのソロ(Nicoはいなかった)、90年のLou Reedとの"Songs for Drella"、92年末のNYUでのSterling Morrisonとのduo(最後の方でLou Reedが入った)。 特に初めて見たパルコ劇場のソロは86年のPeter Hammillのソロと並んで決定的で、これからもずっとついていく、と心に刻んだ。 バンドを後ろに置いて、しかもエレクトリック中心のライブは今回のが初めて。 いやでもだからといって、まったく心配も過度の期待もなく平熱で、John Caleのライブを聴きにいく、というのはそういうことなのだ、と。
膝までの短パン、とっても上機嫌で元気いっぱい、声も漲っていて、この声にg(+ 電楽)、 b、 dr(+ 電楽)、Cale自身のkey(たまにギター)が絡む。 全体のかんじはついこないだのパリでのライブにも参加していたAnimal Collectiveみたいな、少し昔のAvan Pop/Post Rockふう、ところどころちりちりノイジーで固くて、静かめの曲でも決して耳触りのよい音ではなくて、でも彼の歌の縁に纏わりついて壊すようなことはしない。 なかでも音数の決して多くないDeantoni Parksのドラムスの作りだす間を強調した打突の微細な強弱は絶妙で、Caleの呼気と同期しているかのようだった。
そして彼の声。どんなノイズにも轟音にも濁流にものまれることなく一点を見据えて揺るがず、エモに流されることも撃たれることもない、ものすごく硬い彫刻のような声。 これを聴けるのであれば曲なんてなんでもいい(とまでは言わないけど)。
この音と声、質感で自身の70年代のレパートリーも、"Sunday Morning"も"I'm Waiting for the Man"も淡々と。
Lou Reedの曲って、この2曲もそうだし"Walk on The Wild Side"にしても、基本的には自分の外に対する呼びかけ- 睨みつけ、なんだおめえは? で、これに対してCaleの歌は(Nicoもそう)内なる自己に対する呪詛だったり苛立ちだったり諦めだったりが多くて、歌については相反するベクトルをもったふたりだったと思うのだが、ここでのCaleはあの頃の人混み - 雑踏 - Undergroundを抜けて、Lou Reedとの間で無数に交わされたであろう目配せを、呟きを、当時の、ではなく今の微細で柔らかな電子音響(それをVelvetsと呼ぶか?)で毛布のように包んでこっちに投げつけてくる - "Watch out the world's behind you … ” って。
それは"Songs for Drella"でAndyを送ったときのものと同じだったのか違ったのか。
ここで、"I'll be Your Mirror"なんかが流れたら泣いてしまうかも、と思ったけどさすがにそれはなかった。
それにしても、"Hanky Panky Nohow"でシンガロングや手を右左、がおこる - しかもブルーノートで、なんてものすごくありえない気がした。どういう夢だ、とか。
1時間半びっちり。まったく緩むことなく放電していて、こっちも地味ながらずうっと痺れて、ああなんて声なんだ、ばかり言ってた。
8.11.2016
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