8.30.2016

[film] I Am Not a Hipster (2012)

会社休んで健康診断いった。 不健康診断ですな、ていわれた。 ぷん。

7日の日曜日の晩、”We Are the Best !”に続けてみました。 これも音楽映画。
「わたしたちは最高だ」ていう映画のあとに「わたしはヒップスターではない」ていう映画を見る。
どうしろっていうのか。

San DiegoでBrooke Hyde (Dominic Bogart) ていうシンガーが小さな小屋でライブをしようとしていて、1曲やったところで気持ち悪くなってトイレに駆けこんで、なんでこんなことになっちゃったんだろ、と。

ひとり宅録して作ったアルバムが向こうのインディーシーンで評価されてカリスマ扱いされるようになってしまったBrookeの周辺で、しょうもないアーティスト気取りの奴がマネージャーみたいなことを始めたり、その紹介でラジオ番組出たらろくな質問されずにうんざりしたり、元カノが業界DJみたいなちゃらい奴と一緒になっていたり、周囲がみんな自分の行きたいほうをぜんぶ潰したり塞いだりに来ているような気がしてぐったりしていたら彼の姉3人と父親が様子を見にやってきて、いいから家に泊めさせろ、という。 

ねえねえそもそもみんな陽気でガレージなSan Diegoなんかに来たのがいけなかったんじゃないの? とかつっこみたくなるのだが、かしましい3人の姉たち(過去になにかあったらしい父親は車に隠れて出てこない)の登場は彼の顔を少しだけ日向に、子供の頃のスイートな日々に向けさせて、なんかよくなったかも、音楽つくれるかも、になっていくの。

そんなに笑えるところはなくて、自分で自分のために音楽を作ってそれを知ってもらったり売ったりしていくことの(あたりまえだけど)地味な大変さとか、孤独であること/孤独になれないことの面倒臭さがあまりぱっとしないBrookeの風貌と共に描かれていく。 というアート/音楽(のコミュニティ)映画として見る、というよりも、家族みんなで浜辺に行ってぼんやり空を見上げたりするところのほうが印象に残って、そっちのほうかも、と思ったり。 でもだからといって現実離れしたかんじはない。 そういうなかでしか音楽は生まれてこないのだね、という淡々とした決意があるだけ。

“Short Term 12” (2013)の監督 - Destin Daniel Crettonのデビュー作で、あの映画でのBrie Larsonの眼差しが経緯とかよいわるいを超えて圧倒的に正しく、強くあったのと同じように、この映画のDominic Bogartの目もあって、それがあるだけでよいと、監督が伝えたいのはこれなのかもしれない。

Brookeが作って歌う曲も含めて、音楽は”Short Term 12”でも担当していたJoel P. Westさんで、なかなかすばらしい。 “Grandma” (2015)もこのひとだったのね。

8.29.2016

[film] We Are the Best ! (2013)

週末、いきなり発熱したり目がまわったりして、はんぶん死んでた。

8月7日、日曜日の夕方、花火大会と法事から都心に戻ってきた夕方、新宿のカリコレでみました。 
ちなみに今年のあんず飴は3本。

なんかすごくよかった。 
Rolling Stoneの”25 Greatest Punk Rock Movies of All Time”にも入っているし、Sight & Soundの”Thurston Moore’s top 10 punk rock films”にも(なかなか殺伐としたリストのどまんなかに)入っているし。

80年代初のストックホルムで、家族にも学校にもうまく馴染めない中学生の女の子ふたりがいて、でもものすごく馴染めない、とか虐待されている、とかそういうことではなくて、例えば家族はしょうもないけどそれなりに仲良しでいくらでも遊んでくれそうで、でもなんかそういうのじゃないし、学校も行きたくなくなるほど嫌だったりつまんなかったり、ということはないのだが、とにかくみんなガキっぽくてつきあってらんねー、だったり、なんでスポーツばっかりやらされるんだよ! だったり。

当時の、現地のパンクを聴いてもいるけど、それ以前のところでなんか気にくわないことだらけで、きちんと説明できるわけでもないし説明したくもないし、暴れたいけど暴れられないし、暴れたり壊したりしたい、ていうのとも違うの。 公民館みたいなとこ行ったらバンドが練習していて、あたしらもやってみようよ、て貸出可能なベースとドラムスを手にして、ばしゃばしゃやってみて、なんか叫んだら曲みたいになった、気がした。

そこからは楽しくて没頭するようになって、楽器ができるやつがいないとだめだわ、ってクラシックギターを黙々と弾いていた不愛想なクリスチャンの女の子をスカウトして、そんな環境と境遇なのになぜか彼女は乗ってきて、バンドみたいになっていくの。

ふつうのよくできたストーリーであれば、ここからバンドは一生懸命練習して上達して人前でやれるようになって、クライマックスのステージには神が降りてきて一同鳥肌、みたいになるはずなのだが、決してそうはならない。 (種類はぜんぜんちがうけど同系のバンドもの、としての"Sing Street"はこれと比べたらよくもわるくも相当に幸福な映画だとおもう)
バンドのかたちができようとも、レパートリーが少し増えようとも、練習して少しはうまくなったとしても、彼女だちは社会化されたバンドの子にはならずに、不機嫌な面持ちを崩さずに不機嫌なままひとりとひとりとひとりでそこにあろうとする。

それゆえにどんなひどいことになっちゃったとしても(なっちゃうんだけど、最後のほうで)、べつにへっちゃらで、ふつうに"We are the Best !”て言い切れてしまう。
それはかつて同じ80年代初、San Pedroに実在した3人組バンドが"We Jam Econo"とさらりと、でも確信をもって言い切ったこととも呼応して不思議な感動を呼ぶの。

8.26.2016

[film] The Shallows (2016)

出張前のトラックにもどる。 8月3日、水曜日の晩、日本橋でみました。

「浅瀬」 - このタイトルであんなものが出てくるなんて。 邦題は、『ロスト・バケーション』?

Nancy (Blake Lively)はメキシコの奥のほうの母の思い出が残るビーチにひとりでやってきて、いろいろ準備してサーフィンをしようとする。
ひとりでそんなとこにきてなにやってるのか、については妹との電話でうかがうことができる程度だが、特別に強い思いとか感傷的ななにかがあるわけでもなさそうで、とにかく波に乗って休暇を楽しみたいらしい。

浜辺には頭にカメラをのっけた陽気な青年ふたりが先にサーフィンをしていて、暫く一緒に流したあとで彼らは帰っていって、そしたらでっかい鮫がきて、脚をがぶーってやられて、ボードも流されちゃって自在に動きまわることはできなくなり、海に入るとやられる可能性が高いので浜からの救助を待つしかなくなってしまう。 

やがて地元のひとと思われるおっさんが浜に現れたので手をふるのだが、おっさんは酔っぱらっているらしく、Nancyの荷物を物色してかっさらったあと、何故か海にじゃぶじゃぶ入ってきて自分から鮫の餌食になり、ふたたび現れた若者ふたりも来ちゃダメーって懸命に騒いだのにやっぱしあっさり餌食になり、3匹たべたんだし、近くには鯨の死骸だってあるし、もうじゅうぶんなんじゃないか、と思うのだが、なんかぜんぜん物足りないらしい。 そんなにさみしいのか、腹へってるのか。

そこから先は、失血と寒さで体力の消耗がはげしいのと、潮の干満と、助けは来るのか呼べるのか、ていうのと、いろんなののせめぎ合いがじりじり来るのだが、鮫はそんなの知ったこっちゃなくて、ちょっとでも海に浸かると口あけて秒速で襲ってくるばかりで、能も芸もない。

"Die Hard"と"Home Alone"を、自然のまんなかで、めげない女性で、あたま空っぽ鮫一匹 vs とっても頭いい女一匹のシンプルな戦いにして、怒涛の勢いで一気に持っていくかんじ。 相手が鮫なのでつっこみようもない。 唯一つっこみどこがあるとすれば、Nancyって、なんでそんなにあたままわるの? なんで諦めないの? くらい。

ひとりぼっちで海の上、というときの地点A、地点B、とか、距離の測り方、とか遠いかんじ、とか、おもしろいなー、と思った。

どんながんばっても結局やられちゃう皆殺しの浜、みたいなテーマでもおもしろかったかも。
シリーズ化すればよいのに。 鮫の次は熊、とか。

8.25.2016

[log] NYそのた -- August 2016

今週、ありえないくらいだるくてねむすぎる。

NYでのあれこれ、だけど、London - Luxと比べるとあんまし、ぜんぜん、ない。
こないだ休みで来たばっかりだし。 それにしては走ってばかりいた気が。

レコード屋はAcademyの12thでrat at rat rの12inchとGeneration Recordsで変な7inchを4枚買っただけだった。
Numeroの箱 - "White Zombie: It Came From N.Y.C."が欲しかったのだが、こないだはあったのに、もうなくなってた。ちぇ。

本屋は走りまわりながらMast BooksとMcNally Jackson。 あんま買わず。 Londonでいっぱい買っちゃったし、こないだも買って帰ったし、いいかげんにしなさい、って。
Mast Booksのおにいさんにはまたあんたか、て顔された。

食べものではいっこ、Grand Centralの駅のコンコースにGreat Northern Food Hall ていうのができていた。
Nomaの共同創設者、Claus Meyerがプロデュースする北欧ごはん - いろんなサンドイッチ、デニッシュ、クロワッサン、ライ麦パン、いろんなパン、飲み物まで。 なんでこんな場所にこの規模で北欧? なのだがおいしいんだから文句ない。

http://greatnorthernfood.com/

そのなかのGrain Barていうとこ(平日は朝6:30から開いてる)で、Pearl Barley - 大麦のあったかい桃のおかゆ(Porridge)をたべた。 ほんのり甘い大麦のとろとろに桃のコンポート(アメリカの桃はそんなに甘くない)とヴァニラシュガーが絡めてあって、泣きたくなるような柔らかさとほんのり感。 地の果ての、ものすごく過酷でぼろぼろになった状態でようやくありつくことができた、みたいな状況を想像して、じぶんの手とかをぼーっと見つめながら食べてみるととっても沁みてたまんない。おかゆは5種類くらいあって、この一杯$7を高いと思うか安いと思うか、だろうけど、こんなに神経を弛緩させてくれるご飯もめずらしいと思った。そのまま布団に戻りたくなる。 時間があったら全種類制覇してみたい。

サンドイッチバーにあった卵サンド +でいろいろ足してくれるやつも土曜日の出発の朝に試して、黒いブロックみたいなライ麦パンを買ってかえるかどうか悩んで、結局あきらめた。 
いつまで持ちこたえてくれるかわかんないけど、ここは間違いなく使える。

あと、Grand CentralのVanderbilt Ave側の隣のブロックがまるまる更地になっていてびっくり。

それ以外のごはんは、日本食に引きずり込もうとする現地勢力から逃げまわって、18日にはLupaに、19日にはPruneにいった。 疲れていたので、いつものとこにしたくて。

Lupaのパスタの、なんともいえないコシの粘りと強さは相変わらずだったし、タコとタンを合わせてなんであんなふうになってしまうのかちっともわからないPruneの謎、も健在だった。 このへんの、シンプリシティと結びついた頑固さ、その強さについて考えて、おねがいだからどちらもなくなりませんように、てお祈りした。

Prune, 夜遅かったけど、道路に面した扉をぜんぶ開け放っていて気持ちよかったなー。

帰りの飛行機は、既に書いたように機内で4時間以上待たされて、もう見てない映画もほとんど残っていなくて、かといって邦画なんて見たくもなかったので、ふてくされてごろごろ寝るしかなかった。でもごろごろにも限界があって、1本くらいは。

Kung Fu Panda 3 (2016)
1は見ていなくて、2は飛行機で見たけどほぼ忘れちゃっていて、でもわるくなかった。
地の果てでゆらゆら暮らしている亀仙人のところにかつて親友だったけどいまは宿敵の牛野郎が現れて、今の俺は無敵だぞって暴れて仙人を封じこめてしまうの。 現実界でのんきに修行とかしているパンダのポーのとこには父親だっていうパンダのリーが現れて、でもそこにも牛の魔の手がのびて、仲間も師匠も石になっちゃって、牛を倒せるのは気功しかない、ってポーは父親と一緒に最後の切り札になるかもしれない伝説のパンダの国に向かう。でもそこにいたのは並のパンダの群れで、みんなごろごろしているばかりでさー。

修行をしたみんなで力を合わせればどんなすごいやつでも倒せる、ていうのと、修行っていうのは畢竟、自分が自分のなんたるかを知ることである、ていう王道の様式があって、最後の戦いは段取りみたいなとこも含めてちゃんとしたカンフー映画のアクションができていて感心した。

実写のカンフー映画とのちがいはなんだろね、と思って、それは痛み、痛そうな描写とその表現ではないか、て思った。 アニメだといててて、みたいなのを描くの、難しいのではないか。

音楽はソロのピアノはLang Langだし、ソロの太鼓はSheila E. さんだよ。

これ、映画館では公開しないでNetflixのみなのかー。 TVはやなんだよなー(← 衛星もケーブルもNetflixもHuluもない)

ほかには、半分寝ながら"Captain America: Civil War”とか見てた。 “Civil War”ていうのは、Queens vs Brooklyn のことだよね。

他にもあった気がするが、いまはとにかくねむいわ。

8.24.2016

[log] Londonそのた - August 2016

LondonとLuxembourgのそのたあれこれ。

14日、Rough Trade Eastで買ったレコードは、 Malcolm Middletonのソロ7inchとか、Warpaintの7inchとか、Dean Warehamの10inchとか、地味なのばっかし。

Rough Trade Eastで、買った本:

Thurston Mooreの詩集 - "Stereo Sanctity Lyrics & Poems"のサイン本

Rough Trade - 40th Anniversary Journal
ここも40周年で、写真とか記事とかいろんなコメントたっぷり。 でもGeoff Travisは関わっていないようで、どういう位置づけのもんなのかよくわからず。でも内容は凄まじく充実していて、コメントを寄せているのは、Brian Eno, Bill Drummond, Daniel Miller, Viv Albertine, Jon Savage, Vivien Goldman, Simon Reynolds, Agnès B., Ana da Silva (ドローイングも), The Raincoatsのコンピのライナー用にKurt CobainからAna da Silvaに宛てられたFAX, Jeannette LeeとJarvis Cockerの対話、Thurston Moore … などなどなど。
写真だと、レーベルと契約したその日に倉庫の段ボールを背後に幸せそうにポーズをとるMorrissey & Marrとか。
最後のページは、Courtney Barnettさんの大書きのメッセージ  - 「ロンドンに来てもどうしていいのかわかんないけど、Rough Trade Eastだけは地図なしでも行けるんだ!」 
ぼくもおんなじだよ!!

わたしにとってレーベルとしてのRough Tradeはほんとうにほんとうに大切で、この本も涎たらしながらめくっている。 今年の宝物。

In Loving Memory of Work : A Visual Record of the UK Miners Strike 84-85
Second Editionで、表紙にシールがぺたぺた貼ってある。序文はKen Loach。
映画"Pride"(2014)の舞台にもなった84 - 85年の英国炭鉱ストのヴィジュアルメモリー。 
当時の写真、ビラに看板、支援のためリリースされたレコードのジャケットまで。当時は聴こえてくる音楽からしか窺うことができなかったあれこれを改めて。
これが今、出版されていることの意味は、たぶんある。

http://www.inlovingmemoryofwork.com/

Barthus 2015年、パリのGagosian Galleryでの展示のカタログ。
18日の夕方、橋の向こうのTate Modernに走って行ったのになかに入れなかった、でもShopは開いていたので悲しみで錯乱して買ってしまったやつ。

Luxembourgの街中を散策する時間があったときに美術館一軒に入った。

Musée National d'Histoire et d'Art   (National Museum of History and Art)
常設展はタダで見れたので少しだけ。
René MagritteとPaul Delvauxはさすがによいのがあった。
あと、土地の画家としてJoseph Kutter (1894-1941)のコーナーがあって、子供とかピエロとかところどころ不気味ですてきだった。

羽田からロンドンへの機内でみた映画とか。

Irrational Man (2015)
もう新作が本国では公開されているWoody Allenの。邦題は教授のなんたら。
7月10日に有楽町で見ているのだが、このとき、時間を間違って冒頭の15分見れていなかったのをここでリカバーした。

プロビデンスの町の大学に哲学の教授Joaquin Phoenixが赴任してきて、優秀だけど変人らしいて噂がたって、確かに本人はいつも酒を携帯して鬱っぽくて危なっかしくて、同僚のParker Posey(夫あり)も生徒のEmma Stone(彼あり)もそこに惹かれていって、特にEmmaとは仲良くなっていったある日、カフェで悪い判事のはなしが耳に入って、こいつ許せないしなんとかならないかしら → 死んじゃえばいいのに → 殺しちゃったらどうか → 自分だったら完全犯罪できるかも、てJoaquinは考え始めたら止まらなくなって、そしたら途端に明るく生き生きしてきて、Emmaとも親密になっていって、勢いで計画も実行しちゃって、うまくいったかに見えたのだが。

カントやキルケゴールの倫理学を教えている彼 - 世の不条理あれこれで半分死んでいた彼 - がエアポケットのようなところで発見した完全犯罪への抜け道、それが半分死んでいた彼を活性蘇らせて、恋愛まで燃えあがるのだが、こんどは一回転してぽっかり穴で、というお話しのつくりとしてはパーフェクトだし、ぽっこりお腹のJoaquinもぜんぜん学生にみえないEmmaもすばらしいのだが、この、なんかノレないかんじはなんなのか。

London - Luxembourgの往復は1時間ちょっとなので映画なんてもちろんない。
London - New York間のフライトで見たやつ。

Joy (2015)
ずっと見たくてたまらなかったのに日本ではやってくれない。 こんなにおもしろいのに。
魔法のモップとかハンガーの発明で通販の世界に旋風を巻きおこした実在の主婦 - Joy Manganoをモデルにしたお話し、なのだが、映画化の段階で相当いろいろ添加されて実際/実物のお話しとはかけ離れてしまったらしい。 けどおもしろければそれでいいの。

冒頭からJoy (Jennifer Lawrence)は子持ちで離婚してて貧乏で、ex.夫 (Edgar Ramírez)はヴェネズエラ人の売れない歌手で別れたあとも地下室に住んでて、母は壊れててTVの国の住人で、工場経営している父(Robert De Niro)は操業も帳簿も女性関係もめちゃくちゃで、そういう壊れた家族の間をJoyはをくいしばって泳いでいるのだが、自分で開発したモップで当てるしかない、とがむしゃらにあがいていくうちにTV通販のQVCにぶつかって、そこのBradley Cooperの助けとかも借りながらのしあがっていくの。

David O.Russellお得意の、箍が外れて転がり落ちていく一族郎党が、転がり落ちる勢いそのままになにかを打ち壊してなにかに勝ってしまって、よくわかんないけどすげえだろ、てふんぞりかえる、そのうさん臭さも含めてたまんないやつ。

かんじとしては"The Fighter" (2010)にちかいかも。
でも、好き嫌いでしかないのだが、おかしな人比率が多い"Silver Lining Playbook" (2012)がいちばん好きかも。
今回のは、Jennifer LawrenceもBradley Cooperもわりとまともなのがなんかなー。
でも、Jennifer LawrenceのHunger Game裏街道編みたいな気高さとか、全体に漂うざまーみろ、感も含めて、おもしろいったら。

Pride and Prejudice and Zombies (2016)
半分くらいまで見てNYに着いちゃった。もう公開されてたのね。
19世紀の英国でゾンビがふつうにヒトの間に紛れていて突然襲ってきたりする、そういう世界で凄腕の5姉妹がいて、ゾンビを討伐する男共にもいろんなのがいて、そこにジェーン・オースティンの「高慢と偏見」のおしゃべり上等の世界が絡んで恋もゾンビも闘いだらけでたいへんなの。
すでにいろんな人が指摘しているように「高慢と偏見」の世界とゾンビの世界はその暗さも含めてなかなか相性がよくひとつの世界として纏まっているようだったが、格闘のところ、アクションをもうちょっとなんとかできればなー。

でも最後まで見ていないのでわかんないや。

ダーシー役の彼、どっかで見た気がしてたら、"Control" (2007)でIan Curtisをやったひとだったのね。 どうりで。

8.23.2016

[film] Pete's Dragon (2016)

ソーセージまみれのままアメリカを去るのはなんかあんまりな気もして、もう1本見たくなって、"Don't Think Twice"とか Ira Sachsの”Little Men”とかを考えていたのだが、とにかくものすごくだるくて寝てしまう気がしたので、わかりやすそうなこれにした。

19日金曜日の晩、前日にソーセージを見たKips Bayで。 すばらしくよかった。

監督は"Ain't Them Bodies Saints" (2013)のDavid Lowery。あの切なすぎるアウトローの物語を撮った彼がディズニーの子供/ファミリー向けの物語をどんなふうに撮るのか、と。
同じ原作の77年のは見ていない。

家族とドライブでどこかに向かおうとしていたPete (Oakes Fegley)は飛び出してきた鹿を避けようとして横転した車のなかでひとり生き残って、森のなかを彷徨っていると狼がぐるぐる唸っていて、どうしよう、となったところで突然ドラゴンが現れて助けてくれる。彼はドラゴンをEricと呼んで、森の樹の上で暮らすようになって6年が過ぎる。

森林管理官をやっているGrace (Bryce Dallas Howard)がいて、おじいちゃんのMeacham (Robert Redford)がいて、彼は森で昔ドラゴンを見たことがある、と言っていて、伐採場の男たちがいて、ある日Graceは森で半裸のPeteを見つけて保護して、Peteが心配で出てきたEricはやがて人間に見つかって、伐採場の男たちはドラゴンを捕まえようとやっきになって、それで。

野生の少年の孤独、少年とドラゴンの固い絆、ドラゴンを捕まえようとする醜い、愚かな大人たち、ドラゴンを守ろうとする大人と子供たち。 これまで何度も見てきた気がする辛くて切なくて、でも最後の最後にはううぅ、って泣いてしまうあのかんじ。ものすごくどまんなかを貫いた子供たちとドラゴンの愛と友情の物語。

影響を受けた作品群として監督はジブリのトトロとかを挙げていたが、一番近いと思ったのは"Splash" (1984) で、あれで泣けてしまうひとにはいちころ。子供だけに見せておくのはほんとにもったいない。
“Splash”の遠くで瞬く水しぶきが感動的だったのとおなじように、Ericの羽ばたき、飛翔は鳥肌もんの感動をよぶ。
これができるのなら、”How to Train Your Dragon”だって実写でできてしまうと思った。(いや無理か)

Ericが人の言葉とか喋ったらやだな、だったのだがそれはなくて、彼は不細工でふつうに小汚く獣くさくて、それがだんだんかわいく見えていくところもなんかよいの。憎らしいくらいに。

音楽は次のような人たちの曲がたいへんゆったりと流れるの。
Bonnie “Prince” Billy, Okkervil River, St. Vincent, Leonard Cohen, The Lumineers …
こんなの、悪いわけないでしょ。

8.22.2016

[film] Sausage Party (2016)

日曜日の昼にJFKでいつもみたいにグチを書いていたときにはそんなことになるとは思ってもいなかったし、機内に入ってからもおなじだったのだが、飛行機がゲートを離れて暫くしたらぜんぜん動かなくなって、そのうちアナウンスが入って、カナダ上空に悪天候があって、別の経路を示されたのだがそれだと燃料が足らなくなるので別の経路の承認を待っている、という。 結局ゲートまで戻ってエンジン止めて改めて補給して、4時間以上。 少しお昼寝とかもしたのだが、機内で、なんもしない/できない状態で4時間。4時間あったらマンハッタンまで戻っても映画1本見れるし、美術館だったら3軒はまわれるし、ちゃんとしたランチだって行けるし。 通り雨もあったり、あんな気持ちよい夏の土曜日の昼間、4時間あったらさあああ(泣)。 成田についたのは20時過ぎで、台風前の湿気でべったべたで、今朝は低気圧で目まいがひどくて、もう今週はなんもやるきなしで機能停止。

というような理不尽なことが世の中にはいっぱいあって、この映画もそういうたぐいの変なやつ。

18日木曜日の晩22:50からKips BayのLoewsでみました。 なんとしても見たかったの。
ウインナー(犬)の次はソーセージ。 

スーパーマーケットで売られている食品たち - 一部そうじゃないのもあり - がわいわい楽しく暮らしてて、カートに入れられて(買われて)わーい、て喜んでみるのだが、その先になにが待っていたかというと、仲間が切られる裂かれる割かれる潰される砕かれる、などなど、彼らにしてみれば阿鼻叫喚のスプラッター地獄で、いったい自分たちはなんのためにいるのか、て存在の問いに直面して、とにかく戦おう、みたいになってみんなで逆襲していくの。

ディズニーのアニメがおもちゃとか車とか虫とか魚とか身の回りの物言わぬかわいいあれこれに(勝手に)人間の言葉とかエモを乗っけてドラマにしてしまうやり口をヒトの食べものに適用してみたらどうなっちゃうのか、ていうSeth Rogenのアイデアがおおもとらしいが、それにしても、なんでソーセージが主人公なのか、ホットドッグのバンズがその恋人になるのか、なんで最後にあんなことになっちゃうのか、はぜんぜんわかんない。 あたまおかしいんじゃないか(← ほめています)

たぶん、これはR指定にならざるを得ないな → どうせR指定なんだったらやれるとこまで(やれることを)やっちゃえ、程度のノリなのだとおもう。
これ、"This is the End" (2013) とも似ていて、あれは終末アルマゲドンが身近な友人たちに降りかかってきたらどうなっちゃうのか? が発端だった。 身近なところから考えてみてそれを膨らませていく、ていうのはすばらしいと思うのだが、Seth Rogenの場合、いまの映画やアニメのありかたに根源的な不満、というか異議がすごくあるのではないか、と思っている。 でなきゃあんなこまこま精緻かつ壮大な物語を作ったり捏ねたりできるものだろうか。 ていうのと、もういっこ、それとは別に快楽とは、快楽の追求とは、ていうのも彼のひとつのテーマとしてある。 酩酊らりらり状態をどこまで映画で表現できるのか、とか。
  
"Toy Story"の場合にはやがて忘れ去られてしまうおもちゃ = おもちゃの死みたいなテーマはあって、それは子供の成長とセットになった不可避の、普遍の物語としてみんなの涙を誘ったりしたわけだが、こんどのは何が背後にあるのかというと、にんげんだれもがもっている欲望 - なかでも食欲で、なのでしょうがないと言えばしょうがないのだが、他方で食べもの観点ではてめえみたいなやつの餌食になってたまるかよ、ていうのもあって、そういうやつはだっきん、と。

なんでそういうことをつらつら考えてしまったりするのかというと、相当へんてこな映画だからで、繰り返しになるが、なんでソーセージが直立して喋ったり騒いだりするのか、ベーグルは、トルティーヤは、とか、なんでみんな英語なのか、でも訛りあるよね、とか、いろんなことを考えれば考えるほどバカらしく思えてきて、笑うしかないから。 ダークでもブラックでもない、ただただバカみたいにおかしいの。 なんだよそれありえねえだろ、って。

声優陣はいつもながらにさすがで豪華で、それぞれの顔を思い浮かべてみると2度おいしい。

音楽も定番含めいろいろ流れるのだが、Meat Loafのところは思いっきりふいた。

日本で同じことやるのだとしたら寿司ネタ、おでんネタあたりだとおもしろくなるのでは。
どっちにしても子供にはぜったい見せることはできないの。

8.20.2016

[log] August 20 2016

暑さもピークを去って、とっても天気のよい土曜日、街中を走りまわるのにはとってもよいかんじなのに、とりあえず帰りのJFKまできました。いつも思うけど、13時半発の便って、中途半端だよな。

17日、水曜日の午前11時過ぎにJFKに着いて、昼過ぎにマンハッタンに入って14時くらいに仕事を始めたのだが、それにしてもしんどかったこと。

たぶん本人が思っている以上に疲れているのだと思うが、頭は相当に先走ってつんのめっていて、ふたつがぶつかって結局ドミノ倒しで全滅、轟沈、みたいな惨めなかんじでしたわ。かみ合ってなんとかなることは殆どないのだが。じゅうぶんわかっているはずなのだが。
お仕事があるのはしょうがなくて、それがある前提で空いた時間でできることをできるとこまでやる、しかないのだけど、2.5日の滞在でできることなんて仕事しかないのかー、て改めてあたまに叩きこんだ。すぐ忘れるけど。 なんどでも繰り返すけど。

ライブは18日の晩、BrooklynでのSUMACをずうっと直前まで狙って追っかけていたのだが最後までSold Outの封印が解かれることはなく、とっても残念でくやしかった。もしあれに行けていたら、今年の残りはなんとか持ちこたえられたにちがいない、と思っておく。
なので今回は、映画2本、レコ屋2つと本屋2つ、これでおわり。 TVつけてもオリンピックとトランプばっかりだし、ほんとうんざりした。 そんなのどうでもいい。 シリアのあの子をなんとかしてあげたい。

でもそれでも、地下鉄の駅構内はサウナみたいに蒸していても、タクシー捕まえても渋滞だらけでけっか歩いたほうが早くても、夏の街の、歩いているひとみんながざわざわ - 立ち止まるでも前に進むのでもなくなんだなんだみたいに茹だって群れているかんじとか、夕暮れ時のテラスでみんなどうでもよくなって溶けているかんじとか、好きだなー。 その先で水道管が壊れて放水していたりとか。でもみんなあーあ、って笑っているだけなの。 

もうこれでほんとのほんとに夏はおわりで、あとは寒くなるのを待つばかりで、早く冬になってほしい。 それまでは映画みたりだらだらしたりしてなんとかやり過ごすから。 なんとかのやり過ごしで、ずっとやり過ごしているわけだが。 しょうもないねえ。

ではまたー

[art?] Punk 1976-78

15日の午後、打合せの合間に1時間くらい空いたので、天気がよいのでちょっと散歩してくる、と抜け出して地下鉄の駅に走っていって来たのに飛び乗ってBritish Libraryに行った。 うそつき。

76年のSex Pistolsの登場から40年、ということで各地で行われている記念イベントのひとつ。 図書館の中なので無料。
サッチャー政権の頃とおなじような事態・状況に戻ってしまったかに見える今の英国でこのようなかたちでこのようなところ - 国会図書館みたいなもんよねここ - でPunkが「革命」として祀りあげられ、結果「去勢」されてしまうことに対する危惧や懸念や不快感は、英国から遠くはなれたとこにいる東洋人にだって、もちろんある。 

他方で、Punkは、例えばPistolsがPILになった時点でとっくに、じゅうぶんに死んでいたのであって、その屍骸を掘り起こして公共の場でその腐臭をまき散らすことについて、それが果たしてノスタルジックななんかになりうるのか、ていうところも含めて確認してみる意味はあるのかもしれない、とか。

どっちにしても、音楽聴かなくてもバンドTシャツは着るとかいう(わけわかんない)デジタル時代の子供たちに70年代のPunkがあの当時の我々に起こったのと同じようなかたちで、作用したり効いたりすることになるとは思えないのだから、まあやっといたらいいんじゃない、くらいの。

図書館の入り口を抜けたでっかいホールの奥に"Punk 1976-78"ていう垂れ幕が下がっていて、その下のそんなに広くないスペースに当時のいろんな物件 - チラシとかZineとか記事とか手紙とか、沢山の7inchとか - が並んでいて、それらについては、屍体解剖して新事実が出てきたとか、これまでこう言われてきたけど実態はこんなだった、とかそういうことには勿論ならなくて、あーほんものだねえ、という感慨、みたいのしか出てこない。  過去を懐かしむ、慈しむ、というのはPunksの規範にはなかったはずだ。  うまいぐあいにボケが記憶を壊しはじめてくれている。

これだと結局当時のバンドとか聴き手 - 所謂Punksを革命の当事者とか英雄扱いして回顧するだけで終わってしまう - 革命はそこで閉じて終わって、よかったよかったになりがちで、それってPunkがやろうとしてたことから10000マイル離れて、歴史とか市場とかにきちんと組み込まれちゃったということだよね、と複雑になっていたら、全く別の地点から、そういう展示のありかたに対してざっけんじゃねーよ、て怒りを表明していたのがViv Albertineさんで、三大小咄みたいに扱われるSex Pistols, the Clash, Buzzcocksに対してThe Slits, X-Ray Spex, Siouxsie & the Bansheesだっていただろうがくそ男根やろう! て怒ってて - 展示概要のテキストの一部に取消線入れてコメント殴り書きがあって、そこだけ生々しくてよかったかも。

http://pitchfork.com/news/66847-the-slits-viv-albertine-defaces-male-dominated-punk-exhibition/

これもまた、直情的で単線思考で前歯が欠けてて挙動不審 - そんなPunksの一般的なイメージが創りだしたなにか、であるとしたら、連中にフェミニズムみたいのを説くのは相当難しそうな気もするのだが、いやだからこそあえて、と拳を握りしめるか、焼石に水、って石ころを蹴っとばすか、どっちもありなのな。

あとね、やっぱしPunkってアートとしてどうこう、以前に音としてまず画期的に気持ちよくてすがすがしく、頭に風穴あいて胸のすく思いがした、あの快感を伝えるのは難しいんだろうけど、そこがなー。
40周年、ていうのは当時のPunksが孫を持つくらいのとこまできたので、孫に自慢するためのあれなのかしら?
こういう展示につきもののファッション系のあれこれはほとんどなくて、そこはよかった。

同じフロアの少し離れたところにPop up Shopがあって、ポスターとかレコードとか本とか売ってた。
パンクの恰好したお姉さんたち(図書館の人... じゃないよね?)が針飛びするRamonesのレコードを洗濯板を扱うかのようにごしごし拭いていた。 レコードは中古も新しいのもあったが、12inchの袋を抱えて職場に戻るのは許されない気がしたので7inchを見てみると、なぜか殆ど持っているやつだった。 でもせっかくなので、Slitsの"Typical Girl"のオリジナルをお土産として買った。  他にDamnedのメンバー全員のサイン入りのとかもあったけど、少し考えてやめた(£75)。

同じ館内でやっていた有料の展示 - "Shakespeare in Ten Acts Exhibition"もすごく見たかったのだが、時間がなくてあきらめる。
BFIでやっているPunk映画特集は、結構見たことがあるやつらだったので、まあいいかー、と。

8.17.2016

[log] August 17 2016

中間地点。 久々にヒースローのTerminal5にきました。

時間の感覚があるのかないのか、あるとしても確実に狂ってわかんなくなっているのだが、火曜日は朝5時に空港に向かってLuxembourgていう国に行って打合せとかして、同じ日の夜の9時過ぎにヒースローに戻ってホテルに帰ったのは10時過ぎで、今日、さっき、水曜日も朝5時に昨晩と同じ車と運転手のひとで(空港に戻るのも一緒に頼んでくれれば安くするよ、っていうから)ヒースローに来て、これからJFKに向かうの。 頭の奥がちりちりいってきなくさい。

ロンドンの映画以外のことは追って書きますけど、今回はもう、ぜんぜんだめで最悪で、British Libraryの展示に行けたことを神さまに感謝したい、それくらい。 夕方、橋の向こうにあるTateのModernに走っていったけど5時でクローズだったので泣いた。
食べもの関係もお弁当だったり連れていって貰ったりばかりのされるがままでどうすることもできなかった。 Fish & Chipsさえ食べれていないし。 Terminal5のラウンジのご飯がいちばんまともに思えてしまう。

これってロンドン? ていうくらいありえない夏の気持ちよい陽射しの日中で、月曜の夕方は夕焼けが泣きそうなくらいきれいで”Waterloo Sunset”がずーっと鳴ってた。 火曜の晩の夕方(9時でも日が沈む時間帯は夕方、でいいの?)も飛行機のなかから見ることができて幸せだった。

Luxembourgは2回めで、陽射しが強くてしんだ。 けど、前来たときよりもいろいろ(というほどないの。ほんとに小さな街)見て回る時間はあったし、美術館でFreeの展示を見ることはできた。
本屋も入ってみたけど、ドイツ語のとフランス語のと英語の本がぐじゃーっとあって慣れるまでに時間が必要だねえ、だった。

NYには水曜の午前の11時くらいに着いて、午後はもちろん仕事なのだが、こっちのほうがやることはてんこ盛りで、ぜったいに逃げて、まいてみせるからな、と眠いあたまで意気込んでみる。
むりだろうけど。 でもそれでも。

ではまたー

[film] Wiener-Dog (2016)

ヒースローに着地したのが14日日曜日の15:40くらい。 走ってイミグレ抜けて荷物ひっつかんでHEXのってタクシー乗り換えてホテルに入った時点で17時だった。 日曜日なのでこの時点で美術館関係はぜーんぶアウト。
しょうがないので泣きながらRough TradeのEast(ここは日曜でも19時まで)に駈け込んで少し買って(あまりなかった)、夕食のためホテルに戻って、ご飯食べたあとでまだ時間があったので、20:45からこれ見ました。

映画館のCurzon SOHOはインディペンデント系のチェーンで、前も来たことあったけど、ソファがあってちゃんとしたカフェとバーがあってとっても居心地のよいスペースで、家族向けのシネコンとは別の、映画好きの若者たちが上映前も後もゆったりわいわい楽しめる場所にもなっていて、東京にはないかんじのよさがあるの。 夜中遅くにしか来たことないけど。

Todd Solondzの新作。 Wiener-Dog - ダックスフントのだらーんとした下半身がポスターに描かれていて、彼らがぶんぶん大活躍するかわいい動物映画かというと、Todd Solondzであるからそんなに甘いもんではなかった。

独立したエピソードが4つあって、癌から生還した子供のためにパパが Wiener-Dogを買ってあげるのだが、粗相してばかりでしょうもないのでパニックをおこしたJulie Delpyのママが獣医のとこに送って安楽死させようとするのとか、その獣医のところで同じ犬かどうかはわからないのだが、Greta Gerwigさんが一匹連れて帰って、彼女が高校のときの同窓生のKieran Culkinと偶然会うはなしとか、これも同じわんわんかはわからないのだが、大学で映画の脚本を教えているDanny DeVitoの話とか、Ellen Burstynのおばあちゃんのところに孫娘とその怪しげなアーティストの彼がお金をせびりに来たりとか、それぞれのエピソードの主人公のあいだを渡り歩くWiener-Dogがつぶらな目でほっこりとしたなにかをもたらしたり繋いだりする、或いは、エピソードに共通した都市とか郊外の腐れたランドスケープがわんわんの不恰好さ、不器用さのイメージに収斂していくとか、そういうものではなくて、どことなく不穏で壊れてしまった人たちの傍に、長い胴体の片方の端にきょとんとした顔、もう片方の端にぷるぷるした尻尾をもった奇妙な動物がいるよ、ていうそれだけのことなのだった。

これ、パグだと同系でも全く別のお話しになってしまう気がする。あと、ゴールデン・レトリバーとか猫では成立しない話のような気もする。 

それぞれに少し哀しくておもしろい(少しの悪意/悪趣味と)Todd Solondzの世界だったのだが、サンダンスでブーが起こったというあのラストはさすがにちょっとねえ、だった。

それにしても、いつもながらに挙動不審なGreta Gerwigと全てが投げやりでどうでもいいかんじのKieran Culkinが向かい合ったときに醸し出されてしまう90年代のルーザー臭は、なんかすごいなあ、と思った。 あれは演技の域を超えているわ。

夜は昼間とぜんぜん違ってきんきんの冷気が来ていてびっくりした。

8.14.2016

[log] August 14 2016

えらくあっついのでそと出たくないし、部屋でTVつけてもにっぽんすごいにっぽんばんざいを反復強要されるばかりで最悪で(あれってハラスメントだよね)吐き気するし、たいへん居心地悪くて過ごし難くてきつい日々を送っている子供たちとか多いだろうしせっかくお盆であちら側から戻ってきているご先祖のみなさまには申し訳ないのだが、ほんとにやってられなくなってきたので羽田まできて、これから西のほうに飛んでいきます。

お休みではなくてお仕事で、ロンドンに行ってしごとして、まる一日あの近くの国でしごとして、水曜の朝にNYに渡ってしごとして、土曜の昼に向こうを発って、日曜の夕方に戻ってくる。久々にぐるり一周の一週間。 ここに留まって精神的にぐったりうんざり脳死するか、移動だらけで体力的につらくしんどい状態に浸かって白目むくか、どっちもどっちだと思うが、いまはこの国にいたくないかんじのほうが強い。 スポーツなんてだいっきらいだ。

今回のは一緒にいく人数も多いし、それもあるのでスケジュールは朝5時半からびっちりぱんぱんなのでどうにも動きようがない。
ロンドンは本当に久々だし見たいものはものすごく沢山あるのに、勝負(だれと?なにと?)できるとしたら到着した日曜の夕方くらい、でもどうしようもないのはどうしようもない。
40周年のなんかを見れたらなー。むりだろうなー。ぐうう。

NYはそんなに久々でもない気がするけど、慢性的な飢えは止まらないのでいくらでも、ほんとにいっくらでもネタはあるの。 日程をほんの少しいじれていたらなー、Terminal5のPJ Harveyさまを見れたかもしれなかったのにー。 とか、見たくない見ちゃいけないと思えば思うほど隙間からいくらでも湧いて出てきて見たとたんに石になる。

NYではいっぽんだけ見たい映画あるなー。
むりかなあー。

ではまたー。

8.13.2016

[film] セトウツミ (2016)

2日の火曜日の晩、渋谷でみました。

放課後、高校生男子ふたり - 瀬戸(菅田将暉)と内海(池松壮亮)- でセトウツミ- が川辺でだらだら喋っているだけの映画。 たまにそこにいるおっさんとかピエロとかみんなの憧れの樫村さん(中条あやみ)がでてきたりもするが、喋っては返しをやっているだけで、ふたりは喧嘩したり酒のんだりドラッグやったりするわけでもなく、互いの悩みを打ち明けて一緒に泣いたり傷を舐めあったり毛づくろいしたりするわけでもなく、互いの言葉に即時反射して相手をやっつけたり言い負かしたり、そのために(その神経を鍛えるために?)ふたりは横並び座り(たまに瀬戸のほうが立ち上がる)で延々猿みたいにやりあっている。

原作はコミックだそうで、そっちのほうだと少しは話のネタそのもののおもしろさも入ってくるのかもしれないが、映画は極めてシンプルに、喋りとその間、動くほうと動かないほう、それが生み出す変な磁場に取り憑かれて狂ったようになっているふたり組の動きに集中している。 喋りだすと同時にカメラと世界がすごい速さでまわりだして止まらない。(画面はほとんど固定だが)

瀕死の飼い猫を救うためにキャットフードにお金をつぎ込み過ぎて家計が貧窮して離婚の危機にある瀬戸くんの親とか、お寺の娘の樫村さんは内海くんのことを追っかけているのだが彼女を好きなのは瀬戸くんのほうで、とか、そういった割とどうでもいいこともあったりするのだが、だからといってふたりの横並びが止まることはなくて、噛みあおうが滑ろうがおしゃべりは止まらなくて、この辺、『ママと娼婦』にあった揺るぎなさ、とか、ジャームッシュの脱力系のいくつかの頑固さに近い - つまりはしょうもない青春によくこびりついたなんか、を感じた。

結構おもしろいーと思ったし、当たってほしいなーと思うものの、最近のなにがおもしろいんだかちーっともわからない芸人トークみたいなのの流れで捉えられてしまうのだとしたらちょっと勿体無いかも、とか。
放課後、川に向かってなんもすることなく浮遊する時間、ていうのがかんじんだと思うから。

鈴木卓爾という監督/俳優さんが川の前でぼーっとしているおじさんで出ていて、このおじさんは実はみんなから恐れられる学校いち凶暴な生徒のお父さんで、やはり彼が演じていた"Dressing Up”でのお父さんと合わせるとどんだけおそろしいDNAやねん、て思った。 (そして昨日みた"Village on the Village"では...)

猫のシーンがとてもよくて絵になってて、なんか泣けた。 すてきな三毛だった。

あと、しょうもないJ-POP被せなかったのもえらい。
内海が聴いてたのはくるりだったが。

8.12.2016

[film] La maman et la putain (1973)

7月30日土曜日の昼、アテネ・フランセの「「ポンピドゥー・センター傑作展」関連企画のフランス映画傑作展 」で見ました。
夏休みでわーわー遊んで帰ってきたばかりでへろへろなのに、220分のに耐えられるのかという心配はあったが、なんか見れてしまった。

『ママと娼婦』。英語題は”The Mother and the Whore”。 これまで見たことなかった。

Jean-Pierre Léaudが主人公の僕 - Alexandreで、最初のところで元カノと再会してよりを戻そうとするが突っぱねられて、カフェにいた女の子に声を掛けるが逃げられてしまう。 Alexandreは仕事をすることもなくいつも同じ服恰好で、ブティック経営をしているMarie (Bernadette Lafont)のところに居候していて、日中は友だちと会ったり女の子を探したり、みたいなことをしている。
やがて逃げられた女の子は看護婦のVeronika (Françoise Lebrun)であることがわかって、だんだんに仲良くなって、やがてMarieの部屋にも頻繁に来るようになって、3人の奇妙な関係とか生活とか、がはじまるの。

筋としてはこんなもんで、ものすごい事件が起こって3人の関係がどうにかなってしまうようなことはない。
もちろん我々は、このドラマが監督ユスターシュ本人の身の回りに限りなく近いあれこれを取りあげていて、Marieのモデルとなった女性はラッシュを見て自殺してしまうし、ユスターシュ自身も81年、42歳で自殺してしまうことを知っていて、そこら辺で68年のパリの後を生きなければいけなかった「痛ましい」、「失われた」青春の云々と言われたりすることがあるのを知ってはいるのだが、映画のなかには淡々と日々の出来事 - どこそこで誰にあってなにをしたどんなことをしゃべった、けっか変わらずひとり、みたいなことしか描かれていない。 もちろん男ひとりと女ふたりが同じ部屋にいて、うちふたりがあれを始めてしまったりすることで険悪になったり修羅場みたいになったり、ということはあるのだが、それって犬猫だって同じことは起こるよね、みたいな定点観測・放置っぷりで、それは彼が悪いよね、とか、解りあうためにはこうしなきゃね、とか、やっぱり別れるしかないんじゃないか、みたいな方向には転がっていかない。 3人はそれぞれがそれぞれの居場所のなかでなんか言ったり喚いたり泣いたりするだけで、そこに新しいなにか、おもしろいなにかが映っているとは思えない。
では、なにがそんなにおもしろいんだろう、と。

タイトルの「ママ」と「娼婦」は、Alexandreの目からみて、彼自身が彼女たちに対してつけたあだ名のようなもので、ママはたまに怒ったりするけどなんでも受け入れてくれるMarieで、娼婦は求めに応じて誰とでも寝てしまうようなVeronikaで、実際にそう、というよりもAlexandreからするとそう見える、そう見えてしまう場所と時間と意識の上にこいつはいて、脱色されたような日々が無為に流れていく。それを痛ましいとかきつそうだとか、言うのは勝手だけどあまり意味があるようには思えない。 ロメールの場合はこれと同じようなことを浜辺とかリゾート地を舞台に、すこしだけ裕福ぽい人たちの間で教訓話のように展開しているだけ、のような気もした。

それぞれがそれぞれのことをどう思っているかなんてわかりようがないしどうでもいいし、ていう相容れなさと、他方で親密さと欲望と愛と、それらはどうあがいても調和しないし和合しない。 それだけのこと、を切々と、べらべらと言い続けるだけの220分。 こういう形の前に行かない、横並びの青春(諦めと苛立ちの合間でぶれまくる精神のありよう)は、5月革命云々とは関係なく、こちらと地続きなのだとおもった。

教訓とか格言とか以前に、どうしようもなくしょうもない、のだけど。 でもそういうもんなんだからしょうがないじゃん、という。

8.11.2016

[music] John Cale

8日、月曜日、公演最終日の遅い方の回のを見ました。
また場所が変わっていたブルーノート(みっつめ?)、昔の席配置の、いじめかというほどのきちきち感はなくなって少しは音楽を聴かせるスペース、のようにはなっていたけどそれなら椅子もテーブルもとっぱらって立ったり踊ったりできるようにしたいなー。

わたしのJohn Caleライブ歴は、88年のパルコ劇場でのソロ(Nicoはいなかった)、90年のLou Reedとの"Songs for Drella"、92年末のNYUでのSterling Morrisonとのduo(最後の方でLou Reedが入った)。 特に初めて見たパルコ劇場のソロは86年のPeter Hammillのソロと並んで決定的で、これからもずっとついていく、と心に刻んだ。  バンドを後ろに置いて、しかもエレクトリック中心のライブは今回のが初めて。 いやでもだからといって、まったく心配も過度の期待もなく平熱で、John Caleのライブを聴きにいく、というのはそういうことなのだ、と。

膝までの短パン、とっても上機嫌で元気いっぱい、声も漲っていて、この声にg(+ 電楽)、 b、 dr(+ 電楽)、Cale自身のkey(たまにギター)が絡む。 全体のかんじはついこないだのパリでのライブにも参加していたAnimal Collectiveみたいな、少し昔のAvan Pop/Post Rockふう、ところどころちりちりノイジーで固くて、静かめの曲でも決して耳触りのよい音ではなくて、でも彼の歌の縁に纏わりついて壊すようなことはしない。 なかでも音数の決して多くないDeantoni Parksのドラムスの作りだす間を強調した打突の微細な強弱は絶妙で、Caleの呼気と同期しているかのようだった。

そして彼の声。どんなノイズにも轟音にも濁流にものまれることなく一点を見据えて揺るがず、エモに流されることも撃たれることもない、ものすごく硬い彫刻のような声。 これを聴けるのであれば曲なんてなんでもいい(とまでは言わないけど)。

この音と声、質感で自身の70年代のレパートリーも、"Sunday Morning"も"I'm Waiting for the Man"も淡々と。
Lou Reedの曲って、この2曲もそうだし"Walk on The Wild Side"にしても、基本的には自分の外に対する呼びかけ- 睨みつけ、なんだおめえは? で、これに対してCaleの歌は(Nicoもそう)内なる自己に対する呪詛だったり苛立ちだったり諦めだったりが多くて、歌については相反するベクトルをもったふたりだったと思うのだが、ここでのCaleはあの頃の人混み - 雑踏 - Undergroundを抜けて、Lou Reedとの間で無数に交わされたであろう目配せを、呟きを、当時の、ではなく今の微細で柔らかな電子音響(それをVelvetsと呼ぶか?)で毛布のように包んでこっちに投げつけてくる -  "Watch out  the world's behind you … ” って。

それは"Songs for Drella"でAndyを送ったときのものと同じだったのか違ったのか。
ここで、"I'll be Your Mirror"なんかが流れたら泣いてしまうかも、と思ったけどさすがにそれはなかった。

それにしても、"Hanky Panky Nohow"でシンガロングや手を右左、がおこる - しかもブルーノートで、なんてものすごくありえない気がした。どういう夢だ、とか。

1時間半びっちり。まったく緩むことなく放電していて、こっちも地味ながらずうっと痺れて、ああなんて声なんだ、ばかり言ってた。

8.10.2016

[film] Hollywood Banker (2014)

7月29日の金曜日の晩、渋谷でみました。『ハリウッドがひれ伏した銀行マン』。

"Superman"、"Terminator"、"Platoon"、Paul Verhoevenのいろんなの、Golan & GlobusのCannon Films - 80年代、もしこれらのB級活劇映画が作られていなかったら? たぶんどうにもなっていなかった or どうにかなっていたとは思うけど、でも、今の映画のありようは随分違ったものになっていたのではないか。 ということを考えてしまったのは、これらの映画はすべてひとりの銀行家の破天荒な融資によって可能となっていた、ということをこのドキュメンタリーを通して知ったから。

オランダの銀行家 - Frans J AfmanがDino De Laurentiisとかと組んで一緒にいろんな映画への投資を始めて、それはアイデアはあるけどお金がなくて困っていた若い映画監督たちにとっての救いとなって、彼のオフィスの前には長い列ができて、映画のなかでは実際にあのときFransがいなかったら、という感謝の言葉が今は大御所になっている監督たち自身から語られて、その言葉にはまったく嘘はないようで、だからよかったよねえ、という。 でも貸したお金って、ぜんぶちゃんと回収できたの?

むかし、Golan & Globusのトークを聞いたとき(そういえばCannonのドキュメンタリー見逃した)、こいつらの資金源はなんなのかしら? と、Globusのほうは確かに真面目そうな事務方ぽかったので彼のほうによほど強力ななにかがあるのか、とか、いやそれにしても、であるとしたら、なんであんなに簡単に潰れちゃったのか、とか疑問はいろいろあって、その辺の事情がすべてわかってしまった。

資金調達のルートが変わった、それだけでFransがサポートしていたような映画は市場からきれいあっさり消えてしまった。 なんて脆いことか、ていうのと、それ以外にもいろんなことを考える。
大上段に、映画はだれのものか、ていう議論もあるだろうし、この頃と比べて、今の映画って - 製作者側観客側それぞれから見て - どうなんだろうか、良くなっているのか悪くなっているのか、とか。

銀行がお金を出すにしても、いろんな規制だのコンプライアンスだのが厳しくなってしまったのでFransのようにいきなり現れた若者の顔をみて信用ベースでぽん、て金を出すなんて今はとてもできなくなって、資金調達は収益予測からリスク分析からクラウドの適用まで含めてものすごくクリーンに着実に管理・可視化されるようになって、それがデジタル化やモバイル化の流れのなかで、映画のテーマや中味にどう影響してきているのか。 なんてぜーんぜん興味ないんだけど。

なんとなく最近のって小ぎれいだけど小ぶりでデスクトップで作ったみたいでなんかつまんなくないか、でもそれってインディー系だけの話じゃなくて邦画なんかメジャーでもクソみたいのばっかじゃねえか。

といった議論もあるだろうし、でも、Fransがお金を出した80年代のだって、相当ひどいやつもいーっぱいあったよね、とか。 

いっこあるのは、Fransがお金出したような映画って、結果的にそうなっただけかも知れないけど、むさい男の、野郎の、ガキの、映画秘宝系、みたいな映画ばっかりではないか、と。
これってどういうことなのか、というのは少し思ったり。

改めて映画って産業なんだなあ、と。 80年代、その産業を強烈にドライブしたのが彼のような個人で、今そういうのをドライブするのは ... 代理店? いったい何の、誰の代理なんだよ? っていう。

最初に戻ると、もし彼がいなかったら、という議論は不毛なのでやめて、彼がいてくれてほんとうによかったありがとう、ていうしかない。 彼が病気になって先が長くないことを知ったときにカメラを手にした彼の娘さんの思いの強さが最後には残るのだった。

8.09.2016

[film] Finding Dory (2016)

7月18日、海の日の夕方、新宿で見ました。 ほれ、海の日だしさ。

字幕版は3Dでやってくれないのな。 ほんとにやなかんじ。いまの政府とおなじでお金を使うところ間違ってる。 ぷん。
わたしはEllen DeGeneresのDoryの声が大好きで、物忘れすっとぼけとんちき野郎に彼女の声ほどマッチしているのはないと思うので、吹き替えなんてありえないの。

本編前にかかった短編"Piper"がすばらしくて、波打ち際で小鳥がちゅんちゅん跳ねているだけなのだが、これだけで帰ってもいいくらいだった。 言葉はなくて鳥語のみで、音楽はAdrian Belewさん。

前作の"Finding Nemo"から13年(ひー)、なのにNemoも水中のみんなもみんなびっくりするほど変わってなくて(そういう設定なんだよ)、前作のはつい昨日のことみたいになってて、みんなでいつものように遊んでいると、Doryは自分のパパママのことをうまく思いだせない、思いだせそうだし記憶の欠片はそこにある気がするのに、なんか出てこない、ていう状態になって、なら探さなきゃな、って旅にでて、水族館みたいなとこかも、ということでなんとかそこまでたどり着く。 

ただのお魚なのに、ほとんどなんも憶えてないというのに、なんてすごい行動力なんでしょ、とか、なんでああも簡単に海を越えたり空を飛んだりできるのかしら、とか感心してばかりで、それってやっぱしアニメだからよね → アニメだからなんでもできると思ってないか、と思うようになったあたりで、突然に水の向こうにパパママが現れて、で、彼らはなにごともなかったかのようにDoryを待ち続けていて、DoryもあのEllenの声でなにごともなかったかのように目玉もヒレもくるくるしながら「わぁーお」とか言ってるので、かえって感動したり。

はじめのうちは、物忘れがどんなにひどくてしょうもなくても、きみはきみのままでいいんだよ、ていう"Zootopia"にも明確にあったアメリカのいつものメッセージがあって、そのトーンで押し続けるのかと思ったら、でもきみがどんなんだって、ぼくはずっと待ってるし待っていたんだからね、に鮮やかに転調して、”Finding Dory”っていうのはDoryが自分を見つけるのと、Doryを探している誰かを見つけるのと両方がくるくる追っかけっこすることなんだなあ、泣かせるんじゃねえよ、魚のくせに、なのだった。

ていう魚の親子愛のあとはひたすらめちゃくちゃで、ラッコが集団で道路占拠したり、タコが運転する車がカーアクションして空飛んだり、タコがあんなことまでするのだったらいったいヒトはどうしたらいいのか。

で、あれだけ大騒ぎしてはらはらさせて、でも済んだらぜんぶすっかり忘れて、きょとんとした顔でひらひら泳いでいるだけなの。もちろん反省なんてしないの。 いいなーあんなふうに暮らしたいなー(こればっかし)。

8.08.2016

[film] シン・ゴジラ (2016)

4日の木曜日の晩、六本木で見ました。

たぶんネタばれしていると思うけど、しるか。
賛否いろいろあるらしいが、どーでもいいわ。

わたしのゴジラ歴は自分ではそれなりにあると思っているのだが、80年代以降の東宝のは宣伝予告だけで見る気がしてなくて、こないだのGareth Edwardsのは、そんなに悪くないとおもった、ていど。

東京湾沖に未知の巨大生物としか言いようのない奴が現れて、自治体も国もなんだなんだとわーわー騒ぐばかり、対象の特定も危機管理対応もろくにできないまま一部の街を壊されて一旦海に逃げられる。

その間にこれはやばいと思った若手官僚を中心にオタクとはぐれ者中心 + 帰国子女ともアメリカ人とも思えない高飛車娘、等による対策チームが作られるのだが、改めて海からあがってきたそいつは更に巨大化していて既存の火器兵器ではまったく歯が立たず、アメリカはもう核使うしかないみたいだから、やるよ、って言ってきて、そいつを倒すか東京全滅かの選択肢しかなくなって、どうする、なの。

怪獣そのものの動きとかそれらのいつもの組合せ(巨大怪獣、都市・ビル、破壊)、その特撮のクオリティに関しては、ノスタルジックに見えるところも含めてうまいなー、て思うし文句ない。

そして、今東京にゴジラが現れたら、こういう描きかた、こういうドラマを通すことになるんだろうな、ならざるを得ないんだろうな、というとこもしょうがない(のか?)。 縦割りの硬直化した - 境界を守って可能な限り責任を回避したい組織、現場にまるなげの組織の上、彼らが「想定外」を連発してあっという間に機能不全~停止に陥るのは(誰の目にも)十分見えていて、それがざまあみろ、というくらいにわかりやすく示される。

そんな年寄りの対応ぶりに業を煮やした野心もやる気もたっぷりの若手が自分たちのネットワークやそれぞれの知恵や知見をもった変な連中を連携させて、絶体絶命の危機から日本と東京を救う。 よかったよかった。

今の政権運営に危機感や不満を抱いているひとはそうだそうだーいいぞいいそー、て思うのだろうが、それは今の政権こそ! の緊急事態条項とか一億総玉砕じゃない「総活躍」も含めて「この道」しかないと思っている連中にとってもまったく同じで、がんばる自衛隊もJRも工機メーカーもプラント屋もにっぽん万歳!! な内容 - 反自民票を集めるかに見えて結果的に極右体制を作ることに加担してしまったこないだの知事選とまったくおんなじ構図 - ができてしまっている。集客十分みたいだし。吐きそうだわ。
権力統治側にとってこんなに都合のよいものはないの。 だってみんな街を、家族を救いたいし守りたいんだろ? 
... こんな連中にやられちゃってかわいそうなゴジラ。

54年のゴジラは核実験反対という極めて政治的なメッセージを抱えた危険生物として登場して、今回のやつも核廃棄物処理や原発の問題を反映したそれとして現れて、そこに政治ドラマをアタッチさせることがよくない、とは言うまい。 けど、だからと言って、あんなおめでたい幼稚園な、みんなでがんばろう、なものになってしまうなんて、あの代理店の意向なのかもしれんが、あまりにださくてさいてーすぎる。これでオリンピックも安泰ってか。

みんなでがんばってこれだけのことができるんだったら(けっ)、なんで福島や沖縄の問題をメディアぐるで丸めこんで隠蔽して放置するんだよ。最初の襲撃のとき、踏切を横切る老夫婦がいるからと攻撃を取り止めるシーンがあったけど、本当に描かれるべきだったのは、政府側からは規模や基準とったら数値情報としてしか認知されない彼らみたいな、そこで泣きながら歩いている人達じゃないのか。 カップ麺食べながら寝ないで対応している連中なんて勝手にやらせとけばいいし、あんなのほんとどうでもいい。

あんなにお仕事ばんざい、仕事に身を捧げるひとばんざい、プロジェクトなんとか、の内容になっているとは思わなかった。家族の方が大事だから抜けます、これもなんかの因果とか運命だと思うので諦めてしにます、みたいなひとがいたっていいのに。 そーんなに仕事をするひと仕事を通して社会に貢献するひとは偉いのか? そんな認識、病気としか思えない。

ほんとにスポーツとヤンキーとアニメと自民党の国になっちゃったんだわ。(←オリンピックと高校野球の8月はほんとにじごく)

単純に、昨晩見た"We Are the Best!"(すばらしいパンク映画)のあの娘たちが、「スポーツなんて大嫌い」と絶叫していたのと同じくらい、この映画は嫌いだ。
そんなに今の世の中を肯定・賛美したいのなら怪獣映画なんて作るな。 怪獣映画をプロパガンダのネタにするんじゃねえ。

あと、これも狙ったのだろうけど、女性の描き方、ひどすぎやしないか。

8.07.2016

[log] NYそのた2 -- July 2016

PanoramaとStone Barns以外の食べものとか。

Mimi
21日の木曜日、着いた晩の10:45に予約を入れておいたのだが、"Ghostbusters"を見終わって時計を見たらもうその時間で慌ててVillageのほうに向かった。

場所はライブスペース - (le) poisson rougeの近所で、このSullivan st界隈はおいしいとこだらけになっている。

こないだbon appétit誌のbest new restaurant 2016の50 finalistにも選ばれていたが、店は小さくて薄暗いフレンチビストロで、まあおいしい。
どこから仕入れているんだか皮ぱりぱりの金目鯛とか胸腺とか、でもなんといってもエスカルゴ用のバターソース(なるほど、殻ものか)を薄い衣に纏わせたロブスターは驚異的で、ロブスターロールとロブスターサラダとビスク以外の食べ方でこのアメリカの大海老をこんなにおいしいと思ったのは初めてだったかも。
店内があと少しだけ明るければなーと思ったけど、ここまでおいしいなら文句ない。おいしくなかったらさいてーだけど。

Café Altro Paradiso

22日の昼、Metropolitan Museumの後に一気にSOHOまで下りてランチを。
Estelaの人達が新たにオープンしたイタリアンで、ここって前なにがあったんだっけ? と思ってしまうくらい広々と明るく気持ちよいダイニング。

フェンネルのサラダとキノコのタリオリーニ。Estelaもそうだったがイタリアンでこの絶妙の軽さ爽やかさはなんなのかしら、だった。
アメリカンチェリーのパンナコッタも泣きそうなくらいよくてのう。

この晩はStone Barnsで、そこでもフェンネル束が出てきたので、この日はフェンネルの日になった。

23日の昼はMOMAの後でレコードを見にWilliamsburgに行って、久々にeggに行ってみようと思ったのだが、かんかん照りのなかようやく辿り着いた(場所、少し移ってた)ら店内激混み、でも外に並ぶのは正気の沙汰ではなかったのであっさり諦めて昔から通っていたSweetwater Restaurantに行ってサンドイッチ食べた。 変わってない、ほんとに普通のごっさりしたアメリカ料理屋でほっとするのよねえ。
それにしても、Williamsburgはこれからどうなってしまうのだろう。Whole Foodsができて、新しい建物もいっぱい建っているのに、旧Academy Recordsのとこだってまだ放置されてたし、もうじきLの線だって止まっちゃうし。

Le Coucou

24日の朝、"Maggie's Plan"を見る前、Canal stのほうに行った。割と新しめのフレンチ、まだブランチはやっていないのだが、10:30までならbreakfastをやっているというので。あとサイトがなんかかわいかったので。

Le californien、ていうアボカドのペーストとポーチドエッグの乗ったトーストをいただいて、朝ごはんなのですんなり入ってくれれば十分で、グレープフルーツジュースとの相性はパーフェクトだった。

あと、ここのお手洗いにいくと、"Coucouのうた"(いちおうクラシック)が延々かかっていて脳内でぐるぐるまわりだすので朝はすこし注意したほうがよいかもしれない。

Veselka

25日の朝、ホテルを出る前に歩いて向かった最後の(朝)ご飯で、なんかお腹に入れておきたい程度で、そういうときにここのCold Borscht(寒いときはあったかいBorschtは)ほんとうにしみて効く。24時間やってるし。 もういっこWatermelon Iced Teaも頼んで、お腹はたぷたぷになるのだが、これであとはハンモックにでも寝っころがれば素敵な夏の1日になるにきまっているのに、実際にはこのあとJFKに向かう長い道の先で夏はもう終わろうとしているのだった。

まだなんかあったはず。 でも暑すぎてなんもでてこない。もうどうでもええ。

[log] NYそのた1 -- July 2016

NYの夏休み、そのたのあれこれ。
行きの飛行機で見た映画から。

Allegiant (2016)

Divergentシリーズのみっつめ。”Insurgent” (2015)の次のやつ。
前作で変な箱を開くことに成功し、悪玉Kate Winsletを倒して派閥(Faction)で分断された世界を終らせることができたTrisとFourたちはどろどろの粛清が始まった旧世界 - Chicagoを抜け出して壁の向こうに向かう。 汚染されて住めないと思っていた壁の向こうにはきれいでアタマ良さそうな人たちが住んでいて、箱を開けたTris達は有名人になっていて、親分のJeff Danielsも暖かく迎えてくれる。彼らが言うにはTrisのDNAは”Pure”で他の連中のは”Damaged”で、とかなってくるともういい加減にしてくれなのだが、そこから先はもちろん彼らの企みが明らかになって、Jeff Danielsも悪い顔になって、隔離されてた仲間とか旧世界の連中も加わっていつかどこかで見たような戦いと革命の光景がふたたび現れる。 で、つまり、なにがどうなってこうなったんだっけ?  になってくるの。 べつにいいけど。

でも、確かにいい加減にして、て言ったけど次怍は劇場公開なし、配信のみだなんてあんまりだと思うの。

この直後に落ちて、気がついたらもう着陸間近で、あんま見たいのもなかったので気分を高めるためにオリジナルの”Ghostbusters” (1984)を見た。 もう何十回も見ているのに。

帰りの飛行機で見た映画はふたつ。

Mothers and Daughters (2016)

Christina RicciとかSusan SarandonとかMira Sorvinoとかいろいろ出ているし。
ついこないだ亡くなった母が実は祖母で姉だと思っていたのが実は母で義兄だと思っていたのが実は父だったと言われて心の底から拗ねてむくれる(そりゃそうよね)Christina Ricciとか、若い頃の放蕩生活で誰が父親かわからない子供ができてしまったので養子に出してしまったことをずっと後悔して生きてきたブラのデザイナーのMira Sorvinoが意を決して娘と会おうとするとか、そういういろんな母娘のエピソードが5つくらい、でもそれぞれのエピソードを跨いで人物たちが交わったり繋がったりすることはあんまなくて、出てくる男たちがどれもこれもみんな同じ系統の猿顔であたま悪そうでどれがどれだか見分けがつかなかったのと、みんな最後はハグして打ち解けてしまうのがちょっと残念だった。 どこのだれでもみんなどっかの母親から生まれるのだから−、だってさ。

Suite Française (2014)
『フランス組曲』。 第二次大戦の頃、ナチスが侵攻してきたフランスの田舎で、戦地に赴いたまま戻ってこない夫を待つ妻(Michelle Williams)と義母(Kristin Scott Thomas)のお屋敷が接収されてナチスの中尉(Matthias Schoenaerts)が一緒に住むことになって、ドイツで作曲家だったという彼はピアノを弾いて曲を書いて、少しやさしいとこもあったのでMichelle Williamsと裏でだんだん仲良くなっていくのだが周囲の目も戦局も厳しくなっていって、ふたりはどうなっちゃうのか。
突風が吹いたように恋に狂って一瞬呆けたような表情を見せるMichelle Williamsがすばらしくて、それは”Blue Valentine” (2010)での彼女と同じだねえ、と。

買ったレコードとか。

だまれ。もうOther Musicはないんだ。
Academyの12th stは行ったけどOak stの方は時間なくて断念せざるを得なくて、結局WilliamsburgのRough Tradeに行ったくらい。 でもいきなり置いてあったLuna(6LPs)の箱を無視することができなくて、これを手にしたらじゅうぶん重くて、あとは7inchを2枚くらい。箱のおまけの本に入っているNoah BaumbachによるDean Wareham へのインタビューがすばらし。一部がWebでも公開されていたが、Lunaの全キャリアを振り返っていて、それって90’sの東海岸シーンを総括するものでもあって、Noah、あなた映画監督じゃないの?

殆どのやつはCDとかレコードで持っていたのだが、改めて聴いてみると”Bewitched” (1994)も"Penthouse" (1995)も名盤だよねえ。

"You were stuck in a dream and you wanted to scream, but it's nothing at all, no it's nothing at all"
に続けて、”にゃ〜 にゃ〜 にゃ〜 にゃ〜 ♪" て歌うのと"Kalamazoo"がいつものだるい夏の定番。

本とか。

前にも書いたけどロゴスの閉店セールで部屋の足の踏み場をほぼ失ってしまったので、これ以上なんか買うのはバカなんだからね、と思いつつ展覧会のカタログとか買い始めてしまったので、その上にMcNally JacksonとかStrandとかMast Booksとかで買うのなんてありえなかったのだが、でも雑誌とかは日本で買うよか安いししょうがないよね、ていうのと、サイン本とかもやっぱりさあー、ということでEmma Straubさんのを買った。 それくらいだよ。

お買い物はそんなもんかあー。
Panoramaでもおみあげ買わなかったし、あっついと荷物もちたくなくなるし。

8.04.2016

[log] Blue Hill at Stone Barns

食べものやレストランに行ったあれこれは、書くのが難しいしへたなので(…ぜんぶへただ)、備忘のメモ程度で済ませていたのだが、ここのは書いておかねばと思った。 ので書く。

7月22日、金曜日の晩のお食事。 
場所はマンハッタンから北に電車で約1時間、そこから更に車で20分のとこ。 開始は21時過ぎ。 マンハッタンに戻る終電は午前1時。

ワシントンスクエアの近所に2000年にできたレストラン、Blue Hillのことはここでも何度か書いているけど、ものすごくちゃんとした野菜や肉、魚をこねくり回さずとってもおいしく出してくれるところで、ずうっとお気に入りで通っていて、そこが2004年にオープンしたのがBlue Hill at Stone Barns。

Stone Barnsはこの辺一帯の広大な農場施設で、30年代からロックフェラーの一族(ここの近所にKykuitていう彼らの邸宅+庭園があって、ここもすごい。 観光名所)がオペレーションしてきて、2003年に彼らがこれをノンプロフィットの団体に譲って、Stone Barns Center for Food and Agriculture ができて、ここがこんどはレストランのBlue Hillを呼んで、Blue Hill at Stone Barnsができた。

で、Stone Barns Center for Food and Agricultureていうのはオーガニックなんてもちろん、食料、農業、農作物全般、いろんな作物とかエコサイクルについて実験も含めた様々な取り組みとか情報発信とか大学との共同研究とかをしていて、子供とか家族向けにいろんなツアーもやってて、一回参加したことあるけど季節に応じていろんな草とか鶏とか七面鳥とかあひるとか蜂とか豚とかを見せてくれてとっても楽しい。 勉強にもなるし。 食べちゃってごめんね、だけど。

レストランはかつて農場のなかのなんかの建物だったところを改造したやつで、天井が高くてでっかくて、ずっと行きたかったのだが相当前から狙っていないと予約は難しくて、それが今度の夏休みでようやく。  Panoramaとおなじくらい楽しみだったの。 窓の外には火花を散らしてごうごう燃えているのバーベキューの炉みたいのが見えて、なに焼いているのかしら、牛まるごとかしら、とか。

テーブルの上には小冊子が置いてあって、年間ここで採れるいろんな作物とかお肉とかを月別に記したのと、どこになんのはっぱや食物が埋まっているのか育っているのか、の農場全体の地図と、あとは今日のメニューのテーマなのかしら、紙一枚、"Grazing, Pecking, Rooting" てある。 
- 放牧して、つっついて、穴掘り?

始まったコースについて、こまこま書かないけど、始めのうちは野菜まるごと、ものによってはそのままを手渡しされてもしゃもしゃ食べる。 フェンネル一束手渡されたときはさすがに引いたが、うさぎの気分になって食べる。根っこのほうから食べるととても甘くておいしい。

くしゃくしゃに丸まった藁の巣の間にチーズスティックが挟まっているやつ - このへんがPecking、のあたりか、とか、プレゼンテーションとして、これはなんじゃろ?どこ食べるの? などと楽しめるのがある他方で、いっこいっこの素材の風味、その張りと香気はとても力強くて鮮烈で、ああ、根っことか実とかはっぱを食べているんだわ、もしゃもしゃもしゃ草食ばんざい、でもずっと草ばかりでもなく、だんだんにいろんなお魚お肉も挟まってくる。 ただ、モダンフレンチにある泡とか飛沫とかスポイトとか、なんじゃろこれ、みたいのはほとんどない。 ものすごく軽い一皿、ものすごく重い一皿もなくて、どれもそれぞれに比較しようのない素材の塊のおいしさと、そのおいしさを噛みしめることのできる絶妙の分量で出てくる。

一応フォーマルなレストランで、でもデコールはかっこいい農家仕様で、そういうなかでポップコーンとかレモネードとかも大まじで出てくる。 たまに食材の説明を丁寧にしてくれて、これは大学と共同開発中のじゃがいもを使っていて、バターやクリームと和えなくても同等のねっとり感をだせるようになるやつ - コードネームはNY-150 っていうの、とかね。 NY-150、憶えておく。

隣とか、近所のテーブルの人々がコースの途中でどこかにすうっと連れていかれて暫くすると戻ってきたりしているのでなんだろと思っていたら、やがてそれが来て、テーブルによって連れていかれる場所やタイミングはばらばららしいのだが、こちらへ、と導かれたのはキッチンのなかだった。 
わー。 こんなのはじめて。

キッチンの隅っこに立食のテーブル(クロスあり)があって、飲んでいた飲み物も持ってきてくれて、大勢の人たちがわらわら真剣に働いているところを眺めながらおそらくコースの締めになるバークシャー豚さん(でっかいやつが森のなかにいる)3片をいただいた。 お腹ぱんぱんだったがとろんと甘い脂身とひたひた苦いラディッキオの組合せがとんでもなくおいしいのでもぐもぐいってしまった。いろいろ信じられない。 至近距離で育てられたものを目の前で調理して、自分のなかに取り込む、というのは、例えばこういうことで、それってやっぱり学ぶ、ということなんだよね。

結局ぜんぶで27コース、うちデザート3。怒涛の約2.5時間だった。
最後、もうこれ以上いったらしぬ、となったところで、でっかい巣蜜のボードの上、ひたひたになった蜂蜜のじゅうたんの上にチェリーとかベリーとかカラントとかが敷きつめられて出てきたので、ああこの上で寝たいよう、と食べながら悶絶した。

かつてquestlove氏がInstagramで自慢していた4時間で46コースに及ばなかったのはちょっと悔しいので、今度はもっと早めに入って、死んでもいい覚悟でかぶりついていきたい。 
好き嫌いの激しいひと、小食のひとはやめたほうがいいです。

レストランの外に出たら別の建物の二階のホールみたいなとこで爆音のNirvanaにあわせて大勢の子供たちがぴょんぴょん跳ねていた。 月夜の深夜12時。 あれはなんだったのか。

8.03.2016

[art] Edgar Degas: A Strange New Beauty

土曜日の昼間、"Love & Friendship"を見たあと、5th Aveを駆けおりて、MOMAで見ました。
観光シーズン、土曜日の昼間、チケット売り場には長い列で泣きたくなったが、しょうがない。

これまで、ドガに関してはどっかの/どこの大ザル系展覧会・美術館に行ってもあるような踊り子のシリーズがなんとなく嫌で(いったい何枚あるねん)きちんと見ることをしてこなくて、それが少しだけ覆ったのは2013年のMorgan Libraryで見た小さい展示"Degas, Miss La La, and the Cirque Fernando"で、あそこで見られた妙に歪んだ、みっともない人体の変態ぽさはなかなか印象に残るものだった。

で、この展示はまさに"A Strange New Beauty"としか言いようのない新鮮さに満ちていて、たいへんびっくりした。

ドガのMonotype - 単刷り版画 - 木とか金属に直截インクや絵具をたらしたり絵を描いて、その上に紙をプレスして図を転写する - を中心とした展示で、ひとつひとつの絵は小さく、殆どモノクロだし地味なのだが、そこに刻まれた - いや刻まれるという言いかたはちょっと違って、染みでたり滲んだりしたようなかんじ - それはそのままそこに描かれた人物(の顔)や人体の存在、重みのありようそのものでもあって、インクの濃淡で浮かびあがった人の貌や身体のでっぱりへっこみの異様さ、なにがあったのかしら、という痛ましさがダイレクトにくる。

近いところで思い浮かべたのはムンクで、でも彼の絵や版画の背後にある夢やエモや妄執が希薄なぶん(ドガをあまりきちんと見てこなかったせいもあるのだろうが)形象としてなかなか異様にぶつかってきて、うわー、だった。初めて観るかんじの顔、というか。
一枚一枚が小さい分、展示の物量は結構あって、ただ時間がなくて泣きそうで、ざーっと見て、なんか物足りなかったのでカタログ買った。  知らなかっただけなのだが、まだまだ未知の領域はあるんだねえ、勉強しないとねえ、だった。


MOMAでもうひとつ見たいと思っていた展示が:

Nan Goldin: The Ballad of Sexual Dependency
1986年にApatureからリリースされた、誰もがその表紙を知っている記念碑的な写真集の、ブレヒトの「三文オペラ」の曲(”Ballade von der sexuellen Hörigkeit”)からタイトルを取っていて - それの30周年だかなんだかの展示。
前の日にICPで見た展示とも絡むのだが、この30年間のセクシュアリティとかプライバシーとか、或いは親密さとかとげとげしさとか痛みとか、のありようで変わってきた部分、変わっていない部分、それってなにで、なにがそれらをそう感じさせるのか、等々について。
彼女の写真て、リアルさとは少し離れたところでなにか考えさせる文学性みたいのがあって。 そのへんが荒木経惟ともRyan McGinleyとも少し違う気がする。 密室感がものすごいかも。

上映されていたフィルムは時間がなくてちらっと覗いただけだった。
カーテンの隙間からちらっと覗くというのがまたねえ … 


関係ないけど、The Film Society of Lincoln CenterからArnaud Desplechinのサイン入りFilm Comment誌が届いた。
うれしー。

8.02.2016

[art] The Keeper

22日、金曜日の午後の美術館、ダウンタウンのほうへ。
とにかくあっつくて、美術館の建物めがけて一目散に退避するかんじ。

まずはNew Museum。 ここの屋上、久しぶりに出てみたかったが土日しかオープンしてなくて、それでよかったかも。

The Keeper

ほぼ全部のフロアを使っていろんな"The Keeper"がKeepしたもの達を展示している。
The Collector、ではなくて、The Keeper。 自身の収集欲を満たすために自分から出ていって集める、Collectする、というよりはもう少し開かれたなにかのために、だれかのために、やってきたもの/流れてきたものをKeepする、置いておく、というかんじだろうか。

Keepされていたモノはいろいろで、変てこなオブジェとか、動物の手作りフィギュア(かわいい)とか、きれいな鉱物とか、ひとりのひとのスタジオのポートレートを延々追ったものとか、ナボコフの蝶標本(いきなりあったので少しびっくり)とか、Harry Smith (あのHarry Smith)のぐるぐる紐標本(なんか謎)とか、日本人だと大竹伸朗のスクラップブックとか、なにをKeepしようが勝手だけどさー、なのだが、一番圧倒的だった見ものは、Ydessa Hendelesていうひとの、フロアのほとんどを使った"Partners (The Teddy Bear Project)" (2002) ていうやつ。

やや照明を落とした部屋に、子供とか家族のTeddy Bearと一緒に写っている額縁写真が壁にびっちり約3000枚。ぼろぼろのTeddy Bearも何匹か置いてあって、ほんのりノスタルジックな、主人のいなくなった子供部屋、のような雰囲気が漂う。
でもどの写真のなかにもTeddy Bearがいて、おそらく彼ら一匹一匹には名前があって、子供が抱きついていたり子供に抱きついていたりして、ガラスの目でじっとこっちを見ている。
すべてのひとには子供時代があって、子供には親があげたり祖父母があげたり人から貰ったり先祖代々受け継がれたりしたTeddy Bearがお守りみたいにくっついて子供と一緒にいて、やがて子供は大きくなってフレームからいなくなるけど、Teddy Bearと写真はずうっと残ってそこにある。それが3000枚、そうやって確保された子供時代のいろんな毛玉、宝物。
(ところでTeddy Bearって、「匹」っていうのか「頭」っていうのか「体」っていうのか)

Museum ShopにはTeddy Bear達がいっぱい置いてあって、ものすごく悩ましかったが、ごめんね暑いし連れていけないんだよ、って目を合わせないようにして出たの。


そこからBoweryを歩いて3分のInternational Center of Photography(ICP)へ。
新しい場所にやっとオープンした。

Public, Private, Secret

新オープン記念の展示。
http://www.publicprivatesecret.org/

展示されているのは、Garry Winogrand, Andy Warhol, Cindy Sherman, Nan Goldin, Larry Clark, Weegee, Kim Kardashian, 吉行耕平,  などなど。
写真だけじゃなくて動画に音声、インスタレーション、大きいの小さいの、眩しいの暗いの、”Public, Private, Secret”って結局自己とか自我を巡る世界まるごとぜんぶ、そのままじゃん、みたいなかんじはして、リニューアルのお祝いだから大風呂敷でよいのかもだけど、次からがんばろうね、ておもった。

1階のカフェはなかなかよさそうだった。 けど時間ないので再び炎天下に出ていったの。

8.01.2016

[art] diane arbus : in the beginning

もう8月になってしまった。  … 亡命したいよう。
NYの美術館関係のあれこれをどうするか少し考えたが、時系列で適当にまとめて出すことにした。

22日、金曜日の午前のやつから。
全体に時間がなくて、朝いちばん早くにやっているのはMetropolitan Museum (MET) だったのでとりあえず、という感じで行ったのだが、観光シーズンだった..
10時前に行って入場の列に並ぶ、という初めての経験をした。 以下、見た順に。

Turner’s Whaling Pictures

METの5thでいちばん見たかったやつ。 でも展示は小さな部屋ひとつでこじんまりとやっていて、展示されている絵はMET所蔵の1枚とTateからの3枚のみ。 海に向かうTurnerは鯨と鯨捕りの人たちをどう捉えたのか、というのがひとつ、もうひとつはこれらの絵(1845 - 46に描かれている)はMelvilleの「白鯨」の描写に影響を与えたのかどうか (白鯨の出版が1851年、Melvilleはロンドンを1849年に訪れている)
影響与えた与えないはもちろんわからないのだが、Turnerの絵の乳白色の靄の奥、向こうになんかでっかいのがある/いる、言いようのない力が蠢いている、という印象がMelvilleのあの小説の不気味さになにかを与えたのだとしたら、とっても興味深いし、おもしろいことよね。
小さい冊子買った。

Court and Cosmos: The Great Age of the Seljuqs

館内を移動する途中にばたばたと通過した程度だったが、11世紀から13世紀頃までのセルジューク朝の繁栄、その広がりを遺跡に遺されたいろんな欠片、彫刻、衣装、貨幣、天体観測器、本、などなどを通して包括的に概観する。 
当時の人々にとっての世界、世界観まるごとぜんぶ、金箔張りのコーランとか歌の本とか、(周囲に誰もいないので)とても敬虔な気持ちになる - けどばたばた次に行く - ごめん。

Crime Stories: Photography and Foul Play

これも小さい部屋での展示を通りすがりに。
犯罪現場、犯罪者を記録する道具としても機能していた写真初期の1850年代から現代まで、写真にとって犯罪、悪いことをしたひと、はどういう意味をもっていたのか、とか、これらはどうやってアートになっていったのか、とか。
写真は有名無名のいろいろ - Richard Avedon, Larry Clark, Walker Evans, Weegee, Andy Warhol, などなど。
個々の構図がどうの、というよりも、ずらりと並べられた面構えが圧巻で、しかもみんなほんもんの皆さんなので、ちょっと怖くなった。

Manus x Machina: Fashion in an Age of Technology

毎春恒例のCostume Instituteの特集展示。Costume Instituteのいつもの場所にいったらそこではやってなくて、慌てて戻ったりしてしっかり時間ロスした。 ちゃんと確認しとけ。

入口にばばーんというかぎんぎんに飾ってある(20フィートに渡ってびろーん)Chanel (Karl Lagerfeld)によるWedding Dress (2014)、手か機械か、は別として一見の価値あり、ということだと思うが、どうかしらあれ。
Wedding Dressを鎧(示威行為)のようにみるか、お花畑(ファンタジー)としてみるかの違いとかもあるのかも。
個人的にはSomerset Houseで見たValentinoのとか、V&AでみたVivienne Westwoodとか、ここの展示でいうと全身毛玉に毛玉を重ねたみたいな手編みのIrishのWedding Dressのほうがよかった気がした。

テクノロジーの時代におけるファッション、ということで、手 - hand (manus) vs 機械 - the machine (machina)か、という二項対立、というよりも、いまはどっちみちMachinaしかないのだがら、MachinaでどこまでかつてのManusの領域に行くことができるのか、というのが主題のように思えて、では、はて、それって果たして美術館で考えるようなことなのだろうか、と。

たとえば、Machinaによる20年代のChanelの寸分違わぬ見事な再生仕事も展示してあって、それってもうオートクチュールでもなんでもない、パターンも、その組み合わせも、サイズ調整もぜんぶ思いのまま、そんなの別にニーズに応じてやれば、というだけのこと。

で、それをなんで美術館で、というと、まさに、だからこそ、美術館問題なのだな、というのがわかってくる。
"Manus"の介在する余地がなくなったとき、「アート」はどこにいってしまうのか、という例のいつもの。


ここまでがMET 5th Avenueで、そこから歩いてMET Breuerに行った。 とにかく暑くて、Madison Aveを隔てた反対側のSant Ambroeusのアイスクリームを食べたくてたまらなくなったが時間がないので我慢する。

旧Whitney美術館がMETの分館として建物の設計者のMarcel Breuerの名をつけて蘇ったのは本当に嬉しくて、岩のなかに入ったかのようなひんやりしたエントランスも、でえっかいエレベーターも前のままだし、階段の踊り場の隅にあった変なアート(だよね、あれ?)も残されていた。 よかったよかった。 やってた展示はふたつ。
どちらもおもしろすぎて悶絶。

diane arbus : in the beginning

2005年にMETで行われたDiane Arbusのレトロスペクティブ - “Revelations"はじつに見事なものだったが、この展示は彼女のキャリアの最初期、Diane ArbusがDiane Arbusとなった最初の7年間 - 1956から1962年に撮られた写真にフォーカスした展示。
これらは2007年に彼女の娘たちから寄贈されたもので、"Revelations”のとは余り被っていない。

ほぼ全て同じサイズ/判型のモノクロ、NYのいろんな場所で撮られたいろんな人達、風物。ものによっては少しボケていたり、後の彼女の写真の登場人物が示す輪郭の強さ/存在感には届いていないのだが、被写体に寄せる眼差し(= 被写体がこちらを見つめる目の強さ)は既に彼女のものとしか言いようがなくて、カメラを抱えて彼らにひとり向かい合う彼女の震えと緊張感が伝わってくる。それらに囲まれているとざわざわしたNYの雑踏や臭気まで漂ってくるようだった。

初期のデモ音源、そして/しかし既に彼女の歌声はじゅうぶんにできあがっていたのだと。
カタログ買ってしまった。

Unfinished: Thoughts Left Visible
Diane Arbusから上に階段のぼって、2フロアに渡って展開されていたやつ。 うわー、としか言いようがない。
古典からモダンまで、未完に終わったんだか、未完になってしまったんだかの作品ばかりを集めている。
絵画だけでなく、彫刻も、オブジェも、インスタレーションも。 習作、デモ、失敗、放棄、どう呼ばれようと事情はそれぞれだろうし、会場にはBarnett Newmanの言葉 - “The idea of a ‘finished’ picture is a fiction.”も貼ってあったりするのだが、「問題」はとにかくおもしろすぎる、こんなにおもしろくていいのか、ということに尽きる。

ふだんの展覧会で「完成品」を追うときの目線や思考の経路とはぜんぜん別の思念がこれら「未完成品」の前では渦を巻いてて、でもそれってなんなんだろう、と。 絵が「未完」とされた途端にanother/alternative viewが起動されるのだとしたら、「未完」ていうのはただのラベルにすぎないのか? とか。 変な譬えだけど、食べかけのご飯を見てどれくらいおいしいものかを推測する愉しさ、というか。
食べかけ、齧りかけの生々しさ、というのは「完成品」にはあまりないやつかも。

有名なLeonardo da Vinciの”Head of a Woman (La Scapigliata)”から、沢山のRembrandt、Poussin、Rubens、Tiziano、Velázquezなどの古典、Manet、Corot、Cézanne、Picasso、Morisotの”Reading” (すてき)、Lucian Freud、ぐりぐりのKlimt 、Elizabeth Peytonの"Napoleon"、Turnerは部屋がひとつ用意されているのだが、もやもやすぎてなにが未完だかさっぱりわからないおかしさ、途中で飽きちゃったのかPollock、貼りテープが生々しいMondrian、Friedrichまであったり、これもよくわからないCy Twomblyとか、日本からは草間彌生とか宮島達男とか。 とにかくほんとにいっぱい。 完成品と比べたらこっちのほうが数は断然多いのだろうけど。 
これ、常設にしたっていいのではないか。... ないか

カタログは散々悩んで、やめた。