2.03.2014

[film] RIP Philip Seymour Hoffman

月曜の朝に訃報を知って、もうこの一週間ぜんぜんだめだとおもった。 それくらい脱力してなんもやるきにならない。

90年代以降のアメリカ映画の流れのひとつの軸にPaul Thomas Anderson (PTA) を置くことができるのかどうか、わたしはできると思うのだが、その彼の映画に特徴的な色 - 淡い、漂白された、脱色されたかんじ - 例えば"Boogie Nights"のプールの色、"Magnolia"のあの光、などなどを決定づけていたのがPSHの存在だったようにおもう。 (PSHが出ていない"There will be Blood"ははっきりと異なる色をもった映画、のような)

たんじゅんに弱い、とは言えない、ぶよぶよ柔らかくて決めきれないなにかを内側に抱え込んでいることを、掌握しきれていないなにかがあること、それが手の尽くしようもないことを知って途方に暮れていることを、それらの弱点を外側にふにゃりと曝すことができる、それを演技として示すことのできる稀有な役者さんだった。
その弱さと優しさが演技とは別の次元でこちらにやってくる - こういう奴いるよねー とかそういうつまんないはなしではなくて、彼の演技を媒介として彼が演じたようなキャラクターの存在、在りようが世界(神、とはいうまい)に許される、場所を与えられる、そんなふうな動きと微笑みの愛おしさが常にあって、それが永遠に失われてしまったことをみんな悲しんでいるのだとおもう。

声もすばらしく、その細く透明な声と息づかいは、あるときは冷たく残酷に、あるときは絶滅危惧種の動物のような弱さと悲しさでこちらに聞こえてきた。 どちらも親密でダイレクトな声、それは例えばラジオの向こうの演説のように響くのではなく、いつも耳元で震え、囁くように聞こえてくるのだった。

思いだしてみると、生もののPSHを4回、見ている。

最初は2003年、ブロードウェイでの“Long Day’s Journey Into Night”で、 PSHは長兄Jamie役、父と対峙しつつ泥沼に沈んでいく家族を夜の、世界の縁に立ち、たったひとりで受けとめていた。

次がその1ヶ月後くらい、BAM Cinématekでの"Punch-Drunk Love"のDVDリリース記念のトークで、PTAの横の高椅子にちょこんと座り、短パン+サンダル姿でずっともじもじしているのだった。 あれこれ雄弁に語るPTAの隣で、コメントを求められると「fxxx...」と微笑みつつごにょごにょ言う姿がとってもチャーミングでたまんなかった。
そしてその場で披露されたあのマットレスのCMは場内を驚愕と爆笑の渦にたたきこんだのだった。

その次は2010年、Jonas MekasのAnthology Film Archivesの寄付金集めイベントで、Sonic YouthとかKenneth Angerとかが順番にライブをやっていったのだが、そこで突然登壇したPSHは、「いいかーみんなー、なんにも言わずにテーブルの上に置いてある紙にだまってサインしろ~、金を置いていけ〜。ぜええーったい価値あるんだから〜」とか怪しい宗教家みたいに煽りまくってすうっと消えたの。
(その直後に登場したのがLou Reedだったんだよなあ...)

最後に見たのは2012年、これもブロードウェイでの“Death of a Salesman”、だった。
このくらいになると、PSHが出ている、というだけで見たくてたまらずチケット買って行ったのだが、観客すべてを号泣の渦にたたきこんで、もう貫禄たっぷりだった。

これからもずっと見ていたかったのに。 彼が呆けた老人病んだ老人をその歳になったときにどう演じていくのか、どんなふうにひとを困らせ惑わしていくのか、そのとき彼はどんなふうに笑うのか泣くのか。

とにかく、もうあの微笑み、彼にしかできなかったあの笑顔は見れないんだなあ。

ご冥福をお祈りいたします。安らかに。


あー。 "The Hunger Games: Mockingjay" はどうなる?

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