18日の晩、たまたま時間があいたときに六本木でみました。 すぐ終わっちゃいそうだし。
すでに飛行機で見ていたので落ち着いてじっくり見ることができた。
あの邦題は「黒執事」と被ることを避けたけっか、妥協の産物だとおもいたい(殴)。
南部で奴隷の一家の子として生まれたCecilが母を強姦され父を撃ち殺され、かわいそうだからとハウス・ニガーとして教育を受け、家を出てから執事として精進して、やがてホワイトハウスの執事として雇われて、7人の大統領に仕える。
Cecil (Forest Whitaker)自身の人生と、長男Louisが身を投じた黒人解放運動の流れと、次男Charlieが殉じたベトナム戦争と、妻Gloriaを中心としたサークルと、Cecilの仕事場で来ては去っていく大統領あれこれと、いろんな柱があって、それぞれを通して見えてくる、互いに見えたり見えなかったりするアメリカ合衆国の歴史。 よくできた大河ドラマとか連続TV小説みたいに、人生の大波小波がざばざばと寄せては返し、アメリカて、人生て、とかいろいろおもう。
もちろん日本人とアメリカ人とでは、更にアメリカ人のなかでもAfrican-Americanとそうでない方々とでは、その受け取りかたは異なるはずで、その異なり・隔たりをあえて際立たせるような描きかたをしているように思えて、その隔たりを超えてアメリカ万歳とするとか、その隔たりの深さ多様さこそがアメリカなのだがどうか、と問いかけるとか、いろんな言いよう考えようがあるはずで、そういういろんな考えのパスを示しているところはえらいなー、というのと、でもそんな違いなんて別にどうでもいい - 吹き替えじゃないなら洋画なんて見たくない、て言うような最近の子供にはなにひとつ訴えないのではないか、とか。
たったひとつの歴史、ひとつの言葉しかない(それしか見たくない見なくてよい) - という愚かなアタマが修正主義だなんだ、というしょうもない議論を生んで、それが世界中から非難をあびる。 でもそれを言うひとにはそれのどこが悪いのかぜんぜんわからなくて居直る。 というバカのスパイラルをどうすべきか、みたいなことまでつい考えてしまう。
Cecilの、あるいはLouisの長い長い旅はオバマが大統領になったら終る、というものでは勿論なくて、そんなところで落着するように見えてしまうとこだけ、ちょっと、だったかも。
あとはいろんな役者さんたちがほんとに楽しそうにそれぞれの役を演じている - つまりそれぞれの時代に確かに生きていたそれぞれのひとを、彼らの見つめたもの、その動きをしっかりと受けとめるように演技しているように見えて、なんかよいかんじがした。 歴史を継ぐ/学ぶっていうのはこういうことでもあるの。
特にForest Whitakerの、サーブしている間自分はなにも考えていないというふりをしなければいけない、という多段の演技の切れ味ときたら。 座頭市みたいにすごい。
大統領だとJohn CusackのニクソンとAlan Rickmanのレーガンが圧倒的に楽しかった。
クリントンとブッシュは旧SNLのメンバーにやらせればよかったのに。
プロデューサーの数、多すぎだろう。 何人いるんだ。
2.23.2014
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