都知事選の前に気を引き締めていこう、ということで8日の昼間、渋谷で見ました。
311以降、無人地帯 - "No Man's Land" - と化してしまった福島周辺の光景を記録したもの。
冒頭のナレーションにもあった通り、いまや我々はこうした災害映像のAddict(或いは犯罪現場映像の … 或いは癒し映像の … )になってしまっている。
そんな映像を見て衝撃を受け、例えばボランティアに走る、反原発のデモに参加する、自分でできることはないか、等々を考える、ということをする。 そんなふうな感情の揺さぶりとか行動を起こさせるような映像を見る側も作る側も求めていて、そういう需給サイクルが回っているなか、311関係はもううんざり、になってしまう。
そういう需給関係って、そこに留まることで状況にはなんにも作用しない(せいぜい、悪いのはこいつだあいつだ、と犯人捜しをする程度)ことがわかっていて、でも、じゃあみんな逮捕して裁判すればなにかよくなるというのか - ならねえだろ。 などなどなど。
冒頭、映像がぐるーっと360度まわって、そこに映し出されるありえない惨状。 べつに死体が映っていたりするわけではないが、本来あるべき場所にはない船とか逆さまの車とか崩れた建物とかむき出しの柱とか壁とかその破片とか瓦礫とか。ひとはいない(無人地帯)。風の音に鳥や虫の声みたいのは聞こえる。一瞬原発の煙突が見える。 ぐるり360度そう、ということはこれはセットではなくて、まちがいなく現実の世界を映したもので、それはかつてあった世界 - 有人地帯とは異なる、ぜんぜん異なるなにかで、それまであった世界がこんなふうな世界に突然変貌してしまったことの驚異が、まずくることになる。
この強い映像をまえに、我々が考えることってなんなのだろう、というのがこの映画の起点で、その思考は映された - 壊れている世界に対してどんな作用をすることになるのか、というところまで我々を運んでいく。 家や田畑や植木を潰され、家族から離された被害にあった人達のインタビューは、我々を怒りとか悲しみとかそれらへの共感とか、そういったところに導かず、彼らは幽霊のように漂っているかのようで、つまりは無人地帯に、ひとが無い世界にいるそれで。 で、そういう世界って… と考えはぐるぐるまわっていく。 黙ってみることしかできない。
動物とか草花はいるし、元気に動いていて、ひとだけがいない - その隔たりを作ったのは放射能という目に見えないもので、目にみえないそいつが、この無人の映像を生んでいる - ここに映っているのはひとの替わりとして置かれた放射能の姿そのもの、なのかもしれない。 とにかくみろ。
そこに柔らかな英語のナレーションが被さる - 身内のみの言葉から離れてしまうことで世界は改めて異化されたものとして現れて、でも同時に強い同化の要請のなかにある土地であることを改めて思い起こさせるの。
Barre Phillipsによるコントラバスを中心とした音楽は強い風となり波を呼んで道をつくる。
獣道を吹く風 - "Route One USA" - (1989) で鳴っていたのとおなじように無人と有人の間のパスを。
制作中というパート2には「時間」という要素が出てくるのかしらん。
2.11.2014
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