10日の土曜日、池袋で『レヒニッツ(皆殺しの天使)』を見た後、新宿に移動して、特集上映『のんきな〈七里〉圭さん』 から2本続けて見ました。
こいつは見ねば、というかんじではなくて、なんとなく、のんきなかんじで。
最初が『眠り姫』。
ずっとロングランが続いている作品であることは知っていて、そういうことなのかー、とおもった。
人の影はほんの数回、幽霊のような形しか出てこなくて、だるくて眠くて職場に行くのがおっくうな中学校の非常勤講師(女性)の独白と彼女のまわりの人たちとの会話、彼女を取り巻くいろんな音、サウンドトラックの音楽、これらが中心にある音の映画。 音の濃度はとにかく圧倒的。
気配、ってなんなのか、と。 なにかがいる、なにかがある、そのなにかの確かさをより確かにするのは音であったり、光と影であったり、輪郭であったり、対象との距離感であったりするのだろうが、主人公が自身と世界との間で喪失しつつあると感じているなにか、主人公が「変だ」と言い続けるなにかを伝えようとしたとき、気配、というのがひとつあることは確かで、映画はそいつを、映像としてどうやって捕捉するのか、できるのか、その裏に表に音はどんなふうにひっついてあるのか。
んで、更に、それらの気配は必ずしも自分のものとして感じられるのではなくて、すべてが他人事のように半端に浮かんでくるのでより厄介なの。だから自殺するほど大変なことではないし、ただただなにもかも面倒になって布団にもぐるしかない。
だから、映っているのは主人公の白日夢でも幻視でもない。最初のほうで女性の短い絶叫が響くのだが、だからといってなにひとつ醒めることはなく、そのまま続いていく。
それは普通の人の生活といえるのか、いへ、それは姫の暮らしなのだと。
そういういろんなのを頭のなかから具体的に音と像に起こしていくのは大変だったんだろうなー、とか。
原作の漫画は読んだことがなかったのだが、後のトークでおおもとは内田百閒の『山高帽子』であることを聞いて、あー、て思って、帰ってから引っ張りだしてほぼ30年ぶりに読み返してみる。(旺文社文庫、81年初版、だよ)
猫が喋るとことか手の形が変(変だよねえ..)だとか、薄明のなか、全てが他人事で無責任で、バランスを欠いた変な厭世観は映画のなかにも伝染して充満しているのだった。 百閒の空気と濃度って、伝染するんだよね。
ここで切り開かれた知覚の扉の確かさを検証するためにも、例えば映像を消してみたときにどうなるかを探ってみるのはおもしろいはずで、だから17日のイベント『闇の中の眠り姫』はとっても画期的だったはず - 闇の中で眠り姫はどんな活躍をみせたのだろう - なのだが、闇以前に低気圧に負けてしまったのだった。
続いて19:00から『のんきな姉さん』(2004) を。
クリスマスの夜に会社で残業している姉(上司の三浦友和も残業してる)のところに、姉との禁じられた関係を書いた小説を送りつけて、ぼくはこれから雪山で死んじゃうんだからね! と電話してくる弟。
彼らの現在と過去、そのありえたかもしれないいくつかの軌跡を、あってもおかしくないクリスマスの打ち上げ花火として描く、というか。
原作は山本直樹の漫画で、そのおおもととして唐十郎『安寿子の靴』、森鴎外『山椒大夫』が。
「眠り姫」に弟がいたら、例えばこんな話しも成立するのかもしれない。
姫の、何もかも他人事である、としてしまう態度を「のんき」と置いてみて、そこにすべてを自分事として真に受けて苦悩する弟をぶつけてみる。そのぼんやり/きりきりとした相克を愛と呼んでみることは可能なのか、世の中の全ての愛なんてこんなようなもんなのではないか。 例えば。
35mmフィルムでの上映で、この点も「眠り姫」のデジタル上映とは対照的で、やわらかい系の色のかんじがすばらしく、いろいろ考えさせられるのだった。
11.18.2012
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