2.28.2012

[film] Young Adult (2011)

26日の日曜日の朝、恵比寿映像祭にJonas Mekasを見に行ったらチケットは売り切れてて入れなかった。

キャンセル待ちもStand-byもありません、と役人のようにぴしゃんと返される。
そりゃちゃんと確認しなかったこっちがわるいんだけどさ、あのがちがちの突っぱね方はないよな。
他の映画祭とかはもっといろいろあれこれ言ってくれたりやってくれたりするよ。
なーにが、"How Physical"だわよ。 ちゃんちゃらおかしいわよ。

と、ぶつぶつぐらぐらと「怨」の字を抱えつつ、プランBで新宿に向かい、"Young Adult"を見ました。 もういっかい。

見たあとで、胸がすっとするような映画ではないことはわかっている。
主人公は最後になにかをふっきったかのように車で走り去るのだが、その先に幸せがあるとも思えない。

ほんとにねー、なんでこんなんなっちゃったんだろうねー、これからどうするんだよなー、という"Road to Nowhere"なかんじ、その居心地の悪さにびっしょりと浸るためにこの映画は必要で、いまどきこんなにどんより切なくしょんぼりさせてくれる映画も珍しい。

だいたいさー、映画みて元気になんなきゃいけないなんて決めたのだれだよ。大きなお世話だわ。
と悪態をつきつつ、いつまでこうやっていくんだ? と少しだけ思ったりもする。

MavisもMattも、みんなすぐそばにいる。 みんなだいすきだよ。 でも一緒にはなれないんだ。さよなら。
この無邪気さと底意地の悪さを併せもつ(それは美点とは呼ばれない。なんでか?)おとなこどもとしてのヤングアダルト。
でも、他方、Buddyみたいな家庭のひとを立派なおとなだとはやっぱり思えないんだよう。

主人公の実家の部屋に10,000 Maniacsの"Our Time in Eden" (1992)のCDが置いてあるのを見つけた。  あるよねー。 これならBellyもLushもLisa Loebもどっかにあるだろう。

この映画の選曲がえらいのは91~92年頃の曲を中心に拾っていながら、NirvanaもPearl JamもSmashing Pumpkinsもまったく入ってこないところだ。 階層がちがうと。

当時の曲でいうと、Sophie B. Hawkins "Damn I Wish I Was Your Lover" (1992) なんかは入っていてもよかったかも。 ちょっとベタすぎるかなあ。
あと、Mattの曲、ということでいうとBlind Melonの"No Rain" (1992) とか。

どろどろグランジの「リアル」に淫した若者達が野蛮に七転八倒するその横で、こんなにもナイーブで切実な音楽もちゃんと鳴っていたのだ、ということをその20年後にきちんと描いた、これだけでもこの映画はよいと思うの。

で、新宿のユニオンでレコード漁って、また恵比寿に戻ったのだった。

2.27.2012

[film] Road to Nowhere (2011)

25日の土曜日、髪の毛切った後で見てきました。 ようやく。

うううこれならあと2回でも3回でも見れるのに、なんでもっと早く見なかったんだろばかばかばか、な作品だった。 ほんとにすばらしい、極上の蟻地獄だわ。何度でもずるずるにはまりたい。

2004年にBAMで"The Shooting" (1966)の上映(たしかNew Printだった)があって、その前年、リンカーンセンターの『断絶』(1971) - もちろん初めて見て - でレンガで頭をぶん殴られていた自分は当然のように見に行ったのだが、上映後にMonte Hellmanのトークがあったの。

そのトークは、『断絶』のメジャー公開時の話しからなにからめちゃくちゃ面白かったのであるが(そこで『ミツバチのささやき』は史上ベスト3のうちの1本に挙げられていた)、その最後に、来年には新作ができあがる。 西部劇になる! といったら会場がどよめいたのだった。

で、その「西部劇の新作」- 7年後の - がこれだったのか、な (?) と。

「実際に」あったノースカロライナの州議会議員の醜聞が絡んだ殺人事件(+自殺?)を題材に映画を撮る、そのキャスティングと撮影の現場、ふたつの死体、実際の事件をレポしたブロガーと実際の事件の真相を掘り続ける保険調査員、実際の事件の背後にいるらしいハバナの黒幕、などなどが、ノースカロライナ、ハリウッド、ハバナ、ローマ、ロンドン、などを繋いで何層ものぐるぐる特大の毛糸玉を投げてくる。

誰もそのほどき方をしらない。たぶんほどけることもないし、ほどけなくていい。

全てデジタルで撮影されたというその画調は過去も現在も撮影対象も被撮影対象もすべて同じトーンで切れ間なしに繋がっている。ラストのローレル/ヴェルマの顔は眠っているようにも死んでいるようにも見える。 表でも裏でもどちらでも。
こういうことをやるとわけわからなくなるはずなのにそうならなかったのは脚本が神業的にしっかりしているからだと思う。 ものすごい時間かけたのではないか。

明るいお話ではない、でも重くはないし苦しくもない。
フィルム・ノワールとはダークサイドを描いた映画だと、パンフで監督は言っている。
ダークサイドに光があてられることはない。あたったら、解き明かされてしまったらそれはダークサイドではなくなるから。 ダークサイドをそのまま、「人間の努力の裏側」 - by John Huston - としての犯罪のありようを慈悲もへったくれもなくそのまま提示してみること。 
見るほうは、そのままダークサイドにのまれてしまうこと。

"Road to Nowhere" - どんづまりがある、ただそこにある、ということ。 抜けられない。
かっこいいったらないの。

劇中で名前もでてきたアルトマンの映画だと、最後は土台の構成をひっくり返すような同様のぐじゃぐじゃになっても"A Prairie Home Companion"にあったような"Show must go on"的なやけくその開き直りに向かうところが多かった気がする。
こっちは"Road to Nowhere"、と。 トンネルの先はなく、監獄の扉は閉じられたまま。

エンドロールの最後に、"This is a true story" とでる。 ("Based on…" ではない)
これが、この映画で描かれた事の連なりと重なり、その厚みこそがTrue Storyである、というのもあるし、ローレル/ヴェルマとミッチェルの愛だけはほんもんだった、というのもある。 たぶん。

あと、これはあてつけであんま関係ないけど、"Road to Nowhere"で"True Story" (正確には"True Stories"だが)というとTalking Headsでもあるの。  種類はぜんぜん異なるものの、Tom Russellの音も、David Byrneの音も、どちらも、それぞれのやり方で「アメリカ」を志向していた、というところはあるのか。

「断絶」もやっぱし見たくなったかも。

2.24.2012

[log] Feb.24 - Okayama

木曜日の朝から日本の西のほうにある岡山というところに行った。おしごと。
引率、でもあって、プエルトリコ系のとイタリア系のとシアトル系のアメリカ人を連れている。

でも岡山は初めてなので、いろんなこと聞かれても答えられない。
日本の地理とか産業のこととか、聞かないでくれる。

空港から仕事場に向かう途中で、ひとりが「ピッツバーグみたいだ」と言う。
どう返したらいいのかわかんないわ。

ひとりはサラマンダー(山椒魚)の話しばっかりしている。
オオサンショウウオに会いたくてしょうがないらしい。
なんでサラマンダーなの? と聞くと、あんな格好の生き物がいるのが信じられない、のだという。
ホテルにある人工の滝を見て、あそこにいるかなあ? とかいう。
「うんうん、きっといるから探しておいで」と返すしかない。

ぜんぜん違う種類のわんわんを散歩させようとして実は好き勝手に振り回されているかんじ。
飲み食い携帯禁止エリアで平気でそれらぜんぶやぶるし。
そういうのは東京でやれ。 岡山まで来てやらないの。

ひさびさの現場の土方仕事(内職系)なので、なんかたのしい。
けど、やっぱりつかれて、さっき戻ってきた(3人、いちにち残して置いてきちゃった)。
金曜の晩の遊びに出るのは諦めて気がついたら床でねてた。

でも、Melvinsの豚さん2枚が届いていたので機嫌なおった。

2.23.2012

[music] Hostess Club Weekender - Feb.18

先週の土曜日、ここんとこ年寄り向けのライブばかりだった気がして、若者向けのも行ってみようか、ということでHostess Club Weekenderていうのに行ってみる。

2日間通しは体力的に無理な気がして、どっちかにすべし、となって、Owen PallettかSpiritualizedのどっちかとしたら、となって、でももうSpiritualizedでもなかろうという気がして、1日目のほうにした(で、こういう予想は大抵はずれるのな)。

金曜日の午後からずうっとお仕事でうちに戻ったのが2時くらいで、そっからお昼食べて昼寝したりして、恵比寿についたのは4時過ぎだった。

恵比寿のガーデンホール、なんて久しぶりなのかしら。 Fatboy Slim以来? …

4:30のWu Lyf っていうのから。 もちろん聴いたことなんかねえよ。 うー。

魚市場のダミ声とどかどかしたキックはすばらしいのに、なんであれにあんなベースとギター(とオルガン。なんでオルガン)を乗っけるかね。 使い方ちがうだろ、と思ってあとで説明書きみたらマンチェスターだった。 マンチェスターって、いまだにああいう理不尽とか不合理が通っちゃう世界なのねー。

それからOwen Pallett。
昨年、Dirty Projectorsの前座で見逃したやつのリベンジ。

「こぉんばんあ」みたいな挨拶して、ひとりでコマネズミみたいにくるくる演奏をはじめる。
ループを巧く使ってヴァイオリンの弦のしなりとはじきを波状攻撃で送ってくる。
うまいし、落ち着いてるし、揺るぎないし、ドラムスともうひとり(ギター、電気系)が加わって音の厚みとうねりの強度が増してからは、文句の出しようもないかんじ。

タイプは違うもののAndrew Birdの変てこで飛び道具で怪しげなようすはあんまりない、良くも悪くもうんとまっとうに「音楽」していたかも。 そりゃいいんだけどね。とっても。

最後のほうは彼の髪型と歌声がなんだか気になってしょうがなくなり、ドラムスの彼とふたりでメタルの格好してきんきんにやってほしいなー、とかそんなことばかり考えていた。
ひとがよさそうだから頼めばやってくれるかも。

それからThe Horrors。
何年か前、NIN絡みで"Primary Colours"を聴いたときには、そのあまりに衒いなく堂々としたPeter Murphyぶり、Ian McCullochぶりに「…」で、ライブはどんなもんかしら、だったの。

まず、出音がすごくでっかくて、二八分けのサイボーグみたいなキーボードとドラムスとベースでぜんぶ、真ん中にでっかいぼわーんとした音の雲を作ってそれでおわり、なかんじだった。ギターは遠くでたまにしゃりしゃり聴こえるくらい、ヴォーカルはなんか呻いているのはわかるけど、歌うたっているかんじはあんましで、なんか全体のバランスがめちゃくちゃで、でもなんかがんがんどかどか走りまわってて、そのへんがひょっとしたら"Primary Colours"をプロデュースしたGeoff Barrowさんの意図だったのかも、とか思わないでもなかったの。

本編が45分、3曲のアンコール入れても1時間10分くらい、というのもあの音ならいいや。
特にアンコールの終わりの長めのやつはやけくそだかなんだかわからん勢いで、要は酔っ払っていた、てことかしら彼。

2.17.2012

[music] アナログばか一代 - Feb.16

まいにちあまりにあれこれ過酷でしんどいので、午後になるとどうやって早く抜けてどこにいくか、とか、そんなのばかり考えるようになってしまった。

で、そんななかで久々のアナログばか一代に行った。
ずっと出張とかで行けていなかったし。
アメリカから戻ってきて以降(2006年からだよ)、いまだにアナログが聴ける環境になっていないので、ああいう音に飢えている、というのもある。
聴けてないレコード、たぶんもう300枚くらいあるわ。

この会、おもしろいんですけど、どう説明したらよいものか。
ライブではないし、試聴会、でもないし、レクチャー、というほど啓蒙してくれるわけでもないし(かけてる本人達が感動したりしているし)、漫談、というには喋らなさすぎだし、単にレコードをひっくり返しひっくり返し2時間半だらだらしているだけなの。

デートでこんなのに誘ったら次は間違いなくないとおもう。
でも、こんなんでも、ヴァレンタインだからラブソング特集をやるという。
リアルな愛を語るための、愛を盛りあげるための楽曲ががんがんかかる、なんてことは間違ってもなくて、化石とか琥珀みたいに干からびた太古の愛のかたち(塩ビ製)を掘り出してきて、おー、とか、わー、とか言いあう、そんな世界なの。

最初がElvisの7inch("Loving You")で、しばらくMonoの7inchシリーズが続く。
あったりまえに、圧倒的によいの。 50年代のアメリカ映画のなに見たって素敵なのと同じで、最初の一音、最初の一声からうっとりするしかないの。 

それがどんなに、は言葉ではむりだわ。 
おいしいお菓子がどんなにばりばりにおいしいか、食べてもらうしかないのと同じよ。
でっかい極上の真綿布団に全身を包みこまれて、その上から木槌で柔らかくぽこぽこ叩いてくれるような心地よさがえんえん。

でもまあ、うっとりしているのが(ほぼ)孤独な老人とかばかりなので、あんま美しくないかも。

他にはNeil Youngの"When You Dance I Can Really Love"の7inch Monoの別バージョンとか、Smokey Robinson & the Miracles(いいのこれが)とか、The Walker Brothersとか、The DoorsのFirstのMono(こないだのRecord Store Dayで復刻されたやつもおなじだろうか?)とか、サム・カプー(だれだあんた)の「ちょと待て下さい」とか、いろいろ。

カセットの音もなかなかいかった。 昔のラジオ音源だったのだがあんなにいいものなのかー、と。

昔のカセットなんか捨てちゃったよ、という話の流れで、断捨離はよくない、あんなのとんでもねえ、という訓戒もでた。
そうだそうだー、と。 でも、それは量あってもそれなりに整理できてるひとが言うから様になるんだねえ。 きっと。
まずは積んである箱の蓋を開けて、なかみを見ることからだね。

最後にかけたLenardo Cohenの新譜のアナログがすごかった。
録音はデジタルかもしれないが、それがアナログだとあそこまで艶めかしくシルキーなじじいの吐息として前面に出てきてしまう驚異。

最後の最後は、むかしの「3時にあいましょう」で"My Way"をマタギの恰好してとろとろに歌いあげる勝新の動画。  もうじき発売されるBoxには入らなかったブツ、ということでうおお、であった。 
昭和の頃は、こんな危ねえもんが午後3時のお茶の間に垂れ流されていたのだと。
ラブソングを歌う、ていうのはこういうことなんだ、と有無を言わさず納得させてしまう丸め技。

お帰りのときには、まだ店頭に並んでいない本の販売があって、あの人数で、買ってね!とか言われたら買わないわけにはいかないので買う。 おまけのCD-Rは、まだ聴いていないが、きく。


アナログといえば、こないだNYでさんざん悩んだやつがあって、Pere Ubuの"Final Solution"のオリジナル(たぶん)の7inchがねえ。 買っておけばよかったかなあ。次行ったときまだあるかなあ。 ぶつぶつ。

2.15.2012

[music] Univers Zero - Feb.12

「魔女」が終わったらもう6:30で、上映後のトークはごめんなさいして、吉祥寺に行って、みました。  わりとくたくた。

Univers Zeroがまだ続いていたなんて知らなかった。
というか、こういうバンドは地味に静かに続いていることも多いので、いちいち気にとめていない、というか。

"Ceux du Dehors"を聴いたのは高校のころで、当時はCabsとかTGとか脳によくなさそうな音ばかり聴いていて、これらR.I.O.系の音 - Art ZoydでもZNRでも - は少しは別の領域に世界が拡がっていくような気がしたの。
しかしその後、Eastern Worksから送られてきたRIOの作品カタログ(文字びっちり)なんかを見て、世の中にはこんなに聴かなきゃいけない音があるんだ、と絶望してこの世界とは少しだけ距離を置くようになったのだった。 (それにしても、これだけの時間が経ったのに、聴かなきゃいけないリストの量が減った気がぜんぜんしないのはどうしたものか)

当時の暗い目をしたぼんくらに、おまえはいまから30年後に"Dense"をライブで聴くことになるのだざまあみろ(よくもわるくも)、とか言ってやりたい。

入ったのは前座の最後の数分くらい。ここに最後に来たのはRichard Pinhasだったか?
一番後ろに立って見ると、しろあたまとはげあたまとまだらあたまの群れ。 「大人の休日」ふうのださいチェック柄多し。 やれやれ。

メンバーは6名、当然いろいろ変わっているようだが、Daniel Denis(これまでずっと、ダニエル・デニスだとおもっていた。すこしだけ衝撃)がメインにいる限り、だいじょうぶなの。

ネコがネズミを追っかけて、ネコは魔女にさらわれて、魔女は審問官に火あぶりにされて、審問官は悪魔に浣腸されて、悪魔は世界の鍋底で燻り焼かれて、ネズミがその粉をなめる。 この永劫にわたって螺旋状にのびていくかごめかごめ(ヨーロッパ音調)をそのまま音に起こしたような。
コミカルで軽快でヒステリックでゴスでダークで圧巻で、かっこいい。

ただ、その圧巻とか熱狂のありようがおじいさん達の神通力的ふんばり、ふうではなく、クラシックとか現代音楽のそれで、クールで、そこもまたかっこよい、と。  
みんなあたりまえのように巧いし。

当時は、エレクトリックギターの轟音も、シンセのノイズもなしに、クラシック楽器の、弦と管の擦過音のみであそこまで強く、猛々しい音を出せるということに驚愕したのだった。それは"Ceux du Dehors"のジャケットに映っているなんだかよくわからない禍々しそうななにかとしか言いようがなくて、それはそこからそれまで聴いていた英国のロックからヨーロッパのそれに目を向けさせてくれるきっかけにもなった。(RIO系のバンドというのはそのための恰好のガイドだったの)

それにしても本編最後に演奏された"Dense"の見事だったこと。中盤の手拍子のとこまできちんと再現されていた。 いや、それは「再現」というよりも、何十年もえんえん続いている彼らの戦いそのもののように力強く鳴っていたのだった。

というわけで、週のあたまから"Dense"の音がずうっとぐるぐる洗濯機みたいに回っているの。


上の話しとぜーんぜん関係ありませんが、バレンタインの日のFilm Forumは、"A Star is Born" (1937) と"Nothing Scared" (1937)の2本立て。
そしてBAMのCinematekは、"The Shop Around The Corner" (1940) !!   BAM、しみじみいいなあ。

2.14.2012

[film] Häxan (1921)

「ノーザンライツ...」の続きで、Benjamin Christensenによる1921年の「魔女」を。 
サイレントで、柳下美恵さんのピアノが伴奏でつく。

モダンアートの世界から一挙に古代まで遡ってしまう。 

これはおもしろかったー。 おおあたり。 しかしこれが公開禁止になったのか。
全体は7つくらいの章に分かれていて、本を読むかんじで進んでいく。

最初に古代のひとの世界観・宇宙観をざーっと紹介して、そのなかで昔からある悪魔とか魔女の起源とか位置を確認する。(おもに文献資料が中心)

それから悪魔や魔女がどういう姿かたちをしているのか(しているとされてきたのか)、を実写で示す。 これが適度にリアルで、うそっぽくなくてよいかんじ。

それから悪魔や魔女がどんなふうに人々をたぶらかしたり、悪いことしたりするのかを説明する。
僧侶を誘惑するには、猫の糞と鳩の心臓をこねて媚薬を作る、とかそれよか強力なのが欲しかったら雄の鳩を5月に煮詰めるべし、とか、いろいろと実用的な情報も教えてくれるの。

そこから中世の社会で、魔女はいかにして魔女になる(される)のか、というのと異端訊問の仕組みがでてくる。
ここんとこがこわい。 悪魔や魔女が、その姿や行状がこわいのではない、と。 ほんとにこわいのはそれを生みだす仕組み、システムなのだ、それが社会のなかで機能して、その機能が「正しく」動作して維持されてしまうことなのだ、という描き方をしている。  
そして、このシステムが年間数万という「魔女」をつくって、それを火あぶりにしてきたのだ、と。

ぶくぶくの僧侶・審問官と、その犠牲になる老婆や娘さんの演技のまじですさまじいこと、おっかないこと。

更に、そこから現代(映画の作られた1920年代)に飛んでしまうのもすごい。
たしかに魔女も魔女狩りも現代ではなくなったかもしれない、けど、社会にとって不合理だったり、都合のよくない挙動や現象を「魔女」的ななにかとして村八分したり抑圧したり「病気」 - ヒステリーとか神経症とか - にして「治療」しようとする仕組みそのものは、あんま変わっていないんじゃないか? と。  
そうだよねえ。 この映画から90年経っても、そんなに変わってはいないのよ。 このあたりは。

あとは、中世の拷問器具あれこれの解説も楽しかった。 見るぶんには。

柳下さんのピアノは見事にはまっていて素晴らしかったのだった。 が、それ以上にはまりそうな音楽も、あるところにはある。
というわけで箒にのって吉祥寺のほうに飛んだの。

[film] Olafur Eliasson : Space is Process (2010)

日曜日、ユーロスペースの「トーキョー ノーザンライツフェスティバル 2012」、というのから2本。

どうでもいいことだが、北欧系みたいなかんじのひとがいっぱい。
これがブラジル映画祭になると、ラテン、みたいなのひとたちでいっぱいになる。 
にほんじん、いろいろね。

オラファー・エリアソンの作品については、この作品のメインで出てくるNYの滝のも含めて、ふつうに押さえている程度だった。
特に好きでも嫌いでもない、きれいだなー、たのしそうだなー、くらい。

タイトルでもある"Space is Process"も含めて、もんのすごくあたりまえのこと - 見るひとの作品へのポジション、関わりかた、関わる時間のありようによって、作品は変わる、世界も変わる (超省略)-  ということを言っている。

でもこんなことさあ、50年代よか前からずっと言われていることだよねえ。
もちろん、それを実現するための仕掛け - テクノロジーとメディウムは今のもんなのかもしれない。
けど、そんなのアートの本質とはなんの関係もないし、それを新しげな「なにか」として提示されてしまうことにはどうも違和感がある。

いやいや今のアートはそういうのなんですよ、そうなっちゃったんですよ、と言われたらああそうですか、なんだけどね。

でも、最後のほうで彼がもっともらしく言っていたInclusiveなResponsibilityという考え方については、ううむ、だった。
そこまで言っちゃうのか、と。
たぶん、アートの社会的責任、みたいなところを言いたかったのかもしれんが。

彼のようなアートの形態(お金がいっぱい流れる大規模なやつ)のなかでこんなことを言い始めると、このResponsibilityを形作るヒエラルキーの最上位にくるのって、スポンサーとかコレクターとかディーラー(画商)になってしまいやしないか、と。
それでいいの? 結局のところキャッシュがじゃぶじゃぶ流れるとこに流れてみんなうはうはで、「観客参加型」なんて集金のためのただのお題目じゃねえの? とか思ってしまうわけだ。 (←要はメジャーで大規模なやつが好きではないらしい)

それでいいのです、こういうことを通して環境も社会も活性化するのです! なにがわるいのですか? なのかもしれない。
でも、そんなら、みんな大好きスポーツイベントでもやってりゃいいんだわ。

映画のなかでプロジェクトXしてがんばっていたイーストリバーの滝プロジェクト、あのアートを通して世界は変わった? あれって見る人の意識とか世界との関わりかたを変えたと思う?

あの滝が巻きあげる海の塩のせいであの辺の川べりにあった樹はみんな枯れてしまったんだけど、それでもやった価値はあったと思う? (ひょっとしてそっちのほうの「気づき」をもたらしたかったのか?)

滝の後でリーマンショックがあって、もう$15milものアートプロジェクトにお金出すひとなんて誰もいなくなっちゃったと思うけど、それでもやっていく? やる価値あると思う?

Occupyのあれって、どう思う?

とか、聞いてみたいところだわ。

本人が真面目で実直そうなひとだったので、がんばってほしいところなのだが、なんかあまりにも無邪気そうだったのが気になったのよね。

[film] J. Edgar (2011)

11日の土曜日、次郎長の第四部を見たあとに六本木で見ました。

次郎長の第四部は、不義理を働きそうになった三五郎に「生まれたときは別々でも死ぬときは一緒に死のうじゃねえか」て大政が言って、売られた喧嘩をきちんと買うべく全員横並びの勢揃いで束になってやってきた連中を思いっきり蹴散らす、そんなラストがしみじみ気持ちよくて快感の作品だったのだが、こっちは同じ群像劇でもぜんぜんちがうわ。 (ちがうだろ、そりゃ)

20年代から70年代まで、米国の警察機構のおおもとを作り上げ、その権力の中枢にあったJ.Edgarの一代記。
年老いた彼が自伝を口述筆記する、その内容に沿うかたちで行き来する過去と現在、彼の周囲にいて彼を支えた人たち(母、秘書、友人)との関わりを口述筆記(自己目線)の中心とその外側、の二層 × それぞれの時間のなかに描く。

J.Edgarは、ものすごい悪玉とか妖怪、のようには描かれてはいない。
「男なんだから強くなりなさい」という母の言葉に導かれて泣きながら自身をごりごりと改造し、アメリカの「正義」のためにFBIを立ち上げ、光も闇もぜんぶ取りこんで自分の元に置こうとする彼。

でも彼の - 彼だけではなく、彼のまわりの思いはなにひとつ成就されない。
彼の母への強い愛は、最後まできちんと応えられなかった(ように見える)し、秘書にプロポーズしてもあっさりふられるし、セレブと結婚しようとしてもClydeから怒られるし、Clydeの思いはずっとプラトニックなままだし、仕上げた自伝は嘘であることがばれてしまう。

仕事では完璧にがちがちの崩しようのない機構を(「アメリカ」を)作りあげたものの、リンドバーグ(の子供)は救えなかった、その容疑者もほんとうのところはわからない、その落着きと後味の悪さ、その反対側で、彼らが作り上げて強引にリリースしたゴシック太字の「アメリカ」。

ここには"Gran Trino"や"Hereafter"にあったふんわり天上と繋がっているかのような軽さはない。
全ては"J.Edgar"という固有名と、彼の眉間の皺にぎゅううっと収斂していく。 「だってママが言ったんだもん」と。

「ねえねえ、しあわせだったの?」 という問いには答えない。 とりあえず。

Tom Sternのカメラがとにかくすんばらしい。
J.Edgarのねっとりした道行きをほとんど笑うことのないその表情と、象徴的に用いられるハンカチ、固く冷たく固まった(彼の、母の)死体、それらにぎっちりと収斂させていく。
"Mystic River"のあの黒い河の流れが、そのまま大統領就任パレードの車列に重なっていく気がしたの。

[film] La Vallée close (1995)

金曜日の続き。 恵比寿でNew York Timesのドキュメンタリーを見た後、日仏のカプリッチ・フィルムズ特集に行きました。

Jean-Claude Rousseauによる『閉ざされた谷』。 IMDBではDocumentaire、だって。

地図を完成させるための(機能させるための?) 12のレッスン(と最後に凡例)、ということで、「基本方位」とか「方向の確認」とか「水源」とか「丘」とか、地図を作るのに必要なパーツや作業が各レッスン(のタイトルとして)提示されていく。 ただしレッスンのなかには、すっとばされているものもある。

レッスンと言っても具体的なインストラクションとか作業の結果が示されるわけではないし、そもそもそれがどこの、なにを表す、なんのための地図なのかは最後まで明らかにされない。 
或いはひょっとして、延々続く練習問題のようなもんなのか。

いくつか繰り返される映像(ただし同じものの反復ではない)があって、それは殆ど8mmで撮ったような粗めでローファイの、遠近もぐんにゃりした遠景、廃墟となったホテル(?)、廃墟になる前の(?)ホテル(?)、家族(?)、路地とか遊園地とか、観光地になっていると思われる谷(奥が暗くて水が流れている/湧いている?)、それをのぞきこむ観光客、とか。 人のクローズアップはまったくない。 でてくる人の名前は4つ。

音は、これもローファイになったFrançois Musyのような音と音の繋ぎ、いろんなテキスト(ベルグソン? アトムがうんたら)を朗読する声、電話で女のひと(ギー?)に話しかける声、それによると昔若者のグループがここに押し入ってなんかやったようだ、とか。

映像に映っている観光客の服装や"I just called to say I love you"のフランス語バージョンをカラオケで歌うとこがあったりするところから、おそらく映像の断片が撮られたのは80年代初、この地図を作ろうとしているひとがまだ小さい頃のようだ、とか。

展開されていく映像はタイトルの「閉ざされた谷」を中心とした地図なのか、(例えば)地図の作成とは「閉ざされた谷」のようなどんづまりに向かうものなのだ、ということを言わんとしているのか、そのへんもよくわからない。

要するに全体がぼんやりした夢のなかを彷徨っているようで、ああこれはついていけない、と思うとレッスンが終わって、そうだこれはレッスンだったんだ、と思いなおして次のチャプターに行って、それを繰り返しているうちに140分が経っていた。

ただ、何かを思い出すこと、追いかけること、のようなひりひりした切迫感みたいのは伝わってきて、それがほとんど全てなのだった。

ラストの「凡例」に出てきた海岸にぽつんとある公衆電話ボックス、そこに歩みよる男を遠くから、の絵はなかなかよかった。

しかし、この作品を捧げられた「小学校教諭だった母」は、これを捧げられてどう思ったのかなあ。

2.12.2012

[film] Page One: Inside the New York Times (2011)

2011年の米国滞在中に見たかったやつがかかったので、10日の金曜の午後、半休取ってみました。
なんでこんなののために会社休まなきゃいけないんだよ、であるが。
平日3回しか見ることができないんだもん。 

恵比寿映像祭。テーマは「映像のフィジカル」。 英語だと"How Physical"。
… よくわかんないわ。   いっそ"Let's Get Physical "とかでいいじゃん。

ま、とにかく映画はおもしろい。
景気低迷に伴う広告費圧縮とネットへの移行で米国の新聞社がローカル紙も含めてばたばた倒産していくなか、New York Timesはだいじょうぶなのか、と?

テクノロジーに経済、それに伴う消費者の意識の変容が既存の構造に大きな変革をもたらす、こんなことは新聞業界に限った話ではないし、そもそもなんでNew York Timesなんだよ、特別扱いすんなよ、という声があることはわかる。

でも、New York Timesだけは(なんとか保ってほしい)、というのもわかるの。
日本の新聞も雑誌もぜーんぶなくなったってちっとも構わないが、New York Timesがなくなったらとっても困るし、とっても嫌だ。 個人的には。
ここのMusicとMovieとBooksとDiningのセクションがなくなったら自分の脳内行動範囲はいまの半分以下になってしまう気がする。

New York Timesの日曜版を店頭で買うと、90年代は$2.5だった。いまは$5なの。
それでも必要なんだよう。

映画は、なんでNew York Timesなの? というのと、Timesはまだたぶんだいじょうぶかも、というのを、いち部署であるMedia Deskの記者の奮闘を通して描き出す。

記者のひとりはブロガーあがりのニュースおたくの若者(Brian Stelter)で、ひとりはコカイン中毒で逮捕歴のある中年を過ぎてからTimesの記者になったおじさん(David Carr)、特に後者の、Tribune社の破産→スキャンダル報道記事の作成を通して、新聞記者のお仕事ってこういうことだ、易々とひっこむわけにはいかんのだ、という。

このおじさんのドスのきいた佇まいがおもしろい。 基本は出かけていって取材対象と直接話したり喧嘩したりしながら情報を引き出して文章に起こす、それだけなのだが、それって昔からいる男臭いブン屋のかんじそのものなのだが、それがデスクトップ上のリンクにコピペにコラボで済んでしまう(ように見える)今のメディアのありようから遠いところで、勝手にやけくそに突っ走っていくように見えるの。

だからTimesはだいじょうぶなんだとか、この男が何かを変える/救うとか、そういう話ではまったくないのであるが、なんかいいの。

勿論、そんな明るい話ばかりではなくて、かつてのJudith Millerのイラクの核兵器保持ウソ報道やJayson Blairの盗作捏造とか、辛いリストラといったTimes内部の瓦解、それにWikiLeaksとかGawkerの台頭とか、そういうのもあって、その上で、でも、という出し方をしている。

iPadはどっちだ、という話も出てくる。 紙かデジタルか、というテーマもあって、メディアの今とこれから、をとりあえずざーっと俯瞰できるようにもなっている。

ラスト、静かにBeckの"Paper Tiger"が流れる。 かっこいい。

あと、どうでもいい話だが、記者の背後に貼ってあるポスターがさあ。
911のベネフィットのConcert for NYのはわかるけど、その横に2002年4月、Bowery BallroomでのWhite Stripes 4 daysが貼ってあるの。ここからWhite Stripesの大進撃が始まったわけであるが、10年前のポスターがなんで? とか。
Media Deskのトップのひとのとこには「市民ケーン」のフランス語版ポスターが。
そのひとが、このポスターのオーソンウェルズは痩せてるんだ、っていうの。


あと、さらにさらにどうでもいい話であるが、日本の新聞業界ってなんなんだろうねー、と改めておもった。
当事者のみなさんにはそんなのわかってるわ、なのかも知れないが、日本の新聞こそ、なくなったってぜんぜんおかしくないし、あれならいんない。

[film] 四月 (1962)

ここんとこ、こまこまいろんな特集上映があって、どれも半端で(自分が)ぜんぜんついていけてない。しょうがない。

オーディトリウム渋谷のオタール・イオセリアーニ特集もそうだし、ユーロスペースのバルネット特集もそう。 

バルネットは1/31に「青い青い海」(1935)だけ見た。
すんばらしい海の描写。 昨年みたグラウベル・ローシャの「パラベント」の海もよかったがこっちもすごい。 モノクロでも青い青い。
あとはあの男ふたりの肉の動き、ぶるぶるしたとこが艶かしくて、目をみはる。

イオセリアーニのほうは、2/7にデビュー作の「四月」(1962)を見れただけ。
どうでもよい話だし、誰かがもう言っているのでしょうが、「オタール・イオセリアーニ」って覚えられないので、とりあえず自分のなかでは、「イターリ・ツクセリーニ」になっている。(この機会に覚えたいところ)

「四月」は台詞なし(喧嘩のシーンはなんかごちゃごちゃ言い合うのだがよくわからない)で、音楽と効果音(わざとなとこも含めていっぱい、楽しい)のみで、ある古い町に暮らす人々と、彼らが団地みたいなとこに移ってからのごたごたをほんのり描いている。 しかしこれで上映禁止になるのかー

モノクロの画面と中心になるふたりの男女のやりとりが微笑ましくて、美しくて、どこを切っても昔のCherry Redのジャケットになるような、そんなかんじなの。 いいなー。

シネマヴェーラの次郎長は、2/8に第二部の終わり20分くらいと第三部を、2/11に第四部を見ました。 なんもいうことないわ。 
やっぱし第二部の終わりに石松が河原に現れてから、ぐいぐいあがっていくねえ。

2.06.2012

[film] 鳥の歌 (2009)

日曜日にみた2本。
日仏のカプリッチ・フィルムズ特集。 なんかようわからんが、なんとなく。

ほんとは渋谷でイオセリアーニを1本見てから日仏に行こうと思ったのだが、直前に時間が合わないことがわかり、しょうがないので日仏で2本、にした。 カタルーニャのAlbert Serra監督作品を続けて2本。

カタルーニャの映画って、むかしLincoln Centerで特集をやったときに数本見たけど、すごく変で面白かったの。

1本目が『騎士の名誉』(2006)。 "Honor de Cavalleria"

カタルーニャ語ベース、フランス語字幕、というのを着いてから知った。
ただ、配られた紙を見て、そんなに言葉で/が、どうこうするような作品でもないように見えたので、そのまま見る。

ドン・キホーテとサンチョ・パンサのお話、登場するのもほぼこのふたりだけ。

森とか原っぱで騎士としての、従者としてのお仕事(それってなに?)をこなしていくふたり。 
鎧を着て、カタルーニャの野を歩き、夜は森で野宿して、訓練みたいのをやったりする。
ドン・キホーテのおじいさんは、たまに訓告とか使命とかそういうのをがーがーがなる、サンチョは黙って聞いている。
そういうのが延々続く。 原作にあったような奇想天外な活躍とか勇ましい法螺話みたいのは一切ない。
二人はほとんど笑わないし、会話は会話にならないまま「...」がずっと。

一度どこかから人がきてドン・キホーテをどこかに連れていったりもするが、やがて戻ってくる。
ふたりが動いたからといって、世界がどう変わるものでもない。
ふたりは大抵空を見上げているか、突っ伏しているか、ひとところで動けなくてじっとしている。
それでもふたりは騎士と従者で、そういう役割を与えられた状態で、空の下に、地面の上にいるの。

彼らがカタルーニャの大地ではなく、アメリカにいたら、ずっとTVみてチキン食べてポテト食べて、ぶくぶくになっているとおもう。 (そういう置換ができてしまうような佇まいと画面の遠近)

こんなような存在の不条理(と言ってよいのかな)をドン・キホーテとサンチョ・パンサの物語として、ぜんぜん動かない物語として画面に置いたとこが画期的なんだとおもった。 

夜、原っぱに座るふたりの上を赤い月がゆっくり昇っていくとこ(画面はまったく動かない)とか、すんごくよいの。  音楽はぜんぜんなくて、一瞬だけ、ギターが響くとこがある。

(館内の)まわりの寝息のがうるさかったかも。


続いて2009年の『鳥の歌』。 "El cant dels ocells"

同じ監督による「騎士の名誉」に続く長編第二弾。 こんどは英語字幕。 モノクロ。
これはすんごくよかった。 今年最初の衝撃だったかも。 でも、どう衝撃だったのかを示すのは難しい。

絵画にもよく出てくる三賢人がキリストを探して地の果てを旅するさまを描く。
「騎士の名誉」でドン・キホーテとサンチョ・パンサをやっていたふたりが、そのまま賢人2/3にスライドしている。
3人は野を越え山を越え、海を渡り、へろへろのぼろぼろになりながら(たぶん)キリストを探している。

この3人の疲労困憊具合が、わるいけどめちゃくちゃ笑える。
3人のうちふたり(ドン・キホーテを演じた老人以外)は、典型的な近代デブ体型で、苦行難行を続けながら旅をするイメージに全く合っていない。
南極を渡っていくペンギンみたいによろよろしたり、固まって野宿して重なり合って動けなくなるとことか、唖然とするほどおかしい。

3人の影が地平線の方までずうーっと歩いていって、一旦3人の点が地平線の彼方に消えた、と思ったらもう一回ふわんと線上に浮かんでよたよたこっちのほうに戻ってくる、というのを1ショットで、とか。

3人の会話も賢人のそれとはとても思えなくて、あそこまで行くのは大変かなあ ~ 水がでるかも ~ でも凍ってたらどう? ~ 大変だねえ ~ どうする? 行くの? みたいな会話をえんえんやってるの。 ベケットみたいに。 漫才みたいに。

中盤でヨゼフとマリアとパンダ目のヤギとまだ赤んぼのジーザスの住んでいる岩の庵に画面が切り替わる。 彼らもぼーっと日向ぼっこしながらヤギをなでたりしているだけで、崇高さみたいなとこからはほど遠い。

そうしているとこにへろへろの三賢人がやってきて、倒れてひれ伏して、音楽がじゃーん、て鳴る。 (でもぜんぜん感動的じゃない)

で、ジーザスに謁見した3人は再び旅に戻る。 ひとりのじいさんは殆ど死にそうだが、旅は続く。
天使がいて、木の上に停まっている。 でも天使もなにもしない。 鳥とおなじく、そこにいるだけ。

モノクロのフィルムにじわじわと傷をつけるかのように続けられる3人の旅。 
(Philippe Garrel が絶賛した、といのはなんかわかる)
その動機も目的も一切告げられることはないし、そこに一切の感傷も、苦悶も歓喜もない。
ただただ彼らは地面の上を歩いていく。 ペンギンみたいに。

そこのところで、カタルーニャの大地は、3賢人の物語は、『サウダーヂ』の世界とどこか繋がっているように思えた。

聖なるものに身を捧げた連中の変てこでほのぼのおかしい挙動を描く、という点ではロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』(1950) に似ていないこともない、でもあっちよか激しくおかしい。

もうじきできるという3作目は吸血鬼がでてきて、ファスビンダーみたいなんだという。 
みたいー。

上映後のトークは、なんか疲れたのでパスして帰りました。

[film] 清水港の名物男 遠州森の石松 (1954)

去年、マキノの次郎長三国志9部作がDVD化、というニュースを聞いたときはおおついに!と盛りあがったのだったが、パッケージを見て一挙にテンションが落ちて自分内であれはなかったことになった。

表紙なんていいじゃん中味じゃん、なのかもしれんが、映画館で見る版を正のマスターとしているものにとって、DVDに期待するものなんてパッケージとおまけにしか、そこにしかないのよ。
5年後くらいに、Criterionが出してくれることを祈念したい。 

で、そんなふうにしょんぼりしている次郎長三国志ファンのためにシネマヴェーラが用意してくれた(に違いない)今回の特集『次郎長三国志&マキノレアもの傑作選!』。 ありがたやありがたや。

土曜日の初日に見ました。 2本とも何度も見ているけど、何度でも。

最初が52年の『次郎長三國志 次郎長賣出す』。
まあ最初だからね。 次郎長はまだぼんくらでおろおろしがちで、面白いのは桶屋の鬼吉(田崎潤)の破れかぶれのめちゃくちゃとか、おれは武家なんかいやなんだようと泣いてドロップアウトする大政(河津清三郎)とか、そっちのほうだったりする。

あとは路地から海のほうに向かっていく線とか、夜の海とか、最後とこの川の光とか、今にして思えばここから三国志として広がっていくであろう世界の起点が実にかっこよく撮られているの。
浪花節もいいよねえ。 あれ英語字幕だとどうやるのかなあ。

続いて、ニュープリントの『清水港の名物男 遠州森の石松』。

副題をつけるとしたら「石松の恋愛教室」しかない。
9部作で転がっていく喧嘩殺傷わっしょいの男男男の世界から遠く離れて、人に惚れる/惚れられるとはどういうことなのか、をハード童貞である石松の成長といろんなひととの出会い、胸にしみる台詞を通してしっかりお勉強できるようになっている。

すんばらしいのは、そこで展開される恋愛観みたいのが次郎長三国志(あるいはマキノの世界)を貫く心地よい出鱈目さ、乱暴さと見事に繋がっていることなの。 でっかい雲のような壮大な任侠伝のなか、でてくる男女はどいつもこいつもかっこいいったらない。

冒頭、金比羅参りに行ってこい、ただし酒も喧嘩も博打もだめ、女はいい、30両やるからしっかり勉強してくるように、というセクハラ&パワハラ極まりない要求が組織の上から落ちてくる。 

石松はぶつぶつ言いながらも旅に出て、道中で会った小政(東千代之介)に恋の道を教えてもらって、現地で女郎の夕顔に一目ぼれして(ひとめで、ほんとにひとつしかない目でひとめぼれってやつで)、でも泣く泣くお別れして、帰り路に寄った先で身受山の鎌太郎親分にぼこぼこに怒られて(なんでそんな娘さんを置いてのこのこ帰ってきた? ばかかてめえは!)、で、更に寄った先で夜討ちにあって、やっぱり俺は死ぬわけにはいかねえんだなぜなら恋しちゃったんだから、と開眼するの。

本篇(9部作)のほうではもちろん、石松は殺されてしまうのであるが、ここでは死なないの。

それまで、吃音 → (吃音治って)片目と不具の道を生きてきた石松は、(夕顔は)俺がいるからこそ咲く花よ、だから俺は死ねねえ、死なねえんだよ、と悟ったとたん、彼の両目が開き、パーフェクトな恋する男子として驚異的なパワーを発揮して敵をばさばさ斬りまくる。
その覚醒した石松(中村錦之介)の透きとおった美しさを見よ、なの。 
(それにしても、だ。 片目とはいえ、中村錦之介がぜんぜんもてなくて女を知らないまま来たというのは相当無理な設定だよね)

アメリカの学園ものによくある、みんなの笑いものだったナードが恋を知ったとたんに大活躍、の源流はこんなとこにもあるの。
ここは学園じゃないから先生なんて出てこないのだが、志村喬の鎌太郎と石松のやりとりが教えてくれることは、ほんとに豊かでいちいちじーんとくる。

で、この映画のなかで死なないとはいえ、ほんとは死んじゃうことはわかっているので、そうなるとあのラストは胸に刺さる。

でも、映画ぜんたいで見たときにはやっぱし、第八部「海道一の暴れん坊」の筋金入りの痺れるようなかっこよさには及ばないかなあ。
あそこでの森繁と越路吹雪はとんでもないからねえ。

このぴかぴかのニュープリント、アメリカに持っていきたいなあ。 
ぜったい受けると思うんだけど。

2.05.2012

[log] 代官山蔦屋

こないだ28, 29の土日はまったく映画とか見なかった。 ほとんど寝てた。

去年の終わりくらいから代官山に蔦屋という古本とかレコードとかを扱っている新しいタイプの本屋ができて云々という記事を見かけるようになって、それは自分のなかでは「くずや」というふうに読んでいた。 で、ほぼ同じようなタイミングで何人かの人から代官山のツタヤ行った? とか聞かれるようになった。 いやツタヤは嫌いだから行かない、というと、あれは年寄り向けでレコードとかもあるんだってよ、という。 ふうん、そのうちね。 と応えてそのままにしておいたのだが、つい先日、あの「くずや」って、実は「ツタヤ」のことだったのではないか、ということにおそるおそる閃いてしまったのだった。 いや、それは閃くとかいわない。 

というわけで、先週日曜日の午後に行きました。代官山で降りたのなんて何年ぶりか。

さて、どうやって書こうかね。

わたしは大学の頃、貸しレコード屋がうんと流行った時期でも、ひとりへそまげて断固行かなかった派で、あと、六本木にWaveが出来たときにも、えーべつにアールヴィヴァンで十分なのにさ、とそんなに喜ばなかった派で、要するに「カルチャー」の百貨店化とかコンビニエンス化とか、そういうのがだいっ嫌いなんである(だから友達みんないなくなっちゃうんだ)。

だからまあ、なんというか文句、みたいのしか出ないかも。 わるいけど。
日曜午後の、いちばん混んでいる時間帯に行ったのがいけなかったのかも。

まずー、「大人の」とかいうならベビーカーと5歳以下のガキは出入り禁止にしろ、だわ。
イヌとガキはそれ用のスペースが別にあっただろうがー。
こちゃこちゃしたの3棟つくるならだだっ広いのひとつでいいじゃん、とか。

古本(ヴィンテージ、じゃないよ古本だよ)と新刊本を一緒に並べる神経がわからん。
だって本探しにくるときって、新刊かそうじゃないかなんて最初から解っているじゃんか。
並べたひとはほーらこんなに持ちこんでみました、なのかも知れんが、的が絞りにくくてしょうがないわ。 美術書も写真集も並びがようわからんし。

そういう方はなんでも店員に聞いてくださいね、なのかもしれんが、本屋で店員さんに本のありかを聞くなんて絶対やだもん。 自分の食べたいもんがわかってるのに人の助けなんているもんか。

2階のラウンジ(?)の雑誌の並びもざーっと見てみたけど、セレクションはどちらかというとおやじ寄り(+ その彼女 or 妾の?)だよね。 High FashionもOliveもなかった? ROもユリイカも現代思想も自分のが古いのいっぱい持ってるし。

音楽コーナーは基本CDで、CDは自分にとってもう関係ない世界になっているのでスルー。アナログもあったけどあの程度のやつだったら別にアナログで持ってなくていいような。

音楽の古本のとこで唯一ちょっと迷ったのがAlan Betrock (Richard Hell, The dB'sのProducer)がNJのShakeから出していた昔のロック雑誌を紹介したやつ。

映画コーナーもあんまし、というかもうDVDも見ないからねえ。

なんか、Bunkamuraおばさんの対概念としての蔦屋おじさん、ていうのを思いついた。
車とかバイクとかスポーツとか時計とかカメラとか万年筆とか、そういうのに一通りの知識とか蘊蓄を持ってて、お金もあってリベラルでジェントルで、職場ではリーダーだし、女性にはもてるの。

Bunkamuraおばさんがアートとかシアターとか文芸とかの知識を装飾・ファッションとしてふんわり纏うのに対し、蔦屋おじさんの知識は、あくまで世を渡っていく道具・ツールとして機能することを志向するので、両者は交錯することなく平穏に共存して、お互いを尊重して讃えあうの。 
ああうつくしー。 うっとおしー。

んで、日本のメディアマーケティング(げろげろ)て、なんだかんだ昔からこういう連中を想定モデルにして成り立ってきていて、00年代以降の経済の衰退と共にアングラとか若者文化が空洞化していくなか、改めて浮かびあがってきたのではないか。 ま、こっちのがリスクはだんぜん少ないだろうしね。

あんなもんを「大人の…」とか勝手に定義提供されて、そこに向けて教条的に誘導されるのなんてまっぴらごめんでえ、とことんマイナーのアングラで行ってやらあ、て変な意地がめらめらと湧いてくるのだった。 ええええどうせ大人げないですよーだ。

結局4時間くらいいて、買ったのは新雑誌MAISHAだけだったわ。

しかしー、VISIONAIREのCOMME des GARÇONS号はもう14万かあ。
だからあんとき買っておけば…


帰り道、ついでだからと東京のEatalyにも行ってみた。夜のClose間近だったからかもしれんが、寂しすぎ。 広さだとNYの1/4くらいかしら。 いや、東京にはおいしいイタリアンいっぱいあるから別に食材買わなくても、って言うかもしれんが、それならNYだっておなじなのよ。

代官山、嫌いな土地ではないけど、まだ当分は行かなくていいかも。

2.04.2012

[log] NYそのた - Jan.2012

NYで買ったあれこれ。 今回はあんまなかったですけど (一週間だし)。

アナログだと、なんといってもNeutral Milk Hotelの箱。
中は宝箱みたいにすんごくきれいな装釘、というか紙とビニール好きにはたまんない。
これで$90ならぜんぜんやすい。

あとは、Alex Chiltonの1970 session、とか、Morphineの"Cure for Pain"のアナログ再発、とか、中古だとThe Crampsの"Psychedelic Jungle"(1981)とか(Crampsをアナログで全部揃える作戦遂行中)。
よくわかんない系で、Deutsche Grammophonから出てたCarl CraigとMoritz Von Oswaldの、なんだろこれ、Remix?

7inchは、Guided by Voicesの"chocolate boy" - 盤がみたことないようなチョコレート色できれい、Mark Lanegan Bandの"The Gravedigger's Song" - ジャケ買い - 1000枚限定だった、My Morning Jacketの"Friends Again" - これもジャケットのフクロウで買った。

あと、The Girlsの真っ赤な♡に切りとられた"Lawrence"ていうやつ。
Lawrence ってだれ?

本は雑誌がほとんど。 もうこっちの洋書屋に並んでいるやつばかり。
熊が表紙のcurated by Rodarteのとか。
いつものFilmCommentとかBrooklyn Magazineとか。
あと、Occupy関係の地下出版物みたいのがいっぱいあったから、少しだけ買ってみた。(まだ見てない)

食べもの関係は、あんまないのだが、前回のと合わせてBrooklynごはんとして別に書きたい。
Brooklynじゃない系だと、MidtownのAi Fioriに行った。 去年できたイタリアン。

http://www.aifiorinyc.com/

帰りの飛行機でみた映画は2本だけ。 結構寝た。

最初にみたのが"Real Steel"。
ある程度覚悟はしていたが、ここまで激甘だったとは。 あんなんでいいのか? みたいな。
決勝戦、リング脇でぶんぶんフリをはじめたHugh Jackmanが蹴つまずいてロボもそのままずっこけておわり、ていうのが理想だよね。

そいから、"Moneyball"をもういっかい。
なんか、結局のとこ、一生懸命がんばってるパパに贈る映画、ていうだけなのかも、とか。
Philip Seymour Hoffmanの使い方はあれでよかったのかー、とか。

あとはなんかないか。

2.03.2012

[film] The Sitter (2011)

1/23(月)、NYの最後の晩に見ました。

最後の晩なので当然いろいろあって抜けられず、10:45の回、Times SquareのRegalで。
月曜の晩だけど、10人くらいはいたかも。

この翌日のアカデミー賞ノミネートを祈念する... わけなかったのだが、Jonah Hillが助演賞に入っていたのにはちょっとおどろいた。

でも、どうせならこれで主演賞を... のわけないか。

12月、これの公開直前にBAMで行われた監督David Gordon Greenセレクト作上映(+本作のプレビュー)のなかみを見れば、それなりの予測はついたはず。

- Risky Business (1983)
- Adventures in Babysitting (1987)
- Uncle Buck (1989)
- After Hours (1985)
- Something Wild (1986)

親の居ぬ間の悪巧み ~ 夜の街の彷徨いと冒険 ~ 悪い子も悪い大人も(そんなには)いない ~ 最後はなんだかんだ全て丸くおさまる 系の、80年代にはふつーにあったコメディ、これをなんでか2010年代、真っ正面からやろうとしている。
よくわかんないけど、最近はあんま見ないよね、こういうの。

家でちんたらしているぼんくらのNoah(Jonah Hill)がベビーシッターに行った先でしょうもないガキ3人の面倒を見ることになるのだが、こいつらのせいでやくざに絡まれて夜のブルックリンを行ったり来たり散々な目にあうの。
筋は粗いしラストは都合よくなんとかなっちゃうし、相当に適当なのだが、でもいいの。

今みたいにJonah Hillが痩せちゃう前の最後の作品で、それだけで十分必見なの。
彼がバケツいっこでドラッグディーラーの Sam Rockwellの前に立ちはだかるとこなんてほんとにいいんだから。

Ari Graynorさんも出てるし、ガキ3人もいいかんじだし、Method Manさんもすてきなの。

音楽はゆるゆるのヒップホップ - Slick RickとかRaphael SaadiqとかBiz Markieとか、そんなんが画面に実によくはまっていた。


そういえばー、2/3の晩、92YのTribecaでは、"Some Kind of Wonderful"(1987)と"Can't Buy Me Love" (1987)の2本だてがあるの。 行きたいなー。
"Some Kind of Wonderful"はMary Stuart Mastersonさんのトークつきだよ!

http://www.92y.org/Tribeca/Event/Some-Kind-of-Wonderful.aspx?utm_source=92YTri_Feature&utm_medium=Some-Kind-of-Wonderful&utm_campaign=Tribeca

2.01.2012

[film] Crazy Horse (2011)

ぜんぜん書く時間がないよう。

1/22(日)の午後に見ました。 NYではこの前の週からオープンした、Wisemanの新作。

これも夏まで待てばBunkamuraで見れる作品なのだが、Bukamuraおばさん商法だと、まず邦題に「魅惑の」とか「幻惑の」とか「官能の」とか「パリの」とか、そういうのがくっついて、さらにCrazy Horseの宴席で供されているシャンパンのサービスとかもあるに違いなくて、そんなのはまっぴら御免だから見ておくことにしたの。  

前売のおまけに渋谷道頓堀劇場の割引券でもつけてやればいいんだ。 
それか馬の尻尾のびらびらでも。

バレエ・ダンスものとしてはABT("Ballet" 1995)とパリのオペラ座の("La Danse" 2009)に続くもの、Body Moveの探求ドキュメントとしては、前作のBoxing Gymに続くもの。
或いは、バレエというハイ・カルチャーとボクシングという裸いっちょう勝負の雑種、という見方もできる。

でも、WisemanはWisemanなので、そういった系譜的なあれこれとは関係なく、ひたすら対象に没入しておもしろいものを引っぱり出して楽しく並べてくれる。 134分。 ぜんぜんだれない。 

編集も含めて全部デジタル化したことでよりシャープにかっこよくなっている気がした。
このぎんぎんした映像を切り取ったのが82歳の老人だなんて誰が想像できようか。

伝統と格式あるストリップ小屋で、新作"Desire"の上演に向けた舞台裏あれこれ。

振付師がいて、ディレクターがいて、踊り子さんたちがいて、リハーサルがいっぱい繰り返されて、いろんな衝突があり、せめぎあいがあり、悩む人は悩むし、走るひとは走る。 それらが完成形の体の動き - 歌と踊りに向けて撚り合わされていく。

バレエのような理想化された美の探求も、ボクシングのような勝利に向けたストイックなフォームの探求もここにはなくて、おそろしく雑多な要素とか要求が、ここのBody Moveには入りこんでくる。
ディレクターはアーティスティックななにかを追及したいのだが、まずは殿方を(特に名士とやらを)満足させなければならぬ、とか、そのためにはアートよりもエロだ裸だ、なのだし、歌でも煽らなきゃいけないし、そいで当然、お金は稼がなきゃね、なのだし。

そこらへんの雑多な、なんでも出てくるかんじは、彼のドキュメンタリーだと裁判所とか病院のにより近いかんじもした。
とにかくみんながお仕事として、クールに構えて、でもなんか燃えてるとこがよいの。

最初と最後に出てくる影絵がとにかくキュートでねえ。 あそこだけでやられる。