12.31.2021

[log] 年のおわりに

年を越すというのがなんか特別なことらしくみんなばたばた楽しそうに締めたり備えたりするのを横目で眺めて、ふん!そんなことするもんか、ってなにもしないままぼーっと過ごしてそらみろあーあ、ってやるのが恒例となっている大晦日の過ごし方で、でも昨年の暮れは誰が見たって様子が違う異常事態だったので、でも動いちゃいけないことだけは確かだったので、あたまのなかのコタツに足を突っこんでぶつぶつ書いていた。

いまのにっぽんはというと、一応いろんな宣言は解除されてどこにでも行けるようになっている反面、昨年の英国の、クリスマス直前にしおしおとロックダウンに向かっていったあの状態になんだか似ている。いくらやめてー、って言ってもどうしようもないあれをまた繰り返すことになるのか。解除したり緩めたりすれば感染は拡がる、いまのヨーロッパを見てもあったりまえのことなのだが、わかっちゃいるのにひどい。だれが、なにがひどいのか、政治なのか自然なのか、はあんまよくわかんないままに。

英国でワクチンが承認されたのが昨年の12月の初めで(まだそんなもん)、そのお陰で死者や重症者の数は目に見えて減ってきたものの、それでもまだ人は亡くなっているし、感染するとその周辺への打撃は決して小さくないし。だから決して常態に戻ったわけではない、自分のふるまいが見えないところで惨事に加担しているかもしれない、という意識はずっとある、けど映画館には行ってしまうので.. だめだねえ、って。

表面はひどかった昨年の暮れとおなじくずっとひどいままが続いている、という認識なのだが、今年の方が特段にひどい気がする(個人の感想です - “Death to 2021”見てもそんなかんじ)。本当にさいてーの、長くてしんどい泥沼の1年だった。 5月に帰国して隔離後にこっちの会社で働きはじめて、船便が届いて、でもいまだに開いた箱は2/3くらい、適応できたアタマは半分くらい、床をなんとかしないとなー。でも床は勝手に動いたり広がったりしてくれないしなー。

帰国した直後のあれもいやだこれもいやだ、の(帰国駐在員によくある)不適応症のどんよりと、にっぽんという国があきらかに貧しく幼稚に下品に転げ落ちていくその最中にやるとは思わなかったオリンピックが開かれ、それに続くコロナの自助/棄民政策などで、どれだけ書いてもしょうがないことだけど、ほんとしみじみこの国(の語る欺瞞だらけの未来)が嫌で嫌で出ていきたくなって、でもいま脱出する術は限られているので、ひとはこれを地獄とよぶ。

なので、死なない程度に生きておいて、そこで残された僅かな力とその使いようでいつでも脱出できるように自分と半径10メートルを生かしておく、そこに注力してその知恵と勇気を蓄えたりスイングしたりできるように映画をみたり本をよんだりを繰り返す、そのペースは掴めてきたかも。 でもそれにしても会社員の通勤て、改めて奴隷キープのやり口としか思えなくなってきたねえ。

そしてこれらの反対側とか裏側にはすばらしくまじめできちんとした人々が大勢いて、その人たちに支えられてきたのだなあ、というのをものすごく感じたことも確か。一時帰国のときによく感じるあれにも近い、少しぐしゃぐしゃしたありがたみと感謝の思いと。

そういう両端で揺れているふりをしつつ、結局お片付けはほぼあんましやらないままー。

31日、大晦日なのでできるだけ怖いのを見たくて、最後に映画館で見たのは”Tragedy of Macbeth” (2021)で、帰ってからなんかもの足りなくてMetrographのストリーミングでJean Rollinの”Night of the Hunted” (1980) - 『猟奇殺人の夜』も見た(これはよかった)。あと、恒例のNetflixの”Death to 2021”も。

久々なので紅白とか見てはぁぁー、ってなっていた(きもちわるくなると隣のクラシックに替える)。とにかく「おかえりモネ」の主題歌の冒頭でなにを歌っているのかがわかったのでよかったことにした。


みなさまよいお年を。 これから2021年ベストの選定にはいりまー。

12.29.2021

[film] I’m Your Man (2021)

12月12日、日曜日の晩、Apple TVで見ました。
Maria Schrader監督によるドイツ映画で、原題は“Ich bin dein Mensch”。 主演のMaren Eggertさんは今年のベルリン映画祭で主演女優賞 - じゃないジェンダー区分をなくしたので、Best Acting Performance - を受賞している。

邦題には「恋人はアンドロイド」とかあるけど、劇中には「ヒューマノイド」か「ロボット」という言葉しか出てこない。 Rom-comで、日本では相も変わらずポスターも含めてキラキラしたお飾りと漂白がされているようだが、そんなに甘い話でもないような。

近未来のベルリン、考古学者で独身のDr. Alma Felser (Maren Eggert)はダンスホールで自分を”Employee”と名乗る女性(Sandra Hüller)からTom (Dan Stevens)を紹介される。Tomはロボットで、Almaの日々の用達しから不満不平の充足まで、すべて彼女の仰せのままを満たすように設計されているという。 研究の予算獲得のため大学の上から説得されてこの実験プログラムにモルモットとして参加することになった彼女は乗り気ではない。 Ex-彼のJulian (Hans Löw)とのこともまだもやもやしているし、実家には痴呆症の父もいるし、日々の不満や悩み事でいっぱいだし、そんなことをロボットごときが解決してくれるとは思えないし、そんな期待をしたこともないし、相手をしている暇なんてありゃしないの。

でも仕方なくTomを連れ帰って、朝になると”彼”が見事な朝食を用意して待っていてくれたりするのでめんくらうし、忙しかったりいらいらしている時に親しげに寄ってこられるのも嫌だし、そんなの気を使わなくていいから、っていうと何もしないでただそこにいるだけだったり、そうするとちょっと悪いかな、になったり、でもそういう感情の揺れや惑いもぜんぶTomのAIは見越したり微調整したりしながら動いているのだと思うと癪だし、Almaはそんなやりとりを重ねながら自分の日々の苦労あれこれや一緒にいる人に求めようとすることなどについて考えていくことになる。

そんな彼女の戸惑いや思考のプロセス - ロボットとは、自分が日々ロボットに求めるものがあるとしたらそれは何なのか - などについては、当然我々自身の身に照らして考えることになるので、なかなかおもしろいの。もちろん、そんなの研究テーマでもない限り考えたこともないので、そんなところで考えこんでイラつくことすら時間のムダだし鬱陶しい、って一度は彼を返品してしまうのだが、一旦、一時期でもTomを生活の一部として「使って」しまった後に開いた穴があることにはたと気がつく。そしてそれを見透かしたような出ていったTomの言葉と動きと。

そこから更に、Tomに対する扱いや振るまいってロボットに対してだけでなく生身の人間に対してもやってしまっている所作や態度だったりしないだろうか? それを無意識にふつうの他人と近しい人(含. 自分)に分けてやっているだけで、実はロボット的なケアも含めてものすごく複雑な処理を他者に要求したりしていなかっただろうか? そこに甘えたり依存したりしている部分は見えていないだけで間違いなくあるし、そして自分から離れていったExや痴呆で家族の記憶を失いつつある父は、自分がいらないと見えないところに追いやってしまったTomとどこが違うのだろうか? って。

これ、Tomが限りなく人間に近く見えたり動いたり、エラーも故障もほぼなく動作するロボットで、周囲からも彼はロボットではなく人に見えている、というのと、そもそも主人公はロボットとかAIになんの期待も抱いていない、という前提があって初めて成り立つコメディで、これをよりシリアスにリアルに捉えてみれば、例えば”Ex Machina” (2014)のような冷たいサスペンスにもなりうるやつで、着地点があんな甘いのでよいのか、という観点からの賛否があることはわかる。けど、rom-comとしてみれば、ごくふつーのrom-comのように見えてしまう - メタrom-com的なところがおもしろいな、って思った。

でも、Tomみたいのがいたらお片付けも仕事も処理系のはぜんぶやってもらえるし、旅行行く時もいろんな手配とか任せられるし、自分はお散歩したり映画行ったり本読んだり(たまに音読してもらう)、使いようはいっぱいある気がするんだけど。でも、実際にいて動いていると、いることを意識せざるを得なくて面倒だったりするのかしら、って勝手なことばかり考える。 猫よりは楽、なのかしらん。


書かなければいけないのなんてないことはわかっているのだが、書いていないのが頭の奥に溜まっていくのはなんかストレス - そのうちに忘れちゃうから - で、時間があれば書きたいのだが時間があると寝ちゃっていたり、これだから冬ってやだわ、って。 しかもお片付け、なんてさ…

12.25.2021

[film] The Matrix Resurrections (2021)

12月18日、土曜日の夕方、Tohoシネマズの六本木で見ました。
監督はLana Wachowskiのみで、Lilly Wachowskiは関与していないもよう。

前世紀末、渋谷のパンテオンで見た”The Matrix” (1999)にはそんなに熱狂しなかった派で、既にサイバーパンクは来ていたので新しくもなんともなかったし、バレットタイムにしてもワイヤーアクションにしてもなんか恥ずかしいかんじがしたし、エンディングのRATMにしても、あーあうまく取りこまれちゃって、くらいだったし、その後の”Reloaded” (2003)と”Revolutionss” (2003)にしても、先がああなるのは見えていたし過剰でくどすぎて目は疲れてぐったりになるし、そんな程度のものだったの。

でも今回のはなんかよかった。年寄りウケを狙ったのかもしれないけど、“Bound” (1996)と同じくらい好き - 恋愛映画だよね。 以下、いつものようになにがネタやねん、というレベルのネタバレをしています。 過去の3作を見ていなくても、主人公たちですらあやふやになっているところをフラッシュバックできちんとなぞってくれるのでだいじょうぶだと思う。

サンフランシスコに暮らす長髪ヒゲのThomas Anderson (Keanu Reeves)はゲーム - ”The Matrix”のデザイナー/クリエイターとして成功していて共同経営者のSmith (Jonathan Groff)と共に次のゲームのリリースの準備を進めているのだが、精神的にはどんより疲れてなんか不安定で、カウンセラー/The Analyst (Neil Patrick Harris)のところに通っている。

そこにMorpheus (Yahya Abdul-Mateen II)やBugs (Jessica Henwick)と名乗る若者たちが現れてやっと見つけた、とか、迎えにきた、とかわけのわかんないことを言うので混乱して、でも彼らといるとありえない銃撃戦に巻き込まれたりして散々で、でもこれも病の一部なのだとThe Analystのところに通い、他方で若者たちが話すかつての自分やMatrixのこと、どこかで会った気がするTiffany/Trinity (Carrie-Anne Moss)のことも気になり始める。

最初の”The Matrix”でNeoが向こう側に引き摺りこまれたのと同じようなことを前半ではやっていて、でももうミドルエイジでそうたやすく引っかからないThomasがどこを押されてどう目醒めるのか - だがしかし今回は、どちらかというと家庭をもって子供もいて生活になんの不満も不安もなさそうなTrinityをどうやってひっぱりこむのか、赤の錠剤と青の錠剤どちらを飲むのか - が肝心のテーマで、でもなぜそうする必要があるのかについては、だれも明確な答えを持っていない。例えば、それが恋というものだからー、など。

“The Revolutions”の最後で死んだはずだったNeoがなぜ死ぬことも許されずに再生されたのか、「革命後」のMatrixでNiobe (Jada Pinkett Smith)ら残された人類になにが起こっていったのか、についても説明されて - 要はよくわかんないらしい - けど、そういうことは起こるんだろうな、と推測されるおなじ土壌の上で、Neoが再起動 - RebootではなくResurrection - され、宿敵であったSmithも、かつてのOracle的なところにいるAnalystも、反乱分子の若者たちもその像をクリアに、露わにしてくる。

そして、でも、なんといっても今回はTrinityのことで、これってカフェで一瞬目があった素敵な彼女にどうやって話しかけて自分のほうに関心を持ってもらったりするのか、というrom-comの最初の壁に人類と機械の攻防の歴史をぶつけてみてどうなる?/どうする? というこれ自体が荒唐無稽な(SFというよりは)rom-comとおなじような構造になっている、というあたりが、それをやや疲れた中年のふたりの目の交錯のなかで正面から取り組もうとしているところが、いちばんきゅんとくるところかも。年寄りにとっては。

そして、Matrix全体がこのふたりの逢瀬を全勢力をかけて潰しに来ようとする、その混沌に満ちたばかばかしさもすばらしいったらない。最後の方のビルから人々がぼとぼと落っこちていくのとか、列車の中の大虐殺とか、レミングみたいですごいしMatrixもそこまでのところに行ったか、って。しかもこれ、また同じことの繰り返し - なにが起こったのか誰もじゅうぶん把握していない - になるかもしれないのに。

でも、そういうことは起こるものだし、ふたりの恋は最強のものなんだから、って、今回はTrinityの方が目醒めてしまうところが素敵だし、最後に彼女がNeil Patrick Harrisに子供をダシに使いやがってくそ野郎、って怒りの一撃を加えるところとか、すごくよいの。(Neil Patrick Harris、”Gone Girl” (2014)に続いてまたしてもずたずたに)

ネットの世界で理由づけできないことが起こる、という点でこないだの”Free Guy”のようなことが起こるのかも、と思っていたが、あの方向からのはなかったかー。


クリスマス。今年のクリスマス盤は、Sharon Van Ettenさんの”Blue Christmas”の7inch(サイン入り)とか、Aidan Moffat and RM Hubbertの”Ghost Stories for Christmas”とか。でも突然現れたLCD Soundsystemの”Christmas Will Break Your Heart”にやられた。

あと、9月にオーダーしていた本たちが24日に突然届いた。Kevin Cumminsの”Joy Division - Juvenes”、Questloveの、Warren Ellisの、Sally Rooneyの、ぜんぶサイン本。お片付けをしながら本は読めないからお片付けはー。
 
よいクリスマスとなりますように。

12.23.2021

[film] Bis ans Ende der Welt (1994)

12月12日、日曜日の昼間、ル・シネマで見ました。
英語題は“Until the End of the World”。邦題は『夢の涯てまでも』。 4Kリストアされた287分のDirectors Cut。よくわかんないのだが、これのDirectors Cutって300分のバージョンもあるらしく、むかし、2004年の正月にリンカーンセンターで見たときのは、この300分版だった記憶がある。

1999年、軌道上にあるインドの原子力衛星が制御不能となって地球に落ちてくるから、と世界が大パニックになっている時にClaire (Solveig Dommartin)はそんなのどうでもいい、ってつんとして無関心なのだが、逃げる車の渋滞と事故に巻きこまれて、Chico (Chick Ortega)とかギャングの一味と知り合い、怪しげなTrevor McPhee (William Hurt) - 後にSam Farber - という男の逃げた追ったに巻きこまれて、そこに別れた恋人のEugene (Sam Neill)とか探偵Philip Winter (Rüdiger Vogler)が絡んでみんなで世界を移ろっていく、全体のテイストとしてはB級映画なの。

ベルリン~リスボン~モスクワ~北京~東京と渡りながら騙したり騙されたり喧嘩したりの追いかけっこの中で明らかになる人の記憶を映像化して脳にダイレクトに送り込む装置のことと、そいつを手にしたSamの野望 - オーストラリアに住む盲目の母Edith (Jeanne Moreau)のために妹とかいろんな映像を撮っていくのと、でもそのせいで目を傷めたSamとClaireは恋仲になっていく。

第二部、機器を携えてオーストラリアの砂漠の真ん中に着いたふたりは機器の発明者であるSamの父Henry (Max von Sydow)の研究所で母に向かって映像の再生と送信実験を始めるのだが、これは人体への負荷が高くて送る側は死にそうになるものの、なんとかうまくいって、うまくいった後に嵌ったら抜けられなくなって廃人のように落ちていくの。

原題通りでいくと、「世界が終わってしまうまで」に、世界が終わってしまうのだとしたら、それまでどうやって過ごすのか/生きるのか? というテーマのお話し(邦題だと「夢の涯てまでも」ついていきたい or 「夢の涯てまでも」ついてくるなんてうざい、のどちらか)で、これが作られた当時の空気でいうとみんな割とノストラダムスを素朴に信じていたので、そんなのあたりまえじゃ勝手に終わるわボケ(→ 適当に過ごす)、でしかなくて、”Der Himmel über Berlin” (1987) - 『ベルリン天使の詩』もそうだけど随分ロマンチックな話だよねえ、と当時は思ったものだった。

こないだの”Don’t Look Up” (2021)の方では、世界の滅亡を前にしているのに自分の見たいものしか見ない聞かない政治家たちのありようが描かれていて、こっちだと… やっぱり自分の関心の向かうところにしか行かない。でも政治もメディアもここの視界には一切はいってこない。

物語は夢や記憶を映像として再生して抱きしめることができてよかったねえ、で幸せに終わるのではなく、その後にその世界への依存症、中毒症が別のかたちで主人公たちに危機をもたらすところまで描く。それは衛星とは比べようもないくらいの強さでそこに現れる危機なのだが、それを救うのがEugeneの書き文字 - 文学である、って極めて白人的な文化観だよね - にっぽん文化の描き方もアボリジニの扱いも - などととりあえず突き放して見てしまう。今となっては。好き嫌いで言えば、この辺のしょうもないかんじが好きなんだけど。

あとは音楽映画としてのすばらしさ、というのもある。グランジが世界を覆って(よくもわるくも)足下を泥まみれにしてしまうぎりぎり手前の、80年代末のいちばんナイーブにコミュニケーションや他者や世界について考えていた時代の音楽ががんがん流れてきていちいち泣きそうになって、それだけでよいの。U2のタイトル曲だけあんまし、だけどそれ以外の、Lou ReedもR.E.M.もElvis Costello(の”Days”)もNick Cave and The Bad SeedsもPeter GabrielもRobbie Robertsonも。

技術的なところでは、ここの仕掛けを転用してできあがったのがMatrixの世界で、24時間機器を手放せなくなるふたりの姿はMatrixに接続されて機械に消費される人類の姿に繋がっていく。やはりここで世界はいったん終わってMatrixが立ちあがったのではないか。そしてMax von SydowこそがMatrixの祖で、つまりつまりベルイマンの描こうとした世界というのは、やがて世界を覆って人間にとって替わろうとするなにか(神だろうが機械だろうが)とアートのせめぎ合いを先取りしていたのではないか、と。

あと、データ容量で2500GBをすごそうに語っているところとか、なんか微笑ましい。

東京のシーン、今の若い人たちが見たらどんなふうに映るのか。昔はあんなふうだったのよ。我々が戦前の昭和を見ていたようなかんじなのだろうか? Joseph Loseyの”La Truite” (1982) - 『鱒』で描かれた東京もまたー。(あの景色のトーンてなんなのかしら?)


今年の仕事はおわった。もうしごともかいしゃもだいっきらいだ。こんなに嫌になったことがかつてあっただろうか?
(いっぱいあったよ)

12.21.2021

[film] Last Night in Soho (2021)

12月11日、土曜日の午後、シネクイントで見ました。

一昨日19日の晩に、Edgar Wrightが愛してやまないSOHOの映画館 -Curzon SOHO – 彼はロックダウン前後によくここの写真をUpしていた - で“LAST NIGHT IN SOHO’s last night in SOHO”っていうトークイベントがあって、行きたかったなー、だったのだが、そこではSOHOという土地に対する彼の想いがいっぱい聞くことができたに違いない。

コーンウォールに祖母と暮らすEloise - Ellie - Turner (Thomasin McKenzie)はデザイナーになりたくて、合格したLondon College of Fashionに入学しようとひとり家を出る。自殺した母の残したレコードから60年代のロンドンのカルチャーに強い憧れを抱いていた彼女にとってロンドンの学校生活はキラキラの希望に満ちたものだったが、幽霊なのか幻影なのか、母 (Aimee Cassettari)の姿を鏡の中に見たりする彼女のことを祖母は少し心配している。

ロンドンに着くなりタクシー運転手に絡まれて嫌な思いをしたり、寮に入れば同室のJocasta (Synnove Karlsen)と彼女の仲間たちから意地悪な扱いをされたのでそこを出てMs. Collins (Diana Rigg)の下宿に間借りすると、その晩、60年代のSOHOにある盛場でSandie (Anya Taylor-Joy)という同い年くらいの女性を目にして、SandieはそこのマネージャーのJack (Matt Smith)に取り入って歌手になるべくオーディションを受けたりしている、そういうリアルな夢をみる。その夢のなかでEllieはSandieを外から見ているというよりも写鏡を通して彼女の感情まで伝わってくるような、いつもそんな近い位置にいる。

初めは華やかだし歌もうまいしSandie素敵!がんばれ、とか思っていたものの、やがてJackがSandieにそこにきた男性客の相手をするように仕向けているのを見て、Sandieの辛さや嫌悪がわかるようになると、こんな夢は見たくないよ、になるのだが、夢のなかのSandieは助けを求めるようにEllieを見つめてくるようでー。

だんだん夢を見るのが怖くなり、パブで夜のバイトを始めてもSandieのことが頭から離れなくなって彼女の行動も常軌を逸したものになっていく。Sandieはかつてこの部屋に間借りしていた女性の霊かなにかなのか、彼女はEllieになにを訴えていて、なにをしてもらいたがっているのか..  などなど。

夢を見ることの怖さが、その部屋とか彼女の周辺にいる人たちの怖さに伝播して彼女を追いつめ、その謎が明らかになったと思った途端 - 明らかになったことで別の角度からの恐怖がたちあがってわらわらと襲いかかってくる。そういう段段の構造で戸板がひっくり返るようにEllieにやってくる恐怖とパニックは、見ている我々には恐怖というより、その恐怖が明らかになった後は残酷な痛ましさ、として映ってしまうので、これがホラー映画として意図されたものなのだとしたら、少し失敗なのかも。都会に出てきた少女の試練やひどい思いをするお話、として見れば、ややナイーブすぎる気もするけど、わからないでもないかも。

学校や寮での仲間との虐めのようなやりとりとか好意をもったばかりに酷い目にあうボーイフレンドのことも、なくてもよいくらいに薄いし、Terence Stampはもう少しうまい使いようがあった気がするし、亡霊になっているママがどこかで出てきて助けてくれるのかと思ったのに、とか。Edgar Wrightさんとしては、まずあの時代のロンドン - 魔都SOHOの物語を撮りたくて、そのためには女性が主人公である必要があって、そのためには… ってやや無理をしてしまったのかも。男の子の冒険物語だったらいくらでもぐいぐい突っ込んでいく、その痛快さと勢いがあまりなかったような。

あと、”Beat Girl” (1960)からの影響はとてもよくわかった。Jack役はこっちだとChristopher Leeがやっていてー。

SOHOのいろんな通りや建物や角がちょこちょこ出てくるのでとても懐かしくて。だいたい週末の最低どちらか一日は必ず通っていた。ロックダウンで人がいない時でも日本食材店とか海外の雑誌屋はやっていたし。ロックダウンになる前だと、Second Shelfで古本を見て、雑誌屋とレコード屋(3つ)を覗いて、お腹がへったらドーナツとか食べてSOHO SquareをまわってFoylesで新刊本を見て、締めにCurzon SOHOかPicturehouseかPrince Charlesで映画を見て帰る - こんなサーキットを延々繰り返して、でもちっとも飽きなかったの。ここまでいろんな - 本屋とレコ屋と映画館とデパート(Liberty)と食べ物屋がぎっちり詰まった界隈は世界のどこを探してもなくて、ここはそういう状態を維持した「繁華街」として100年くらいやってきたのである。ほんとに何が起こったって不思議じゃない気がするし。


あーあ、どっか行きたいな、ちぇ。(こればっかり)

12.20.2021

[film] È stata la mano di Dio (2021)

12月9日、木曜日の晩、シネリーブル池袋で見ました。英語題は“The Hand of God”。

Netflixでも見れるけど(以下同。見れるなら映画館で見た方がぜったいによい作品て、あるよね)
作・監督はPaolo Sorrentino。今年のヴェネツィアで銀獅子をはじめ沢山獲っている。こないだのTIFFでも見にいける時間帯でやっていたのだが、なんとなくパスしてしまった。

Paolo Sorrentinoはそんなに好きでもないし絶対必見、と思っているわけでもないし、“This Must Be The Place” (2011)にしても”The Great Beauty” (2013)にしても、わかるけどどこか過剰でぎらぎら盛りすぎてお腹いっぱい感が強くて、それを「イタリア」で括ってよいのかどうか.. イタリア料理にお手あげになりつつも離れられないのにもまた似て.. 音楽だとゴスの世界のあれらのかんじ。

冒頭、マラドーナの言葉が掲げられた後、海上の空からナポリの岸の方に向かって鳥になったカメラがぐーんと寄っていく。

80年代のナポリ、バスを待っていたPatrizia (Luisa Ranieri)に謎の運転手が声をかけて、不妊で悩んでいた彼女は半分廃墟のようになっているお屋敷でフードを被った小さい妖精? -The Monacielloに触れて、その後の夫とのごたごたで病院送りになった彼女のところに甥の17歳のFabietto (Filippo Scotti)と父Saverio (Toni Servillo) と母Maria (Teresa Saponangelo)と兄Marchino (Marlon Joubert)が呼ばれたりして、始めのうちはFabiettoが主人公なのかもよくわからないまま、変で雑多な親戚家族に隣人友人たちが強い陽射しのもと、ゆっくり紹介されていく。階上に住む男爵夫人Baroness Focale (Betty Pedrazzi)とか、父は浮気しているのに異様に仲良いままの父母と家族とか、船を操ればぜったい捕まらない密売人とか、善いのも悪いのも変なのもふつーなのも、みんな不思議な調和関係を保ってそこに溜まっている。

マラドーナがナポリのチームに移籍してくる! っていうありえないニュースを前にみんなで浮かれ騒いで、初めてひとりでサッカー場でのゲーム観戦にでかけたFabiettoが帰ってみると両親が一酸化炭素中毒で亡くなっていた。こんなふうに自分ひとりが生き残っているのって、なんという偶然であることか – これをマラドーナの1986年のワールドカップでの「神の手」騒動 - 偶然の/一瞬の交錯 - に重ねてみたのがタイトルで、これは実際にPaolo Sorrentinoの身の上に起こったことで、この壊滅的で悲劇的な出来事を通して彼の生の意味とか将来とか – 映画監督Antonio Capuano (Ciro Capano)との出会いから映画の世界を志すとか、ずっと憧れていたPatrizia(の乳房)のこととか、男爵夫人との奇妙な情事とか、現実から少し浮きあがったところにあったあれこれがこちらに向かって緩やかに動きだしてくる辺りまでを描く。そのぐちゃぐちゃして煮えきらなくてこれからどうしろというのかあうう… ってなるところまで、なんかわかる。

誰もがフェリーニの“I Vitelloni” (1953) - 『青春群像』 や “Amarcord” (1973)を思い浮かべると思うし、役者志望の兄がフェリーニの映画のオーディションを受けるところもあるし、本人もその辺は意識しているようだが、自伝的なことをフィクションとして足場を組んで周到に積みあげる、というよりはそれが起こった瞬間の熱とかうなされようとか高揚感とかうんざりとか、ややエモの方に寄って右から左から混沌と共に吹きつけてくる。ナポリのこと、マラドーナのことをまるで知らない人にどこまで響いてくるものなのかは微妙かも。他方で、17歳で突然に両親を失ってしまったあとにすべて違って見えてくる景色 - みたいなところはかろうじて伝わってくるような。

この辺の熱っぽいはったりに粋がり - 踏み間違えたら詐欺師ぽくも見えてしまう手口は“The Great Beauty”とかにもあった気がして、これらの滲みでてくる蒼い悩みにどこまでのって寄り添えるか、など。

ラストで主人公がPino Danieleの"Napule è"を聴いているところは”Call Me By Your Name” (2017)のエンドロールのとこを思い浮かべたりするのだが、この辺ものれない人にはのれないかも。New Orderの”Touched by the Hand of God” (1987)あたりが流れるかと思ったけど、やっぱりちがうか。

でも画面はきれいだし音もすばらしくよいので大画面で。 またナポリ行きたいなー。

12.17.2021

[film] Don’t Look Up (2021)

12月10日、金曜日の晩、ヒューマントラストの有楽町で見ました。

Netflixで24日から見ることができるが待てない - 自分はClintの映画を初日に見るひとではないが、Adam McKayの映画であれば初日に見る。

ミシガンの天文台に泊まりこんでいる天文学専攻大学院生のKate Dibiasky (Jennifer Lawrence)が地球に向かっている6kmくらいのサイズの隕石を発見して、何度計算しても6ヶ月後くらいには地球に衝突することが確実で、衝突したら地球は間違いなくぶっ壊れることを知る。

彼女は大学の上のDr. Mindy (Leonardo DiCaprio)にコンタクトして、Dr. Mindyもそのやばさを確認して、彼は政府筋の天文学者のDr. Oglethorpe (Rob Morgan)にエスカレーションをかける。

Dr. Oglethorpeはふたりに軍用機を手配してDCに運び、大統領(Meryl Streep)とその息子で補佐官(Jonah Hill)との面談をアレンジするのだが、大統領も補佐官もまともに取りあってくれない。続けて人気のTVモーニングショーに出演してCate BlanchettとTyler Perryのキャスターの前で喋るのだが、番組は人気歌手(Ariana Grande)の離れたくっついたで慌しくてそれどころじゃないかんじで、なんなのこれは地球がなくなっちゃうのに、になる。

それでもさすがにやばいと思ったのか、ホワイトハウスは隕石を打ち落とすべく愛国メッセージをたっぷりまぶして宇宙飛行士(Ron Perlman)をシャトルで打ち上げるのだが、なぜか打ち上げたやつが戻ってきて、なんで? ってなると大統領の背後からテック界の大御所ビリオネアのPeter Isherwell (Mark Rylance) が出てきてもっといい案があるよ、とかいう。

だんだんやけくそになってきたMindyはCate Blanchettと寝るようになり、Kateはそこらで遊んでいたスケボー小僧のYule (Timothée Chalamet)とつきあい始めて、でも滅亡の日はお構いなしに近づいてきて..

メインのふたりを除くと、個々の細かいやりとりや主要キャラクターの造型はまるでSNLのスケッチでばかばかしいことこの上なく、笑える人には笑えるけどそうでない人にはぜんぜん、系のやつなのだが、ストーリーの転がっていく先についてはまったく笑えない - まるで全滑りじゃん - というあたりが評価の別れるところなのだろう – これはまったくいつものAdam McKayなのでわたしはすばらしいと思った。

政治(大統領周辺)もメディア(モーニングショー)もコトの重大さなんてどうでもよくて、地球が亡くなるっていうのに自分の支持率のこと、番組の視聴率のこと、しか頭になくて、他の国も自国さえよければ、って「独自路線」などとぬかし、どいつもこいつも身内と取り巻きに囲まれて科学者の言うことなんてまったく聞く耳もたない。(Mindyがいちいち何度もそれはちゃんと査読したのか?とか聞くのがおかしい)

あとは、補佐官のJonah Hillがふんぞり返っていう“There’s you, the working classes; there’s us, the cool rich, and there’s them …”。日本の政治家にもまったく同じこと言う奴らいたよね。

ここでのネタはわかりやすい隕石だけど、これがコロナ対応と地球温暖化対応でのリアルを指していることは誰が見たって明らかで、これの笑えないことときたら笑うしかない。これ、トランプ信者とか右の方の連中はどう見るのかしら?

こんなオールスターどたばたコメディなので、最後にはスーパーマンとかMatthew McConaugheyが現れてなんとかしてくれるのかと思いきや、そんなのまったくなし、シャレにならない状態で地球は滅びる。国も社会もメディアも愚かだったから..(そしてお金もコネもなかったから…)

タイトルの”Don’t Look Up”は、空を見上げてみろ、でっかいあれが見えるしやばいのは一目瞭然だろ、っていう科学者に対して反対派がはるキャンペーンの文句なの。見なきゃいいんだから、って。それで見なかったことにして死んでりゃ世話ないのか。 どうせ死んじまうのならー。

Mark Rylanceのビリオネアは”Ready Player One” (2018)のゲーム開発者とほぼ同じような役柄。そこにどうみてもElon MuskとJoe Bidenが入っていて、おもしろいけど半端に生々しくて気色わるい。

もし地球が滅びなかったらDiCaprioは、”The Revenant’ (2015)で放浪の旅にでて熊と戦って、Jennifer LawrenceはKatniss Everdeenとなって反乱軍を率いるのね。