12.23.2021

[film] Bis ans Ende der Welt (1994)

12月12日、日曜日の昼間、ル・シネマで見ました。
英語題は“Until the End of the World”。邦題は『夢の涯てまでも』。 4Kリストアされた287分のDirectors Cut。よくわかんないのだが、これのDirectors Cutって300分のバージョンもあるらしく、むかし、2004年の正月にリンカーンセンターで見たときのは、この300分版だった記憶がある。

1999年、軌道上にあるインドの原子力衛星が制御不能となって地球に落ちてくるから、と世界が大パニックになっている時にClaire (Solveig Dommartin)はそんなのどうでもいい、ってつんとして無関心なのだが、逃げる車の渋滞と事故に巻きこまれて、Chico (Chick Ortega)とかギャングの一味と知り合い、怪しげなTrevor McPhee (William Hurt) - 後にSam Farber - という男の逃げた追ったに巻きこまれて、そこに別れた恋人のEugene (Sam Neill)とか探偵Philip Winter (Rüdiger Vogler)が絡んでみんなで世界を移ろっていく、全体のテイストとしてはB級映画なの。

ベルリン~リスボン~モスクワ~北京~東京と渡りながら騙したり騙されたり喧嘩したりの追いかけっこの中で明らかになる人の記憶を映像化して脳にダイレクトに送り込む装置のことと、そいつを手にしたSamの野望 - オーストラリアに住む盲目の母Edith (Jeanne Moreau)のために妹とかいろんな映像を撮っていくのと、でもそのせいで目を傷めたSamとClaireは恋仲になっていく。

第二部、機器を携えてオーストラリアの砂漠の真ん中に着いたふたりは機器の発明者であるSamの父Henry (Max von Sydow)の研究所で母に向かって映像の再生と送信実験を始めるのだが、これは人体への負荷が高くて送る側は死にそうになるものの、なんとかうまくいって、うまくいった後に嵌ったら抜けられなくなって廃人のように落ちていくの。

原題通りでいくと、「世界が終わってしまうまで」に、世界が終わってしまうのだとしたら、それまでどうやって過ごすのか/生きるのか? というテーマのお話し(邦題だと「夢の涯てまでも」ついていきたい or 「夢の涯てまでも」ついてくるなんてうざい、のどちらか)で、これが作られた当時の空気でいうとみんな割とノストラダムスを素朴に信じていたので、そんなのあたりまえじゃ勝手に終わるわボケ(→ 適当に過ごす)、でしかなくて、”Der Himmel über Berlin” (1987) - 『ベルリン天使の詩』もそうだけど随分ロマンチックな話だよねえ、と当時は思ったものだった。

こないだの”Don’t Look Up” (2021)の方では、世界の滅亡を前にしているのに自分の見たいものしか見ない聞かない政治家たちのありようが描かれていて、こっちだと… やっぱり自分の関心の向かうところにしか行かない。でも政治もメディアもここの視界には一切はいってこない。

物語は夢や記憶を映像として再生して抱きしめることができてよかったねえ、で幸せに終わるのではなく、その後にその世界への依存症、中毒症が別のかたちで主人公たちに危機をもたらすところまで描く。それは衛星とは比べようもないくらいの強さでそこに現れる危機なのだが、それを救うのがEugeneの書き文字 - 文学である、って極めて白人的な文化観だよね - にっぽん文化の描き方もアボリジニの扱いも - などととりあえず突き放して見てしまう。今となっては。好き嫌いで言えば、この辺のしょうもないかんじが好きなんだけど。

あとは音楽映画としてのすばらしさ、というのもある。グランジが世界を覆って(よくもわるくも)足下を泥まみれにしてしまうぎりぎり手前の、80年代末のいちばんナイーブにコミュニケーションや他者や世界について考えていた時代の音楽ががんがん流れてきていちいち泣きそうになって、それだけでよいの。U2のタイトル曲だけあんまし、だけどそれ以外の、Lou ReedもR.E.M.もElvis Costello(の”Days”)もNick Cave and The Bad SeedsもPeter GabrielもRobbie Robertsonも。

技術的なところでは、ここの仕掛けを転用してできあがったのがMatrixの世界で、24時間機器を手放せなくなるふたりの姿はMatrixに接続されて機械に消費される人類の姿に繋がっていく。やはりここで世界はいったん終わってMatrixが立ちあがったのではないか。そしてMax von SydowこそがMatrixの祖で、つまりつまりベルイマンの描こうとした世界というのは、やがて世界を覆って人間にとって替わろうとするなにか(神だろうが機械だろうが)とアートのせめぎ合いを先取りしていたのではないか、と。

あと、データ容量で2500GBをすごそうに語っているところとか、なんか微笑ましい。

東京のシーン、今の若い人たちが見たらどんなふうに映るのか。昔はあんなふうだったのよ。我々が戦前の昭和を見ていたようなかんじなのだろうか? Joseph Loseyの”La Truite” (1982) - 『鱒』で描かれた東京もまたー。(あの景色のトーンてなんなのかしら?)


今年の仕事はおわった。もうしごともかいしゃもだいっきらいだ。こんなに嫌になったことがかつてあっただろうか?
(いっぱいあったよ)

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