2.09.2022

[film] 青色革命 (1953)

1月30日、土曜日の昼、シネマヴェーラの猪俣勝人特集から2本見ました。

朝霧 (1955)

監督は丸山誠治、原作は阿部知二の同名小説(1940)。
信州のどうみても旧制松本高等学校 – 現信州大学の寮に暮らす椿普一(久保明)が冒頭、マラソンでやけ起こしたように爆走して倒れたりしている。両親のいない彼は姉彰子(杉葉子)からの仕送りでやりくりしていたが、彼女が父の友人だった倉賀(志村喬)の秘書になってから途端に羽振りがよくなったのを見てなんだかもやもやしているのだ、と。

寮の友人庄司(山田真二)は近所の林檎畑で知り合った娘菊江(青山京子)のことが好きになって、でも彼女の家は貧乏なので身売りされる話が出ていて、こちらもなんだか心配で。

西洋史の先生(土屋嘉男)から夏休み中に翻訳の手伝いに来ないかと請われて行くことにした普一の近所のホテルには避暑で滞在しにきた倉賀と彰子がいて、普一の幼馴染で倉賀の娘八千代(岡田茉莉子)も来ていて、勉強どころじゃない状態で、でも先生はお姉さんを信じろ大丈夫だと言い、他方で八千代からはちょっとあのふたりやばいのでどうにかして、と言われうわあ、ってなる。

そして、いつの間にか身売りされてしまった菊江を取り戻すべく大阪の兄の紹介でハードな現場仕事に身を投じていた庄司は..

家の事情で身売りされてしまう娘があり、弟のために秘書としてじじいに(どこまでかは不明だが)尽くさなければならない姉があり、いろんな階層にある「現実」に直面して自分らは学生なのでどうすることもできなくて悶え苦しむ若者(男)たちの青春ドラマ。こういうナイーブさがバンカラとか呼ばれて幼稚にナルシスティックにイキっていた旧制高校体質の表裏にあったことはわかるけど、結果としてなんも変えることができないまま、おやじどもは薄汚いままで戦後にっぽんを作ってそのままずっときたんだわくそったれ、って。


青色革命 (1953)

製作は藤本真澄、原作は石川達三(1952-53に連載された新聞小説)、脚本は猪俣勝人、監督は市川崑、音楽は黛敏郎。

大学を失職中の元教授の小泉達吉(千田是也)がいて、妻の恒子(沢村貞子)とふたりの兄弟 – 大学と高校くらいの順平(太刀川洋一)と篤志(江原達怡)がいて、そこの下宿人でつけまつげでオネエ言葉を使う怪しい福沢クン(三国連太郎)がいて、しょっちゅう家にやってくる親戚で映画雑誌編集部に勤める美代子(久慈あさみ)がいる。

することがないので日々ぼーっと宙を見つめて過ごす達吉(いいなー)の疲れた - オーラのまったくない背中を中心に回っていくいろんな世界 - それでも小料理屋のお須磨さん(木暮実千代)にぽうっとなってちょこちょこ通ってみたり、大学の権力抗争の傍らでじたばたする伊藤雄之助とか選挙ブローカーの加東大介とか、薄汚れた世界があったり。その反対側で若者たちは変わらず無邪気な恋と政治に生きようとしていて、革命といえばアカだった時代の、そうじゃない青いやつだってこんなふうに – そこから革命ってなにさ? という目線も含めてあれこれ転がしてみせる。

ただ最終的にはやっぱりなにがあっても家のなかで動かない動じない沢村貞子と、身軽に動き回りつつもちゃっかりしっかりの久慈あさみと、どんな男でも魚のようにばさばさ捌いていく(小料理屋=調理場の)木暮実千代と - 彼女たちがすべてを掌握して愚かものの世界を操っているとしか思えないの。

そして、そんな彼女たちの用意した穴や網から逸脱した挙動と言葉遣いでそのアルゴリズムを脱構築していく福沢クンの可能性と未来について、ほんとうはもっと語られるべきだったのかも。

スクリューボールコメディ、という言葉があったけど、社会階層間の段差や巻き込み/巻き込まれがそんなにない、フラットな世界でのじたばた – 大きな転覆なし - のアンサンブルのみだったので、スクリューボールとはちょっと違うかな、って思った。

シネマヴェーラの猪俣勝人特集はここまでだったのだが、おもしろかった。揺るがないでっかい社会の基盤や壁を前に人はどこまで裏に表に抗うことができるのか、それで結局どうなるのかを掘りつつも、それ自体が揺るがない物語としておもしろく機能してしまう不思議さ。



RIP Douglas Trumbull ..  
子供の頃にTVで見た”Silent Running” (1972)がどれだけ自分の宇宙 - SF観に影響を及ぼしたことか。いまだに夜空を見上げると、そこにはロボットをのっけた宇宙船がゆっくりと飛んでいるのだと思いこんでいて、心のなかで手を振ってしまう。
ありがとうございました。

2.08.2022

[film] CODA (2021)

1月30日、日曜日の午後、新宿のWalt9で見ました。
前の晩に”TITANE”を見て、あとほんの少しだけ家族のよい話がほしいかも、とか。

フランス映画 - “La Famille Bélier” (2014) -『エール!』-未見- をSian Hederが脚色・監督して昨年のサンダンスでいろいろ受賞して、オスカーの作品賞までノミネートされているUS、フランス、カナダ合作映画。

“Coda”というと自分にとってはLed Zeppelinの最終楽章で、あれはジャケットを一瞬見ただけであたまの中で"Bonzo's Montreux"がどすどす鳴り出したりするのだが、もちろんまったく関係ない。ここでの”CODA”は“Child of Deaf Adult”のこと。

マサチューセッツのGloucester(英国から渡ってきた人々の街ね)で高校生のRuby (Emilia Jones)は早朝から自分ちの船で父Frank (Troy Kotsur)や兄Leo (Daniel Durant)と漁に出るのを手伝って、港に戻ってくると魚の競りも含めた交渉事をやったりしている。彼女の家族は母 - Jackie (Marlee Matlin)も含めて彼女以外は全員聴覚障害者なので彼女の手話による通訳がないと仕事ができない – ずっとこのやり方でやってきているので、家族全員が明るくさばさばそういうもん、程度で。

漁をしながら大声で歌うのが好きだったし、ちょっとよいと思ったMiles (Ferdia Walsh-Peelo)がエントリーしているのを見て学校の部活はコーラス部に入ることにする。教師のBernardo Villalobos (Eugenio Derbez)はやや癖があるかんじなのだが、RubyとMilesの歌の才能を見抜いて、ふたりにデュエットしてもらうから、って活動後の補講をやるようになって、ふたりの仲がよくなっていくのと、歌のタレントを認められてその歓びに目覚めてバークレーに行けるかも、になっていくのと、反対側で家業の漁の仕事はやなかんじの仲買人を通さずに自分たちで直売できる仕組みを考えよう、っていう試みのなかでRubyへの負荷と期待が高くなっていくのと、が同時に起こって、自分のこれからと家族のこと、どっちをどうしたいの/どうするの、になっていく。

家族はオオスジのタテマエではこれはお前の人生なんだから、というのだが、現実には彼女がいないとうまくいかないところも多くて、実際に彼女がいない時に監査が入って操業停止まで勧告されたり、お互いのストレスをわかっていながら変な(or 当然の)意地をはって結果双方疲れて嫌になって - 誰もなんにもわるくないのに。

邦題には『あいのうた』 -なんでひらがな? - って付いているけど、うたや音楽がみんなの危機を救ったとかそういうぼんやり暖かいお話しではなくて(そう思っても別にいいけど) – うたはまず家族の分断を引き起こしたきっかけとしてあって、そもそも音楽がどういうものか(不寛容以前のところで)理解できない家族とどう折り合いをつけたか、つけることができたのか、という家族の人情噺なのだと思った。(十分に暗くて辛い)家族の役割や歴史をきっちり押さえつつ、べったべたのえぐみたっぷりに描く人情噺ではなくて、スラップスティックに近いかたちでなんだかうまく収まってしまったことに誰もが驚き、ちょっと泣いて笑顔になれる、そういうやつ。

ものすごくダークに、例えば漁のところを”Leviathan” (2012)のようなぐちゃにちゃの閉塞感満載にして、それを延伸して突っ走るのもありかも、と思ったけど、そんなの誰もみないか…

聞こえない側と聞こえている側、それぞれの感覚をきちんと描いて、聞こえる側が歌ったり流したりする音楽が地味に素敵なのもよかった。頻繁に流れる”You're All I Need To Get By”も、真ん中くらいで少しだけ流れて、この曲だわ!って思っていたら最後にきちんとやってくれた”Both Sides Now”もどちらも大好き。響き渡る不朽の名曲が一網打尽にするというより、こんな小さな曲だからこそすぐそこに届いてノックした、そういう距離の近さ。

最後の試験のとこはなんだか”Flashdance” (1983)を思い出してつい力瘤が。

アンサンブルもよくて、Rubyはうまいし、パパのTroy Kotsur(祝!助演賞ノミネート)はよいし、Miles役は“Sing Street” (2016)に出ていた彼だし。先生役の人も悪くないけど、もっと押しとアクの強そうなHarry Connick Jr.とかLin-Manuel Mirandaとかだったらなー、とか。

続編はRubyが家族のみんなにやっぱり音楽をわかってもらおうと、バンドを組んでヒップホップかデスメタルに向かうやつに。
 

2.07.2022

[film] Alaverdoba (1962) + 2

1月29日、土曜日から始まったジョージア映画祭 2022、既に何本か見て、あと何本見れるかわかんないのだが、ものすごくできるだけいっぱい見たい。

見たことがない映画ってひとつひとつが星のようなもので、近いところにも遠いところにもあっていろんな星座を形作ったりしつつ瞬いていると思うのだが、この特集の映画たちは大きなひとつの星雲のように自分にはでっかく見えて、われら漂流民の虫たちは近寄ったらぜったいやばいってわかっていながらやられたくて幻惑されて突っこんでいくの。あとは食い破られたり乗っ取られたりどうとでも - それで構うもんか、になる。

はじまりはワインでもパンでも料理でも文様でも衣装でもなんでもいい、我々にとって地の果て(別惑星)のように見える山奥や大地で羊たちと暮らしたり戦禍に見舞われたりしながら我々と同じように家族とか恋とか歳月とかの移ろうさまを100年前から映画に撮ろうとしていた人々がいたという驚異。それに出会うことができるという幸運。

国がとてつもなく愚かな鎖国政策を取って目隠しをしようとしている今、ウクライナが大変なことになっている今、視野狭窄を起こさないためにも淡々と見ておいた方がよいの。

というわけでその初日、「シェンゲラヤ家の栄光」という枠から2枠、3本見ました。

Eliso (1928) - エリソ

サイレント。英語題は”Caucasian Love”。 字幕に出てくるグルジア文字のフォントがかわいくてそれだけで..

コーカサスの山奥に集落をなして暮らしている少数民族の人々がいて、ロシア帝国側は自分たちの都合でチェチェン人のトルコへの強制移送を計画して - そこにコサックを住ませようと - 地元の官僚はいいよやっといてー ってそいつに軽く判を押しちゃって、配下の連中は突然村に現れて出ていくように、と告げると家に火を放つ。

その企みを知った村長の娘Eliso (Kira Andronikashvili)の恋人でヘヴリス人 - キリスト教 - 異教徒のVajia (Kokhta Karalashvili)がひとり役所に乗りこんでいって、束になってかかってくる衛兵をさくさく痛快に片付けちゃって、役人に撤回の一筆を書かせてElisoの待つ村に急ぐのだが… 村の中にも穏健派の村長と武闘派がいて、その一部は帝政側と裏で繋がっているし異教徒への態度も違っているし、そう簡単にはいかないところは現代と変わらないかも。

とにかく、そこで平穏に暮らしている人々の生活を外部の連中がなんとかしようとかどうとでもできるなんて思えてしまうことがおかしいしおそろしいし。そして、原作の結末は映画よりも悲惨なんだって..


Alaverdoba (1962) - アラヴェルディの祭

監督Nikoloz Shengelaiaの息子 - Giorgi Shengelaia (1937–2020) の25歳の監督デビュー作。

東ジョージアにある11世紀に建てられたアラヴェルディ聖堂で毎年秋に行われるお祭りの取材に出かけたジャーナリストのGurami (Geidar Palavandishvili) - なんか宇宙人のようにかっこいいんだけどこの人 - の目がとらえた祭りの様子。はじめは祭りの様子を追う半ドキュメンタリーのように進んでいく。

いろんな民族、いろんな宗教の人々が聖堂の前に集って輪になってひたすら飲んで歌って踊って、熱狂があり酩酊があり無関心があって、時間がくるとなんとなくしょんぼり終わっていく - ただそれだけ。映画の前半でお祭りは終わっちゃって、それは冒頭の新聞記事に書かれていたようにお祭り本来の宗教的意義からとうに離れて堕落しているように見えて、そこでGramiはある行動にでる。

それまでのゆったりだらだらした祭りの終わりモードから裸の馬に飛び乗って疾走するテンションへの転調がびっくりで、あの場にいた人々と同じように見ている我々も度肝を抜かれる。映画はこんなふうに見ている人の瞳孔をこじ開けて、そこにとつぜん聖堂が放つ聖なるなにかを…

祭りとか宗教(性)ってなんなのか、なんのためにあるもので、そこに到達するには.. というテーマを聖なるものへのそれとは別の視点 – 宇宙人の目で追ってみて改めて目を醒まさせる、そういう強さと鮮烈さがあると思った。


Tetri karavani (1963) - 白いキャラバン

監督は、Nikoloz Shengelaiaの息子で↑のGiorgi Shengelaiaの兄Eldar Shengelaia (1933- )。

コーカサスの山岳地帯で、年のうち3ヶ月くらいしか家に戻らずにカスピ海沿岸に羊を放牧地に移動させながら暮らしている村の人々がいて - だからここの子供たちはいつも同じ時期に生まれるんだって - そんな家の長Martia (Spartak Bagashvili)の率いる羊飼い団が野山を進んでいくうちに息子のGela (Imedo Kakhiani)が空き家で雨風を凌いでいた漁師の娘Maria (Ariadna Shengelaia)と出会って恋に落ちて、結婚しようよってなるのだが、この機にGelaはこんな暮らしをやめて都会で暮らしたい、という。 Mariaはどうして? って戸惑うのだがGalaの都会暮らしへの思いは止まらなって家族を振り切って..  そうしているうちに大嵐が来てパニックを起こして水辺を暴走する羊たちをなんとかしようとしたMartiaが…

放牧の風景や気候は変わっていくけど単調で過酷な日々のなかに突然現れたMariaのために、ずっと一緒にいられる都会の生活を目指そうとしたのに彼女はそんな変化を特に望んではいなくて、でも後には引けないしきっと何かがあるはず.. って。

田舎と都会と家族のいろいろ、それぞれの理想と現実の間に起こる割と普遍的な「縛り」を巡る物語だと思うのだが、過酷な自然とかなまもの(羊)とかが挟まってくるのでほんとに大変そうだし、自分だったらそんな定めを呪うと思った。なのでGelaはちょっとかわいそうだなー、とか。

あと、Mariaが捕っている魚.. カスピ海のチョウザメだよね。あれすごいー。

2.03.2022

[film] TITANE (2021)

1月29日、土曜日の晩、メキシコのMUBIで見ました。
昨年のカンヌでパルムドールを受賞したJulia Ducournauの”Raw” (2016)に続く新作。
いつものように少しネタバレしているので直に見てびっくりしたりしたい人は注意。

監督の前作の“Raw”はすごく変な映画で、人肉喰い少女、というと怖くて見れないホラーなのかも知れないのに、カニバリズムと家族の絆と青春映画が絶妙にブレンドされていて、なんだか見れてしまった。

今回のも予告とか評判を読んだ限りではクローネンバーグ混じりのぜったいやばそうなやつなのだが、ひょっとしたら.. の怖いもの見たさで突撃してみる。

冒頭、小学生くらいのAlexia (Adèle Guigue)が父親と車に乗っていて、彼女はだるそうに運転している父親に後部座席から不機嫌にちょっかいを出したら車は路肩に衝突して、彼女は病院で頭にチタンの板をはめ込まれた身体となる。

大きくなったAlexia (Agathe Rousselle)はモーターショーとかで車の上でくねくねして客を寄せるエキゾチックダンサーをしていて、でも目とか態度は変わらず不機嫌まるだしで周囲から切り離されている。ショーが終わって強引に追いかけてきたファンの男にキスを求められたのでキスをして、その状態で男の頭を簪で一突きして、その後に昼間に踊っていた車とセックスをする。

その快楽を引き摺るようにパーティの場にいた男女複数をさくさく殺していって父親も火事の現場に閉じ込めて、そのうち連続殺人犯のニュースが騒がしくなって顔も見られたり、並行してなんでか彼女のお腹が大きくなってきて、黒いオイルのような液体が自分の股や傷口から流れ始める。これはいろいろ相当やばいぞ、と幼い頃に行方不明になったまま十数年経っているAdrienという少年 - 貼り紙にあった失踪当時の顔が少し似ている - になりすますべく、駅のトイレで自分の顔をぶん殴って洗面台で自分の鼻をへし折って(ひー)、出っ張っている胸と下腹をテープでぐるぐる巻きにして女子であることを隠し、ショックで口がきけなくなっている、という設定にして賭けにでる。

Adrianの父親として現れたVincent (Vincent Lindon)は、DNAの鑑定なんていらん、こいつは間違いなくAdrianだ自分が守る、って周囲に宣言して彼女を引き取って世話を始める。Alexiaはなりすましがうまくいって世間から身を隠すことができればよいので、Vincentの態度はありがたいのだが消防団員をしている彼は明らかに別種のやばいモンスターで、日々のいろんな苦痛や苦悶を太腿への注射でなんとか凌いでいるジャンキーなのだった...

そのうち消防団員はAlexiaってどうも怪しい、って見るようになるし、Vincentの妻(Adrianの母)は簡単に彼女がフェイクであることを見抜くのだが、AlexiaにVincentのことを頼むとかいうし、あれこれ噴出してきて、もううざくなってきたVincentを殺したろか、ってなるのだがAlexiaにはどうしても彼を殺すことができないの。

最後、お腹が膨れあがってどうしようもなくなったAlexiaとそんなAlexiaの正体を見てしまったVincentは..

“Raw”と同様、いやあれ以上に捩れてそっくり返りながらのたうつ「家族」と女性の物語で、こんなのがパルムドールを獲ってしまったのだから痛快としか言いようがない。頭蓋骨に嵌め込まれたチタンの板がAlexiaにどんな変容をもたらしたのか、なんであんなことが起こるのか、なにひとつ説明されないまま、横から現れた息子を失ってどこかのなにかが壊れてしまった男とのクラッシュが物語を更に異様な方に転がしていく。Drive Their Car.

単なる人と機械(or 金属)のインターコースのお話に狂ってしまった父の情念が絡んで、結果として化け物のようなエモが絡んでのたうつ怪異小説のようになっている。思いに寄り添うことなんて到底無理だし、どう処理したらよいものか、って遠巻きに、それでも見てしまう。

これが長編デビューとなるAgathe Rousselleさんは見事だが、それ以上にVincent Lindonのごりごりノワールの狂ったオーラがすばらしい。このふたりが寄り添う絵のなんともいえないかんじときたら。

続編とかやらないかしら。ぜったいおもしろいのになる。

2.02.2022

[film] 刀馬旦 (1986)

1月28日、金曜日の晩、国立映画アーカイブの「香港映画発展史探求」で見ました。
『北京オペラブルース』、英語題も”Peking Opera Blues”。監督は徐克(ツイ・ハーク)。

京劇って英語だとPeking Operaで、「刀馬旦」というのは京劇で立ち回りを中心とした女性が演じる英雄の役柄、なのだそう。客席はほぼいっぱい、すばらしくおもしろかった。

1913年の辛亥革命直後、袁世凱政権下でめちゃくちゃな無政府状態になっていた北京で、お家の出入りで流出した財宝を追いかけて京劇の芝居小屋に迷いこんだ歌手のションホン(鐘楚紅 - Cherie Chung)とそこの劇団長の娘で芝居をやりたくてたまらないパナウ(草倩文 - Sally Yeb)と、海外から戻ってきて将軍の娘でありながら政権転覆を狙う組織にいる男装のチョウワン(林青霞 - Brigitte Lin)の3人が出会って、チョウワンの父将軍の金庫に収められた袁世凱失墜のカギになる書類を巡って政府側と転覆を狙うゲリラ側がじわじわどたばたやりあっていく活劇で、その活劇の真ん中に偉い連中がやってくる京劇の芝居小屋とそこで演じられる京劇 - 演目にも意味があったりしたのだろうか? - が挟まってくるの。

当然のように政権側は人もいっぱいいて悪賢くて強くできてて、反体制側の特に女性3人はチョウワンを除くと巻き込まれていい迷惑な娘たちで、その後ろにつく男子も筋肉とメガネのふたりくらいのそんなに強くない連中で、善玉は圧倒的に劣勢で、絶体絶命のなんとかしなきゃいけないところで劇的にひっくり返ったり人がびょーんて飛んでいったりが頻発してフロントとバックがぱたぱた切り替わっていくバックステージものなの。

京劇はよく知らないのだが、二十世紀の初めまで、北京では女性が公共の劇場で演技をすることが禁止されていた(なのでパナウは芝居したい、って嘆き悲しんでいる) - そんな世界の舞台の上でその役割を反転させた女性たちが華麗に舞って踊りながらその柵を含めたすべてを転覆させようと立ち回る。こんなの痛快に決まっているのに、なんでタイトルに”Blues”がつくのか、だけあんまよくわからない。

真ん中にいる女性3人が巻き込まれた事情はばらばらでなんで仲良くなれるのかわかんないし、チョウワン父娘の情はあるのかないのかよくわかんないし、男は色と金に目がなくてだらしなさすぎだし、向かいあったら取っ組み合いや撃ちあいを始めるし、すぐに泣いたり気絶したり沸騰するし、すべてが浅はかでなんも考えていないふうに転がって着地だけなるようになって(して)しまうところがすばらしくて、そういえばオープニングとエンディングで京劇のメイクをしたおじさんの顔面がぜんぶ笑ってごまかしてくれるのだった。

結構血は流れるし拷問は痛そうだし人も結構ぱたぱたと死んでいくのだが、善玉にぜったい弾は当たらないし殺されないし、全体のノリがとっても軽いので全員が大きなダンスのうねりのなかにいるように見える。危機が迫ったり山場がくるとびょんびょんびょんびょんてJohn Carpenterみたいなエレクトロが鳴り出して、人が跳ねたり飛んでったり落ちたり - 最後のびょーんの後に蜂の巣のとこなんて最高..  ああ86年だわ、って。

あとは、チョウワン - Brigitte Linの痺れるようなかっこよさ。あの衣装にあの目と声で請われたら誰だって地獄の果てまでついていきます、になるよね。

ラストも西部劇みたいでかっこよくて、そうか西部劇のサルーンがこの映画では芝居小屋だったのかー。

上映後、拍手がおこって当然のやつだったねえ。

2.01.2022

[film] 女給 (1955)

1月23日、日曜日の昼、シネマヴェーラの特集『あなたは猪俣勝人を知っているか』で見ました。知っているか? と聞かれたら、知らない、って返すしかないくらい知らない。

フィルム上に出てきたタイトルは『女給』だけだったのだが、チラシとかWebでは『まごころの花ひらく 女給』となっている。よくわかんないのだが、映画の内容からすれば洋画につけられてしまうくそったれた邦題みたいなタイトルかも、って思った。 監督は千葉泰樹で脚本が猪俣勝人。

ふつーの会社に勤める伊藤順子(杉葉子)と石井毅(伊藤久哉)は婚約していて、でも順子の家には旧華族のプライドを引き摺って節制ができない母(英百合子)がひとりいて、置いていけないし十分な結婚資金も貯まりそうにないので、友人を頼って銀座のバーQuail(うずら)に勤めはじめる(行ってみるとその友人はもう辞めていた)。昼間の会社勤務はそのまま、母には会社で接待係をやることになった、と嘘をついて、婚約者は心配してバーにやってくるのだが順子は面倒だから来ないでという。お金が貯まったら抜けるし抜けられるはずだし、と。

バーにはベテランでクールなシングルマザーの澄江(越路吹雪)がいて、一人息子の和夫(設楽幸嗣)をアパートに残して遅くまで働いていて、そこに夫の戦友だった杉浦(上原謙)が訪ねてきて妻子ある彼だけどちょっとよいかんじになったり、でもその結果和夫がかわいそうになってしまったり。

やがて順子はバーの常連の上客のビジネスのためにと嵌められて処女を奪われて妊娠して、それを石井に知られても開き直るしかないし、嵌めた男は収賄で捕まっちゃって散々だし、そんなこんなでバーのマダムと大喧嘩してQuailを辞めても、別のところに移って女給を続けるしかなくて、そこには『女ばかりの夜』(1961)のように一度入ったら軽く抜けられなくなってしまう闇の世界があって、その反対側で澄江は和夫のこともあるから、と杉浦を振り切った後にバーを辞めて美容師になろうとする。

女給の世界から抜けられなくなっていく女と抜けようと決意する女と、どっちが正しいとかよいとか悪いとか、そういうことではなくて、その反対側には「この程度のこと」ではびくともしない男の世界があって、それは夜になると現れて、そのやらしい連中は昼間はがんばって働いていろんなのを「支えている」ことになっていて、なんだこの回転は、とか思うわ。

例えばバーの常連でいつもご機嫌の漫画家(山形勲)の漫画 - 『銚子好男とうわのそら子』とか。ほんと男はどいつもこいつも調子よくて偉そうでやらしくてむかつく。なにが楽しいんだろ、って映画でこの時代のバーの様子とか見ると思う。ああいうとこでみんなえんえん何話したり騒いだりしていたのかしら? ほんと謎。いまだに。

最近見た邦画だと『月は上りぬ』(1955)の杉葉子 - これも1955年だ - がいて、あの役柄からここにそのまま来てもおかしくない気がしたし、息子の和夫は『黄色いからす』(1957)でも変わらずかわいそうな子 - 戦争の不幸が絡んでいる - だったり、マルチバース.. ではなくて戦後の庶民が囲われて囚われたひとつの閉じた世界だったのだろうな、とか。

で、これらは70年くらい前のにっぽんの断面っていうだけでなくて、ぜったい今もその影とか残滓みたいのはそこらじゅうにあって、今日亡くなった元都知事なんかもそこにいた奴らの仲間で、いいじゃねえかっていう人もいるのだろうけど、ぜったい嫌だ、って言い続けてやろう、って、そのために見てやる、というとこもある。

越路吹雪、一曲歌ってくれてもよかったのになー。

[theatre] The Lehman Trilogy (2019) - National Theatre Live

1月22日、土曜日の午後、National Theatre Liveの上映をしているシネリーブル池袋で見ました。休憩2回の全3時間半。

イタリアの劇作家Stefano Massiniによる三幕劇をBen Powerが脚色してSam Mendesが演出したもの。2013年にフランスでプレミアされて2015年にイタリア版(演出はLuca Ronconi)が上演されて、2018年にNational Theatreに来て(ここからSam Mendes版)、その後でNYのPark Avenue Armory → Broadwayに行って、その後にWest Endに戻ってきた。NTLの撮影はWest Endのそれで、これを上演しているシアターを横目で見ながら毎週土曜日、古本屋に通っていたことを思いだす..

冒頭、2008年のLehman Brothersの経営破綻前夜(あと数時間で..)のニュース音声ががらんとしたオフィスに響いている。

1840年代、ドイツのバイエルンからアメリカに渡ってきた3人の兄弟 – Henry (Simon Russell Beale), Emanuel (Ben Miles), Mayer (Adam Godley)のLehmansが、アラバマ州モンゴメリーで雑貨店を開いて、地元の綿花の売買、銀行、コーヒー、鉄道事業からパナマ運河まで事業を拡大してでっかくなっていく様を3名の男性俳優 - Simon Russell Beale, Ben Miles, Adam Godleyのみで、開祖の3人から出てきた子孫 – 特にEmanuelの息子Philip (Beale)、Philipの息子Bobby (Godley)、Mayerの息子Herbert (Lester) あたりまで - みんなWikiとかに載ってる偉人だよ - さらに花嫁たちから関係者までぜんぶこの3人が演じ分けている。また、舞台の袖のピアノで絶妙な合いの手となるライブの伴奏をつけて160年間を走り抜けるCandida Caldicotさんも、第四の演者として休憩時間に紹介されていた。音楽はNick Powell。

セットは全幕を通して宙に浮かんだような仕様のガラスの箱で、この中で兄弟たちは生きて動いて、ここに兄弟たちが書きこむ手書き文字が看板となり目標となり取引メモとなり、積まれた箱がオフィスを形作り、このガラスの仕掛けが回転しながら周囲のいろんなものを反射させて鏡のようにその奥行を無限に増幅しながら拡がっていく。資産がどれだけでっかくなっていっても量的に重くのしかかってこない - その内部にいたとしても。

一族の、王朝のドラマとして、あってもおかしくない血生臭い抗争や苦渋に満ちた愛憎が壮大かつドラマチックな劇画調で描かれることはなく、ユダヤ系移民一家がどんなふうに置かれた境遇を受け容れ、知恵を絞ったり閃いたりしながらそのビジネスを広げていったのか、いろんなエピソードを挟みながらユーモラスに寓話風に綴っていく。奴隷制度をうまく利用した綿の売買にしても、大恐慌時のパニックにしても、歴史の断面としてありうる悲劇的なところを周到に避けて、知らんぷりして乗り切りましたー、くらい。

ここは作者と演出家がヨーロッパと英国の出であることも関係しているのかもしれないが、従来の「アメリカン・ドリーム」の積み上げ山盛り方式の描きかたとは随分違う。おもしろいけどあんま替わり映えしないいくつかの漫画っぽいキャラクターたちが、同じような書割のなかで同じような仕草や表情でじゃんけんやビンゴをやっているかのように勝ちあがっていく。この辺、映画の世界でWes Andersonがオールスターキャストでカラフル絢爛に展開する史劇コメディと表裏のようなかんじもする。Wesの場合は、アメリカ人がヨーロッパを描く、というところも対照的だし。

でも、なんであんなふうに事業領域とかビジネスを広げていったのか/いけたのか、なんでそれらが突然あっけなく破綻して消えてしまったのか、この劇を見てもあんまよくわかんないの。演者をミニマムにして、装置を限りなくシンプルにして、結果的に示されているのはそういう空虚としか言いようのないなにかが回転したり稼働したり停止したりしているさまで、最後にめまぐるしい光量のプロジェクションが走馬灯のように回っていった後、ガラスの箱には放心状態になった我々観客自身の顔が映っている。

でも、想像していたような難しさ取っ付きにくさがなくて軽いのはよかったかも。