11月23日、祝日の午前にイメージフォーラムで見ました。邦題は『ガザ 素顔の日常』。
監督はアイルランドのGarry KeaneとAndrew McConnell。
これ、2019年にロンドンで見ていたのを忘れていて、始まってからああこれはー、って思いだす。同年のサンダンスでプレミアされて、オスカーのInternational部門でアイルランドからの候補としてリストされたものの選ばれなかった、と。自分も2019年のベストのなかに入れてるじゃん。
邦題通り、ガザに暮らすいろんな人々の日々の「素顔の日常」を追っているだけ。しかしその「日常」が我々の普段のそれとはどれほどにかけ離れ隔たった過酷なものであるかを、しかしそんなふうであっても、現在がどれだけ政治的に痛めつけられたものであったとしても、彼らが淡々と夢や理想や想いを、こうなってしまう前の幸福だった過去を語る姿のなかに、ほんの少しの希望を – そんなのは第三者が眺めて思うだけの図々しいものであることを十分承知のうえで見て、そんな彼らの生に思いを廻らすことができた、気がした。2019年の8月には。
でも今回見返したらとても辛くて悲しくて。イスラエルの築いた壁に向かってずっと石を投げたり火を焚いたりしていた - 仕事もない他にすることもない若者たちは、そうやって撃たれて怪我をした若者たちをひたすら病院に運んでいた、いつまでも家に帰ることができないでいた救急隊員のおじさんは、船乗りになりたいって言っていたあの子は、将来の夢を語っていた少女は、無事なのだろうか? 「無事」なんて言葉を使える状態ではないくらいに無惨な映像が次々に流れてくる。病院も、学校も、図書館も、すべてが瓦礫に化そうとしていて、逃げ場を塞がれた状態で、そのまま穴に落ちるように子供たちが沢山傷ついて殺されて埋められていて、さらにこれらは互いの情報操作や扇動や交換の道具として使われるばかりで、解決に向かおうとしているようには思えない。「解決」とかじゃなくて、とにかく誰も殺さないで、壊さないで – それすらもできない、止められないのがやりきれない。
2019年に確認されていた - そもそも確認てなんだよ - 悲惨が、その頃には想像もしていなかったような更に酷い状態となって彼らを潰しに、皆殺しに、殲滅にかかっていることを思い知る絶望 – そのため(だけ)であっても見る価値はあると思う。なんで4年前の時点で - それを言うなら75年前の時点で、行動を起こせなかったのだろう、こんなふうに積まれていくのもまた「歴史」と呼ぶのなら学問とか人文とかなんのためにあるのだろうか、って。
Stranizza d'amuri (2023)
同じ23日の午後、”Gaza”を見たあと、こんなに落ちこんではよくないもっと明るいのを見なければ、って見たのだがちっとも明るいやつじゃなかった… 邦題は『シチリア・サマー』、英語題は”Fireworks”。 原題がどこから来たどういうものなのか、ちょっとわからず。
監督はこれが映画初監督となる俳優のGiuseppe Fiorello。
1980年にシチリアのGiarreで実際に起こったヘイト殺人事件を題材にしたもの。
82年、サッカーのワールドカップで湧くシチリアで、家族で打上げ花火師をやっているNino (Gabriele Pizzurro)と、隣の工場で修理工をしているGianni (Samuele Segreto)が知りあう。
母とふたりで暮らすGianniは近所のバーの客たちからゲイだ、ってかわるがわる陰湿にからかわれたり虐められたりしていて、母は粗暴な工場長と関係をもって生活面の弱みを握られているので行き場がなくて、石切り場でバイトしても続かなくて、客先にバイクを届けにいくところでNinoとぶつかったのをきっかけに近寄っていく。
はじめは喘息で具合のよくないNinoの父のかわりに花火の打ちあげを手伝って貰おう、ってGianniを誘って一緒に花火をどーんってやって、シチリアの夏の景色はとても美しいし花火もきれいだし、ふたりの笑顔も輝いているのに、なにかが奥のほうで捩れてうまくいかないままに…
イタリアの田舎の、みんながサッカーに熱中してばかりの熱の裏側でじわじわと生えて育っていった悪意や嫌悪、そこの描写は控えめにして、緑と青の眩しい夏を楽しもうとしたふたりの短かった青春にフォーカスしている。
そこは別によいのだが、バーにいた変な連中とか怪しい影のありようをそれなりの形にできていないのが勿体ないのと、真ん中のふたりの関係が短いから故か深みとか切なさがなさすぎで、比べられるものではないと思うものの、こないだの“Le otto montagne” (2022) - The Eight Mountains -『帰れない山』なんかを見てしまうと、なんか芯となるものがほしかったかも。
11.29.2023
[film] Gaza (2019)
11.27.2023
[film] Reality (2023)
11月21日、火曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
邦題も『リアリティ』。現実性、といった意味をもつ名詞ではなく、単に主人公の女性のファーストネームである、と。
監督はこれがデビューとなるTina Satter、彼女が劇作家として2019年に舞台用に書いた”Is This a Room” - FBIがReality Winnerを尋問した際の実録音テープを元にした台本があり、Tina Satter自身による映画化の際にも録音テープそのものをシーケンシャルに追っていく構成は変わらない。 元のテープがそんなに長くないからか、82分。製作はHBO Films。
2017年5月9日、FBI長官のJames Comeyがトランプによってクビにされた時のFox Newsの映像をオフィスで無表情に眺めるReality Winner (Sydney Sweeney)の姿があり、そこから25日が経った6月3日の夕方、買い物から戻ってきた彼女の家の前にふたりの男 - Garrick (Josh Hamilton)とTaylor (Marchánt Davis)が現れる。
彼らはFBIである、と言って身分証を見せ、フレンドリーに話をしたい、という。彼女の方も特に慌てる様子は見せずに、繋いでおかないと犬が吠えるから、とかベッドの下に猫もいるから、とか心配を自分ではなく犬猫に向けると、捜査官たちも落ち着いてそれならどうしようかここで話すか別の場所にいくか、など、あくまでもこの聴取は強制ではなく彼女の判断や意向を尊重する自発的なものだから、と言いつつ、もうひとりの捜査官が現れ、さらに追って沢山の人がやってくると家のなかに入ってなにかの作業を始め、家の周りには”Crime Scene”の黄色テープが張られてしまう。
彼女の車にはナウシカのステッカーが貼ってあったりメモ帳の落書きもナウシカだったり、殺風景な部屋の壁にはAFIのポスターが貼ってあったり、特異なところはなくて、捜査官が調べている彼女の経歴もおかしなところはなさそう - 軍を名誉除隊後、NSAの派遣社員としてペルシャ語文書等の翻訳をしている、軍を辞めた理由はもう海外に行く機会もなくなってしまったようだから、と極めてまっとうで。
そして捜査官が、機密情報を印刷したようなこと、それを持ちだしたようなことはあった? と聞いてきて、Realityもああそういえばあんなことが、と持ち出し注意ラベルの付された文書を持ちだそうとして注意された件があった、くらいで返して、温度感が少し変わる。少なくとも彼女は機密情報がどういうものを指していて、それを持ちだすというのがどれくらいやばいことなのか、そのことを確認するためにFBIがきた、という程度は気づいているらしい、と。彼女のほうも彼らが聞きだしたいのはこれじゃなくてあれだろう、くらいの感触はもって察して、(おそらく)頭のなかに防御線を何本か引く。
彼女の聴取が細部に入っていくと、並行してスクリーンには録音内容の該当箇所が表示されるようになり、機密の機密たる核心箇所に触れると、その文言だけぽわん、て消えたり喋っている当人が消えたりする。あと、彼女が立った状態で聴取されるのが台所の裏手の、ちょっと気持ち悪い(creepy)ので使っていないスペースで、この辺の臨場感とテンションはホラーっぽかったりもするのだが、これらの演出は必要なのかどうか、は賛否別れるところかも。
確かにこの件は少し気持ちわるくて、なんでこれが機密と言えるのか、そこにはある事件の全容が書かれていて、その事件の加害者も被害者も明らかで、であればその両者をふつうに明らかにすればよいのに、そうはできない事情があって、そこにこの機密の重心があると思われるのだが、とにかくそれが機密とされることには触れられたくないらしいの。なぜなら.. どろん(煙)。
彼女がなんでそんなことをしたのか、しようと思ったのかについてもはっきりと言明はされない。が、これもわからないことはない。2016年から2017年のオフィスで、勤務中ずっと職場にFox Newsが流れていたら誰だってふざけんじゃねえよ、って凍りついた仏頂面になるのではないか。なるわよ。
この件についてははっきりとアメリカの歴史に残る恥で汚点で、だから隠したくなるのもわかんなくはないけど、もうみんなとうに知ってることだし、それを言うならあんなバカを大統領にしちゃったことそれ自体がそうだし - この辺はもうじき歴史が明かしてくれるのだろうが、その狭間であんなことになってしまったRealityはかわいそうとしか言いようがない。今から振り返ればそういうことだったんだ、ってみんな納得できるのにな。
日本だとたぶんもっと悲惨で、フジとか民放とかNHKばかり流されてあったまきて情報漏洩してやったってだれひとり機密の意識も認識もないからせいぜい文春とかタブロイドみたいので消費されるだけ、またいつものあれだから、って誰も捕まらずに悪は変わらずやりたい放題できるの。こういうのが壊れて底が抜けて腐った国っていうのよ。
しかし、いまうちにあんなふうに踏みこまれて差し押さえられたらやばいな。捜査員がしぬのでは…
11.26.2023
[film] Strays (2023)
11月20日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
邦題は『スラムドッグス』。こんな邦題つけるもんだから検索かけてももう一本の英国のやつばかり引っかかる。べつに「ノラたち」でいいじゃんか。
監督はすばらしいコメディ”Barb and Star Go to Vista Del Mar” (2021)を撮ったJosh Greenbaum。
実写で撮られたわんわん達(実写比率は95%だって)がヒトの言葉を喋ったりしながら人間たちとの間でわーわー大騒ぎを巻き起こしていくやつ。子豚の”Babe” (1995)辺りからふつうになって、そんな外面はかわいく見える奴らが実は救いようもなく卑猥で破廉恥でしょうもないのだ、というのを暴いて世界を震撼させた”Ted”(2012)とか、アニメだけど”Sausage Party” (2016)とか、その路線に連なるやつで、ふつうのよい子には見せられないような言葉遣いや描写がてんこ盛り。どうせ野良なんだから、って。 USでのレイティングはR、UKでは15。
ボーダーテリアのReggie (Will Ferrell) はシェルターでだらしなくて卑しい中年ひとり男のDoug (Will Forte)に拾われて、自分ではずっと愛されていると思いこんできて幸せなのだが、Dougからすれば彼女に二股かけていることをばらしたり碌なことをしない使えねーダメ犬で、これまで何度も車で遠くに出かけてボール投げてからひとり車で帰って追い払って捨てようとしたのに、Reggieはその度に彼への愛を試されているんだと思ってがんばって家に戻ってきてしまうので、Dougはもうふざけんな、ってものすごい遠くに彼を捨てにいって置き去りにする。
そうやって遠くに来てしまったReggieが同じような事情を経て悟りきってノラをしているボストンテリアのBug (Jamie Foxx) - 口がわるい親分肌、やさしいコリーのMaggie (Isla Fisher) 、カラーをつけた不安症のグレートデンのHunter (Randall Park)の3匹と出会って、そらおまえ、嫌われて捨てられようとしてるだけだ目を醒ましな、って。でもそんなふうに止められてもDougの家に向かおうとするReggieにくっついて旅をしていくお話し。
3匹がご主人様を無邪気に信じきって無垢で世間知らずのReggieに犬の習性や本能や世渡りを身をもって示したり教えたりしていく道中のあれこれと、その反対側にあるヒトの卑しさおぞましさについても - 保健所に捕獲され閉じ込められたりしながら、ほらな、って。
いちおう教育TVぼい体裁をとってはいるものの、アニマルたちの「それ」なので - “The Secret Life of Pets 2” (2019)にあったようなお気に入りのボールを追っかけてどこまでも、辺りの一途さは似ているけど - 生々しく肉肉しくすぐに交尾や性器や(上下)排泄物の方に話題と嗜好は向いてしまって止められないし - それしかねーのか、だし - やばいキノコたべてみんなでらりらりになったり、それらすべてにF言葉に罵詈雑言がくっついてくるのでおいおい、ってなったりする。 それでもDougへの、ヒトへの怨み復讐と仲間への友情というあたりの基軸は一切ぶれずに筋が通っているので、それらすべてがスパークする最後はとっても納得できるような。 Dougにとってはたいせつなあれを食いちぎられてひどく屈辱的でかわいそうなことになったと思うが。
最初のほうで描かれるReggieとDougの関係ってヒトの典型的なDVによって縛られ動けなくなったそれそのものだし、BugとMaggieとHunterのそれぞれの態度も我々の身近にある病やトラウマや困難を鏡のようにして背負い込んだものだし、そんなにわかりやすいことあるかよ、って思ったりするものの、いまの世の犬猫への虐待ってよくもわるくもこんなにもわかりやすくあるのだということ、少しは恥ずかしいと思いたまえよヒューマン、って。
最後に流れてくる主題歌はあったりまえにSnoop Dogg、なのだった。本人を出せばよかったのに。
猫バージョンもできないかしら? 依存症度も毒性もこっちの方がより濃く、というかその濃淡がくっきりと出ておもしろくなると思うけど。 “Garfield”あたりに期待したいのだが、今度のってちょっと可愛すぎよね。
11.24.2023
[film] Mona Lisa and the Blood Moon (2021)
11月19日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。
監督は”A Girl Walks Home Alone at Night” (2014)を撮ったイラン系アメリカ人 - Ana Lily Amirpour。
ぴっかぴかのどこから見てもB級だけど、なんか嫌いになれない。音楽はDaniele Luppi。
満月の晩、ニューオリンズで、Mona Lisa Lee (Jeon Jong-seo)は身元不詳のまま10年以上収容されている精神異常をきたした青少年のための保護施設 – というのは後でわかる – の自分の檻に入ってきて虐待を始めた看守の目を覗きこんで相手を催眠術のように釘付けにすると、看守は自分で自分のモモを「なんで?」って叫びながら爪切りでぐさぐさ血まみれにして、Leeはそうして手に入れた鍵で牢を開けて、受付の青年も同様の手でボコって、袖長の拘束衣を纏った状態で町中に彷徨い出る。
ここまで、彼女がなんでここに入ることになったのか、彼女の使うパワーがどういうもので、どういう経緯を経てそれが身についたのか、なんでこの晩にこんなことを起こそうとしたのか、起こってしまったのか、等の説明は一切なくて、このあとにもない。
収容施設での/からのホラー含みのぐさぐさしたやつとして、近年だと”The New Mutants” (2020)とかJohn Carpenterの”The Ward” (2010)あたりが思い当たったりするのだが、あれらにあったスケールのある、起爆性をもった超常感のようなものは余り感じられなくて、湿っぽい月夜のフレンチ・クォーターの雑踏をやばい目をした不審な少女がお腹へった食べものくれ、ってもぐもぐ言いながら災厄を撒き散らしていくのを遠くから眺めているうちに終わってしまう、ような。それだけで十分だったりもする。
そこに彼女を見かけて気になって追い始める - 「知らんぷりをするがよし」ってランチのフォーチュンクッキーでは出たのに - 警官のHarold (Craig Robinson)とか、デリの前にたむろしていて彼女のシャツを替えてくれたごろつきのFuzz (Ed Skrein)とか、見ていられなくてLeeに声を掛けたストリッパーのBonnie Belle (Kate Hudson)などが関わり、Leeの術でストリップのチップを巻きあげて貰ったお礼に彼女を自宅に連れて帰るとBonnieのひとり息子でやや古めのメタルを聴いたり絵を描いたりしている孤独な少年Charlie (Evan Whitten)がいて、最初は怪しいと関わらないようにしていた彼女の絵を描いてあげたり少しずつ仲良くなっていく。
銀行のATMにやってきた客の手先を操作して現金を巻きあげる二人組強盗として有名になり追われるようになるBonnieとLeeのうち、Bonnieは恨みをかった町のちんぴらにぼこぼこにされて病院に送られて、追ってきたHaroldを振りきったLeeとCharlieはFuzzの助けを借りて髪を切ったり染めたり作ってもらったフェイクのIDで初めての飛行機に乗りこんで未知の世界へ高とびしようとする。Leeがパワーを駆使して誰かを懲らしめたり助けたりするお話しではなく、子供たちの明日へと向かう解放に向けた逃走劇となって、ここにせっかくの魔術が絡むことはないので、そんなんでよいの? と思うひとは思うかもしれないが、これでよいのではないか。月の光の下、飛行機と音楽プレイヤーの力を借りてどちらかと言うと魔術を捨てて一人で生きようとするお話しになっていて、そうやって見てみればモナリザの微笑みの意味もくるりとひっくり返るような。
不気味で野蛮でゾンビだって溢れるブードゥーの町、満月の晩にどこからともなく現れた彼女が月に向かって飛びたっていく変に爽やかな青春ドラマのように見えないこともなくて、この感触って90年代のGregg Arakiあたりのにあった、ぐちゃぐちゃ小汚くやかましく、大人はみんなゴミでいなくなっちまえ、で全体として不思議となんか清々しい、変なやつを狙ったのだろうか? リアルの噛みあい殴りあいの向こうにむき出しになる無垢な魂、のようなありよう。それか、Harmony Korineの享楽と没落とゴミ、の紙一重の駄菓子的な何か、とか。
Kate Hudsonがああいう役をやったのにも少し驚いた。そうかー“How to Lose a Guy in 10 Days” (2003)がもう20年前なのか…
[film] A Portuguesa (2018)
11月18日、土曜日の午後、”TERRA”に続けてTAMA映画祭のポルトガル特集で見ました。
Rita Azevedo Gomesの監督作を続けて2本。 まずは『ポルトガルの女』。
彼女の監督作は2020年のロックダウンの時にこれを含めて何本か - “Fragil como o mundo” (2002) - “Fragile as the World”, ”A Vingança de Uma Mulher” (2012) - “A Woman's Revenge”, “Correspondências” (2016) - を見て、なかでも“Fragil como o mundo”はあまりの美しさに痺れて、何度か見た。この”A Portuguesa”もなんだこれは、って2回くらい見た。
原作はRobert Musilの短編『三人の女』(1924)からの一編 - “Die Portugiesin”をAgustina Bessa-LuísとRita Azevedo Gomesが脚色。とんでもなく美しい撮影はAcácio de Almeida。
冒頭、廃墟にひとり佇むIngrid Cavenが琵琶法師みたいに歌を披露して、節目節目で俯いたり崩れるように座ったりしながら悲歌とか哀歌のようなのを歌う。
ポルトガルの女(Clara Riedenstein)はポルトガルから北イタリアの小さな城主(Marcello Urgeghe)のところに嫁いできた公爵夫人なのだが、結婚して少し一緒に過ごしただけで夫は戦争に行くのだ行かねば、長くなりそうだから君はポルトガルに帰っていた方がいいよ、と言われて、でもここに残りますって。
こうして古城で読書し、歌を唄い、踊り、馬に乗り、川で泳ぎ、森を散歩して過ごす若い公爵夫人の姿が描かれ、そのうち子供が生まれて大きくなっても彼女はお付きの人々を除けばずっとひとりで、ようやく戦場から戻ってきた夫は負傷して生死の境を彷徨っては立ち直りを繰り返し、死んじゃえ、くらいのことを思うのだがしぶとくて、やがて。
そんな戦時における夫婦間や子供を含めたお家のとめどないぐさぐさを描く歴史劇、コスチューム・ドラマ、というより夫がいてもいなくても付き纏ってその首を締めにくる見えない何かと向きあいつつ自身が廃墟と化してゆっくり森の奥に沈んでいくポルトガルの女、その凍るような美しさ、最後の足のぴく、までを。
大画面(でもなかったけど)見ると絵画の、細部の美しさにやはり圧倒される。
あと、これの前に見た”TERRA”の鈴木監督が召使役で出ていた。
O Trio em Mi Bemol (2022)
上のに続けて見ました。邦題は 『変ホ長調のトリオ』、英語題は”The Kegelstatt Trio”。現時点でのRita Azevedo Gomesの最新作。Éric Rohmerが80年代(『レネットとミラベル/四つの冒険』を作っていた時だって)に書いた戯曲『変ホ長調三重奏曲』を監督自身が脚色している。2020年11月の、ヨーロッパでロックダウンが少しだけ弱められた3週間(があったなー)で、手の空いている知り合いの助けを借りて集中的に撮ったものだという。インタビュー記事を読むととにかく撮りたかったらしい。
一年前に別れた元夫婦、という設定でPaul (Pierre Léon)の家をAdélia (Rita Durão)が訪ねてきて互いの近況について会話する、そのいくつかのシークエンスを撮影している映画監督のJorge(Adolfo Arrieta)とそのアシスタントのMariana (Olivia Cábez)、登場人物はほぼこの4人、撮影が行われるのがポルトガルの建築家Álvaro Siza (1933-)の設計による光に溢れるモダンな邸宅 - かっこいい - で、ふたりの再会と会話の重要なモチーフになるのがCDでかけられるモーツァルトの「ケーゲルシュタット・トリオ(ピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲変ホ長調 K.498)」 なの。
元夫婦の会話は、Adéliaが現在の恋人との関係がどうなるどうする、と不満や不安や愚痴を含むあれこれを投げてそれをPaulがふんふん聞いてあげて、お茶を淹れたり音楽をかけたりして会話が転がってふたりのヨリが戻るのかどうか - 男女それぞれの思惑や惑いを右に左に散らして何が起こるのか/それみたことか、というあたりはとってもロメールぽいのだが、やはりどうしても演劇的な作為が見えてしまって - 演劇だからだけど - 家の外に、町の方に出たかったかも。
でも家 - 囲いとしての家 – その果ての廃墟 - はRita Azevedo Gomesのテーマでもあると思っていて、今作のモダン建築の撮りかたもおもしろいと思った。最後のほう、どんなにモダンでも夜の訪れとともに何かが歪んでくるように見えたり、とか。
あと、最初の方は、ふたりの演技がある程度進んだところで監督がカットをかけて「よくない」とか言ったりして、どこがどうよくないのか、具体的には言わなかったりする。後の方でその干渉がなくなるのとAdéliaの話がより混みいった、どうしろっていうの? レベルに変わってくるあたり、劇中劇としてのテーマと関係あるのかないのか。
本作のなかの三重奏についてはロメール自身が著作 - “From Mozart to Beethoven: An Essay on the Notion of Profundity in Music” (1996) のなかでヴィオラは男性、クラリネットは女性、ピアノはモーツァルト、であるとか書いているそうで。ドラマのなかでAdéliaがこの三重奏を思い出そうとするとき、あのフルートの旋律! って言うと、Paulが、ああそれはクラリネットだよ、っていうやりとりが印象的だった。
ポルトガルではないけど、Primavera Sound Barcelona 2024を取ってしまった。どうしよう…
11.22.2023
[film] TERRA (2018)
11月18日、日曜日の昼、映画祭TAMA CINEMA FORUMのサブ企画としてポルトガル映画特集というのがあって、そのなかの1本。上映後に監督の鈴木仁篤さんと赤坂太輔さんのトークつき。
監督は鈴木さんとRossana Torresの共同。タイトルについて、英語字幕では”Earth”と出るのだが、これはやはり地球、というより「土」とか「地面」なのではないか。
人工的に盛土がされた小屋のような小山のような赤土の塊が立っていて、そこに錆びれた金属の扉がついてて、その隙間や山の所々から煙が出ている。最初はその小さい火山のように内側が煮えたったり燃えたりしているらしい様がよくてずっと見ていられて、以降、すべての画面が一枚の or 個別の絵の落ち着きでそこにあり、これらなにもかもをえんえん飽きずに見ていられるので60分間はあまりにあっという間。
やがてその扉と赤土の隙間にひとが粘土を捏ねてぶつけるようにあてていたり、扉から何かを出したり何かを放り入れたりしている様子が出てきて、これは何かを焼いたり焼却したりする窯なのか、なにかが焼ける燻ぶるような音もするので炭をつくる炭焼き小屋なのか、と思っていると人がやってきて太い木の枝を投げこんだりしているので、炭焼きなのかー、くらい。でもこの先にこれがなんであるのか、特に説明はなし。
なんでこの絵 – 厚くぼろぼろの赤土の壁の向こう側で何かが燃えたり燻ぶったりしている - にこんなにも惹かれてしまうのか、見えない向こう側の奥で何かが起こっている、生起生成しようとしている、その表層をじっと見つめてしまうのって、オーブンの向こうで、蓋を落とした鍋の内側で温かくおいしいものができあがろうとしているあの時間を想起させてくれるからだろうか、とにかくその赤土の表面・肌理・質感は息をして生きているなにかのようで、その生が生々しく立ちあがるかんじを山や樹を相手にしてカンバスの表面に塗りこめようとしたのが例えばセザンヌかも、と思って。ぜんぜん違うのにストローブ=ユイレの『セザンヌ』(1989)のぐるーっと回る緑の森を思いだしたり。
この炭焼き小屋のすぐ裏には池だか湖だががあって、その水を汲んで流したりもしつつ四季や一日を通して変わっていく山水の景色とか、地・火・気(煙)・水のぜんぶがあるー、とか。これらが近く・遠くにある、フレームの内外で移ろっていくイメージの豊かなこと。
これ以外には羊がうろうろ歩いていく山道に銃を持った狩人のようなおじさんたちが座っていて、ヤマウズラ - Partridgeを待っているのだと言い、呼び寄せる鳴き声をたてたり – でも乗ってこない - 夜の町の片隅でバーベキューを焼いているとこ - うす暗い・けど寂しいかんじもしない - の風景とかも挟まったりするものの、やはりあの世界の根源にあるような赤土を露わにした山の姿、その山から袋詰めされて持ちだされていく炭の束などに戻っていって、そこに詰まって運び出されていくなにかに涎が。あれはバゲットじゃないのか(違う)。
最後、道の向こうからバイクが2台こちらに走ってきて、そこから横に向かって騒がしく飛びたって彼方に発っていく鳥の群れに繋いでいく音と光の流れがすばらしくて痺れる。
上映後のトークで、この土地はポルトガルのアレンテージョ地方 – ああーおいしい食べもの、ヤマウズラいっぱいの地! - で、鈴木さんがRossana Torresと共同でこの地を撮った作品 - ”Cordão Verde” (2009)-『丘陵地帯』の撮影の際、この土地で椅子を作っている職人の人と出会って、彼が炭を焼いている場所に連れて行ったところから始まった、と。初めから炭山を撮ろうとしていたわけではなかったのだが引きこまれていった、と。やはり窯とか焼き物とかパンに惹かれるらしい - ということで、ふたりの2作目 - “O Sabor do Leite Crème” (2012) – “The Taste of Crème Brûlée” - 『レイテ・クレームの味』すごく見たい。
11.21.2023
[film] あずきと雨 (2023)
11月16日、木曜日の晩、ポレポレ東中野で見ました。上映後にトーク付き。
軽くて暗くなさそうで短かった(70分)ので。 作・監督はこれが初長編作品となる隈元博樹。
不動産会社に勤めるユキ(加藤紗希)のアパートには元恋人のノブ(嶺豪一)が別れたのにまだ同居していて、彼がなにをしているのかというと、中国の干ばつであずきの輸入量が減って生産中止になってしまうというあずきアイスの販売継続を求めて製造メーカーに抗議文を書いて送り続けている、と。なので彼らの冷蔵庫の冷凍コーナーにはあずきアイスがぱんぱんに詰まっていて、ユキが新しい彼ができそう – 結局できなかったのだが - だから出て行ってほしい、とノブに告げると「雨が降ったら出ていく」って返す。
いまの世の中で一緒に暮らしているカップル(元であろうとなかろうと)の「ふつう」 - 特に暴力的ななにかがあったりSM的な歓びを求めていたり、過去によほどの何かとか宗教的な絆とかがあったりしなければ – のありようからすれば、ユキはノブに対してふざけんじゃねえよ、とっとと出ていけごくつぶし! ってなると思うのだが、この映画の時間と空間のなかでは、ノブは抗議文を書いてごろごろして(いいなー)、あずきアイスを配達に来たひとにアイスをあげて話をしたりしている。このへんのことが、部屋の明るさと、なんも、一ミリも考えていなさそうな(←よい意味で)飼われている動物のように穏やかな俳優 嶺豪一の佇まいによってありかも、になってしまう不思議さと見事さ。
ユキが不動産屋で仕事をしていると、貼ってある物件情報を真剣に見ている少女がいて、部屋を見せに行った時の様子から彼女 - リコ(秋枝一愛)は家出してきたらしいことがわかるのだが、行くあてもなさそうなので、とりあえず家に連れて帰る。彼女の理由も事情も聞かない、掘らない。そしてリコもあずきアイスを食べる。
ノブはトイレットペーパーを買いに出た帰りに野球をやっている子供たちの間に入ってバットを握ったら止まらなくなり日が暮れるまでバットを振り続けるもののぜんぜん当たらずのへたくそで、子供たちは逃げるように帰っていったり。翌日、明るい空に雨が降ったらあずきアイスだけ残して彼は消えてしまうの。スナフキンか。
ユキひとりのラストはすばらしい像として残るのだが、ここも含めて主人公たちの行動や挙動に「なんで?」という問いが発せられることは一切ない。なんでユキとノブは一緒にいるのか? なんでリコは家出したのか? なんであずきアイスなのか? なんで雨が降ったら出ていくのか? なんでノブは誰に何も告げずに消えちゃったのか? 最近のミニシアター系でもシネコンでも邦画の予告では必ずと言っていいほど登場人物たちが「なんで?」「どうして?」「なぜだぁー?」って泣き崩れたり天や地に向かって叫んだりするのばっかり(数えたことないけど相当な数だと思うよ)なので、ここはとても喜ばしく清々しい。ほんとに大きなお世話系ばっかしの世の中においては。
かわりにあずきアイスはなにか? というのが来て、途中から考えるのが止まらなくなる。
あずきの柔らかくふっくらした丸い甘みを活かすのに果たしてあずきアイスは正しい解と呼べるのか? やはりぜんざいや白玉あずきではないのか? 冷やして戴くのであればせめて宇治金時ではないのか? それをあんなふうにカチカチに冷やし、しかも歯が折れそうなくらいに固いバーに成形してしまうのはあずきのポテンシャルを正しく引き出しているといえるのか? などなど。そして、なによりも困ってしまうのはそんな疑義と懸念にまみれたあずきアイスを悪くないって夜中につい齧ってしまうことなの。
ノブがあずきアイスのどこをそんなに愛してしまったのかは知る由もないし、知りたくもないのだが、彼のそんな条理を欠いた(いいかげんな)愛のありようがふたりの生活を貫く糸ならぬバーとしてあったことは確かな気がして、ここに関しては答えなんてどこにもない、誰も持っていない待っていないことを承知のうえで、それでよいのでは、と。
そして、あずきアイスは溶けて、降った雨もあがる。雨が来たので干ばつも終わるかもしれない。そんなふうにして新しい繋がり – というほどのものでは – が後ろ頭から生まれたり。
シンプルだけど、すごくいろんなことを考えさせてくれる映画で、とてもよかった。
上映後のトークは、松本で「恋愛関係を持たない」「呼びようのない暮らし」をしている二人のお話を聞けて、いろいろ考える。だって世の中恋愛関係じゃない関係のほうが死ぬほど多くて大部分なのになんでそういうの(あと家族愛もか)ばっかしがテーマになって、共にある理由づけばかりを求められてしまうのか、それってよいことなのか、とか。
帰りにあずきアイスを求めてコンビニに寄ったのだが、パッケージがなんか違う気がして踏み込めなかった。
11.20.2023
[film] R.M.N. (2022)
11月15日、水曜日の晩、ユーロスペースで見ました。邦題は『ヨーロッパ新世紀』。
作・監督・制作はルーマニアの、『4ヶ月、3週と2日』(2007)や『エリザのために』(2016)のCristian Mungiu – であることを知って見ようと思った。
字幕は喋られる言語 - ルーマニア語、ハンガリー語、その他の言語 + 意図的に字幕表示しない言語もある - によって3種に色分けされている。
トランシルヴァニアの山間にある多民族地域 - ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ語圏の人々が共存している - の人々の日々の暮らしのなかで、EUの移民政策やBrexitにより揺さぶりをかけられた彼らの他民族、人種に向けられた差別意識がどんな状態にあるのか、向かおうとしているのか。終盤に向けて悲惨な、陰惨な大事件が勃発するようなことはないのだが、その分、日々の不満や鬱憤がどんなふうに蓄積され小競り合いのようなかたちで表出していくのか、手に取るようにわかる。なぜならそれは。
冒頭、ドイツの屠殺場で働くMatthias (Marin Grigore)が作業中に「ジプシー」って罵られたのでそいつをぶん殴って家に戻る。戻ると妻のAna (Macrina Bârlădeanu)は冷たいし、ひとり息子のRudi (Mark Blenyesi)は森でなにか怖いもの – それは熊なのか宿のない移民なのか - を見たらしく、殆ど言葉を発せない状態でぬいぐるみと遊んでいたり(父からすると)女々しいし、自分の父はずっと具合が悪そうだし、多少むかついたからって失業なんかしている場合ではない。
Matthiasは地元でパン屋を経営する洗練されたCsilla (Judith State)とずっと不倫関係にあって、彼女のパン屋の工場はずっと人手不足で求人しても地元の人たちは賃金が安すぎる、と来てくれない、ので時給額を隠して残業代は倍、という求人広告を出して、ようやくエージェント経由でスリランカ人ふたりがやってくるのだが、片言の英語しか通じない彼らに対する地元民の目は冷たく、カトリックなので教会の礼拝に参加しようとしても追い払われて、ムスリムって決めつけられたり、やがて彼らがこねたパンの不買運動~彼らの住居からの締めだしにまで発展し、神父や首長にまで話がいってタウンミーティングの開催、となる。
そのうちMatthiasの父が動けなくなり、病院でMRI検査を受けると彼の脳断面の画像がMatthiasの携帯に送られてくるのだが、それを見ても影があったり膠着していそうな箇所はなんとなくわかるものの、どこがどうだからこれが悪い/悪くない、についてはわからないままもやもや。
集会所のホールで住民たちを集めて開催されたタウンミーティングでは、自分たちの見解が多勢であると認識している排斥派が人種差別的な被害妄想を好き勝手に喚き散らして吼えまくる場となり、異義を唱えるのはCsillaや熊の個体数調査に訪れているフランス人くらい、17分間、固定のカメラがその光景をノンストップで映しだして、それは確かに異様すぎて釘付けにされてしまう。 何故釘付けにされるのかというと、明らかに差別と偏見に基づいたヘイトな物言いが支配的になっているなか、自分がそこにいた時になにができるのか、できないのではないか、という無力感に囚われてしまうからで、これが突きつけてくるものはどんなホラーよりも否応なしに恐ろしい。だって戦争や他民族の虐殺はこんなふうに起こるのだ、って目に見えてわかるし、わかっているのだし。
ここのこれって特殊事情ではないのか? なにをもってこの土地のこれを「特殊」って排除できるのか不明なのと、これと大差ない物言いを今やSNSなどでいくらでも(世界中の至る所で)見ることができるし。
震えていると、Matthiasの父が自殺した、って報が入ってみんなでそちらに向かうと… MRIの画像ではどこが悪いのやら、程度に見えたのだがそういうのとは関係なく本人には先を覆ってしまう影としてはっきりわかっていた、ということなのか。ここにもっていくまでの淡々としたペースは悪くなくて、そして最後の、あの熊(s)はなんなのか。
タイトルのR.M.N.はルーマニア語でMRIを意味する“Rezonanță Magnetică Nucleară”の略なのだそう。スライスした断面から何かの兆候を見ようとすること、そこからどんな(治療)行動を起こせるのか起こせないのか、そうなった時にはもう既に遅いのか、など。
ここで描かれたのって、日本だとクルド人や韓国人への差別があるし、欧米でもふつうにいくらでもあるし、それらは戦っていかなければいけないあれとしてあるのだが、いまはガザのが本当にきつくてやりきれなくて、ふつうにあの土地で暮らしていた人たちをあんなふうに根こそぎなんて。どうしたら止めることができるのか、ものすごい無力感とともにもう…
11.19.2023
[film] 無間道 (2002) - Infernal Affairs
11月11日、土曜日の夕方にシネマート新宿で1を、12日日曜日の昼に109シネマズプレミアム新宿で2を、14日、火曜日の晩、グランドシネマサンシャイン池袋で3を見ました。
このシリーズが公開されて話題になっていた頃はアメリカにいたので見れなくて、リメイクされたMartin Scorseseの”The Departed” (2006)は見たものの、元のをずっと見たかったところで今回の4Kのがきたので。 最初は1だけでよいか、と思っていたのだが、いちおう2も見てみるとやっぱり3も、になって結局。これもまた無間道か、って。
監督はAndrew LauとAlan Makの共同。どの作品も冒頭に仏教における「無間道」とは.. はまったら絶え間なく続く苦しみを抱えて彷徨うことになる地獄である云々、という説明書きがでる。映画はそんな地獄を壊す話しでもそこから抜ける話でもなく、そこがどんな場所でそこにはどんな責め苦があるのか、を宗教や信仰を脇に置いて、淡々と綴る。そしてこの地獄は死んだ者をとりこむのではなく、生きている者の前に現れて包みこんで動けなくして、そこには善玉も悪玉もないのだ、と。
インファナル・アフェア (2002)
ギャングのサム(Eric Tsang)の使いとして警察の中核に潜入することに成功したラウ(Andy Lau - 若い頃はEdison Chen)とウォン警視(Anthony Wong)に認められた部下としてサムの組織に潜りこんで頭角を現すヤン(Tony Leung - 若い頃はShawn Yue)がいて、それぞれが切れ者で互いの組織の動勢や内情を漏らしたり検知したりすればするほど両者の軋轢は高まって熱くなって、ラウもヤンも互いの組織にモグラがいることはわかっていて、抗争の激化とともにウォンが殺されサムも殺されて、これは直接ぶつかるしかない - 「明日が過ぎれば無事だ」って。 どうなるの? ってきりきりしていると .. なるほどなー。 しかしエレベーターのとこって、”The Departed”もそうだったのを思い出したが、あの映画、そこ以外は一切憶えていないわ…
ふたつの対抗勢力の抗争劇を、モグラがこう動いたからこうなって/なった、ではなく、コトが起こっている現場の焦りや戸惑いも込みでライブで右左のツー・トンで繋いで、だからすべてが唐突に、突然に起こって取り戻せない、取り返せない、そういう時間のなかにある。
インファナル・アフェア 無間序曲 (2003)
1のコトが起こる前、1991年から97年までの香港でそれぞれの「活動」を始める前の、若いラウ(Edison Chen)とヤン(Shawn Yue)には何があったのか、彼らはどうしてそうなっていったのか、を描く。
やくざの大ボスのクワン(Joe Cheung)がサムの妻マリー(Carina Lau)の指示でラウによって殺されて、その手下のビッグ4も次々と殺されていくなか、彼の息子でそれまで静かなカタギだったハウ(Francis Ng)と、騒動を遠巻きでみていたサムはどう動くのか。
クワンの私生児でハウの異母弟であることが明らかになったヤンはその出自故に警察学校を退学になるのだが、ウォン警視は彼に最後のチャンスを与えようとモグラになるオファーをし、サムの方はラウを警察に送り込んでマリーの仇を討たせようとする。 そして誰にとってもうっとおしい目の上のコブになってきたハウを誰がどうするのか。
「序曲」と呼ばれているものの、その先を知っている我々にとっては既にすべては用意されていたのだ、としか思えない静けさ。こうなることをぜんぶわかっていたハウと、死ぬことを屁とも思っていないサムが周囲の苦悩を勝手にかき混ぜて放置するものだからどうしようもない。答えをもっていそうな連中がすべていなくなってしまっているという…
インファナル・アフェアIII 終極無間 (2003)
1のコトが起こる少し前とその後に何が起こっていたのか、シロかクロかの審議の後、10ヶ月後に内務調査課(Infernal Affairs Dept.)に戻ったラウは強権的な動きを見せて平然としている保安部のヨン(Leon Lai)に疑いの目を向けて彼の動きを調べ始めるのと、並行してヤンがセラピーにかかっていた精神科医リー(Kelly Chen)に近づいて病んでいたというヤンの様子を探ってみるのだが、ただ寝てたらしい… って。
そしてサムと本土の大物シェン(Chen Daoming)の闇取り引きに絡んで刺さっていたヨンとヤンの動きと証拠のテープを、と思ったらそれは。
「運命は人を変えるが人は運命を変えられない」って地獄の地獄たる由縁を漬物石として上から落っことす。「..でも彼らは変えたのだ」って、連中死人だから…. この辺は厚塗りがすぎて却っておかしかったり。
『恋する惑星』 (1994)の警官663のあれもセラピーの一種だったのではないか、なんて見てしまったり。
3部作全体の構成そのものが「無間道」としか言いようのないぶ厚さと抜け道と救いようのなさで固められていて、逃げようがなくてぐったり、だったのだが、でもおもしろかった。 Johnnie To作品をずいぶん見ていないので、久々に見たくなったかも。
11.17.2023
[film] The Marvels (2023)
11月10日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAX 3Dで見ました。こんなの初日に見ないでどうする。
Marvel Cinematic Universe (MCU)の33番目だそうで、監督・脚本はNia DaCosta。
改めてびっくりなのだが自分はたぶん33本ほぼ全部見ているはずで、音楽で同じアーティストのを33枚ずっと追っている、というとすごい気がするので、これはやはり「産業」の力なのかも、と思ったりする。それがどうした、ではあるが。
あと、最近のMCUって、マルチバースとQuantumなんとかで時間も空間も人格もぜんぶがとっかえひっかえ自在の行き来ができるようになっていて、その詐欺みたいな不思議については追及しないし、出てくるスーパーヒーローがどんなやつか(そもそも、人か?)などを押さえておくのが精一杯で、悪役はどんな化け物が出てこようがちっとも驚かないし、かなりどうでもよくなっている、という傾向をどう見るか。など毎度思ったりぶつぶつ言ったりしつつもなんか見てしまうのね。
今作の興行的な不振も、あんなふうに物理宇宙の設定(適度にもっともらしい)や境界が勝手に更新され続けるのにいい加減飽きてきたとか、善玉と悪玉の仕切りも大戦~冷戦の時代を抜けて以降、立ち位置がどうでもよい濃度や粘度のに変わってきたとか、個々のキャラクターも人種や性別設定のガイドライン的なあれらに配慮しまくるものにならざるを得なくなったとか、これらの総合として各キャラクターやエピソードが微妙に連関したり影響しあったりしているのをぜんぶチェックして押さえてなんかいられない – そこそこに見ているおたくであることを強要される(逆に真のおたくからはバカにされる)構造になっていることとか、この作品単独で論じるべきではないのかも、とか思うし、(これまでだってそうだった)明らかにアンチフェミ系の愚か者ども等が荒らしているのだと思うし。 昔ってもっとこういう軽くてバカバカしいノリのやつ、ふつうにあったし。ターゲットがどうであれ、そういうのを見て支持するのだと子供の頃の星に誓ったのではなかったか、って自分に言ってみたり。
Dar-Benn (Zawe Ashton)が宇宙のどこかで腕輪を発掘して自分の腕にはめて、これじゃよこれ、ってなんか悪さ(悪そうに見える動き)を始めると、同じ腕輪の片割れを持っていてCaptain Marvelを崇める高校生Kamala Khan (Iman Vellani)とか宇宙で作業中だったMonica Rambeau (Teyonah Parris) - 前作ではちびっこだった - に変な現象 - 誰かひとりがパワーを使うと3人の場所なのか人なのか、が瞬時に切り替わってしまう - が出始めて、そこに宇宙ステーションでちんたらしていたNick Fury (Samuel L. Jackson)とか、前作のあとにひとり宇宙を彷徨っていたCaptain Marvel/Carol Danvers (Brie Larson)が絡まって、宇宙に亀裂が入って被害が拡大していく。
その被害はCaptain Marvelが前作でボスのAIをぶっ壊したことによって壊れてしまった星とか、難民になって/されてしまった民 – Dar-Bennはその新しいリーダー - とかに起因しているらしいことが見えてきて、少なくとも宇宙ステーションはぼろぼろで避難させないといけなくなったので、ねこたこお化けのFlerkenに手伝って貰ったり、そういうのの合間にCaptain Marvelの婚礼があったり、全体としてはじたばたどたばたやかましくくだんないこと極まりなくて、TikTok向けだなんだ悪口も言われているようだが、それがどうした、くらいにはめちゃくちゃである(褒めてる)。
ふとこれ、子供向けなのかしら? と思ったりしたのだが、そうでもなさそうな程度に当然のように空を飛ぶことができたり気がつけばユニフォームも揃っていたり、あと「解き放て」- 「解放せよ」のようなテーマはくっきりと、ある。あと、なによりも子供たちが彼女たちを見てあんなふうになりたい! って思うかどうか - 子供じゃないからわかんないけど。
3人組、ということでNick FuryをCharlieに置いた”Charlie's Angels”のようになっていくのかな、とか思ったりもしたのだが、エンドロールなどを見るとあそこまで固めていくつもりでもなさそうだし、とにかく彼女たちが3人がかっこよく痛快に暴れまくってくれれば文句はないのだが、最後にどかーん、ていうのが欲しかったかなあ。自分にとって”Captain Marvel” (2019)は文句なしにかっこよい映画だったので、あの勢いで照れずにぶっとばしてほしかった。
今回、生態の一部が明かされたFlerkenであるが、あれを見ると、こいつらグレムリンの親戚なのかも? とか。なにをトリガーにしてあの毛玉らが湧いて出るのか、今後要注視であることは間違いない。ところであのタコ、ヒトを飲みこんで間違ってそのまま食道の方に送りこんでいたりしないもんなのかしら? Minionsみたいにこいつらのスピンオフやったらぜったい本体よりも当たるよ。
11.16.2023
[film] Loving Highsmith (2022)
11月5日、日曜日の午後、シネマカリテで見ました。邦題は『パトリシア・ハイスミスに恋して』。
なんだかとっても切なく人恋しくなる「恋して」系のドキュメンタリーだった。監督はスイスのEva Vitija。Highsmithの声をGwendoline Christieが担当している。ちりちり、ぺなぺなしたギター中心の音楽はNoël Akchoté、ギターを弾いているのはBill FrisellとMary Halvorson。猫多めでどいつもかわいい。
アメリカの作家・劇作家Patricia Highsmith (1921–1995)の評伝。最初の小説 – “Strangers on a Train” (1950)がいきなりAlfred Hitchcockによって『見知らぬ乗客』 (1951)として映画化、舞台化もされて、その後も”The Talented Mr. Ripley” (1955)を始めとするRipleyもの(5作)のRipleyはいろんな映画のキャラクターとして登場するセレブ悪漢となり、Claire Morgan名義で書いた“The Price of Salt” (1952)が後に”Carol”となったのも有名。こんなふうに彼女の書いた小説は欧米でほとんど映画化されていて、そこに携わった監督もHitchcockに始まってClaude Autant-Lara、Claude Miller、René Clément、Claude Chabrol、Wim Wenders、Anthony Minghella、Todd Haynesなど錚々たる人々がいっぱい、直近だとSteven Zaillianが監督してAndrew ScottがTom Ripleyを演じるNetflixのシリーズ - ってもう出来たのかしら?
このドキュメンタリーのなかでも上にあげた映画からの切り抜きが散りばめられているのだが、彼女の小説の何が、どんな要素が彼ら映画作家たちを焚き付けたのか、ここを小説家観点から掘ってくれたらなー、だったのだが、その目線はあまりなかったかも。
テキサスのフォートワースに生まれて、両親は彼女が生まれる前に離婚して – 別れた実父は母に中絶するように頼んだとか、母もテレビン油を飲んで堕そうとしたができなかったとか、再婚した母に呼ばれてNYで暮らしたと思えば、テキサスに送り返されて祖母のところで過ごしたり、どこまでもさいてーの母に疎まれ嫌われた子であったことが繰り返し語られる。この辺が彼女の小説の作中人物に向けられるあんたなんかいなくなっちゃえば、はじめからいなければいいんだ、的な存在に対する邪悪な視線、こびりついて取れない「悪」に対する妄執を産み育てることになったのだろうか。
作家としてのキャリアができあがって以降は、生誕100年で公開された彼女が遺した書簡や創作メモ、ガールフレンドが撮ったであろう彼女の写真等を中心に彼女の足跡を辿っていく。ポスターにもなっているけど、彼女のポートレートがなんとも言えずぽつんと寂しげでよいの。”Wendy and Lucy” (2008)のMichelle Williamsのような。あれは犬と一緒のだったけど。
そのなかでやはりクローズアップされるのがレスビアン作家としての彼女で、偽名で出版して、史上初めてハッピーエンディングで終わるレスビアン小説 - ”Carol” - 出版から38年後に自分の名前の小説となる – をまんなかに置いて、映画化権を売ってお金はいっぱいあったのだろう、欧米のいろんな土地を渡り歩くように暮らしていって、そこでの暮らしが、そこでの彼女がどんなだったか、存命している当時のガールフレンドに聞いていく。そのなかにはこないだのUlrike Ottinger特集の『アル中女の肖像』(1979)に出ていたTabea Blumenschein – なんてチャーミングな人! - もいたりする。
結果としては愛を貰えなかった孤独な彼女の内面に降りていってそっと触れようとする、とても親密で切ない内容のものになっているような – そしてここに投影される”Carol”の質感がまた… (併せて上映してくればよいのに)
そうして描かれた彼女の肖像から、誰もが知っている彼女の差別主義 – 反ユダヤ主義的な暗い側面は掘りさげられることなく削られている - テキサスの親族へのインタビューで聞いてみても”Shut Up”の一言だし、だからだめじゃん、ではないのだが、彼女原作の映画を見ていてたまに感じる割り切れない気持ち悪さ、不信に近いところの不可思議な感覚、は残るかも。
アメリカの女性作家、ということで”Flannery” (2020)も”Shirley” (2020) – これはフィクションだけど – も改めて、もう一度並べて見てみたいかも。どれもとってもおもしろいの。
11.15.2023
[film] Carole King Home Again: Live in Central Park (2023)
11月4日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
1973年の5月26日、NYセントラルパークのThe Great Lawnで行われて約100,000人を集めたライブの記録。今から50年前のライブ映像。
Kingの“Tapestry” (1972)のプロデューサーであり、この映画のプロデューサーでもあるLou Adlerが16mmフィルムをまわして、最初は彼のナレーションでCarole Kingのキャリアと音楽がざっと紹介される。
NYで生まれ育った彼女がGerry Goffinと出会って結婚して、一緒に曲を書くようになって、Goffinと別れてからローレル・キャニオンに渡ってトリオの"The City" – 大好き – を結成して音楽活動を続けつつJames TaylorやJoni Mitchellと出会って、ソロとして”Writer” (1970)を出して... 以降はいいよね。このファーストソロから1973年までで驚異としか言いようのない5枚をリリースして、”Fantasy” (1973)を作ったときのレコーディングが楽しかったのでこのメンバーとライブをやってみたくなった、と。
それまでMetropolitan OperaやNY Philharmonicのライブが行われていた程度だったThe Great Lawn – 夏になるとSummerStageとして日替わりでライブをやってくれるのはRumsey Playfieldという別の場所。念のため - に野外ライブ用のステージを組んで、大規模な宣伝はせずラジオで流したくらいで当日これだけの人が集まった(でも80年のElton Johnの時は300,000人来たって)。
内容は最初彼女ひとりのピアノと歌だけ、衣装なんて呼べないそこらの普段の野良着のような格好で、でもそれが似合ってて、彼女がそのままリビングで歌っているような少しの緊張とやわらかさをもって歌いだしたかのよう - でもこれこそが聴きたかったライブのCarole Kingだなー。彼女のこんな音楽、嫌いになれるひとがいるだろうか、というのと、これだけの聴衆を前になんでこんな温度感でさらりと歌えてしまうのだろう、という驚きと。
地べたに座っておとなしく聴いたり口ずさんだりしていた聴衆もバンドが入り始めた後半から緩く立ったり動いたりするようになってきて、大勢がわらわらと櫓に登り始めた時にはひやひやするのだがいつものように追い払われて(それでも残るバカはいる)。
まだちょっと寒さが残っていそうな5月の終わりの午後だったけど、家に帰ったらみんなレコードかけてまた歌ったりしたんだろうな(自分ならきっとそうする)、というところまで追いたくなるような、そんな景色がいっぱいあった。
Travelin' Band: Creedence Clearwater Revival at the Royal Albert Hall (2022)
11月11日、土曜日の昼、ル・シネマの渋谷宮下で見ました。
監督はBob Smeaton、ナレーションはJeff Bridges - 朴訥で、そんなにべらべら喋らない。
1970年4月14日にロンドンのRoyal Albert Hallで行われたCCRの英国で最初の、ひと晩のライブを16mmで撮ったものが倉庫から50年ぶりに発掘された、と。
前半(最初の40分)はバンドの成り立ちから1970年に初めてヨーロッパの地を踏んでこの日のライブに至るまでを紹介して、後半のライブ(後の42分)が始まってからはナレーションも編集も一切入らず、最後まで(おそらく)全曲通して流される。
CCRについては、John Fogertyひとりがクローズアップされがちだし、彼のヴォーカルの強さに改めて感嘆するものの、ライブだとDoug CliffordのドラムスとStu Cookのベースが際立ってよく響いて、割とおとなしめ(客席もフルでは埋まっていない)の観客が最後の" Keep On Chooglin'"で一部狂ったようになるのは彼らのエンジンのおかげなのではないか。このライブの数日前に発表されたThe Beatlesの解散がどうの、とはまったく関係なく、彼らのストンと足元に落ちてくるリズムって英国のR&B系とは明らかに違っていて、それを遠くからなんだこれ、って眺めているような感があっておもしろい。アメリカのガレージ的な、日が暮れても延々止まらずに鳴り続けているなにかが、でっかい箱ででっかく響きわたった最初の方なのではないか(← てきとー)。
Carol Kingのもだけど、こんなふうに「発掘」されてくるのって、デジタル化による倉庫の整理整頓が進んできた結果なのかしら、と思う反面、デジタルにしたからあとは棄てていいってものじゃないんだからね! というのも改めて言っておきたい。
11.14.2023
[film] Mon Crime (2023)
11月5日、日曜日の昼、シネクイントの白で見ました。
邦題は『私がやりました』、英語題は” The Crime is Mine”。監督はFrançois Ozon。
フランスのGeorges BerrとLouis Verneuilによる1934年の同名戯曲を脚色したもので、この原作はハリウッドで1937年と1946年の2回映画化されている古典である、と。過去の映画化作品はどちらも見ていない。見たい。
1935年のパリで、売れない女優のMadeleine Verdier (Nadia Tereszkiewicz)が売り込みに行ったプロデューサーの邸宅で乱暴されそうになったのでなめんなよ、ってぶん殴ってそこを出てアパートに帰ると、家賃の滞納で大家がねちねち嫌味と文句を言ってきてうんざりで、付きあっている大企業オーナーのぼんぼんのAndré (Édouard Sulpice)は婚約手前でどうしたいのかおどおど頼りなくてため息で、同居している駆け出し弁護士のPauline Mauléon (Rebecca Marder)と食事に出てから戻るとアパートには警察がいて、昼に訪れたプロデューサーのMontferrand (Jean-Christophe Bouvet)が撃たれて殺されたって引っ立てられてしまう。
その時間帯に被害者のところを彼女が訪れてなにやら交渉しようとしていたこと、凶器の拳銃が彼女のアパートにあったし、被害者の財布が無くなっていたので金目当てらしい、ということで証拠も含めて被告人Madeleineは圧倒的に不利で勝ち目なさそうでどうしたものか、と弁護を引き受けたPaulineは考えて、裁判官と陪審員を前に、確かに彼女はプロデューサーを撃ちました - 「私がやりました」 - けどね … という圧倒的な嘘/熱弁論を展開して無罪を勝ち取り、理不尽かつ強引な金持ち老人の暴力と戦ったサバイバー、というヒーローみたいな女優像と親友の窮地を救った若手弁護士、という美談で花吹雪が舞って、時の人となったMadeleineのもとには新たな出演のオファーが舞い込んで、ぼろアパートからの脱出にも成功して…
すべてがまるく収まった - これも「私がやりました」 - と思ったところで横から孔雀のような女優のOdette (Isabelle Huppert)が現れて、Montferrandを殺したのは自分だほれこれが証拠、とか言いだしたり、有名になればなったでAndréとの結婚問題が再燃したりとか別の富豪がちょっかい出してきたりとか、いろいろ面倒なのが湧いてきて悩ましいのだが、でも貧乏じゃないってすばらしい、と。
元の脚本がしっかりしているからだろうか、MadeleineとPaulineのキャラクター設定 - 何事においても派手で恋愛でもなんでも自分が中心にいて愛されて当たり前、でずっとやってきたMadeleineとそんな奔放な彼女に振り回されてばかりだけど彼女のことがちょっと好きなのでどうしても強く出れずに言いなりになってしまう真面目なPauline - の二人組がバカでぼんくらで傲慢で二言目には「女なんて」「女だから」ばかりの男ども - 初めから終わりまでずっと - の全員をコテンパンにしてざまあみろ、になりかけたところで、魔女が現れてもう一回引っかき回してくれるけど、でもなんとかだいじょうぶだから、ってなる。ちょっとだけ金持ちをきりきり舞いさせるスクリューボールコメディで、法廷/バックステージもの、でもあったりする。しかも今のご時世の話題の中心線からそんなにズレてないし。
François Ozon、ついこないだの”Peter von Kant” (2022)といい、ここのところ90分サイズの軽めのをさくさくリリースしていて、どのテーマも作風も作品ごとにてんでばらばらだし、それぞれそんなに深く考えさせるやつでもないし、個々の作品にはっきり好き嫌いはあるのだが、そのフランス映画職人に徹したようなちぎっては投げ、の姿勢はよいかも。まだ油断ならないかんじだけど。
Paulineを演じたRebecca Marderさんは、こないだの『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』(2021)で若き日のSimoneを演じていた。弁護士役がとてもよくあう頼もしさがあったり。
今回のIsabelle Huppertさんは好き勝手やり放題していてよかった。ちょっとHelena Bonham Carterぽい化け猫の化け方だったけど。(実際に狙ったのはSarah Bernhardtだったそうだが)
あと、久々にAndré Dussollierさんを見れてうれしかったかも。
11.13.2023
[art] 奈良美智: The Beginning Place ここから - 他
10月の最後の週から11月の最初の週、長めの休みを取っていろいろ見てきたのでメモ程度に。
生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ @国立近代美術館
この翌日の青森に行く前に。子供の頃からどこにでもあった彼の素朴で暖かめの版画、のイメージから離れたアナーキーでダイナミックな雲(ときどき雷)のような作品群。この雲のうねりを彫りたかったのではないか。 ホイットマンの『草の葉』の柵がよかった。
3階での小企画『女性と抽象』もすばらし。見る機会のなかった桜井浜江や藤川栄子をはじめ、他にももっとあるはず、もっと見たい、になる。いつか大企画に引きあげられますように。
奈良美智: The Beginning Place ここから @青森県立美術館
これまで自分が行った日本の北限は猪苗代湖くらいで、このぶんだと北海道もいけないまま一生を終えることになる気がしたので、10月30日、青森までがんばって日帰りしてみる。
奈良美智の作品に最初に触れたのは90年代の米国で、二本の脚で踏んばっているように見える少女はこちらを睨みつけて手にナイフを握っていた。(少年ナイフの米国でのブレークもあり)
今回の回顧展的、と言わないまでもいったんの区切りと思われる展示のポスターで、少し成長したように見える少女(おなじ女性だろうか?)の像は上半身のみでこちらを見て佇んで、その目には涙を浮かべていて、服はP.クレーの暖色のだんだら。表明はもうかつてのように怒っているようには見えない。力尽きたのか訴えているのか祈っているのか絶望しているのか、もちろんそれは、こうなってしまった、という話ではなく、いまの天気や季節や世界がそうさせているのだ、というだけのこと、なのかもしれない。他方でタイトルは”The Beginning Place”であり『ここから』 - ここを起点として始まる、起ころうとしていること、であると。たぶんおそらく、絵や彫刻に向かう手前のぬかるんだ世界のありようについて、いまの時点から振り返ってみれば、という定点観測なのではないか。いまから10年後に行われるかもしれない『ここから』はまったく別の表情を見せるに違いない、そんなものでよいのだ、というところも含めた風通しのよさ。
そして、背景がブランクであることが多い彼の作品で、彼女たちはどんな場所で踏んばったり仁王立ちしたりしていたのか、あるいは、そのナイフはどんな部屋で研がれ or その叫びはどんなレコーディングスタジオで録られようとしていたのか、部屋 - “I Want to See the Bright Lights Tonight” (1974)のジャケットのように窓が濡れている部屋 - 掘っ立て小屋やロック喫茶がDIYで ←これも重要 - 再現されて、だからこれらは彼の定点であるこの青森の地で開催されなければならなかったのだ、って。
あのロック喫茶でそのまま3時間くらいレコード聴きながらだらだらしたくなる展示だったが、バスで市場のほうに行って、穏やかでぜんぜんらしくない津軽海峡をながめて電車で弘前に向かって弘前れんが倉庫美術館の『松山智一展:雪月花のとき』も見て、晩の飛行機で戻る。
10月31日から11月3日までは京都に行って、そこを起点にすこしだけ大阪と奈良にも行った。
これまで桂離宮も法隆寺も行ったことがなかった、ので改めて基本を見ていこう/おこう、ってそれだけ。
寺社系だと「東寺のすべて」を見て、三十三間堂を見て、法隆寺を見て、永観堂を見て、建仁寺を見て、展覧会だと京セラ美術館で『竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー』、京都国立近代美術館で『京都画壇の青春―栖鳳、松園につづく新世代たち』と常設展を見て、大阪の中之島美術館で『生誕270年 長沢芦雪 - 奇想の旅、天才絵師の全貌』を見て、奈良国立博物館で『正倉院展』見て、建仁寺でやっていた『スミソニアン 国立アジア美術館の名宝』を見て、結構足と目がしんだ。
あと、桂離宮のあの茶室はやっぱすごい(日本とか和とか、じゃなくて考えた人が)。外側のどこからどう見て攻めていっても驚嘆すべき格子模様が出現して止まらない。
奈良の正倉院展は去年も行ったので今年はよいかとも思ったのだが、すっぽんの石とかおしどりの布とかを見たくてたまんなくなって。実際にたまんないやつだった。
耳系だと昨年Brian Enoのインスタレーションを見たところで:
Ambient Kyoto 2023
アンビエント、っていうと古い人なのでEnoの”Ambient 1: Music for Airports” (1978)がまずあって、かつては環境音楽とも言われていて、特定の「環境」の与件とかありようを侵さないことを基本とした音楽とか音像を探求していく(そういうなかでいかに音楽は可能となるのか、という)試み、と理解していたので、ここでBuffalo Daughterとか山本精一とかCorneliusがライティングやヴィジュアルやミストと共に鳴らしていた音って、ものすごくふつうの、スタティックというよりはダイナミックな音像たちで、ここから「アンビエント」を導きだすとしたら、音の塊りが環境そのものとして感覚まるごとを襲って覆う、そういう機能性をもった音楽、のように言えるのだろうか? と。すべての活動を追っているわけではないが、坂本龍一のまず「聴く」ことへの注力から環境そのものを考えていくようなアプローチもそこに含まれるのだろうか、とか。
こんなの考えなくてもよいことなのかもだけど、止まらなくなって、あんま考えずに楽しめた昨年のEnoのほうがまだよかったかも、とか。
この後に、これの関連イベントで、岡崎のほうのふつーの日本家屋でやっている「しばし」っていうのにも行った。予約制で、Garrardのターンテーブル、真空管アンプ、Lockwoodのお座敷スピーカーで、ちりちり系のレコードを鳴らすのを聴く(だけ)。涼しくなった(11月に入ったのになんでこんな暑いの?)夕暮れ時、床の間のある純和室に鳴るこんな音が悪いわけはないのだが、自分のとこでこんなの実現するのは無理よね、ってすべて崩れる。本とかレコードとか、どうするのか、っていつもの―。
これで日本のアート系は当分のあいだ見なくても... となるかどうか。
11.12.2023
[film] ゴジラ -1.0 (2023)
11月4日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。
もはや世界的ブランドとなってしまったゴジラの『シン・ゴジラ』 (2016)に続く本家からのリリース、生誕70周年記念作品、らしいのだが全く期待はしていない。昭和のシリーズが好きだから、というわけでもなく、最初期の数本が絶対だからというわけでもなく、『シン・ゴジラ』にあった単純な自衛隊万歳 - 日本負けるな、って歯を食いしばって突っこんでいくノリについていけなかったから。 最近のハリウッド版のほうが派手だし荒唐無稽でまだ楽しめるし。
今回のは敗戦によりすべてを失った日本をゴジラが襲う、と。 そいつはまじでやばいかも知れないな、って思って見に行ったのだが、基本はあんま変わらなかったかも。ポジティブ、なのかバカなのか。
冒頭、日本軍の戦闘機が修理工場のある島に降りたち、憔悴して具合が悪そうなその操縦士敷島(神木隆之介)は、機の具合がどうも.. って修理を依頼するのだが、飛行機はどこも悪くないのでひょっとして貴様は.. ってなった晩にその島を怪獣が襲い、敷島は機銃を撃つこともできずに立ち尽くしてそこにいた隊はほぼ全滅してしまう。
戦争が終わって敷島が焼野原の東京に戻ると家は燃えて両親は亡くなっていて、赤ん坊を抱えて彷徨う女性典子(浜辺美波)を見ていられなくて自分の掘立て小屋に住ませてあげると、その赤子も彼女の子ではなく、誰かから託されたものだという。そしてそんな彼らを横から見てられないよ、っておせっかい/助けにくる安藤サクラとかもいる。誰もがみんなすごくよい人たち。
働き口がない中、お金にはなるから、と海上に放置されている機雷を除去する仕事を見つけてきた敷島とその仕事仲間 - 吉岡秀隆、佐々木蔵之介等 - は、海上でゴジラに遭遇して、これが東京に上陸したら大変なことになるぞ、って戦慄するのだが、やっぱりゴジラは上陸してひと暴れして典子を彼方にふっとばして海に戻り、次の上陸はなんとしても阻止せねば、ってみんなで知恵を絞って作戦を立てる。
戦争に負けてからっけつの日本の軍と助けに来てほしい米軍はソ連を刺激したくないから、と動けないし動かないし。自分たち有志で(→ いまのクラウドファンディングみたいに)なんとかするしかないんだ、って残っていた船とかゴム会社とか終戦間際まで開発中だった戦闘機とかを総動員してその時を待って..
1954年の第一作で原爆の脅威と恐怖そのものだったゴジラは今作では(日本が)克服すべき敗戦のトラウマ、でしかなくて、ここでやっつけなければ自分が死ぬしかない、だから「生きて、抗え」で結局誰ひとり死なないし、こんなこともあるから自衛の軍は持たなきゃいけないし(→ 自衛隊)、こんな安っぽいプロパガンダに使われてしまうゴジラが本当に哀れでかわいそうだ。
米国の核実験の話は出てくるけど、広島・長崎に原爆が落とされたこと、なぜ日本がこんなことになってしまったのか、自分たちがトリガーを引いた戦争についての言及はない。いつまでたっても”Oppenheimer” (2023)の公開がされないのは、これとの対比で語られることを嫌がったのだな、としか思えない。
子供の頃(リアルタイムではないよ)に見た54年版ゴジラでの芹沢博士の自死は、本当にショックで理不尽で怖くて、でも彼の抱えていた絶望はなんとなくわかった。今作でなんで主人公たち誰もがあんな元気にがんばって生きようとしているのか、自分にはよくわからない。それはいまのこの国がそんなふうにあることへの気持ち悪さにも繋がっていて、なるほどな、しかない。
俳優さんはみんな「熱演」だと思うけど、どう呼んでよいのかわからない少年漫画みたいな「なんでだぁー拳」のような演技スタイル & キャラクターの置き方 - 女性はほぼだいたい女神 - がぜんぜん好きではないし、昔の映画を見てきて、あの時代の人たちがああいう喋りや振るまいをするとは思えないので、どうかなー、とは思った。 あの時代の人たち、でいうとみんな - やたら「みんな」のように括りたがる傾向も含めて - 穏和で秩序を重んじて助けあうよい人たちすぎるし。『風の中の牝雞』 (1948)の鬼畜みたいなありようの方がふつうだったのでは。
怪獣の描き方はよい、すごい、って言われているようなのだが、そもそもこれって怪獣映画なの? ただ怪獣を仮想敵に置いただけの 「自衛隊 1.0」じゃん。
そんななか、伊福部昭の音楽だけは変わらずに最強なのだった。
あー LITURGYみたかったよう…
11.10.2023
[film] 浮草物語 (1934)
10月28日、土曜日の午後、国立映画アーカイブで見ました。サイレント。 英語題は”A Story of Floating Weeds” - 59年のリメイク版は” Floating Weeds”。
東京国立映画祭のなかの小津特集。いろいろ被りすぎててわけわからず、とりあえず見れるところで見るしかない – って思わせてしまうような映画祭って、さいてー(改めて、何度でも)。小津のシンポジウムだってチケットが別扱いで気が付けば売り切れているし、Kelly Reichardtさんは結局このためだけに来たの? 失礼すぎない? とか。
10月1日にロンドンのBFI IMAXで堂々とした『浮雲』(1959)を見て、これの前に作られた1934年版も見たいと思っていたところ。米国のプレ・コードドラマ”The Barker” (1928) - 『煩悩』がベース(これを受けた原作は小津の変名 - ジェームス・槇による)だそうで、こちらも見たい。
この34年版を見ると、59年版のと思っていた以上に似ていた、というか、59年版は旧版で撮られたものをカラーと音声を使ってより直截的に洗練させたものなのか - 25年かけて。すごいわ。
旅まわり歌舞伎一座の喜八(坂本武)と情婦のおたか(八雲理恵子)が中心にいる一座がある村に興行にやってくると、喜八はおつね(飯田蝶子)がやっている呑み屋に入り浸っておつねの子の信吉(三井弘次)と頻繁に会うようになる。彼らの事情も込みでそれを妬いたおたかが若いおとき(坪内美子)を信吉に仕向けて…
ストーリーはもうわかっているのだが、いろんな登場人物たちの束と溜まる場所や場面が色別に分かれていて、その奥行きが格子模様の遠近でくっきりしたり滲んだりする59年版の完成度と比べると、やや平坦でリニアな人情噺の方に寄っているようで、でも嫉妬が嫉妬を生んで燃え広がって渦を巻くその熱ややばさが声を介さずに伝わってくる距離の近さ、でいえば34年版もとてもよいかんじ。
キャストもこれ以上のものは想像できない、空前絶後で唯一無二の59年版の中村鴈治郎 - 京マチ子 - 杉村春子 - 川口浩 - 若尾文子 - たちと比べても悪くなくて、特に八雲理恵子のすばらしさにびっくりした。今回の特集で『東京の合唱(コーラス)』(1931)も見たりもして…
風の中の牝鶏 (1948)
10月28日の土曜日の午後、『浮草物語』を見た後にTohoシネマズ日比谷のシャンテで見ました。
間違えて角川シネマ有楽町の方に行ったら誰もいないので少し焦った。
これは2021年1月、コロナでロックダウン中の英国にいた頃、Criterion Channelで見ていた - 英語題は”A Hen in the Wind” – ことを思いだした。
全体としてあまりに酷くて辛くしんどい話で、田中絹代がなにをやっても不憫でかわいそうすぎて、佐野周二がしみじみ憎らしくてうんざりぐったり世界が嫌になったので見た記憶を消したくなったのだと思う。
時子(田中絹代)は幼い坊やを抱えて夫の修一(佐野周二)の復員をずっと待っているのだがずっとお金がなくて着物などを売ってやりくりしていたのだが、坊やが腸カタルにかかって入院してしまい、高額な入院費を払うために近所の怪しい女性経由で売春をやるところを紹介してもらってなんとか工面する。坊やも無事に回復して、夫も戻ってきたところで病気は大変だったろう、お金はいったいどうしたんだ? って聞かれると彼女は嘘をつけなくて泣きだしてしまい…
修一はそこでばかやろう、って泣いて謝る時子をぶんなぐり、彼女の供述にもとづいて月島の宿にまで出かけていってそれが事実だったことを確かめ、戻ってきて時子を階段から突き落として... たぶんこういう話はこの頃にいくらでもあったのだろうな、って。(これ見ると『ゴジラ-1.0』なんてよい人まみれの極楽にしか見えない) 修一、最後は自分も苦しかったんだよう、って言いたげに泣いて謝って抱きあうのだが誰が信じるかよ、って。
何度も正面から不吉に映しだされる階段、同じように気が遠くなるような階段があって近所から見下ろしている巨大なガスタンクとその轟音 – 鳥籠のイメージ、川べりを転がっていく紙風船、不安定でおそろしいイメージの連なりとそこに風が吹いているなか、逃げようのない牝鶏 - 夫の背中にまわされた羽 - の影が結ばれて、おそろしい。このおそろしさを画面におとせてしまうところが小津のこわさなのか。世に言われる失敗作では決してなくて、むしろ逆、これを「失敗作」とすることでなにかに蓋をして見ないようにしたのだとしか思えない。
11.09.2023
[film] 左手に気をつけろ (2023)
10月28日、土曜日の昼、東京国際映画祭をやっている角川シネマ有楽町で見ました。英語題は”Keep Your Left Hand Down”。上映後に監督井口奈己によるトーク付き。43分の中編。
この映画祭での上映がワールド・プレミア、だそうで、エグゼクティブ・プロデューサーである金井久美子 & 金井美恵子姉妹が国際映画祭のレッドカーペットを歩いたぞ、ということでおおおっ、となったやつ。
6月の終わりだったか7月の頭だったかの週末、京都の恵文社一乗寺店で行われたこの作品の上映イベントには行けず、でもその前の週にあった『こどもが映画をつくるとき』(2021)と『だれかが歌ってる』(2019)の上映+金井姉妹のトークには行って、ここで今作の前日譚のようなこれらを見れたのはとてもよいことだった、と今にして思った。
はじめに「よーい、スタート」の声がかかって、『こどもが映画をつくるとき』から更に数歩進んだ、子供が掟をつくって統制をかけている社会が示される。コロナのような謎の疫病がまん延するが、子供たちは疫病フリーで、病が左利きによって媒介されることから左利きを取り締まる子供警察が組織されて、子供が左利きを発見すると、四方八方から十手を手にしたガキどもが大量に湧いてきて「御用だ! 御用だ!」 - 英語字幕だと“Police Business!”なのね - って騒ぎたてながら左利きの大人を追い詰めて寄ってたかって縛りあげるとどこかに運んでいってしまう。っていう緩めのディストピアのお話し。子供たちは楽しそうに行進していって、大人たちはうざいな、って思いつつも普段の暮らしをふつーに行っているっぽい。
神戸りん (名古屋愛)が姉を訪ねていったら家にはいなくて、ここのとこ暮らしていた痕跡もないようなのでどうしたんだろう? って探し始める。カフェに行ったりタロットで見てもらうと大切な人と出会うよ、って言われたり、映画館(サッシャ・ギトリ特集がかかっているシネマヴェーラのロビー)に行ったり、学校に行ったり、この辺は『だれかが歌ってる』の変奏のように、あそこでかかっていた鼻歌も聞こえてくるし、誰かをそんなにシリアスに探す、というよりもそのうちどこかで見つかるじゃろ、くらいの温度感で町や原っぱを、いろんな人々の間を抜けていく。
だれも気にとめない、だれを気にする必要もない、しらーっとした世界で主人公の彼女の目だけがまっすぐになにかを見ようとして、その脇を大量の子供たちがひたすらやかましく傍若無人に群れて画面を横切っていく。
かつてどこかにあった「地上にひとつの場所を」ってぶつぶつ言いながらどこかから現れた男が音と光と場所をてんでばらばらにぶつけ合いつつ探したり徘徊したりするゴダールの『右側に気をつけろ』(1987)を思ったり、あるいは『ウィークエンド』のあの殺伐とした原野に鳴るドラムス – と同じような雷神の音を聞いたりしながら、この作品の主人公が最後に見つけたひとつの場所 - 右利きにも十分にやさしい左利きの場所、とは。 「側」ではなく、「利き腕」とはなにを意味するものなのか?
政治的な立ち位置としての右左「側」とか「寄り」の話がまるで利き腕のそれであるかのように理不尽に幅をきかせている - 右利きあたりまえ - の気持ちわるく覆って圧してくる空気に対する市街戦であり空中戦であり、ふざけんなばーか、という子供達によるアナーキーな異議申し立てでもある。恋愛メルヘンなんかではない。
中編だからってあまりに散文調で纏まりがないし、主人公の世界と子供の世界はあまり交わらないし、おならみたいに唐突な電子音も耳にくるし… など「子供」に顔をしかめる「大人」からの賛否は(きっとぜったい)あるのだろうが、でもそれこそが思う壺、これはこれである世界とかその輪郭くらいを作っていることは確かで、文句を言うやつらは子供警察に引っ立てられてしまえ、くらいのことは思った。
ESGみたいにぶっとい女性バンドが出てくるのだが、喜多見にある熊鍋のお店のひとがベースを弾いていた…
11.08.2023
[film] Los delincuentes (2023)
10月25日、水曜日の晩、東京国際フィルムフェスティバル(TIFF)をやっているTohoシネマズ日比谷シャンテで見ました。
邦題は『犯罪者たち』、英語題は”The Delinquents”。180分。作・監督はアルゼンチンのRodrigo Moreno。カンヌのある視点部門で紹介された作品。 すごくおもしろい。
そういえば昨年のTIFFには”Pacification” (2022)があって、こういう長すぎるしよくわかんなそうだから絶対一般公開をされなさそうな - けどおもしろいのに出会う、という楽しみが映画祭にはある。のだがこの映画祭ってほんと相変わらず… あんな代理店とスポンサーまみれの映画祭なんて胸糞悪くなるばかりだからやめちゃえ、ってずーっと思っている – けど映画好きは映画見れるなら、って文句を言いながらチケットを取ってしまうというよくないサイクル。(文句書きだしたら止まらなくなるのでやめる。どうせ絶対に「改善」なんてされないから)。
そもそものタイトルがそうだし、銀行強盗が最初に起こるし、ポスターに出ている男たちの人相は悪そうだし、どう考えてもノワールぽい暗い展開でくると思った、のにそっちには行かない – どちらかというと昼間の映画。英国Guardian紙はPedro Almodóvar + Eric Rohmerって書いていたがそんなかんじのすごく変なやつ。
ブエノスアイレスの銀行でずっと窓口業務をやってきたMoran (Daniel Elías)は日々の仕事にうんざりしていて、でもそれなりに長く勤務して信頼はされているので現金の運搬も任されている。そこで託された現金を隠してリュックサックにいれて外に持ち出し、やはりうだつのあがらない同僚のRomán (Esteban Bigliardi)にそれを託して、自分は自首する。Moranの言うことにゃ刑期は3年半、それだけ我慢すれば、出所後は盗んだお金で好きに遊んで暮らせるはずだ、死ぬまで毎日毎日会社で奴隷仕事させられるより断然ましだろ? って。そして、もし現金に変なことしたら獄中でぜんぶばらしておまえの人生を台無しにしてやるから、ってRománには脅す。
盗られた銀行側 - ボスがGermán De Silva - はMoranが自首したのはよいとしても現金がどこにいったのか、行内のどこかに仲間がいるはず、って社員の尋問や首切りを始めて、お金を置いていかれたRománは自分のアパートでの萎れた生活 – 妻子がいて愛人もいる - を振り返りつつ、うなだれてぜえぜえ息を切らしながら田舎の崖があるところに金を隠しにいく – この辺までが第一部。
崖の岩の下に金を隠したRománは湖の畔で寛いでいる男1人女2人と出会い、彼らに誘われるままに一緒に映画を撮ったりして過ごすうち、そのなかのNorma (Margarita Molfino)と親しくなって、町にやってきた彼女と会ったり - 彼はもう銀行も辞めて家も出ているので自由な時間を過ごすのだが、というのと、やがて出所したMoranがお金が埋めておいた山の方に向かうと..
都市の銀行に勤めてはいても牢獄の壁に向かいあうような日々を送っている彼らが強盗に成功して、自首して牢屋に入った方も – おっかない牢名主も同じくGermán De Silvaが演じている - 牢屋の外でお金を隠しにいく方も、当初想定していたような自由は得られないままでどんよりと頭を抱える第一部から、田舎を舞台にした飲んで歌って映画を撮っての自由で気儘な生活に飛びこむ第二部への転調があって、そのきらきらした楽園の世界に無邪気に馴染めるほど子供ではないので、これはほんとうに望んでいた生活と言えるのか、等を過去や足元を踏みしめながら考える、そういう方に思索を向かわせるドラマになっていて、この点で後半の田園パートは中年(犯罪者)版ロメール/ルノワール、のような変な絵になる。MoranとRomán、互いの名前がアナグラムになっているふたりは鏡を見るようにそれぞれの姿を認めて、最後に同じ女性とぶつかってなにを思うのか。これが果たして求めていたなにか - 自由なのか? など。
レコード盤から何度か流れる”Pappo's Blues” (1971)のごりごりしつこいかんじがまたなんとも。結局70年代じじいの夢なのか? とか。
それにしても、3年半牢獄で我慢して、出たあとの老後が安泰になるのだとしたら、こういうの考えてしまうかも。どうせ年金なんてないのだし。 盗んだ金が見つからない状態で本当に3年半で出てこれるのか、というのはあるにせよ。
11.07.2023
[theatre] National Theatre Live: Good (2023)
10月22日、日曜日の午後、Tohoシネマズ日本橋でみました。『善き人』。
原作はスコットランドのC.P. TaylorがRoyal Shakespeare Companyの委託を受けて書いた同名戯曲 (1981)をDominic Cookeが演出して、Harold Pinter theatreで上演された。
Viggo Mortensenが主演したという2008年の映画版は見ていない。
舞台には奥が角でどんづまった牢獄のようにも見えるなにもない寒々しい部屋がひとつ、登場人物は男性2、女性1だけなのだが、彼らの演じるキャラクターは場面転換など無しに人物、年齢、役割などがころころ切り替わっていくし、それらは背景の音楽や照明が変わることでわかったりもするのではじめは混乱するのだが、戦時下で人格が歪んだり潰されたり豹変したり切り替わっていく - 誰でも誰かに代替可能 - という怖いテーマからすれば、そういうもんかも、になったりする – そしてそのペースに慣れていくのもうすら怖い。
1933年(ヒトラーがフロントに)から1941年(アウシュビッツが作られる)頃まで、約8年間のドイツ - フランクフルトで、文学教授のHalder (David Tennant)と妻Helen (Sharon Small)とユダヤ人の友人Maurice (Elliot Levey)の3人がいて、この3人を(いちおう)中心に置いて、それぞれが官警や役人や義母や恋人や浮浪者などに切り替わったりしながら、時代の節目にどこかの町や家の片隅で行われていたに違いないやりとりをコントやスケッチのように並べていく。そのどーってことのなさそうな蓄積がまさかあんなところまであっという間に行ってしまうまで。
はじめは誰もがヒトラーに懐疑的であんなの.. って思っていたしユダヤ人の扱いについてもすぐ傍にいるのだから悪い冗談としか思えず、まさか自分だけは… そんなふうに緩く適当に受けとめていると本を焼かれたり家に踏みこまれたり水晶の夜を通過したりしていくなか、Mauriceと一緒にいるわけにはいかなくなって、さらに気がつけばHalderはSSの制服をぎこちなく身に纏っていたりして。
David Tennantの一見温厚そうな知識人の佇まい、ちょっと呆けて遠くを眺めて固まってしまう虚無の表情と、同様に時折ロボットのように見せてしまう所作をはじめとして、このキャラクターに応じた変わり身、それに伴う台詞回しの変更をスムーズにこなしていく俳優たちの動きと演技は驚嘆すべきものだと思う反対側で、これと同じように、組織の長やお偉いさんやお得意様が現れた途端に豹変してしまう変な男たちっているし、そういう連中が重用されたりするのも見ているので、あーあそこにいたあれらか? とも思ったり。
Halderは「善き人」であろうとしたのか? というと、ベストセラーになった本『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を思いだしたりもするのだが、何/誰にとっての「よい/よき」と言えるのか、のありようが異なるのであの本のと単純に比べてはならない、と思いつつも、それを「よき」と認める「こと」なり「人」なりに向かうときの思慮の浅さというかてきとーさは同じようなものなのかも。そうやって認められた「よき」ひとはそれと同じ軽さと速さで「わるき」ひとを選別しようとするだろう。それが「よき」ひとと認知される要件のひとつであればなおのこと。
そして、文学の教授でもあるHalderは勿論そんな簡単に「よき」ひとになるつもりはない。むしろそんな表面的な「よき」を回避したり鼻で笑ったり嫌悪したり、そうしていくうちに周囲にガスのように充満してくる悪に無感覚になっていくのと、そのすぐ横に見えるなんとなく幸せで楽な生活とか、そこに絡みつく虚栄心とか出世欲とか、これらがダンゴになって誰も抵抗できないままに転がり落ちていく、それを恐ろしい、と見るか、周りがみんなそうだしそれはそれでよいのでは – “Good”. と言ってしまうか。 結果、なにがもたらされたのか、と。
今だと、ここに黙っていても大量に流れてくる情報の量とか質とかそれらの操作とかが入ってくるので、「よき」「わるき」の峻別とか判定はワンクリックの相対的なものにしかならなくて、でも人権も正義もそういうどっち側? っていう線引き綱引きなんかではないのだ、って何万回言ったら….
11.06.2023
[film] Writing with Fire (2021)
10月22日、日曜日の昼、ユーロスペースで見ました。邦題は『燃えあがる女性記者たち』。
ここのとこ、あちこち行ったり来たりしていて、どこから手を付けたら状態なのだが、とりあえず書けるものから。
インド産のドキュメンタリーフィルムで監督はこれがデビューとなるSushmit GhoshとRintu Thomasの共同。
2001年のサンダンスでAudience AwardやWorld Cinema Documentary部門でSpecial Jury Awardなどを獲り、他の映画祭でもいろいろ受賞している。いまのこんな時代、なぜジャーナリズムとジャーナリストが必要とされるのか、も含めて考えさせられる。必見の内容。
この邦題、これでもよいけど、中心にいる女性記者たちが燃えあがる・燃えている(→炎上)ように見えてしまうのがなんか。それもあるけど、男女関係なく、燃える意思と共に書いて出していくべき何かとは何か、っていうテーマだよね。
最初にインドのカースト – その最下層である”Dalit”について、更にそこに女性として生まれ育つというのはどういうことなのか、が示されて、そこで生まれ育った彼女たちが2002年、保守的なUttar Pradeshの州で立ちあがった新聞社 - Khabar Lahariya - 翻訳すると”News Waves”に入って自分たちで取材して記事を書いて発信していく。 発行はデジタルのみ、FacebookとYouTubeのチャネルはあるけど、それだけ。取材道具は記者たちに支給されたスマホ1台でぜんぶ。そんな彼女たちの2018年から2019年頃の活動を追う。
まず紹介されるのが主任記者のMeeraで、14歳で結婚して(させられて)子を産んで、育児をしながら義理の親と夫の理解があったので大学の修士まで行ってこの仕事に入ったのだが、へろへろなんも考えていないふうの夫は彼女の仕事について早くやめちゃえばいいのに、とか言うのだがMeeraは相手にしない。
もうひとりはSuneetaで、山奥の村人を苦しめるマフィアによる違法採掘を現地で取材して、どんなに威嚇されてもカメラを回して動じないの – このドキュメンタリーのカメラも入っているからだろうか、かっこいい。のだが、その裏で年間50人のジャーナリストが殺されているインドの現実も示されたり。
あとは、新聞社内の教育担当でもあるMeeraが傍らについて教えていく新人のShyamkaliで、それまでスマホなんて触ったことないので、文字入力から何から、何をどうしたらよいのかすらわからない、という。
カメラは違法採掘の件や、レイプされて殺されてろくに捜査もされないDalitの女性、ヒンドゥー至上主義が台頭していく地方選挙、などの取材現場と、Meeraの育児 - 子供は学校の授業についていけなくなっている - とか、結婚しないので親からプレスされるSuneetaとか、肝心なとこでなくなるスマホのバッテリーとか、取材する彼女たちの日々の苦労を追ってあっという間で、その成果はYouTubeの閲覧数 - 10 million viewsなど、で示される。この辺、ところどころ痛快だったりするものの、どちらかというとはらはらして気が気でなかったりする。気をつけて危ない目に会わないで、って祈りつつ拳を握る。
インドの現在とそれを取材する女性たち、の間を行ったり来たりする構成はシンプルでわかりやすいのだが、ドキュメンタリーとしては、この新聞社を誰がどうやって立ちあげたのか、とか、どう(会社として)運営しているのか、これからもだいじょうぶなのか? なども含めて描いてほしかったかも。
最後、覚束なかったShyamkaliが自分で堂々と操作できるようになったり、いったん結婚で退社したSuneetaが戻ってきたり明るい要素はあるものの、全体を覆うこの先(社会が、世界は)どうなっていっちゃうんだろう感は滲んできて、でもMeeraのいう、ジャーナリズムは民主主義の根幹だと信じるから、という一言が全体を救うかんじ。ごくあったり前の一言を彼女が言うことでものすごくパワフルなものになるのだが、翻って足下の自分の国のジャーナリズムの後進・後退ぶりってどうにかならないのか、なんでガザであんな酷いことが行われているのに、べたべたと権力とスポンサーに寄り添って幼稚で恥ずかしい芸能ネタやスポーツネタではしゃいでいられるのか - どうせ誰も見ていないとか、いつまで居直ってゴミを量産しているのか、などを思う。爪の垢を煎じて… っていうのはこういう時に使う。
11.05.2023
[film] Numéro zéro (1971)
10月21日、土曜日の夕方、日仏学院のJean Eustache映画祭で見ました。 『ナンバー・ゼロ』。
この作品でこの夏から秋にかけて紹介された彼の作品はひと通り見たことになった。のだが、まったく全部見たかんじがしていない(まだ他にもいっぱいあるし)。彼のフィルモグラフィーを全て制覇すれば、とかそういう話ではなく、彼の映画に向かう姿勢のようなものが少しでも見えてしまった以上、彼の映画を「見た」などと軽々しく言えなくなってしまう、それくらい饒舌にべらべらいろんなことを言ってくる(だけの)映画、だった。例えばロメールの映画も登場人物たちはあーだこーだ喋りまくるのだが、それはストーリーを展開させたり彼ら自身を動かしたりするためのもので、でもEustacheの映画におけるお喋りは誰をどこにも動かしたり連れていったりするようには見えない。 彼らは自分(たち)がいまどんなふうで、なぜここにこんなふうにしているのか/あるのか、その足元をひたすら喋ったり示したりしている、ような。その語りのなかには自分のことだけでなく世界まるごとの歴史や経験も含めてぜんぶあって、我々はそれが照らしだすまるごと全てを映画館の暗がりにうずくまって見る。
このお話は、Jean Eustacheが彼の祖母Odette Robertの語る彼女の半生を2台の16mmカメラを据えて切れ目なしに収めている。祖母がウイスキーを飲んでタバコを吸いながらカメラ(というよりEustache)に向かって喋り、向かいあうEustacheが背中を向けてほぼ黙って話を聞いて、フィルムのリールが切れてカチンコで次に繋ぐところも含めて撮って、要は彼女のいる時間が一瞬でも消えていなくなることのないように配慮されている。配慮、というよりそうやって持続・継続して彼女と共にある時間がそもそもの姿なのだと。
これは通常のドキュメンタリー、とも違って、確かにそこにいる女性はOdette Robertという名の実在した人物なのだろうが、彼女の語りが示す出来事や人間関係に具体的かつ客観的な確かさは一切なく、その証拠らしきものも示されない。
Eustacheが幼い頃からあんなふうに何度も聞いてきたであろう(Odetteの)義母の意地悪な話などはただの法螺話であってもおかしくはなくて、例えば - 比べられるものではないが - ワン・ビンの『 鳳鳴 中国の記憶』(2007)の老女の語りが描きだす凄惨さとか、Frederick Wisemanのドキュメンタリーでお仕事や活動について喋りまくる人々のそれとも明らかに違うし。ここで問われているのは語られる内容の確かさとか精度とかそれがもたらす共(生)感、などではなく、それによって明かされる彼女が生きた時間の不思議さ、その共有が導いてくれるかつてあった時代のフランスの田舎の生活の像のようなもので、そうやって現れてくる世界こそがすべての礎ではじまりで、だからそれは「ナンバー・ゼロ」 - 足しあわされていくことすら拒む消失点、のようなものとしてあるの。
こんなふうに示される世界のバリエーションが併映された彼の遺作『アリックスの写真』(1980) で説明される写真の数々で、ここで取り上げられる写真たちも何ひとつ確かな「現実」との接点や連関を持たないまま、でもはっきりとその輪郭を、そこにいた写真家と彼女に撮られた対象とそれを見て聞くもうひとり、というトライアングルのなかで示して揺るがない。フィクションだなんだ以前に世界はまずそうやって現れるのだ、というのと、映画はそこから始まる - その扉をノックするように - ものなのだ、というのと。
ただそうやって囲われる対象がぜーんぜんつまんない(とはどういうこと? というのはある)そこらの人だったりするとうまくいくとも思えず、その点でOdette Robertによる語りの確かさとおもしろさ - 日々戦争のようなサバイバル劇 - は揺るがなくて、すごい人を見つけたもんだな、っていうか、この魔法のような語りの技に幼時から晒されていたことが映画作家Eustacheを作ったのだろうな、くらいは思う。
あと、語り手が女性であること、というのはあるのだろうか? そんなの偶然に決まっているのだが、『ママと娼婦』にしてもこれにしても彼の目線は最初からそこ、と揺るがずに決められていたのではないか、とか。
[film] The Killer (2023)
10月27日、金曜日の晩、新宿シネマートのでっかいとこで見ました。 Netflixでもうじき見れるものだが、本作に関してはなんとしてもシアターじゃないと。
Alexis Nolentによるグラフィックノベルの原作を”Se7en” (1995)のAndrew Kevin Walkerが脚色して、監督はDavid Fincher、音楽にはTrent Reznor & Atticus Ross、Michael FassbenderがThe Smithsを聴いてばかりいる”The Killer”を演じるという、更にはTilda Swintonさまが”The Expert”、として出てくる、と、想像しただけでざわざわ背筋にくるやつ。なんでこれが配信なの?
全部で6パートからできていて、各パートはThe Killer (Michael Fassbender)が相対したり追いかけたり追い詰めたりしていく相手単位に構成されている。登場人物たちは時折名前で呼ばれることもあるが、”The Killer” - “The Client” - “The Lawyer” - “The Brute” - “The Expert”など、誰が誰であっても構わない匿名性が保たれ - “The Killer”本人は数十は保持していそうなパスポートやスマホやナンバープレートを場面ごとに使い捨てていく - そんな強い匿名性を要求する組織名も機構も掟も明確にはされず、そういう中で与えられたミッションを遂行するだけ。うまくいって当たり前、失敗したら.. ?
最初はパリで、ホテルの向かいのオフィスビルの空きスペース - がらんと廃れたWeWorkのそれ、というのがまたどこか象徴的 - で、The Killerはターゲットが現れるのをひたすら待って、その間ヨガやストレッチをし、マクドナルドで食事をとり、雇い主と電話で話し、などをしつつ自分が仕事にむかう姿勢などをくどくど自分のあたまに向かって何度も言い聞かせる - “Stick to your plan” - “Anticipate” - “Do Not Improvise” - “Trust No One” - “Forbid Empathy” - “Empathy is Weakness” などなど。これってあの顔と声で眉間にシワでシリアスに語っているかのようで、実は80年代の村上春樹的になんも言っていない空っぽ野郎なのかも、という疑念が立ちあがり、その主人公が大事な必殺の場面で集中すべくプレイヤーでかけるのがThe Smithsの楽曲群である、と。 べつにけちつけるつもりはないけど、これだけで実はこいつは中身からっぽのただのぼんくら野郎なのではないか… と思い始めたら止まらなくなってくる。と、彼の方は現れたターゲットを狙いに狙ったその本番でやっぱりしくじって「大変なことになった」とか言っているのでなんかおかしい。
こうして重要な依頼の執行に失敗したあと、とりあえず現場からは退避したもののドミニカの隠れ家に行くと彼の恋人が襲われて病院に入っていて、やっぱり現れた組織からの刺客を追って叩き潰すべく襲撃犯を乗せていったタクシー運転手を尋問して殺し、直接の依頼人であり大学の恩師でもあるThe Lawyer (Charles Parnell)をニューオリンズに訪ねるとNine Inch釘3本で情報を聞きだしてから秘書と共に殺し、フロリダの方に向かって実行犯のひとりThe Brute (Sala Baker)とぼかすか殴りあって - なかなかすごい - なんとかやっつけて、続けてもうひとりの実行犯であるThe ExpertをNYのBeaconに訪ねていって殺し、最後にThe Client (Arliss Howard)にまで辿り着いて…
ここまで、冷酷非情に仕事を遂行する殺し屋、というイメージの外枠こそ保たれているものの、彼が語る薄っぺらい言葉と組織やシガラミらしきものとの摩擦や葛藤 - そこから滲んだり溢れたりする肉欲のようななにか - といったDavid Fincherが過去作で描こうとしてきた生々しい生のありようがぼろぼろにほつれて疲れてやけくそになっていくThe Killerと共に崩れていくようで、でもそれはそれ、この半端なお話には嵌っているようにも見えてくるのがおもしろい。
ここ数作のDavid Fincherフィルムのボディを担ってきたTrent Reznor & Atticus Rossの暴力的な音楽/音塊を嘲笑うかのように隙間にThe Smithsがちゃらちゃらと捩じ込まれてくる(ほぼイントロクイズ状態)のは、人によっては悪夢なのかも知れんが、これもまた。
The Expert = Tilda Swintonさまとの対決はもっと時間をかけて煮詰めて燻してほしかったかも。あれじゃ彼女がなんのExpertなのかわかんないわ。
The Smithsの選曲については、やや無難すぎてつまんなかったかも。最後に流れる曲はやはりあれだったし。”I Started Something I Couldn't Finish”とか、”Still Ill”とか、”Cemetry Gates”とか、”Half a Person”とか他にもいっぱいありそうなのに。主人公のありよう的にはMorrisseyの曲の方が合う気もするのだが、そこはやはり違う、ということか。
少し長めのお休みを貰ったので、青森行って京都行って大阪行って奈良行ってきました。ほぼ美術館ばかり。どこ行っても暑くて調子くるった。