9.27.2023

[film] Khers nist (2022)

9月17日、日曜日の昼、新宿武蔵野館で見ました。 邦題は『熊は、いない』、英語題は”No Bears”。

ヴェネチアで審査員特別賞を受賞した、ということ以上に、監督のJafar Panahiが国に収監されてしまったことでも話題となった。この映画の中で動きまわる監督の姿を見るとぜんぜんしゃれになっていなくて、とにかくご無事で、早く出られますように、と祈るしかない。

テヘランの町中で映画を撮っているとこが冒頭で、Zara (Mina Kavani)とBakhtiar (Bakhtiar Panjei)の男女のカップルが国を出るためのパスポートを取得するタイミングが異なる – Zaraの方が先に出国して彼は後から – ことでそんなのだめだ - しょうがないだろ - って揉めていて、そのあまりにシリアスな様子にはらはらしていると、遠隔でテヘランの現場に指示を出す映画監督Jafar Panahiの姿に切り替わる。

どういう経緯と事情によるのか明らかにはされないが、監督はトルコとの国境に近い村の家屋に下宿のような形でひっそりと間借りしていて、先の映画スタッフに指示を出したり村の人々を撮影したりしている。村人は彼を先生として親切に扱ってくれるので、彼のところにやってくる若者にカメラを渡して撮影して貰うように頼んだら、撮影ボタンと停止ボタンを間違えていて撮るべきところがちゃんと写っていなかった(というエピソードが後でなるほどー、って)。

ある日助監督のReza (Reza Heydari)が監督を訪ねてきて、夜中に彼を車に乗せて密輸団が通る闇の獣道を抜けて国境の近くまで彼を連れていく。普段ここに来たら密輸団が襲ってくるのだが今晩は連中と話をつけてある。今、この晩ならここから国境を越えることができる、とやんわり彼の背中を押すのだが、監督はなんとか留まってそのまま村に戻る。

戻ると監督のところに村の衆がやってきて、数日前に先生が撮っていた村人たちの写真を - そのなかに若い男女のカップルが写ったのがあるはずだからそれがほしい/渡せ、と強く要求してくる。理由を聞くと、村では赤子が母親のお腹にいる頃から許嫁が決められるのだが、そうやって予約済みだった娘が他の男と一緒になろうとしている。先生のカメラの写真に彼らが写っていればそれを証拠として彼らを糾弾することができる、とやってきた村人たち - 許嫁を取られて悶える男とその親族と村長が最初は慇懃に、だんだん乱暴に狂ったように要求するようになってきて、でも監督は動じず、カメラの写真をぜんぶ見せて写っていないものは渡せない、と突き放して村長と村人の前で宣誓(嘘ついていません)までさせられることになっていい迷惑なのだが、次に矛先が向かうのは疑われている二人で…

そして、テヘランで撮影していたZaraとBakhtiarのふたりは…

国境という、人をある線から向こう側になんとしても行かせたくない縛り、村の謎(きもちわるい)としか言いようのない男たちの風習、これらは大昔から人々の意識と行動を内面から支配して抑圧して、その線を越えたり断ち切ったりしようとするものには「熊」が。「熊は、いない」けど、熊の被り物をしたなにかはある条件を満たすとやってきて、人を襲って食う。それは迷信なのか伝説なのか物語なのか、誰も答えを持っていないのに(が故に)ある土地や地域では正確に作動して、その土地の人々をその土地の者として固定して、その土地をその土地たらしめ、自らを存続させようとする。サステイナブル(✖️)。

でも「ふつう」に、コトを荒立てずに暮らしていれば「熊は、いない」。熊はいない、ということを監督はほらこんなふうに、と自らの微妙に頼りない身体を風景とカメラの前に曝して示しつつ、その同じカメラが熊の食い散らかした跡を映しだしてしまう、という不条理と恐怖を描く。映画を撮る、つくることがそうして写ったもの写らなかったものの間に横たわる不条理を踏んで貫いて生きることなのだとしたら.. うん、それはそういうものだから… と来たところで監督はやはり熊に…

にっぽんにもこれとおなじ類の熊は地方だろうが都会だろうがうようよいて、だから人が減って生身の熊が増えて、さらに人は減って、熊も減って、みんないなくなっちまえー、と。

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