3.30.2023

[film] Lyle, Lyle, Crocodile (2022)

3月25日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川で見ました。もちろん字幕版。
邦題は『シング・フォー・ミー、ライル』 - こんな半端なカタカナタイトルにするなら、「ライル、ライル、クロコライル」でいいのになー。

原作はBernard Waberのクラシック絵本 - Lyleシリーズの最初の2作”The House on East 88th Street” (1962)と”Lyle, Lyle, Crocodile” (1965) – あの絵のままアニメーションにしてくれてもよかったのに。 監督は”Blades of Glory” (2007)が初監督作だったWill Speck & Josh Gordon(なので見た)。

NYのタイムズ・スクエア近辺をうろうろしている売れないマジシャン/芸人Hector (Javier Bardem)がペットショップを覗いてみたら、カゴのなかでひとり小声で歌っている小ワニを見つけて、その姿があまりにキュートだったので買い取ってLyleと名付けて、こいつは売れるぞ、って一緒にステージに立ってみるとLyleは立ちん棒で凍って歌えなくて、これで膨大な借金を背負った彼は、自分が住んでいた88th streetのアパートの屋根裏にLyleを置いてどこかに消えてしまう。

ここの階下に越してきたのがPrimm家の3人で、パパTom (Scoot McNairy)は教師、ママWendy (Constance Wu)は本も出している料理研究家、パパの連れ子のJosh (Winslow Fegley)はいろいろナイーブなところがありそうな年頃の小学生で、みんな一見問題なさそうだけど、ちょっとしたことで暴発しそうな一家で、他に階下の住人として神経質で口やかましそうなGrumps氏(Brett Gelman)と、彼が飼っている同様にグランピーな白ペルシャ猫のLorettaがいる。

ある日Joshは屋根裏で鼻歌を歌っている(もう十分にでっかくなっている)ワニのLyle (Shawn Mendes)を見つけて、怖がりなので大騒ぎしそうになったが彼の歌が素敵 - 歌えるけどふつうの会話はできないの - なのでだんだん一緒に遊ぶようになり、パパもママも彼を見たときはパニックになるもののおとなしいLyleに乗せられるまま、みんながポジティブなほうに変わってまとまりそうになったところで、放浪から戻ってきたHectorが加わって更に騒がしくなって、でも騒がしすぎてGrumps氏に通報されて、Lyleは危険動物としてセントラルパークの動物園にぶちこまれてしまう。

終わりの方は、みんなにLyleの歌の才能を認めて貰えれば、ってタレントショーに出場させるべく彼を動物園の外に脱出させようとして、JoshはHectorがLyleを売ったと思って怒っているし、Lyleは家族みんなの前では歌えるけど観客がいるところでは怖くてムリだし、それらがどうなるのかー? って、少しだけはらはらするのだが、ファミリー向けなので、変なふうにはならなくて、みんなが思ったとおりのところに着地する。あんな獣を住宅街で飼っていいのか問題も裁判でちゃんと。

いろんな動物ものファミリードラマのミックスになっていて、おっかない(ぽい)動物がいきなりやってきて大騒ぎ、だと“Paddington” (2014)だし、実はGentleで家族をまとめてくれたりする、というところだと“Stuart Little” (1999)みたいだし(敵対する白猫がいるとこも)、ほんとは歌がうまいのに大勢の前で歌えなくて悩むとこは“Sing” (2016)にあったし、あなたの知らないところで動物たちは - 系だと“The Secret Life of Pets” (2016)だし、セントラルパークZooの住民の野生と都会化については”Madagascar” (2005)とか、まだまだいろいろいっぱいありそうよね。

この辺が気になりだしてしまい、楽曲も艶のあるShawn Mendesの歌声も素敵だったのだがあまり集中できなかったかも。でもなんでみんな「歌ってよ!」 なのか。自分から歌おうとしないのか、とか。

あと、こういうアニマルものの舞台になる都会って、Paddingtonのロンドンがよいのか、今回のNY(マンハッタン)のが相性よいといえるのか、議論が必要であろうが、ワニとかヘビとかクモとかが潜むのであれば、やっぱりNYのほうかなー。ロンドンは公園のキツネとかも含めて毛の生えた獣のほうがはまるのかしら。シンポジウムとかやるべきかも。あと、せっかくNYなのだから、Lyleのクロコ革を狙う悪の組織を絡ませてもおもしろくなったかも。あと、次回はHectorのダークサイドも追求してほしい。ぜったい”Nightmare Alley”あたりでなんかやってるはずだから。

あと、原作がそうだからしょうがないかもだけど、東の88thという立地の半端さ。ブロードウェイまで遠すぎるけど、どっちみち関わってくるので行かなきゃいけない - でもあんな遠くまでわざわざ残飯あさりにいかないよね。近所においしいところはいっぱいあるし。

でもひとつ、みんなでピザを食べているシーンがあるのだが、あそこに映っていたのはNYのピザじゃないよ。稲庭うどんと讃岐うどんくらい違うんだから、やめてよね。

あと、チョコがけしたサクランボのどこがいけないのかはきちんと説明してほしい。

もう3月いっちゃうのかー。

3.29.2023

[film] Hommage (2021)

3月25日、土曜日の昼、ヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。
韓国映画で、邦題は『オマージュ』、韓国ローマ字表記だと”Omaju”。

冒頭、水泳教室に通っている女性がボードを使っても息継ぎがうまくできなくて取り残されている。それが女性映画監督のジワン (Lee Jung-eun)で、彼女にとっての三作目となる『幽霊人間』をリリースしてもヒットからは程遠く、制作会社の女性プロデューサーと一緒にがらがらの映画館の椅子に座って、どうしようか、って途方に暮れている。 ジワンは中年女性の – 外観だけだと所謂典型的なおばさん太りでぱっとして見えなくて、高校生くらいの息子からは適当に揶揄われたり弄ばれたりしているし、夫(Kwon Hae-hyo)の方は各種支払いも滞って困って、こちらが指摘すると逆ギレされる家庭内別居(or パラサイト)状態だし、映画に対する思いと今後のあれこれも含めてどうしたものか、になっている。

そんな時、国だか自治体だかのアーカイブ機関から、韓国初の女性監督ホン・ジェウォンの60年代の作品『女判事』の修復作業への協力を(収入は少ないけど)依頼されて、家庭やオフィスのあれこれから逃れるかのようにプロジェクトに入ってみると、彼女の監督としてのキャリアが苦難に満ちたものであったことを聞き、失われていた音声パートをあてていく中でフィルムのなかでごっそり失われた箇所があるらしい(劇中の人間関係に飛躍がある – 削除された? 検閲?)ことに気づく。 作品にも監督そのひとにも惹かれるものを感じたジワンは彼女を知る家族に会い、そこに残されていたノートを読み、挟まれていた写真を手繰って喫茶店に行って、そこから当時彼女の組で編集をしていた女性に会い、そこから『女判事』が上映されていた映画館にまでリールを伸ばしていく。

映画の手前のこちら側では、ジアンのアパートの隣のずっと不在になっている部屋から声が聞こえてきた気がしたり、アパートの前の駐車場の車でひとり練炭自殺をした女性が見つかったり、オフィスに行ってみれば引越しなのか清算なのかがらんと整理されているし、終わりの方では自分に子宮筋腫が見つかって手術、とか言われてどん詰まりの果てがない。でもこのふたつの世界は別のものではなく、繋がっているのではないか。

『女判事』の失われたプリントがあるかも知れないと言われて行ってみた映画館は天井に穴が開いてて、間もなく解体されるようなのだが、それでもオープンすると観客が入ってくる。不愛想な支配人はそんなフィルムは憶えがない、と言うけど一応探してみて、隅に積んであった帽子(オーナーが帽子屋をやっていた)を適当に持ち帰ってみたら…

NYでもロンドンでも、修復された映画のお披露目イベントに行ったりすると、失われたと思われていたリール缶がゴミ箱の横に適当に積まれていたとか、日々怪しいと思っていた書類の山のなかにいた、とかそういうエピソードを一度や二度でなく聞いたりしたので、本当にフィルムはありえないような近場の隅っこに身を潜めているのだと思う。だからこの映画のも決して奇跡ではないかも、って。

幽霊のように朧げな、細切れの現れ方をする女性監督がジアンに声を掛けてきて励ましてくれる、というような話ではないし、ホン・ジェウォンの像は古くなった映画館と同じように消え去ろうとしていて復活することは(おそらく)ない。ジアンも心身あちこちぼろぼろになりつつあるものの、なんとか踏みとどまろうとしていて、そこにはホン・ジェウォンとの出会いがあった。なんでふたりが出会えたかというと、どこまでも男中心で変わるとも思えないけど映画というものに関わることができたからで、そういうことがあるから、うまく泳げなくてももう少しプールに浸かっていたほうがよいのかも、って。

そんなジアンとホン・ジェウォンのシルエットの対照も美しい女性映画なのだが、それにしても、ここに出てくる男性連中のなんもしないクズっぷりにはびっくりよ。ろくでなしの夫はもちろん、母親に「なにか作ってよ」しか言わない息子も、洗濯ものの取り込みを女性ふたり(ひとりは老婦人)にやらせて平然としているアーカイブの職員も、子宮いるの? みたいな顔をする医者も、どいつもこいつも – わざとであってほしい - でも多かれ少なかれきっといる。

あの映画館、もう少しがんばれば蔡明亮の『落日』- “Goodbye, Dragon Inn“ (2003)のあれみたいになるよね。

ただこれを映画についての映画、と呼ぶにはあとほんの少し磁場がほしかったかも。映画人と映画館についてはなんとなくわかる。でも映画のなにがそんなに.. っていうあたりを。

3.28.2023

[film] Ils étaient neuf célibataires(1939)

3月21日の夕方、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集で、この日3本目のギトリ。
邦題は『彼らは9人の独身男だった』。英語題は“Nine Bachelors”。

ギトリ作品にしては長い125分の上映時間。ギトリのって、80分でも余白なしでぱんぱんに詰まっていて見終わるとぐったりするので、まずはこの長さに緊張する。舞台ではなく映画用に作られた作品だそう。

ちょっと悪っぽいJean (Sacha Guitry)はバーにいたポーランド人の伯爵夫人(Elvire Popesco)が気になり、フランスで不法滞在している外国人を強制退去させる法案が通りそうなのを聞いて彼女が取り乱しているのを見て、そこから「独身フランス人男性の老人ホーム」をつくり、そこに路上などで拾ってきた老人 - どうせすぐくたばる - を寄せて、彼らとグリーンカードを必要としている女性をマッチングして、そこから口銭を取る – これってうぃんうぃんじゃね? って計算して実行に踏みきる。といっても建物と看護婦みたいな女性たちを確保して、ビラを撒くくらい。

街角では、そのビラを見た宿なしの老人がこいつはいいぜ、って近くにいた独身者の仲間たちを誘っていく。盲人のふりをして警察に追い立てられている人とか、妻の葬式を出したばかりの人とか、あっという間に9人が列を作ってビラにあった館の扉を叩くと、用意されていたのは丁度9人分のベッドで、Jeanは彼らがフランス人で未婚であること、それを証明する書類があることを確認して、ちゃんとした服を着せておく。

こうして施設にはグリーンカード=滞在保証を求めるいろんな女性 – 先の伯爵夫人、愛人、アジア系、などが集まってきて、Jeanは面接しながらそれぞれの外見や境遇から請求金額(ふんだくれそうなところから多めに取る)を告げ、夫となる男性をカードから選んで、彼をそこに呼んで相手の女性に挨拶させて、彼の方は写真を戴けるとうれしい、とかラジオがあるともっとうれしいかも、などと注文して、女性は首を傾げつつも納得して帰っていく。

こうして9人の独身男性はぜんぶ売れて、みんなで正装して合同結婚式みたいのもして、することもなくなった彼らはここにいてもしょうがないし、って再び道端に戻って、それぞれの「妻」のところに向かうの。ステイタスとして「既婚」「フランス人」になったものの普段の生活はそのままにしていた彼女たちは当然びっくりして…

9人それぞれのキャラクターの臭みみたいのもきちんと出ているし、癖のある逸れ者たちのアンサンブル・コメディとして面白いし、みんな幸せになって話もうまく着地していく – Jeanとポーランド人伯爵夫人の件も含めて – のだが、男性たちの変に無垢で無邪気で(彼女たちに)いいことしてやったじゃねえか、みたいな態度と、こういうかたちで結果的に外国人排斥モードを容認して、それでも(それだから)フランス万歳! みたいに仕上げてしまうところはちょっと好きになれない – それがフランスなのだ、なのかもしれんけど。


Faisons un rêve (1936)

3月23日、木曜日の夕方、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集で見ました。

邦題は『夢を見ましょう』。英語題は”Let's Make a Dream”。原作はギトリの舞台用の脚本 (1916)。 これも2016年に日仏学院で見ていて、でも完全にどっかに散ってしまったかというとそうでもなくて、冒頭の変な楽隊の演奏 – あの真ん中で鳴っている打楽器、ほしい! - で思いだした。楽隊も変だけどお話しはもっと変てこなの…

Sacha Guitryの家でパーティが行われていて、そこに来ていたRaimu(夫)とJacqueline Delubac (妻)の夫婦の妻 - Jacqueline Delubacの方が気になってしまったGuitryは、彼らに対して明日の16時15分前に夫婦でいらしてください、という妙な招待をして、でも時間通りに彼らが現れても自宅にはいなくて、そわそわした夫は外国人と会う用事(儲け話につながるかもしれん)があるので、って妻をひとり残していなくなり、妻も帰ろうとしたところで隠れていたGuitryが現れ、こうして二人きりになれる瞬間を待っていたのだ、ってその夜の再会を約束して/させて、晩に彼女がやってくるのをうきうきで待つのだが、彼女がやってくるまでの彼の挙動と喋りがなんというか... Guitryのこれまでの映画でもそういう狂ったテンションが炸裂する場面はあったし、そういう人だから、としか言いようがなく、そしてとうとう彼女が現れてわあー、ってなると次の場面は朝になっていて、ふたりはそういう関係になってしまい、でも夫に対してはどうしよう、って言い訳などを考えているとベルが鳴って夫が現れて…

最初から最後まで、それこそ夢のなかで進行しているかのようなGuitryにとっての都合のよさ満点のロジック(べらべら)で貫かれた時間、彼が描きたいのはその限られた時間内にどれだけの言葉を紡いで好きな人をそこに留めておけるのか - この辺はワンステージにかける演劇人のソウルだねえ - で、この後や結果にどんな地獄や修羅場やつまんない日常が待っていようがどうでもよいというか、どうせぜったいつまんないんだから、がベースで、だから「夢を見ましょう」って言ってくるのだが、これって変態であることを自覚した人がその変態性に磨きをかけて吠えているだけなので、その領域にあんま興味ない人にはただの「変なの..」でしかないのかしら、って。べつにいいけど。

今回のギトリ特集で見たのはここまで。まだ彼の映画全体のうち半分も見ていないので、次のをー。


3.27.2023

[film] Le comédien (1948)

3月21日、春分の日の昼、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集で見ました。
『役者』。英語題は”The Private Life of an Actor”。

Sacha Guitryの父でフランス演劇界の重鎮だったLucien Guitry (1860-1925)の息子Sacha Guitryによる愛と敬意をこめたポートレート。冒頭に父の生前に撮影された動く像が挿入される。立っているだけでかっこよいひと。

最初はLucienの子供時代 - 学校の勉強より演劇の本ばかり読んで、芝居がしたくてたまらないようなので、やがて家族総出でLucienが上演する小屋をやったりするようになり、ロシアでの修業時代を経て大舞台俳優となった彼(演じるのはSacha Guitry)の千秋楽の楽屋を中心に、ここに出入りするいろんな人たちと、それぞれに彼がどんなことを言ったりやったりしたか、を並べていく前半。

まずはいつもいる衣装係のÉlise (Pauline Carton)に、劇場支配人のBloch (Léon Belières)に劇作家のLeclerc (Maurice Teynac)がいて、若い女優のSimonest (Simone Paris)がいて、ベテラン女優のAntoinette (Marguerite Pierry)がいて、大根役者(Robert Seller)には演技指導してあげて、そんなある日、知り合いのMaillard (Jacques Baumer)がやってきて、姪のCatherine (Lana Marconi)が君の芝居を見ているうちに君に恋をしてしまったようなので会ってやってくれないか、というので会ってあげたらやっぱり恋におちて、Blochからこんど舞台でやる新作の女優が見つからない、と言われるとCatherineがやりたい、と言うのでやらせてみたらちょっとダメで、まだやれる、と思っている彼女に、だめだ、そんなに甘いもんじゃない、恋と演劇は別だから、って別れたり。

後半は息子のSachaと父のLucienのふたり - Sacha Guitryの一人二役でふたりの俳優/演劇人によるメタ演劇のようなドラマが進行する。科学者パストゥールの肖像 - Sachaが台本を書いてLucienが主演した舞台 - 1935年にSacha Guitry監督・主演により映画化もされている – をめぐるやりとり、更にはSacha Guitryの書いた戯曲“L'Amour masque” (1923)上演時のやりとりが、老いたLucienが舞台に出られなくなった後も、客席と舞台の間で手紙を使ったりしながら行われていて、それ自体が演劇と映画を横断した「演技」にまつわる/についてのスリリングなドラマになっていて、父が掘り下げていった演劇に対する敬意と、息子がそこを起点として広げてみようとした映画に対する思い(ずっと残るもの、というあたり)の両方が入り混じっていて、考えさせられる。これ、舞台でやるのは難しくて、映画でしかできないやつかも、とか。(1921年の舞台版”Le Comédien”にはこの後半のエピソードはない、って)


Ceux de chez nous (1914)

同じ3月21日、ギトリ特集で、『役者』に続けて見ました。邦題は『祖国の人々』、英語題は”Those of Our Land”。この回のはSold-outしていた。

45分の短編だからか、上映前に坂本安美さんによる20分の解説が付く。この作品の上映はこの特集で3回あったので収録済の動画でも流すのかと思ったらご本人が舞台で直接お話されていて、なんて偉いのかしら、って。(24日の夕方なんて、日仏で『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』の前説もやっていたので、あの後にあの雨のなか渋谷に行ったのかしら?) 以下、解説された内容も含めて。

最初のバージョンは22分、上映されたのは『ナナ』が上演されたパリのヴァリエテ座で、その時はサイレントではなくSacha Guitryと最初の妻のCharlotte Lysesがライブで声を被せていたそう。その時のレコーディング音声は既に失われていて、その後の39年にLucien Guitryの映像と(トーキーになったので)ナレーションが追加されたバージョンが出て、54年にTV放映用にGuitryの家と彼の家にあるアート作品の描写を含む場面とナレーションを追加(このパートの監督はFrédéric Rossif)した44分のバージョンとして再構成された。今回上映されたのはこの54年バージョン。

撮影を始めた頃のSacha Guitryは27歳、俳優としては挫折して、でも劇作家としては成功して、この後どこに行こうか、という時に新たな表現として注目されていた映画と出会い、しかも一次大戦の合間で撮影を再開できる状態だった頃に、フィクションではなくドキュメンタリーとしての可能性に着目した(のってすごいな)。目的はフランスの偉大な芸術家たちの姿を残すこと、そして、ここで被写体となった芸術家たちの、こんな時分によくもまあこんな人たちを、という人選のすごさ。撮られる側は100年以上経って、こんなところでこんなふうに見られるなんて思いもしなかっただろうに。

ロダン、マネ、ルノワール(オーギュストとジャン)、ロスタン、アナトール・フランス、オクターヴ・ミルボー、サン=サーンス、サラ・ベルナール、などなど、彼らが動いたり描いたり喋ったりしている! そこにいる!(声は聞こえないけど)という驚異は上映当時に当時の人々が映し出された彼ら - まだ存命していた - に対して感じたそれと、そんなに変わらない気がする。

『幸運を!』(1935)で、宝くじの山分けを貰ったClaude (Sacha Guitry)が、その勢いで買った小さなルノワールの絵 - 描かれているのは小さなジャン・ルノワール - あれが実際にギトリの所有するルノワールだったことがわかったり。あの絵、どこかで確かに実物を見たような記憶があって、あちこち掘って探しているのだが出てこない。どこにいるの?

1914年に撮られたものを、その40年後、撮られた人々が遺した作品が並ぶ部屋で、改めて紹介する中には↑にも出てきた父Lucienの像も含まれて、そのようにして刻まれた記憶の重箱を、そこから更に70年後にアジアの端っこにいる我々が見るの。

あと、(フィクションだけど)『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』と同じ頃のフランス、というのもおもしろい。アートだけでなく、犯罪にも革新性の兆しのようなものがー。

3.26.2023

[film] Aux deux colombes (1949)

3月20日、月曜日の晩、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集で見ました。
ギトリ作の同名戯曲を映画化したもので、お話しはアパートの一部屋から外に出ない(除.冒頭のとラスト)。邦題は『二羽の鳩』。この辺まで来ると、なにを見てもおかしくて楽しくて止まらない。

冒頭はいつもの撮影所での裏幕 〜 裏方紹介で、今回は役者の仕事を求めてやってきたRobert Sellerがアピールした役柄をぜんぶフラれて、しょんぼり帰ろうとしたぎりぎりのところで使用人の役を貰う。なのに実際の出番ときたら…(この人はいつも使用人役のそういうポジションなの)

Jean-Pierre (Sacha Guitry)はある朝、見知らぬ女性の声で「今日サプライズがあるわよ」っていう謎の電話を受けて、なんだろう? って妻のMarie-Thérèse (Suzanne Dantès)に振ってみるのだが、彼女はそんなの知るかってどうでもいいふうで、このふたりのやりとりからこの夫婦の関係はどちら側からもどうでもよい冷えきったものになっていることがわかる。

Marie-Thérèseが外出してしまった後で、22年前に結婚していて南米で火事にあって死んだとされていたMarie-Jeanne (Marguerite Pierry)が弁護士だという若いChristine公妃 (Lana Marconi)を伴って現れる。電話での「サプライズ」というのはこのことだった。Marie-Jeanneが亡くなった後にJean-Pierreは彼女の妹であるMarie-Thérèseと再婚して20年以上一緒にいて今に至る、と。

Marie-Jeanneは南米ペルーの映画館での火災の後、記憶を失ってしまったためずっと療養院で暮らしていて、そこで受けたショック療法で徐々に記憶を取り戻し、ようやく外に出られるようになったのでここまで来れたのだ、と。Christineとは療養院で知り合って、先日亡くなった叔父の遺産が手に入ったのでこれについて妹にも話さなきゃいけない、と。

彼女はJean-Pierreが自分がいなくなった後に妹Marie-Thérèseと結婚していたことを知らないので、Marie-Thérèseが自分の家であるかのように(自分の家なんだけど)帰ってくると失神してしまう。- 病院帰りのせいかMarie-Jeanneは言動も挙動もところどころネジが外れてておかしくなっていて、そこをChristineがケアしている。

こうして、なんでJean-Pierreは自分が死んでいないのに - ちゃんと確認したの? 遺灰とかみた? - 再婚してんの? しかもよりによって自分の妹と!? っていうMarie-Jeanneと、20年以上なんの音沙汰もなかったあんたにとやかく言われる筋合いないし、というMarie-Thérèseは天地がひっくり返るような大喧嘩を始めて、でも延々続いたその応酬の果てにふたりはひとつのベッドで仲良く寝てしまいましたよ - って女中のAngèle (Pauline Carton)から報告が。

そして、Jean-Pierreの欲望の炎はChristine公妃が入ってきた時から明明白白、お茶の間がJean-Pierre vs. Marie-Thérèse vs. Marie-Jeanneの3者による大審院に変わってしまってからも彼はChristineの目ばかり見つめてご機嫌を取ってばかりでしょうもない。

もちろん重婚疑惑の渦中にあるJean-Pierreからそんなモーションかけられても .. だったのだが3人共互いにどうとも思っていない(勝手に生きれば 〜 勝手に生きます) ことがはっきりすると、にっこりしてJean-Pierreの手をとるの。そんなばかなー、としか言いようがないけどChristine役のLana Marconiさんはギトリの5人目の - そして最後の妻となる女性なので、またあれかー、しかない。

このあと、ふたりの前妻が遺産をつかって二羽の鳩として仲良く一緒に暮らして、Jean-Pierreはお望み通りChristineと一緒になるハッピーエンディングは、リアルストーリーとしては、この数ヶ月後にChristineはたまらず老人から逃げ出して、になるに違いないわって思うのだが、それは同様のエンディングで終わるギトリの他のドラマでもぜんぶそうではないか、と思われる。

そしてこんなドラマの沸点の置き方、というかご都合のありよう - 起こっちゃったこと/好きになっちゃったことはしょうがない、こそ、ギトリが映画によって実現できると信じて組み立てようとした論理というのか倫理といってよいのか、だだの老年男性のファンタジー/欲望たれながしじゃねえのか? なのだが、彼はどこまでもこれが儚く壊れやすい作りものであることに自覚的で、(だからと言ってなあ、はあるけど)しょうがないのかも、って。

あと、聖人暦がぜんぶ頭に入っていてすぐにすらすら出てくる女中のAngèleが相変わらず絶妙で絶好調だった。


日仏学院で3日間に渡って上映された『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』(1914-15) をついにぜんぶ見ることができた。もうなんも思い残すことはないー。

3.24.2023

[film] Eiffel (2021)

3月19日の日曜日、渋谷で”Magic Mike”を見て、三鷹に行って合田佐和子展を見て、夕方に新宿武蔵野館でこれを見ました。 前日に見たギトリの『シャンゼリゼをさかのぼろう』の流れもある。
邦題は『エッフェル塔~創造者の愛~』。 エッフェル塔が入っているから「パリ」は入れなくてもいいのか(嫌味)。

監督はMartin Bourboulon、音楽はそりゃそうだろう、って相変わらず見事なAlexandre Desplat。

エッフェル塔はそもそも大好きで、世代的には東京タワーだろう、と言われてしまうのだが、あれはただの電波塔でそんなには惹かれない(スカイツリー? 論外)。実際に行って昇ってみてほんとにすごいや、って惚れた。

Gustave Eiffel (1832-1923) がどうやってエッフェル塔を作っていったのか、そりゃ知りたいよね、って見始めると「史実をもとに自由に創作」とかいうのでやや不安が。

冒頭、Eiffel (Romain Duris)がほぼ出来上がっているのか塔の上からパリの町を見渡し、疲れているけど晴れ晴れした表情になったところでそこから3年前に遡る。

既に沢山の橋を設計したり、自由の女神の土台部分の設計でアメリカから名誉市民として表彰されたりしていたEiffelは、当初は1889年の万国博覧会の入り口に設置されるモニュメントを作ることには興味がなくて、最初は次にやりたいのはメトロの方だ、って言っていたのだが、他のかっこわるい塔の案とかを貶して、パーティで過去になにかあったらしいAdrienne (Emma Mackey)と目を合わせて、少しづつ変わって火が点いたりしたのか、当初みんなが言っていた200mではなく、300mの塔を建てるぞ、って言っちゃうの。

そこからスケッチを何枚も描いて、コンペに通って、工事をする人たちとやるぞーって気勢をあげて、でも浸水が起こったり、住民や労働者からの風当りも強くなって、こういう社会的にでっかいプロジェクトで起こりそうなことがぜんぶやってくるのだが、ドラマはその合間に今は人妻であるらしいAdrienneと過去なにがあってとにかく再燃してしまった恋がどうなっていくのか、を時間を行ったり来たりしながら追っていく。べつにいいけど、エッフェル塔以外にもいろいろ建てまくっていた彼がそんなことしている時間とか余裕あったの?

彼ってなにごとにも情熱的だから、かもしれないけど、この映画については、建立に伴う技術的な困難とか課題とか、それに起因した実際の事故とか、労使問題とか、文化的な障壁とか軋轢とか描いたらおもしろくなるに決まっているネタがいっぱいあったはずだし、そうじゃなくてもあの斜めにぶっ刺さった土台とか、いろいろあるリベット接合とか装飾とか、てっぺんの方をどう昇りながら建てていったのかとか、経過を見たいとこもいっぱいあったし、Eiffelが図面に向かう場面も、ラフな絵を描き殴っているとことか、”Adrienne”の”A”とか(だけ)って、なめんなー。

そことふたりの恋愛の駆け引きを天秤にかけているように見えて - さらに恋愛 = 彼女を取ったら彼女の夫の記者に塔のプロジェクトのことを悪く書かれてこの先なくなるぞ、ってせこすぎないか? 彼女がどれだけ魅力的だったにしてもさー。


Puss in Boots: The Last Wish (2022)

3月22日、水曜日の晩、Tohoシネマズ六本木で、字幕版を見ました。猫好きだから。

DreamWorksのアニメーション、Shrekシリーズからのスピンオフで、邦題は『長ぐつをはいたネコと9つの命』。 監督は”Kung Fu Panda”シリーズのストーリーなどを作ってきたJoel Crawford。

Puss in Boots (Antonio Banderas)がいつものように酒場などでぶいぶい言わして騒いでいたら突然巨人が襲ってきてそいつを倒したものの、でっかい鐘に押し潰されて病院で目が覚めて、医者から、あんたは9つの命のうち既に8つを使ってしまったので、もう後がない - 引退したほうがよい、って言われて、死神みたいな狼も現れて襲ってきたりしたので、猫ホームに入って余生を送ることにする。

そこにGoldilocks (Florence Pugh)と三匹の親子熊 (Olivia Colman, Ray Winstone, Samson Kayo)が現れて”Big” Jack Horner (John Mulaney)-Boris Johnsonみたい - が持っている願いが叶う魔法の地図 - Wishing Star - を盗む話を持ち掛けてくる。これがあれば失われた命を呼び戻して復活できる! と思ったPussはホームにいた雑種チワワのPerrito the chihuahua (Harvey Guillén)とかKitty Softpaws (Salma Hayek Pinault)と一緒になって、Wishing Star争奪を巡るこの世の果てのどたばたに巻き込まれていくの。

結末は思ったとおり、8つあろうが9つあろうが、たったひとつのこの命があればおいらには十分 〜 不死身なんだよう、って森の石松(森繁の)みたいなとこに落ちて堂々と復活してしまう。これはこれでよいけど、次は『100万回生きたねこ』の方をやってほしいな。

あと、予算のせいかなんなのか、DreamWorksのアニメーション - ”Shrek”や” How to Train Your Dragon” – のトレードマークだった気がする滑らかな動きと線の向こうに広がるでっかいスケールと見晴らしのよさ、みたいなのがなくなって、全体に雑に(よく言えばグラフィック調? 劇画ふう?)になっている気がして、残念だったかも。 雑種チワワの描き方とか、ほんとはキュートに映えておかしくないのに、雑すぎてただの汚れたぽんこつになってて、ちょっとかわいそうだった。

3.23.2023

[film] Magic Mike's Last Dance (2023)

3月19日、日曜日の昼、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
新作をぜんぜん見ていなくて、でも見たいのそんなにないし、でも見ないと消えていっちゃうし、でも時間割が合うのないし、等々を抜けると見れる(見たい)やつはそんなに残っていないの。配信? 春なのに?…

“Magic Mike”ものの3作目。ひとつ前の“Magic Mike XXL” (2015)は見ていない。監督はSteven Soderbergh、脚本は”Magic Mike”もの前2作も手掛けたReid Carolin。

Soderberghといえば、前作の“Kimi” (2022)をLondonに向かう飛行機で途中まで見て、なんとなく悲しくなりそうな気がしたのでやめたのだった。

マイアミで家具屋をやっていたがCovidのパンデミックで破産してしまった”Magic” Mike Lane (Channing Tatum)ももう40歳、野心もなにも枯れてて、でも食べなきゃいけないのでケータリングにくっついたバーテンダーのバイトなどをやっていると、客の女性からあなた以前どこかで会った? - 警察官をしていなかった?(確かにそういうプレイをしていた...)とか声を掛けられる。

パーティの主催者 - ロンドンのお金持ちの妻で離婚係争中のMaxandra – Max (Salma Hayek Pinault)から放課後に呼び出され、彼女のためにスペシャルぐりぐりダンスをしてあげると、あなた気に入ったから一緒にロンドンに来て、と言われる。俺はもう踊らないんだ、とか、ボーイフレンドとしてなら、とか何度も言うのだが、お金沢山貰えそうだからいいか、ってプライベートジェットに乗せられて一カ月滞在することになる(いいなー)。で、着くなりまずその服をなんとかしなさい、ってLiberty(デパート)に連れていかれて、Mikeは値札を見てげろげろ、ってなる(あそこで服は買ったことないわ)のだがいっぱい買ってもらって(いいなー)、メイフェアあたりにあるMaxの邸宅を間借りする。そこにはずっと彼女の傍に侍っている執事のVictor (Ayub Khan Din)とMaxの娘でおしゃまなZadie (Jemelia George)がいる。

Maxに依頼されたのは、彼女が夫から譲り受けた遺跡のように古いシアターでやっている古典コスチューム劇(タイトルは”Isabel Ascende”)をリフォームすることで、登場人物の意識から台詞からなにからなにまで化石で今の女性にはまったくアピールしないので、こいつをなんとかしてくれ、って。

ぜんぜんダンスと関係ないじゃん、とか、でもおれは踊らないからな、とかぶつぶつ言いつつ、町に出て野良ワイルド系の男ダンサーをスカウトしたり、イタリアからMaxが一本釣りしたダンサーとか(あんなにごろごろいるものなのか?)男たちが集まってショーに向けた(台本もなんもないみたいだけど)リハーサルを始める。

こうして学園ものみたいにやれるぞ! って盛りあがって一体感も出てきたところで、彼女の夫の差し金か、市当局が文化遺産でもあるシアターの保護に絡めてストップをかけてきて、一度はご婦人の役人をどうにか丸めこんだ、と思ったのに直前になってやっぱり…

かつてばりばりだったのに今はくたびれて落ちぶれている勇者/ガンマン/ギャンブラー(など)のところに無茶な依頼が来て、依頼主との間にもいろいろあるうちに恋がうまれて、共同作業にもいろいろ妨害とか障害が出てきて絶対絶命.. っていう古典的なプロットの組合せを維持しつつ、女性(たち)のファンタジーとしての男性ストリッパー – “Magic Mike”が本来の役割に立ち戻る、しかもその舞台は、自由でなんでもありのマイアミとは正反対の階級格差や各種しきたりだのマナーだのでがちがちの英国 - ロンドンで、と。

こうして書いてみるとなんだかおもしろそうだし、個人的にはぜんぜん嫌いじゃないのだが、評判があんましよくないのってなんでかしら? って思うと、やっぱり離婚の危機にあるMaxがひとりで勝手に妄想/暴走しているように見えてしまうのと、Mikeがそんなに楽しそうには見えない(もともとそういう奴だけど)あたり、だろうか。もっとヤンキーした、1作目のMatthew McConaugheyみたいな奴を連れてきたほうがよかったのでは、とか。あとは、せっかく”Last Dance”っていうならChanning Tatumにもっと、ぎりぎりまで、彼の「白鳥」を踊らせてやるべきではないか。

VictorとZadieのやりとりは微笑ましくてよかったけど。

あと、やっぱり最後にはMax - Salma Hayek Pinaultにあの高慢ちきな旦那を張り倒してもらいたかったなー。
脚本のせいなのか、Soderberghの隙なくびっちり詰められたいつものかんじが甘めだった気がした。

あと、ロンドンではパンデミック前まで、Leicester Square駅前のカジノ/キャバレーみたいなとこでずっと”Magic Mike”のショーがかかっていたので、そことの折り合いをどうつけるのか、だな。
 

3.22.2023

[film] Désiré (1937)

3月18日、土曜日の午後、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集で見た3本目。上映後に濱口竜介監督のトークつきの。 邦題は『デジレ』。これ、手元の記録によると2016年の6月に日仏学院で見ているらしいのだが、はて… (最近こんなのばっかしで震えている)

ギトリ作の同名戯曲作品を映画化したもの。「デジレ」はギトリが演じる主人公の名前であり、フランス語で「欲望」(の過去分詞形)であり、五線譜に音符で「デ・ジ・レ」って(?)。

物静かなスクリューボール・コメディのようでいて、スクリューする手前ですごいブレーキがかかる、そのクラッシュの予感と余韻に陶然としつつも少し考えてしまう、変てこなrom-com。

女優のOdette Cléry (Jacqueline Delubac)は大臣のFélix Montignac (Jacques Baumer)の愛人で、家には女中のMadeleine (Arletty)と料理人のAdèle Vazavoir (Pauline Carton)と運転手が常駐しているのだが、ここに新しい使用人となるべくぱりっとしたDésiré (Sacha Guitry)がやってくる。当然紹介状もあるので、それをもとに前の雇用主に彼がどんなだったか聞いてみると、ごにょごにょ言うのでどうしよう、ってなるのだが、Désiréも逆ギレしそうな勢いで突っかかってきそうだったのでいいや、って雇うことにして、Odetteが大臣と一緒にドゥ―ビルの別邸に滞在するときにも同行する。

使用人としてのDésiréはどこに行っても力強くて頼もしくて文句のつけようがない(そこがまた癪な)のだが、夜に彼が寝言でOdetteの名前を言いながら悶えているのをMadeleineに聞かれて、OdetteはOdetteでDésiréの名前を呼んでいるのを大臣に聞かれて、本人たちもそれを自覚して全員が目を合わせてはいけないような異様な事態になって接客どころじゃなくなって(おもしろい)。

雇い主と使用人・小間使いの間に頑としてあって絶対に崩してはならない壁については、その「絶対」のありようを巡っていろんなコメディ - “Cluny Brown” (1946)とか、”Downton Abbey”なんかも?- が作られてきて、この作品のおもしろいところは、中心のふたりの恋の強さとか熱さが間にある壁を壊したり穴を開けたりしようとするのではなく、その壁があまりに分厚いので、壁を中心として愛とか欲望のありようが捻じ曲がっていってどうしてくれるのだ(どうしようもないだろ)、っていうの。

例にあげた2作は英国の階級制がベースで、こちらはフランスのだから対照的にあえて、っていうのもあるのだろうか(これが日本に来ると『近松物語』(1954)みたいになるの)、Désiréはご主人様の命令には極めて忠実で、その忠誠心の裏返しというのか捩れというのかで、仕事への情熱の裏なのか表なのか、自身の愛を主人に向けてあんなふうに表出させることしかできないのだと、そしてそれは前の雇い主のところでも起こってしまった、と。でも彼にはどうすることもできないので、どうしたらいいのか教えてほしいものだ、って荷物を纏めて出ていっちゃうの。

これを具体的なアクションのなかに示すのではなく、Désiré - Sacha Guitryのラップのようなとてつもない喋りと共にぶちまけ、彼の言葉とそれをべらべら澱みなく発する彼の身体が画面を、我々の視界を覆ってしまう。これが舞台の上で演じられていたら、彼の言葉は真っ直ぐにこちらに刺さってきて、それはそれでよいと思うのだが、映画になると彼の言葉と欲望はOdette - Jacqueline Delubacにぶつかって、満たされないかわいそうな彼の欲望が行き場を失って、そこに留まって、ドラマとしてこれらが垂れ流されていくのをどうすることもできない。そういう欲望や制度や道徳がぶつかりあう不穏で不条理な事態や状態が世界に曝されてしまうのが映画のおもしろさ、おそろしさであり、ギトリがドラマが始まる前にスタッフから裏方からぜんぶ紹介してこんなですー、ってやるのもそのタネも仕掛けもないことを明らかにしないとほんとに救いがなさすぎることになってしまうからではないか。

上映後の濱口竜介監督のトークを聞いていてそんなようなことを考えていたの。
あとは、欲望と道徳のせめぎ合うところに生まれる倫理(ロメールいうところの格言?)の話とか。いまの邦画の気持ち悪さの根っこってこの辺にあるのではないか、とか。 ギトリの新しさ、現代に繋がっているかんじもこの辺か。 あとはギトリの喋りの息継ぎの驚異、とか。

とにかく、まだまだ見ないとだめだわ、ってなるのがやばい。

 

3.21.2023

[film] Remontons les Champs-Élysées (1938)

3月18日の土曜日、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集で『幸運を!』に続けて見ました。

邦題は『シャンゼリゼをさかのぼろう』。英語題は”Let's Go Up the Champs-Élysées”。
共同監督としてRobert Bibalの名前がある(けど現場ではこのひとだれ? 状態だったとか)。

シャンゼリゼを遡ってフランスの歴史をおさらいする、かに見えて自分の先祖と系図について語ってしまう歴史捏造もの - フランスの歴史よく知らなくたっておもしろすぎる。こんなことやっちゃってもいいんだ。

学校の老先生(Sacha Guitry)がやかましいガキどもを黙らせようと面倒なだけのてきとーな計算式を解かせようとしたところ、壁のカレンダーでその日が9月15日であることに気づいて、諸君、シャンゼリゼを知っているか? あのフランスを作ってきた一本道を! とかなんとか演説のような講義をはじめる。

時は1617年、森とか林ばかりで狩猟場だったあたりに一本道を通せとマリー・ドゥ・メディシス(Germaine Dermoz)が命じて、ルイ15世(Sacha Guitry)の時代に大通りになる。ルイ15世の友ショーブラン侯爵(Lucien Baroux)が拾ってきた女占い師(Jacqueline Delubac)によれば、王はショーブランの死後、きっかり半年後に亡くなる、というのでショーブランの健康状態はずっと医師団に監視されることになり、自分の死期を知ってしまった王は好き勝手にやるよ、ってお忍びで16歳の愛人リゼット(Lisette Lanvin)のところに通うようになり、それを嫉妬したポンパドゥール夫人(Jeanne Boitel)が王に愛人を献上すべく指名してしまったのがまさか再びのリゼットで、こうしてふたりの間にできたリュドヴィク(Jean Davy)にはシャンゼリゼの土地が与えられ、王はショーブランがなくなって半年後、64歳の9月15日、天然痘で誰も近くに寄ってくれない状態でしょんぼりと世を去る。

ここでもう一度カメラは学校の老先生のところに戻って、自分こそがルイ15世〜リュドヴィクの血をひく子孫で、ここから先にぶら下がる男たちは誰もが64歳になった9月15日に亡くなっているのだ! って言うのだが、子供たちからすれば、だからどうしろっていうのおじいちゃん? だと思う。でも彼の名調子は止まらなくて、この後もマリーアントワネットとかナポレオンとか、特にリュドヴィクの息子のジャン=ルイ(Sacha Guitry)はナポレオンの隠し子のレオニ(Josseline Gaël)と結婚したので自分はナポレオンの血もひいているのだ、とか、孤独な散歩者であるジャン=ジャック・ルソーが庭園の図面を持ってきたり、演奏の場を求めてリヒャルト・ワグナーが自作を指揮しにきたりとか、とにかくシャンゼリゼをいろんな人達がざわざわ行き来して好き勝手にやっていくの。

彼のひとり語り、彼 - Sacha Guitryがひとりで五役も演じ分けながら語り倒そうとしたシャンゼリゼの、パリの、フランスの歴史とは! ででん! っていうのが稀代の弁士の曲芸のような名調子で一気に300年を駆け抜けていって、そこには策謀も身贔屓も裏切りもフェイクも捏造もなんでもありのてんこ盛りなのだが、ちっとも変で嫌なかんじがしないのは、まっすぐに伸びたシャンゼリゼの一本道のありえないまっすぐさを演劇的に(嘘八百こみで)語って動かす(ところどころWes Andersonぽく見えたり)、その快楽と欲望に身を委ねて酔っ払っているからで、それは彼が女性を舐めまわすように褒めて撫でて口説いていくその手口と同じだからかもしれない。(国粋バカが万歳して崇める手口とは根本からちがう)

つまりシャンゼリゼって、小股の切れ上がった女性のまっすぐに伸びた背筋みたいなもんで、何度訪れてもいつなんどきにさかのぼっても気持ちよいのだから、みんな街に出ようよ、アイスクリームもおいしいよ! って誘う。

あと、今日同じ特集で、彼のドキュメンタリー - 『祖国の人々』(1914)を見て、すばらしかったので後で書くかも知れないけど、ギトリにとって興味があるのは、史実とか出来事ではなく、あくまでひとりひとりの「人」だったのだなー、って。

大河ドラマもこんなふうだったら少しは見る気が起こるってもん、なのになー。
 

3.20.2023

[film] Bonne chance! (1935)

3月18日、土曜日の昼、シネマヴェーラのサッシャ・ギトリ特集『知られざるサッシャ・ギトリの世界へ Bonjour, monsieur Sacha Guitry』で見ました。この特集、初日の3/11から出遅れて、3/13に『とらんぷ譚』は見たりしたのだが、こっちの方は(も)文句なしのおもしろさだった。ギトリはやばい(今更)。

邦題は『幸運を!』。英語題は” Good Luck”。 のちにGinger Rogers & Ronald Colmanのコンビで"Lucky Partners" (1940) - 『ラッキー・パートナー』としてリメイクされているそう。
監督としてはもうひとり、Fernand Riversの名前がクレジットされている。ギトリが最初に映画用のオリジナル脚本として書いた作品。

画家をしているらしいClaude (Sacha Guitry)がいて、近所の洗濯屋の娘Marie (Jacqueline Delubac)のことが気になっていて、頼まれた肖像画を描いている間も隅っこに彼女の顔を描いたりしている。彼が彼女に「幸運を!」って声を掛けたら、彼女が洗濯物を届けに行った先でご褒美のチップを貰ったのでそれで宝くじを買ってみる。買いに行ったら最後の1枚だったのでこれもラッキー! だし、Claudeにはもしこれが当たったらふたりで山分けしましょう!っていう。

これはラッキーついでなのかわかんないけど、近所のProsper (André Numès Fils)がMarieに、僕はもう戦地に赴くので13日後に戻ってきたらMarieの生まれたフォンテナック市で結婚しないか、ってプロポーズしてきて、Marieのママ(Pauline Carton)からはあんたにもうそんな機会なんてそうはないだろうし、Claudeはずっと年上だし、って言うので戦争に行っちゃう彼にとってもよいことなのかも、って思って軽くOKしてしまうの。

そしたらその晩、Marieの買った宝くじが200万(今のお金でいくらかしら?)の大当たりを出して、約束したからって100万をClaudeに渡すと、Marieが婚約したのはわかるけど奴が戻ってくる前にこれをふたりで使っちゃおうぜ – ってClaudeはワルっぽくいろいろ企んで、でっかい車を買ったり、前から狙っていたルノワールの絵を買ったり(おいおい)、豪勢なランチを食べてフォンテナックに向かうと、市にすごい金額を寄付をしたので賓客になっていて鼓笛隊にパレードまでしてくれて、13日後の式の手配をして、そこからエジプトに渡ってモナコに戻ってきて、再びフォンテナックに戻る。

こんなふうにお金はいくらでも(半ばやけくそで)使ってしまえるので好き勝手のやりたい放題にやっていく一方で、Marieはもうじき別のやつと結婚することになっているのだから、という線は守ろうとして、でもその葛藤のせいかホテルとかモナコのカジノではがたがたになったりして、でも..  

ふたりにはどこまでも「幸運を!」に込められた呪いのような幸運が付いてまわって、それはふたりが互いのことを好きだからと思っていたのだが、それだけじゃない、というかそこから滲みだしてくるのか、偶然とは思えない不自然さに旅をしながら気づいていくのと、やはり、そうであるとしたらふたりは一緒になるしかないんじゃないか、って絞めつけられていくところがたまんないの。なんで一緒になれないのか? 婚約が決まっているのだし年齢が離れすぎているし、でもそれって本当の理由になるのか? 好きになっちゃったのならしょうがないんじゃないか? この辺の粋な問いの立て方が車や船やバクチであれこれぶっ飛びつつ、結婚することはできないんだ、でも、だけど、やっぱり、ってぶつぶつぱたぱたと欲望の炎の上で栗みたいに爆ぜていくおもしろさとスリルと。

あー、反対側でMarieに強引に婚約を迫ったProsperの13日間もそれなりにおもしろいものなのだった。「幸運を!」は誰一人として不幸にすることはなくて、この辺はなんか神様がいるかのような。

こんなふうに時間と場所と相手を都度取り替えたり参照したりぶつけたりヒビを加えたりしながら2人の距離を縮めていくrom-comって、やっぱり映画の方が得意で、演劇だと状況に縛られてしまうようなー。

Sacha GuitryとJacqueline Delubacの息の合ったとこ - Jacqueline Delubacは5回結婚したGuitryの3番目の妻となった人なので当然かも - だけどそれにしてもあんたたち。しかしGuitryって、2回目の結婚以降はずっと別れてから約3カ月で次のひとと結婚しちゃうのな。これならあんな物語だって書いちゃうよね。

あと、ギトリとルビッチだと、ギトリの方が7つも年上なのが意外だった。ルビッチのコメディの方がよりクラシックな気がして、ギトリのってモダンなかんじがして。 どっちもすけべで変態だけど、ギトリの変態性は露出狂のそれで、ルビッチは露出させて喜ぶ方のかな、とか。

というわけでしばらくギトリ続くかも。

3.19.2023

[film] エリ・エリ・レマ・サバクタニ (2005)

3月17日、金曜日の晩、恵比寿のガーデンだかユナイテッドだかなんでもいいやシネマ、で見ました。

青山真治 一周忌企画で、1週間限定DCP特別上映、だそうなので、こんなの初日に見にいく。しかし1年なんてあっというま、よね。

東京FM開局35周年記念作品で、カンヌの「ある視点」部門に出品された。英語題は”My God, My God, Why Hast Thou Forsaken Me?” 冒頭の、ランブルフィッシュのアニメとか、あったなー、になる。

舞台は2015年。 311の津波/原発事故とCovidによるパンデミックのほぼ中間地点、というのがおもしろい。いや、おもしろくはないし、それがどうしたなのだが、ここに映しだされる海の、海沿いの景色、ヒトが消えてしまった道路や原野は、約10年を隔てて起こったふたつの災禍を思い起こさせないわけがないの。そして、これらが政治が引き起こした人災であるというところも (こんなのは言うまでもないか)。

はじめに海、すばらしい海が正面にあって、手前の砂のうねうねの向こうからガスマスクをしたふたりの男 - 浅野忠信と中原昌也 - が現れて、風で朽ちて打ち捨てられ死体とハエでいっぱいの小屋から目ぼしいもの(なにが目ぼしいのかは不明)を拾って、廃校と思われる建物に持ち帰って音を出したりしている。

これと並行して、探偵らしい男(鶴見辰吾)と富豪らしい老人(筒井康隆)と彼らに守られているらしい黒ずくめの少女(宮崎あおい)が、金に糸目は/手段を選ばぬ方式で何か/誰かを探しているらしい。

ラジオのバカみたいなDJの喋り - 岡田茉莉子さまはバカすぎる、って消そうとするが中原昌也はバカだからいいんじゃないですか、と返す - によって、レミング病と呼ばれる原因不明/治療不可の奇病によって人々がばたばた自殺していて、その規模は都市部で数百万人、であることが明かされる。

上の二組 - 計5名が岡田茉莉子さまが道路脇で営む喫茶店でぶつかって、かつて伝説のユニットを組んでいた浅野忠信と中原昌也の出す音に病の治癒効果があるらしいのでお嬢様をなんとかしてやってくれないか金ならいくらでも、って持ちかけるのだが、中原くんが音楽が療すんじゃないよウィルスが音楽を好物にしてて食べるんだ、と言い残して出て行ったきりー。

この先は誰がどう納得したのか確信をもったのか、その結果なにがどうなったのか誰にもどうにもはっきりしない。 お葬式で中原くんを焼いたあと、浅野くんがひとり原っぱで轟音のギターを引っ掻きまわして海に向かって轟かせ(あのアンプは彼ひとりで運んで積んだのか。電源は?)、目隠しをされた宮崎あおいがそのノイズの焦点に立ってその放射を独占して浴びまくってぱたりと倒れ、霊となった中原くんがジェダイのようにそれを笑ってみている。ウィルスはノイズをたらふく呑みこんで霧消したのか散ったのか、そんなの神にだってわかるわけないし。

ただ、みんな幸せに一緒に暮らしました、にはならなくて、みんなひとりひとりになったところに雪がはらはらと。(悶絶)

原野のギター洪水のところと、宮崎あおいがひとり食堂のテーブルに向かうとこ、ラストの雪のとこ、Nancy Sinatraの”The End” (1966) - 恋の物語の終わりには終わりがないの、って歌う - が流れるところだけは、あと500回くらい見てもいい、それくらいこの映画は好物なのだもっとくれ。と、自分のなかのウィルスはいう。

“EUREKA” (2001) のように「生きろとは言わん、でも死なんでくれ」すらも言えなくなってしまった世界の終わりに雪が降ってきて、人は窓の奥にそっと消えるの。

でも、男たちが女の子を守って運んで治療して、女性は守られたりシチューを作ったり飛び降り自殺したり、極めて伝統的な性役割期待の上に乗っかったお話しだったりするとこ、聖書がそんなだからしょうがないのかもしれんが、それらをドライブするのはただのノイズである、ということ。

あと、物語の主人公は神々しすぎて得体のしれない浅野忠信ではなくて、なにもかも最悪だくそったれ、をその態度と共に(映画の終わったあとも)言い続ける中原昌也だと思うので、早く回復してくれることを祈る。

この映画を見たあとで、野球とかお花見とかはしゃぐ世界はあたまおかしい - レミング病はまだなくなっていないのね。

3.18.2023

[film] The Fabelmans (2022)

3月16日、木曜日の晩、Tohoシネマズの新宿で見ました。
ほんとは、公開直後に見たいやつだったのだが、ロンドンに行ったり大乗寺に行ったりして週末がなくなっていてー。

監督はSteven Spielberg、脚本はSteven SpielbergとTony Kushnerの共同による、監督自身と家族をモデルにしたcoming-of-ageドラマ。撮影はJanusz Kamiński、音楽はJohn Williamsなど。オスカーにいっぱいノミネートされたけどなんと無冠に終わった。

こないだの”Babylon” - “Empire of Light”に続く、昔の映画 or 映画史に寄ってじーんとするシリーズの、たぶん本丸、だと思って臨んだのだが、そんなに映画万歳!にもなってなくて、そこが却ってSpielbergらしいかも、って思った。Spielberg作品のなかではすごく好きなほう。

1952年、ニュージャージーで、家族と一緒に満員のシアターで両親のMitzi (Michelle Williams)とBurt (Paul Dano)と一緒にCecil B. DeMilleの”The Greatest Show on Earth”を見ようとしている(いいなー)Sammy がいて、ぜんぶでっかいのは怖いよ、という彼にBurtは映画の原理を説明して心配いらないから(なにが?)、という。

でもやはり、映画の列車と自動車が正面衝突して吹き飛んでしまうシーンはSammyにとって衝撃で、脳裏に残るそれを再現すべく取り憑かれたようになってしまったので、親は彼に8mmのカメラを与えて、彼は家族のあれこれも含めてカメラを回していくようになる。

ユダヤ系のSammy (Gabriel LaBelle)の家族の団欒の席にはおばあちゃんと3人の姉妹の他に血縁ではないらしいのだが父の部下で気のいいBennieおじさん (Seth Rogen)がなぜかいつもいる。

1957年、RCAからGEに転職した父に伴ってアリゾナに家族は越して、その一団にはなぜかBennieも入っているのだが、べつに誰も気にしていなくて、そこで元コンサートピアニストだったMitziはピアノを弾いて、自然を楽しんで、Sammyは家族以外に学校の仲間たちとも映画を撮るようになり、充実した幸せな時間を過ごす。

やがておばあちゃんが亡くなり、彼女の弟だというBorisおじさん (Judd Hirsch)が現れ、サーカスでライオンの調教をしてサイレント時代の映画に関わっていたらしい彼の、アートはお前と家族の間のいろんなものを引き裂くことになるだろう覚悟しろ、っていう言葉はSammyに強烈な印象を残す。(これと、映画はただのホビーだろ? と父に言われた時の違和感も)

母を亡くして落ち込んでいるMitzi を元気づけるようなフィルムを編集してくれないか、とBurtに頼まれたSammyは、撮り溜めていた家族の映像の編集を始めて、そこの隅に映っていたMitziとBennieおじさんの見てはいけないっぽい親密そうな絵を発見して…

そして一家はGEからIBMに転職した父に連れられて北カリフォルニアのサラトガに引っ越すのだが、そこにはもうBennieおじさんの姿はなく、そこの高校に通い始めたSammyにはユダヤ人虐めとかキリストに恋するMonica (Chloe East)との恋とか、プロムとか新たな試練がー。

プロムではDitch Dayのビーチで撮影したフィルムを上映した時の虐めっ子 (Sam Rechner) の反応が興味深かった。そいつからなんであんなに俺のことを神々しく撮るんだ? って怒られて、更にMonicaには結婚しよう、ってプロポーズしてふられるの。ここでの渦巻きが突出していて、ああプロムおそろしや、って。

こんな具合にエピソードてんこ盛りで2時間半あっという間なのだが、最後は仕事を貰うべくいろんなとこに手紙を出してもまったく相手にされなくて、ようやくTVの仕事を貰えそうになっているSammyが突然怪人のようなJohn Ford (David Lynch)に会うことができて、地平線を追うのだ、って教えて貰って、嬉しくてスキップしていくSammyの後ろ姿で終わるの。

でも、この映画、自分にとってはなんといってもMitzi - Michelle Williamsだった。笑う彼女、皿を洗わない彼女、爪を切らない彼女、くるくる踊る彼女、泣く彼女、鬱でおかしくなってSeth Rogenの元に走る - “Take This Waltz” (2011)の逆をやる - 彼女。 映画が彼女を家から出ていかせて、FabelmansをFabelmansたらしめる。

まあるくなったPaul Danoもいいよねえ。それでも彼特有の、ああ.. ああいったいどうしたことだ.. っていう、打ちのめされて途方にくれた表情を見ることができるのがたまんない。

ユダヤ人家族の子の成長を追う物語、という点では、場所も年代も違うけど、“Armageddon Time” (2022)と見比べてみるのもおもしろいかも。


Twitterのアカウントを消しました。 これまで映画を見る前にタイトルをポストしとくのと、猫や動物の動画をLikeで集めるくらいしかやっていなかったし、情報収集のツールとして助かるとこもあったけど、いまのあそこはあまりにToxicで心と体によくない。あれに費やす時間があったらもっと本を読んだりお片付けしたりしよう、と思ったの。

3.17.2023

[film] EEAAO (2022)

3月8日、水曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。”Everything Everywhere All at Once”。

この作品については昨年の6月にA24のScreening Roomで見た後にここに感想を書いて、その後9月に米国に行く飛行機のなかで見て、こないだ英国に行く飛行機内でも見て、でも画面にはごちゃごちゃいろんなのが詰めこまれているので大きなスクリーンで見たほうがよいと思っていたのと、この翌週にオスカーをいっぱい獲りそうなのでその前に、というのもあった。

オスカーについては、まさかあんなにいっぱい獲るとは思っていなかった。オスカーそのものは太古から別にどうでもよくて、受賞が引っぱりあげる個々の映画の評価はまったく別ものだと思うので、獲ろうが獲るまいがー、なのだが、これによって業界のお金のかけ方とか風向きが変わることは確かなので(こういう影響力のありようがそもそもおかしい、のはずっと言われているしそうだと思うけど変わんないよね..)、旧来型のハリウッド大作ドラマとは程遠い、小賢しそうなオタク系(偏見です)がパンデミックのなか手作り感満載で編みあげたこういう小品(だと思う。テーマやスケールは別として)が受賞したのはインパクト小さくないと思う。

あと、(おそらく)今回の件を受けてのPaul Schraderによるアカデミーはアメリカを中心とした映画賞に回帰すべき、というのもわかるけど、わかるけど、そんなことを言っても、になるかなー。

あと、日本の公開が本国公開から(おそらくオスカーを見越して)1年以上遅れた –くだんないタイトル省略とかのプロモーションを嬉々としてやっている件については、いつもながら吐き気しかない。こういうのがないバースにジャンプしたい。

映画として、そんなに悪いものではないと思うし、Michelle YeohもKe Huy QuanもJames Hongも大好きなので、おめでとう! なのだが、すごく好きな作品かというとどうも微妙で、受賞に伴う熱狂にもついていけないかんじがあって、それってなんなのか、どのへんなのか、を改めてメモとして書いておきたい。これ、たぶん2年くらい経つとあまり思いだしたくないゾーンに移行して、10年20年経ってそういえば、って再評価される、そういう奴なのではないか。

アメリカ西海岸に移民として渡ってきたアジア人家族のお話。ここにIRSの役人による偏見、レズビアンへの偏見、外見(デカ鼻)への偏見、家父長制(特に親から)の縛り、疲弊する仕事、疲弊する夫婦関係、などなどが年に一度の確定申告の(ぜんぶ総括する)タイミングで一挙に降りかかってきて、もういいかげんにして! って天を仰いだところでアルファ・バースからよくわかんない救い - 向こうからバース・ジャンプっていうのでいまの自分にはないスキルとか特技をもった別の自分が憑りついて、なん溶かしてくれる、という。

これがよくある「自分探し」の話だったらつまんないものになったと思うのだが、それとはちょっと違って、「自分」とはありとあらゆるところにいる全部だったー、という。

でも、さて、別のバースで生きている自分て、「自分」なのか? 自分なのだとしたら何をもってそれは「自分」と同定されるのか? とかその辺。本当はこうあってほしかった/ひょっとしたらこうなっていたかもしれない自分って、ヒーローに変身するやつでよくあるけど、それとどう違うのか。変身するときには突拍子もない変なことをするように求められるけど、その突拍子もないこと、ってその社会の規範のなかでの「突拍子のなさ」だとおもうがそこは誰が判定するのか、とかいろいろ。

その辺が面倒なので、これまでは別次元からHoward the Duckみたいのを呼び寄せるとか、Hulkみたいに薬物で化けるか、Ant Manみたいにスーツで変わるか、のような手を使ってきたのだと思う。 あと、たぶんここには自分を変える/救うことができるのは自分だけ、のようなメッセージもあって、でもこれをやると、映画のテーマの真ん中にもあった家(親)との確執問題が不可避になるのと、偏見や差別で弱い立場に立たされていて自分ひとりではどうすることもできない人たちの問題が逸らされてしまうことにならないか。

もちろんこれはコメディなので、そこら辺をぜーんぶまるめてーべーぐるー、ってやって、確定申告の危機を乗り越えたところで朗らかに終わってしまうし、家族もみんなが解りあえているわけでもない状態でとりあえず親は子供に謝ってみたりするのだが、こんなジャンプができることを知ってしまった後、彼らの世界はこれまでのものとは違ってしまっているはず。ここのバースはやってられないのであっちに行こう、とか移民状態が加速していくのでは。というか苦難の最中にあるヨーロッパの移民からすれば冗談じゃない話よね。そして実際にはこれらも含めたこの世界のありよう(に対する認識)がなんとなく丸くおさめられてしまうだけなのでは。

ベーグルの全部のせ、というとマンハッタンのアッパーウェスト(Broadway & 80th – もうここにはないけど)にあったH&H Baglesので、店頭であつあつのを買って”Everything”をぼろぼろこぼしながら頬ばるのが大好きだったなー。

あと、Evelynは世代的にはもろパンク(カーディガン参照)で、JoyはたぶんMillennialsで、その辺を考慮しておくと面白いかも。なんで彼女がランドリーでカラオケ大会をやろうと思ったのか、とか。西海岸パンクかな?

まだまだくだんないこといっぱい書けるわ。案外好きなのかも。


どうでもよいけど、E.ゴッフマンの『行為と演技』が新訳で文庫になるって。すごーい。長生きはするもんじゃのうー

3.16.2023

[film] Et la lumière fut (1989)

3月7日、火曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町のイオセリアーニ特集で見ました。
邦題は『そして光ありき』、英語題は”And Then There Was Light”。(トラックは出てくるけどダブルデッカーバスではなくて、that never goes out.. にはならず)

ヴェネツィア国際映画祭で特別審査員賞を受賞している。フランス・ドイツ・イタリアの共同制作。

舞台はセネガルらしいのだが、アフリカの奥のほう、冒頭、大きな木をめりめり切り倒していて、車に乗り込んだ伐採業者が雑誌の束を捨てていく。そこからしばらくすると、ジャングルの奥のほうで、首のない身体が転がっていて、お祈りをしながら傍らに転がっていた首をくっつけてその繋ぎ目をなでなでするとあーらびっくり、生き返りましたー、って。切り倒された木は倒れてしまうが、人の首はくっつければ立ちあがるのよ - ほら、とか。

画面上に出てくるのはディオラ族、実際に存在する方々らしいのだが勿論画面上にそれは明記されないし、どんな文化を持った人たちなのかも説明されないし、彼らに「ディオラ族のひと!」って呼びかけることもないし自分達で名乗ることもない。 彼らが言いあう言葉は翻訳されずにそのやりとりの大凡が(たまに)サイレント映画のように別字幕で表示される(言葉によるやりとりはそんな重要ではなさそうなかんじ)。言葉の扱いがそんななので彼らに無理に演技をさせていることもなさそう。

最初は牧歌的な彼らの生活 - 女性が弓で狩りをして、ワニに乗って移動して、男性は洗濯をしたりごろごろ寝てばかりだったり、それに愛想をつかして出ていく女性(と子供たち)がいたり、でも旦那は変わらずごろ助だったり、風とか雨を操る祈祷師の女性がいたり、これらの村の日々の風景が、それがなにか? のような平熱の距離感で描かれて、それがどうした、なのだが、そこにだんだんに冒頭の雑誌が回覧されていったりとか、伐採する車が入り込んできて樹が切られていくと洪水が起こってここはもう住めないから移住するか、になって、そうやって集団で移動していくと前に出て行った女性が着飾ってなにさあんた、だったりー。

森林破壊とか文明化に対する批判とか、固有文化の世俗化や忘却に対する批判とか懸念とか、あるいはその逆でそれらを受け容れたり促したり、そういうトーンはあまり感じられなくて、人々は自分達の行きたい方に寄っていくのだし歩いていくのだし、それを止められるものではない、ので好きに勝手にすればー、となるとこれはいつものイオセリアーニだねえ、としか言いようがない。

切り離された首がくっついたところで、これはアピチャッポン・ウィーラセタクンみたいな、制御しようのない不穏で変てこな異界のあれこれが勝手に憑りついたり映りこんでしまうあれなのか、とか、歩いていくとなにかにぶつかってずるずるくっついたり離れたりの玉突きや粘着が起こるのはホン・サンスなのか、とか思うのだったが、そんなアジア的な湿度とか偏在する人肌のかんじはない気がして、やはり人と人はヨーロッパ的に衝突して気に入ればそっちにいくし、気に入らなければぶん殴ったりスキップしてさようならだったりの、ケセラセラの世界で、しかもおまけにキリスト教ぽく『そして光ありき』なんて言ってしまう。アジアだと「とにかく光はずっとあるで(知らんけど)」になるのか。

3月9日には短編集から”Euzkadi été 1982” (1983) -『エウスカディ、1982年夏』なども見ているのだが、バスクの人々やその歌や牛などを扱うその目線とセネガルの人たちに対するそれ – 自分にとっての異文化に対する(異なるものをそれと認知する)目線 – って同じような距離があるのを感じた。よくわかんないのでとりあえずカメラを回しておくとか、その程度のもの – よくもわるくもてきとー な触れない距離感があるのと、それをもたらしたのは彼にとってのジョージアがそんなふうな手の届かないところにあった、という哀しみの裏側、なのではないか。

あとは、女性たち、女性たちだけが、そのスタイルも含めてすばらしくかっこよい。

3.15.2023

[theatre] Romeo and Julie

英国滞在中いっこくらいは演劇も見たい、ということで3月3日の晩、National TheatreのなかのDorfman Theatreで見ました。 ウェールズのSherman Theatreとの共同制作作品。

この作品か(Longpigs~Pulpにいた)Richard Hawleyが楽曲を担当したシェフィールドの若者ミュージカル “Standing at the Sky's Edge”にするか迷ったのだがこっちにした。

National Theatre周辺は、隣のBFIも含めて何事もなかったかのようにかつての賑わいが復活していた。シアターの上演前の賑わい、懐かしいし嬉しいけどマスクしないとやはりちょっと不安が。

原作はGary Owen、演出はRachel O’Riordan、舞台はウェールズ。
18歳のRomeo (Callum Scott Howells)はアル中の母親Barb (Catrin Aaron)と一緒に乳母車にのった赤ん坊の世話をしていて、べたべたのオムツにうぇーってなっているが失業中のシングルファーザーなのでなんもいえないしできないし。

Julie (Rosie Sheehy)は天文物理学者になるべくケンブリッジに通っているよいこなのだが、よりによってRomeoと恋に落ちて、自分の将来とRomeoと一緒になる未来を天秤ではかることになり、彼女の親はケンブリッジに決まっているだろう、こんなよい機会を逃すな知らんぞ、って。

舞台はシンプルでフラットな黒で、ぐねぐねに曲がりくねるネオンが巣のように頭上を覆っていて、場面転換時にはやかましいエレクトロみたいのが雷のように降り注ぐ。

シェイクスピアの若者の悲劇と比べると随分軽め、というか労働者階級から抜けられない彼と、そこから抜け出す可能性を掴みかけながらも足を引っ張られ(という言い方でよいのかも含めて)悩む彼と彼女のそれぞれの「家」や階級に絡めとられる流れは同じでも、それが怒涛の悲劇にぶち込まれたり巻き込まれたりすることはなく、ラストはちょっとだけほっとする。勿論、それを甘いとか違うんじゃないか、というのは簡単だしそうかもー、って思うのだが、そういうのも含めて、たぶんこれが今の若者、ということでよいのではないか。(ってなっちゃうのはどうか)


Arcadia (2017) Live : Will Gregory + Adrian Utley

英国滞在中いっこくらいはライブも行きたい、と3月4日の晩、Alice Neelの展覧会を見たあと、Barbican Hallで見ました。 滞在中の他のライブだとDry Cleaningなどもあったのだが、昨年LAで見たし、と。ずっとSold outしていたが直前になるとぽつぽつキャンセルがでるのでそれを釣った(昔とおなじ)。

ただちゃんとしたライブ、というよりは映画上映の伴奏としてライブ演奏をくっつけたもの。
元の映画のサウンドトラックを担当していたPortisheadのAdrian UtleyとPotisheadのライブにも参加していたGoldfrappのWill Gregoryを中心に、フォークシンガーのLisa KnappとオペラもやっているVictoria Oruwariのふたりの女性ボーカル、他に指揮者を含む5名の弦楽奏者、計9名の楽団がステージ上に。(上映開始後に指揮者のヘッドセットに音が行っていなくて、最初からやり直し、になっておもしろかった)

映画のArcadia (2017)の方はPaul Wright監督によるセミ・ドキュメンタリーのような作品(78分)で、これまで見たことなかった。 BFIやPatheが持っている膨大な量のアーカイブやニュース映像(BFI Playerでも無料で見ることができるけど、すごい量でいろんなのがあるので見始めると止まらなくなる)などを切り貼りして、英国の田園風景、自然に動物、農村生活から都市化まで、我々でもイメージできる「古き良き英国」の不気味で怖そうなところも含めて、「Arcadia - 理想郷とは?」 の周辺をコラージュしていく。これが当時のBrexitに抗する(or 乗っかる)ものだったのかは不明だが、ノスタルジアと茫洋とした怖れの両方を渦巻きで喚起していくところがあって、よくない夢に半端にずるずる落ちていく感覚が怖いなよいなーって思っているととんでもない睡魔などがー。

ここでライブ演奏された音が元のトラックとどれくらい違うのか同じなのかが不明で、ライブ演奏による効果などについては上映後に監督も交えて話しましょう、ということだったのだが、お食事の予定があったのでそちらは不参加となった。


【今回買った主な本とか】

- Cezanne展図録
- Raphael展図録
- M.K. Čiurlionis: Between Worlds展図録
- A Revolution on Canvas:  The Rise of Women Artists in Britain and France, 1760-1830
- Alec Soth : Gathered Leaves Annotated (サイン本) - 紙がすてき..
- Celine Marchbank : A Stranger in my Mother’s Kitchen  - ひとめぼれ
- Brian Ferry詩集(サイン本)- 問答無用
- CONFORM TO DEFORM: The Weird and Wonderful World of Some Bizzare(サイン本)
- Dreamworld: The Fabulous Life of Daniel Treacy and his Band Television Personalities(photozine付き)

ここまでで結構、じゅうぶん重くなる気がして、がらがらに詰めた後の重量が心配だったのだが、思ったほどではなかった。これならもっと買うんだったわ。

古本は、なんとか我慢した。
レコードで買ったのはThe Theの新しい7inchだけ。12inchもCDも買わなかった。 Rough Trade Eastのレイアウトが変わって小綺麗になっていて、なんか調子が狂ったのかも。

[art] Very Private? - 他

3月3日以降の美術館・アート関係の続きを。

Very Private?

TateのCezanne展と並んで今回の英国行きのもういっこの目的はイースト・サセックスにあるCharleston Farmhouseを再訪することだった。前回来たのは2019年の8月。丁度3/2にThe Royal Balletの”Woolf Works”のリバイバルが始まって、こちらも再見したかったのだが、この日Alessandra Ferriさまは出られていないようだったのでやめたの。

朝早くにVictoriaの駅のM&S Simply FoodでサンドイッチとストロベリーシェイクとRed Leicesterのチーズを買って、Lewesに向かう列車内で食べる。あのぼそぼそのパンですらたまんなく愛しくおいしい。

前回の8月と比べるとはっきりと凍える寒さで人もいなくて(原っぱには雉がいた)、10時のオープンまでゆっくり池とか回るが近所にはなんもない。改めてよくこんなところにー。

Vanessa BellとDuncan Grantと子供たちの住処、Bloomsbury Groupの夏の拠点に併設されているギャラリーで昨年から公開されているDuncan Grantのドローイング – 1940-50年代に描かれた40数点を束ねたフォルダが友人たちの間でプライベートに手渡し保管されてきたものが2020年、Charlestonに寄贈されたのを機に今回初めて一般に(Rated R?)公開された、と。

展示はDuncan Grantによる件のドローイングだけでなく、他に6人のアーティスト - Somaya Critchlow, Harold Offeh, Kadie Salmon, Tim Walker, Alison Wilding, Ajamu Xによる作品も並べて展示されている。

この作品たちが公開されてこなかったのは”Very Private”だから、というだけでなく、作成当時、同性愛は違法で逮捕されてしまう可能性があったからで、ここに”?” が付いているのはそこまでプライベートに守らなければならなかったほど際どいもの? というのと、なんでこんなのが違法になっちゃうのさ? というのの両面の問いがある。

実際の画として見た印象だけだと、Tateなどで見ることのできるDuncan Grantの大判の絵のB面のような印象で、その素朴さも含めて今であればこんなのごく普通だよねー、と思うとその周りに現代のアーティスト6人によるよりむきむきした表現のが並んでいる。 Tim Walkerのとか、美しいし。

Charlestonの家(Farmhouse)の方は、前回は時間を区切られてグループで部屋ごとに回っていくツアー形式だったが、今回は人がいなかったせいか、触っちゃだめだけど好きに勝手に見ててねー、聞きたいことあったら聞いてー、に変わって、写真も前は不可だったのがOKになっていた。

Vanessa BellとDuncan Grant、その子供たちがインテリアや調度も含めて自分たちのやりたいように描いたり飾ったり積んだり、絵画や彫刻も好きに置いたり並べたりしていった結果の、”Living Well is the Best Revenge”の英国版としか言いようのないチャーミングで変てこで愛らしい家。あちこち建付けは悪そうだし、冬はとっても寒そうだけど、ここで暮らしたら毎日楽しいだろうなー、って。

本と積んである本と雑誌と本棚はいっぱいあって、背表紙の写真を撮ったので後で眺める。
Quentin Bellの書斎の机の上にはJulius Meier-Graefeの”Cezanne und sein Kreis” (1920)がぽつんと置かれていた。

アトリエから外に出るとRoger Fryのデザインした庭があって、ここも半分朽ちて半分生きているような石像がいたり転がっていたりするのがよいのよねー。夜になると部屋の灯りの下で彼らは。

もう少し暖かければ、少し離れたVirginia Woolf夫妻の住居Monk Houseと、彼女が入水自殺した川にも行きたかったのだが、まだ冬でクローズしていた。

このあとロンドンに戻り、National Gallery(あちこち改装中)に行って、Raphael展の図録を買いにいっただけなのだが、やっぱり常設のところで捕まって立ち止まって、いちいち「あ」とか「う」とか「おぅ」とかばかりでどうすることもできないのだった。とにかくこれらを無料で見れるってとんでもなー。


M.K. Čiurlionis: Between Worlds

3/4の午前、ブリクストンからバスで少し行ったところにあるDulwich Picture Galleryでリトアニアの画家・作曲家のMikalojus Konstantinas Čiurlionis (1875-1911)(ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス)の展覧会をやっていたので見る。
おとぎ話や星座、占星術などに影響を受けているであろう壮大で、少しメランコリックで、砂や花粉で描かれたように儚く浮かびあがってくる絵たち。図形楽譜のかんじもある。 音楽家としてはかのランズベルギス氏がこの人の研究者であることは有名よね。

ここは庭園も通りの向かいの公園も含めて居心地のよい美術館で、最初に来たのは2017年のVanessa Bellの展示だった。チュルリョーニスの次、今月末からはBerthe MorisotのUKでは最初の大規模展が始まるという。いいなー。9月までかー。


Giorgio Morandi: Masterpieces from the Magnani-Rocca Foundation

ブリクストン経由でイシリントンに向かい、Estorick Collection of Modern Italian ArtというギャラリーでModandiを見る。2室だけの小さなとこで点数もそんなにないのだが、油彩から水彩からデッサンまですばらしく充実している。彼の肖像画があり、いつもの白瓶の線の歪みとか屋根のたわみとか抽象の水彩の滲みまで、彼の家のなかの風景を見ているような。


組紐 KUMIHIMO: Japanese Silk Braiding by DOMYO

オープニングの時に恐々と中をのぞいてそれきりになっていたJapan Houseでの展示で、紐関係だし、あまり見たことない世界でもあったので。前日にTateで見たMagdalena Abakanowiczのと比べると(比べるな)、同じ繊維を扱っているとは思えない世界の束ねよう、縛りよう。紐を通して、紐が担ってきた機能、相手にしてきた世界の面倒くささとか複雑さについて思った。


Alice Neel: Hot Off The Griddle


4日、アート関係の最後、BarbicanのArt Gallaryで見ました。
アメリカの女性画家 - Alice Neel (1900-84)の大規模展、彼女の周囲にいた人々の肖像画 - 最初の(唯一の)夫、恋人、グリニッジヴィレッジの有名人、アーティストたち – Warhol、Gerard Malanga、労働者、近所のいろんな人々、工場のストライキ、などなどを描いて、どれも癖とか臭いがあって、ディテールが豊かで、ユーモラスで楽しい。根本敬をもう少し上品にしたような。そのどれも暖かい。 80歳の時のヌードの自画像 - “Superlative defiance” (1980) のかっこよいこと。

会場ではRobert Frankの”Pull My Daisy” (1959)がずっと回されていた。あのかんじもある。
Whitechapel Galleryで見た”Action, Gesture, Paint: Women Artists and Global Abstraction 1940-70”とも(こちらはどこまでも具象だけど)共鳴しているなー、と。


絵を見るのって楽しいなー、しかなかった。
 

3.13.2023

[art] Cezanne - 他

ロンドンにいた頃の話、たまには美術館まわりも書いてみる。(見た順で。主なところのみ) 
まずは3/2、Victoria & Albertから。

The Raphael Cartoons

前にこんなのあったかしら? って仰け反りつつ(2021年の帰国した頃に仕上がったらしい)。荘厳、しかなくて、あー National GalleryのRaphael展、行きたかったよう、って泣く。

Donatello: Sculpting the Renaissance

この時代のものなら彫刻でも絵画でも無条件で見るようにしている。”Madonna of the Clouds”の、なんで石があんなふうに透き通って雲みたいに動いたりしているようにみえるのか、”David”の、なんであんなに肌がてかってそこに立ってようなのか。

Print and Prejudice: Women Printmakers 1799-1930

ここのコレクションの中から、(主ではないにしても)版画制作を志した女性たちの作品の展示。 彼女たちは一点ものの絵画制作だけでなく、なぜ複製・再生産可能なプリント作品に(も)向かったのか。 Mary Cassattの母と娘の、Berthe Morisotの女の子と猫のエッチングがめちゃくちゃキュートで、これなら手元でいっぱいプリントして配りたくなるよねえ、って。 あとQueen Victoriaの描いた(刷った)ものが2枚あって、これも素敵だった。

Spain and the Hispanic World: Treasures from the Hispanic Society Museum & Library


Royal Academy of Artsの展示でGoyaとVelázquezとSorollaが出ている、というので見ないわけにはいかない。
タイトルにあるHispanic Society Museum & LibraryはNYで1904年に創設されたスペインの文化を紹介する団体で、絵画だけでなく布や陶器や宝飾品や地図や文書まで、いろいろありすぎて個々に見ていたら時間ないので絵画に集中する。Velázquezの”Portrait of a Girl”、一部屋ぜんぶ使ったGoyaも見事だったが、Hermenegildo Anglada Camarasaの”Girls of Burriana (Falleras)”の極彩色のすばらしさとか、数点出ていたSorolla、特に大作”Vision of Spain”(14点あるぜんぶは持ってこれないので)のスケッチとか。

かつての大国スペインにより植民地とされてしまった南米諸国、そこからの移民を受け入れてきたNY、という構図も含めて考えるのが正しいのだろうが、とりあえずあースペインも行きたいなー、しかない。

Cezanne

Tate Modernでの、TateとThe Art Institute of Chicagoの共同開催による大規模展。
この後(25日から)にNational Galleryでは”After Impressionism: Inventing Modern Art”展もあるし、アムステルダムではVermer展も始まっているのだが、自分にとってはまずこれ。これまでどんな小さな美術館にもかかっているCezanneを見るようにしてきたし、MoMA、Metropolitan、Chicago、Washington (National Gallery)、London (National Gallery)、Musée d'Orsayなどなどでひっぱたかれるような衝撃を受けてきた作品のほとんどが一堂に集められてクロニックに、かつ主要テーマ別に並んでいる。Cezanneはどんな絵をどんなふうに描いてきたのかを纏める、というよりも、Cezanneの絵は、なんであんなふうに変わっていったのか、その変化をもたらしたのは何だったのか、というところに着目しているような。 全体の展示構成と順番は以下の通り。あと、カタログには彼の、10年単位でのパリとプロバンスの行き来の量(線)が引かれていて興味深い。

- Becoming Cezanne
- Radical Times
- Family Portraits
- L’Estaque: Between the Sea and the Mountains
- Modern Materials
- Still Life: Continuous Research
- Mont Sainte-Victoire
- Bathers: Tradition and Creativity
- Cezanne: Artist’s Artist
- 1899-1906: Slow Homecoming

前半では当時の画壇の潮流に沿うようなごつごつしていびつで不格好な対象(家族とか)の切り出しと固化があり、周囲に衝撃を与えたMoMAの”Still Life with Fruit Dish” (1879-80) 、そしてChicagoの”The Basket of Apples” (1893) の後、水彩のパレット(あの桃色みたいな茶色と白!)の展示を経ての後半、線も境界も粗いデジタル画像のようにぎざぎざとブレ始め、薄くスカスカの透明感が増していって、その向こう側にカンヴァスの面が浮かびあがる。見るものと見られるものの間に浮かびあがる「存在」のありよう、(どんなふうに、でなく、ただ)ものが在ることとは? という彼の後期の絵を巡る試行とテーマが展示の最後、薄めの髑髏の絵 - と共に浮かびあがる。 – Slow Homecoming

あと、Gettyにある”The Eternal Feminine” (1877)とJasper Jones蔵だったその下絵が並んでいたのはたまんなかった。

見れば見るほど不思議さと謎が浮かびあがっていく。
もしまだ住んでいてメンバーだったらPierre Bonnard展の時のように何度でも見に行くのになー。


Magdalena Abakanowicz : Every Tangle of Thread and Rope

Tate Modernのもういっこの館でやっていたポーランドの繊維彫刻アーティストMagdalena Abakanowicz (1930-2017)の展示。

2018年にTate Modernで行われていたAnni Albers展にはまったように、糸とか布のびろびろ(増殖ぐじゃぐじゃ)には弱いので、狂喜しながら見ていくと、糸、というより荒縄のぶっといのが暴力的に束ねられ捩られて固まって牛の肉塊のようにぶら下げられたり広がっていたりする。たまんない。

Tate Modern、他にはGuerrilla Girlsの展示などもあった。


Action, Gesture, Paint: Women Artists and Global Abstraction 1940-70

夕方、Rough Trade Eastに向かう前にWhitechapel Galleryに寄って見ました。
戦後の抽象表現主義が喧伝したポロックやデ・クーニングやマザーウェルといった米国の白人男性作家以外に、女性にもこれだけの抽象画を目指した画家たちがいたのだ(偏っていたんじゃないの?)、と。有名なLee Krasner (1908-1984) やHelen Frankenthaler (1928-2011)の他に、アメリカ以外にも大勢いて、そりゃそうだろうだし、当たり前のように多彩でおもしろい。

2019年、BarbicanでのLee Krasner展が話題になった際に彼女と同様に抽象に向かった同時代のNYの女性映像作家の特集が組まれたりしたが、あれを更に広範に広げたかんじで、別のコーナーではビデオ映像を中心とした“Action, Gesture, Performance: Feminism, the Body and Abstraction”という展示もあった。

3.12.2023

[film] What’s Love Got to Do with It? (2022)

3月2日、木曜日、ロンドンに着いた日の晩の21:00、CurzonのMayfairで見ました。

滞在3日間の間に1本くらいは映画見たいな、と思って、見るとしたらこの日で、でも朝6:30にヒースローに着いてから走り回っていたのでこんがらがってて難しそうなのは無理、BFIには見たいのがなくて、この晩は一日限りでBrian & Roger Enoのライブ配信もあったのだがたぶん絶対寝ちゃうだろうし、”Cocaine Bear”だと自分がそんな状態になっている時にどうなのか、とか。で、無難そうなこれにした。

Curzon Mayfairは”The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society” (2018)『ガーンジー島の読書会の秘密』の公開時にLily Jamesさん(他にGlen Powellとかもいた)のトークをみた場所だし、この映画のなかにもCurzon Mayfairが出てくるというし。古いけど居心地のよい昔の映画館で大好きな場所なのだが、あそこのラウンジのソファに腰をおろした途端にもう..

監督は”Elizabeth” (1998)のShekhar Kapur、脚本はJemima Khan。“Notting Hill” (1999) ~ “Bridget Jones's Diary” (2001) ~ “Love Actually” (2003)といったブリティッシュrom-comの王道を作ってきた老舗のWorking Titleの製作。

ドキュメンタリー映画作家のZoe (Lily James)と幼馴染で親友の医師Kazim (Shazad Latif)がいて、いつものように会ってお決まりの恋とか結婚とかどうするよの話題になった時、Kazimはマッチングサイトとかいろいろやってみたけど、親(と業者 - Asim Chaudhry)が見つけて決めた相手と結婚する - arranged marriageをパキスタンの女性とやってみることにした、という。ええー、ってびっくりするのだが、熱烈に恋愛して結婚したって不和になって壊れることはあるし、それなら最初から親も相手も全員が納得した相手を迎える方にしたって変わらない – こっちの方が「解消」って言ったらそれですぐにクリアできるし、安全確実なのではないか? って。うーんそうかー? って首をかしげるZoeは、そうだこの顛末をネタにドキュメンタリーを作ってみよう、ってスポンサーを確保してカメラを回してパキスタンにも行ったりする。

Zoeにはいつもひとりでお祭り騒ぎが大好きな母のCath (Emma Thompson)がいて、横でちょこちょこ口を出してきて楽しい(お約束)のだが、メインはドキュメンタリーのネタ、と言いながら昔からの親友のKazimの結婚までの道のり – 相手の選定からお見合い - 見事に文句なしぽいのがくる - から儀式とか伝統とか異文化との遭遇みたいなとこまで - を追って、びっくりしたり突っこんだりしているうちに愛と結婚について自分でも考えてしまうことになって、更に被写体であるKazimについても、ずーっと彼の行動を見ているうちにいやまさかそんな(お約束)って。

結婚とは家と家の、そのバックグラウンドも含めて受け容れてより大きな家(ツリー)をつくって伝統を維持したりの社会的な(SDGs?)イベントである、でも、そうだとしたら愛ってどこにあるなんなのさ?(”arranged”だってそれも込みなのだ、とかいろいろ) こうして”What’s Love Got to Do with It?” っていう昔からあるテーマに立ち返ったとき、それを自身のイベントとしてくぐり抜けようとしていたKasimとそれをカメラ越しに見つめていたZoeは…

ドキュメンタリーができあがって、彼の家族も含めて関係者全員が集まったプレミア(その会場がCurzon Mayfairだった – でも扉を出てすぐにテムズ川はないよ)で、上映された映画はarranged marriageに対してネガティヴなトーンのものになっていたので、被写体となったKasimとその家族に失望と不興をもたらして、Zoe自身もよくわかんなくなってしまい、つまりそれは。

親友とか身近な人の結婚を興味半分で追っかけたり眺めたりしているうちに実は自分が.. っていうのだと“My Best Friend's Wedding” (1997)とか”Made of Honor” (2008)とか”27 Dresses” (2008)とかいろいろあるし、お見合か恋愛か、でいうと小津の時代から山ほどあるし、この作品だとここに異文化(パキスタン)の要素とか、ドキュメンタリーを撮るという社会的な意義みたいのが入りこんでくるのだが、結末はどうでもよくなるというか、極めてふつーのrom-comになるしかなくて、それでいっか... みたいになる程度の弱さ(よくもわるくも)。みんなもそれを望んでいるのよね、って。(ぜんぶめんどいからシングルでええわ、ってないのか)

で、あとはここから始まるZoeとKasimの冒険がどうなるのかー(犬でも喰わなくなる)。この辺、パキスタンの人と結婚(のち離婚)していた脚本のJemima Khanさんの経験とかも反映されるのであろうか。

こういうの(家父長制 vs. 自由恋愛)って今こそ日本で撮ったらおもしろくなるのに。『あのこは貴族』(2020)は少しおもしろかったけど、時代錯誤か、っていうくらいにもっと攻めたってだいじょうぶ。実際にひどいから。

3.09.2023

[film] Close (2022)

3月1日の午後、A24のScreening Roomで見ました。
ロンドンでも3月3日から公開となっていて、Curzonなどでは結構でっかく宣伝されていた。
ネタバレしているので、これから見たいひとは注意を。

ベルギーのLukas Dhontの監督・脚本(はAngelo Tijssensとの共同 - 今作でも)によるデビュー作“Girl” (2018)はすばらしい若者映画(トランスジェンダーへの偏見を徒に助長する/上っ面だけわかった気にさせるだけ、という批判があることはわかるものの)だと思ったが、これもそうで、昨年のカンヌでグランプリを獲って、もうじきのアカデミー国際長編映画賞にもベルギー代表としてエントリーされている。ふたりの少年が花畑を並んで走っていく予告だけでも見るべき作品であることを予感させる。

ベルギーの郊外に暮らす13歳のLéo (Eden Dambrine) とRémi (Gustav de Waele)は親友で、ずっと一緒にLéoの家が経営する花畑で追っかけっこをしたり、将来の夢を語ったり、寝る時もRémiの家に泊まったり一緒だし、オーボエをやっていてややおとなしいRémiを外に引っ張り出してくれるLéoのことを両親のSophie (Émilie Dequenne)とPeter (Kevin Janssens)も愛している。

そんなふたりが高校に入って同じクラスになり、そこでもいつものように一緒に遊んだりじゃれたりしていると、女子のグループがふたりはずっと一緒にいるしカップルなの? って聞いてきて、Léoは即座に否定するものの、なんだか気まずくなる。

その後も女子たちにそういう質問をされたことが引っかかってしまったLéoはRémiと自分は違うから、って反発するかのようにアイスホッケー部に入って、これまでのようにRémiと一緒にいたり寝たり走ったりなどから距離を置いたり避けたりするようになっていく。RémiはLéoの突然の変化に戸惑って「なぜ?」って聞いたり、やがてみんなの前での取っ組みあいの喧嘩にまで至ってしまうのだが、いったんの、一瞬のほつれは戻ってくれない。

ある日の遠足でRémiが来ていないことに気づいて、どうしたんだろう、と思っているとその終わりにバスから降りて全員そのまま体育館に集まるように言われて、そこには父兄も来ていて.. Rémiになにかがあった、ことはすぐにわかった…

その後のLéoはホッケーと実家の花畑の手伝いに没入して、忘れよう吹っ切ろうと毎日を懸命に過ごそうとして、でもセラピーセッションで、級友がRémiのことをいい奴だったとか取り繕ったように語るのには憎悪の目を向ける。

でも、もう無理かもってひとりSophieに会いにいったLéoは…

なにも、どこにも変なところ、やましいところのなかった2人の少年に起こったこと、仲がよければよいほど起こってもおかしくなさそうで、決して癒えない傷のありようも含めて誰にでも思い当たりそうなところはある。大切な友の喪失を「事件」としてではなく、輝いていた過去と起こってしまったことに対する罪の意識とその重さと救いのないところにおける救済、という角度から描いて、でも誰にもそこを貫いてLéoを救ってあげること、そのパスを示してあげることはできない。あるいは、その手前でRémiになんとかしてあげることはできなかったのだろうか、も含め、言えば言うほど他人事になってしまうもどかしさものしかかってくる。

前半の花畑を並んで走っていくふたりの姿が美しくずっと残って、それが美しければ美しいほど後半の悲痛さが際立って、しかもその痛みの深さは圧倒的でどうしようもない。「もしあのとき..」をいくら並べてみてもどうすることもできない。そんな悲しみを正面から取りあげることにどんな意味が? とか。そしてこれは若くても老いていても、異性の恋人にも親兄弟にでも起こりうることよね、と思いつつ、それでもこれを美しいふたりの少年のドラマにした意味とは? というあたりが引っかかってくる。ラストのLéoの眼差しを見るとよけいにー。

こうした痛みや救いのなさを無垢で美しい子たちにぶつけてああかわいそうにー、って悲しむのは簡単だけど、でも、やはり発端はホモフォビアの心無い一言から始まっていて、これはやはり社会的な虐めで、ここを子供はそういう残酷なものだからとか、言った本人に悪気はなかったのだろうし、とか言うあたりに落ちて/落としてしまいがちだけど、もういい加減にそういうのもやめるべき、これを美しい子供たちの悲しいお話として「鑑賞」するのもー というのも思った。 そこまで含めるとこの世界には絶望しかなくて、だからRémiは亡くなってしまったのだと。

3.08.2023

[film] Jardins en automne (2006)

2月27日の月曜日、ヒューマントラストシネマ有楽町のイオセリアーニ特集で見ました。(ああ、見れるやつがどんどん限られていくよう…) 邦題は『ここに幸あり』、英語題は”Gardens in Autumn”。撮影はWilliam Lubtchansky。

冒頭、棺桶屋の店先で男たちが俺はこれがいいとか、それは俺の方が先に決めてたんだとか、ほんとにどうでもいいことでわーわー揉めたりしている。

農業分野の大臣をしているらしいVincent (Séverin Blanchet)は、淡々と仕事をこなしているふうだったが、窓の外ではデモ隊が騒いでいて、でもそんなに顔色を変えないでいると、更迭が決まったようで後任の一団が現れてオフィスを追い出される。妻はでっかい石膏像をそのまま買って家に持ちこむような浪費家だったが、彼女の持ち物を含めてぜんぶ外に出されて、牛の絵数点を除いてもうぜんぶいらない、って、この際なので妻とも別れてひとり町にでる。

まずはママ(Michel Piccoli)- どういうママなのかは知らんが、”Mrs. Doubtfire”の数倍ぶっとくて揺るがなくて笑えない – に会いにいって、そこからかつて住んでいたらしいアパートに行くと、そこでは移民たちのコミュニティができてて大人も子供もひしめいて暮らしていて、それでも階下のかつての自分の部屋に落ち着いて、かつての飲み仲間だったらしいOtar IosselianiやJean Douchetと再び朝昼晩と飲み歩いたり踊ったり、公園の隅とか、橋の下にまで行くようになる。もう誰も彼のことを気にとめない。

一方、Vinventの後任として着任した大臣 – こちらも権力者顔 - も、最初はおまえみたいな奴とは違うんだ、って顔をしていたのに、Vincentと同じ愛人を囲って、同様にデモ隊の餌食になって…

権力とか名声の地位の脆さ儚さとかを皮肉をこめて描く、というよりは、そういうのから解き放たれて放り出された人生の秋にひとはどうやって生きて歩いていくのか、を極めて適当(ほめてる)かつ自由なタッチで – というより、野生のなんかのようにそもそも制御がきくわけではないやつらとどう渡りあったりやり過ごしたりして生きていくことができるのか、を起こったことを起こった順にだらだらスケッチしていくような。

Vincentには機構のトップに昇りつめた男の脂ぎった強さとかどす黒さとかは窺えなくて、昇りつめたら抜けちゃったのかどうでもよくなったのか、すべてが押されるまま流されるままになっていて、そんなキャラクター設定ってありうるのか? はあるものの、それがイオセリアーニの声(どうでもよいし)のようにも聞こえてくる。 『唯一、ゲオルギア』(1994)で祖国の権力を握ったものたちの抗争や盛衰を市民との対立のなかで生々しく描いてから10年強が過ぎて、なんかどうでもよくなっちゃったのだろうか、って。

この辺、同じく解き放たれている野生系の群像でも『月の寵児たち』(1984)のように無軌道な若さとか跳ねていくかんじはない。棺桶(冬)の手前の秋、の風に吹かれて右に左に漂っている印象があって、それでも絵としては悪くないような。

なんか、飲んでへろへろになって歩いて、誰かにぶつかってまた飲んで次に行って~なんとなく幸せ、ってそんな転がりようってホン・サンスみたいかも、とも思った。なにかを手放したあと、酔っ払うために酔ってひとに寄っていってキスする、みたいなところ。 ホン・サンスはもっとストレートにシンプルにスケベだけど。 Nicholas Zourabichviliの練習曲みたいにとことこした音楽も。

でもなー、Vincentも後任も抗議を受けてあっさり辞めて身を引くからえらいよなー。どれだけ証拠をつきつけられても絶対下りようとしないで居座って、支持者からは「悪い人ではないから」とかにぎにぎされて、それが男系の世襲でオートマチックに継がれていって、メディアも地権もそれを全面でバックアップして、それがえんえん、という地獄のようなどっかの国のことを想うと、それだけで清々しく見ることができてしまう。

あと、動物がいっぱい出てくるのがうれしい。Vincentたちも括りとしては動物とか家畜に近いところにいる、そんな佇まいの群れのように描かれていて。

3.07.2023

[film] Mass (2021)

2月26日、日曜日の午前、Tohoシネマズシャンテで見ました。邦題は『対峙』。
作・監督はこれがデビューとなる俳優のFran Kranz。

どんな話なのかは大体わかっていて、ものすごく重い出口なし(部屋から出たりの場面転換なし)の110分に渡る会話劇であることもわかっていたのだが、見たほうがよい気がした。これは対岸の火事、として済ませてはいけないようなー。

休日の米国聖公会の教会でばたばたと会議室の準備をしている事務の女性とアシスタントの若者がいて、とっ散らかっているなか、そこでこれから行われるセッションをコーディネートしているらしいセラピストの女性が現れて、ものすごく気を遣うセッティングにする必要はないが、殺風景すぎるのもあれ、というかたちを作って、そこで行われるであろうピースフルになるわけがない、かといって殺し合いになるとも思えない会話の時間に備える。

そこに向かう一組の夫婦 - Jay (Jason Isaacs) とGail (Martha Plimpton)は、途中の原っぱで車を停めて一息ついて緊張を解そうとしているのか、何かを覚悟しているかのような辛そうな面持ちで見つめ合う。原っぱの杭に刺さったリボンが片側に揺れている。もう一組の夫婦 - Linda (Ann Dowd)とRichard (Reed Birney)は先の二人ほど張りつめてはいない、どちらかというと疲れて打ちひしがれている印象を受ける。この時点では、どちらが被害者側の遺族で、どちらが加害者側の遺族なのかはわからない。ただどちらも息子を失った悲しみと苦しみから解かれてはいないことはわかる。

6年前に学校で起こったMass Shooting - 無差別銃撃事件によりJayとGailは息子のEvanを失い、LindaとRichardの息子のHaydenはその銃撃を実行した後に自殺している。記録映像や客観的データ、フラッシュバックを一切入れない - 当時の捜査資料を含め、当日に何が起こったのかの詳細は彼ら4人の間で十分すぎるくらい詳細に把握され、繰り返し頭のなかで再生されてきた。残された彼らにできることはそれしかなかったし、それだけのことをしても、6年が過ぎて法的な措置などがすべて終わっていても、彼ら4人の傷は癒えていないよう – なのでこのような対話がセットされたのか。

このセッションが行われる理由や狙い、他の遺族に対しても行われているのか - などについて、映画では一切説明されない。なので、ふつうであれば、理由もなく子供を殺された側が、そういうことをしてしまうような子供を育てた親を法理とは別のやり方で糾弾する、その責任を問う、率直に怒りや恨みをぶちまける、そういう一方的な矢印の場になるのだと思った。でもそんな簡単なふうにはいかない。

脚本は彼ら親たちの個々の属性 - 人種、宗教、職業、階層、政治姿勢、その違いがもたらす相対的なギャップ、などには着目しない。また、銃規制や陰謀論や格差や虐めといった社会のコンテキストにも踏み込んでいかない。それらのどのひとつに分け入っていっても着地点のようなものを見いだすことはできなかったと思う。

彼ら親たちは、どちらもそれぞれに傷つき打ちのめされ、感情のやり場を失い穴の底に延々落ち続けているような苦痛のなかにいる。JayとGailはなぜなんの罪もないEvanが標的にされなければならなかったのか、LindaとRichardは動物好きの繊細な子だったHaydenがなぜあそこまで変貌し、あんなことをしてしまったのか、劇中で何度も絞りだされるように繰り返される”Why?” - その答えはどれだけ捜査や裁判の資料を読んでも出てこないしわからない。 一番近くにいた、彼らを生んで育てた親なのに、6年経ってもわからない。

映画はその”Why?”のもたらす痛みが彼ら4人に共通したものであることを互いに発見して終わる。痛みは消えないし救いにならないかもしれないし、分かり合えているわけでは(おそらく)ない、でもハグをしてそこにある互いの痛みに触れることはできたのかも。

ただ、少しだけ意地悪な見方をしてしまうと、この劇は登場人物全員が白人で、キリスト教系で、そんなに経済的な格差もなく、同じ言葉遣いでの「会話」ができる、という(アメリカにしては)ぎりぎりの設定があって初めて成立するドラマだったのではないか、という気はする。

でも他方で、被害者側が加害者側に「極刑を望む」って平気で言い放ってずっと死刑をやり放題 & 憎悪の敵討ち文化が大好物のこの国の人たちはこういうのを見て少し考えてみたほうがよいのでは、とか。

俳優陣の演技は全員がすばらしかった。舞台劇でやっても面白くなったのではないかしら。

3.06.2023

[log] London - 0302-0304

3月1日の深夜便で羽田を発って2日の朝から5日の朝までロンドンにいて、6日の朝に羽田に戻ってきました。

もとは英国の駐在期間中に貯めて(貯まって)いて、通常であれば帰国するときに小旅行したりして消化すべきだったBritish AirwaysのマイルがCovid-19で使えないままでいて、このまま置いておくとなくなっちゃうよ? っていうメールがちょこちょこ来ていたのと、いろんなところがクローズしたままでろくにお別れも言えないままに帰国してしまったところがまだ無念でずっと引っかかっていて、本当のところは昨年に終わってしまったNational GalleryのRaphael展にずっと行きたくて、でも航空運賃が異様に高くて躊躇しているうちにここまで来てしまった。 行くべきものがあるとしたらTate Modernで3/12までやっているCezanne展しかないぞ – これを逃したらおまえは一生負け犬だ(ばかよね)、って思いきった。相変わらず飛行機代は高くてマイルの束なんて焼け石なのだが、ほんの少しの言い訳にはなる(したい)。

日程はまずフライトのスケジュール(=運賃連動)を見て行きと帰りを眺めつつ、週末はふつうに使うとして、日本の深夜に発って向こうの早朝に着くやつと、向こうの朝に発ってこちらの月曜の朝に着くやつ、に絞られて、そこから滞在中の予定を埋めていく、と。必見のライブとかがあればまた別なのだがそれもなさそうだったし、のんびり町を歩いて絵とか見て歩けばー。 とか思ったところで「のんびり」なんてなるわきゃないのだった。ほんとにさー、よく雑誌とかに出ているお年寄りが羽を伸ばしたりリフレッシュしたりする休暇って、どっかの宇宙とかバースとかにはあるもんなの? 普段の週末の5倍くらいハードで、今日は異様にだるくて、今週の残りももう使い物にならないであろうことは明らかでー。

いろんなニュースで見たりもしていたので驚きはなかったけど、ほんとにほぼみんなマスクをしていないので、空港から市内に向かう地下鉄で外して、そこからのなんともいえない居心地の悪いかんじ(たまにマスクしてない! ってはっとしたり)はずーっとあった。頑固に付けていればいいじゃん、もあるけど、変に目をつけられて気を遣われたり面倒なことになるのもいやだったし。

とにかくこうして美術関係の展示を18件、演劇を1本、映画を1本、映画+ライブを1本、レコ屋1軒、本屋5軒を見て回って買って運んで、しんだ。しんでもこの程度ではやはり全然足りなくて、あと一週間でも一ヶ月でもいられる。食べ物関係は、安くて早くて懐かしいので(のが)いいの! シリーズにしたのであんまない。もちろん、おいしくない、のなんてなくて、やっぱりおいしいんだけど? を再確認して嬉しくて。

Rough TradeもBFIもFoyles(書店)もWhole FoodsもWaitrose(スーパーマーケット)も、Covidを経て導線を意識したのか結構レイアウトを変えてあっさり小綺麗になっていた。べつにだからどう、ではなくてとにかく会えてよかったよう、生きててくれてありがとうー、しかない。

個々のは書きたければこれから追って書いていくのだろうが、ロンドンだけじゃなくてパリでもニューヨークでもそうだけど、やっぱし今いるこことはちがうよねー。なんでこんなに... って悲しくなってしまった。 歴史から成り立ちから何からちがうんだから当たり前だろうがー、だろうけどー、V&AでもTateでもNational Galleryでも、無料でなんであれだけのものがいくらでも見れて浸れてしまうのか、本屋にはなんであんなにいっぱいほしい本が並んでいて、「読んで」「買って」のうざいPOPに遮られることなくゆっくり棚を見て回れるのか、気付いたら両手に荷物が、になってしまうのか。

で、やっぱり年一回は行ったほうがよいのかな、年一回は行けるように仕事はしないといけないのかな、やだな、のまわりををぐるぐるとロバのように回っていくのだった。

3.01.2023

[film] Bones and All (2022)

2月25日、土曜日の夕方、TOHOシネマズ六本木で見ました。
なんだか怖そうだったので見る前に近くでやってたヒグチユウコ展をみて元気を貰ってから。

Camille DeAngelisの同名のYA小説 (2015)をDavid Kajganichが脚色し、Luca Guadagninoが監督した。
音楽はTrent Reznor & Atticus Ross。 邦題は『骨まで愛して』でよかったのに..

やはりこのふたりが音楽を手がけた“Empire of Light” (2022)は冒頭のピアノが印象的だったが、こちらは爪弾かれるアコースティックギターの音から入る。

レーガン政権下の1988年、ヴァージニアに父とふたりで暮らしていたMaren (Taylor Russell)は、仲よしの近所の子に誘われてその子の家にスリープオーヴァーに行って、寛いで寝転がったところで横にいた子の指を齧って騒がれて(いきなり齧る描写の流れ、おもしろ)、戻ってきた娘の顔(血が)を見た父のFrank (André Holland)は即座に、慣れたように一緒に家を出て、でも彼女の18歳の誕生日にカセットテープと出生証明書を残して消えてしまう。

なんで自分はこんななのか、どうして母からも父からも置き去りにされてしまったのか、Marenは出生証明書にあった母親の名前と住所をたよりに、彼女に会おうと旅に出て、最初に見るからに怪しい老人のSully (Mark Rylance)と会う。彼は彼女のことを同じ匂いでわかった、と言い、自分と同じ - “one of us” - マンイーターで、自分は同じ連中を食べることはしない、という。Sullyにいろいろ教わりながら一人暮らしの老婆を一緒に食べてしまった翌朝、構ってくるSullyのことがなんか怖くなってMarenはひとりで逃げ出してしまう。

旅をするMarenはコンビニのトラブルですり切れた若者Lee (Timothée Chalamet)と出会って、彼もマンイーターだと思ったのだが、Sullyほど粘着してこなくてよいかんじだったので一緒に車でLeeの家があるケンタッキーからMarenの母がいるらしいミネソタまで旅をしていく。この辺、貧しくハングリーな若者ふたりのロードムーヴィー風なのだが、人目を忍んで移動してお腹が減ると人を食べて、たまに罪悪感に襲われて、でもそれって彼らふたりだけにしかわからない痛みと辛さで、これってふつうに報われずに苦しい – 逃避行というほど切実でもない - 恋愛のドラマだと思うのだが、それでよいのではないか。

ようやく精神病院で会うことができたMarenの母(Chloë Sevigny)は、自分の両腕(手首から先)も食べてしまっていて、Marenのことも誰だかわからなくて、Marenは本当にひとりになってしまったことがわかって…

そんな状態になってしまった若者ふたりが寄っていく – 愛しているも分かりあいたいとかもなく未来なんて想像できないし、親とは切れていて一緒にいられないし、近くにきた人は食べちゃうか、親しくなれば食べちゃいけないので離れるしかないし、でもこのふたりはなんとなく離れることができない - 理由はうまく言えない – その辺のもどかしくずるずるしたかんじがたまんなくよいの。人肉を食べたあとの口の周りとかシャツが血まみれのでろでろになってお行儀よくできない情けないところとかも含めて。

そして最後にはやはりSullyが現れて..  Mark Rylanceの存在感と声、その不気味さがとてつもないことは確かながらも、あの役がああなることはなんかわかってしまう感があって、そこだけちょっとだけつまんなかったかも。

まん中のふたりが生きてて彼らがそこに確かにいて揺るがなければどんな荒唐無稽な設定でもとりあえずラブストーリーは成立する、というよい例かも。(賛否あるだろうが)”Twilight”のサーガも自分にとってはそういうやつ。

音楽はNew Orderの"Your Silent Face"とか、あの頃のすごく地味で変なのが選ばれていて(The Cureとかあってもおかしくないのにない)、最後に流れる主題歌 - "(You Made It Feel) Like Home"ではTrent Reznorの声が被さる。彼の声、いいよなー(今更)。

この曲、映画の舞台となった80年代終わりの頃の “Something I Can Never Have” (1989)のその後、のようなかんじもある。この曲で - ”You make it all go away ~ I just want something I can never have”って自分の周りを空っぽに掃除して、今回ので - ”In a world that isn't ours - In a place we shouldn't be ~ You made it feel like home” ふたたびあなたを捕まえようとしている、というか。

Maren役のTaylor Russellさんは”Wave” (2019)でもTrent Reznor & Atticus Rossの音楽に洗われていたような。

続編では結婚したふたりに子供が産まれるのだが、その出産が”Twilight”のあれみたいに凄いことになるの。

あと、なんでDavid Gordon Greenがあんなところに。


今晩の夜行でロンドンに行って3日くらいで戻ってくる(not 仕事)。ぶじに戻れますようにー。

[film] Les favoris de la lune (1984)

2月22日、水曜日の晩、ヒューマントラストシネマ有楽町のイオセリアーニ特集で見ました。
邦題は『月の寵児たち』、英語題は“Favorites of the Moon”。

イオセリアーニがフランスに来て最初に撮った長編で、同年のヴェネツィア国際映画祭で審査員賞を受賞している。脚本は”Tess” (1974)とかRoman Polanski作品などを書いてきたGérard Brachとイオセリアーニとの共同。

冒頭、リモージュの綺麗な絵皿がテーブルにアタックした犬によって粉々になり、同様の皿が焼かれたり取り替えられ、また壊されたり、それらが過去と思われるモノクロの映像でも繰り返されていくので、ずっとこんなふうだったのかしら、とか。

同様に19世紀に描かれた裸婦の絵画が出てきて、これは壊されるのではなく盗まれて、盗難が繰り返されるたびに額縁からナイフで切り取られるのでサイズが小さくなっていく。

画面には次々といろんな人たちが現れる - 爆弾を作っているおじさんとか、空き巣コンビとか、娼婦たち、画廊を営む女性とその愛人、ネイリスト、テロリスト、執事、革命家たち、弦楽四重奏団、ジャンク系のロックバンド、などなど。それぞれのグループにも個人にも明確な関連や絆はないようで、たまたまそこにいたそれぞれの場所、建物や部屋や路上に、それらに侵入したり通り抜けたり匿ったり、やったりやられたり、それぞれのやること/やるべきことに従ってランダムに、淡々と無表情に動いていく。それぞれの動きにはなんのギャップも惑いもなく、すべての動きがコレオグラフされているようで、でもどこかの、ある共通の目的とか陰謀とか指揮に従っているかんじもない。月の晩にカニとか生物が一斉に動き出すような – ただし生殖行為ではなく、どちらかというと破壊工作の方の – 先の見えないかんじがあって、それぞれの散らかったガラクタでポンコツな動き - 善悪とか倫理は棚上げ - がほんのりとおかしい。主役も脇役もなく、ストーリー? そんなのの導線も伏線もない。ただがたがた動いて呻いたり騒いだりして、画面から消えるとそれでおわる(だけ)。唯一あるとすれば、壊された皿とか盗まれた絵が、彼らをリレーで繋いでいって、おそらくこういうの(人間は狩猟で自然と結びつけられ云々)が太古から繰り返されてきた、みたいなことも語られるのだが、”So What?” しかない痛快さ。

“an abstract comedy”というらしいが、そんなかんじ。 なんかおかしい – ものすごくおもしろいと思った – のだけど、これがなんでおかしいのか考えざるをえなくなるような。すると、そんなの考えてどうなるもんでもないよ、って言われたり。

この時代なので、なんとなく、ゴダールの”Prénom Carmen” (1983) -『カルメンという名の女』とか、”Soigne ta droite” (1987)  -『右側に気をつけろ』とかのB級駄菓子風味 - だいすき – を思い出して、この流れに置いてみるとか。


Un petit monastère en Toscane (1988)

2月20日、短編2本上映の日にヒューマントラストの有楽町で見たやつの1本。邦題は『トスカーナの小さな修道院』。57分。

トスカーナの小さな修道院に5人の修道僧がいます、っていうのが冒頭に字幕で出て、そこから修行や祈祷の場面のほか、彼ら(年長者が1名、若者が4名)の食事や村人とのやりとりだけでなく、村人の方のワイン作り、豚の解体、農作業、洗濯、などの仕事や生活の場面もあり、そこでの会話もあるのだが、会話の場面に字幕は入らない(わからなくても大きな支障はないけど)。修道院の日常と村人の日常との間になんの壁もなく、その隙間をワインとか動物たちが埋めている、という。  ドキュメンタリーというよりは一枚の絵を描こうとしているような。

一番最後に、「もし全てがうまくいっていたら- 20年後に同じ場所、同じ人々を描いた続編が撮られる」と出るのだが、もちろんうまくいかなかったので『唯一、ゲオルギア』が作られて、村の人々の生活はこちらの方で描かれたのではないかしら。


Lettre d'un cinéaste. Sept pièces pour cinéma noir et blanc (1982)

もうひとつの短編。『ある映画作家の手紙。白黒映画のための七つの断片』 21分。
イオセリアーニがパリに渡って最初に撮った作品だそうで、なにが七つなのか、なんで七つなのかも不明なのだが、手紙というのはそういうもの。

祖国から離れた(離れなければならなかった)映画作家の映像による手紙、というとJonas Mekasのそれを思い浮かべて、その違いを考える。元の国、出なければならなかった事情、パリとニューヨーク、でも作家なんだから比べてもー。

あと、ホームで酔っ払って怒鳴って楽しそうなふたりは、『月の寵児たち』にもそのまま出ていたような。